今日おわりました。 短い夏でした。
あと3時間ほどで、空港にいくのですが、なんだかやっと荷造りが終わったら、一杯飲みたくなってしまった。まずい。
飲み始めてしまいました。 冷蔵庫には、ひからびたハム(ハムサンドブームのなごり) ゼリー 例によってゴロゴロ まずいかんじに皺のよったトマト が入っているのですが、もういいや。面倒くさい。
20日ほど留守にします。
今回の旅のテーマソングは ”たそがれマイラブ(大橋純子)”
もしくは ”Go west!(ドリフの西遊記のテーマ)”
ニンニキニキニキ ニンニキニキニキ・・・
2003年08月30日(土) |
とてもとても個人的なこと |
コンポのCDプレーヤーが壊れてしまったので、CDラジカセで聴いたらまるで別な音ですね。 みんなそれぞれのハードで、違う音を再生して、でもそれが自分にとってのその曲なんですね。
ぎりぎりまで荷物はつめない。つめたらすぐ出発したい。 それで、PCページワンをやったりして目をそらしてきたのですが、そろそろ始めないとやばいかんじ。 財布と文庫本だけもってブラッと出かけたいな。 旅行が好きなのは、旅行中は一人で寂しくてあたりまえだからみたい。 生活の中で、友達がいて家族がいて、それでも寂しくてたまらないような時、旅行に行きたいな、と思います。
それでもまだ荷物つくりがイヤなので、つい自分のCDを聞き始めてしまったら、リピートがとまらない。 いろんな思い出さないようにしているようなことや、忘れたつもりでいたことの断片が浮かんできて、滂沱の涙。こんなことしている場合じゃないんだけど。 それで、やっぱり今までに、もういっそ死んでしまいたい と思ったことはナイな、と確信しました。 全部もうオッケーだ。 音楽ってほんとうにほんとうに、不思議なくらい 聴いて歌って思い出して再生して 分かち合っているようで、最後には自分だけの時間なのだなあ。
夏といえば失踪。失踪といえば夏。 事件です。
ある日ふと気付くと、いなくなっていたのです。 前日までは確かにいた。間違いなく三匹いた。 なのにどんなに目をこらしても水槽の中、メダカは二匹しかいないのです。
死んだのだ・・・と思い、水が汚れるので早めにひきあげて例によって冷凍葬にしよう、と探したが死体がない。 水草・マリモを引き上げて砂利をさらってみましたがどこにもない。
??? ! キサマ食べたな〜 と、とっさに金魚のゴボチャンを疑いました。しかし、彼は金魚。フナの末裔。雑食のオタマならいざしらず、いくら大食いでも生餌や死体を食べるわけもありません。彼はいつものごとくゴボゴボと、餓えた子供のように原料マッシュポテトの金魚の餌に喰らいついていました。
次に疑ったのは自分です。昨夜、水槽の水を半分とりかえた。その時に水と一緒に流してしまったのではないか。 しかし、作業中も流出の危険を意識し、かなり慎重に彼らから目を離さなかったし、作業後にはたしかにメダカは三匹いた。 だが、うちの水槽は丸いので、ガラスに映った影こみで、三匹と数えた可能性もある。だいたい自分の慎重なんてたかがしれている。 この線が濃厚なんだけど、それでも昨夜三匹いた、と思うんだよね。
もう一つの推理は、自分で跳びだした。水槽のふちギリギリまで水をはってあったし、わたしの寝ている間に落ちたらこの暑さ。あっというまにひからびて、どこか畳の隙間にでも挟まっているのかも。 でも、跳び出すかしら。メダカが・・・
とにかく、朝 気が付いたらいなかった。まさに蒸発したかのように消え失せたのです。皆さん同様、わたしも自分犯人説が一押しですが、わたしは昨晩たしかに彼の姿を見ているのです。でなければ一番にゴボチャンを疑ったりしません。
不思議でなりません。
常々、できるだけ小さく を良しとして生きているのですが、なにかのきっかけで もっと!なにがなんでも! という気持ちに陥るときもありますよ。
きっかけはメダカだったのです。お気に入りの花屋さんに、小さなプラスチックの容器に水草(数種類あって選べる)とメダカを3匹いれたセットが380円で売られていて、夏の涼しげなインテリアにどうぞ、ってことかなあ、しかし花屋で生き物を売るなよ、売れ残ったら流しに捨てるのかしら・・・ と苦々しく思いつつ、それでもその小さくパッケージされた世界に魅せられて毎日ながめていたのです。 で、気付いたら残り2個だったのです。 これはやばい、と切羽詰ったように買ってしまったのです。 うちには金魚のゴボチャンがいるのに。せっかくブリブリと元気なのに。メダカが皮膚病の原因になるバクテリアを持っているかもしれないのに。 が、こういうのは理屈じゃないんだ。だって買って帰ってこのセットをゴボチャンの水槽に入れたらものすごく嬉しかったんだもん。
