痒痛 ☆ 日記 
お酒と音楽と変人と。菫色の日々。

2002年08月30日(金) いいこと

先日
「耳がかゆいよう」と言いましたらば、
母kiyokoが、
「なにか、いいことあるんだね」
と言いました。
なに それ?初耳だ。
・夜 爪をきると、両親の死に目にあえず
・夜 口笛を吹くと 蛇がでて
・あごに にきびができると思われていて
・くしゃみ2回は わるい噂 3回はいい噂
だけど、
・耳がかゆい と いいことがある
んだって。初耳だ。
しかし 母kiyokoは 昔からそういう、と言ってゆずらない。
なんだよう。もっと早く教えて欲しかった。この言い伝え。耳なんてショッチュウかゆいじゃん。
隠れ家には2本(机と枕元)実家には3本(枕元と鏡前と居間)マイ耳掻きを常備しているくらいショッチュウじゃん。

今までは 耳かゆい → 耳掻き耳掻き だった思考回路が、
これから 耳かゆい → なにかいいことあるかも うふふふ → 耳掻き耳掻き
となるわけで、あのね、「なにか いいことあるかも」 という思いつきはとにかく 3日 幸福への予感への期待 まわりくどいけど、実際予感を感じたわけではないけど、するかもね、そうらしい、だってそう言われたし、予感の先には幸せが・・・・ うふふふふふふ。
って、元旦のおみくじがいいと、三が日中くらいは いい気分ですじゃん。

これからは 耳がかゆくなるたびに 幸せへの予感への期待timeがあるわけですよ。
そうらしいですよ。みなさんの母はもっと子供の頃に教えてくれましたか。
いいな いいな。



2002年08月28日(水) くるくる中華

念願のくるくる中華宴会!テーブルが丸いと全員の顔がいっぺんに見えていいですね。回る円卓はすばらしいアイデアですね。中国人はすばらしい、宴会ってものが分かってる!と思ったけど、アレは日本の発明品。これが回転寿司として大きく花開いたのですね。

そして、気づいたのですが、みんな 時計回りに、アレ回すんだよね。無意識に。
逆時計回りをすると、おっとっとっと、逆走 ってかんじがするの。あれは左利きのひとでもそう感じるのかしら。

そして週末は 結婚大宴会。歌い手の義務としてわたしも何曲か歌いますが、どうせ誰も聴いちゃあいないんだ。でも、大事なのは当人たちに おめでとう って言うことだからね。いつでもどこでも やるからにはウケたい・・・ と欲張るから苦しいんだけど、どうせ、って先に言い訳しておくのも なんだか自分へたれやねぇ。
まあ、その場の役割ばっかり考えなくても 宴会は始まりそして終わる。

8月も終わります。9月はどんな月にしようか考え中。
文化 なのか?オタマはカエルになるのか?
公園わきのカフェでぼーっとするのは、9月っぽいことなのか?
弦の錆びたギターをなんとかするべきなのか?



2002年08月27日(火) I want to love

自分がどうしたいのか、この頃ははっきりしています。
KINKI KIDS ですよ。
愛されるよりも、愛したい マジで。

愛した〜い。その発露の場を求めていますよ。

大好きだ。そのままで。たまに楽しい時間を過ごせたら、ほんとうに 嬉しい。

嫌いなものが いっぱいあって、そこから逃げるように生きてきました。
鍵穴から ドアの向こう覗くように 他人を伺っていたかもね。

許せないものは、今でもたくさんありまする。でももう自力でなんとかしたくない。
Let it be. をどう解釈するかは、お任せするとして、だって、どうしようもないことがあるんだもん。

そして、一人では 寂しい。
いま 願うことは、互いに譲り合えたら、それはとても日本的なのかもしれないけれど、ソフトな緩衝地帯ってのは現実に生きる知恵ではないですか?

誰もが教祖になるのでないのなら、ねえ 見てみぬ振りをしたって、殺し合うよりいいではないですか。
そうしたって、ひと一人の世界なんて、誰にも侵すことなんてできない。

まず 誰よりも誰よりも 自分を愛したら 叩きのめして踏み潰して、そこまでして他人を目の前から抹消しようなんて、どうして思うんだろう。

先日の日記では、正直に書きすぎたのかしら、客商売としてどうなのかしら、なんて計算ずくで考えたりもしたけれど、正直いつだって自分のことしか第一に考えられない、そして、嘘をつくのが、ほんとうに苦しくてできないのです。

この日記は 読んでくれる不特定のひとを想定して書いてはいるけれど、どうやっても、まったく思っても信じてもいないことを、フィクションとして書くことはできなかったのです。

時間が意見やつれづれの想いを変えてはいくけれど、そして、エピソードに演出が入ったとしても、嘘は書けない。

愛してほしい けれど、いっそ愛したほうが気が楽だ というのは いま本当に思っていることです。
楽だ という表現が、いいかげんな印象を与えるかもしれない とは思いつつ、いまできる自分に誠実な表現なので、ああああ〜 と思いつつも どうにもしょがないです。

自分にご愁傷さま だよ。



2002年08月26日(月) メレンゲ

どういうめぐり合わせで、日本にも本当に数えるしかない、メレンゲのバンドで、10年も歌う人生に足を突っ込んでしまったのか。ふんとにねえ、人生ってわからんもんよねえ。10年前も10年後も、
「どんなバンド?」
「メレンゲです」
「????? ふーん。今度聞かせてね」
な状況はほとんど変わってないぜ。なぜ日本ではサルサとこんなに差がついてしまったのだ。サルサも好きだけどさ。
でもホントウのこと言って、音楽に関して、意識して勉強したりしたことないから、メレンゲだって、本場モノってのを、たくさんたくさん聞いたわけでもないの。だいいち、CDたいして売ってないし。でも、たまにラジオから流れてきたりすると、燃える。心が嬉しく笑ってしまう。おれの音楽が流れてきたぜ! ってかんじ。これが10年の刷り込みって奴なのね。ソンを聞いても、サルサでもサンバでもそんな気持ちにはならない。

