来年の初遊び計画。 温泉だ!富士山と海がみえる温泉。 友達とその仏蘭西人の夫と3人。
またか。またカップルに暢気にくっついていくのか。何年このパターンを続けるのか。思い出すかぎりでは十数年前から・・・
イヤではないのよ。気楽よ〜。しかしどこも女同士やカップルにはいろんな割引や特別サービスがあるのに、カップル+女同士のこのトライアングルにはちっとも優しくない。そう、日本の旅館は4人から安くなるのよね。
だいたい、こういうトライアングルでは、鍵付貸切風呂なんか予約するのもどうもなにか勘ぐられているような、意識過剰になりがちね。
誰か一緒にいかないかなあ。クリスマスの時にも呼びかけたけど、虚しくこだまはかえるよ。イブはひとりワイン1本(その後ワインが前より呑めるようになり、嬉しい。ワインはそれほどトイレに行きたくならないし、身体があったまって眠れる)クリスマスはいつものいつものメンバーで焼き鳥。
誰か〜、いませんか〜、1月の第二土曜に温泉いきませんか〜。 男希望。仏蘭西人夫は日本語ほぼダメ。でもあいつが学ぼうとしないんだから気にしないでよし。イタリア語とスペイン語はちょっとしゃべれる、とかいっていますが、わたしだっていんちき関西弁といんちき茨城弁ならしゃべれるさ。 しかし日本人だけで盛り上がりあんまり放っておくと寂しがるので、少しは相手をしてあげてほしい。 軽くオタク外人(フランス中で毎日日本アニメが流れていたころ少年だった世代だから)アニメソングを歌ってあげると喜びます。 前回、つい混浴の楽しみを教えてしまい、今回も機会を狙っているらしい。 なまいきだぜ。日本男子だって混浴の経験のあるひとなんて一握りだぜ。 だいたいお風呂の裸にはセクシャルな意味を持ちこまない(大文字の建前で)のが温泉のルールだぜ。スパじゃないんだぜ。J.Fちゃん。
予算は交通費込みで一人2万円前後を目指しておりますが、休日前だからなあ。 でも4人になると安くなる。 東京から近く。熱海、伊豆あたり。
どうですか?誰かいませんか?メール待ってます。
は?本気なら掲示板で募集しろ? それこそネタみたいじゃないですか。
どうですか。
自分の才能をお金にかえる機会をのがしてしまったなあ、と思うのはこういうとき。 得意と不得意とあれば、わたしは表現することはあんまり得意ではないのです。普通よりはうまいよ。でも群をを抜いているか、というとそこまでは言えない。でも、だからこそシツコクいつまでも、ああでもないこうでもないやり続けているのかもです。 むしろ得意なのは、企画構成。ラジオとかテレビとか雑誌の編集になれば、いまの数倍お金を稼いでいたのでは、と思います。
みんな、いろいろ得意種目があって、バンマスは作曲・アレンジ・メンバー編成いろいろ絶対自分にはできないことを易々と、実際は生みの苦しみでのたうっているとはいえ、続けているようにみえる。Eちゃんは、MC進行をまるでベテラン結婚式司会者のように、はったり効かせて語ることができる。ミュージシャンは当然、その楽器のプロなのですから、専門家への敬意の最大の対象です。 わたしはメインボーカルですが、メインってなんだろうか・・・ 主旋律を歌う。バンドの真ん中にいて、常にお客から目をそらさない。あとは、歌うまい。でもうまい歌手はいっぱいいる。なによりそのバンドのカラーを醸し出す。 でもカラー?ってなに?意識して醸し出すもの?違うよねえ。
迷ったり、先がみえなかったり、くだらないとはいえ、貧乏くじをひいているように感じたりして、やめよう、と思うことはなんどもあります。特定のバンドに限らずね。 でも、やめてなにをする?自分でバンドを組むのか?そんなことしたいわけではない。自分はただ、歌ったり踊ったりしたいだけであります。正直好みはあってもジャンルなんかどうでもいいの。なんの歌だって好きだ。自分には世の中には、いい歌とあまりピンとこない歌と二つしかないのです。 わたしは声をだしただけで、ひとの心をわしづかむような歌い手ではないのはようく分かっております。だったら、歌える機会を減らして一瞬楽になってもかわりにやりたいことを掴めるだろうか? でも、これは保険をかけているだけなんだろうか? 迷うけど、決定的ななにかもないのに、確信もなく、ただ、やってくる変化を期待して環境をかえるなんてのは、少女時代に散々やってきたことの繰り返しではないのだろうか。
結論でず。しかし別に年の区切りを人生の節目にしなくたっていいと、昨日やたらと力説していたみたいですし、やっぱり、歌ったらものすごく楽しかったので、まだ歌います。
