橋本裕の日記
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2001年03月31日(土) 資源と資金の浪費をやめよ

「失われた10年」という言葉をよく聞く。政府はこの10年間に130兆円の公的資金をつぎ込み、しかもゼロ金利という驚くべき金融緩和政策を続けてきた。ところが、日本経済は好転しないどころか、ますます悪化した。銀行の不良債権は31兆円にふくらみ、政府の財政赤字は660兆を越えて、いまや700兆に迫ろうとしている。

 政府が行うべきことは何か。一口で言えば、それは「資源と所得の適正な再配分」ということである。この観点から考えると、この10年間の低金利政策や膨大な公的資金、公共事業費の投入など、政府はあらゆる手をうちながら、なぜ経済は回復しなかったのか、その理由がよくわかる。

 つまり、この10年間に政府がやってきたことは、生産性の高い産業で得た利益を、税金や低金利、国債の発行というかたちで吸い上げ、これで生産性の低い業界(金融、流通、建設)の赤字を補填してきたのである。この結果、たとえば建設業従事者はいまだに660万人(全体の就業人口の1割)もいる。金融や流通も非効率な体制がそのまま温存された。

 この10年間政府がやってきたことは、まさに「資源と所得の不適正な再配分」であり、経済改革に逆行することでしかなかった。その結果、経済の改革は一向に進まず、かえって伸びるべき産業の足をひっぱって、今や共倒れの危険がささやかれている。

 それではこの10年間、政府は何をやるべきだったのか。言うまでもなく「資源と所得の適正な再配分」である。具体的にそれは何かと言えば、教育に投資することだと言いたい。ダムや橋や空港を作ることよりももっと大切なことがある。それは「人を育てる」ことだ。

 おりしも、民主、社民、共産の野党3党が衆議院に提出していた「30人以下学級法案」が、与党議員の反対で否決された。その理由は「財政難で財源がない」ということである。与党議員たちは本当の公共事業が何かと言うことが分かっていない。あるいは分かっていても、利権や票に結びつかないことには意欲が持てないのだろうか。もしそうだとしたら、もはや日本の前途に希望は持てない。

 教育を国家戦略の第一のものと考えることが出来るかどうか、優秀な政治家と堕落した政治屋を見分けるリトマス試験紙はこれである。21世紀の日本を支えるために、「資源と所得の適正な配分は何か」について、政治家のみならず私たち自身も真剣に考えるべきだろう。


2001年03月30日(金) アルファベットの発明

 ギリシャ人が発明したものはたくさんある。哲学や数学がそうだし、民主主義という制度もギリシャで発明された。その他、芸術や文学など、私たち現代人にとっても、古代ギリシャはいまだに燦然と輝いている。

 そうしたものに比べれば、いささか地味だが、その後世に与えた影響で抜きんでているものがある。それはいうまでもなくアルファベットの発明である。文字の発明はメソポタミアのくさび形文字やエジプトの象形文字が先行している。また、表音文字としてフェニキア文字があった。

 アルファベットは前8世紀前半、シリア方面に進出していたギリシャ交易商人たちが、フェニキア文字に改良を加えて作り上げたものだと言われている。子音だけを表すフェニキア文字を基礎に、母音記号をあらたに設けて作られた。これは字画は簡単だし、わずか二十数字を覚えるだけで、どんな言葉も自在に表記できるという、画期的な発明だった。

 こうして文字は王宮の書記や役人の独占物から、民衆の手に渡った。民衆が日常的に話す言葉がそのまま文章になり、彼らは文字を日常的に気軽に使うことが出来るようになった。(ギリシャにもミケーネ王朝時代には複雑な線文字が使われていたが、これで日常の会話を記録することは出来なかった)

 天才詩人ホメロスが吟遊詩人として活躍していたのがちょうどこのころだった。そこでさっそく彼の華麗な吟唱詩がギリシャ語のテキストとして筆記された。そしたさらに多くの詩人たちによって磨きがかけられ、前6世紀頃に最終的なテキストとして確定したようである。

 ホメロスの「イリアス」と「オデュッセイア」はギリシャ人に一つの共通の精神的紐帯を与えた。これを共有することで、彼らは一つの民族として、一つの文化的世界を共有し、人生観や価値観を共有することができた。このことがその後のギリシャの発展にあたえた影響は大きい。

 哲学者で社会学者、歴史家でもあったハンナ・アレントは『過去と未来の間』の中で、次のように書いている。「今日における共通感覚の消失は、現在の危機の最も確実な徴候である。危機に直面するごとに、われわれすべてに共通のものである世界が少しずつ破壊される。共通感覚の衰退は、あたかも占い棒のように、陥没が生じた場所を指し示すのである」

 ギリシャ人は多くのポリスに別れて、それぞれ経済的、政治的に自立した多様な世界を創造した。しかし、その根底にギリシャ語という優秀な言語と、アルファベットという優れた表記法をもち、しかもその母国語によって書かれたすぐれた作品を持っていた。彼らが人類の歴史においていかに多くのことをなしとげることができたか、その秘密は自ずと明らかであろう


2001年03月29日(木) 議会を市民の手に

 先日放送されたNHKの番組「クローズアップ現代」の中で、田中長野県知事の「脱ダム宣言」について、県議会の代表者が「何の説明も無い!これでは何のための議会だ!」と言っていた。

「意見が反映されていない」、「民主主義の崩壊だ」ということで、県議会は42年ぶりに議会が条例を提出するという。いずれにしても活発な議論がなされることが望ましいが、これまで何十年もの間、県民に何の説明もせずに、一部の人間だけで県政を牛耳ってきた張本人たちの言葉だけに、いささか滑稽な田舎芝居のような印象がないでもない。

 それはともかく、首長と議会はともに選挙で選ばれる。もし民主主義が理想的に機能していれば、この両者が深刻な対立状態におかれることはないはずである。しかし、現に長野県ではこの対立が起こっているし、これまでもこれに類したことがなかったわけではなかった。

 直接選挙で選ばれる首長は、議会に対して独立した権限を持つ。3権分立の立場からすれば、これは正しい姿である。日本の政治に緊張がないのは、行政と立法府がなれあっているからだ。だから首長選になると多くの政党が相乗りをして、かれらの代表をかつぐ。担がれた首長はそれぞれの政党や利益団体に目配りをして、大胆な改革などする勇気はない。そこにみられるのは政官業の癒着であり、既得権の保守でしかない。

 こうした現状に良識のある市民はいらだちを募らせている。政党政治の限界を感じ、新しい民主主義のありかたを模索している。そのなかで、「政党本位から市民本位の政治へ」の流れができつつわけだが、私はこれは正しい流れだと思う。政党はあくまで民主主義を実現するための一つの手段であって、これを絶対化するべきではない。民主主義の基本はあくまで市民参加の直接民主主義である。

 そこで、私は議会の改革を提案したい。議員を選挙で選ぶのをやめて、抽選制にするのである。政党政治ではなく、市民による直接民主主義がこれで実現される。抽選制にすれば汚職や政官の癒着もなくなるだろう。また、だれしもが議員になる可能性があるのだから、いやがうえにも政治への参加意識が盛り上がり、政治が透明で身近な存在になる。

 議員の抽選制はいきなり国政レベルから始めるのではなく、まずは地方の議会から始めればよいと思う。さしあたり、長野県議会の議員を県民から抽選で選んでみてはどうだろう。田中知事のおしすすめる改革がずいぶんやりやすくなることだけは確かである。

(国政議員の抽選制については、未来学者のトフラーも名著「第三の波」のなかで言及している。アメリカの有名な政治学者が提唱しており、かならずしも私のひとりよがりでなことを付言しておく)


2001年03月28日(水) 長野県知事の挑戦

 田中康夫長野県知事が20日に出した「脱ダム宣言」を読んだ。その旧式な文章表記に驚いたが、それはともかくとして、宣言自体の内容はもっともなものである。

「河川改修費用がダム建設より多額になろうとも、100年、200年先の我々の子孫に残す資産としての河川・湖沼の価値を重視したい。長期的な視点に立てば、日本の背骨に位置し、数多(あまた)の水源を擁する長野県に於いては出来得る限り、コンクリートのダムを造るべきではない」
 
 田中知事はこれを、長野モデルとして確立し、全国に発信したい」と意気軒昂である。その言やよし、多いに理想の実現に向けて頑張って貰いたい。

 ところでこうした田中氏について、「独裁的」だという批判が起こっている。長野県議会を牛耳っているのは反田中の自民党をはじめとする既成政党だから、まあやむをえないとしても、多くのマスコミや身内からも批判の声が挙がっている。この騒ぎに中で県の土木部長は更迭されたし、これまで知事を支えてきた側近の特設秘書までが辞表を出して離れていった。