それからその花屋には、睡蓮の鉢植えも売っていて 小さな洗面器くらいの器の水と泥に浮かぶ薄紫のそれがとてもとても欲しいのです。 さすがに来週末から旅行にいくこともあって我慢しているのですが(なんといっても380円の10倍近くするしね)今日みたら、薄黄色のものも入荷していていてもたってもいられないくらい欲しいのです。
睡蓮の浮かぶ火鉢くらいの器に、ゴボチャンとメダカたちを泳がせたいのです。 ほんとのこというと、小さい池が欲しいのです。睡蓮とゴボチャンとメダカと雨蛙と黒い出目金を飼いたいのです。池のまわりには露草も茂らせたいのです。その茂みにはコオロギも鳴いていて欲しいのです。それらを眺める縁側も欲しい。階段は好きでないから平屋の一軒家がいいのです。
と、油断しているまに たちまちメダカから一軒家へと欲望は広がってしまったのでした。 恐ろしい。 もっと、できれば、ほんとのこと言えばどうしても欲しい。 常々 ひとが幸せに暮らせないのは この気持ちに捕らわれてしまうからではないかと思っておりましたが、でもね 欲を満たすのって楽しいんだよ。
しばらく気持ちがこの路線にあるみたいです。 そんなわけで、旅行は、 もっと南へ! がテーマとなりました。 その先へ行くことをおっくうがらずに、進むよ。
それ以外はですねえ、言いにくいんですが いまのところ、この後におよんで、計画ゼロ。 洪水の土砂でキレイでないかもしれないバルセロナは最後の方にまわそうか、くらいです。観光客って勝手よね。 とにかく、ヨーロッパ最南端まで突進するのだ。
ある日、ラーメン屋さんで大好物のタンメンを食べていました。 安いわりにうまい。やはり、タンメンには大量の味の素は必須だ、と考えながらふと見ると隣の席の母子も二人ともタンメンを食べていました。 なにとなく話を聞いていると、彼女は学生で、アパート(ワンルーム)に一人暮しをしているらしい。引越しを考えている。というのも、彼と暮らしたいから。
ふーむ同棲か。再来年に国家試験を控えた2年生らしい。来年は勉強でそれどころ(引越しか?結婚か?)じゃないらしい。気持ちはわかる。一緒にくらしたいんだよね〜。
が、母は初耳だったらしいのだ! ズルズル。タンメンを啜りながらも母のものすごい動揺が伝わってくる。 「お父さんに聞いて見なくちゃ・・・ズルズル。」 「うん。今日自分で言うよ。ズルズル。」 「アパート更新なの?ズル・・・」 「ううん。ただ、今のままじゃ狭くて・・ズル。」 「お父さん、きっと怒るよ。」 「うん。たぶんね。」 ズルズル・・・ 「お母さんはどうなの?」 「わたしは、反対はしないけど・・・」 ズルズル・・・ 「でも、あちらにも話をしていい方向にいけたらいいと思うのよ。」 ?ズル 「あっちはもう知っているから。」 「そうなの?ズル。な んて話してるの?」 「別に。ほとんどもう今もあの部屋にいるし。でも狭いから勉強できないでしょ。だから。ズルル。」 !!! 「・・・そうなの。」 ・・・ズル・・・ 「でも急がなくてもいいんじゃないの?」 「それは反対ってこと?」 「反対じゃないのよ。貴方たちことだもの。ただ、もうそんなに一緒にいるんだったらなにかケジメをつけるとか。」 「結婚ってことでしょ。それは考えているけど今はまだそういう時期じゃないもの。その前の過程としてまずキチンと一緒に暮らしてみようとしているの。」 ・・・ズルズル・・・ 「お父さんは怒ると思うの。」 「それならそれで、次の機会を待つよ。」 ズズ〜 「そんなにしっかり考えているんだったらもう少し待ってみてもいいんじゃないかしら・・・」 「もう、お母さんなにが言いたいのかさっぱり分からないよ。つまり反対ってこと?」 「反対じゃないのよ。ただ一番いい方向にいけたらいいと思うのよ。」
ズルズル〜 いやわかりますよ。娘さんもわかっています。お母さんは、 「籍をいれてからにして。同棲なんてみっともないからやめて。」 と言いたいのです。 娘さんも隣で聞いているわたしも、 だからお父さんを隠れ蓑にしないで、自分はなにが一番いい方向だと思うのか言ってよ! とイライラしているのです。 ま、省略した娘さんの甘ちょろい過程論もお笑いだったので、一方的に母を責めませんが。いままさに蜜月でただもう男と一緒に暮らしたいだけだろうが。 その後わたしは電話で飲みにいく約束ができてすぐ席を立ったのでその後の母子の話がどう進展したのかは知りませんが、ずっとうつむいて互いの顔も見ずにタンメンをズルズル啜っていたのがじつにこの実りのない会話にお似合いでした。
わたくしの母ならば大騒ぎ。娘さんや、年をとると 「同棲!?万歳〜 」 と言ってもらえるようになるよ。
将来なにになりたいか、というとですねえ、
はあ? もういろいろと取り返しのつかないところまで来ているのに馬鹿いうな!