打ち合わせにいったらね、ちょっと遅れていったのだけれど、なんにも決まってないの。曲順も、ショーの全体構成も。メインをどうするか、さえも。 わたしからみれば、何通りだって、考えられるし、でっちあげでもショータイトルだって何パターンも考えられる。ベストオブベスト、唯一の選択にこだわらなければ、(だってそんなもん生なんだからやってみなければわからない)ベターの中から現時点でモストベターを選べばいい。メインは、考えつくなかで、一番劇的に演出できれば、全体の中での意味なんか考えなくたっていいのに。
MCだって、うまく次につづけることばかりに捕らわれなければ、どんなに飛躍したっていいんだから、うんうん唸らなくたっていくらでも語れると思うんだけどな。 いつもMCの脚本でわたしが苦しむのは、ぴったりくる言いまわし、その場その場の印象的な決め台詞だけだし。それさえも、語る役者が決まってるから、最後にはなにか考え付く。たいていは計算通りに受けるしね。 反省点は嫉妬心。わたしが全部考えてEちゃんが語る。ウケル。Eちゃんがウケてるようにみえる。なんか悔しい。ゆえに余計な一言を突発で付け加えてしまったりする。大抵は蛇足。 煩悩の中で一番捨てきれないのは嫉妬ではないでしょうか。はふ〜。
そんなわけで、わたしが打ち合わせにかなり遅れて到着して、まだなにも決まってないと聞きまして、一瞬不機嫌、 「本当に考えてるのかなあ、楽してるんじゃないのかなあ」 と、さあさあアイデアを出してくれの要求にしばし黙り込みましたが、ムゥっとしつつも 当然メインはこれで、ベターなショー構成はこうでしょう、とスラスラ浮かんくるので、そうか、わたしは得意だけど、ほかのひとは不得意なんだな、とあらためて分かったのです。 そうして、アイデアを口に出してみると、そうか、それだ!それは考え付かなかった!と喜んで決まっていくので、 なんだかなあ、お人よしなのかなあ と思いつつ、まだまだ自分は必要なんだなあ、なんといってもこうして考えるのもやっぱり実は好きだなあ、なんて境界線が有耶無耶になっていくのを感じたのでした。
これがテレビ番組だったら、クレジットがはいるところなんだよね。 たまにはお手柄一人占めだ。こんなところで吠えてみます。
タブーショー 構成・演出・脚本:itch
つい、世間につられてケジメをつけたり、節目を数えたり、アニバーサリィ、なんて御託をならべてしまいます。 そりゃあ、プレゼントもらったり、知ってはいたけど行ったことのない店にいったり、精一杯サプライズな日になるようプランニングしたりは楽しい。 でもなんでもない日でもじつはできるわけで。 やっぱり、ひとつには言い訳、そして勢い、なにより自分だけが無駄遣いして貧乏になるわけではないという安心感。かな。GOサイン。信号あお、ってかんじ。
誕生日も新年もなんちゃら記念日もクリスマスもバレンタインデーもグルグルぐるぐる回っては過ぎていき次の日は普通の日。時間がたつのは早いけど、数えなければとっても長い。 ただ、記念日がないと、ロトくじを買うのに迷ういそうだね。
みんな勝手に時間の単位を自分流にはかったらもしかしたら面倒なことになるのかもしれないけど、どこかで帳尻はあうような気もします。 だって誰かが死んで、ふつうの時間の流れから抜け出しても、子供が生まれたり、時間単位がもとから違う生き物と暮らし始めても やがては折り込み済みになっていく。
たまたまクリスマスイブに大切なひとが永い眠りについたとしても、勝手にめぐってくるイブごとに、悲しさ寂しさを増幅されたりせずに、いつかやりたければクリスマスの名の元に笑ってほしい。 記念日の名に許された喜びと、自分だけのさよならのおもいでとは、まったく別の意味、別の時間の流れがたまたまその”日”という接点だけですれ違うだけだから。
わたしはひとを慰められない。カワイソウだと思ってもカワイソウ二と言えない。だから時間をおいてあいたいです。あれは助けてコールだったのかもしれないけれど、助けてはあげられない。聞いてあげるだけでいい、方式の助けさえできない。きっと聞けばわたしもひきづられる。それはたぶん二人ともに苦しいことです。 でも、この先連絡が途絶えても、いつかは12月にも笑っていると信じています。