 田中氏の独裁的な手法は、これまで培われてきた日本の政治風土になじまないということだろう。つよいリーダーシップが不在なことが日本の政治の欠点だと言われてきたが、実際に権力を握った者がその権力を行使しようとすると、たちまち「独裁的」だと非難され、四面楚歌のなかに置かれる。とくに、議会との軋轢はかなり深刻である。このままでは県政自体が混乱し、立ち行かなくなる可能性さえある。

 こうしたことが起こるのは、知事が直接選挙で選ばれるからだろう。無党派の知事が選ばれると、既成政党で固められた議会との間に緊張関係が生まれ、場合によっては知事と議会の二重権力構造の中で政治の混乱や遅滞が生じることになる。

 同様なことは、国政レベルでも考えられる。大統領制や首相公選制に反対する主張の最大の論拠もここにある。微温的な議員内閣制であれば、こうしたねじれや緊張関係はまず起こりようがない。だから、国政の首長を直接民主主義で選ぶのは冒険だと言うことになる。

 私は首相公選制もしくは大統領制を支持したい。それでは議会との軋轢はどう解決したらよいのかということだが、これにはとっておきの秘策がある。これについては、あしたの日記で明らかにしたいと思う。


2001年03月27日(火) クレオパトラの鼻

 映画「クレオパトラ」をビデオで見た。エリザベス・テーラーの演じるクレオパトラはなかなか美しい。ローマの英雄であるシーザーやアントニウスを色香で迷わせ、世界制覇を夢見る野心家のエジプト女王を好演していた。

 ところが、女王クレオパトラが、実は小柄で太ったパッとしない女性だった可能性がある、と25日付の英紙サンデー・タイムズが報じている。その根拠は大英博物館が来月から開催するクレオパトラ展で、これまで他の女王とされてきた彫像11体を同博物館がクレオパトラと認定し、初めて一堂に展示することになった。

 これらの像はいずれも身長は150センチ足らずで丸々と太り、いかめしい地味な顔立ち。「セクシーで情熱的な美女というより、ギリシャ語やエジプト語、ラテン語に堪能な学究肌のインテリ女性だった」という。

 残念ながら、クレオパトラの鼻についての記述はないが、こうなると鼻が高いか低いかはどうでもよいことのように思われる。それでは何故、シーザーやアントニウスが彼女に惹かれたのか。それは彼女の美貌と言うより、彼女が象徴しているエジプトの富だったのではないかと思われる。それと、彼女の並外れた野心であろうか。


2001年03月26日(月) 市民参加型の政治の実現を

 千葉県知事に無党派の堂本暁子(68)氏が当選した。昨年の長野、栃木と続く知事選での「無党派知事」の実現である。自民、民主、共産などの主要政党の擁立する候補を破っての当選である。

 勝因は「無党派層の政党不信」にあったという。「政党色のない知事を」という合い言葉をもとに、市民団体が擁立し、これを多くの自由参加のボランティアや勝手連が支えた。インターネットや口コミで支持が広がり、カンパも2000万円以上集まったという。

 選挙民の政党離れがすすみ、政党本位の組織的な選挙ができなくなりつつある。新聞は「政党不信」と書くが、私はたんに「政党離れ」ではないかと思う。党利党略だけの政党政治にあきあきしたというところではないかと思う。

 政党政治の衰退は民主主義にとって是か非かと問われれば、それは一概に答えを出すことは出来ない。識者の間でも意見の分かれるところだろう。しかし政党政治だけが民主主義であるというふうな旧弊な考え方はそろそろ改めるべきときかもしれない。

 政党は民主主義を実現するためのひとつの方法であり、政党のために民主主義があるのではない。むしろ市民参加型の政治こそ民主主義の原点であり基本ではないかと思う。政党本位から市民本位という流れは、今後の日本の民主主義の実現にとって、貴重な流れになるかも知れない。


2001年03月25日(日) 壕の中の恐怖

 ヘーゲルは「精神現象学」の中で、「『体験』は反省を経ることによって『経験』へと深められる」と書いている。同じ事は、戦争についても言えるのだろう。戦争が終わって半世紀以上の年月がたった。その体験は風化する一方である。これをしっかりと「経験化」する必要がある。そうすることで、戦争の悲惨な記憶は、ひとつのかけがえのない精神的体験=経験として私たちから未来の世代へと受け継がれる。

 家族旅行で沖縄に行ってから、まる一年が経とうとしている。そのとき書いた紀行文は「何でも研究室」のページに載せてあるが、今読み直しながら、ヘーゲルの言う「経験」という言葉の重みに気付いた。やはり文章にして残しておくのは大切なことである。「体験」を「経験」へと深めるために、書くという行為はとても有効だと思う。

「健児の塔の傍らにも壕があった。こわごわ降りてみると、壕の奥は暗く、私はカメラのフラッシュをしきりに焚いたが、よくみえない。この壕の中でも多くの惨劇が行われたのかと思うと、肌に触れてくる冷気がひときわ冷たく感じられた。外で様子を眺めていた妻や娘が心配してしきりに私を呼ぶ」(沖縄紀行)

 この壕のことはとくによく覚えている。私はこの壕の暗闇に身を置くことで、戦争というものの怖さを実感したように思った。私がその真っ暗な壕に中にいたのは、ほんの数分である。もしそこに一時間もいたら、私は恐らく恐怖の余り失神していたのではないかと思う。

 沖縄戦の戦死者は、日本兵6万9908人、沖縄県出身兵2万8228人、その他の戦闘参加者5万5246人、一般住民9万4754人で計24万4136人。そして米軍の戦死者は1万2528人。数字を見て驚くのは、非戦闘員の死者の数が多いことだ。

「ひめゆり部隊」や「鉄血勤皇隊」など、壕の中での集団自決は凄惨を極めた。捕虜の辱めを逃れるために、少年や少女は他の住民や兵隊たちとともに、手榴弾や毒薬、カミソリなどで自決したり、追いつめられて崖の上から飛び降り自殺をした。渡嘉敷島では住民約150人が手榴弾で集団自決した。

 こうした知識を持ちながら、真っ暗な壕の中に一人でいることは、わずか数分間であっても、ほんとうに耐えられない恐怖である。しかし、実際に戦争の地獄を肌身に感じるためには、たとえば一昼夜この壕のなかで座禅でも組んでみる必要があるのかもしれない。今度沖縄を訪れた時には、少なくとも一時間はこの恐怖に身をさらしてみようかと思う。


2001年03月24日(土) たゆたう命

 730年(天平2年)太宰府師であった大伴旅人が、任を全うして、瀬戸内海を通り、帰郷する。そのとき太宰府から従ってきた随員の歌が万葉集に残っている。そのなかの一首。

  家にてもたゆたう命浪の上に
  浮きてし居れば奥処(おくが)知らずも  (巻17−3896)

「家にいてさえも、落ち着きなく揺れ動いている私のこころである。まして、こうして慣れない船旅をして、波の上に命を浮かべていると、その心細さは底知れないものだ」読み人知らずの歌だが、生に対する深い、根源的な不安感がうたわれていて、なかなか見事だと思う。

 この歌は折口信夫が絶賛していた。私は彼に教えられて、この歌の底知れぬ魅力を知ったのだが、案外、知らない人が多いのではないだろうか。もう一首、私が愛唱する歌を万葉集から引いておこう。

  もののふの八十(やそ)宇治川の網代木(あじろぎ)に
  いさよふ波のゆくへ知らずも   (巻3−264)

 こちらはよく知られた柿本人麻呂の名歌である。網代木にせかれて揺れ動く波の姿をみつめているうちに、いつかそれが自分の心のありさまに重なってくる。人生という行方もわからない旅を生きる私たちだれしもが経験する、はるかな思いがここに歌われている。


2001年03月23日(金) 愚の貴さ

 谷崎潤一郎は「刺青」という小説で、「それはまだ人々が『愚』と云う貴い徳を持っていて、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった」と書いている。

 むかし、『愚』が貴い徳として慕われていた時代があった。私も又、この『愚』という徳を慕う気持がつよい。「大愚良寛」「愚禿親鸞」など、私の敬愛する人は何故か愚の徳にたけた人ばかりである。

