橋本裕の日記
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テニス部の公式試合も終わり、一区切りついたところで、28日に3年生の追いだし会を持った。2,3年生の部員が16名に、顧問やコーチが6名、あわせて22名で昼食を挟んでダブルスの親善試合をした。
試合はトランプを使ってペアを決めるので、組み合わせ次第で誰と当たるのか分からない。強い相手と組めば、勝つチャンスが大きくなる。ゲーム差に応じて点数が加点、もしくは減点され、私の場合は−7点の大幅な負けになった。とくに昼食後の試合で3連敗したのが痛かった。ビールを飲んで、酔いが回ったせいかもしれない。
連休の初日はこうして、楽しく過ぎた。そして二日目は家族で、この春から三重の津で大学生活を送っている長女のところへ遊びに行った。大学のすぐ裏が潮干狩りの出来る海岸だと聞いて、道具を持っていったが、途中から雨になり、結局貝は捕れずじまい。しかし、元気に大学生活を送っている長女の顔を見て、少し安心した。
今日も朝から雨である。図書館で借りてきたキケロの「老年の豊かさについて」という本を読もうと思っている。一日落ち着いて読書できるのは、何十日ぶりだろう。雨の日はやはり読書に限る。
虹は万葉集にも詠まれているが、古代人にとって、それは神秘的な存在の代名詞であった。ギリシャ神話の女神イリスは虹の神で、天と地、神々と人を結ぶとされ、神々の使者とされている。中国でも虹は天と地を結ぶ架け橋だと考えられていた。
漢字の「虹」は虫と工からできているが、その意味は「天と地を繋ぐ蛇」だという。蛇は雨を呼ぶ生き物として信仰されたが、虹も又雨にゆかりがある。古代人にとって虹は希望を呼ぶ光だったのかも知れない。
虹について、はじめて科学的考察を加えたのはギリシャ人だった。例えばアリストテレスは『気象学』の中で、虹はできたばかりの雨滴が「霧よりもよい鏡」になるために、それによる反射で現れるのだと唱えた。
これを受けて、セネカは最後の著作となった『自然研究』の中で、「虹は雲という鏡に映った太陽の似姿であって、実像ではない」と述べ、実際の鏡も実物を歪曲して、「覗くとぞっとするような怖い鏡もある。・・・それゆえ、この種の鏡が雲の中に生じて、そこに太陽の欠陥像を写し出したとしても、何の不思議があるだろうか」と書いている。つまり、虹とは雲という不完全な鏡によって反射された、太陽の千々に砕けた分身だというわけである。
ところで虹は7色と言われるが、これも昔からそうと決まっていたわけではない。アリストテレスは,虹には赤録青の三色があるが,赤緑色の間に黄色がある場合もあると述べている。今でも南米の方では3色という民族もあるそうだ。ちなみに日本人も昔は3色から6色までで考えていた。江戸時代の『和漢三才図会』には,虹は「弓形をしていて外は黄,中は緑で紅をつつむ」と記載されている。
虹についてほぼ完璧な科学的説明を与えたのはニュートンである。彼は虹は球形の水滴に太陽光が入射して水滴内部で反射して出射することで発生し、太陽光に含まれる7色の光の水滴内での屈折率違いが、虹の色を作り出すと考えた。
なぜニュートンは虹を7色と考えたのだろうか。それは音階からの類比だったという。音の7音階と太陽光の7色が対応していると考えたようだ。この点で、ニュートンはいささか科学者らしい厳密生を欠いていた。彼の権威によって、日本では明治時代に入って虹は7色と決まったが、実のところ虹が何色であるか、それは虹そのものの属性ではなく、それを眺める人間の文化的習慣である。
さて、ふたたびセネカに戻ろう。セネカは鏡の比喩を使って、「これらのものは似姿であり、本当の物体の虚像であるが、それらの像自体も、次のことができるように誰かが作った鏡によってへんてこに歪められる。・・・誓って言うが、罪悪というものもそれ自体をまともに眺めることを恐れる」と述べている。
セネカは自然について語りながら、いつの間にか、人間について語っている。人間の心に住み着いているもろもろの悪徳が、暗うつな雲のようにわだかまり、いびつな鏡となって、さまざまな人生の幻想を現出させる。「覗くとぞっとするような怖いか鏡」とは、すなわち悪徳にまみれた人の心なのだろう。そのような歪な人の心に、自然のほんとうの姿が映るはずがないと、セネカは考えていたようだ。
| 2001年04月28日(土) |
テミストクレスの英知 |
昔アテネに、テミストクレスという政治家がいた。前483年、ラウリオン銀山で大鉱脈が発見されたとき、彼は余剰金を市民に配ることに反対し、これで100隻の軍船を建造することを提案した。しぶる市民を説得して、彼はこれを実現させたが、それによって後にペルシャの大艦隊を破り、国難を避けることが出来た。
歴史家はもしこのとき、アテネ市民がテミストクレスの言葉に耳を傾けず、慣例に従って富の分配を受けていたら、ペルシャ戦争の勝利はなかっただろうと説いている。ポリスの自由と平等は失われ、パルテノン神殿やプラトンの哲学をはじめ、数々の芸術作品、つまり今日我々が目にするギリシャ古典文化は残らなかった。つまりは、今日の世界の様子は全く別のものになっていたに違いないというのだ。
さて、時代も場所も変わって、現代の日本である。新しく首相に選ばれた小泉さんの持論は「構造改革」だという。不良債権を早期に処分し、規制緩和を進めながら、小さな政府をめざす。一口に言えば、自由競争という市場原理を貫徹させ、政治経済のグローバル化を押し進めるということだろう。これはアメリカが日本に長年要求していたことであり、そうした意味でアメリカの政界も小泉氏に期待を抱いているようだ。
これまで、歴代の内閣はこのことを怠ってきた。それは長期的に見れば構造改革は経済を蘇生させるが、短期的には経済を縮小し、失業を産み、成長率をマイナスにしかねないからだ。デフレの危機が叫ばれている今日、思い切った構造改革をすれば、どんなことになるか。そのリスクを考えると、どうしても二の足を踏まざるを得ない。とくに政治家は目先の選挙が目にちらついて、無難な現状維持の方に傾く。
しかし、世界が大きく変わろうとしている中で、日本のシステムは次第に時代遅れとなり、このままでは近い将来に破綻することは目に見えている。世界で二番目の経済大国である日本が破綻すれば、世界の経済もまたその悪影響をまぬがれない。場合によったら、日本発の世界大恐慌が生じる恐れさえある。それだけに、世界の目が日本の改革の行方を見守っているのだ。
アテネの場合のように、遠い昔の遠い国の出来事が、実は現在の私たちの在り方に決定的な影響を与えていることがある。ここで小泉さんにテミストクレスの英知を期待したい。ひょっとして、彼が日本を変えれば、世界が代わるかも知れない。日本の政治家は今や、世界の歴史に責任を負っている。そうしたグローバルな視点と責任感をもって、日本の改革を進めてもらいたい。
最後になったが、一番重要なことを書いておこう。「構造改革」で大切なのは、それが「誰のための改革か」ということである。これまで日本を支配してきた大企業や既得権益集団を打破することなく、社会的弱者に犠牲を強いるだけの改革にならないように、私たちはその行方と実態を見極める必要がある。構造改革とは、つまり内部の敵との戦いである。敵が何であるか、しっかり見定める必要がある。
昨日、テニスコートで部活の指導をしていたら、女子のテニス部の顧問をしているA先生が携帯片手に走ってきて、「球の表面積を求める公式を教えて下さい」という。私が数学の教師だと見込んでの質問だろうが、実は私はこうした質問に咄嗟に答えるのが苦手である。
「ええっと、たしか・・・」と声には出さなかったものの、頭を遙か昔にならった算数の世界に彷徨わせた後、「それは同じ半径の円の面積の4倍です。つまり、4πrrですね」と、おもむろにグランドに指先で式を書いた。
「ほんとうですか。間違いないですか」とA先生は念を押す。「ええ、間違いありません」と言ってみたが、実のところあまり自信がない。なにしろ球の表面積などというものは、高校で教えたことはないし、おそらくは中学校時代にならったきりではないか。真剣な表情をしたA先生を見ているうちに、何だか不安になってきた。
「また、どうして、球の表面積など知りたいのですか」ときくと、「実は、今弟から携帯で訊いてきたのです」という。弟さんは小さな会社の社長さんで、球を包む材料の発注をしたいのだが、どのくらいの量を発注するべきか、その計算が出来なくて困っているのだという。
「それでは、公式が間違っていたら、大変ですね」と私が言うと、「そうです。いま経営が厳しいそうですから、たぶん倒産するかも知れません」というA先生の答え。冗談かと思ったが、A先生はしごく真面目な顔で言う。そして、弟さんに「円の面積の4倍だそうだよ。ええと、円の面積は・・・、そうそう、πは3.14だからね」
