思考過多の記録
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2008年09月18日(木) 吐き気がする

 福田首相が政権を投げだし、自民党では「総裁選」という空虚な祭りが始まっている。
 この一年で阿倍・福田と二代続けて首相が政権を任期途中で放り出すという前代未聞の不祥事を覆い隠そうと、何とか国民の健忘症を誘おうとしているようである。
 しかし、今回のことは、自民党と公明党の連立政権が、もはや政権担当能力を失ってしまったことを雄弁に物語っている。いくら総裁選挙で多くの候補者を立てたところで、この事実はもはや覆い隠しようもない。



 それでなくてもこの数年、日本の社会時代の劣化は進んでいた。
 小泉改革の「負の遺産」ともいえる格差の拡大(ワーキングプアの問題等)や、後期高齢者医療制度にみられる老人のあからさまな切り捨て政策、そして、消えた、いや、消された年金の問題、食の安全の問題、燃料や資料等の原材料の高騰が原因の物価の急騰、そして、金融不安。
 数え上げただけでも、政治が動いて国民、ことに弱者を救済しなければならない問題が山積みだ。
 そんな中、「緊急経済対策」なるものをまとめ、国会で審議も始まろうという矢先に「ねじれ国会」を理由に政権を放り出すこの国の総理大臣。
 辞任会見でも、国民への謝罪の言葉は結局聞かれなかった。
 これは、福田政権(自公政権)が「国民の目線に立って」といいながら、実は国民など眼中になかったことを図らずも露呈したということであろう。
 大体「ねじれ」の原因は何だったのか、そこのところの反省が全く不十分である。



 そして始まったお祭り騒ぎ。
 大本命はもう決まっているのに、小沢民主党との差を出したいがための「出来レース」に、国民は半ば呆れているのではないだろうか。
 実際、自民党が望んだほど、総裁選は盛り上がっていない。
 第一、各候補者の「公約」とやらが、どれをとってみても抽象的で、具体的にどういう政策を打つつもりなのか、その財源はどこから持ってくるつもりなのか、それは本当に可能なのか、疑わしいことばかりだ。
 例えば、小池百合子は「永田町をぶっ壊す!」と連呼しているが、そんなことが本当にできると思っている人間は殆どいまい。その前に、具体的に何をしようと思っているのかも分からない。
 例えば大本命の麻生幹事長は、赤字国債によらない景気対策をやると言っている。「必要なところには、必要な手立てを」と言っている。では、どうやってやるのか。「必要なところ」とはどこか。
 石原良純は「地方に優しい、暖かい構造改革」と言っている。これなどはもはや、何のことやらさっぱり分からない。その前に、その地方を苛めることになった構造改革をやった小泉政権の時、彼は閣僚だった。いや、彼だけではない、今候補者として立っている人間みんなが小泉内閣の閣僚経験者だ。
 自分達のかつての政策で疲弊し、破壊されてしまった日本を、同じメンツで立て直すという。
 その前に、自分達の責任をどう考えているのだろうか。
 こんな茶番劇につきあっている暇は、はっきり言ってないのである。



 現在の情勢では、麻生太郎が総裁に選ばれることはほぼ確実だ。
 しかし、誰が選ばれようと、先に書いたとおり、自公政権はもはや政権担当能力を失ってしまっている。
 自民党は、新総裁のご祝儀相場が期待できるうちに、すぐざま総選挙に打って出る構えのようだ。
 愚かな国民は、「ご祝儀」をくれるかも知れない。
 しかし、その財布はもうカラに近い。
 毎日の生活の苦しさに悲鳴を上げている。
 先日の失言にもあったように、国民の目線どころか、国民を上から見下ろして悦に入っているあの麻生が、国民重視の政策を打ち出せるはずがない。どの面を下げて自民党総裁の椅子に座るつもりだろうか。



 あの五人が選挙カーの上からマイクを握ってしゃべっている姿を見るだけで吐き気がする。
 もう彼等の顔など見たくもない。
 日本の社会を壊し、大多数の国民を窮地に追い込んだ自公政権は、もう終わりにするべきである。
 本来なら、自ら責任をとって身を引くのが当たり前なのに、まだ自分達が自ら恥をさらしていることに気付いていない。



 ここまでコケにされた僕達が望むことはただ一つ、政権交代である。
 ここで変わらなければ、もうお仕舞いである。
 そのあたりのことをよく考えた上で、今のお祭り騒ぎを見ておくべきである。
 僕達は、麻生のべらんめい口調などに騙されないように、もっともっと賢くなるべきである。


hajime |MAILHomePage

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