 さかしらな合理性をよしとする現代人に欠けているのは、たしかに「愚という貴い徳」なのかもしれない。といって、自らを愚者と称することができる人物は、おそらくかなりの賢者なのだろう。

 自分を愚者と自覚できない愚者になりたくない。しかしそれ以上に恥ずかしいのは、自らを賢者だと自惚れている愚者だろう。


2001年03月22日(木) 学力は試験で計れない

 学校で定期考査の試験監督をする度に、「こんなつまらぬものを暗記するのはばからしいな」といつも思ってしまう。歴史や古文、理科、英語、どの問題をとっても、まともに解答できそうにない。

 しかし、たとえば古文について言えば、私はたいていの文章は読める。英語や現代文についてもそうである。ところが、学校の試験となると、なかなか歯が立たない。これは私がとりわけ無教養で、学力がないからだろうか。そうではないと思う。

 大学を卒業した一般の大人が、もう数年もすると大学入試の問題が解けなくなっている。しかし、だからと行って、かれらが無教養で学力がないということにはならないだろう。

 そうすると、問題は日本の教育システムにあるのではないかと思われてくる。大学を頂点とする入学試験のありかたが問題なのではないか。そもそも試験で学力が計れるのかどうかがあやしい。

 ほんとうの学力とはないか。それは試験に合格するための学力ではなく、このかけがいのない人生を一人一人がゆたかにたくましく生きていくために必要な思考力と実践力を身につけることだろう。そうした観点から、教育の根本を考え直してみてはどうだろう。


2001年03月21日(水) イチゴ狩りの思い出

 風邪で寝込んでいたとき、食欲がまるでなかったが、ただ一つうまいと思ったものがあった。それはイチゴである。冷蔵庫で冷やして置いて、コンデンスミルクをたっぷりかけて食べたが、これがとてもうまかった。

 そういえば、この季節イチゴ狩りに行ったことがあったと思って、過去の日記帳を読み返してみると、1989年3月21(火)の日記にその記述があった。12年前の今日、家族でイチゴ狩りに行っている。その全文を引用しておこう。

「家族で静岡、美保の松原へ、石垣イチゴ狩りに行った。海岸から富士山が淡く見えたが、日本平へ行ったときには曇り空で、富士山の姿は見えなかった。
イチゴ狩りは楽しかった。海も楽しかった。全行程400キロほどを、妻と二人で運転した。少々疲れた」

 なおこのとき作った俳句が3句書いてある。

  羽衣の海岸にくれば美女あまた
  イチゴ摘むハウスの中は春うらら
  イチゴ狩りたらふく食へよと妻の声

 このころ小学生だった長女がもう大学生である。30代だった私がもう50歳になっている。昔の日記をひもときながら、ありし日の家族の光景を思い浮かべて、しばし感慨にふけったことであった。

 


2001年03月20日(火) 春の憂い

 今日は春分の日である。全国的にずいぶんあたたかい日になりそうだ。体調がよければどこかに家族で出かけたいところだが、あいにく私の風邪もまだ完治していない上に、今度は妻がダウンしてしまった。

「お父さんに悪性の風邪をうつされた」と言う。たしかにこの一週間ひどい咳をして、家中に病原菌をまきちらしていたから、おおいにありうることである。妻には申し訳ないと思っている。

 ところで、春分の日は昼と夜の長さが等しくなるのかと思っていたが、実際は昼の方が7分ほど長いそうだ。その理由は、日の出は太陽の頭の先が出たとき、日の入りは太陽が完全に沈んだときなので、太陽一個分の誤差が出ること。さらに空気の屈折率の関係で、地平線下の太陽が見えるためだという。

 まあ、いずれにしても、これからますます昼間が長くなる。そして若い命が、いっせいに匂い立つ。そうした生命の横溢を前にして、何やら鬱陶しさをおぼえるのは、私の生命力が衰え始めたからだろうか。


2001年03月19日(月) ある教育談義

Aさん:中学校の学習指導要領が改訂されて、教科の時間が3割も削減されると言うじゃないか。もはや学力崩壊は必死だね。現状でもたいへんだというのに。分数計算ができない大学生がこのさきどれだけ増えるか心配だよ。

Bさん:3割削減どころか、5割削減が適当だね。詰まらない知識ばかり詰め込んでも何の役にもたたないよ。三角関数や微分・積分なんか知らないでも生きていけるだろう。英語も学校で教える必要があるのかね。学校で教えなくてはならないのは、簡単な計算が出来ることと、国語だろうね。あとは選択科目にして、好きな者だけとらせればばよい。原則学校は午前中だけで十分だね。

Aさん:それは暴論だね。学校教育はよき市民のとなるために必要な教養を身につけさせるためにあるんだから。歴史や倫理社会、自然科学の知識も必要だし、それにこれから国際化の時代を迎える。外国語も必修にしないとね。

Bさん:必要は発明の母というだろう。僕は「必要は学習の母」と言いたいね。語学なんて必要なときに個人で学習すればいいんだ。NHKのプログラムを覗いてご覧。無料で学習できるすばらしい番組がたくさんあるよ。学校で能力のない教師から間違った英語を強制的にならうより、よほど能率がいい。そうした自主的な勉強の機会を、いまの学校教育は奪っているんだ。生徒を学校から解放すべきだね。

Cさん:僕は心情的にはBさんに賛成なんだけど、しかし、学校から解放して、自主的に勉強するのは全体の何割くらいだろう。理想論として賛成できても、実際論として、やはりとてもついていけないね。

Bさん:僕の論は理想論じゃないさ。大切なのは言語教育だと言っているんだ。これがしっかりすれば、あとは自分で勉強できるんだよ。知識という出来上がったものをこまごまと覚えさせるのが教育だとは思わないね。自分の頭で考え、必要な知識を収拾し、それを検証する能力を鍛えること、これがこれからの日本に必要な教育なんだよ。

(Aさん、Bさん、Cさんの教育談義、まだまだ続きそうです)


2001年03月18日(日) 茶髪・金髪考

 長女と次女が髪を染めて、一週間になる。最初のうちは食事の度に娘たちの髪を眺め、溜息をついていたが、私もようやく我が家の新しい環境に慣れたようで、あまり気にかからなくなってきた。

 私自身、散髪に行って、「どうですか、そろそろ染められては」とマスターに声を掛けられて、しばらく染めたりしたこともあったが、そのうち面倒になって、染めて貰うのをやめてしまった。「自然のままに」というのを、私は今のところ生き方の基本にしたいと思っている。

 髪を染めたり、化粧をしたり、ピアスをしたり、そんな外面など取り繕ってばかりでどうるるのだと苦々しい気がするが、しかし、そうした価値観を他人にまで押しつけるのはやはりまちがっているのだろう。

 今日の朝日新聞の「声」の欄に、ある中学校の卒業式での校長の「金髪の子がいますが驚かれないように。金髪の子も本校の生徒です」というあたたかい言葉が紹介されていた。投書した49歳の主婦は、この校長の言葉を紹介した後、「どんな生徒もあるがままに受け止める、懐の深さが、教育には最も大切なことなのではないでしょうか」と書いている。

 髪をスプレーで黒くしてから、卒業式に出すことが、今どこの学校でも当たり前になっているが、およそ教育的でないこうした処置を、日本の学校はいつまでつづけるつもりだろうか。そろそろ茶髪、金髪を認めてはどうかと思う。違和感があるのは最初のうちだけで、そのうちそれが自然なことのように見えて来るに違いない。そして、金髪の校長先生が現れたりしたら、面白いと思う。


2001年03月17日(土) 横柄な若い医師

 午後、学校から帰って、その足で近所のM病院へ行った。診察は午前中で終わっているから、時間外受診である。普段より倍ほどの金を取られるが、薬が切れた上に、咳、喉痛、頭痛症状が続いているので、行かないわけにはいかない。

 診察してくれたのは見るからに気むずかしそうな若い医者だった。「どうして午前中にこなかったのですか」と訊くから、「午前中、仕事が抜けられなくて、こんな時間になってしまいました」と答えると、「午前中仕事があるのは私だって同じですよ」と、最初から言葉が尖っている。

「もうしわけありません」と頭を下げたが、正直言って相手が何を言っているのか飲み込めなかった。体調が悪く、仕事を休みたかったが、そうするといろいろ気がかりなことがたくさんある。私に限らず、無理をして仕事先へ重たい足を運ぶ人は多いはずだ。

「自分の健康をもっと大切にして下さい」と叱られたのならわかるが、そうではなく、のんびりくつろぎたかったところへ、のこのこ患者が現れたので、ただ頭に来たというところではないだろうか。病気で気が弱っている私は、この若い医者の横柄な態度に出会ってよけいに気が滅入ってきた。