生まれ変わったら、男になって、メレンゲバンドで歌いたい。coroになって、一列で踊ってもいいや。でも、女もきれいなカッコしたりできて、楽しいことは楽しいんだよね。ジレンマ ジレンマ。
でも、大好きな声は男の高い声なんだ。そして、狂ったような、テンポで、メレンゲを歌い踊りたい。
来世であいましょう。



2002年08月25日(日) 北の街では

もう、夏休みは終わりなのですね。東京はこれからが、残暑です。昼夜の温度差が大きいから気をつけないと。歌うたいには風邪が一番怖いのです。お芝居をやってる時は盲腸が怖かった。
それから、どうでもいいことだけどね、わたしは おたふく風邪も水疱瘡も麻疹も罹ったことがないので、誰かの子供がこれらに罹ると、出入り禁止処分になるのです。どうか、皆さんも身近に罹患者がいたら申告してね。
外国で生水いっぱい飲んでも、お腹こわしたことないし、アレルギーもない。
外部からの刺激に対して免疫がすごく強いみたい。乙女心で生きてた頃はデリケートな乙女になりたかったけど、いまは そんな自分がありがたい。

自分のものってなんだろう、と、オタマを死なせ 鈴虫を死なせ 金魚も1匹死んでしまったいま、考える。知ってしまったことと知らないでいたこと、現実に起きていることは同じなんだけど、ペットショップで何十匹金魚が死んでいようと、うちの金魚が死んだことおんなじには考えられない。どこで、責任感とか罪悪感が発生するんだろう。
それと別にわたしは 殺すことが怖い。自分がてを下すのが怖い。かわいそう とはまた別の気持ち。人間でもそうだ。わたしは他人に影響を与えるのが怖い。なのに、そんな場に立ちたがる。でも誰かがわたしをキラキラした瞳でみていたりすると、
「不本意なんだ。楽しかったならそれでいいから、忘れて。」
と思ったりする。でもその場では自分にもっていかれちゃって欲しい。
実に勝手だよね。

怖いことはいっぱいある。怖いことは苦しい。怖くないようになりたい。でも本当に怖いのは 怖いってことに鈍感なひとだから、そういう人からは一目散に逃げる。

さあ、眠りましょう。明日も歌えるわけです。うちのでない虫の声があちこちから聞こえてきます。



2002年08月22日(木) 海と大地の

わたしはずっとS☆PPROを信じてきました。
でも海洋酵母ってなに? どこにもビールって書いてないってことは発泡酒?
その名も「海と大地の澄んだ生」それってどうなの?
買ってみちゃったんだけどね。信じてたから。悪くないけどさあ。でもさあ。
差別化を図りたかったんだよね。どこの会社もそうだよね。でもこれ、悪くないけど、さすがS☆PPROだけど、なんだかビール→発泡酒の流れから一歩踏み出してる
いい意味なのかなあ。
つまり やりすぎ。
世界初 っていうその海洋酵母もなにか別のことに使えば?ってかんじです。
名前もいやだyo。パッとみ、「海と大地の生んだ生」だと思っちゃうyo。
だって変じゃない。一見 変じゃないけど、やっぱり変じゃない。そんなsantoryみたいなことすんな。いや、路線は違うんだけどねえ。


鈴虫の声が耐えられない。けなげで けなげで。聞いていると涙がでるよ。
うちの鈴虫だ、と思うと余計に そのときたまかすれる羽音が、けなげで愛しくて。小ひさきものよ・・・ かたじけなさに涙あふるる。それはオタマや金魚どんたちがたてる水音も同じだ。生きている音だ。

ずっと自分が冷静で現実的で、客観的な人間である、と信じていたかったけど、もういいよ。みとめるよ。ほんとは感情的で感傷的でその感情はそとからの刺激に異常に反応してしまう、なにかといえば涙を流していた源氏物語の頃のひとのような中身なんだ。痛いこと怖いこと醜いことを見たり聞いたりすると、なかなかそのダメージから抜け出せないから、なるべく不感症にそしてできるかぎり外部をシャットアウトして感情をフラットに保とう としてきた自覚はあるもん。
自分が他人の強いマイナスの感情を浴びるのがいやだから、自分も人前ではそうしないようにしてきた。一生懸命人前で泣かないように、怖がらないように、憎まないように。
長くて強い自制の力だったから今更簡単には緩まないけど、だんだんと本来の自分にもどしていけるかな。ひたすら傷つかないように生きてきたけど、その為になにかを犠牲にしたのか、自分ではわからない。でももうなにか適当にしよう。
まったく鏡リュウジ先生ったら。どうも12星座はとりあえず、おお牡牛座なんだけど、蟹座が根っこらしいよ。雑誌の受け売りだい。



2002年08月21日(水) はちみつ

マリモはどうした?と、誰もが思っているのではないか、わたしなら思う、というわけで、うちのマリモの角田館長なんだけどね。
もう館長ですよ。その貫禄。水槽の重鎮。その安定感。金魚どものフンまみれになりながらも、みっしりと丸く今日も酸素を吐き出しているハズですよ。
たまに、きれいな水で洗って手のひらでコロコロ丸めてあげてます。大きさ、フンコロガシの玉くらい。
植物ってなんて強いのでしょう。動物は精巧にできてるから、ちょっとの変化で部品が錆びたりして、動かなくなっちゃう 壊れちゃう 死んじゃう。鉢植えを枯らすにはよっぽどのことでもないと普通枯れないんだけど。枯れたと思ってもまた芽がでてきたりするからね、1ヶ月水をやらずに放置した、とかはともかく、捨てる前によく観察してね。茎や枝を折ってみて、中が緑だったらまだ可能性はある。
中まで茶色だったら、もうだめだね。まさにシンまで枯れてます。

ここしばらくの夏休みに はちみつ に対してもう少しつっこんで付き合って見よう と思いました。ピーナツバタサンド(甘くない&チャンク)にはちみつをたっぷりかけて食べると自分がスヌーピーの世界のひとになったみたいで楽しいよ。美味しいしね。ところで、たっぷり って実においしそうな響きのことばですね。みんなが憧れたに違いないちびくろサンボのホットケーキも たっぷりのバター ってところにグッときちゃうんでしょ?そうでしょ?

