橋本裕の日記
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2001年05月31日(木) パール・ハーバーとアメリカの悪夢

 アメリカでは日本より一足先に夏休みである。そしてディズニー映画「パール・ハーバー」が公開されて話題を呼んでいる。昭和16年12月8日、日曜日の朝を迎えた美しい真珠湾をたちまち地獄絵図に変えたのは、日本海軍の奇襲攻撃隊だった。

 この奇襲を決断したのは日本海軍の山本司令長官だが、彼をもっと落胆させたのは奇襲攻撃が宣戦布告と同時ではなかったことだという。駐米日本大使館の不手際により、宣戦布告の通知が遅れ、アメリカをだまし討ちした形になった。

 もっとも、アメリカの諜報機関は奇襲作戦を察知しており、ルーズベルト大統領も真珠湾が奇襲されることを知っていたようだ。それでいて彼が太平洋艦隊司令部に情報を与えなかったのは、日本に最初の一撃を加えさせようという政治的配慮からだったという。しかし、さすがルーズベルトもここまで華々しくやられるとは予想しなかっただろう。

 真珠湾を奇襲されたことで、アメリカ国民世論が沸騰して、一気に戦争意欲が盛り上がった。アメリカへの宣戦布告と同時に奇襲攻撃による大打撃を加え、アメリカに戦争の遂行を断念させ、早期講和に導くことをねらった山本長官の思惑は完全に裏目に出ることになった。

 寝込みを襲われ、プライドを傷つけられたアメリカは、ルーズベルト大統領の指導のもと、徹底的に日本を叩くことを決意した。真珠湾攻撃は軍事作戦的には成功したが、政治的には大敗北だった。

 日本はアメリカに勝てる見込みはなかった。日清、日露戦争の勝利はいずれも講和による部分的勝利であり、第三者の仲介による判定勝ちだった。アメリカとの戦争でも、日本は同じシナリオを考えた。日本軍がアメリカ本土を占領することはできないが、初戦で戦果を挙げて、判定勝ちに持ち込みたいと思っていた。

 まさか、日本がアメリカに無条件降伏して、国土を敵軍に占領される事態が起ころうとは思っていなかった。ところが、アメリカは多大な犠牲も顧みず、徹底的に反撃に出て、全面的勝利を目指した。アメリカを過小評価した日本の指導者の完全な判断ミスである。

 生前ケネディ大統領は「アメリカ人が一番よく覚えている日付は真珠湾攻撃を受けた12月8日だ。自分がその時何をしていたかまで思い出すことが出来る」と語っていた。現在でも年輩のアメリカ人にとって、12月8日は忘れることの出来ない日である。そしてついでもう一つ、忘れがたい日付を上げるとなると、それはケネディ大統領が暗殺された11月22日だという。


2001年05月30日(水) 過剰で幼稚な精神主義

 日本海軍の精神主義をあらわす言葉としてよく引き合いに出されるのが「一艦よく百艦を屠る」という言葉だ。優秀な一艦は凡庸な百艦に勝るという。西部劇のたとえを使えば、命中率100パーセントを誇る射撃の名手は、命中率1パーセントしかない射撃の凡手100人を相手にできるということだろう。

 しかし、100人の凡手と対決して、実際にこの名手が倒せる相手は何人だろう。10人、50人、それとも100人? 日本海軍の論理では100人だということになる。なにしろ的中率で考えれば、百人束になって、やっと名手一人分なのだから。

 ところが、この名手が倒せる相手はたった一人である。最初の一発で、たしかに名手は相手の一人を倒すだろう。ところがそのとき、百人の凡手の撃った弾丸のうちの一つが彼を倒す。したがって、彼が不死身でない限り、2発目を撃つことは出来ない。

 こうしたことは、少し冷静になって考えてみれば分かることであるし、そもそも100倍も優秀な友軍という考え方自体が非現実的である。こうしたおよそ起こり得ぬことを、あたかも可能であるが如く錯覚して、日本は無謀な戦争に突入して行った。

 一橋大名誉教授藤原彰さんの研究によると、太平洋戦争中の日本軍人・軍属の死亡者230万人のうち、約6割は栄養失調による病気と飢餓による死亡だという。靖国神社に祭られている軍人たちが名誉の戦死をした英霊だというのは嘘で、多くは無謀な作戦に駆り出されたあと、友軍からも見捨てられ、異郷のジャングルの中で飢えて死んで行った敗残兵である。藤原さんはこうした悲惨を招いた原因のトップに日本軍の「過剰な精神主義」をあげている。

 マッカーサーは「日本人は13歳の子供だ」と言ったが、そう言われても仕方がない。子供はいつも自分に都合のよい理屈や願望でものを見る。そして空想を現実と取り違える。ところで、「新しい歴史教科書をつくる会」の人々の精神年齢は何歳くらいだろうか。私の目には彼らもまた過剰で幼稚な精神主義者に見える。