「口を開けて」というから、口を開けると、「つばを飲み込んで」とまた怒ったように言う。そして「なんともない」というので驚いた。喉が痛くて、水でさえ顔をしかめて飲んでいるのに、喉に異常がないわけはない。しかも昨夜は高熱が出て、解熱剤まで服用している。そのことを訴えると、「それぢゃ、もっと奥の方でしょう。こんどは耳鼻科へ言って下さい」と、はやく仕事を切り上げたいという様子がみえみえである。

 トローチを出すというので、「トローチは強すぎてあわないので、いつもいただいている粉のうがい薬にしてください」と注文すると、「粉のうがい薬だって?」と薬の名前が浮かばず、コンピューターの入力画面を見つめている。「イソジンではだめですか」と言うので、面倒くさくなって「それで結構です」と答えて置いた。

 それにしても、なんというおそまつな医者だろう。さらに、家に帰って薬袋を開けると、のみぐすりの袋の中に頓服が、頓服用の袋の中にのみぐすりが入っていた。ひいきにしているM病院だけに、この先とんでもない医療ミスでも起こらないか心配である。


2001年03月16日(金) 声が出ない苦しさ

 無理をして学校へ行ったが、大変辛い一日だった。それにしても、声を出せないというのは辛いものである。「風邪のため声が出ない」と板書した後、自習にしたが、うるさいこと。不断なら注意すれば静かになるクラスなのだが、喉が痛くて注意が出来ない。

 席を立って、遊び歩く生徒。教室の床にぺたりと尻を着けて、座り込む女生徒。携帯や雑誌を見せあっている連中。我が物顔に振る舞う生徒を、横目で見ているとますます血圧が上がりそうだった。

 それで、私もストーブのそばに椅子を置いて、目を閉じて、うとうとと仮眠をとることにした。生徒たちの騒ぎ立てる声を潮騒のように聴いているうちに、いつしか夢心地で一時間が終わった。

 それにしても、今日はそのクラスの最後の数学の授業である。以前には、最後にみんなが「○○先生、一年間ありがとうございました」と声を揃えてあいさつしてくれたりしたが、今の生徒はそんな気配はみじんもない。

 風邪で声が出ないと書けば、少しは同情して静かに自習するかと思えば、これが反対で、これ幸いとばかり傍若無人の振る舞いである。体調不良の苦しい一日であると同時に、ずいぶんと心の淋しい一日でもあった。



2001年03月15日(木) 病床で考えたこと

 思わぬ悪性の風邪に見舞われた。たぶん、学年末の考査も終わり、いくらか気がゆるんだせいだろう。この四日間、咳は出る、頭痛はする、扁桃腺が膿んで、高熱が出てきた。あくまで自力で直そうと、医者にかからぬ作戦を立てたのがいけなかったようだ。

 病気で学校を一日休んだのは、たぶん7年ぶりくらいだろうか。7年ほど前から温水プールに通うようになって、風邪をひかなくなった。風邪ばかりか、それまで春になると辛い思いをしていた花粉症も治ってしまった。

 プールで泳いでいると、しょっちゅう鼻や喉に水が通る。強力な塩素で殺菌された水で粘膜が鍛えられて、風邪や花粉症にかからなくなったのだろう。とにかく、体力がついて、まず病気で病院に行くことはなくなった。

 三年前に今の高校に転勤して、テニス部の顧問になってから、水泳を止めた。水泳の代わりにテニスで体を鍛えればよいと思ったからだ。しかし、これが誤算だった。最近はたまにテニスコートへ行っても監督しているだけだった。

 見ているだけでは体力は付かない。てきめん体のあちこちに贅肉が付いてきた。そしてこの数ヶ月は体力不足からくる慢性的な体調不良が続いていた。それでも、体力を回復しようという積極的な行動をとらなかった。今回の悪性の風邪は、その当然の結果だろう。
(今日はHPを休もうかと思ったが、少し無理をして更新することにした)
 


2001年03月14日(水) プラトンの予言

 プラトンによれば、国家は自然な傾向として、次のように変遷するという。

�� 王制
�� 貴族制
�� 民主制
�� 独裁制

 以下はプラトンの主著『国家』からの引用である。
「<自由>こそは、民主制国家がもっている最も善きものであって、まさにそれゆえに、生まれついての自由な人間が住むに値するのは、ただこの国だけである。

 そのようなことへのあくことなき欲求と、他のすべてへの無関心が、ここでもこの国制を変化させ、僭主独裁制の必要を準備するのではないだろうか?

 民主制の国家が自由を渇望したあげく、たまたまたちのよくない酌人たちを指導者に得て、そのために必要以上に混じりけのない強い自由の酒に酔わされるとき、国の支配の任にある人々があまりおとなしくなくて、自由をふんだんに提供してくれないような場合、国民は彼ら支配者たちをけしからぬ連中だ、寡頭性的なやつだと非難して迫害するだろう。

 支配者に従順な者たちを、自分から奴隷になるようなつまらぬやつらだと辱めるだろう。個人的にも公共的にも賞賛され尊敬されるのは、支配される人々に似たような支配者たち、支配者に似たような被支配者たちだということになる。このような国家においては、必然的に、自由の風潮はすみずみにまで行きわたって、その極限に至らざるをえないのではなかね?

 このような状態のなかでは、先生は生徒を恐れて御機嫌をとり、生徒は先生を軽蔑し、個人的な養育掛りの者に対しても同様の態度をとる。一般に、若者たちは年長者と対等に振舞って、言葉においても行為においても年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者たちに自分を合わせて、面白くない人間だとか権威主義者だとか思われないために、若者たちを真似て頓知や冗談でいっぱいの人間となる。

 すべてこうしたことが集積された結果として、国民の魂はすっかり軟らかく敏感になって、ほんのちょっとでも抑圧が課せられると、もう腹を立てて我慢ができないようになるのだ。というのは、彼らは君も知るとおり、最後には法律でさえも、書かれた法であれ書かれざる法であれ、かえりみないようになるからだ。絶対にどのような主人をも、自分の上にいだくまいとしてね。僭主独裁制がそこから生まれ出てくる、かくも立派で誇り高き根元にほかならないのだ」

 日本は戦後、まがりなりにも民主主義の体制を作り上げた。しかし、いまその体制が崩れようとしている。そうすると、このあと日本が行き着くのは、独裁政治であろう。プラトンのこの文章を、現代日本への警鐘ととりたい。


2001年03月13日(火) 奴隷から大金持ちへ

 古代国家アテネは奴隷制社会だった。労働は奴隷がすることで、市民のなすべきことではなかった。市民のなすべきことは、政治と哲学である。それから戦争があった。戦争をしないと、奴隷が確保できない。だからギリシャでもローマでも戦士として戦争に赴くことは市民の第一の義務だった。

 労働の中には商業もふくまれる。したがって、プラトンの理想的共和国には商業が存在しない。「富の欲望は、われわれの閑暇の時間をすべて奪ってしまい、われわれの個人的所有物でないものに携わることを妨げる。こうした財貨にとりつかれていると、すべての市民の霊魂は、自分の利得にならないものに対して配慮することは、まったくできなくなるであろう」(「国家」)

 だから商業もまた共同体外の異人か、奴隷がするのにふさわしい仕事だとみなされた。しかし、そうすると皮肉なことに、商売でお金をしこたま稼いで、市民よりもはるかに豊かな生活をする奴隷も出てくる。たとえば銀行家のパシオンなどがその代表だろう。

 フェニキア人の彼は、幼いときにアテネの裕福な銀行家の兄弟に買われ、その奴隷として働いていた。しかしその才能ゆえに、33歳の頃特別に解放されて自由な身分になった。そのあと、非市民の家の女性と結婚した彼は、これまでの経験を生かして自分の銀行を作り、盾を作る工場も経営したりして、やがて巨万の富を蓄えた。

 その額は約45タラントン。普通のお金持ちの財産は2タラントンほど、アテネ市民だったソクラテスの全財産はたった5ムナだった。(1タラントン=60ムナ)これだけのお金があれば、200人乗りの三段櫂船を45隻も建造できたという。

 実際にパシオンは戦争のたびに何隻もの高価な軍船や1000個もの盾を寄贈した。そしてその功績によって、前376年、パシオンが54歳の頃、ついに彼の息子ともどもアテネの市民権を獲得した。ペリクレスの息子でさえも母親がアテネ市民の娘でないために、なかなか市民権がえられなかったくらいである。奴隷が市民権を得ることはたいへんなことだった。