いままで はちみつ に対しては 甘い・ネタネタしてこぼすと手におえない・冬白くなって固まる・味にくせがある 総合的に面倒でおいしくてもなにか心に引っ掛かりのあるおいしさである、という見識を持っていました。
はっきりいって、メープルシロップにくらべて あんまり好きじゃない、だったわけだ。わたしのなかに確固たる 動物性食品より植物性食品に引かれる嗜好があり、草食動物に近い雑食動物 としてプーさんより、カブトムシ寄りな嗜好であったわけです。
あとね、プロポリスブームに乗っかって あんにゃ臭いものを原液で飲んだりしたのもあって、蜂くさい と勝手に味の記憶を塗り替えていたぜ。
ふとした気まぐれで、夏休みの買い物で はちみつ を買ってしまい、後半買い物に行かないので、それしか食べるものが無くなって 食べてみたら ちょっと研究の余地ありだな、と。
あれだね、ひと瓶食べきれるか が問題なんだけど、蜂が蜜を集めた花の種類を食べ比べないと、結論がでないね。まだ、はちみつ単品で心から うま〜い とまでは思っていないの。でも いつかどこかに マイ舌にぴったりの味の蜜があるのではないか、という可能性をみた。
子供の頃 偽はちみつ(混ぜもの入り)を散々食べたから、今更こんな面倒なことに乗り出そうとしている。給食にしょっちゅうでた、ロケットチューブ入りはちみつ は偽者くさい。絶対そうだ。
子供には本物を食べさせないと。でも乳幼児にはちみつ食べさせるとショック死したりするんだよね。じゃあ子供のたべものではないのだ。となると給食のはますます偽者くさい。第一はちみつって結構高いもん。

鈴虫が鳴いている。今日は上手だね。朝ごはん にキュウリスティックのおすそ分けをしたんだけど、鈴虫ハウスに先にやってから自分で食べたら 鈴虫のえさを食べている気になりました。きゅうりやスイカが虫くさいから嫌い というひとの気持ちが少しわかったよ。自分が食べてからやればよかった。
順番が大事。



2002年08月20日(火) 夏休み

遅れ馳せながら、夏休みにしました。自主的に。
毎年、密かにきちんと夏休みをつくっているのです。勝手に。
だいたい4日。そうでないと身体がもたない。
まずですね、考え付く限りの食べたいもの、飲みたいものを買いこんで冷蔵庫に入れるでしょ。ずっと読もうと思っていた大長編小説とか、すんごく長いシリーズものビデオとか、まとめて借りるでしょ。お布団しくでしょ。そんで電話とか音切っちゃうでしょ。開始。読んで飲んで食べて寝て起きて〜繰り返し〜繰り返し。
だいたい3日で、背骨と頭が痛くなり、3時間眠っては5時間起きての生活で三日目か四日目かが怪しくなってきて、たいていタバコが切れて、これ以上横たわった生活は苦痛である、と心身ともに納得すると終わるのです。

いつだって好きなような生活リズムで好きなことして暮らしているようでも、最低限は世間のリズムと資本主義の法則に則って生きているので、ほんとのほんとに欲望だけ!垂れ流し!というのをこの夏休みに大放出するのです。最後は苦痛で終わる、というのが食いすぎ眠りすぎ と一緒ってとこがこの話のためになるところでしょう。そりゃあ、もっとゆるやかに欲望放出すれば、1週間だって10日だってもつけど。徹底的に!手加減なし!に日常と世間から断絶する のがわたしのバケイションだからさ。でも 戻ってこれなくなる可能性もあるからひとにはお勧めしないよ。

でも今年は オタマと金魚と鈴虫の世話をしていて徹底的になりきれなかった。家族を持つ ということがすこ〜し理解できまちた。
羽田さん一家ったら、共食いしちゃって、いま2/3になってるよ。
今井ごんぶと(お気に入り)は特技死んだマネで一日に何度も割り箸でつつかれてるよ。おねえちゃんを心配させないで。金魚どもは24時間つねに飢えているかのようだ。

では、休み明けに。



2002年08月18日(日) すいか と わたし

夏、風呂上りはスイカと決めている。行水後もスイカといきたいが、からだが冷えるのよね。スイカはあんまりにも効率悪い食べものじゃありませんか。生ゴミ行きの部分が大きすぎる。皮が厚すぎる。けど、もも みたいに薄い皮じゃあんなにたっぷりの水分を守れないし。第一 弾力性のない水風船みたいで、もって帰れない。
しかし、生ゴミは週2回しか収集がない。夏の間だけ、スイカ皮収集を毎日やってくれんだろうか。子供の頃は田舎で毎日スイカを朝昼晩と食べていたが、食べ終わるとすぐ皮は庭に埋めてしまったので、問題なかった。従兄弟たち3人で食べまくったので、すごい量の皮が残ったハズだけど、全然問題なかった。
スイカはコンクリートジャングルに馴染まない食べ物であった。
生ゴミは袋に入れてようくシバって、収集日まで冷凍庫にいれるのだ。
だが、冷凍庫の中が次第にロックアイスと冷凍生ゴミだらけになっていくのは、
イヤーなものです。


懲りないねえ、と言った人は3日絶交する、と最初に言っておくけど、おたまじゃくし買ったよ。また。
考えられる反省点として、
� ー笋靴�て死んだ → 2匹かった。
�◆,┐気�好きでなかった ハンスト → 糸ミミズをかった
�� 環境劣悪 → 緑と隠れ場所を増やした
�ぁー紊じ賃里任△辰拭、� でかいのをかった

�い呂瓦瓩鷭藺綺0罎�ん。でも最初のときに水槽が小さいから「小さい子をください」と言ったのが引っかかってたの。お店のひとが「えっ?」って聞き返したから普通大きくて元気のよさそうなのをかうのかなあ、と思って。

というわけで、いま、うちのオタマは
今井ゴンブト すごく大きくて足が太い(7�弌�
今井ビチ朗  すごく元気で(躁病か?)ビチビチ水面まであがってくる
の2匹がいます。懲りないねえ って言うな!