A先生が去った後、私の頭にひょっとして、円の面積の3倍ではないかという疑問が生じた。そこで私は部活の指導をそっちのけで、この公式を証明すべく、頭をフル回転させたが、残念なことにどうしても証明できない。もっとも、円の面積の3倍以上あることは証明が出来て、少しほっとした。
学校から帰り、さっそく、インターネット。「球の面積」というキーワードで検索すると、公式が出てきた。たしかに円の面積の4倍である。証明の仕方も書いてあったが、それは見ないことにした。いずれ暇が出来たら、自分で証明してみたいと思っている。
それにしても、こんな基本的な数学の公式が、身近な社会の現場で役にたっていることを知って、「数学もばかにできないぞ」と思った。そして、さっそく生徒にこの話をしてやろうと思った。
4人で争われた自民党の総裁選は、大方の予想に反して、小泉氏が橋本氏を圧倒した。予備選での大勝がものをいったようである。今日国会で首相に指名され、今夜のうちに第一次小泉内閣が発足する予定になっている。
それにしても彼は第87代首相だというから、驚きである。伊藤博文が初代首相になったのが明治8年(1885年)のことだから、この126年間で随分首相の交代劇があったことになる。
小泉氏は森派の会長として、森首相を支えてきた。しかし、政治手法は森氏とはずいぶん違うようである。小泉氏には少なくとも理念が感じられるし、政策にも通じている。これまでの調停型の政治家でない新しさを感じる。彼の人気が高いのも、うなずけないことではない。
彼の政策と言えば、郵政事業の民営化、国債発行の抑制、中選挙区制復活などがあげられる。私はかならずしも彼のこれらの政策に賛成というわけではない。私が小泉氏に一番期待したいのは何か、それは「首相公選制」の導入である。彼ならそれが実行できるかも知れない。
ゼノンとほぼ同じ頃、サモス島生まれのエピクロス(前342〜271)がアテネ郊外に学園を開いて、哲学を教えていた。彼の学園は「エピクロスの園」と呼ばれ、哲学者ばかりでなく婦人や子供、奴隷まで集まってきたという。人間の感覚や感性を重視する彼の哲学には、高邁な哲理を振りかざす学問的な難解さはなかった。むしろ「人生を如何に幸福に生きるか」という実践的で、処世的な面が重視されていた。
エピクロスの哲学は感覚尊重の立場から、ともすれば「快楽主義」と呼ばれ、ゼノンの唱えた理性を尊重するストア派の「禁欲主義」と対立するものとして扱われるが、これはあまりに通俗的な理解と言うべきだろう。実際、彼の哲学は精神の安静を幸福と考え、自然に即した生活を理想とした点で、ストア派と共通するところの方が多い。そしてストア派の代表的な文人セネカも、その著作の中でエピクロスを何度も引用し、彼の哲学にもっとも深い理解と共感を示している。
「自然の道に帰ろうではありませんか。そこにこそ富が用意されています。われわれが必要とするものは無料であるか、あるいは安価なものです。パンと水だけが自然の欲するものです。このような状況では貧乏な者はひとりもいません。この状況のうちに自らの欲望を限定できる者は誰でも、ゼウスの神とさえ幸福を競い合えると、エピクロスも言っています」(セネカ、道徳書簡集25)
エピクロスは唯一の善を快楽としたが、彼の主張する「快楽」は理性による節制の結果得られる、「心の平静」であり、すぐれて精神的なものである。物質的にはむしろ「禁欲主義」といってもよく、それは彼の「われにパンと水さえあれば、ゼウスの神と幸福を競おう」という有名な言葉にもうかがえる。
ところで、セネカをエピクロスに傾倒させたのは、エピクロスがくりかえし「死の恐怖からの克服」を説いていることも大ききいのだろう。エピクロスにとって「善悪はすべて感覚のうちにあるが、死は感覚の喪失」であった。
死はわれわれが生きている間はまだ来ていないし、死が来たときには、われわれはもはや生きていない。したがって、「死は、生者にとっても死者にとっても、無関係なものである。死は生者にとって、存在しない」とエピクロスは説く。たしかに、われわれは存在しないものを恐れる必要はないわけだ。
「生きていることを嫌うのでもなく、また死を恐れるのでもない。というのは、知者にとって生きていることが煩わしくもないし、また死を悪いことだとも思わないからである。あたかも人が食事を選ぶのに、かならずしも量の多いものではなく、最も快い味のものを選ぶように、知者は最も長い時間をでなく、最も快い時間を楽しむのである」(メノイケウスへの手紙)
こうしたエピクロスの文章を読んでいると、いつしか私自身「エピクロスの園」に招かれて、彼の言葉を身近に聴いているような幸せを覚える。彼の言葉は私たちの魂に直に働きかけ、人生の苦労や不安をとりのぞき、私たちの心をよりよく生きることの喜びへと導いてくれる。
昔アテネに、樽の中で生活している男がいた。名前をディオゲネス(前336〜264)という。アレキサンダー大王が彼の前に立って「何か望みはないか」と聞いたとき、「そこをどいて、私に日光を与えて下さい」と言った話は有名である。
この男は他にもいろいろと逸話を残している。たとえば、あるとき彼が野菜を洗っていると、知人が通りかかって、「君も金持ちの友人を持てば、野菜を洗わなくてすむようになるだろうに」と声をかけた。これに対して、彼はすかさず、「君こそ野菜を洗う楽しみを知れば、金持ちの友人とつきあわなくてすむだろう」と答えたという。
この男の弟子に、クラテスという哲学者がいて、「ポリスの砦や家が私の祖国ではなく、大地のいたるところが私の住む都市であり、住居である」という言葉を残している。彼は師を見習って、妻と一緒に「自然に従う」乞食生活をしていたという。
そしてクラテスの弟子が、ストア派の始祖ともいうべき哲学者ゼノン(前336〜264)である。彼はキプロス島の生まれで、貿易商人だったが、嵐にあって船が難破し、やっとの思いでアテネにたどり着いた。そこで、クセノフォンの「ソクラテスの思い出」を読み、クラテスの弟子になって哲学に志すようになったのだという。
彼が書き残した「国家論」は断片しか伝わっていないが、彼はアリストテレスの「人間はポリス的生物である」という考え方を批判して、世界には一つの法(自然法)、一つの国家があるだけで、すべてのポリスはそのなかに解消され、人々はひとしく世界市民となるべきだと考えた。
彼は「すべての人間は同じ理性をそなえていて平等である」と考えたから、彼の理想とする国家には、市民と非市民、自由人と奴隷の区別がなかった。偶像崇拝や犠牲祭祀は理性的な立場から批判され、ポリスに必要とされる神殿や法廷、体育館などはなく、男女の差別もない。
彼の自然法の考え方や世界市民主義は、その後ローマ法やキリスト教に受けつがれた。さらにはヨーロッパ思想のもっとも良質な合理精神の源流となり、自由や平等、民主主義を志向する貴重な知的共有財産として、今日の我々にまで受け継がれている。
| 2001年04月23日(月) |
人間はすぐに壊れる容器 |
「人生の短さについて」(岩波文庫)をはじめ、セネカの数々の作品の翻訳者として知られる茂手木元蔵(もてぎ・もとぞう)さんは、もともとアリストテレスの研究者だった。ところがラテン語を勉強するためにいわば趣味でセネカの文章を訳しているうちに、すっかり彼の文章の魅力にとりつかれてしまったのだという。彼自身の文章を「セネカ入門 〜セネカと私〜」(東海大学出版会1994)から引用しよう。
「私は学生時代からとくにアリストテレスの哲学を学び、かつそれを教えて飯の種にしてきた。しかし正直に告白すると、この哲学の論理の緻密さには頭では感心したが、どうも、心では感動したことがない。自分の勉強不足と非才が原因と思うが、何十年もそれと交わり、論文も書いたり本も出した。しかし結局その哲学は理解できず、正直言って心の底から感動もできなかった」
「ところが中年以降、並行して、むしろ趣味として読み始めたセネカには、アリストテレスにない面白みを感じ、長年興味も失わずに翻訳することが出来た。とくに感動したのは、わが息子を失った母親マルキアにあてて書いた『心の慰めについて』であった」
そこで、セネカの「心の慰めについて」から、いくつかの文章を引用しよう。残念ながら、私の手元にその本がないので、茂手木さんの「セネカ入門」からの引用である。
「人間とは一体何でしょうか。どっちへ揺すっても、どっちへ投げても、すぐに壊れる容器です。あなたを粉微塵にするには大風の吹く必要はありません。どこに突き当たろうとも、あなたは自ら解体するでしょう。人間とは一体何でしょうか。それは弱く壊れやすい肉体です。しかも裸のままの肉体で、その自然の状態たるや無武装であって、他のもの援助を必要としていますし、また運命のあらゆる虐待の前に投げ出されています」