 さて、その後、パシオンの銀行はどうなったか。死ぬ1年前に、彼は彼に長年仕えていた奴隷のフォルミオンを解放し、彼に銀行と盾の制作工場の経営を委ねた。そして、このフォルミオンもまたその晩年には自分の奴隷に銀行経営を譲り、アテネ市民権を賦与されたという。

(注)金属で作られた貨幣ができたのは、前7世紀後半のリュディア王国(小アジア)だという。前6世紀にギリシアにひろまり、それぞれのポリスが独自に通貨を発行しはじめて、両替商がうまれた。彼らが貨幣や貴金属、重要文書の保管、商業取引の仲介業に乗り出し、預かった預金を利子つきで貸すようになり、銀行業(トラペザ)が成立した。記録に残っているもっとも古い銀行家は、パシオンの主人、アルストラトス&アンティステネス兄弟だという。


2001年03月12日(月) イタリアの大学入試

「ギリシャの政治と文化におけるアテネの地位を、ポリスという、かの国の政体の特色と価値を述べることで省察せよ。また、アテネのように、そしてわれらが国(イタリア)のように、市民の「法」がその国の文化や政治の伝統に深く結びついたものであるならば、それらは、例えばヨーロッパ連合のように従来の国境を越えたところに成り立つ組織においても、通用しうるものであるかどうかを論ぜよ」

 上の文章は、ネットサーフィンをしていて見つけたイタリアの大学入試問題である。イタリアには日本の大学入試センター試験に相当するものとして、「成熟試験(エザメ・ディ・マトゥリタ)」がある。文科系の入学試験の場合、筆記試験は、国語の論文と、ラテン語の翻訳で、あと、国語、歴史、哲学、ギリシャ語、物理、数学などの面接試験があるという。(英語は実用外国語と見なされ、学校の外で学ぶものとされる)

 国語の筆記試験は、最重要課目とされ、試験時間は6時間に及ぶ。国語の試験だから、内容のみ問われるわけではない。文章構成力、表現力、使用言語の適切さも問われる。分量に制限はないが、400字詰め原稿用紙で20〜30枚くらいが普通だという。

 さて、上のような問題を出されて、日本の受験生は答案が書けるだろうか。日本の大学入試センター試験はマークシートの選択式だが、こちらは完全に記述式である。しかも、6時間もかけて、じっくり考えさせ、書かせる。これが国語の問題だと言うことに、私たちは驚く。しかし、考えてみると、国語の試験は本来こうでなければならないのだろう。

 ところで、生徒は問題を四つ与えられ、その中から一つ選んで論述する形式となっている。上の問題はその中の一つである。そこで、上の問題に歯が立たなかった人は、別の3つの問題の中から選択してもよい。そこで、残りの問題も紹介しておこう。

「人間世界においての連帯と平和裡での共存には、文明の賜物であるところの個人間並びに民族間の違いを認め、尊重し合うことが必要である。ならば、国別民族別にしばしば生れる深い嫌悪や拒絶意識の源泉は、どこにあると思うか。それについて述べよ」

「(イタリアの国民作家マンゾーニの、方言の多いイタリアでの標準語確立には500年の歴史があるとした一文を引用した後で)マンゾーニにおける標準語確立の重要性と、書き言葉と話し言葉の両方において、マンゾーニはイタリア語をどう評価していたかを論じなさい」

「第一次世界大戦は、強大ないくつかの帝国の崩壊で終わった。だが、それによる地政学上の急激な変化は、強大国間の新たな抗争の種にならざるをえず、それが第二次世界大戦につながり、現在でもなおヨーロッパの政治に深く影を落としている。この問題について、分析し解釈するだけでなく、自身の考察も加えて論ぜよ」

 日本の受験生ばかりではない。私も含めて、こうした問題に答えることは容易ではない。日頃から問題意識を持って注意深く現象を観察し、しかもそれを的確に表現する技術を磨いておく必要がある。物事を立体的に眺め、論理的に構成する力、豊かな感受性と簡潔な表現力があわせて要求される。

 しかしこれらのいずれをとっても、人生を豊かに生きていく上で本質的に大切なものではないだろうか。これらの入試問題を読みながら、私はむしろイタリアの受験生の方が、日本の受験生よりはるかに幸福なのではないかと思った。(最初の問題について、私なりの答案を書いてみようと思う。春休みの課題にしたい)


2001年03月11日(日) 茶髪の少女となりにけり

 私の髪は白くなりかけてきたが、もともとは黒かった。しかし、妻がいくらか茶髪のせいか、長女はかなりの天然茶髪である。しかし次女は私に似て黒い髪をしている。

 次女の通っている名古屋市の市立高校は、髪やソックスについては自由で、生徒たちはもうほとんどが茶髪だと聞いていた。アルバイトも自由な学校で、そうした個人的なことに学校は干渉しないということらしい。すべてを本人の自主性にまかせるという立場で、進学校でありながら、補習もない。

 私もこうした考えに基本的に賛成だったが、実際に次女がスカートを短くして、黒い靴下を穿いて学校に出かける姿を見るのは、あまり愉快ではなかった。しかし、まだ、髪は黒い。もともと中学生時代は融通が利かないくらいの真面目な模範生だったので、よもや髪まで染めることはないと思ったが、それでも不安になった。「茶」に交われば「茶」に染まることもあるだろう。

「いいかい。髪なんか染めたりしたら、家においておかないからな」と私が言えば、妻が笑いながら、「何を頭の固いことを言っているのよ」と娘たちの肩をもって茶髪容認発言をする。「いや、絶対駄目だ。髪なんか染めたりしたら、お父さんは家を出るぞ。別居だからな」と、トーンをあげると、「いっそ私も金髪か黄色に染めようかな。似合うかもね」などと、妻がますます面白がって張り合う。

 そんな会話があった明くる日、次女の髪を見ると、いくらか茶色になっている。「あっ、染めたな」と私が言うと、「昨日お店に行ったのよ。お父さん、昨夜、気付かなかったの。私のことしっかり見ていなかったんだ」と、訳の分からない逆襲を受けた。

 さあて、公約どおり、家を出ようかどうか、今迷っている。しかしその前に、クラスの女生徒の家に電話をかけなければならない。茶髪で登校したため、個人写真を受けられなかった生徒である。「髪の色を直してしてきて下さい。個人写真がとれなくて困っています。来年度の生徒手帳にはる大事な写真なんですから」電話口に出た母親に言いながら、私の声はいつもよりさらに迫力がなかった。


2001年03月10日(土) 長女の大学受験記

 昨日は、長女の第一志望の大学の合格発表の日。すでに神奈川県にある県立短大には合格していたが、できることなら国立の三重大学に進学したいという長女。しかし、普通科の進学校ではなく、看護科の職業高校に進学した長女には、いくらなんでも無理ではないかと思っていた。

 もともと長女はあまり勉強が得意な方でも熱心な方でもなかった。中学時代はテニス部の部活にまじめに参加していたが、学校から帰ってくると疲れたと言って寝てばかりいた。「看護婦になりたい」と言って、普通科ではなく看護科の高校に入学したときにも違和感はなかった。成績面から言って国公立の大学はむつかしいだろうし、我が家の経済状態では私立大学の進学はむりである。大学に進学しないで、早く一人前の社会人になってくれれば、ありがたいことに違いない。

 長女は中学時代には受験勉強らしいこともしないで、推薦で看護科の県立高校に入った。高校では合唱部に入り、結構楽しくやっていた。2年生になったからも合唱部のボランティアで施設に慰問に出かけたり、近所の歯医者でアルバイトをしたり、そのお金でいち早く携帯電話を買うなど、のびのびと高校生活を楽しんでいた。だから、「大学へ行きたい」と言い出したときには、「世に中、そんなにあまくはないよ」と私は本気にとりあわなかった。

 私の目から見て、長女の生活はおよそ受験生のそれとはかけはなれていた。3年生になっても部活に顔を出し、学校の正規の授業で何ヶ月も病院に実習に通ったりもしていた。もちろん塾には一切通わない。そして部屋は漫画の本の山。受験勉強とは無縁の生活を気ままにエンジョイしながら、ちゃっかり大学に受かりたいなどというのは虫が良すぎる。それに漫画が愛読書だという長女の頭の出来が、人一倍上等だとは考えられない。