一年の終わりが近づいて、なんとなく誰もが時間について考えたり口にだしたりしている。年・月・日・時・分 そんな単位は砂時計のような、残り時間を計るもののように思えて、すべてのものがその単位の中ではスタートが同じでもゴールが違う、そのゴール時のタイムが大きな意味を持つような、よく言われる冷酷で無慈悲なモノサシの中でみな生きているような世界観をついつい抱いてしまう。 自分もふと気づくと「しかたない」と、なににとはなく観念していたりする。
観念するのも好きだ。けど、そうでないのも好きだ。 だから、与えられた時間の不公平を観念しきれないときには別な時間の単位だってあることもたまには思い出すのです。 生まれてから死ぬまで、つまり一生。 この単位は誰もが0と1しかもっていない。
その中身というのはまた別の、時間とはちがう命題の話しになりまする。いろんなことがごちゃごちゃに感情として胸ににせまって来るときには、なるべく頭の中でひとつづつの持つ意味を分けてみます。何年かかっても。
年末らしく大掃除の話しでした。
すごく楽しみにしていた通販にて頼んだ靴。注文時に小さいサイズが在庫切れ。 なんと1ヶ月半近くまたされました。 先日やっとのことで 出荷いたしました! と連絡がきたのに、お歳暮シーズンのせいか、宅配のタイミングが悪く、玄関には帰るたびに、とうとう計4日分の不在伝票が。 夜の8時半とかにこないでください。25日の朝なら午前中なら絶対います! 飛脚もたいへんだ。 前日のイブの夜はメロメロに酔っ払いながらも、明日せっかく来てくれたのに眠ったままで、また不在と思われては困る、それはいかん、とあさ9時から一時間ごとに目覚ましのベルがなるように3個の時計をセット。 起こされたり眠ったり細切れの夢をみながら11時すぎやっと飛脚はやってきたのでした。
努力が実った!やっと手に入れた〜。長かったよう。 デザインはカタログでよしと思ったものにほぼ忠実。よしよし。
なのに、履いてみたらば ちょっと大きいの。 なぜ?冬は靴下をはくし、キツイ靴は痛くてはけないから、ジャストでいこう、と 22.5cmを頼んだのに。いくらなんでも22cmではないだろう、と思ったのに。 昔は自分の足のサイズは23.5cmと認識していたはずなのに。
縮んだの?昨夜は一人クリスマスで、一人ワインを1本あけて、むくんでいたはずなのに。このメーカーはゆったりサイズでつくっているの?世間のサイズがゆるやかになっているの? それともやっぱり、年取って ちぢんだの・・・?
わたしの一番は 絵を描けたらいいな です。 いや、描けるよ。でも誰でもレベル。頭の中にある情景・色を再現できない。 当然 かたち もね。 つまり、オリジナルを絵では表現できない、ってことです。 PCで遊ぶようになってから、PCはどちらかというと、文字表現より、パッと見で感じる画像表現の方が向いているなあ(モニターで文字を読むと疲れるし、紙の10倍斜め読みになるのはわたしだけ?)と思い、できるだけ、自分のサイトにのせるのはオリジナル画像だけにしよう、絵が描けないから自分で写真をとって、自分で加工しよう、と努めてきたのですが。 白状します。今回のクリスマスカードはヒトサマの写真をもとにしました。 よし、今年のクリスマスカードを作ろう!と思ったとき、そとの国にもだしたりするので、ジャパンで冬でおめでたい=☆富士山☆ とすぐ決まったのですが、描いてみたら 「なんだこれ・・・」 でした。 子供の頃からやたらと富士山とお日様の絵が好きだったのですが(年賀状によくあるようなやつ)幼稚園時代と同じレベルでした。そして参考にしようと、富士山サイトを巡り(すごくいっぱいあるぞ。定点観測写真とかすごい!)富士山に虹がかかっている写真を発見。虹がでているということは太陽が照っているわけでこれに雪がふっていたらもしかしたらトツクニの方にはわからないかもしれないけど、ジャパンでファンタジーな絵になるぞ、ちょっと右クリックそしていじくりいじくり、う〜ん元画像と似ても似つかない画像になったぞ、(C)が必要だろうか、知的所有権的には当然必要なんだろうが、別に売らないし、どこのページから攫ってきたのかわからなくなっちゃったし(ヒドイ!)その所有権とやらの商業主義による勝手な長期化とか腹立つし、いいやv、ということにしてしまったのです。 わたすはいいやvなのですが、万が一にも純真な方が itchは絵も描けるのか、なんて騙されちゃったりするのはさすがに気がひけるので、ここで白状します。
模倣・アレンジ・繰り返し、それでもどこかにどうしようもなく最後に手をいれたひとの色がにじみ出てしまう。音楽もいっしょね。 もちろん、始めにこの写真を撮った方のことは尊敬しておりますよ。その技術、情熱。 そして、当然わたしがいじったものにも所有権は主張しませんよ。