そして、鈴虫は1匹の男子しか鳴かないので、男女比を同じにしたのがよくないのか? と 今日新たに別の店から男子を2匹投入。
男5に女3 こりゃあ、奪い合って大騒ぎさ、と思ったけど、1匹しか鳴かない。
まったくうちの女子はもう。

毎日 水族館に行ってる・・・ちょっといまダメなかんじ。



2002年08月17日(土) もう さようなら

帰ったら 今井くんは死んでいました。ほんの6時間留守にしただけなんだけど。
なにが悪かったのかはわかりませんが、きっとわたしの作った環境がわるかったのでしょう。
出かける前はプリプリ尻尾をふって泳いでいたのに、帰ったら テロンとたんぱく質の塊みたいになっていて、しばらく呆然と空いた口が塞がりませんでした。
まったく まったく まったく。

で、鈴虫は雑食で、たんぱく質を入れないと共食いするので、とりあえず、今井くんを半埋め状態で鈴虫宅軒先に風葬にしたんだけど、羽田さん一家は配合飼料の方が好きみたいでみむきもしません。軽く腐敗しはじめないと駄目なのかな。このままでは今井くんが浮かばれん。
まったく もう。

心なだめようと、トンガのラブソングなんて聞いてみたけど、結局ビールを飲みはじめてしまった。その後今のところ非常に 歌のへたな 羽田さんちの男子に歌を教えようとオカリナを吹いてみましたが、こっちも安定してでるのは ドレミだけで、全然だめでした。
近所でも何軒か、鈴虫がいまして、みんな長くて波長の高いきれいな羽音をだすのですが、うちの羽田さんとこの坊ちゃんたちは、短くて かすれ気味。まだ、練習不足でへたなのか、うちの女子たちに魅力がないのか。
きみたち コロコロコロコロ こおろぎじゃないんだよ。

今井くん ごめんね。後足まできてたのにね。
すぐに 今井くん(弟)をもっとよい環境を調べて 我が家に迎えるよ。
こんなことで、泣いて また今夜をぼうにふらないように オカリナでも吹くよ。



2002年08月16日(金) 鳴き初め

感激です。
先週から おうちを用意して、土をいれ 止まり木を買い、雑草を摘み植え、霧をふき、よっしゃ! 鈴虫を移住させるぜ、と、今日3ペアほど入れてみましたら、
ものの20分で鳴き始めましたよう。

狭いながらも我が家と認めてくれたのね。小動物を飼うと いつもどうも住環境がそりゃあ狭いので、かわいそうかなあ、ショップにいた方がましかなあ、なんて心揺らぐのですが、もうエゴエゴでしゃあない、できる限りのことはするよ。

これで鈴虫一家がやってきまして、共食いしないことを切に望む。
おたまの今井くんは 生きてるのか沈んでるのか、楽しいのかどうなのかさっぱりわからないまま、ぼーっとしています。
金魚カップルはとにかく 食い意地がはっています。

例によって例のごとく 一気に色んなこと開始進行させ、自分だけ楽しい 頭ぐるぐる状態ですが、これで少し落ち着きました。
ほんとうは、ぼたんいんこちゃん といくと毎回飛びついてくるプレーリードッグちゃんが欲しくてたまらない。なにもかも捨ててムツゴロウ生活に入ってしまいたい、けど、やっぱり 愛したい気持ちに溺れるのは まだ早いだろう、ってなわけで、水槽3つ並べて喜んでいます。

さて、PCのリカバリも終わり いろいろ無くなったりしてるけど、この辺の移住も
そろそろやろうかなあ。



2002年08月15日(木) おぼん

なんとなく、夏休みムード。都内の道はすいてます。ビアガーデンは浴衣の女の子がいっぱいでした。夜の空気もせみの声も 先週までとは、そこはかとなく違います。花火がやりたいな。

そういえば、いまは霊が帰ってきているのでした。明日またあの世にもどるのね。なんのおかまいもしませんで。おじいちゃん おばあちゃん おじさん おばさん たろうくん amiもね。またきてください。

このところいまさら江戸ブームに沸いているのは、自分が おたく的である、のはまあ日本人的に普通だよ、と確信をもってOKをだされちゃったような気になるから。
江戸時代のひとたちが、好きだから 面白いから、っていう理由だけでやたらと熱心にマニアックに先鋭的に どんなジャンルでも趣味の世界を繰り広げていた、
こんなことまで!お百姓から大名まで!
っていう資料を読んだりすると、幸せな気持ちになれますよ。まあ、基本的にみんな男のひとなんだけどさ。そこはおいといて。
おとなが、生業と別に 趣味に遊びに血道を上げる、それが後世その時代の文化になる レベルが高くなればプロもアマチュアも入り混じって ってところが楽しい、今想像すると 楽しい社会に思えるのです。

この道ひとすじ、これしかできない天才 より、オールマイティ あれもこれも手をつけてみちゃった天才の話の方が読んで面白いな。興味のおもむくまま生きてまったく人生ってほんとうに短いなあ、って思えるひととは、300年前のひとでもお友達になってみたい。でも相手から興味をもたれるニンゲンにならないと駄目か。

お盆すぎたらもう秋だよ。まったく 人生ってあっというまに過ぎていくねえ。



2002年08月13日(火) いらっしゃい

部屋のなかに、生き物がいるって、なんて心たのしいんだ!