 実際、センター入試の成績もそれほど出来たわけでもなかった。長女と一緒の大学に受験した7人のうち、M子さんは早いうちからこの大学に的をしぼって一人で河合塾に通い、模試なども受けて、センターの得点も長女よりはるかに高かったという。二次試験は小論文と面接だったが、これで逆転するのは難しいのではないか。とても勝ち目がないと思っていたが、ふたを開けてみたら、一番優秀なM子さんが落ちて、長女のほかあと二名が合格していた。

 医学部看護学科ということで、最近の医療事件の反省もあって、ペーパーテストの成績よりも人間的な適性を重視したのだろうか。たしかに性格的に長女は医学関係に適性が高いのだろう。歯医者でバイトをしていたときも、応対が的確で、笑顔がいいと評判はよかった。小論文の題は「医療ミス」についてだったが、わりとすらすら文章が浮かんできたという。

「まぐれだね」と私が冷やかすと、「そうでもないのよ。努力したんだから」と長女は心外そうに言う。聞けば高校の先生が日曜日も熱心に無料奉仕のボランティアで補習をしてくださった。私は遊び半分の部活かと思っていたが、学校で学科の勉強や、面接、小論文の指導をしっかり受けていたのだという。新聞の切り抜き帳も作って、小論文に備えていたようだ。私の目の届かないところで、長女なりに精一杯取り組んでいたと言うことらしい。

 それにしても、どうして「大学を受験しない」などと考えるようになったのか。それは病院実習に2ヶ月間通って、看護婦の仕事の大変さがわかったことが大きいという。もっと専門的な知識をつけて、できれば保健婦の資格もとりたいと切実に考えるようになったらしい。バイト先の歯医者さんでの体験も大きかったようだ。そこで知り合った同じアルバイトの助手の人が名大の女子学生で、同じ仕事をしていても、人間的なレベルの高さを見せつけられたという。

 しかし長女にとって一番幸運だったのは、たまたま合唱部に勉強のよくできる一年上の先輩がいて、何かとアドバイスや刺激を与えてくれたことだろう。そしてその先輩が進学した三重大学を、長女は第一志望に選んで受験した。受験前日もその先輩のアパートの部屋に泊めてもらって、面接の仕方を教えて貰ったという。「いい先生、いい友達、素敵な先輩にめぐまれたのがよかった」と、長女は言う。まったくその通りで、人間は出会いによって大きく変わるものだと実感した。

 残念ながら、長女の受験に関して、私の出番はほとんどなかった。一度小論文を書いたので見てくれと言って持ってきたが、面倒くさがり屋の私はななめ読みして、「なかなかいいじゃないか」と言った。安心して学校の先生に見せたら、全然駄目だと書き直しを命じられたという。そんなことがあって、父親をあてにしたらとんでもないことになりそうだと思ったようだ。

 結果的には、現職の教員でありながらあまり教育熱心ではなく、ずぼらであてにもならない父親よりも、有益で有能な隣人たちから積極的に多くを学んだ長女の、作戦勝ちというところだろうか。最後になったが、長女を支えて下さった多くの人たちに、心からの感謝を捧げたいと思う。そしてこうした人たちの好意に報いるためにも、長女には初心を忘れることなく、大学でしっかり学んでほしいと思う。


2001年03月09日(金) ペリクレスの子供たち

 アテネに民主制が確立したペリクレスの時代(紀元前5世紀)に、アテネは最も繁栄し、黄金期を迎えた。ペリクレスの父はアテネの政治家であり、ペルシア戦争の将軍の一人。母は、改革者として有名なクレイステネスを出しているアテネ屈指の名門貴族の出身だから、彼はまさにアテナイの政治家になるに十分な環境に生まれている。

 しかし、彼のような偉大な人物でも、家庭生活には恵まれなかった。浪費癖のある長男クサンティッポスは、父親の名前で借金して彼を困らせた。倹約家の彼は息子の借金を肩代わりするのを拒み、裁判沙汰になったが、長男はこれに怒って、父親の悪口や内緒の話を言って回わり、疫病で死ぬまで父をうらんでいたという。

 もう一人の息子、次男のパラロスも疫病で死ぬ。次男が死んだとき、冷静で取り乱したことのなかったペリクレスが、息子の遺体を花で飾り、人目も気にせず泣いたという。こうして彼には跡継ぎの息子がいなくなった。

 ペリクレスの妻も浪費家だったようで、結局ペリクレスはこの妻と離婚して、高級娼婦アスパシアを自分の愛人にして同棲生活を始める。一夫一婦制のギリシャでは複数の妻を持つことはあり得なかった。ペリクレスは彼女をとても愛していたようで、彼女が冒涜罪で訴えられたときには、法廷で彼女を涙ながらに弁護したという。

 ギリシャの高級娼婦は、男たちとともに政治の話、哲学の話などに加わり、会話によって男を楽しませる事が重要だった。アスパシアはミレトスの出身でアテネ人でなかったが、知性と教養に優れていた彼女の元には多くの男たちが訪れ、一種の文芸サロンだった。

 ソクラテスも弟子たちを連れてアスパシアのもとにかよったし、ペリクレスの後世に残る名演説の草稿を書いたのは彼女だという逸話もある。彼は彼女のために妻と別れ、このミトレス出身の娼婦と同棲生活をはじめたわけだが、アテネの名門に生まれた最高指導者のこの脱線ぶりは、さぞかしアテネ市民を驚かせに違いない。

 やがてペリクレスと彼女との間に、ペリクレスという父親と同じ名前の息子ができるが、ペリクレス自身が定めた市民権法に、「アテネ市民とアテネ市民から生まれた女性との結婚によって生まれたものだけが、アテネ市民になれる」という一条があって、ペリクレス2世はアテネ市民になることができない。

 しかし、アテネ市民は彼の業績を勘案して、ペリクレスがこの世を去る前に、特別にペリクレス2世に市民権を与えた。このペリクレス2世はペロポネソス戦争に将軍として参加するが、死亡した兵士の死体を回収しなかったと訴えられて、死刑にされた。こうして偉大な政治家ペリクレスの血筋が絶えてしまった。


2001年03月08日(木) アテネの光と影

 アテネの民主主義は、官職抽選制や政策決定最高機関である市民集会への成年男子市民の自由参加など、民主主義の制度としてより進んだ面もあるが、もちろん大きな限界もあった。それはポリスの繁栄は多くの奴隷たちの労働によってによって支えられていたということだ。

 アテネの場合、人口の約3分の1にあたる約8万人の奴隷がいた。多くは異民族の被征服民で、召し使いや、陶器の製造、農業生産のために奴隷が使われ、彼らが3分の2にあたる市民の生活を支えていた。鉱山(ラウレイオン銀山が有名)での強制労働のためにも大量の奴隷が使用された。

 アリストテレスは「奴隷は生きた財産である。奴隷と家畜の用途には大差がない。なぜなら両方とも肉体によって人生に奉仕するものだから」と述べている。奴隷を人間として認めていないのは、ソクラテスやプラトンも同じだった。

 彼らは戦争によって、奴隷という財産を獲得した。ギリシャの絢爛たる精神文化の影に、血なまぐさい戦争と、暗く悲しい奴隷たちの悲惨な生活があったことを忘れてはならない。戦争は民主主義を生み出したが、奴隷制度をも生み出したのである。


2001年03月07日(水) ペリクレスの演説

 アテネは、ペルシャ戦争が終わったあとも、デロス同盟の盟主として、その地位をますます強化した。デロス同盟の加盟国から、貢租金を取り立て、それをアテネのために流用した。ペリクレス時代のアテネは、内政的には民主化が進んだが、外交政策はあいかわらず武力にものをいわせた覇権主義だった。

 このアテネに対抗したのが精鋭の陸軍部隊を誇るスパルタである。スパルタは、もとより貴族制の国であり、アテネの民主政治を嫌っていた。アテネが興隆し、その影響が周辺に広まることはスパルタにとって脅威であった。

 前431年3月、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟側のテーベ軍がアテネ側のプラタイアに侵入した。これが以後27年間続くペロポネソス戦争のはじまりとなった。この戦争のさなか、前430年に、ペリクレスが戦争で死んだ戦士を追悼する有名な演説をしている。

「われらの政体は他国の制度を追従するものではない。ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範を習わしめるものである。その名は、少数者の独占を廃し、多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と呼ばれる。

 われわれアテナイ人は、質朴な美を好み、軟弱に陥ることのない知を愛する。われわれは、富を行動するための条件と考えるが、けっして富を誇示しない。自分が貧しくとも恥と思わないが、貧しさを克服しようとしないことを恥じる。