と言うなかれ。
たぶん望めば簡単になれるはず。それは 立ち食いそば のおばちゃんだ。
今日は蒸し暑かったっすよね。こんな日はあえて熱い天ぷらそばでも食べて無駄に汗でもながしましょう、そうしましょう、とJRの駅まで出かけました。 望みどうり汗だくになり、ズルズル天ぷらそばを食べながらわたしは狭い厨房の中のおばちゃんの立ち居振舞いに見惚れたのです。 「そばね」チケットを受け取るや網にそばを入れてお湯につけてどんぶり用意して合間に他のひとのどんぶりを引いて冷したぬきうどんの準備して、お湯をチャッチャしてどんぶりにあけてオツユをひしゃくですくってかけて天ぷらのっけてネギのせて「はい天ぷらそば」ついでにどんぶり引いて残った汁を捨ててお稲荷さんを補充して肉そばの具のタッパーを冷蔵庫からだして・・・・ みごとだわ。 一坪のうっとりするほど完璧な世界。
もともとたくさんの工程を同時進行させる、ということに夢中になる傾向があるので(だから大勢のバンドが好き)、しかもおばちゃんのその一坪世界を完璧に支配している様に「オレも支配してえ・・・」とムラムラと いつかやってやる! という熱い野望がわきあがってくるのを感じたのであった。
少し前、どうしても子供の頃からやってみたかった 生ジュース屋さん の夢をかなえるべくワザワザ短期バイトに応募したことがあります。 フルーツショップの経営する本格生ジューススタンドだったので、客足を見ながら8種類くらいのフルーツを切って牛乳や氷や砂糖をぶち込んだジューサーを自分一人で支配してご満悦でした。 が、あまりに拘束時間が長く、また生ジュース作りは単調なお仕事なのですぐ飽きてしまい立ち仕事の辛さもあって、本当に一週間の短期バイトでよかったなあ。
しかし、ちゃんと夢はかなうのだ。 いつかはわたしも長靴と三角巾。
2003年08月17日(日) |
むしろ はゴザとは違う |
以前、殿方に女のひとは、28〜34歳くらいが一番きれいだと思う、と言われ、そうかもな、と思っていたのですが、昨日ひさしぶりにあった友人を見て、そうかもしれぬ、とやや確信をもって頷いてしまいました。 むろん例外もある。 が、わたくしとて、花の十代を過ごしたことがあるわけで、世に我が物顔でかっぽしているティーンズのどんなに身体の線がきれいでもお肌がぷりぷりでも、断言いたします。 十代の女は美しくない。むしろ美しくない。 というか、あれはカエルの絶妙な愛らしさとは全く別のオタマジャクシの可愛らしさなのですね。ええと、わかってくれる? そして二十五歳前後の女は危ういところにいるのだ。この時期にやがて美しい女になるか美しくない女みたいな生き物になるか決まるように思うのです。 なにが分けるのかはわからんのです。男だったり仕事だったり家族だったり頭の中身だったりするのでしょうが、わたしは 自分や周りを客観視できる内なる目 ではないかと考えているです。これがあれば、たとえ子供を産んで少々お肉がついてもそののちも美しい女として在れるのではないだろうかと。 まあ、女みたいな生き物も自足して幸せそうなのもいないことはないので、本人はどっちが幸せかはわかりませんが。周りとしてはキレイな女の人といる方がいいな、と。
むろん、女性の美のお好みは皆様それぞれ 萌〜なところはいろいろと、わたくしなぞが思いもよらぬところにまで及ぶのでしょうが、まあまあ、一度ご再考あれ。
昨日は我ながら快進撃で、一日三つのご用時を片付けましたが、反省点はどれも中途半端だったのでは、ということです。 全部その次の用事が気になって後半は気もそぞろ。そうなるとあまりにも分かりやすいわたくしは、後半頷いてるだけで、全然話しを聴いていない状態になるのでした。で、次のひとに会っても同じように後半はそぞろぞろ。最後の3つめは落ち着けばいいのに、さすがに疲れた&一日中外にいたのでおうちに帰りたい気持ち で、ボーっとしてしまいました。 どれも用事というより友達・仲間 の自ら望んでのお付き合いなので、後悔が残る。じっくり長っ尻タイプなので、会った飲んだしゃべった じゃあねー が肌に合わないのです。次の用事との間に時間をあけても、一度落ち着いてしまうともう輿を(いままで腰だと思ってたけどこっちかしら?)上げたくない。 二股や三股関係など面倒くさくてできないわ。 やっぱりタイムリミットのあるお付き合いは好きじゃない。終電は守ろうと思っていますけれども。 そしてサイテーなことに昨日一日いろんなところでいろんな人といろんなお話をしたのに、一日で一番楽しかったのはやっとうちに帰って布団の中で昼間買った本を読んでいる時でした。
ああ、また自分で暴露してしまった。みんな日記を読んでいるんだもんな。 まあいいや。最近日記のことでいくつか質問されましたが、
その1 一度は読みなおして見つけた誤字脱字我ながらへんな文は直しますが、以降は書きなおしや書き足しはしまへん。一部大好評だったそして自分でも最近の日記では一番のお気に入りのゼリーの話なんかはだいたい15分、シリーズものは30分くらいで書きます。 でなきゃ毎日書けないよ。
その2 全部ほんとうにあったことです。事実にあとからたっぷりの主観を重ねて書いているのでお話チックにみえる回もあるだけです。ただ書いている時間がマチマチなので、辻褄あわせが面倒な日時についてはいいかげんです。数日前も数年前もごっちゃだったりします。
その3 あの平仮名だけの気持ち悪い日記はなんだ、と言われてもああなってしまったというだけです。展開や〆を考えて書き始めるわけではないので、ぐちゃぐちゃな善悪論なんか書いているとなぜこんなことを?結論なんかないぞ、と焦ったりするのですが、いままで書いた時間がもったいないので、消さずにそのままポチっと放り出してしまっているというわけです。
