思考過多の記録
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2008年10月06日(月) 耐えられない「軽さ」

 電車の中で、僕の向かい側に三人組の男子大学生が乗っていた。
 一人は漫画を読み、一人はゲームに興じ、もう一人はそのゲームをのぞき込んでいた。
「随分(数値が)上がったね。」
とそののぞき込んでいた学生が言った。
 すると、ゲームをしていた学生は言った。
「ああ、だいぶ慣れたからね。もう13人殺した。」



 ゲームの話であるが、その学生の「殺した」という言葉の軽さに、今更ながら驚いてしまった。
 相手の大学生が、
「倒したって言えよ。電車の中で急に『13人殺した』はまずいだろう。」
と窘めたが、その学生は平然と、
「いや、殺したんだよ。実際、ぐさって刺したんだから。」
と言った。あまりに抑揚のない言い方だった。
 ゲームの話とはいえ、随分物騒である。が、大方の対戦型ゲームはこんなものなのだろう。しかも、主人公(ゲーマー)が敵を「殺す」度に主人公の経験値が上がっていく仕組みになっているのだ。要は、たくさん殺した者勝ち、ということである。
 これはもはや、バーチャルな卓上の戦争である。
 その中で「殺す」ことは、こんなにも軽くなっているのだ。と、今更指摘することもないだろうが、目の前で言われてしまうと、やはり違和感を感じざるを得ない。



 そこで思い出されるのが、あの例の秋葉原の事件だ。
 彼の「殺す」は、おそらく今目の前でゲームをしている男子大学生と同じくらい軽いものだったのだろう。「祭り」という特別なことを装いながらも、刺すという行為自体は、たぶんある種の軽さを伴っていたに違いない。
 でなければ、あれだけのことはできないだろう。



 「殺す」ことの軽さは、命の軽さと言うよりも、その現実感のなさである。
 ゲームの画面で人を刺すのも、秋葉原の路上で人を刺すのも、同じ軽さ、同じ次元のこととして捉えられてしまっている。
 そういう感性が、ある年代より下の人間には、ゲーム等を通して間違いなく刷り込まれているのだ。
 僕達はこれから、そういう人間が大多数を占めるような社会を生きていかなければならないのだ。



 彼等はきっと、自分が誰かに刺されて初めて、命の重さを知ることになるに違いない。


hajime |MAILHomePage

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