セネカは、私たちはだれも矢や槍の飛び交う戦場にいるようなもので、もしだれかが倒れたら、その矢は自分をねらったものだと思わなければならないという。そして、「誰かに起こりうることは、誰にでも起こり得る」という一句を引用する。死は万人にとって逃れるすべのない運命である。しかし、だからと言って、むやみに恐れる必要はない。
「次のことを考えて下さい。死んだ者はどんな災いにも悩まされないこと、地獄は恐いものだとわれわれに思わせる話は寓話に過ぎないこと、死人には暗闇も牢獄も灼熱の火の河も待ち受けていないこと、さては裁く人も裁かれる人もいないし、再び暴君たちにあうこともないこと、そういったことです。これらは詩人たちの戯れの作り事で、無駄な恐怖を起こさせて我々の心を苦しめているのです・・・死はあらゆるものからの解放であり、われわれの不幸がもうそれ以上出ていくことがない限界です。それは、われわれが生まれる前に横たわっていた平安のなかに、われわれを連れ戻すのです」
「どうかこれからは、あなたの息子を評価するのに、もろもろの美点をもってし、年齢をもってしないようにしてください。そうすれば彼は長く生きたことになります。・・・彼は永遠に生きており、今ではいっそう外部の重圧から一切解放され、なにごとも自分の意のままです。そこには、この世の混乱と暗黒を脱して、清浄にして純粋なものを見にいこうとする魂を、永遠の平安が待っているのです。・・・われわれ、幸福にして永遠を得た魂たちも、宇宙を新しく組み立てることが神のみ心に適う時が来たならば、その時は自らも、この巨大な破滅への微少な付け足しとして、昔の元素に回帰することでしょう」
セネカはアリストテレスがあまり好きではなかったようだ。「人生の短さについて」の冒頭でもアリストテレスを批判しているし、先輩のストア派哲学者セクスティウスを賞賛した文章の中でも、「ある人たちは名前が有名でも、その書いたものになると力がないものがあります。秩序が立ち、論究はあり、議論もありますが、心を持っていないので、心を呼び覚ましてはくれません」と書いている。セネカの文章を続けて引用しよう。
「ところがセクスティウスを読むと、君はこう言うでしょう。『彼は生存しており、活力があり、自由であり、人間を越えている。そして本を閉じるときは、私を勇気でいっぱいに満たしてくれる』・・・彼の書き物を読むとき、僕の心がどんな状態にあるかを正直に申します。僕はすすんであらゆる出来事に挑戦したい。そしてこう叫びたい。『運命よ、お前はどうしてぐずぐずしているのか。戦おうではないか。見よ、私はお前を待ちかまえているのだ』どこで自分を試すか、どこで自分の強さを示すかを探し求める人の心を、僕は自分の心とします」(道徳書簡集64)
セクスティウスをセネカと読み替えることに、多くの人が同意するのではないだろうか。セネカの文章は、何よりも私たちの心を、「勇気でいっぱいに満たしてくれる」のである。
セネカ(BC4〜AC65)の「人生の短さについて」(岩波文庫)を読んだ。今日はこの本の紹介をしよう。セネカは2000年ほど前のローマの文人である。あの有名なネロ皇帝の家庭教師をしていたこともある。彼のこの本は前から一度読んでみたいと思っていた。
セネカによれば、アリストテレスのような哲学者をはじめ、多くの人が「人生は短い」と嘆いているが、それは間違いで、「人生は十分に長く、その全体が有効に使われるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富にあたえられている」という。
「われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。われわれは人生に不足しているのではなく、それを濫費しているのである」
髪の白さや皺の多いからといって、その人が長く生きたということにはならない。ただ「長くあった」ということでしかない。時間は無形なものであり、肉眼には映らないから、人はそれを見失う。そして、単に髪が白い人は、人生を長く航海したというよりも、人生に「長く翻弄された」というべきだと、セネカは主張する。
それでは何が人生をかくのごとく短くするのか。セネカはそれは「多忙」のせいであるという。多忙な人は生活を失い、そして人生さえ失っている。しかし彼ら多忙に追われている人たちは、終点に至らなければそれがわからない。
「君は多忙であり、人生は急ぎ過ぎ去っていく。やがて死は近づくであろう。そして好むと好まざるとにかかわらず、遂に死の時を迎えねばならない」「なかんずく、最も惨めな者といえば、自分自身の用事でもないことに苦労したり、他人の眠りに合わせて眠ったり、他人の歩調に合わせて歩き回ったり、何よりもいちばん自由であるべき愛と憎とを命令されて行う者である」「高官や名声は人生を犠牲にして獲得される」
人生は「過去」「現在」「未来」の三つの時にわけられる。しかし、多忙の人たちはただ現在の時だけに関わりを持ち、しかもそれは捕らえることができないほど短く、その短い時でさえも、方々に気が散っているので、知らぬ間に取り去られてしまう。こうして、人生はいやが上にも短くならざるを得ない。
過去を忘れ現在を軽んじ未来を恐れる者たちの生涯は、きわめて短く、きわめて不安である。これに対して、「万人のうちで英知に専念する者のみが余裕のある人である」とセネカは言う。
「このような者のみが生きていると言うべきである。それは彼らが自己の生涯を立派に守っているからだけではない。彼らはあらゆる時代を自己の時代に付け加える。彼ら以前に過ぎ去った年月は、ことごとく彼らに付加されている。我々がひどい恩知らずでないかぎり、かの聖なる見識を築いてくれた最もすぐれた人たちは、われわれのために生まれたのであり、われわれのために人生を用意してくれた人々であることを知るであろう。他人の苦労のおかげでわれわれは、闇の中から光の中へ掘り出された最も美しいものへと運ばれる」
私たちは自分の肉体を分かち与えてくれた両親を自由に選ぶことはできない。それは偶然によって人間に与えられたものだからだ。しかし私たちの魂は、自己の裁量で、誰の子にでも生まれることができる。そこには「最もすぐれた天才たちの家庭」がいくつかある。
セネカは彼らを友に選び、彼らとともに人生を考え、有益な助言を得ようとする者は、彼らから「永遠の財産を受け継ぐ者」であり、もはや「多忙によって人生をうしなうことはない」と書いている。そして、そういう人々にとって、人生は「最も偉大なことをも完成できるほど豊富にあたえられている」のである。
花粉症は花粉の多く飛ぶ季節に起こる。そのため花粉症は花粉によって引き起こされると考えている人が多い。しかし、本当の原因は別にあることが、6年前ほど前に大学の研究室で解明され、新聞にも大きく報道された。
研究によれば、重度の花粉症患者を空気の清浄な山中に同行したところ、症状は快方に向かい、その後花粉の吹き付ける風下に立っても発病しなくなったという。まさに、私が一昨日山中で経験したのと同じ事である。
昨日の日記にも書いたことだが、花粉は太古の昔から存在した。しかし、花粉症は現代病である。福井の田舎育ちの私は、それこそ杉木立の中で育ったが、そのころは少しも花粉症の症状はなかった。名古屋の町中に暮らすようになって、この症状に襲われた。
大学の研究によると、花粉がディーゼルの排気ガスと融合して化学変化を起すことによって、症状を誘発するアレルゲンとなるという。きれいな花粉は症状を引き起こさない。症状を引き起こすのは、大気汚染で汚れた花粉であり、もうすこし正確に言えば、花粉に着いた「汚れ」の方である。
「花粉症」という名前は間違いで、「ディーゼル汚染症」と呼ぶべきだったのだ。事実、世界で一番花粉症患者が多いのはドイツで次が日本だが、この順位はまさに全車両数に対してジーゼル車が占める比率の順位でもある。
しかし、多くの人はいまだに花粉症は花粉による自然災害だと思っている。そしていつでも産業界の利益を最優先する政府は、今もこの研究を無視して、「花粉症」の犯人を花粉に転嫁し続けている。そのことで利益を上げているのは誰だろう。自動車業界や運輸業界ばかりではない。膨大な患者を抱える医療機関もそうだ。政治献金をうけている政治家もそうだろう。
「花粉症」で苦しんでいる日本の1300万人の同胞たちに訴えたい。これ以上犠牲を堪え忍んでばかりいないで、今こそ真実に目覚めて、ディーゼル車を放置している政府の無策に、怒りの声を上げようではではないか。
昨日は学校の遠足で、養老の滝へ行った。天候に恵まれ、初夏のようなさわやかな風の中を、昨夜の雨に洗われた清々しい新緑を眺めながら、渓流沿いの山道を、生徒たちと滝まで歩いた。滝の高さは約40メートル、幅3メートルほどの水が滝壺に落ちていた。
木の葉のそよぎや滝の音を聞いていると、いっとき心は塵芥を離れて、日頃の鬱屈や疲れを忘れる。そして、たまたまバスの中で読んでいた国木田独歩の「山林に自由存す」という詩を思い浮かべた。
山林に自由存す われこの句を吟じて血のわくを覚ゆ ああ山林に自由存す いかなればわれ山林をみすてし・・・