書いている時は楽しいです。 ひとつ告白します。 わたし恥ずかしいおんななんです。 自分で書いていて面白い落ちがつけられたな、と思うと何度も読んで おもしろ〜い と喜んでいるんです。 ああ恥ずかしい。 むしろ蔑んでもらって結構です。
お気づきのとおり、”むしろ” が最近のお気に入りです。
2003年08月15日(金) |
停電で猛暑で祖国開放記念日で公人だったり私人だったり |
はふはふ、あと一週間で、夏休みだす。はふはふ。 昨日はお休みでしたが、 一度おきてご飯を食べて布団のなか と我がバンド”スマートさん”真のテーマ曲「にど寝のうた」(CD未収録)そのままの一日を過ごしてしまいました。16時間は眠ってしまった。起きていたのはたったの8時間。 なのに今日も眠い。明日も早い。もう寝ます。うまく眠れるかな。
こんな毎日、一日の終わりのお楽しみ、最近のわたしの心の友・ささえ は、 ちくわ です。
ちくわ 美味しいよ。一日3本。 とにかくちゃんと寝るために 寝酒は欠かさず準備する。お酒買わなくちゃ、とすでに強迫観念になっているかも。うそ、ちょっと大袈裟でした。 カッと飲んでドテッと寝る、ができない&胃弱なので、つまみがいる。 余裕のある日々はキャベジン飲み飲み、柿ピー(ピーはほとんど捨てる。だって最近の柿ピーはピーが多すぎるよ) が定番だったのですが、今のわたしにはアレはしょっぱすぎる。 で、ちくわ をようく噛み噛みして、魚のすり身の味とほんのりでもけっこうハッキリした塩っけを楽しむ。 笹かま も美味しいのですが、穴の空いた ちくわ を少しずつ歯でちぎっていく楽しさ。穴に舌をいれてみたりね。 そんな一人遊びさえ、大切な癒しの時間なのです。 ちくわは大抵4本入りですが、一晩で4本食べるとやはり胃に負担がかかります。正直2本がBEST。でも楽しいからつい1本余計に食べてしまう。 ちくわ は穴が命なので、わたしは穴にキュウリやチーズをつっこむのことには反対の立場を表明いたします。
懐かしい人々が、(わたしが)全然昔とかわらないねえ、と言ってくれすますが、わたしから言えば、みんなだって全然変わってないよ。太った痩せたは別としてね。面変わりしてしまうほどの人生の荒波・環境の激変にはみなさん出会っていないでしょ? ただ、昔は学生だったけど、いまは中堅の社会人だとか、昔は独りもんだったけど、今は子供二人養っている とか、自分の立っている場が変わったことと、その辺あんまり変わっていないわたしとを比べているだけだと思うのよ。 話しをすれば、中身は君たち昔と同じじゃん。 わたしに合わせているだけだとしても、いつだって戻れるってことじゃない? わたしが他の人より変化していないように見えるとしたらそれは、中学卒業以来、一度も服装や表情や立ち居振舞いを、周りにあわせる=ふさわしい格好をする ということをしなかっただけのことです。高校が私服の学校だったからね。 互いに相手のなにかを羨ましがっていても、互いに選択した結果を後悔してはいない。だから言葉の上での遊びだよ。 安定しているように見えても、なにものからも自由にみえても、どちらも同じように、わたしたちは手探りしながら明るくて暖かいところを探しているんじゃないかしら。
YES.わたしは自分のことばかり書いている。自分が好きであることは全く否定しませんが、ナルシズムだけでなく、自分がなにかを断定して書けるのは結局自分のことだけだから。他人のことや一般的な現象を書くと結局は、こう見えるけれどそうでないこともあるかもしれない・・・ と有耶無耶な文末を付け加えてしまうから。
2003年08月12日(火) |
それにしても牛乳屋さんは早過ぎると思いませんか |
眠い眠いよ。かあさん、ぼくもう疲れたよ。
最近ここ10年ぶりぐらいにまじめに働いておりますが、それでも2日働いて1日休んでのペースなので、普通に週5週6で働いている方には、ばかも〜ん!と怒られそうですが、でもこんなに疲れるのにはわけがあるのです。
それは寝てないからなのよ。なにをどうやっても早寝ができない。一日犠牲にして完徹で働き、その晩、倒れるように眠ってそれで早寝ペースに持ちこもうと何度も試みたのですが、頭もうろう、目は血走り状態なのに、やりたいこともやらねばならぬことも、 ”早くねる” 以外になにもないのに、一瞬気絶するように意識はなくなるけれど結局は午前4時まで起きている。 酒も飲んだ、メラトニンもやってみた。でもダメ。 3日に一度のお休みにまとめて12時間くらい死んだように眠るのですが、その夜はまた4時か5時にねて7時に起きているので、休みの日が終わるとまた朦朧クタクタ状態に逆もどりでございます。
自分は2時間しか寝ていない、と自覚するとますます力がでないので、もうずっと前からわたしは深夜1時をすぎたら時計は見ません。
最後に時計をみたのが、1時ちょっと過ぎだった。あれからずいぶん起きているけれども時計をみていないから正確にはいま何時かわからない。だからもしかするとまだ2時半かもしれない。2時半だとして、今すぐ眠れば明日はきっとまたものすごく眠いんだろうけど、実は5時間弱眠っているのだから人間の睡眠としては十分なはずだ。だから大丈夫なのだ。 というトリックを期待しているのです。
が、こんなにも、携帯をチェックしてもPCがついていても、決して時計表示を見ないようにして、時の流れる感覚なんて主観なのだ!、3時間ほど起きているように感じても実はまだ1時間半しかたっていないのかもしれないのだ!?、眠くても足りているのだ!!! と明日の自分のために必死で自己暗示をかけているのに、 ああ、新聞屋は無情なり。
