2005年11月26日(土)
一生、女だから「女の一生」


瀬戸内寂聴、越路吹雪と2夜連続の2時間超ドラマを心ゆくまで堪能しましたが、
本命は今日です!! 杉村春子
実は・・・・この3人の中で、リアルタイムに一番自分にとって距離感が近い女性が、
彼女だったりする。
あたくしは、彼女が半世紀以上も看板を背負っていた、某劇団に所属していたわけではないけれど、
この某劇団に関わる人々であるとか、リアルに杉村先生ととても近いところにいた人から
実際に色々と話を聞く機会がとても多く、そのせいでか、面識はないものの
常々「とんでもない女優がいるのだなぁ・・・・」と思わずにはいられなかった。


丁度、彼女のいまわの際・・・・「華岡青洲の妻」の旅公演で彼女がうちの地元を訪れた際、
たまさか、この公演を招致した団体の主宰とうちの山賊が馴染みだったことから
杉村先生も、柳ヶ瀬にあるうちの店を訪れてくれたらしい。
この席にあたくしは同席していたわけではなかったが、やはり世紀の大女優というだけあって、
芸能方面にはかなり疎いあの山賊でも相当に興味が沸いたそうだ。
彼女の一挙手一投足をそれとなく観察していたらしい。
この頃、日常生活では、両脇にお付の人間がいないと、立ったり座ったりもままならないくらいに
衰弱していたそうだけれど、ひとたび舞台に上ると、まるで人が変わったように
背筋もきちんと伸び、自分の二本の足でしゃんと立つ、本当に女優としての執念を感じさせるような
そんな人だったという。
この話を聞いて、ほんの数ヶ月と経たないうちに彼女は他界した。


「舞台に立てなくなったら、私は死んでしまうわ。」


と、正にこの言葉の通り、本当に舞台の上で立っていられなくなったから、
彼女は亡くなったんだなぁ・・・・と、こちら側を納得させるくらいのパワーがあった。


そんな彼女よりも先に、才能ある一人の女優がやはり他界している。
鬼才とさえ呼ばれた、超個性派女優・太地喜和子である。
某劇団内では、杉村先生のお家芸とも言える「女の一生」の布引けいを引き継げるのは
太地喜和子くらいしかいないであろうと目されていた、物凄い人だったわけだけれど、
確か、事故か何かで亡くなられたんだった。
すごく印象に残っているのは、丁度あたくしが高校受験を控えた秋くらいに
突然、亡くなられたので、その記事がとても衝撃的に頭の中に入ってきていた。
若かった当時のあたくしの目から見ても、太地の妖艶で迫力のあるあの存在感は、
どんな女優も日陰に追いやるくらいの「力」があるように思えた。
日本の芸能史に残るであろう、無二の天才であったことは確かだから、強烈に焼きついた彼女の死。
以後、色んなジーニアスたちにあたくしも出会ってきたが、
殊、男性の俳優さんたちは口を揃えて、太地喜和子を絶賛していた気がする。
「伝説」を見た気がした。


閑話休題。杉村先生のことを話していたのであった。
彼女の和装のセンスは、かなり洗練されているものであった。
杉村先生の影響を受けて、和装の着こなしに煩い女優さんがあの劇団には本当に沢山いたように思う。
また、あたくしが共演させて頂いた女優さんの中には、
杉村先生の浴衣を稽古着として受け継いでいる人もいたり。
寝間着のような浴衣の柄ひとつを見て取っても、センスが感じられる。
嗚呼・・・・この劇団は本当に、杉村先生の色にしっかりと染め上がっているのだなぁと
そんなことまで思ってしまったほどである。

半世紀以上に渡り、ひとつの劇団の看板であり続けた杉村先生が亡くなった瞬間、
まるで扇の要を失うが如くに、この劇団内の権力抗争みたいなものが顕になってしまった。
それこそ、杉村先生の跡目を狙う女優さんが多すぎて、もうベテランと呼ぶに相応しい方々も
沢山いたわけだけれど、杉村先生がいる限りベテランとは呼ばれない・・・・
そんな女優さんたちの箍が一気に外れるようにして、大荒れに荒れたと聞いた。
もし、太地が生きていたならば、「新劇」という枠にさえ捉われない、
物凄い個性集団になっていた可能性も否めない。如何せん、杉村先生の影響は強すぎた。