ところで、山歩きをしているうちに、このところ私を苦しめていた花粉症の症状がすっかり消えていた。森林の清浄な空気のせいだろうか。それにしても花粉の本場に来て花粉症が治るというのは不思議な気もするが、実は「花粉症」の主原因は花粉ではないという大学の研究報告があるそうだ。
考えてみれば、花粉は太古の昔からあったが、花粉症などいう厄介な病気は現代人特有のものである。福井の田舎で杉木立に囲まれて暮らしていた私も、そして私の周囲の大人たちも、くしゃみ、鼻水、目のかゆみとは無縁だった。このことからしても、花粉が「花粉症」の主原因だとは考えにくい。それでは、本当の原因は何か。このことについて、明日の日記で書いてみよう。
| 2001年04月19日(木) |
ちょっぴり志があれば |
私が小学生の頃は「少年よ大志を抱け」とよく言われた。私は大志とまではいかなくても、何か志のあるた生き方をしたいなと思った。多くの人もまた志のある生き方を夢見たのではないだろうか。しかし、今私たちはその志がなかなか見つからない時代に生きている。
たしかに日本は国としても個人としても目標を失っている。国が豊かになり、モノが回りにあふれる中で、どこへ生き方の照準を向けたらよいのか分からない。私たち日本人は努力して「豊かさ」を手に入れたが、その「豊かさ」の使い方を知らない。せっかく「自由」を手にしながら、それをどう活用したらいいのかわからず、持て余している。
こうしたなかで、子供を教育するのはなかなかむつかしい。大人は自分の生き方に自信を失い、もはやお手本にならないとなると大変である。お手本にならないどころか、反面教師にさえなっている。大人が生きる目標を失い、さえない顔で暮らしていては、子供が自分の幸福をイメージできるはずがない。
劇作家の鈴木聡さんは、「教育とは、子供達を、人生を豊かに楽しむ幸福な大人へ導くこと。それがなぜいま、機能しなくなったのでしょう」と問題提起し、次のように述べている。
「魅力的な大人がたくさん歩いている。文化や学問を楽しむ気配が満ちている。社会の現在を呼吸している・・それは、むしろかつての、人間味あふれる町の姿に似ているかもしれません。共同体が機能を失ったいま、全人格のポテンシャルを高める、教育の場としての共同体の役割を、学校が担う必要があると思うのです」(国民教育会議資料)
現代は大きな転換期である。近代的な産業社会から、高度情報社会へ。ハードからソフトの時代へ。集団のアイデンティティではなく個人のアイデンティティが尊重される時代へと。そうした中で、私たちは社会に対する認識を持ち、自分を見失わずに生きていくことが必要になる。
時代が変わっても、人間の本質はかわらない。そのかわらない真実をたよりに、あまり右往左往ばかりしないで生きていきたい。私たち大人の世代が、人生を豊かに楽しむ幸福な生き方を、若い世代にちょっぴりでも示してやれたらと思う。私にとって、志とよべるものは、いまのところそれくらいだろうか。
人間はその置かれた立場によって、主張を変える。これは田原総一朗さんが本に書いていることだが、経営の神様と言われた松下幸之助のような人でも、最初から立派なことを言っていたわけではない。最初は自分の会社や従業員が最優先で、「売り上げを伸ばし、会社を大きくしろ。儲けろ」とばかり言っていた。
ところが会社がある程度大きくなって、同時に地域の中で公害問題などが生じてきて、クレームがつきはじめると、彼は「企業の社会的責任」とか「地域との共存」ということを言いはじめる。そうした配慮をしないと、企業としてさらなる飛躍がむつかしいと見たからだ。
さらに会社が大きくなり、日本を代表するような企業になると、日本の将来を考えて「日本を憂える」などと言い始め、PHP活動を始める。さらに世界的な大企業になると、彼の発想は地球の運命にまで及び、「二十一世紀を考える」などと、高尚なことを唱え始める。こうなるともう立派な国際的な見識をそなえた経営者である。
このように、人はその立場に応じて成長し、主張も変えていく。これは企業人のみならず、政治家にも言えることだろう。市会議員と知事では、その政治的な発言や発想に違いがあるはずである。国会議員、首相になれば、さらにグローバルな視点や教養が要求される。当然考え方や発言内容も変わってくる。
ところが、こうした当然のことが理解できず、その地位や立場に応じた振る舞いが出来ない不器用な人がいる。森首相などそのよい例だろう。彼の言動や見識はどう贔屓目に見てもどこかの地方の議員や首長のレベルで、とうてい一国を代表する政治家の水準に達しているとはいえない。
彼はこうしたローカルな発想で国際政治の舞台に出ていった。そして、結局は地金が出て、恥をかいた。森首相の悲劇は自分をそうした状況に合わせることが出来なかったということ、言葉を変えれば、あまりに純朴で平凡な根っからの地方人だった、ということにあるのだろう。
自民党の総裁選挙で、メディアは盛り上がっている。しかし、私も含めて、有権者の多くは白けている。一国の最高指導者が決まるというのに、その緊張感も期待感もほとんど感じられない。
それもそのはず、この10年間に実に8人もの首相がかわっている。その名前を列記すると、海部、宮沢、細川、羽田、村山、橋本、小渕、森、ということになる。指導者がこれだけ目まぐるしく変わる国は他にない。これでは国民からも、他の国の指導者からも、日本の首相は軽く見られるだろう。
この間、公的な借金は700兆円近くに膨らんだ。不良債権も増え続け、日本経済は坂道を転げ落ちるように悪化の一途をたどっている。「空白の10年間」と言われるゆえんだが、その原因はこうした指導者不在にある。
次期首相の候補者として4人の名前が挙がっているが、彼らを選ぶのは自民党の国会議員と、自民党の県本部の代表である。いわばただの身内の選挙でしかない。「自民党を改革する」という声は聞こえてきても、「国を改革する」という声は聞こえてこない。まだまだ「空白」は続きそうである。
| 2001年04月16日(月) |
幸せを呼ぶ魔法の言葉 |
人生、そういつも順風満帆というわけではない。むしろ辛く苦しい時の方が多いのだろう。そんなとき、歯を食いしばって逆境に耐えるだけではあまりに悲惨である。そこで、人は宗教に救いを求めるわけだが、実はここに、もう一つ人生の苦しみを軽減してくれるすばらしい方法があるのだという。
それはただある言葉を口に唱えることで達成される。そして、その幸せを呼ぶ魔法のような言葉とは、『ありがとうございました』という一言だそうだ。この言葉を唱えていると、人の心はやがて自然に幸福感で充たされるようになる。
それはその言葉が、今まで『ありがとうございました』と言った時の幸せな記憶を無意識に思い出させるからだ。つまり、『ありがとうございました』と『幸せな気持ち』が、リンクしているわけだ。心理学ではこれを「アンカリング(目印・手がかりをつけること)」というらしい。マヤ先生の「セクシー心理学 第69号〜言葉のあかり」から引用しよう。
「もしあなたが、さらにアンカリングを高めたいなら、楽しいことをしているときにその気持ちをじっくりと噛みしめながら、『ありがとうございました』と言おう。もちろんその感謝の対象は、自分を産んでくれた両親や、支えてくれた全ての人たち、そして食べてきた動物たち。こうすることで、後で『ありがとうございました』と言った時の悦びは、確実に強くなっているのよ。・・・どんな時でも常に、『ありがとうございました』と言うクセをつけよう。楽しいときは、その気持ちをより一層染み込ませるため。落ち込んでいるときは、そのときのことを思い出して、再び幸せな気分を回復するためにね」
ところで、浄土真宗の信者は、心に幸福を感じるとき、合掌して「なむあみだぶつ」と念仏をとなえる。これは仏の慈悲にたいする感謝の言葉である。そして辛いとき、やはり合掌して「なむあみだぶつ」と唱える。それで心の底に喜びがわき上がり、逆境に立ち向かう勇気が与えられる。これが親鸞の説く「報恩念仏」の世界だが、こうした宗教上の御利益も「アンカリング」で説明できそうだ。これからは、嬉しいとき、そして辛いときにも、心の中で合掌しながら、「ありがとうございました」と唱えることにしよう。
昨夜は、9人ほどの生徒の家に電話をかけた。いずれも髪を染めているクラスの生徒たちの家である。お母さんやお父さんを呼びだしてもらって、「髪を染めないように、家庭の方でもご配慮していただけますか」とお願いした。
ほとんどの親は「先生も大変ですね。以後気を付けますので、今後ともよろしくお願いします」という返事が返ってきた。一人の母親だけ、やや苦情めいた言い訳を聞いたが、それも尖った言い方ではなく、本当に困っている様子が伝わってきたので、むしろ同情した。