だいたいどんな生き物もすきで 見てると口をポカーンとあけて心奪われてしまうのだけれど、水っぽい生き物は特別です。
ああ、でもでも 羽っぽい生き物も ほんとうはタマリマセン。毛もじゃ系生き物には なんかもう!虫的足いっぱい節いっぱい は少し気持ち悪いかな。ごめんね。

お水系はねえ、あったかくない のが魅力です。形が不思議です。
もちろん 贔屓はカエルですが。これはねえ、変態の不思議、形の不思議。
それから、鳥だったら ふくろう のように、顔の正面に目がある、が最大の魅力かも。跳ねるのもいいね。

生き物が死んでしまうから、飼うのはいや、という意見もわかる。うちのママちゃんのようにね。わたしは、毎日きまった時間に世話ができない、と思ったり言い訳したりしてきたんだけど、もうやめた。ガンガンかうよ。小さくて寿命が短い生き物を。水族館には 目がまわるほど 売り物のお水系生き物が売っていて、わたしが買わなくても、誰がかわなくても、いるんだもん。うじゃうじゃ。半分くらいはあそこで死ぬんじゃないの?もっと少なかったら いいがかりだね、ごめんね。
できるだけのことはするよ。このこたちが死んでもまた かうよ。

生き物がいると思うと 早く帰りたくなる!



2002年08月11日(日) この際だから言っておきます

わたしは 脳死はひとの死でない そして 臓器移植 は嫌だ 派 なので、もしわたしが、自力で指一本、瞼さえ動かすことができなくなっても、何人の医者が”脳死状態です”といっても、両親がこの子の体の一部でも、生きるのなら と言っても、わたしの一部を勝手に取り出したり、別のひとの体にくっつけたりしないでください。
当然のことですが、わたしもこの意見を変えない限り、それが必要な病になっても、移植待ちリストに名を連ねたりしません。
生れ落ちたときに授かったもので、自足して生きていること尊びます。その一部が病み衰え全体の生命力を奪い、結果 生き物としての最後を迎えようと、それはわたしという生き物全体が一度終わるためのプログラムだと受け入れたい。そして快復への道筋があるかもしれないとしたら、わたしの中に それを探したい。
これが、わたしの現在の 限りなく死に到るかもしれない病気 に対する意見です。

もちろん、この意見というものは、リストで待っている患者さんや 臓器バンクに登録している方々を批判するものではありません。
オマエも、臓器さえあれば生きられる、という立場に立ってみろ、また命を救うためならどんな方法も試してみるべきである、という意見があるのと同じように、わたしも脳死状態の愛する者と長く時を過ごした経験から、自分の信じる思いを述べているのです。

脳死状態である、という人間がどんな存在なのか、ということは、だいたいこの状態の人はほとんど全く動いたり反応を示したりしませんから、長い長い時間 病床で見守ったひとにしかわからないと思います。当然、医師は一日に一時間でも この状態のひとを見続けた経験など、特殊な研究者以外いないのではないでしょうか。そして、一日中、時には何週間も見つめ続けている家族や、毎日からだの世話をする看護婦さん達は、
「脳死は死ではない。このひとはなにも外に自分が生きていることを表していないわけでない。健康なひとがそういうことを表す部分がつかえないので、とてもとてもわかりにくいけれど、ゆっくりと長い時間をかけて やがてホントウに全体の機能が止まるまでは、外のことも感じているし、そのことを知らせようとしている。」と実体験から発言したりするのですが、愛ゆえの偏った意見ととられがちであり、そしてその実感の記録がとれないがゆえに、医学という科学の参考意見として用いられないのです。

まず、この脳死と言われる状態のひとをこんなにも数多くつくりだした、生命維持 についての意見を言わず、いきなり脳死と臓器移植についての是非を問うのも早計かもしれません。

この世界は流動的なおおきな器のなかに、細胞や器官が動き生きていて摩滅した器官を捨て互いにいつでも交換可能な、個々の意思と全体の意思が 生きる ということで齟齬なく結びついている、といった、よくSFや宗教の生命の最終形態として描かれていますから、これもある理想の形なのかもしれませんが、我と他の区別の意味のない世界を目指そう というのはわたしは目指したくないけど、この立場にたてばとてもよく脳死や臓器移植といった事柄を進めていく理由としてわかります。わかり易すぎるか。
でも、結構丈夫な皮のなかに 生きるために必要な器官をめいめいみな見えないけれど持っていて、めいめいバラバラな己が生きるという意思をもつ形態の世界を是とする立場になると、そんなことは自然でない拒否する、という意見があってあたりまえでしょう。

脳死 という状態をひたすらどういう状態なのか研究しているひとには、ますます研究して欲しい。けれど、いま人口に上るのは、ほとんどなるべく新鮮な臓器提供、終われない生命維持、を当事者でなく 当然か、周囲が 最近の可能性として注目した 脳死でしょう。これから益々身近にそういう状態のひとをじっくりと見ざるを得ない人が増えるからさ、その実体験をもってして立場をおのおの表明してもいいと思う。我ながら呑気な気の長いスタンスだとは思うけど、一刻を争うという現場の背景にはそういう長い長い蓄積された体験がなければ、当事者のほかには ただの主義の違いでの論争でしかないように思うのです。

何をもって生きている という状態とするのか、いきなり、人間の、という大きくてつかめないテーゼには わたしは手がでません。いつでもそうですが、わたしの、わたしが見聞きしたところの、ゆえにわたしは、の地点からものを言っているつもりです。
そして、他人の経験、実感はなぞれない、いまのバーチャルはあいまいな、アンケート上位のようなものである、と感じている現在のわたしには、自分の意見は曲げないけれども、違う意見を覆す必要がわかりません。

法律やまして倫理というものに、大勢の統一した見解が必要ならば、それには待つことが必要なんじゃないでしょうか。わたしも今後見聞きしたことによって意見は変わっていくかもしれません。ずっと変わらない価値観をもつ社会なんてこれまでどこにあったでしょう。