し・か・し。印税生活っていいな・・・と思ってしまう気持ちはまた別物なのね。
買ってよかった・・・ というお買い物ってあんがい少ないですね。 たいていは欲しい!という気持ち先行。このお買い物がわたしの生活を格段にレベルアップさせた、なんてのは。
最近、本当に買って良かったものは、ゴミ箱です。 よくある、蓋のついたボタンを押すとバカッと口をあけるやつ。 かつて、我が家にはゴミ箱は0でした。いわゆる籐の屑入れ(ほんとうはイグサ)が2つあるだけでした。小さいのがね。 そのため、屑入れはすぐいっぱいになり、蓋がないので、溢れる。夏場なまものはちゃんとポリ袋にいれてギュッと縛らないと、匂う。ことから、週のすべてのゴミ収集日を忘れず欠かさず、ゴミだしするということに神経をつかっていました。 そのため眠くても絶対今日ゴミださないと、と明け方まで無理やり起きていたりしました。 が、ゴミ箱をかったとたんに、そんなの週に1回でOK。 せいぜい、オフィスタイプの大きさのゴミ箱ですが、蓋っていい!すっきり。 屑入れは本来の、化粧前や、デスクの紙くず専用になり、いっぱいになったら、ゴミ箱へ。 980円で、生活改善。もっと早く買えばよかったんだけど、好みにあう、色形がなくて、プラスチック製品は壊れないので、へたすれば何十年もつかいそうなので、妥協できなかったのです。他人からは、購入品と見送り品の差がわからないかもしれないけど、頑固一徹。でも、選ぶって楽しいし、責任でもあるよね。 お金を使うのって社会を動かすから、ふだん意識しているわけではないけど、無言の一人不買運動とかしている時もある。
そういえば、マクダナルダやスタバックスが赤字で店舗次々撤退しているようですね。ざまあみろ、とはいわないが、あたりまえだ、とは言おう。 同じモノで世界を埋め尽くそうとしてもそうはいかないよ。 ひとに選択の自由・意思があるかぎり、拡張主義、埋め尽し作戦はいつか破綻する。 グローバリズムの変さに気づかなかったひと達にはわかりやすい例なんじゃない? 世界中すみずみまで、多国籍企業の看板がのさばってどの街にも1店舗、大きな街にはかどかどに。一瞬地元の個人企業の街のお店を壊滅させたようにみえたって、選択権のあるひとが何人かそしてだんだんと、もう十分だ、と思えば拡張はもうおしまい。新しいものに取って代わられないように、サービスを多様に繰り出したって、目先のこと。もう十分なのは、結局どこにいっても同じなその商品自体なんだから。選択肢のひとつとして、1店舗ぐらいはいよ、って、結局なめて食い物にしていた消費者とやらに告げられるんだよね。
拡張埋め尽し主義って結局は帝国主義でしょう。やがてすべて世界の人々がそこで買い、そこで働き(だって働き口がみんな潰されてないんだから)、人々はそこそこギリギリで暮らし利益は頂点に吸い上げられていく。でも、こんなに人口の多い日本でももう限界みたいよ。そりゃあ、アジアの人口と金で何十年かは、大丈夫かもしれないけどね。 帝国の元老たちは、自分と孫の代くらいまではせいぜい損得勘定はすんでいるつもりかもしれない。 でも、わかんない。それが世界だ。おもしろい。 そしてゴミ箱ひとつでも選ぶ権利を自分はもっている。おもしろい。
タイトルに意味ナシ。このことばが好きなのでつかいたかったのです。 あらあら、クリスマスですよ。母にケーキ丸いの買う?と聞かれましたよ。 ひとは大人になるともう一度子供にかえるというけれど・・・ はい、違います。 恋人達のラブクリスマスなんて、???2回しかやったことないや。しかも、なんか違うものでした。 セガサターン(時代がしのばれる)をもらった。そして、年末いっぱい二人で飲まず食わず眠らずで、たまにピザをとってはえんえんとゲームをしていた。 別の回では、大掃除をして床の間に華をいけて、(純和風の家だった)二人で着物をきて日本酒を飲みながら借りてきたビデオを流そうと再生ボタンを押したとたんにテープがからんで無理にひっぱりだしたら切れてビデオ屋に5000円くらい弁償させられ、おまえが触ると機械をみんな壊すといわれ(その前前日湯沸し機を壊した。点火しないので強く押したらなにかが折れた)悲しい気持ちになり、その後優しくされるほどむかっ腹をたて酔っ払って勝手にねた。
