知らんけど

2006年09月13日(水)

伯父の葬儀。一応、焼香もあげたし、出棺時には棺おけも持たしてもらった。
でも、涙なんて出ないし、悲しい気持ちにもならなかった。死は終わりではない。自然の法則にのっとって、土へと返る。輪廻転生。

人間が生まれ変わるのではなく、人間がこの世の構成物として、その身体を土に返し、自然のサイクルの中に還って行くこと。だから死は新たなステージへの旅立ちとも言える。悲しむ必要なんてないし、お別れする必要もない。だから僕は周りの人に合わせて、合掌し黙祷しながら心の中で笑顔でこうつぶやく。

行ってらっしゃい。
気をつけて。

葬儀。正直な気持ちを言うと、「早く帰りたい。」と思っていた。実際、どうしても外せない用事で、出棺のその後にその場を去った。なぜかホッとした。
親族をはじめとした参列者の方に、もし、僕の心が読めたなら、たぶん白い目で見られるだろう。

僕は死を悲しむものとしてみないし、死をきっかけにお別れなんて思わない。
だから、みんなが黒い服を着て、目を赤く腫らして涙を流しながら、「よく頑張ったね。もう苦しまなくて済むよ。」といっている姿を見ても、「なぜそんな不遜な態度が取れるのか?」と少し腹立たしくなることさえある。

僕の考えは世の常識からは、かなり逸脱しているのだろうけれど、みんなの言動は「生への執着」に見えてしまう。

葬儀という儀式は、「生きて過ごしたあの頃の思い出。」を演出することにある。涙している人間は、「生きて過ごしたあの頃の思い出。」という演出に涙しているのである。そんな演出は、故人には何の関係もない。

僕はこうした考え方が、故人を冒涜しているとは思っていない。この話を聞いた親族は腹を立てるだろうが、仕方がない。

しかし、仮に故人の魂が僕の心を読めるのならば、この考え方に、納得してくれるんじゃなかろうか。と勝手に思っている。

死は死んでみなければ分からない。生と比較した死は、生への執着をベースにしてしまう。ただありのままの死を受け入れる。自然の摂理としての死を受け入れる。存在の形が生であっても死であっても、この世を存在足らしめる大きな秩序の中で、自分は今ただここに在るだけなのだ。


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