思考過多の記録
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2008年03月27日(木) |
不気味な「現実からの遊離」 |
茨城で起きたあの事件を、僕たちはどうとらえればいいのだろうか。 これまで報道されている範囲で僕が感じる犯人像は、「現実世界から遊離した人物」ということだろうか。 「人を殺してみたかった。」 これが彼の起こした一連の事件の犯行の動機である。最初は妹がターゲットだった、たまたま居合わせた人を次々に手にかけたというのも戦慄の事実だ。 おそらく妹の件は別にして、彼の中では「ディズニーリゾートに行ってみたい。」「車を運転してみたい。」「あのゲームをやってみたい。」という日常の普通の事象と同列に「殺人」があったのだろう。これが彼の思考の特異性だと思う。 昨日起きた岡山での突き落とし事件の犯人の高校生は、貧困による進学の断念という隠れた動機があった。それに対して、茨城の事件の容疑者にはそれが見あたらない。定職に就かないことを家族に責められていたという不満を口にしてはいるようだが、それと無差別殺傷の間には、深い溝がある。
彼の中で、何かのきっかけで殺人願望、すなわち、本当に純粋な願望が芽生え、妄想とともに膨らんでいったのだと推察できる。そして、「殺す」ということについての現実感を欠いたまま、実行に向けて現実的に動いていたのだ。 僕が戦慄を覚えるのは、「命」や「他人」に対してのこの現実感の希薄さである。 彼が対戦ゲームを好んでしていたというと、そこに原因を求めがちである。しかし、僕はそれはあながち間違っていないと思う。ゲームの画面での「死」と現実の「死」が彼の中ではイコールになっていた可能性が高い。 そして、それこそがかれの「現実感」だったのである。
また、自分で二つの携帯を持ち、その間でメールのやりとりをしていたというのも何か象徴的だ。 「私は神である。」 「私のすることがすべてだ。」 そうメールを自分の携帯に送っていたという彼。 そこには「他者」の存在が決定的に欠落している。 彼自身の世界、彼しか存在しない世界の中で、まさに彼は「神」だったのであり、その行為は無条件に肯定される。そこに「他者」はいない。 そして、実際に傷付けられ、殺されたのは、全くの他人=「他者」であった。 この不条理な事実。これこそが、彼の意識が現実世界から遊離していたことの証左ではないか。
裁判になれば刑事責任が問えるかどうかが話題になり、ネットでは「気違いは死刑にしなくてもいいのか」といった類の言説が溢れるだろう。 しかしそれ以前に、人間はここまで壊れてしまったのかと、僕は驚愕せざるを得ない。 例えば宮崎勤や酒鬼薔薇のような「劇場型」の無差別殺人は、誤解を恐れずに言えばまだ理解できる。 しかし、今回の事件はあまりに即物的だ。殺人という行為の異常さ、重大さにもかかわらず、完全に自己完結しているところが特徴である。 当然、反省の弁もない。容疑者は顔さえ隠していなかった。 この違い、これは日本の社会の変化の縮図を示してはいないか。 僕たちの社会は、足下から不気味に変化しようとしているのではないか。 そして、その変化は、もう止めようがないところまできているのかも知れないのである。
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