今日もまた新聞屋のバイクの音がする。だめだ、これは少なくとももう、4時半にはなっているのだ。今眠っても3時間弱も眠れないのだ。しかもまだおれは寝巻きにも着替えてないし歯も磨いてないし、上海は自己最高得点更新中でこのゲーム、コンティニューできないのだ・・・ 絶望。
ゲームなんかやってないで布団に入れ、とそんな言葉は、布団に入れば即眠れる羨むべき選ばれた人間の言いぐさです。 布団に入って、眠いのに勝手に次から次へと浮かぶ思考(それもたいてい日記にもかけないような筋も結論もない感情や記憶の断片)に追いかけられて、それらと眠らなきゃ、という脅迫観念の果てに新聞屋のバイクの音を聞く。この苦しみ。
どうしてもっと柔軟な臨機応変な身体でないのかしら。この午前4時半から午後1時までが心身ともにBESTという睡眠パターンは時差にも打ち勝つ。
たんに運動不足なんじゃないの。
うふふ。
お願い、それは言わないで。
2003年08月11日(月) |
永遠の補欠 ゼリエース |
夜中に、お腹が減った 何かないか・・・ と冷蔵庫をあけると どういうわけか、ゼリーがゴロゴロ入っている。あとは飲み物。以上。 腹にたまるようなものがなにもない。 不思議だ。こんなにもゼリーをいつのまに溜め込んでいたのだろう? コーヒーゼリー 桃・いよかん・グレープフルーツ・ナタデココ・・・ 自分で買ったんだよね。 不思議だ。コーヒーゼリーは大好物だけれど、フルーツゼリーは好きではないはずなのに。コーヒーゼリーにしても、この二つはずいぶん長いこと冷蔵庫に住んでいるように思う。 他に食べるものもないのでしかたなく、いよかんゼリーを食べる。 やっぱりそんなに好きじゃない。ちっともなにかを食べた感がない。 また中にはいっている いよかん が酸味も甘味も中途半端で、繊維がかたくて、はっきりと美味しくない。
と、これが3日くらい前の夜の気持ちでした。不満だ と思いながら寝たのでした。なのに、今日買い物にでかけて、さあ食料を冷蔵庫にしまうぞ!とはじめたとたんに、買い物袋の中から、ゼリーがゴロゴロでてきたのす。 ぶどう・びわ・オレンジ・・・ 不思議だ。自分で買ったんだよね。
スーパーで、買い物をしていると、なにか食べ物を買っておかなくちゃ という思いでアレコレ手にとるんだけれど、具体的に今日の晩がこれで 明日の昼用はこれで、というのがないから、自然とすぐ次の食事で食べたいものの他は、絶対にないと困る飲み物類たくさん と まあ無難なべつにいま食べたくないけれどあっても腐ったりしない おやつにも食事にもなりそうな 激しく味のはっきりしたつまり「これは食べたくないんだよ」という気持ちがおこりそうにないもの、を籠にいれているみたいです。 で、後者の代表が ゼリー みたいなの。 そこにダイエットの気持ちはないのか? と問われれば あるかもしれない。たぶん夜中に食べても 後日後悔しないもの と無意識に選択しているのかもしれません。またたいして好きでもないから、帰宅してすぐ、次から次へと やめられない状態で食べてしまう危険 常備食料にならない そういう危険もない。
でも、やっぱりそんなに好きじゃないから、冷蔵庫を開けるたびに、 「ゼリーか・・・ ま、今回ははずれてもらおうかな。」 と毎回スルーされる。結果ずっと冷蔵庫のなかに居残っている。 買い物にいく。そのたびに、次のご飯と、飲み物とあとなにか常備食料をと、ヨーグルトとかゼリーを買ってくる。 夜中や、起き抜けに冷蔵庫をあける。 「おおヨーグルト君、君の出番だ。ゼリーは・・・まあ今回ははずれてもらおうか。」
夜中、冷蔵庫をあける。ゼリーしかない。しかたない。食べる。 「でもやっぱりあんまり好きじゃないなあ。」 という記憶が残る。 買い物にいく・・・ この繰り返し。
ゼリーよ、可愛そうだが、君は監督に気に入られてないんだ。 ゼリーよ、いっそ放出してやればいいのだろうが、変わりがみつかるまで、君は冷蔵庫の中で飼い殺されるサダメなのだ。 すまん。
2003年08月10日(日) |
本日のテーマは 運命 です |
というのは、今日まさに帰ろうとした途端、一日そうでもなかった風雨が、突如として荒れ狂い、傘のほねが折れるは、この夏に買ったサンダルの皮は浮いてくるは、全身じっとり濡れてじっくり電車の冷房で冷やされて洟は垂れてくるは、やっとのこと隠れ家に辿りつくと、なぜか早い流れの雲の間から夕焼けがみえているは、セミは鳴くはで、心底やるせなく、濡れた身体を乾かして もうまさにこんな時のために買っておいたかのような、20年前の少女マンガの文庫を積み上げ布団の中で熟読のあげく、ダーダーと涙を流したあとだからです。
わたしが世の中でもっとも憧れ、尊敬の念を抱くのは 物語作家 であります。 口からでまかせは得意でも、ついに物語りを紡ぐ才能はないのだ、と気付かされたことが人生最大の絶望でした。
数多の人間を緻密に、ときにいきあたりばったりに 誕生させ愛させ憎ませ別れさせ誕生させもつれさせ殺し許し、そして最後に そんな時もあったのだよ、とバッサリ幕をひく。 みながみな、自分の意思で動いているようで、ひいて眺めている読み手には、誰もがやがて大きな運命の渦にからめとられていくのが見える。 激しく感情移入した人物には心から幸せになって欲しいと、考えられるあらゆる選択を想定しながら読んでいるのに、あっさりと裏切られて そんな馬鹿な、と唖然とする間も無く悲劇の幕は閉じる。 もしくは、すれちがってもすれちがっても、ここぞという、もうこのタイミングでしかありえない瞬間に、想いは伝わる。
そう、物語はどんなに迷走しても すべては、あらかじめ決められた結末へといたる。 抗えない枠の中で、運命に打ち勝とうと、いやその手から逃れようと全身全霊でもがく人物は魅力的だ。登場人物たちは、その先の落とし穴に気付いてはいない。その先を見とおせる読み手には、そこが愛しい。 ああ、おまえ とうとう運命から逃れられなかったんだね、と紙面を撫でてやりたくなる。