 われわれは、自分の家計と同じように、国の財政にも意を用い、おのれの職に精励すると同時に、国政の進むべき方向について熟慮するように務める。そして、公私の活動に関心を持たぬ者を、閑暇を愉しむ者とみなさず、そういう人間を無益な輩と考える」(トウーキュディデース『ペロポネソス戦役史』第2巻第4節)

 しかし、このあと、ペリクレスのアテネは思いがけない不運に見舞われた。ペストの大流行である。ペストはアテネの外港のピレウスで始まり、アテネに飛び火した。家も人も密集している不衛生な籠城生活をしていたアテネに、このおそろしい疫病は非常な勢いで広まり、2年間で全人口の3分の1が死んでしまった。ペリクレス自身ペストにかかり、前429年に亡くなった。

  ペストの流行は前426年まで及び、アテネを疲弊させた。そして、前405年の最後の海戦に敗れたアテネは海上から封鎖され、食料も尽き、翌年の前404年にアテネはついに降伏し、ギリシア全土に惨禍をもたらしたペロポネソス戦争はスパルタの勝利で終わった。

 しかし、その後前371年にはテーベがレウクトラの戦いでスパルタを破り、これによってスパルタの覇権も崩れた。以後ギリシアは慢性的な戦争状態に陥り、ギリシア世界全体が衰退していった。

 やがて、北方でマケドニアが勃興し、フィリッポス2世(位前359〜前336)が、ギリシアに侵入してきた。アテネとテーベは連合して、前338年にカイロネイアで戦ったが敗れ、ついに全ギリシアはマケドニアの支配下に置かれることとなった。

(注)トウーキュディデースはペリクレスと同時代の歴史家で、アテネの民主制をさして、「外観は民主制、内実は一人が支配する国」と書いている。実際、ペリクレスの死後、アテネは混乱し、衰亡した。しかし、ふたたび貴族制や王制に戻ることはなく、まがりなりにも民主制を維持し続けたことも事実である。


2001年03月06日(火) パルテノン神殿の威光

 古代アテネの象徴といえば、それはアクロポリスの丘にそびえたつパルテノン神殿だろう。ペルシャ戦争勝利の後、実権を握ったペリクレスは、総監督に友人のフィディアスを起用し、神殿建築にとりかかった。

 ペルシア戦争に際して、アテネ市民はアテナ女神に勝利を祈願し、神殿建設を誓った。そして戦勝はもちろんアテナ女神の加護によるものだと考えられたから、神殿の建築にアテネ市民はだれも反対しなかった。それどころか、アテネ全市民は、まるで熱病に取りつかれたように工事に励んだといわれている。

 神殿中央には、フィディアス作、高さ10mの黄金と象牙からなるアテナ女神像が据えられた。こうしてアテネの黄金期を象徴する美しい神殿が、前432年、15年の歳月をかけて完成した。このとき、アテネ市民は自分たちが、政治・経済・芸術すべての分野で世界史の頂点に立ったことを疑わなかっただろう。

 建設に当たって、工事に参加したアテネ市民は賃金を得ることが出来た。戦争で疲弊したアテネ経済を立て直すために、神殿建設は一種の公共事業として有効だったと思われる。官職者や市民集会の参加者への手当の支給といい、ペリクレスは個人生活では倹約家だったが、国家を運営するにあたっては、ずいぶん思い切ったお金の使い方をした。

 ところで、戦争が終わった直後に、どうしてこれだけのお金ができたのだろう。一体どこから、神殿の建築にかかる莫大な費用を捻出したのだろう。実はペリクレスはそれをデロス同盟の軍事資金のなかから流用したようだ。この金はペルシャに備えるために各ポリスが拠出したものであり、決してアテネの独占物ではない。

 ペリクレスはその金を、アテネのために使った。しかし、このことによって、彼はアテネの市民を経済的に潤し、自らの政治家としての名声を確立した。そして、彼の名声は、2000年の年月を隔てた現在でも、アクロポリスの丘にそびえたつパルテノン神殿とともに、燦然と輝いている。


2001年03月05日(月) ペルシャ戦争と民主主義

 ペルシャ大王クレルクセスは前480年、空前の規模の大遠征軍を率いてギリシアに侵攻した。ペルシア軍の兵力は、陸軍約30万人、そして海軍は三段櫂船(上中下3段にならんだ漕ぎ手が櫂を使って動かす古代の軍船)約1200隻と考えられている。

 テルモピレーの戦いでスパルタの精鋭部隊を破ったペルシャ軍は、ほとんど無抵を受けることなく南下し、9月にアテネのアクロポリスを占領した。アテネのほとんどの市民はすでに抵抗することなく、アテネの南にあるサラミス島へ逃れていた。

 このときサラミス島のギリシアの三段櫂船の総数は約310隻。そこへ500隻のペルシアの主力艦隊が押し寄せてきた。こうして史上有名なサラミスの海戦(前480年9月下旬)が始まった。しかしギリシア海軍は地の利と追い風を利用して、海の上では終始有利に戦いを進め、その機動力によってペルシア海軍をほぼ壊滅させることに成功した。

 このサラミスの海戦はペルシア戦争の行方を決定づけ、その後のギリシアの歴史を変えていくことになった。特に三段櫂船の漕ぎ手としてアテネの無産市民が活躍したことは、後のアテネの民主主義の発達に重大な影響をおよぼすことになった。

 三段櫂船の漕ぎ手は 1隻あたり170〜200名。そうすると、アテネの軍船200隻には漕ぎ手だけでも3万 4千人以上が必要になる。これは当時のアテネの全市民の人数に匹敵する。参政権を与えられていなかった約2万人もの無産市民がこの戦いに参加して、活躍したことは大きかった。

 財産がないために、武器・武具を買うことができなかった無産市民は、これまで重要な戦力にはなれなかった。ところが、サラミスの戦いで、彼らはギリシャの命運を賭けた戦いに参加し、ギリシャを勝利に導くために命を賭けて戦った。

 こうした実績を背景にして、やがて彼らは自らの参政権を要求し、それが認められることになる。そしてペリクレスの改革によって、政治の舞台でこれまで実権をにぎっていた貴族たちが構成する元老院から、無産市民をも含めた市民集会へと権力の中心が移っていった。

 成年男子の市民であれば誰でも市民集会に出席し、自由に発言できるようになった。市民集会は年間40日ほど開催されたと思われるが、出席者には手当が出た。これによって、無産市民の政治参加が促され、彼らのペリクレスへの支持は確固不動のものとなった。

 さらに、将軍・財務官などの一部の官職を除いて、一般官職が市民に開放され、抽選で決められた。そしてこれまで官職に報酬はつかなかったが、無産市民までが役人となったため、これにも報酬が支給されるようになった。

 ギリシャは君主制、貴族制(元老院制)、民主制と変遷したが、貴族制から民主制に移行した要因の一つが、ペルシャとの戦争で勝利を収めたことであった。もちそんこうした社会変革に際して、アテネにペリクレスという偉大な民衆派の指導者がいたことは無視できない。しかし、その後の世界の歴史を眺めてみても、民主主義がしばしば戦争の副産物として生み出されることはよくあることである。


2001年03月04日(日) 私たちは何故勉強しないか

 日本の中学生の学校外での勉強時間は調査した23国のなかで最低レベルだという。しかもこれは塾の時間を含んでいるという。(2/26読売新聞)世界の子供に比べて、日本の子供は勉強をしなくなった。

 その主な理由として、次の二つが考えられる。
�� 勉強が面白くない。
�� 必要性を感じない。

 まず�,砲弔い董◆嵎拔�は本来面白くないものだ」という考え方がある。私は本来は勉強は面白いものだと思っているが、これは見解がわかれるところだろう。ただ一般的に言えることは、勉強は本来面白くないと考える人は、彼自身あまり勉強が好きではなかったのだろう。

 たしかに「勉強嫌い」な人は多い。それはたぶん、彼が受けた学校教育にも問題があるのかもしれない。たとえば勉強を教える先生や親たちが「勉強は本来面白くないものだ」と考えていれば、子供も勉強は面白くないものだと考えるようになるだろうし、そうでなくても強制されてやることは、何事も面白くないものである。

 そこで、�△砲弔い董⊆,帽佑┐討澆襦��,両豺腓乏催�し、勉強が嫌いであっても、必要だとわかればやるだろう。ところが、今学校で習っている事がどれだけ人生で役に立つか、多くの生徒は内心で疑問に思っているのではないだろうか。