でも楽しいのはやっぱり友達同士でプレゼント交換したりのホームパーティーですね。それもなあ。 人生で楽しいことを考えるとき、いままで一緒に楽しいときを過ごしたひとがいないことを思い知らされるですね。 ずっと楽しく想像してきた仮想自分結婚式も付添娘がいないと思うと、もうやんなくてもいいや、と新ネタを考えられなくなりました。
が。でもたえず、新しい楽しいときを過ごすひとを開拓してはいるのですよ。そのまだ見ぬ人のために、毎年クリスマスかイブかどちらかの夜はあけておくのですが、結局ギリギリでいつも予定をいれてしまう。 さて、今年は非常に半端ではございますが イブは10:00pmから クリスマスは08:00pmからまだあけてあります。メールまってます。 誰かいませんか。いませんか〜。
どんなに頭がよくてもある範囲の外には鈍い認識しかもっていない人がいるものです。 率直にいってしまうと、頭がよくて自分の中にさまざまな問題意識を持っていて、経験も豊富で、なのにそんな殿方がほんとうに女性のことをしらない。 突然、びっくりするほど女性も男性と同じように、年齢や役割や個性とまったく関係なく個人的存在である、ということを無視したいいふるされた決り文句を口にしたりする。 愛しい女の子とまぶしいお嬢さんと人妻と変人(しばしば=いかず後家)とおばさんと、それだけの区分で対応が5つしかない。婆さんは女でないのかもね。
闘争的フェミニストではないので、それなりに期待通りの受け答えをしてあげたりするけれど、甘やかしすぎかしら。
あんた馬鹿じゃないの? ってたまに言いたくなります。 商品としての女ってのもあるか。でもそれらへの対応もだいたい上の5つかな。
なにが、って家業が。 今日は深夜0時まで 父(社長)・弟(専務)・わたし(経理部長)で、ひたすら納期のせまった簪を作っておりました。まだ、あと4工程おわってない。 引退した母(役員)は仲間はずれがいやなものだから、やたらお茶を入れに工場へやってきます。 あんまり、大分、ないんだろうな、こういう家族って。 自分はこういうものを作って売っての仕事でご飯たべて学校いかせてもらったからなんとも思わないけど。その手間と時間とひきかえのお金をひとに話したら、馬鹿らしいといわれるかなあ。
面白いんだけどね。つねに考えて手を動かしているし、先の予定は全部自分たちで組み立てる。人生の浮き沈みが乗った舟の大きさと関係ないと考えれば、勤めてたって自営だって、何十年後の幸せの保証なんか誰にもないし。
遊んで暮らすのが一番です、という哲学からしたら職人さんや農家は、なんの為に生きてるの? 労働の奴隷?と言われてしまうのかしら。 でも自営業やたぶん独立農家は誰からも仕事を強制されてないし、人に頭を下げるときは自分のなかにその理由があるときであって、誰かやなにかの代理に頭を下げたりしない。仕事の中に、ノルマ以外の余計な事 楽しみを勝手につけくわえても誰にもなんにも 「そんなこと無駄だ」 「コストと利益を考えろ」 とは言われない。だって自分で計算するもんね。
まあ、幸い一族のものはみんな、凝り性で、工作好きで、完全主義的なところがあり、そういう性癖をいかせるというか、それがないと続かない職であり、なぜか誰からもあんまり、そういうのって今時馬鹿らしくない?という一言がなかったが為に、いまだに職人さんが帰ったあと、一家総出で夜食たべたべ 金属加工していたりするのです。 わたしも以前デザインしたものが通販カタログに掲載されて、どこにも企画製造者の名前なんかなかったけど、うれしかったよ。しばらくその本をとっておいた。けど、あんまり過去の作品に重きをおかないのが、ゲイジュツでなく商品をつくってる職人さんなのですね。 あんまり皆さん職人の仕事ってしらないかな、と思って家業をVivaしてしまいましたが、眠い。
どうやっても一番しか思い出せません。
♪ 小鳥はとっても唄がすき かあさん呼ぶのも唄で呼ぶ ぴぴぴぴぴ ちちちちち ぴちくりぴ
ちちちのくだりがアヤシイ。
なんだかいろいろ考えすぎるとこの唄をうたいます。 表現なんてぴちくりぴのまえでは吹けばとぶよな防壁だあよ。
前の冬は、毎日おでんをうちで煮ていた。大根・厚揚・卵・じゃがいも・トマト。 そうだった、そうだった。毎日 大根の皮をむいてじゃがいも剥いて卵を一度茹でて、考えるとマメにやってたなあ。
なぜかこの冬はその気にならない。そのかわり、毎日 豆餅を食べている。 豆嫌いなら全部ほじるであろうほどでかい大豆入り。いや、ってほど入っていますvこれを醤油で付焼きにして、付けは2回。少し目を離すと焦げて苦くなってしまうので、タイミングが難しい。けど、オーブンで焼いているから料理ではないですね。うまいよお。一応一回で2個というルールを課してあるんだけど、調子にのって三食これ、計一日6個という日もあります。