なにかに背いたがために破滅したり、ひとと違うなにかを獲得したり、時の利にすべてを得たり失ったり。心の声に従っても逆らっても、そんな個人の思惑を超えたなにかがあるのだ、と信じさせる力。それが運命ならば従おう、と一瞬思わせられてしまう力を物語は持っている。
ひとには生まれてきた役割があるのだ、という前提なしに物語は語れないのかしら。 みなが、その時その時で思ったことをしゃべり、やりたいことをやっていると、面白いエピソードの集まりにはなるけれど、物語にはなりにくいなあ。 拾い読みできるようなのは物語ではないもんね。 自分は大きな物語のたばの細いひとすじの糸であると思うより、小さな一瞬のドラマの主役である、ってみんな思いたいもんね。わたしも・・・う〜ん。
それにしても、愛するものと信じるものが別である、という葛藤を抱く人物がいないと物語は盛り上がらない。 20年前にこのマンガを読んだときには少々うざったく感じていたように記憶する登場人物に、今回激しい恋に落ちてしまい、彼を思うと胸が苦しいほどよ。 Yes!Yes! 彼はこうとしか生きられなかったんだよね。ああ、でももう少し自分を許していればヒロインと・・・ しかしヒロインは今読むと、もうひとつ大人になってほしかったヒーローの不滅の恋人であり、そしてやっぱりこの二人にもう少し運命が優しかったら、と今でも涙ダーダーなので、つまり物語はあらかじめ決められた結末からは誰もどうやっても動かせないのだ。 だって運命なんだもん。
と物語はひとを馬鹿にする力ももっている。
最近題名が長めなのは、その方が目次のレイアウト上バランスがいいというだけのことです。
2003年08月09日(土) |
だれにともなくおねがい |
きょうはかぜがつよいです。たいふうがきているそうです。 とるこでは、おとこのひとのなまえに、たいふう とつけたりします。にほんごでよむ たいふう とおなじはつおんです。すこしなまってます。つよそうだから、だって。わかるようなわからんようなかんかくだなあ、とおもいました。 とうきょうにたいふうはやってくるのかはわかりませんが、すくーたーはよこかぜによわいのできをつけよう、としんちょうにはしっていたらあたまのおかしいおとこのうんてんしているくるまにいじわるであおられて、はんどるすれすれ7せんちくらいのところをすごいすぴーどで、はばよせおいぬきされました。
ころすきか。
ながいきしようとしんちょうにいきていても、よのなかにはあたまのおかしいひとがいっぱいいるのでこればっかりはわかりません。 とつぜんみちばたでしんでしまっても、うちのかぞくにはしらせがいくとおもうけど、うちのかぞくはわたしのおともだちのれんらくさきなんかぜんぜんしらないのでしばらくだれもそんなこととはしらず、にっきがこうしんされてないなあ とかまたどこかにいっているのかなあ とかおもわれながらもしばらくはこのほーむぺーじもつづいたりするのでしょう。 そうぞうするとすこしおもしろいとおもいました。 が、じぶんでそんなじょうたいのけいじばんをみたりすることはできないので、それはすこしつまらないなあ。 だから、だれでもいいのでいちばんさきにそのことをしったらどうかけいじばんに 「itchはしんだよ」 とかきこんでください。いつかぷろばいだーのしはらいきげんがすぎたらしぜんにほーむぺーじはなくなるでしょう。にっきもなんじゅうにちもかきこまなければいつかきえるでしょう。
だれでもなにかやりっぱなしのほうりっぱなしでこのよをでていくんんでしょう。
★書き始めはそんな気はなかったんだけど、ちょっと気持ち悪い日記になってしまった。
渡るひとが多いのに、青の時間が短くて、赤待ちの時間がたいへん長い信号の横断歩道がありまして、その先が非常に交通量の多いT字路なので、その混雑緩和のためにそういう信号の間隔なんだと思うんだけど、どうなのよ。 で、この辺りは老人率の高い地域なので、よくこの横断歩道で途方にくれているじいちゃんばあちゃんを見かけるのです。
今日、渡れなかったのは、ばあちゃんで、途方にくれていたのは じいちゃんでした。 二人は連れ合いなの。で、ばあちゃんは足が悪いの。じいちゃんは、信号が赤になる前に、ギリギリ渡りきったみたいなんだけど、ばあちゃんは対岸に取り残さちゃった。
(長いんだよな、これが。) とわたしが歩道に立っていますと、ばあちゃんが、 「すみませんが、わたしを向こうまで渡らせてください。」 と話しかけてきました。 「わたし足が悪いんです。」 「もちろん、いいですよ。この信号長いんですよね。」 「長いですよね〜。あのね、これからセンターに遊びにいくの。お泊りするの。」 (ああ、○○地域センターの高齢者サービスだな。) 「いいねえ、お泊まりは楽しいですよね。」 「そうなの、お風呂にはいってね〜。」 「お友達も一緒なの?」 「あのね、おじいちゃんが先に渡っちゃってね。」 (ん?あ、向こう岸にいるじいちゃんだな。)
と、突然ばあちゃんは手を繋いできました。 (まだ、信号は赤なのに。この信号はすぐ変わっちゃうから心配なんだな。しかし長い。長すぎる。あ、じいちゃんがバツの悪そうな顔でこっちをみている。本当はばあちゃんが転ばないかと心配で先に行ったりできないのに、そんな習慣がなかったから恥ずかしくて人前で労わったり、手を繋いだりできなかったんだな。それにしても長い信号だ。許せん。シワシワだけどあったかくてスベスベの手だなあ。自分のばあちゃんの手なんか弟の結婚式以来繋いだことないなあ。おお、やっと青だ。)