命にための科学である、ではなく いっそ、命のための科学の実験である、といえば、正直でもあるし、賛同するひと しないひと 信じるところをなせばよいだけです。
実験も発展も進歩も否定はしません。すごいなあ、と思います。一生をそういうことに捧げた人々はほんとうにそういう人生が好きで楽しかったんだろうな、と思います。
自力で呼吸したり心臓を動かしたりできなくなったひとを生き長らえさせたり、脳死という概念を発見したり、臓器移植という考えや方法を研究してきた人達のことも同じです。
真剣なんだ、楽しいとか言うな、と言われてもわたしはそう思っています。

意見を言うということには、他人を傷つける可能性がある。特に日本人はそう考えるひとが多いように思います。いろんな立場にいる人がいるから、慮って意見は声に出さないでおくがよい、と。
たまたま、こんな日記を読んでしまった、自分や愛するひとが、移植を待っているという人が 理解されないと感じ 苦しむかもしれません。

そして、 たとえば自力呼吸ができにくい という時点で呼吸器をつけられ、やがてある時点で 瞳孔の反射がないとか、動いても脊髄反射である、つまり脳はもう死んでいます、と言われ、生前臓器提供についての意見は言っておられましたか?などと聴かれたりして、このひとの心臓がまだ動いてるということは、この病床にいる人間にしか意味がないんだろうか?脊髄は生きていて手足が動くということは、活け魚の鯵をさばいて、骨と頭になった奴を水槽に入れると泳ぐ あの気持ち悪い状況のようなものなんだろうか、この変わらず丈夫な皮の中にある自足した器官は重要だといわれる命令系統が機能しなくなったらもう切り離してもいいものなんだろうか。
このひとは自分がもう死んだと認めるだろうか。
そういうわからない わからない こと に わたしも苦しみました。
最後には全部の機能が停止しました、ご臨終です、と言われた本人はもっと理解されないことに苦しんだでしょう。

生きる ために生きている。だからできるだけ生かす。でもやっぱり みんな一度死ぬ。
どんなことをしても一度は必ず。だからといってこの二つを同価値に考えるのは難しい。
けれど一度は考えてみてくれるといいな。たとえ意見が違ってもわたしはあなたを尊びます。
あなたの生を尊びます。わたしの死も尊んでください。誰がどんな方法で生きようと死のうと。

最後に それでも 愛 はひとを縛る。わたしも縛られている。自分の意見です、といっても それは愛から逃れた自由な思いから到った考えではない。



2002年08月10日(土) 水道水のカルキ抜き中

最近ますます 色っぽくなったような気がする。自分が。
なんていうのかなあ、柔肌?肉感?
うるさいなあ。ムチムチしてんだよ。

池波正太郎とかの

女の肌は青白く全身汗にまみれながらもその下の脂はどこまでも冷たい、とか
裾はだけあらわれたむっちりと白いもものその暗がりに
とか、池波先生の女の趣味ですか?というむんむん女が、というよりかそういう女しか書けない男が好きでなかったんだけど、こうなってはしかたない。
大抵の男の作家は 少女と年増しか書けないんだよね。

年増ってことさ。でも、お酒飲むときの柿ピーは少しヒカエマス。

弟夫婦は 久米島でダイビングだというのに、わたしは「金魚をバケツに入れるゲーム」をしています。でも今23面!



2002年08月09日(金) 準備 準備

準備って楽しいですね。計画はもっと楽しいですね。実践になると あれ?ってことないですか?でまた別な計画立てたりしてね。

いま、ファミリー計画に夢中なので、部屋割りとかね、インテリアとか。名前も決めてあるしね。あとは、貰い子にいくだけだ。明日はかご じゃない家具を買いにいくんだ。そのうち お披露目しますね。

念願のポータブルキーボード でっかいカシオトーンは持ってるので より小さく、よりシンプル、より安く、を探し 本日とうとうディスカウントショップで3歳児上向け 980円 を発見。迷わず購入。犬ととり(なんの?)アヒルとカエルの声サンプリング付き。デジタル音源の底の底 という音色にしびれました。
これで 作曲しようと、いま枕元に飾ってあります。頭の中には半分ほど完成した
♪ 今井くん ♪ という歌があるので、第一作目はそれだ。

カルピスおいしい。失恋の味。



2002年08月08日(木) 水族館

というのは下町にあります すごい老舗の熱帯魚屋さんです。少なくとも30年以上やっています。お店もとても大きいです。

子供の頃は、弟とここでカメやら金魚やらクワガタやらを見たり買ったりしました。熱帯魚はものすごく ハイソサエティな方々の趣味であった時代ですね。
喫茶店の水槽にピラニアがいただけで、すごいアマゾンの魚だ!と思っていたもんね。

このトコロの鈴虫フィーバーのわりにまだ入手できていなかったわたしは、そうだ水族館にいこう!と思い立ちさっきいってきたのですが。

すごいんだよ。竜宮城だよ。鈴虫鳴いてたよ。忘れていたけど涼しい音色でした。
でもそのほかにも、カメでしょ、リクガメでしょ、リクガメが瞬きしながら、餌をもぐもぐと噛み締めているところを10分ほど眺めて、なんとかして手にいれたいと身悶えしているうちに、すてきな外国のなまずを発見して生餌のことを思い、おたまじゃくし も発見したけど、なんのカエルになるのか書いてないじゃん!と不備に怒り、またカメにもどり、透明な体の熱帯魚に かつてヒーターのサーモスタットがはずれ、みんな茹で殺してしまったカワイソウな我が家の熱帯魚を思い、マリモをみつけて、これが分相応なペットかもしれないと思い、小さい水草を浮かべて小さい金魚かメダカを飼おうか、と心ゆれ、鈴虫にもどり、飼育セットを手にとり、結局なにも買わずにぐったりと帰宅したのでした。
心魅せられ 夢中になると、心身疲れます。

