思考過多の記録
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2009年02月20日(金) |
希望は、革命〜『チェ 28歳の革命』〜 |
さて、『チェ 28歳の革命』に関しての話である。 チェ・ゲバラことエルネスト・ゲバラは、もともとはアルゼンチンの裕福な医者の息子として生まれた。 喘息持ちで、自らも医者を目指して医大へ進むも、在学中に南アメリカを友人とバイクで旅をし、そこで見た独裁政権下の人々の貧困に憤激したのがきっかけで、医者になった後も「革命」と「人民の解放」を志し、メキシコに渡ったところで、後のキューが革命の盟友となるフィデル・カストロと出会う。 映画はここから始まる。
映画は、ゲバラとその行動を決して美化してはいない。同時に、「共産主義」イデオロギーの宣伝映画でもない。少なくとも、僕はそう感じた。 一人の革命家の辿った道を、そのまま映像化したという感じだ。 随所に、革命後に行われたという設定の、アメリカ人によると思われるインタビューや、国連での演説のためにジュネーブを訪れた時の映像、そして国連での演説のシーンが挿入される。 この「革命後」の映像はすべてモノクロで、再現部分がカラーだ。 まるで、「革命後」が記録であり、革命前の時代がリアルであるかのように感じさせられる。 革命軍に合流し、キューバに密入国した初期の頃は、彼は医者であり、喘息持ちということもあって、前線ではなく、傷病兵の手当てや運搬の仕事に回された。 「この体験が、私を革命戦士にした。」 インタビューに答えてゲバラはそう語っている。 ジャングルの中を、いつ敵に襲われるか分からない状況の中、傷付いた兵士を延々と運んでいかなければならないのである。 僕は初めて知ったが、普通軍隊が、特に敵地に侵攻している場合は、動けなくなった傷病兵は見捨てられる。理由は簡単。足手まといだからだ。 しかし、革命軍は兵士を見捨てない。2人がかりで布と木で作った簡易の担架で運んでいくのだ。 これは相当しんどい作業であろう。 また、医薬品も十分にあるとはいえない中で、傷病兵の手当てをするのも想像を絶する苦労があったものと思われる。 ましてや、自分自身が喘息持ちとなればなおさらだ。
この困難を克服し、また冷静な判断力や人心を掌握する力を買われて、ついにはカストロに次ぐナンバーツーの地位を与えられる。 そして、対立する各勢力をまとめる政治力を発揮し、また兵士を率いて前線に立って勝利を重ね、民衆の支持も得て、ついにカストロらと首都に進軍。 ここにバティスタ政権は崩壊した。 これがキューバ革命であり、ゲバラはその立役者の一人であった。 映画はここまでである。 だが、ゲバラの情熱はここで終わらなかった。この続きは『チェ 39歳別れの手紙』で描かれる。
僕はこの映画で、三つのことが印象に残った。 一つは、ゲバラが革命に対して語った言葉である。革命後のインタビューで語られたという設定である。たぶん完全な映画用の創作ではないだろう。 一言一句史実どおりなのか、それは確認できないが、ともかく彼はこう言っている。 質問は、「革命に大切なことは何か。」といった内容だったと思う。
「『愛』だ。まず、真実への愛、正義への愛、そして、人間への愛。」
そうか、と僕は思った。 確かに、「愛」は見返りを求めない、純粋で崇高な感情である。 何のためにジャングルを幾日もさまよい、敵の弾丸に傷付き、革命を成し遂げようとするのか。 「権力」や「名声」を得るため、また「共産主義社会の実現」「国を守るため」といった抽象的な理由では、その過酷な道のりを、人は到底歩むことはできない。 ただ「愛」だけが、それを可能にする。 そして、映画の中で何度も出てくるフレーズ、「祖国か、死か。」 これも、祖国に暮らす民、そして祖国の豊かな自然への「愛」から出てくる言葉である。 祖国を救うことができなければ、死を選ぶしかない。 「愛」とは、突き詰めればこのall or nothing の世界なのである。 間違えてはいけないのは、「祖国のために死ぬのが尊い」とはゲバラは一言も言っていないことである。そのあたりが石原慎太郎や小林よりのりあたりと違うところで、よく押さえておかなければならない点だ。