実を言うと、私の家にも茶髪の高校生がいる。次女が春休みのうちに髪を染めて、そのまま学校に通いだした。自分の娘が茶髪でありながら、人様の家の子供たちの髪の色に因縁をつけているのだから、おかしなものである。
娘の高校では茶髪は校則違反ではないらしい。だからほとんどの生徒が染めているという。先生も何も言わないし、学校はそうした個人的なことには関知しないという立場らしい。髪を染めたからと言って、何も実害はないと判断しているのだろう。
しかし、他校から転勤してきた教師の中には、髪の色やスカートの丈について違和感を感じ、文句を言う先生もいるという。そうした教師に対する生徒の反応は「先生なら他にもっと中身のあることが言えないの」というところらしい。実際そうした教師に限って授業がお粗末なので軽蔑され、ときにはクラスで授業をボイコットされることもあるらしい。
次女からこの話を聞いて、私も彼女に髪のことが言えなくなった。「他にもっと中身のあることは言えないの」と逆襲されそうな気がするのだ。それにしても、そんな怖い学校が勤務先でなくて、ほんとうによかった。
| 2001年04月14日(土) |
ラクダ型人生のススメ |
人生50年の時代が終わって、人生80年の時代である。ずいぶん長生きするようになって、ライフスタイルも変わってきた。たとえば前半生と後半生で2通りの違った生き方ができるようになった。人生の山が二つ並び立つ「ラクダ型の人生」の実現である。
会社を早く退職して、趣味や学問や宗教の世界に生きる人、あるいはNGOや市民ボランティアの世界に飛び込み世界を舞台に活躍する人々。前半生が家族を養い、生計を立てるための人生だとしたら、後半生は自分が本当にやりたかったことに打ち込み、夢を実現するための人生だ。
私の義理の父も、55歳で会社を辞めて、その後20数年間、自宅で木彫り教室を開いている。今ではお弟子さんもずいぶん増え、名古屋市博物館で門下生の「木彫り展」を開いている。彼の場合、サラリーマン生活をしながら、木彫りを楽しんでいた。前半生は後半生へのステップ台でもあった。
私の父の夢も、50を過ぎたら会社勤めを辞めて、田舎で山仕事をすることだった。山育ちの父にとって、都会での会社勤めは世過ぎのための姿で、本当の人生は山で生活することだと思っていたようだ。残念ながら、安い外材に押されて、日本の林業は打撃を受け、父の人生設計が狂った。
父は66歳まで会社員を務め、病を得て67歳で他界したが、あまり幸せな晩年とは言えなかった。しかし、世が世であれば、父も希望に満ちた第二の人生を送っていたことだろう。中学生の頃から山仕事にかり出されていた私は、山仕事と聞くと蕁麻疹が出そうだったが、50歳を過ぎて、父の気持ちが分かるようになった。私自身、自然の生活に憧れを感じるのは、やはり先祖の血かもしれない。
「福翁自伝」のなかに、こんなエピソードが描かれている。彼の兄に「お前はこれから先、何になるつもりか」と訊かれた諭吉は、「日本一の金持ちになって、思うさま金を使ってみようかと思います」と答えて、叱られたというのだ。
そこで、諭吉が「兄さんはどうなさる」と訊くと、兄は「死に至るまで孝悌忠信」と一言だけ。諭吉は「ヘーイ」と言ったきり、そのままになったという。諭吉は「まず、兄はそんな人物で、また妙なところもある」と書いている。いかにも兄弟の性格の違いが出ていて面白い。
諭吉は武士らしくもなく、お金を儲けることを軽蔑していない。そしてお金を儲けた後で、それを如何に使うかというところに目を付けているところがさすがだと思う。諭吉はお金の価値を理解していた。拝金主義者ではない。
「一国の独立は国民の独立心から湧いて出る。国中をあげて古風の奴隷根性ではとても国が持てない」 という諭吉の言葉は、奴隷根性を廃し、独立することの大切さを説いたものだ。
金の奴隷になることを嫌って、金そのものを軽蔑しても、その魔力から自由にはなれない。お金に使われないためには、お金を使うだけの才覚を持つ必要がある。諭吉はこう考えて、西洋流の近代的な教育を導入した。そして、人作りこそ、お金の一番の有効な使い道であることを訴え続けた。
エーゲ文明は前20世紀頃から前12世紀頃までエーゲ海を中心に栄えた青銅器文明で前期のクレタ文明と後期のミケーネ文明からなる。この文明の内容を最初に明らかにしたのが、ドイツ人のシュリーマン(1822〜90)だった。
シュリーマンは幼少の頃読んだ本のなかで、トロヤ落城の挿し絵をみて、その遺跡の発掘を夢見るようになったという。しかし、発掘には莫大な費用がかかる。ドイツの北部の小さな村で貧しい牧師の子として生まれたシュリーマンにとって、その夢を実現することは容易ではなかった。
母の死、そして父親が牧師の職を失って一家が離散するという逆境の中で、シュリーマンは雑貨屋の小僧、外国船のボーイを経て、オランダの商店に勤め、食事も切りつめるほどの苦労しながら、18カ国語をマスターし、その語学力を武器にして頭角を現して行った。
24才頃ロシアに移住し、クリミア戦争や南北戦争の状況を利用し、インド藍や木綿の取り引きで成功して巨万の富を築いた。そして40才過ぎに事業から一切手を引き、ギリシア語と考古学の研究の後、1871年、49歳になったシュリーマンは、ついにヒッサルリクの丘に立った。
ホメロス(前8世紀頃 )は叙事詩「イリアス」のなかで、トロヤ戦争を美しく描いている。トロヤの王子パリスがスパルタの王妃ヘレネを誘拐したことから、ミケーネの王アガメンノンを指揮者とするギリシアの英雄たち(例えばアキレウス)がトロヤに遠征し、10年の包囲の末、有名な”トロヤの木馬” の計略を使って落城させ炎上させた。
シュリーマンはこのホメロスの詩を真実だと確信していた、しかし当時の常識ではこれは伝説であると考えられていた。しかもシュリーマンが学界の定説に反して海に近いヒッサリクの丘をトロヤと考えて発掘を始めたので、学者たちの反応は冷ややかだった。発掘に参加した現地の150人の労働者たちも、最初はシュリーマンに懐疑的だったという。
しかし、2年後の1873年の5月、ついに地下から大きな城壁があらわれた。神殿や宮殿があらわれ、黄金の王冠、首かざり、耳かざり、指輪がぞくぞくと出てきて、学者たちを驚かせた。シュリーマンはこれに勇気づけられて、1876年以来ミケーネの発掘に取りかかり、ここでもおびただしい副葬品を発見した。特に「黄金の仮面」をはじめとする黄金製品は人々を驚かせた。さらに彼はクレタ島の発掘に取りかかったが、1890年に69歳で亡くなった。いま彼はホメロスの国、ギリシアのアテネで永遠の眠りについている。
シュリーマンはトロヤで発見したものはドイツに、ミケーネで発見したものはギリシアに、全部、寄付したという。それらの考古学の歴史を変えた至宝の数々は、ベルリンとアテネの博物館で、今も多くの人々の目を楽しませ、古代への夢を育んでいる。
シュリーマンは40歳までの半生をお金を稼ぐために費やした。そして残りの半生で、そのお金を使って、彼の少年時代の夢を着々と実現した。人は何のためにお金を稼ぐか、そして何のために生きるか、彼の人生もまた一つの魅力的な答えだといえる
| 2001年04月11日(水) |
何のためにお金を稼ぐのか |
日本はお金の使い方が下手だ。何のためにお金を稼ぐのか、肝心のビジョンを持っていない。ただ儲けるに儲けるというのでは、お金の奴隷である。エコノミック・アニマルと軽蔑されても仕方がない。
いうまでもなく、お金は使うためにある。お金を稼いだ後、それを何に使うか、その使い方でその人の在り方が決まる。お金を儲ける能力も大切だが、ただお金儲けがうまいというだけでは誰も尊敬しない。お金を使う能力の方がもっと重要なのだ。
たとえばマイクロソフトの創業者で、世界一のお金持ちのビル・ゲイツが、「財産の95パーセントは寄付する。家族に残すのは5パーセントで充分」と言っている。そして彼は奥さんと一緒に「ビル&メリンダ財団」をつくり、最近も米カリフォルニア州に住むラテン系アメリカ人の子どもたちのため、チャータースクールのネットワークをつくるプロジェクトに対し、675万3000ドルを寄付する支援活動を行なっている。
アメリカの資産家は、慈善授業のために私財を使うことは当然の義務であり、こうした社会的責任をはたすことに生き甲斐を感じているようだ。たとえばアメリカの実業家で、鋼鉄王と呼ばれたカーネギー(1835〜1919)は66歳の時、所有する製鉄所の株をすべて売り払い、三億五千万ドルもの金を手にした。
彼はこの資金で世界中に2811にものぼる図書館を建設し、7689台のオルガンを教会に寄付した。さらに彼の名前を冠した文化施設や大学を作り、労働者や研究者のための基金を創設したり、天文台に世界最大の望遠鏡を寄付したりした。彼は思いつきでこれを始めたのではない。すでに若い頃の手帖に、「金持ちのまま死ぬのは恥ずべきことだ」と、この計画を記している。言ってみればこの夢の実現のために、彼は効率的にお金を儲けた。