この間ばあちゃんは、センターのお風呂のことなどを小鳥のようにピチュピチュと誰にともなく話していました。 渋々停まったような車(ここの信号にひっかかるとその先のT字路での左折がますます遅れるから)をじっくり睨みながら ばあちゃんとわたしは女王さまと御付の人のようにゆっくり横断歩道を渡りました。
とにかく長い、そのあいだ他人の手をしっかり握っている自分の連れ合いを見ていなければならなかったじいちゃんは、もう恐縮の極みのはてに半分怒ったふうになっていて、ぼそぼそと、 「お手数かけてすみません・・・」 とわたしに謝って、 (ここでありがとうと言えるようならばあちゃんの手も繋いであげれるんだろうになあ。) 「いくぞ。」 と又、ばあちゃんの半歩先を歩いていってしまいました。
自分のことしか考えていないなあ、と改めて思いしらされたのは、わーいわーいと浮かれていた9月の旅行中に、甥っ子が生まれるということをすっかり忘れていたことに昨日気付いたからです。 うちの初孫なのに。わたしの初甥なのに。あんなにみんな楽しみに待ってる世界の新人なのに。 出産前後に叔母がいてもなんの役にもたたないのはわかっているけど、病院の新生児室に、まだ名前のない真っ赤な猿のような甥を見にいきたかったな。 もちろん旅行はいくし、赤ん坊は帰ったら速攻みにいく。 ただ、まったく忘れていたことが我ながらショックだったのです。 ダメだなあ。キョロキョロ遠くの楽しいそうなことばかり見まわしていて、いつも足元のことを忘れている。
2003年08月05日(火) |
うちのほうずきはまだ花が咲いているよ |
雨がふったり、終日くもりだと、とたんに気温が下がります。地面が芯まで熱くなってないんだね。むかし、コンクリートジャングルになる前の東京の夏もこうだったのかしら。
とうもろこしが3本で100円!安〜い。昨日の特売の”朝もぎ”の残りと思われる。皮がむいてある。でも迷わず購入。ゆでる時お湯にすこしバターを溶かすとおいしいよ。あつあつのうちにラップでぴったりくるめば冷めてもシワシワにならない。3本ゆでても大丈夫。
冷凍チキンライスに、瓶詰めのサルサソースをたくさん混ぜ混ぜして食べる、がマイブーム。かるく酸っぱ辛くてうまい。
隠れ家近所の雑誌にものった(下町特集)路地のスパゲティー屋さんが、いつのまにか閉店していて、和風小物のお店になっていた。 一度も入ったことのないスパゲティー屋さんだが、引っ越したのか つぶれたのか。しょっちゅう覗いていたけれど、実に敷居が高い(比喩でなく実際に入り口が地面より数段高くなっている)中が覗きづらい、ゆえにふらりと入りにくい店だった。つまり比喩としても高かったのか。 雑誌の記事も、貼り出したメニュもイイカンジだったので、食べてみたかった。けどあんまり近所だからいつでもいけると放っておいたらなくなっていた。
わたしは自営業の家の子なので、まったく入ったこともないお店でも、見知った店がある日閉店しているのを見ると痛い。”つぶれた”と簡単にいえない。つぶれるかも、という恐怖はいつだって家族の心のどこかに消えずにあるものだから。 ある月ある年 たいへんお金を稼いだとしても、翌月翌年はわからない。プールした資金がいつまで続くかわからない。毎月きまった金額は必ずでていく。
新しいお店ができて、きれいで、花籠がたくさん飾ってあったりして、お店のひとが一生懸命で、見ているこちらも心が浮き立つようだったのが、店前を通るたびに あんまりひとが入ってないなあ 商品が動いてないなあ サービスをうたう貼りチラシが増えたな と思っているうちに、シャッターが閉まって閉店のお知らせが貼ってあると、この数ヶ月の店主の 工夫や焦りを思って心が痛い。たぶん用意していた資金がつきてしまったんだ。 年若い店主だったときには 健康でさえあればなんどでもやりなおせるよ、と勝手に激励し、そうでなかった店主の場合は・・・ 家族で力をあわせれば大丈夫だよ、と勝手に慰め、独りもんで年もくってた場合は、今まで一人でやってきたんだからたぶん大丈夫、とだんだんあやしくなっていく。 これは結局は、万が一のための自分んちに言い聞かせているのだと思います。
それにしてもバイト先の近くに半年前にできた、たぶん母子でやっているカフェは、花篭いっぱいから始まって、まさに上記のとおりの道筋をたどっているのですが、しぶとい。 先日でっかいトラックが店前にとまっていて、椅子類を運びだしていたから、 「とうとうきた!」 と思い、シャッター+張り紙+痛い気持ち を覚悟していたら、なんと改装していた。う〜む。思っていたよりも潤沢な資金を用意していたようだ。もしや、そこそこの資産をお持ちなのか・・・。 こうなるとなぜか嫉妬の思いからか、悪あがきすんな、という気持ちになってしまうのが不思議。
って、なんだかテレビCMで聞いたことがあるような。
Ole! 踊るのも大好き。踊りをみるのも大好き。やっぱりフラメンコを見にアンダルシアも行こうっと。ヘレス。ヘレスかしらやはり。 ポルトガルは・・・いけたらね、桜ちゃん。モロッコじゃないからね。円にものをいわせて、一晩でタクシー乗り継ぎ爆走で、イベリア半島横断とかできないからね。
暑い!夏だ!洗濯物がパリパリに乾いてうれしい。柔軟材のヌルっとした感触があまり好きでないので、自分で洗った(すんません。たまに実家の母に洗ってもらってます。でも言い訳させて!彼女は洗濯症候群におかされているんです。なにか洗えるものがないかと人の部屋を覗いてはうれしげに一日に何度も洗濯するんです。もちろん柔軟材たっぷりで。)タオル類は、トーストのように角がたつほどバリバリです。隠れ家にお泊まりになった方々にはすまんこってす。