秋の終わりには、この冬は雑炊でいこう、と決めていたのですが、スーパーでこの豆餅にであってしまい、お米粒はとんと噛み噛みしてまへん。 ただ、単独で美味しいので、課題の野菜を簡単にいっぱい食べようが成り立たず、ふと不安になってファイバー入り水を買って飲んでみたり。 繊維なんかみえないけどなあ、本当に入ってんのかなあ。
もう一つのブーム。ポッカレモン。風邪予防のため購入した生姜湯エキスがあまりにもまずかったので、普通にレモンと蜂蜜湯にしよう、しかし残った生姜湯がもったいない(たしかにすごく温まるのです。まずいけど)ので、ここにレモンをうんと足して酸っぱくしよう。そうだ、生姜湯じたいに薬効があるんだからレモンは本物でなくてもいいや。握力ないから絞るの大変だし。こういう時にはポッカレモン。そうそう腐らないしね〜。 子供の頃は口がまがるほどすっぱかった記憶がありましたが、やはり舌も刺激に鍛えられるのですね。アスコルビン酸原粉末にくらべたらなんてこともない。
以来コークハイ・焼酎お湯割・普通にミネラルウォーターや紅茶。なんにでも入れています。難をいえばなにに入れても基本はそう、ハイサワーっぽいことかな。
日本は酔っ払いに甘い国だそうですが、やっぱりホームに色んなものを撒き散らしてしまうのは、顰蹙ものですよね。でも自分も数々の失敗があるのでつい、 あ〜あ〜あ〜あ〜・・・ 見なかったことにしてあげよう、と許してしまいがちかも。 そうだなあ。数日まえにも、千代田線のホームで、わたしの前を金髪ヒール靴カツカツ颯爽目線遠く前方の異国のお姉さんが歩いていて、わたしはかなり離れたところからその先に飲み屋のおみやげがブチ撒かれているのがわかっていたのですが、彼女は足元を見ていないので、思い切りカツっとど真ん中に足を踏み入れてしまい、思い切りこけてしまったのです。しかし、彼女は素晴らしい運動神経の持ち主みたいで、とっさに体制を変え、というか跳んだんだよね。少しだけ、裾と手をついただけですみました。が。 うわあ、カワイソウ、黒い高そうなロングコートと、手。少しだけどゲロついてる。いや、でも普通人ならあのままど真ん中に尻からつかってるな。なにしろ盛大な、お土産やだもんな、しかしあのジャンプすごかったな、と思いながらわたしは(こんなに怒ってる異国人を生で見るの初めてだ。それも当然か)と失礼な感想も抱きつつ、余裕で迂回。 ”Are you O.K ? ” とか聞いたら余計に怒りそうだ。ブツブツ怒ってるのはやっぱりFuckとか言ってるのだろうか、しかし英語圏のひとじゃなさそうだし、災難でしたさようなら、と追い抜いていったのでした。 ごめんね、日本の酔っ払いって駄目人間ばっかりで。 しかし君これからは足元見たほうがいいよ。
今日地下鉄のホームで水の音がきこえたので振り向くと、働き盛りの30代くんが放尿していました。ホームから線路へ、ではなくてホームへ。 長い長い途切れる事のない水音でした。アルコール大量摂取後の特徴です。 なぜ、漏れそうで、我慢できなかったなら、線路にしないのか?ズボンの裾ははねかえったものでビショビショでしょうに。 線路にしていて電車がきてしまってはまずいと思ったのか。 ホームの端までも我慢できなかったのか。堂々どまんなかでした。 わたしは夢の国でずにらんどから帰るところでした。
いやいや、ひとのことよりも来週の忘年会3連ちゃんに弱い肝臓がたえられるだろうか?師走な悩み。
未明にゴミをだそうと、(この近所ではやむなし、というルールになっている)ドアをあけたら雪でした。起きる頃にはやんでいるだろう、と思っていたらまだ降っていました。 今も。
そんなわけで、顔もあらわず、寒いから、と羽織ったセーターも裏返しで、気づいていながら直しもせず、今晩出かけるかどうか迷いながらPCでゲームをしています。 そうだ、傘がない。みんな貸し出していたのだった。コンビニに行こうか、と思うたが財布にお金がはいっていない。銀行・・・ そんなわけで、もちを焼いてコーヒーを入れました。そのあいだに顔もあらいました。寒いので例外措置として、台所の電気ストーブもつけました。郵便屋さんが喪中ハガキを配達しにきました。
明日はライブですが、昨日のうちに打ち合わせをしてしまったので、今日は一日ポッカリあいています。雪は今日中にやむでしょうが、明日も足元は悪いでしょう。 裾が濡れるくらいなんだ!と他人には申しますが、実際気持ち悪いものです。 それでも、家にじっと 巣篭もりのようにおとなしくしているのは、一日で十分です。だから、明日は諸人こぞりて、渋谷にくりだしましょう。