しかも彼はこの慈善事業を人任せにしないで、最大の「投資効果」をあげるために、晩年の20年間を精力的に捧げた。そして、彼が死んだとき彼の計画通り、金庫の中にはほとんど金が残っていなかったという。かれの場合、100パーセント、慈善事業に使ってしまった。
そんな彼でも、「金を稼ぐことに比べたら、金を使うことは10倍もむつかしい」と言い残している。大切なことは、単に金を稼いだり貯めたりすることではなく、それを有効に活用し、人のため、世界のために如何に役立てるかということだろう。
こうしたことは、何もお金だけの問題ではない。たとえば知識についても言える。ただ単にたくさんの知識を蓄えても、それを如何に活用するかを知らなければ、それは単に死んだ知識でしかない。本当の学力とは知識を蓄える能力ではなく、知識を活用する能力だろう。こうした発想の転換が今、日本に求められているのだと思う。
昨日は人生を春夏秋冬という四つの時期に区切る考え方を紹介した。今日はこの時代区分を人類史に当てはめてみたらどうなるのか考えてみよう。人類の歴史にも起承転結があり、四季があるのではないかと思われるからだ。
科学は星の誕生から死に至るプロセスを明らかにした。永遠と思われていた星星でさえ、その始まりと終わりを持つ。「おごる者も久からず」とは平家物語の有名な言葉だが、人類の歴史もその誕生から死まで、栄枯盛衰を免れることはできない。そうだとすると、現在、人類はどの段階にあるのだろうか。
私は今人類が置かれているのは「転」の段階だと思う。青年期、壮年期を過ぎて、いままさに中年期に入ったところあたりではないだろうか。狩猟生活をしていた人類が農耕生活を体験し、産業革命をへて、物質的繁栄はいまや極点に達しようとしている。まさに人類は坂を上り詰めた。
ところが、ここへきて人類の生存を脅かすような事態が生じてきた。たとえばエネルギー問題や環境問題である。地球温暖化やダイオキシンによる環境汚染、地球の砂漠化などという問題はどれひとつとってもおろそかに出来ず、人類の未来に由々しき影を投げかけている。
まさに人類は今や生存の危機に立たされていると言ってもよい。そしてその状況は、個人史における「中年クライシス」とよく似ている。そこで問題になっているのはいずれも「生き方の転換」である。
人類に英知が残されているなら、この危機を乗り越えることが出来るだろう。自然を破壊し、強奪することで成り立つ繁栄には終止符を打たなければならない。価値観や生き方を変えて、自然に親和的な、精神的に豊かで実りのあるシナリオを、人類は自らの手で書かねばならない。人類史はいままさに岐路にさしかかっていて、選択のための時間はもうほとんど残されていない。
人生は「青年期」「壮年期」「中年期」「老年期」に分けられる。これを四季にたとえれば、「青春」、「朱夏」、「白秋」、「玄冬」であろう。また、インドではその内容に応じて、「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」に分けるという。このように、人生を一つの「起承転結」を備えた作品として考えることもできる。
人間はほぼ20年間、学びの時を過ごす。そして、次の二十年間、社会人として職業を持ち、あるいは家庭を営む。こうした壮年期の活動によって、社会的地位は安定する。しかし、社会的に成功しても、それだけでは人間の心は充たされない。自分の半生を振り返り、はたしてこれで自分はいいのだろうかと自問する。また、自問せざるを得ない状況(中年クライシス)が起こってくるのが中年期だ。
青年に思春期があるように、中年には思秋期がある。そして、中年期を境に、人生の坂道は下りへと転換し、人生の風景も秋へと移る。その先に待ちかまえているのは、死へと傾斜する人生の冬である。
「科学の対象としている現実はひとつであっても、現実そのものはもっと多層的であり、そこの唯一の正しい現実があるのではない。その多層的な現実をどのように知り、どう折り合いをつけるかという困難な仕事をするのが、中年なのである。このところがうまくいかないと、青年のまま年をとるので、老いや死を迎えることが、大変なことになってくる」(河合隼雄「中年クライシス」)
こうした中年期の試練をくぐり抜け、「魂の方向転換」(プラトン)を経験することによって、人生は一段と深みをまし、人生の四季も味わいを増すことになる。「中年の危機」とは、つまりこれまでのお仕着せの人生が解体して、あらたな人生を創造するために与えられた試練だとも考えられよう。
こう考えてくると、人生もまたひとつのかけがえのない物語であり、起承転結を持つシナリオだということがよくわかる。大切なのは自分の人生のシナリオを他人任せにしないで、自分の手で書こうとすることではないだろうか。
| 2001年04月08日(日) |
中年クライシス(2) |
昨日の日記について、「中年の危機」を象徴するために使った「崖の下の家」は「崖の上の家」ではないのかという、北さんの問い合わせがあった。たしかにイメージとしては「崖の上」だが、河合隼雄さんの「中年クライシス」では「崖の下」になっている。
その理由だが、実はこの部分は夏目漱石の「門」という小説を題材にして書かれているためである。漱石のこの作品は、宗助と御米という中年夫婦の直面する危機を描いている。そして、彼らのすむ家が「崖の下」にある。「門」から引用しよう。
「茶の間の襖を開けると、すぐ座敷である。南が玄関で塞がれているので、突き当たりの障子が、日向から急に入ってきた眸には、うそ寒く映った。そこを開けると、庇にせまるような勾配の崖が、縁側から聳えているので、朝の内は当たって然るべき筈の日も容易に影を落とさない。崖には草が生えている。下からして一側も石が畳んでないから、何時壊れるか分からないおそれがあるのだけれども、不思議にまだ壊れたことがないそうで、その為か家主も長い間昔のままに放ってある」
町内に二十年も住んでいる八百屋の親爺は「崖だけは大丈夫です。どんなことがあったって壊えっこはねぇんだから」と保証してくれるが、主人公は不安で仕方がない。そして主人公のこの不安はやがて、夫婦の危機という形で、実際に現れてくる。
相思相愛と思われた二人の好夫婦にも、実は暗い過去があった。その過去からの亡霊が突風となって二人に襲いかかってくる。不安に駆られた宗助は宗教に救いを求め、参禅したりするが、「父母未生以前の本来の面目は何か」という老師から貰った公案に宗助は答えることができず、山門を後にすることになる。しかしこのあと、事態は何となく好転し、いつか季節も春を迎える。「門」の終わりは次のように結ばれている。
「御米は障子の硝子に映る麗らかな日影をすかし見て、『ほんとうに有り難いわね。ようやくの事春になって』と云って、晴れ晴れしい眉を張った。宗助は縁に出て長く伸びた爪を切りながら、『うん、然しまたじき冬になるよ』と答えて、下を向いたまま鋏を動かしていた」
漱石の「門」という小説を読んだのは大学時代である。しかし、この小説は中年になってからよむとよく分かるのではないだろうか。河合さんが書いているように、ここに描かれているのはまさに「中年クライシス」と言ってよい世界だからだ。たしかにそこには、二律背反に悩み、門の前に呆然とたたずむしか能のない、中年の不安で鬱屈した心の闇の世界が、しみじみとした趣のある筆で描かれている。
河合さんの「中年クライシス」には漱石の「門」や「道草」の他、山田太一の「異人たちの夏」、大江健三郎の「人生の親戚」、阿部公房の「砂の女」、谷崎潤一郎の「蘆刈」、志賀直哉の「転生」などが取りあげられていて、それらを題材に中年の危機のさまざまな姿を鮮やかに分析しながら、それぞれがまた文学作品の魅力的な紹介になっていて、なかなか味わい深く、読み応えがあった。
殺人事件の容疑者数の統計を見ると、一番殺人事件を起こしているのは49歳だそうである。警察庁が調べたところ、5年間で殺人事件で検挙された49歳は185人で、すべての年齢を通じて最も多かった。続いて47歳が164人、48歳が160人、45歳が159人で、40代後半が目立つ。
過労死や自殺など中高年問題を扱う専門家たちは、老後への不安、仕事や家庭でストレスを感じ、人生の岐路に立つ不安定な世代であることが背景にあると分析している。たとえば、河合隼雄さんの「中年クライシス」という本を読むと、こんなことが書いてある。
「中年の危機は思いがけないときにやってくる。同輩の誰よりも先に課長になり、出世頭と見られていたエリート社員が突然に自殺する。やっと新築の家ができて、皆から祝福されているとき、その家の主婦が抑鬱症になってしまう。事故、病気など、思いがけないことが、平穏であるべき中年を直撃するのである。私は職業上、そのような人や、家族にお会いし、『中年の家』が崖の下に立っている姿を思い起こすのである」