その影響を、実はあたくしらも少なからずとも受けていたのである。
大学の在学中、この劇団から講師としてやってきて、我々のせりふ指導をしてくださっていた
とある女優先生が、ある日、テキストとして「女の一生」を実習室に持ち込んだ。
この当時、まぁ「女の一生」という名作があるということくらいは知識として知ってはいたものの、
まだまだ杉村先生自身が健在でもあり、彼女が演じてからこその「女の一生」という認識の方が強く、
実際にテキストとして持ち込んだ先生自身も、この作品に出演することはあっても、
「布引けい」の役で舞台に立つことは、杉村先生が存命である限り、可能性として
ほとんどないに等しかった。
ただ、このくらいの時期から、杉村先生の跡目を狙う動きは本当にあったようで、
我々の指導に当たっていたこの先生を含め、5人くらいの女優さんが、
実際に、この数年後にぶつかりあうことになるのだけれど・・・・。


杉村春子のために書かれた作品、「女の一生」の布引けいを、女子生徒全員がかりで挑戦したものの、
誰一人として「けい」を掴み取ることはできなかった(当たり前か( ̄∇ ̄;))。
指導している先生さえも、杉村先生の色を意識しすぎて、杉村先生がこなすように本を読まなければ
OKが出ないようなもので、全く年端のいかない、経験不足の我々にとって、
この本の「けい」を読むのは本当に至難の業であった。


後日談。杉村先生が亡くなるや否や、すぐさまにこの「布引けい」の役を巡り、
もうそれは凄惨な泥仕合が繰り広げられた。
事実上、この芝居で主演を取った女優が最有力候補である・・・・という(「女の一生」とは別の演目)
とある公演がもたれたわけなんだけど、主演以外の女優たちが「我が我が」と前に出すぎて、
とても見ていられないと、身内の俳優さんから聞かされた。
この公演で主演を務めたのが、後に2代目の布引けいとなる平淑恵だったのだが、
平淑恵が少しでもコケれば、その座が転がり込んでくるという一世一代のチャンスに巡りあわせてしまった
他の女優たちが空回りをしてしまったことで、結局、布引けいは平淑恵のものとなった。


あの「布引けい」という役は、本当に究極的で参ってしまう。
杉村春子という女優が凄すぎたせいで、皆そろって、あるひとつの「形」を求めてしまうのだ。
それは、杉村先生や太地のような、エネルギーに満ち充ちていて、しかもしなやかでもあり、
男性が決して放っておかないような、いわば、完全体の女性像。
女優としても、プライベートにおいても、そしてこの役にしっくりと馴染む点においても、
十人並みの執念ではとてもじゃないがお話にならないのだ。


例えば、「夕鶴」のつうが山本安英にしかできなかったように、
「女の一生」のけいは杉村春子にしかできないのかもしれない。
平淑恵の時代は、きっとこれから本格的に始まっていくのだろうが、
果たしてこの先の時代のニーズに、彼女の需要があるのか・・・・という点においては、
ちょっと疑問が残る。
新劇女優が、ドロドロとしたスキャンダラスな行動を引き起こしたとしても、
最近はメディアもほとんど見向きもしなくなってしまったから・・・・。




この日、放送された杉村春子編は少々美しすぎた気がする。
戦後、宝塚歌劇や新劇が復興の兆しを見せているこの国の灯明になったという背景を
杉村春子たちは上手に利用し、そして乗りこなしてきた。
もう少し前の時代に遡ると、女優という職業は、とても卑しく、蔑まれた職業でもあったので、
そういう中を生き抜いてきた、田上秋子(劇中では、田上冬子。杉田かおる演)なんかの描写は
まるっきりあんな感じでいいとは思うのだけど。
劇団新派や各新劇にそれなりのステイタスが表れ始めた時代なんだろうか・・・・?
芸を嗜む世界が、日常からすぐ手の届く距離に降りてきた現代、
芝居や音楽に没頭するのが、どのくらいの迫害を余儀なくされてきたのかというのを、
もう少し掘り下げてほしかったように思う。
杉村春子が見てきたはずの「スター」たちや、そんな「スター」を押しのけてトップに躍り出た瞬間のこと
どのくらいの情念と執念がそこに渦巻いていたのかを、もう少し見せてほしかった。


実際、平成になってからも、あの劇団では杉村先生の色がそれは濃く残っていて、
ベクトルの違う情念や執念が存在していた。
でもそれは、「女の一生」の布引けい自体が世紀の大女優の跡目を継ぐという方程式の中での出来事で
杉村先生や太地が通ってきた、本当の情熱であるとか執念みたいなものとは少し成分が違う。


一生女なんだから、「女の一生」が欲しいと思えるくらいの情熱は、
もう、このご時世では通用しなくなっているのかもしれない。

↑物凄い影響力だと思った。。。


と、このように、直接の面識はなかったものの、ありとあらゆる方向から
あたくしの生活の中にじわりじわりと、杉村春子という一人の女性の価値観が浸透してきていた。
彼女の価値観を伝承する者がいる限り、芝居に携わっていると、避けては通れない道なのかもしれない。

そういう意味で、リアルタイムで流れゆく「伝説」を、あたくしはこの目で見た。
貴重な体験である。

あさみ


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