信じていなくてもものは言える。
夏は夏で、湿気に弱い、湿度が高いとダルイ・頭が重い・シオシオ 等愚痴っていますが、冬は冬で乾燥がだめ・喉にワルイ・風邪が怖い 等日々グチグチです。
どちらかというと、冬のほうがあぶない。実際風邪をひくと1ヶ月は声がもどらないので、毎月なんだかんだと人前で歌う機会があるわけで、1年中風邪はひいてはいかんのです。 何度も書いたような気もするけど、思う声がでないヴォーカリストはもう惨めの一言。なんのためにそこにいるのかわからんです。テキトウに平均値くらいに誤魔化すテクもしらないわけではないけど、心寒いものです。 そんなわけで、夏はドライで湿気くんを極力部屋から排除しているのに、冬はやかんにがんがんお湯をわかして、部屋中湯気でみたします。その為に、ファンヒーターではなくて、懐かしのガスストーブをなんでも中古屋で手に入れました。 もう、窓ガラスも漆喰壁も金魚鉢もビジョビジョの水滴だらけ。カーテンからたんすの中身から着用中の服までも、しっとりしています。
しかし、呼吸は楽だ。静電気もおきません。でもちょっとイヤなのは、布団も心なし湿気っていることかな。
日記ではバンドやライブの宣伝は今までしていませんでしたが、そうしょっちゅうやるライブでもないし、お客さまの人数はノリを左右しまする大事な要素でありますので、あと3日ですが、宣伝しまっす。
★12/10(火曜)渋谷クロコダイル タブーショー Live★
詳しくは我HP(右下からgo)の最新情報またはらてん道を見てね。
心の底からビンゴ好きです。 ビンゴをやるらしい、と聞けば気の進まない忘年会にも顔をだします。 賞品がなんであろうとかまわない。 今までもらった一番上位の賞品は、国産綿の(そういうウリだった)パジャマ。 たしかに素晴らしい肌触りのコットンでした。 次が、学生時代バイト先の打ち上げ(たしかお歳暮シーズンのライオンデパート。300人くらいでやったビンゴはやりがいがありました)で当てた、KENZ0のタオル。すばらしくフカフカでした。 どうも綿製品に引きがあるみたいです。そういえば、生まれて初めて当たった懸賞もハンカチだった。
とにかく賞品は問題ではないのです。もちろん始めからキャンペーンの残り物のような、メモ帳とかボールペンとかウチワとか油取り紙とか、しかも1等はそれらの詰め合わせなんてのは問題外ですが、たとえ1等プラズマテレビがすでに他のひとの手に渡っていたとしても、わたしの気持ちは冷めない。はやく次のガラガラをまわしてくれ!早く!早く次の数字を読み上げてくれい!
あのビンゴ用紙のマジックだと思います。プチっとアケタイ。駄菓子やのくじ引きへの興奮と緊張がよみがえるかのようです。リーチがかかるのがまた憎い。ダブル・トリプルリーチで、結局ビンゴらなかった時のシオシオとした気持ちよ。
アメリカの田舎町の娯楽で、毎週決まった曜日に、公民館や集会所でビンゴがあるらしく、ビンゴ紙を1枚1ドルとかで買って(もちろん本気のひとは何枚も買う)1等から順に宝くじのように賞金をだす、非公営・共同体運営のギャンブルがあるらしいです。ひまな引退者らの娯楽らしいけど、日本にあったらわたしはきっと毎週なんとかしていくでしょう。毎週その日を待ち暮らしてあっという間に月日は飛ぶようにすぎてしまうかもしれません。いっそなくてよかった。 当然ネット上で参加できるビンゴは毎日参加しております。もう個人情報もれもれだろうが知ったことか。
京△東北線上に、宴会場でビンゴをやる(たぶん当局に内緒で1枚100円で売っている)サウナがありまして、1等がサウナ入場券の回数券という魅力は薄いビンゴでしたが、結構な人数飲み物があたったりして(おそらくこれはお客さんに提供する娯楽で儲けはないよ、というデモ)1時間以上かかるビンゴでやりがいがありましたが、今もやっているのかなあ。 これ大事。すぐ上位の賞だけきまってはい終わり、というのは駄目ビンゴ。
道路工事はムカつきますが、新しく敷いたアスファルトは最高に気持ちいいですね、走っていて。原付というのは道路の凸凹がダイレクトにお尻をアタックするので、歯もガタガタなるし、ましてや、路肩の陥没などは、生死にかかわるます。 オニュウアスファルト最高。滑るように走るとはこのことです。 このぶんではレース場の路面などさぞや!