「中年とは魅力に満ちた時期である。それは強烈な二律背反によって支えられているように思う。男と女、老と若、善と悪、数えたてゆくときりがないが、安定と不安定という軸で見ると、これほど安定して見えながら、内面に一触即発の危機をかかえているように感じれれる時期はないだろう」
警視庁の統計は、もともと青年期の犯罪を分析するために作られたのだという。ところが浮かび上がってきたのは、「凶悪な中年」の姿だったわけだ。しかし、私にはもう一つ見落としてはいけない統計があると思う。それは自殺率の統計である。
自殺率でも殺人の発生率と同じ傾向がみられ、中年は異様に高水準である。日本は世界では自殺の多い国に入る。しかも、自殺率は毎年上昇しつつある。日本は世界一平和で安全な国だというが、その内実はかなり厳しい。そもそも年間3万人以上の人々が自殺をする国が「平和で安全な国」だと言えるのだろうか。
| 2001年04月06日(金) |
発光ダイオードの発明と学力 |
今世界で一番有名な日本人学者は、米カリフォルニア大学教授の中村修二さん(47歳)だろう。彼は青色発光ダイオードの発明者として世界に知られている。3原色のうち、赤や黄色のダイオードについては開発されていたが、最後の「青」がたいへんな難物で、世界中の研究者がさじを投げていた。
どんな色でも3原色で表すことが出来る。逆に3つそろわなければ意味がない。誰もが待ち望み、誰もがあきらめていたその青色発光ダイオードの開発に、中村さんは1993年に成功した。発光ダイオードは電気を熱に転換することなく、直接的に光を生み出す。この省エネ技術を使えば大画面のデスプレイも思いのまま実現する。まさにノーベル賞級の発明である。
中村さんは、1954年、愛媛県の生まれで、「子どものころからぼーっとしていて、暗記科目は考えただけで嫌悪感が湧くような生徒」だったという。それでも徳島大学に進学、大学院を出たあと地元・徳島の中小企業に就職した。そして就職先の地元企業で、ノーベル賞級の発明をした。彼は著書「考える力、やり抜く力、私の方法」(三笠書房)の中で、受験秀才のエリート研究員とはまるで違うコースを歩んできた半生を、次のように振り返っている。
「なぜ歴史で何年何月に何があったなどということを覚えなければならないのか、いつまでたっても理解できなかった。・・・時がたつにしたがって、その疑問はすでに嫌悪感まで昇華してしまって、もう頭が受けつけなくなってしまった。・・・それはいまでも続いていて、とにかく意味もなく覚えるのは大嫌いだ。こういうことに時間を費やすのは意味がないし、それこそ時間の無駄だと思っている」
「数学は、基本の公式さえマスターしていれば、あとは自然に解けていく。覚えることは最小限ですむ。私にとってはこの公式を覚えるのも苦痛だったが、とにかく、自分で問題を一から解いていくのが好きだった。限りなく深く問いつめていく、という自分なりのスタイルはこの時に培われたものなのかも知れない」
「手作りでコツコツ製品を完成させていった時、その過程のなかでふと見えるあわい光のようなもの、それがその後に自分流になっていく。そして、この自分流を強く押し出し、徹底して貫く時、さらに大きな成功が可能になっていく」
「私にとってこのぼーっとしている状態というのは、一時的に判断を中止している時間帯だった。そして、この判断中止ということが、物事の本質を見抜く上でいかに大切であるかを思ったのは、ずいぶんあとになってからのことだった」
中村さんは、「高度な学力など必要はないのだ。いや、むしろ、そのようなものは邪魔になる」とまで書く。「学力」とは「学んだ力」ではなく、「学ぶ力」だという。問題を自分の頭で考えて解決し、そしてこの世にない全く新しいものを創造する力、それが本当の学力であり、そのために必要なのは、「一パーセントの成功の可能性に挑戦する」といった「強靭な精神力」と「愚直な自分流」だそうだ。
| 2001年04月05日(木) |
カポーティの「夜の樹」を読む |
アメリカの作家、トルーマン・カポーティ(1924〜84)と言えば、「ティファニーで朝食を」「冷血」などの作品で有名だ。私はそれらを読んではいないが、映画で見たことがある。「ティファニーで朝食を」のオードリーはなかなか小粋で可愛いかった。「冷血」は無慈悲に一家を殺した犯罪者の心の闇を、ドキュメンタリータッチで描いている。
ところでカポーティの初期の短編に「夜の樹」という作品がある。図書館で「ティファニーで朝食を」や「冷血」を捜していて、たまたまこちらの方を先に見つけたので読んでみることにした。川本三郎訳の新潮文庫である。
読んでみて、大変心を打たれた。カポーティは4歳の時、両親が離婚し、その後母親が再婚すると親戚の家にあずけられ、南部を転々とした。高校を卒業すると、ニューヨークの雑誌社で雑用係りをしながら小説を書き始める。「夜の樹」は1943年、若干19歳のときの作品だというが、すでに人生の恐怖と孤独、内面の真実に満ちた彼独自の幻想的で繊細な美の世界がしっかり確立されている。
「冬だった。暖かさなどもうとうになくなった裸電球の列が、小さな田舎の駅の、寒々とした吹きっさらしのプラットホームを照らし出していた。夕暮れどきに雨が降った。そのために出来た氷柱が、水晶の怪物のおそろしい歯のように、駅舎の軒からぶらさがっていた。プラットホームには女の子がひとりいるだけだった。若い、やや背の高い女の子だった」
女の子の名前はケイで、19歳の大学生。叔父の葬儀のためにやってきた彼女は、緑色のギターを抱えて、この寒々とした駅舎から、アラバマ地方を走るみすぼらしい夜汽車に乗り込む。陰気によどんだ煙草の煙が漂う車内はほとんど満席で、やっと見つけた空席はただ一つだけ、車両の端の他の席から離れたボックス席で、そこにはすでに一組の得体の知れない男女が座っていた。
女は50歳を過ぎたあたりで、背が低くて足が床に着かないのに、毛を赤く染めた頭が異常に大きく、たるんだ肉付きのよい顔に頬紅を塗りたくっている。男の方はほとんど口を利かず、何か恐ろしい方法で突然歳をとってしまった子供のように見える。腕にはミッキーマウスの絵の付いた腕時計をはめ、ブルーのサージの上着を着て、安物の香水の匂いをふりまいている。
女は酔っていて、安物のジンをケイに勧め、しきりに話しかけてくる。女の話によると、彼らは夫婦で、見せ物の巡業をしているらしい。男が聖書に出てくるラザロという、葬られて4日目に復活した男の役を演じるという。「いいかい1ドル稼ぐんだって大変なんだよ。先月いくら稼いだかわかる? たった53ドルだよ。お嬢さん、いつか、それだけの金で暮らしていけるかどうか試してごらん」女はスカートをまくりあげると、ペチコートのすり切れた縁で鼻をすすった。
男の方は相変わらず無口だが、不透明なブルーのおはじきのような目でケイを観察するように眺めつづけ、不意にすっと手を伸ばして、彼女の頬を撫でようとする。そして、彼女にチャーム(お守り)を見せ、買ってくれというそぶりを繰り返す。気味が悪くて買う気になれないケイは「お金がない」と嘘を言ってそれを断る。しかし、どうにか上辺をとりつくろい、教養のある大学生として品よく社交的に振る舞っていた彼女も、こうした雰囲気にしだいに耐えられなくなって、とうとう身一つで最後尾の展望台に逃げていく。
冬だから外はとても寒い。列車がアトランタに着くのは明日になってからだ。小さなランプで手を温めながら、ケイはむずかる子供のように拳で壁を叩き、静かにすすり泣きをした。そして恐怖と寒さに震えながら、皎々とした月が照らすアラバマの原野に目を遣っていると、先ほどの男がやってきた。
「男の、害のない、ぼんやりした顔が、ランプの光で明るく照らし出されるのをじっと見ているうちに、ケイは、自分が何をこわがっているかがわかってきた。それはある記憶、子供っぽい恐怖の記憶だった。かって、遠い昔、夜の木の上に広がった幽霊の出る枝のように彼女の上におおいかぶさっていたものだった」
ケイの田舎の家の前に、大きな樹が立っていた。大人たちがあの木には幽霊がすんでいるのだよと脅かした。幼いケイにとってその大きな樹は、恐怖に満ちた人生の象徴だったのである。白痴の男がその恐怖を思い出させた。しかし、その恐怖を前にして、ケイはどうすることもできない。ただ子供のように震えているだけだ。男のあとについて、彼女はまた先ほどの座席に戻る。
「たしかめるのはこわかったが、男が自分を見ているのがわかった。彼女は大声で車内の人間をすべて起こしてしまいたかった。しかし、彼らが彼女の声を聞かなかったら? 彼らは本当に眠っているのではないとしたら?」
ケイはこの恐怖から逃れるため、チャームを買う決心をして、それを女に告げる。しかし、女は返事をしない。ただ男と顔を見合わせ、笑っているだけだ。そうしているうちに、月の形ををした石が水面下を滑り落ちて行くように、男の顔が遠くなっていく。いつかケイの意識が遠のき、うとうとと始めたようだ。そうした無防備なケイの顔の上に、女がレインコートをそっと経帷子のようにかけるところで、この小説は終わっている。