今日はいっぱい 枕カバーも 洗濯したでしょ。昼間 大好きなパイナップルアイスを食べたでしょ。明るいうちにお風呂にはいって、ビデオ屋さんにいって、たこ焼き買って、ビール飲んで、自分の身体からはベビーパウダーのいい匂いがして、友達からの電話で すでに終わった ゆえに遠慮なくつっこめる恋愛ネタのお話をして、これから眠りにつくまで 「華麗なる飛行機野郎」 のビデオをみるです。 まちがい。「素晴らしきヒコーキ野郎」 でした。
そしてお楽しみ。ボブ・ホープでも偲ぼうか・・・ と名作コーナーをうろうろしていて まだ見ていなかった ダニー・ケイのミュージカル を発見! 彼の大ファンなのですが、なかなかビデオ屋さんには、五つの銅貨 と 虹を掴む男 くらいしかおいていないのですよ。 ずっと見たかった 「検察官閣下」 です。 ゴーゴリの ”検察官” をミュージカルにしたという。ゴーゴリはまっこと変で面白いよね。以前 ”狂人日記” の芝居にでましたが、原作が面白いので本読みから楽しかった。第二弾”鼻”はやらないのかしら。ねえ巨匠。 ダニー・ケイ+ゴーゴリ これは何度も撒き戻しながらじっくりみたいので、明日みまする。 いひ 楽しみ〜。
そんな幸せな休日。まったく絵に描いたような・・・ ですが、わたしゃ正真正銘のオバハンなので、これでいいのだ。
あんまり所帯染みているのもなんなんで。そんなのしらん という方にはまったくどうでもいいオマケ。
代官山アドレスの辺り(スポーツセンターがあるとこ)の街並みは、パリのピカソ美術館の周辺の街並みにそっくりだ。 道のカーブの具合、コンクリのベンチ、小さい公園、小さなお店。 あれ?ここは知っているぞ、と思うほど似ています。
2003年08月03日(日) |
分別は時に幸せをもたらす |
汗 梅田ー。 そのまま日本語で読んで、蒸しますねー というスペイン語。 おもいきり、おやじギャグですが、気に入っているので、この夏は飽きるまで使うぜ。
くたくたですが、幸福感の中にいます。 大事なことは、分別をもって終電で帰ってきたことだ。 無頼をきどっても、電車がなくて、足をひきづりながら1時間歩いて帰ったりすると、酔いは醒めるは、足は痛いわで、幸せは加点法だと思うのに、-10 -25 と減点されていってしまうものね。 これまで 三回に二回くらいは、終電がなんだ!と肩で風をきっていたように思うのですが、この幸せを糧に 今後は三回に一回以下にするよ。
今日は、昼間に出たコンベンションで、ただワインを数杯飲みまして、知らないひとにファッションを誉められまして、お土産に化粧品もいっぱい貰いまして、 「あらあらまだまだ人生捨てたもんじゃないわね〜。」 といい気になって、ふらりと入ったお店のランチが安くて美味しくて、お店のひとが感じ良くて、今日は今までのところハズレが出ていないぞ、流れに逆らわずにこの波を乗り切るぞ! と力まないように臨んだ夕刻からのパーティでは、お客さんとしてのパーティを満喫。トータル4時間半くらい、踊って 満足。飲みすぎもせずいい感じ。踊りを誉められてまたまたいい気になって、調子にのっているうちに音楽が天井からふってくるような感覚になり、ちょっとしたエクスタシー。 そして、もっともっと飲みたい、踊りたい、しゃべりたい という欲望にほんの少しの分別をきかせて 楽しいことは明日もあさっても この先も きっとあるはずだ、と電車で帰って ヒールのサンダルを脱いで、顔を洗った この気持ちのよさよ! 寝たければ いますぐひっくり返って眠れるんだ。自分の巣でね。 そして、明日は 休み! なにもないのだー。 分別ある 計画性のあった自分に乾杯だ。
たまに贈り物のように、こんなふうに何をしても楽しい、うまくいく日もある。 噂や憶測や誤解や行き違いや独り善がりや無力感やママならなさで、激しく落ち込んで もう引きこもってしまおう と一昨日まで、逃げ腰だったけど、友人のほんのちょっとした一言で、 やり方を間違えようが 自分でやったことはやったこと、 後悔しても恥ずかしいと思っていなければそれでいいじゃないか、 気力が続くかぎり何度でもやりなおしてみようっと、 それを相手が許さなければ もう仕方ない でもそれを自分で勝手に判断するのはやめよう、 とまあ、180°ポジティブシンキングに転回し、よし他人との軋轢を求めて外にでるぞ! と本日の出まくりday と相成ったわけです。
豚もおだてりゃ木に登る。 ああ、誉められるって 力になるね。 なるべく わたしもひとを誉めたいと思うのだけれど、無意識に辛口なのですよね。 ”みそラーメン人”だから。
♪ 煙草をくわえたら あなたのことを 突然 思い出したから
ということはアルね。 わたしの場合は 煙草をくわえるとこの曲を思い出し、
ああそういうこともアルね、
と思い出の世界に入っていく。あなた を思い出したりする。 ある意味 便利な曲です。このあと、
♪ 涙が落ちる前に 故郷(クニ)へ帰ろう
となってしまうので、帰る故郷のないわたしは、この始まりのワンフレーズからBメロへ跳んでしまいます。
♪ いまでもそこに あなたがいたら ぼくはなんて言うだろう あなたには会うには つかい残した 時間があまりに hmmmm〜
歌詞では 時間があまりに軽すぎて なのですが、軽すぎて が実感がわかない 意味がわからないのでここは hmmmm〜
♪ 悔やんではいないよ 思いはつのっても そうさ 昔はむかし
とサビを歌って、そうだ昔はむかしだ と涙をぬぐって さあ寝よう と思えるじつに便利な曲なのです。
音楽が感情をかきたてるのか、感情が音楽を呼ぶのか、喜びもかなしみも なにかの記憶と結びついてわきおこるのだなあ、といつも思うのです。 そして音楽の場合は、歌詞よりもメロディの方が 記憶回路へつながるスピードが速い。 まさに直結。
作詞作曲サダマサシ 題名は忘れちゃった。
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