与論島から帰ってきてからというもの、ずっと平凡であることのすごさを感じている。平凡であることとは、ありのままであることなのではないか?そう思いながら世界を見てみると、これがとても面白い。
極端な言い方になるが、現代社会では無意識のうちに全ての物事に理由付けをしているのではないかと思う。例えば、街を歩いていても「あの人が道路に唾を吐いた。なんでだ!?」「どうしてここで信号が赤になるの!?」「この店員なんでこんな態度悪いの!?」悪いことだけではない。「ここの店員さん感じがいいからまた来てもいいかも。」「今日は天気がいいから気持ちがいいなあ。」いいことも理由付けをベースにしている。
あるがままというのは、理由が要らない。
それがそこにある。それだけの事実を事実としてそのままにしておく。そうしたあるがままこそが、平凡であることの究極である。座禅を組む。そこに理由付けなどないし、瞑想することで何かが生まれるわけではない。ただ、そこに在るという感覚を体感するだけである。
平凡を平凡に維持することが出来ることは、すなわち悟りであり、ある意味究極なのだ。
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