奇妙な味の小説だが、よく読んでみると、はじめは不気味と思えた男女がほんとうは人生の真実を象徴しており、女学生のケイの方がその場しのぎのうわすべりに思われてくる。ケイの体験した恐怖は、彼女が成長の過程で都合よく捨ててしまった闇の世界からの告発なのかも知れない。あるいはすべてが彼女の抑圧された潜在意識の作りだした幻想のようにも思われる。
19歳のカポーティは、すでにこうした繊細で幻想的な自分の世界を完成させていた。なんという早熟の天才だろう。そして彼のこの美しい処女作は何という香ばしさで、人生の奥深い闇の世界を力強く、冴え冴えと照らし出していることだろう。
現代人にとって真実の世界はますます遠くなりつつある。しかし、私たちはカポーティの小説に描かれたある種の幻想的な恐怖体験のなかに、そのたしかな手応えをありありと感じることができる。
昨日はこの春から大学生になる長女の引っ越しだった。妻と私の車2台に、荷物を満載して、一宮の家を出発。妻の車の助手席には次女が、私の車の助手席には長女と愛犬のリリスケ君が乗った。
「後ろをついていらっしゃい。でも、無理はしないでね。コケコちゃん(長女の愛称)が場所を知っているから」と妻は言う。とにかく木曽三川公園の近くを通り、最終的に名四国道(国道23号線)にのればよい。あとは、助手席の長女が三重大学の近くにあるアパートまで案内してくれると言うのだ。
ところが、長女は私に似て、方向音痴である。妻の車とはぐれた場合、この二人で本当に行き着けるか心配である。だから、私は必死に妻の車のあとを追った。途中、トラックが割り込んできたり、信号で離されたり、その上、妻がしきりに車線変更するので、何度もピンチに見舞われた。
おまけに、私の車は1500ccのカリーナだが、10万キロ以上を走った「老朽車」である。そこに荷物が満載されているのだから、思うようにスピードがでない。坂道などではエンジンが今にも分解しそうな悲痛な声をあげる。実は高速を使わなかったのは、私の車の性能を考えてだった。
片道85キロメートルを2時間ほどかけて、どうにか妻の車にはぐれることなく、長女の下宿に到着。二階建ての近代的なアパートで、入居者は全員大学生だという。長女の部屋は二階にあった。バス・トイレ、キッチンが付いていて、あとは8畳ほどの洋室である。月5万円に近い家賃は高いと思ったが、大学に歩いて通える距離で、環境もいいということだから、まあ仕方がないのかも知れない。 娘は今日から大学の合宿だという。一泊でどこかの山の中のロッジに泊まりに言って、教員や新入生同士の親睦をはかるのだという。親元をはなれ、新しい環境に適応するまで、いろいろと大変だろうが、持ち前の楽天的な明るさで何とか切り抜けてくれるのではないかと思っている。
木曽川の桜がいよいよ本格的に咲き出した。学校の行き帰り、木曽川の堤を走りながら、花の様子を楽しんでいる。昨日はお昼学校を抜け出して、途中おにぎりを買い、木曽川の桜を眺めながら、ひとり花見の宴?に興じた。
春の山は「笑う」という。そういわれると、若葉の芽を吹きはじめた山々がやさしく笑っているようだ。漢詩集『臥遊録(がゆうろく)』のなかに、「春山は淡冶(たんや)にして笑ふが如し、夏山は蒼翠(そうすい)にして滴るが如し、秋山は明浄にして装ふが如し、冬山は惨淡として眠るが如し」とあるそうだ。
おにぎりを食べた後、例によってオカリナを吹いてみた。曲目はもちろん「さくらさくら」である。そうすると、いっそうのどかな気分になった。ところで、オカリナだが、始めて8ヶ月になる。月に1,2曲ずつレパートリーをふやすつもりで、学校の行き帰りに吹いている。おかげで、12曲ほど吹けるようになった。
ちなみに、その12曲を上げておくと、「四季のうた」(1月)、「かあさんの歌」(2月)、「あざみの歌」(3月)「さくらさくら」(4月)、「マリモの唄」(5月)、「菩提樹」(6月)、「浜辺の歌」(7月)、「ドナドナ」(8月)、「赤とんぼ」(9月)、「荒城の月」(10月)、「紅葉」(11月)「雪の降る町を」(12月)である。
| 2001年04月02日(月) |
ものを書くということ |
昨日は同人誌「象」の合評会の日だった。以前に所属していた「作家」は月刊誌だったが、「象」は年に3回しか発行しない。「作家」の頃は年に5,6本の小説を書いて発表していたが、今の私にその余裕はない。年3回という「象」のペースが合っているようだ。
今回私は「白い墓」という短編を書いた。知恵遅れの少女と少年の交情を描いた短編だが、割合好評だった。少女の犬が死んで、少女が狂ったように泣き叫ぶ。そして、最後に、この少女が池に溺れて死ぬ。後半は私の創作だが、前半はよく似た体験をむかし経験している。
合評会で「何のために書くのか」ということが話題になり、私はこう答えた。人間は長い間生きていると様々な体験をし、感動したり絶望したりする。そして人生についての認識や思いを深める。そうした人生で出会った「感動」を私は他の人にも自分と同じように味わってもらいたいと思って、それをフィクションにして小説に書く。ただそれだけのことで、別にむつかしい理屈があるわけではない。
人生は四季にたとえられる。20年刻みで、「青春」、「朱夏」、「白秋」、「玄冬」と移り変わっていく。50歳の私はいま「白秋」のまっただ中ということになる。それぞれの時期にそれぞれの人生体験がある。その時代にしか体験できないことを体験し、その感動をヘーゲルのいう普遍的な「経験」にまで深めて、多くの人に共感してもらえる作品として発表できればと願っている。
| 2001年04月01日(日) |
環境問題で世界に貢献を |
1997年の京都会議で「先進国の温室効果ガスを90年比で5パーセント削減する」という内容を含む「京都議定書」が採択された。日本をふくむ先進国の大半が2002年までの発効を表明している中、ブッシュ新政権は先月29日、「京都議定書」への不支持を正式に表明した。
クリントン前政権が「京都議定書」に署名したのは1998年。しかし、議会で多数派をしめる共和党の議員の反対によって批准ができなかった。ブッシュ氏は大統領選中は二酸化炭素の削減を公約に掲げるなど、環境問題に真剣に取り組む姿勢を見せていた。しかし、ここにきて、「自国の産業と経済を優先させる」として、公約を完全撤回した。
背景にはアメリカの景気後退やカリフォルニア州での大規模な停電の影響もあるのだろう。しかし大統領の意志を動かしたのは、エネルギー効率の悪い大型車を生産し続ける自動車産業や石油産業からの圧力が大きかったと考えられ、ブッシュ、チェイニー正副大統領と石油業界との深い関係がとりざたされている。
ブッシュ政権の京都宣言離脱宣言はある程度予測されたとはいえ、世界に大きな失望を与えた。とくに環境問題に先進的に取り組んできたEU諸国の失望は大きい。ドイツのシュレーダー首相はすぐに「米国が地球温暖化への責任をまず自覚することだ。これでは将来の世代に申し開きできない」と語り、不快感をあらわにした。
二酸化炭素の排出が現在の割合で進めば、平均気温の上昇がさらに進む。その結果次のような深刻な災害が遠からず地球を襲うことになる。 �� 海面水位上昇による土地の喪失 �� 豪雨や干ばつなどの異常気象の増加 �� 生態系への影響や砂漠化の進行 �� 農業生産や水資源への影響 �� マラリアなどの熱帯性の感染症発生数の増加
アメリカの二酸化炭素排出量は1990年の統計で見ても、36パーセントを超えている。アメリカのGNPは世界の25パーセント、これに対して二酸化炭素の排出量の割合はかなの高水準である。GNPで15パーセントを占める日本の排出量が現在5パーセント程度だというから、いかにアメリカがエネルギー効率の悪い体質を持っているかが分かる。
エネルギー問題については、日本はその技術力と実績において世界の優等生だと言ってもよい。少なくともアメリカより遙かに省資源省エネルギーの生活スタイルを実現してきた。「京都議定書」のホスト国であった日本は、この条約の発効について責任があるはずである。この問題に対して河野外相が「わが国とともに積極的に合意を模索することを強く希望する」と表明したが、いささか迫力に欠ける。肝心の森首相にいたっては何を考えているのか、全く分からない。
日本にはもともと「わび」「さび」に代表される省資源型文化の伝統がある。この強みを生かして、日本はドイツなどと連帯し、環境問題について世界に向けて積極的に発言し、ヘゲモニーを発揮してはどうだろう。アメリカにできなくて日本にできること、そして世界が今日本に一番望んでいることは、日本が「環境問題」で積極的な貢献をすることだとおもう。世界に貢献できるこの千載一遇のチャンスを逃すべきではない。
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