二つ目は、やはり革命は大事業だということである。 綿密に計画を練り、兵士を訓練し、様々な組織を結集し、信念を貫き通す。 実に強靱な体力と精神力がなければ、とても成し遂げられるものではない。 僕は、現代の労働者達が「蟹工船」の状態まで戻ってしまったとしたならば、次の段階は「革命」しかないだろう、と思っていた。いや、その思いは今でも変わらない。 しかし、実際その遂行に当たっては、並の人間では乗り越えられないような状況に常に直面する。 小さな幸せを捨て、エゴを捨て、とにかく「事業」の達成のために全身全霊を賭けることを惜しまない。そんな人間が一定数以上集まらないと、革命は成功しない。 そして、そんな人間達を引きつけ、的確に動かし、精神的な支柱になるカリスマ的な指導者も必要だ。 カストロやゲバラは、そうしたカリスマの代表である。 そういうことを考え合わせると、はやり革命は一朝一夕にはならない。 長く苦しい戦いを戦い抜き、多くの犠牲を払ってこそ、革命は成立する。 勿論、戦死だけではなく、一般の人々の支持は不可欠だ。 例えば、今イスラエルのガザ地区を実効支配するハマスは、元々は武装集団だが、医療や教育等、普通の人々の福利厚生も行っている。 ゲバラも、転戦先の集落で、村人の診察や治療を行っていた。 「本物の医者を見たことがない。」 と治療を受けた少年が言うシーンがある。 こういう地道な活動があって初めて、闘争は民衆の支持を得られ、それが革命につながるのである。 映画の中でも、ゲバラに治療を受けた16歳と14歳の兄弟が、一緒に戦いたい、と志願してくる。最初は追い返そうとしたゲバラだったが、兄弟の情熱に負け、隊に加えることにする。 そして、ゲバラのナレーションが続く。 「闘争にとって重要なのは、1人の無名の戦士の活躍である。それが全体の士気を高める役割を果たす。」 そういう戦士を1人でも多く獲得できなければ、革命は成功しない。 そして、それを束ねるカリスマ的なリーダー。 とにもかくにも、忍耐力と強い意思、冷静な情勢判断と果敢な行動が必要とされる。 本当に難しく、壮大な事業なのだ。
そして、最後。これは意見の分かれるところだと思うが、革命には武装闘争が不可欠だということだ。 こう書くと、「過激派を擁護するのか」とか「テロを容認するのか」とか反論されそうだが、それはちょっと違う。 ゲバラも最初は武装闘争には懐疑的だった。 しかし、実際に運動に身を置くことで、武装闘争積極派に傾いていった。 それは、故なきことではない。 そもそも「暴力」は、「権力」によってのみ正当性を与えられる。平たくいえば、権力者だけが暴力を合法的に振るえるということだ。 警官が抵抗する被疑者を警棒で殴ったり、時には蹴ったり、ピストルで撃ったりするのは「暴力」だが、これは警察官の職務の範囲内とされる。しかし、逆に被疑者が警察官を殴れば、「公務執行妨害」で逮捕される。両者の違いは、その「暴力」が「権力」によって担保されているか否かである。 これは別に僕独自の考え方ではなく、社会学などでは常識である。 そして、「革命」とは、「権力」の転覆であり、交代である。 であるならば、「革命」を成し遂げようとする側は、合法的に使用される「暴力」に対抗するだけの手段=「力」を持たねばならない。 「権力」は、自分達に刃向かうものには容赦なく「暴力」を使うことが出来る。だから、それを跳ね返す「力」が必要だ。 かつての学生運動のように、ゲバ棒を振り回したり火炎瓶を投げたりするくらいでは、ほんのお遊び程度だ。