ホントウのこと言うと、ちょっと怖くなってしまって、そういえば水族館に一人でいくと毎回こんな気持ちになったなあ。
水族館は大きくて、ぎっしりと水槽があって、その中は完璧にセットされていて、宝石みたいな海水の熱帯魚や水草の森や遠い遠い国の生き物がいて、自分の手でこの小さい世界を維持することとか、人工的に生態系をつくってそこにほんものの生き物を住まわせるとか、そんなことが心をよぎると 少し気持ち悪くなってしまう。
シュミレーションゲームで、シムシティとかシムアースとかPC上で世界をつくる遊びにいっときわたしも夢中になったけど、たいてい最後は維持するのが面倒になって、ゴジラや隕石や原発爆発やらさせて ぶち壊していたなあ、とかね。

考えすぎ&準備せずにいきなり行く という悪い癖で 毎回二の足を踏むのは、ペットでも恋愛でも わたしっていつでもやること一緒。
しかし、鈴虫とおたまとマリモとメダカはどうしても欲しいので、 まず、飼育箱と水槽を手に入れて、寝かした汲み置きの水を用意して、それから、絶対に買う!
という強い気持ちで 再度 水族館に乗り込むぞ。
欲しい物がよくわかってないのに、いきなり今日から大丈夫なように全部ください、ってお店の人にいうほど 面の皮が厚いといいんだけどなあ。マジで。



2002年08月07日(水) 翼の折れたエンジェル

わたしはこの年にして 老いすぎてしまったのかな。

人間誰でも 傷や痛みを持って生きてると思うし、そういう人間にこそ魅力、興味を感じる。
みたいな、発言をたまに聞くよね。

汁たっぷりで、
ケッッッッッッッッ !
甘い! 若い! 浅い!
あんのね、傷を見せびらかすなんて ずいぶんね。 傲慢な若さって奴ですかい?
悪いけど しまって。

どっち。
いま 苦しいんだと、他人にわかるようにしかできない人が素直な愛すべき人間なのか。
そうかもしれない。けど、苦しくて崩壊するまで笑ってる人と、どっちが好きかは好みの問題。
子供が痛いよう、って泣く のと 青少年がどう生きたら分からない死にたい、ってのと 大人が人生ままならんよ、と愚痴るのと。
根っ子は 。

人間誰でも 傷や痛みを持って生きてる。誰でも。なら世の中には表にだすひととださないひとがいる。
芝居や映画や いわゆる表現にひとの痛みに真摯であろうとすれば、それは自分の
痛み にいきつくのじゃないのかな。痛みを抱く他人の誰のどこを取り上げるかは
視点として 「誰でも痛みを」の部分を棚上げしている場合が多いような気がする。
だからといって、この痛みは人間共通の、はよっぽど大風呂敷をひろげないとさ。
うそ ばっかり になっちゃうよ。たぶん でくくられたくないよ。
でも あなたの ならば聞こうじゃないの、とも思うよ。

老婆心でいいますと、
痛みを抱えた人間が魅力的だなんて 言葉の綾でも 聞きたくない。正直に こんな痛みが いまのわたしの表現したいことにぴったりきたのでピックアップしました。わたしのなかにも探ればあるだろうし、きっと多くの人にも 「ああ」って思ってもらえると信じる、って言えばいいのに。
かっこつけんなよう。

痛みのありかを探して 痛い作品を作るっても 「そうだよね、わかるよ」みんな心のどこかのスイッチに触られたような、共感かなあ。そう若人はその共感を感じることが必要なのかもねえ。
でも その先に「ありがとう」って一時的にでも昇華されるような作品を作れるかもしれない、って可能性に進んで欲しいんだ、おばさんは。
涙が止まらなくても 笑うことはできる。その笑みを浮かべさせられる表現者をわたしは尊敬します。
それがドキュメンタリーを送り出す 見えなかった痛み喜びを見せる 人々と 架空の世界を作り出す人々 との違いじゃないのかなあ。

今日は楽しかったのでもっとお酒を飲みたかったの。うちでもう一杯飲んでたら、こんなのでました。



2002年08月06日(火) 大と小

って乗り物のことね。
で、大乗と小乗っていったら仏教ね。
先週から仏典の中の仏典 法華経 を少しでもわかろうと勉強したんだけど、この日記を以前からお読みの方には 薄っすらお分かりかもしれませんが、
やっぱり なんとなく 大乗 って苦手。

大きい乗り物でみんな救いましょう が 大乗で 小さい乗り物 つまり一人は一人で自らを救いましょう が小乗。乱暴にいうとそういうことみたいよ。もちろん大乗側のつくった言葉ですが。

どっちも到達点は一つ 偉大なる調和を知り 永遠のいのち 如来に連なるものであるとわかること。インディオの教えでも言ってるよね。ヒンドゥーの行者も。
頭じゃなくてホントウにわかるためへの 路だけど、その行き方 方法より始めの持っていき方が違うっていうのかな。

どっちでもいいんだよね。ただ やっぱりみんな になると、現世ではすぐ間違えたりするでしょう。
一人と一人の 一人と沢山の 志や思いの方向が違っていても 怖くはない。けど沢山と一人の 沢山と沢山の が違うと 怖いことが起こる。
仏教だって宗教だし、教団だって宗派だってあるし、まして古代仏教はもっと布教という意味では いまよりずっと過激だったでしょう。

もちろん小乗派だってね、独善のわなだってあるし、エリート主義もあるし、大乗にそこをつっこまれてきたんだろうし。

宗教の教義を読んだりするのは わりと好きだけど、ある部分ある部分 とても心が明るくなるけど、ある部分ある部分で、首を傾げたりしてしまうので、結局信者にはなれない。結局 信心は実践で 教えは口頭で 刷り込まれていくもの。母国語のように。大人になって なにかを求めて なにかに惹きつけられて ではわたしのあこがれる ただ信じる ただ愛する ただ委ねる にはなかなかなれないように思うのです。

わたしが死んでも世界は変わらず美しいはずだ
わたしが死ぬとひとつの世界が消える。
そして
あなたが死んでも世界は変わらず美しい
あなたが死ぬとひとつの世界が消えるはずだ。 