 数学で言えば、三平方の定理など知らなくても、実生活に何も不都合はない。まして、微分や積分の計算など一体何の役に立つのか。同じ疑問は古典の文法や漢文の勉強にも感じるのではないだろうか。学校で習うことがほとんど何の役にも立たないことは、多くの大人たちもうすうす感じているのではないかと思う。

 たしかに苦労して英単語を覚えてみても、多くのほとんどの日本人は外国人と英語で会話をすることはない。小型で性能のよい自動翻訳機が普及しつつある今日、実用的な見地から言っても、それほど苦労して英語を学ぶ必要があるのか、疑問なしとしない。少子化の時代を迎えて、大学も希望すればだれでも入れる時代を迎えようとしている。だから、受験のために必要だということも言えなくなった。

 来年度から新学習指導要領が実施され、総合学習などの単位ができて、教科内容が三割削減される。そうすると、ますます子供の学力低下が顕著になるのではないかと不安がでている。しかし、今学校で教えられていることのどれだけ本当に必要なことか、冷静に考えてみる必要がある。私は文部省の肩を持つわけではないが、「教科内容の三割削減」については、すこぶるまっとうな考え方だと思う。

 子供たちに勉強させるためには、次の二つが大切だろう。
�ゞ縮�をいだかせること。
��必要性を感じさせること。

 本質的なことではなく、また人生を生きていく上でその必要性が感じられない些末なことばかりを教えていては、これからますます勉強嫌いが増えるだろう。私に言わせれば、教科内容の「5割削減」でいいと思う。学校では本当に必要な事を集中して教えればよい。

 それは何かと言えば、日本語の読み書きと、計算である。さらにもうひとつ、もっとも大切なこと、それは「自分の頭で考える」ということである。それ以外の無数の枝葉は、必要なときに自分で学べばよい。

 私は勉強が好きだったが、学校は嫌いだった。それは勉強は自分のために、自分でするもので、学校で強制的に教えられるべきものではないと考えていたからだ。しかし、学校で強制的に教えられなければならないこともある。問題はそうした強制の時間をなるべく少なくすることだろう。


2001年03月03日(土) ITが開く新しい社会

 米国では操業短縮や解雇、設備投資の削減や業績見通しの下方修正など、景気の減速が鮮明になってきている。株式市場の下落で景気後退がさらに深刻化し、2年後には恐慌を迎えかねないと言う見方もある。

 これまで米景気を牽引してきたのはIT産業だった。ところがここへきて、肝心のIT産業が不振を極めているのだという。「IT産業は高収益を上げてくれる」という神話が崩れ、ネット関連の新興企業や通信関係の業界は軒並みふるわない。

 FRBはこの事態を受けて1月に2回利下げした。ブッシュ新政権も大型減税を打ち出し、景気にテコ入れをしょうとしている。このまま米経済が減速すれば、世界経済もまた危殆にに瀕することはあきらかだ。世界的な恐慌に発展する恐れも出てくる。

 何とか米経済がこのまま好調を維持してほしいが、しかしこれまでのように株価の天上知らずの上昇が期待できるかというと、これはむつかしい。その理由はITの性格を考えれば納得がいくと思う。

 たとえばインターネットの発達によって、私たちは低いコストで、瞬時に世界中の人々とコミュニケートできるようになった。そうすると、まず国際電話がいらなくなる。たぶんあと5年もすれば、だれも高い料金を使って国際電話を使わなくなるだろう。こうしたことは他のあらゆる分野でこれから起こってくる。簡単に言うと、ITは経済規模を拡大する方向には働かず、むしろ縮小する方向に働くのである。

 ITに乗り遅れると、商売は成り立たなくなる。しかし、ITを実現しても、業績がよくなるのは当座だけで、全体的に見れば商売は縮小するしかない。ITは生産性を飛躍的に高めるが、同時にコストを押さえるので、利益の総量はむしろ縮小する。

 はっきり言えば、ITは商売に向かない。むしろ商業主義を否定する方向に働くに違いない。ITで一儲けしようという人にとっては残念なことかもしれないが、金儲けばかりが人生ではないと考える人々にとって、これは実に痛快なことである。

 それではどうやって、経済的破綻を逃れたらいいのか。ITの促進がかえって不況を産むとしたら、ITを押さえればよいのか。もちろん、そんなことは不可能である。今後ITはますます発展するだろう。もはやこの趨勢を押しとどめることは出来ない。

 そうすると答えは一つしかない。つまり、これまでの経済至上主義的なシステムを改めることである。ITによる生産性の上昇というメリットを、世界の人類が全員で共有できる仕組みをつくることが必要になってくる。こうした方向に世界が動き始めれば、環境問題をはじめ、今地上で問題になっているほとんどの課題は解決するに違いない。

 科学技術の進歩を、人類全体の福祉の向上のために活用すること、これこそが21世紀の人類が目指すべき、本当のグローバリズムではないだろうか。こうした知恵のある道を選択しない限り、人類の未来は明るくならないだろう。



2001年03月02日(金) 遅ればせながら、天国の父へ

 昨日は私の勤務先の高校の卒業式の日だった。3年生の担任でなくても、こうした大事な式の行われる日は緊張して疲れる。とくに今年は成人式での若者の傍若無人ぶりが報道されたりしたのでよけいだった。生徒の日頃の行動を見ていると、何が起こっても不思議でなかったが、北さんをはじめ、担任の先生方の事前指導もあって、式はどうにか無事終えることができた。

 長女と次女の通う高校でも無事卒業式ができたようである。長女は3年生だったので、卒業生ということになる。妻も私も卒業式には行かなかった。二人とも仕事があったし、「もう子供じゃないんだから」と言う感じである。しかし、高校の卒業式に出席する父兄は多いようだ。うちの学校でもそうだし、長女の友人の父兄もほとんど来たという。長女は妻に「べつに、こなくていい」と言っていたが、内心はどうだったのだろう。

 昨夜はいつになく早く、9時過ぎに床についた。部屋の灯りを消して寝ていると、ドアにノックの音がして、長女が入ってきた。何事かと思うと、
「おとうさん、おかげで今日卒業することができました。これまで、いろいろと私をささえてくれて、ありがとう」という。いつにない改まった口調だった。

 私は布団から起きあがって、「よくがんばったね。おめでとう」と答えた。そうすると長女は、「この先、もう少し学校を続ける予定なので、よろしくお願いします」と言って笑いながら頭を下げた。長女は看護婦になるつもりで、県立高校の看護科に入った。しかし、今は保健婦になりたいので、その免許が取れる公立の短大か四大への進学を希望して、受験した。まだ最終結果は出ていないが、いずれも他県の学校なので、親元を離れて生活することになりそうだ。

 長女が出ていった後、私はふと、何十年か前の自分の卒業した日を思い出した。高校を卒業した日、私は両親に一言でも「ありがとう」と言っただろうか。そんな記憶はどこにもない。大学を卒業したときも、両親に挨拶などしなかった。何という親不孝な息子だったことだろう。

 私はパジャマ姿のまま、布団の上で正座して、遅ればせながら、深々と頭を下げた。「おとうさん、おかあさん、ありがとうございました。おかげで無事卒業することが出来ました。私を支えて下さって、ありがとうございました」すでに冥界の人となった父に、私の心の声は届いたであろうか。


2001年03月01日(木) 膨大な日本の国家予算

 日本の予算は、約80兆円である。この額はいうまでもなく、アメリカについで大きい。ところで、ロシアの国家予算は、どのくらいだろう。これが何と、約3兆円だという。つまり、ロシアの国家予算は日本の約30分の1しかない。

 ロシアの国土面積は日本の約60倍もある。アメリカとはりあうためには軍事費もそれだけ必要だろう。宇宙ロケットも飛ばしている。しかし、そうしたことを日本の30分の1の費用でどうにかやっているのだ。

 少ない予算でやりくりしているのはロシアばかりではない。他の国も同じようなものだ。こう考えてみると、日本がいかに金持ちであり、金銭的に恵まれているかが分かる。経済不況だと言いながら、国民の金融資産は1300兆円もある。これはだんとつの世界一だ。

 問題はこのお金が少しも活かされていないことだ。はっきり言えばお金を無駄遣いしているのである。だからロシアの30倍もの予算を使いながら、国際社会での影響力は30分の1くらいしかない。お金をもうけることばかりにあくせくしないで、いかにそれを活用するかにもう少し頭を使ってみてはどうだろう。


橋本裕 |MAIL |HomePage

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