やっていた人には悪いが、あれは「革命ごっこ」であって、本物の「革命」ではない。 はっきり言えば、組織され、訓練された軍事力が必要なのである。 くどいようだが、その理由は、「権力」が同じく組織された軍事力を持っているからだ。 ゲバラ達の戦いはゲリラ戦だ。 少人数で、効率よく敵(国軍)の拠点を叩く。不意を突いて襲いかかる。そうでなければ物量に勝る正規軍には勝てない。 ベトナム戦争も、アフガニスタン戦争も、基本的にはゲリラ対正規軍の戦いだった。そして、いずれも正規軍が撤退を強いられている。 「権力」が「暴力」を失ったとき、または有効に使えなくなったとき、革命は成功する。 勿論、血は流れるだろう。命を落とす者もいるだろう。 しかし、それなくして革命はなしえない。何故なら、今述べてきたとおり、最終局面では、「力」対「力」の戦いになるからである。 誰も傷付かない革命など存在しない。何しろ、社会全体が変わるのである。必ず犠牲者は出る。それを恐れていては、いつまでたっても何も変わりはしない。 ただし、そこには重要な条件があって、先に述べたように、その武装闘争に一般民衆の支持があること、そして、「愛」があることである。 日本赤軍の間違いは、おそらくそこにあったのだ。彼等は、畢竟頭でっかちの「理論」と自分達の組織のことしか考えていなかったのだ。
勿論、僕はデモや非暴力による抵抗運動を否定しない。しかし、本当の革命は、おそらくそういうものと武装闘争がセットになったときに成功するのだと思う。 希には、東ドイツが崩壊したときのように、国民が西側に「逃散」することで、「暴力」によって押さえ込む相手自体がいなくなってしまうという場合もあろう。 しかし、あの東欧革命の時でも、いくつかの国では軍事衝突が起きていた。 日本人は、幸か不幸か武装闘争によって権力を奪取するという歴史を持っていない。 日本史の中で大きな転換点は、明治維新と第2次大戦後の2回だと思うが、前者は一般庶民には直接関係なく、徳川対薩長土肥・朝廷という権力闘争であった。庶民は「ええじゃないか」と騒いでいただけである。後者の場合、改革はGHQという「外側からの権力」によって進められた。勿論、その改革の芽は日本のあちこちにあったのだけれど、政策の執行者、すなわち「権力者」はGHQであり、それが証拠に日本国民が起こそうとした2.1ゼネストはGHQによって中止に追い込まれている。 どちらの場合も、結果世の中はそれなりに変わったけれど、それを成し遂げたのは「国民」ではなかった。 それは、遡れば秀吉による「刀狩り」で庶民が武装解除されてしまったことに端を発するだろう。
平和な世の中にいちゃもんをつけるわけではないのだが、今、明らかに間違った方向に国が進んでいて、国民が虐げられている状態なのだから、それを糺すためには革命が必要なのだ。 フリーライターの赤木智弘氏が「希望は、戦争」といっているが、僕は評論家の大澤信亮氏が言うように、「論理的に考えれば、希望は革命しかない」と思う。我々日本人が一度も経験したことのない革命とは何で、どのようにして成し遂げられるのか。 その一つのケースを描いたのがこの『チェ 28歳の革命』である。 革命が起こる現場を見たことのない日本人、そして今、経済危機の中で弱者の側に貶められ、社会から切り捨てられていく日本人に、是非見てほしい映画である。
繰り返すが、総選挙で民主党が勝利し、首相が小澤になることが革命ではない。 また、アメリカの大統領がオバマになったのも革命ではない。 それ程、革命とは困難で、遠い存在のように見える。 でも、かつてそれをやった人間達がいた。 だから僕は、もう一度言おう。 「希望は、革命」である、と。
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