それが わたしのいつかしら芽生えて 今も残る信心なのです。

八月六日。



2002年08月05日(月) もう秋の準備

なにしろ蝉がね、早くしろってかんじで 夜明けまで鳴いてるからね。

お知りあいの皆さまからも、9月の 舞踏のステージとか フラメンコの発表会とか 写真展とか ライブとか 結婚式 とか のお知らせがボチボチ舞い込んできています。
みんな分かり易いぞ。8月に文化はなくていいのか。
いいと思うけどさ。

わたしは この秋は 写真を撮ろうかな、と。んで小文を書こうかな、と。
百万人のサイトマスターがやっているようなこと を 今更! 秋公開!
と、予告しておきます。
インカ占いによると、わたしは物語の紡ぎ手ではなく、伝達者である そうですから なにかちょっと いいもの を見たら勝手にお知らせします。

最新伝達は マンガ法華経 は なんの役にもたたないし 楽しくもないよ。

そんなもん読んだのか、と思われると恥ずかしいなあ。てへへ。



2002年08月04日(日) 蚊遣り

ほんとうは そんなに蚊がいるわけではないんだ。
いても小さくて少しプクッて腫れるだけの、きっと毒の弱い蚊だから、お塩さえあれば平気なの。
でも少ししのぎやすい夜、冷房をきって 窓をあけて 蚊取り線香を焚くのがすき。
緑の渦巻きがゆっくり灰になっていく 見えるかどうかの薄っすらとした煙が昇っていく。
なんの音もたてない。
時間の流れもおんなじで、味方になってくれるような気がする。
大丈夫なんだと OKなんだ いつまでって期限を決めてなにかを完成させようと焦らなくても こんなにも時間はたくさん 余るくらいあるんだ。



2002年08月03日(土) ビーンズイーター

夏夏 豆豆。
フルーツも好きだけど フルーツイーターと自称するほどのものではないけど、豆はね。夏は毎日 とうもろこし2本たべて 枝豆一枝たべて、おやつに豆かん 食べてもいいよ。そして毎日 キャベジンさまのお世話になるんだけど。

今日は夕ご飯は だだちゃ豆 とプラムです。お昼は卵サンドでした。ああ、卵も好きなんだよなあ。理想の一日の献立。
朝:薄くてカリカリのトースト+両面焼き目玉焼き(ターンオーバー)+すいか
昼:そば またはそば粉クレープまたはとうもろこし+ゆで卵+きゅうり+もも
夕:枝豆(冷凍ははなから除外)+ビ―ル+ポタージュスープ+冷トマト+なし

おやつ:とうもろこし トコロ天 プラム みつ豆 白玉あずき 卵ぷりん

冬は三食 なっとうご飯 でもいいや。そうそう 夏の納豆はどうも心ひかれないとは思いませんか。でも子供の頃の夏休み 水戸のおばあちゃんちに行くと 毎朝なっとうご飯だったんだけどなあ。あと、きゅうりの古漬。
基本的に そのまんまだぜ。やっても一工程の作業しかしてないぜ、な食べ物が好きなのですが、外食ではこれが難しいです。居酒屋メニューで大分カバーできるけど、美味しくない、美味しいと量少ない。
とくに昼が難しいんだ。もう内田百�里里茲Δ頬萋�もりそば にしようかな。でも女一人蕎麦屋にはいるのは結構気がふさぐ時が多いのですよ。

そろそろ だだちゃ豆を一度冷蔵庫にいれてきましょう。美味しいなあ、と感じるためには この辺で手を抜いてもうアツアツをいきなり貪るとかしちゃうとダメなのよ。そういえば母が中国野菜にヒステリックになっていて、だだちゃ も中国枝豆ではないか、と疑っている。
「え〜 だだちゃ ってどこか山形かどこかのブランド枝豆じゃなかったっけ?」
と言ったら一応納得していたけど、でもなにも信じらないからね!キー!と宙に向かって吼えていた。そうでもオカシクナイよね。今回ばかりは母に譲るよ。心の中だけで。口に出すと増長するからね。そりゃあもう。



2002年08月02日(金) 蓮から妄想

コロボックルが気に掛かる。あやふやな記憶では、アイヌの民話?妖精みたいなもの?会うと幸せになったりしたっけ?フキを傘にしてる?葉っぱの下にいる(住んでいる)?
とても気に掛かるので、明日図書館で調べよう。ずっと座敷童子が好きで、理想の人間像=座敷童子だったのね。コロボックルさんも好きになりそう。

とうとつにコロボックルをもっと知りたいと思ったのは、今日すごく大きい蓮の葉と花をみたから。普通の人間でもちょっとした傘になりそう、小人さんなら十分だね、くらい大きな葉っぱでした。花も大きいよ。仏像が手にもってるでしょう。
で、そういえば、こんな葉っぱの下をちょっと覗くと小さいひとがいました、みたいなお話を子供の頃読んだような気がする、それはコロボックルだったような気がする、けれどもホントのトコロあやふやだ。そんな薄っすらあやふや感をかかえてるんだけど、こんな日記ってどうなの?
ああ、なんだかコロボックルに心ひかれているひとがいるんだなあ、とでも思ってください。

ずいぶん前に牡丹園で何百という種類の牡丹をみました折、ちょうど牡丹の花の大きさが頭に乗せるのにぴったりだ、という考えにとりつかれ、あのひとの頭花は薄ピンク、このひとのは濃紫 わたしは白に中心だけ赤が入ったのがいいなあ、と人間の頭の天辺に牡丹の花が咲いている妄想をふくらませ、絵まで描き 友人に無邪気に見せて喜んだりしたことがあるのですが、(自分で書いていて我ながら相当アホっぽい) 返って来たことばは
「いま 現在 世の中にはそういうこと考えている人間もいるのだね(まさかいつもじゃないよね)」
というものでした。
そうです。過程を抜きにしてふくらんだ妄想だけヒトに語っても そりゃ迷惑ってもんです。どうも すんませんでした。


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