あ〜あ、免許証。次回の更新ではゴールドだぞ。宝の持ち腐れだ。誰かに30万で売ってもいいよ。分不相応でした。原付免許で十分でした。 若気のいたりで魔が差したんだ。いや、差されたんだ。 わたしは別に自動車免許なんていらなかったんだもん。ただ、母が・・・ ある日 知人に 自分の娘が免許証をとって新車を買って、ちょくちょく乗せてもらっているが、これがナカナカ取りたてとは思えない程、運転がうまい! と自慢されて、知人というひともたいがいお馬鹿さんですが、うちの母上は輪をかけて大馬鹿三太郎なので、本気でくやしがり、お金をだしてあげるからおまえ(わたし)もすぐ免許をとりなさい、いや取れ!ふーふー と鼻息荒くのたまったのですよ。 だしてくれるならいいかなあ、なんて思っちゃったの。 大変だったよ。第1段階ひとの倍やったよ。 運動神経は悪くないんだよ。(三太郎の娘的いいわけ)ただ、なにかを操作するのが苦手なの。スポーツも道具を使う競技とかだめなのよ。
いや 正直に言うよ。車を運転するの怖いんだよ。思い出せる限り小さな頃から、泣きながら飛び起きる悪夢堂々ナンバー1は、 断崖絶壁にへばりついた、S字カーブの連続の山道をものすごいスピードで車を運転している。(追われているとか間に合わないとか、理由はわからないがやむにやまれぬ気持ち)ハンドルにへばりついて必死でカーブを右に左にかわしていく。やがて自分は車の運転なんかできないことに気付く。車の止めかたがわからない。(少し大きくなった頃は、ブレーキをいくら踏んでもきかない、に変わった)どんどんスピードは上がりどんどんカーブの間隔が短くなり、スレスレでかわしながらも、もう今度こそ駄目だ、次のカーブこそ曲がりきれない。崖に落ちるのではなく、きっと激突する。 という夢でした。 目が覚めて布団のなかで泣きながら、きっとわたしは自動車事故で死ぬんだろう、夢は自分の死因を警告しているのだ、大人になっても決して運転はしまいぞ、と心に誓っていたのでした。
今でも、やっぱり自分には制御できないのではないか、というビビッた気持ちがあるのです。まえに環七の真中車線で、エンストで急に停まったときは怖かったなあ。でも乗せてものは怖くないよ。自分の運転技術や冷静さが信用できない。
運転が嫌いな(へたな)理由は、注意力散漫で気が散りやすいせいだ、と教習所の性格診断は告げていたけどね。
いつも朗らかである、という評価をいただき、うれしく思いつつ考えましたこと。 朗らか ということばの響きが好きであります。西洋のいいまわしに、機嫌のよい子供のように○○、という形容がよくでてきますが、朗らかということばを聞くとピンクの頬をした赤ちゃんが思い浮かびます。この国のお姫様なんかまさにそうですね。 なんで、朗らかなのか、ときかれても、あんまりイヤなことがない、としか答えようがないのですが、結局外の世界に興味がない、なにより他人の話しをちゃんと聞いてないんでしょう、と酔ってからまれたりもしますので、案外そうなんだろうと思っています。
それから、頭ではこの世には辛いこと怖いこと苦しいことがいっぱいある、と分かっていても、どこか心の奥で、世界がそんな残酷なはずはない、楽しいこと嬉しいこと綺麗なことも同じくらいあるはずだ、と信じているのです。 でもその確信は、まさかこのわたしに世界が背を向けるはずがない、という誰もがもっている思いこみと同じモノではないかと、希望の裏返しは浅ましさではないのかとの疑いはあります。 なぜ、世界にはこんなに人がいるのによりによってわたし(の)なんだ! というのは覚えのある感情です。 そこから世界とその構成員を恨まなかったのは まわりに比べてどんなに早かろうとも死と別れは始めから誰もに約束された、いってみれば平等な世界からの答えだからだろうと思います。
子供の死も悲惨な死も、かわいそうである、なんてひどいのだ、とは感じても、真実なんて怖い、こんなものは見たくないと思うのは、苦痛の中に生きている人をみる時です。とくに子供です。自分で選ぶことなく、虐待や貧困や放置や辱めや不信や憎悪やらの苦痛の中にいる子供をみるのは辛いことです。 それが世界からの答えであるとしたら、なんのために、苦しむために生まれてきたのかと思うのは、自分はただ運よく恐ろしい罰から免れているだけなのではないか、いつかはわたしも自ら逃れられない苦痛の手に絡めとられてしまうのではないか、という怯えです。
でも、怯えて疑ってはいても、まだ信じてはいない。なぜなら信じたくないから。 お札のように笑顔をうかべ楽しいことを探し、信じないぞ!と自分にはっぱをかける。それがわたしの朗らかの源かもしれない、と言ったらイヤ〜な気持ちになりますか。 いつも裏返してばかりで疑い深くてすんません。 ほめていただいたのに、なぜかとんだことになってしまった。
2002年12月02日(月) |
teenege night |
アホといわれてもいい。 一晩中 Radio Ga Ga を聴いてないてしまった。 もう朝だ。
Someone still love you
love you
|