2001年05月29日(火) 年金生活への険しい道

 29歳で教員になったとき、50歳まで教員を続けて、あとは福井の田舎に隠棲して、文学や哲学を楽しみたいと考えた。その50歳を過ぎて、未だに教員をしているのは、山林が荒廃して、帰るべき田舎がなくなったからだ。家族や老後の自分の生活も考えなければならず、そうかんたんに教員を止められなくなった。

 とくに年金を受給するためには、保険料を25年以上支払い続けなければならない。いわゆる「25年の壁」があって、現在22年と1ヶ月の私は、あと3年はがんばる必要がある。生活を考えると、あと5年間、55歳までは仕方がないかなと思う。

 ところで、年金の最低支払期間が25年というのは、おそらく日本だけではないだろうか。アメリカは10年、ドイツやイギリスも約10年。カナダやニュージーランドなどは、10年以上居住すれば年金を受ける資格を得ることが出来る。

 先日大学の先生と話していたら、「25年の壁はきびしい」と言う。大学院を修了して、何年かオーバードクターをしながら博士号を取り、運良く就職できたとして、すでに30代半ばの人がかなりいる。しかも、どこの大学も経営難で、いつ正規採用の枠からはずされるかわからない。

 昔のように終身雇用が保証されている職場は次第に少なくなりつつある。25年に1ヶ月でも満たないと、これまで支払い続けた努力は水泡に帰し、年金が一銭も支給されないというのは、あまりに不合理ではないか。

 市役所の窓口でその事実を知らされた男が、逆上して刃傷沙汰に及んだという事件も報道されている。フリーターの増加による、就職年齢の高齢化が予想されるが、43歳を過ぎてから支払いを始めたのでは年金の受給資格は得られない。逆に定職を早めに切り上げて、ボランティア活動に生き甲斐を見いだしたいと考える人たちにも、「25年間の壁」が大きく立ちはだかっている。

 現場の窓口になっている市町村は「10年にして、あとは保険料を払った期間に応じた年金を出したらどうか」と短縮を要望してきたが、厚生労働省は拒否の姿勢を崩していないという。国民の郵便貯金や年金は何百兆とある国や地方の借金のカタに取られ、財政投融資や特別会計の原資にとられて、まともな利潤を生みだしていない。放漫な財政政策のつけが、結局は国民生活を貧しいものにしている。年金問題もその一例といえよう。


2001年05月28日(月) 「もののあわれ」と文学

 源氏物語の「蛍の巻」に、「さてもこのいつはりどもの中に、げにさもあらむとあはれを見せ、つきつきしくつづけたるは、はかなしごととしりながら、いたづらに心動き」とある。物語が人の心を握えるのは「いつわり」の中に、「まこと」をあらわすからである。読者はそれをいつわりごとと知りながら、心を動かされずにはいられない。

 古今集の序に「やまと歌は人の心を種として萬の言の葉とぞなれりける」とあるのも同様であろう。心がモノにふれてあらわれたのが歌であり、その偽らざる人間の感情の表現にこそ歌のいのちが宿る。

 江戸時代の国学者・本居宣長(1730〜1801)は、「源氏物語」の精神は「もののあわれ」だと書いている。喜びでも悲しみでも、その感情がきわまったときに「あっ」と叫ぶ。あわれというのは、この「あっ」というときの心の声にあるのだという。「徒然草」の中に私の好きな文章がある。

 「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の烟立ちさらでのみ住みはつる習いならば、いかに、もののあわれもなからん。世はさだめなきこそ、いみじけれ」(7段)

 「もののあわれ」は「源氏物語」や「和歌」に限らず、あらゆる文学の根底にある精神だと言ってもよい。しかし、この文学精神をもっとも純粋に、一途に表現しているのが、古代や中世の日本文学であることはまちがいない。


2001年05月27日(日) 反行革トライアングルを崩せ

 公益法人は、営利を追求せず公益に関する事業を行なう法人で、宗教法人、学校法人、社会福祉法人、医療法人、社団法人、財団法人がある。その数は約25万。そして、公益法人は、公益事業に関する所得については非課税になっている。

 こうした公益法人が増えたのは、「民活」を合言葉にした、鈴木善幸内閣時代の土光臨調の結果である。行政機能を代替するという名目で、公益法人が手がける検査、検定、認定、資格付与などが増えた。

 財政法の規定によると、国が特定の事業を行なう場合や特定の資金を保有して運用を行なう場合、特定の歳入歳出を一般の歳入歳出と区分する必要がある場合に「特別会計」が設置される。

 その額が一般会計の5倍近くになっていることは昨日も書いた。この特別会計が既得権益化していて、しかも特殊法人や公益法人の支出が、特別会計のベールに中に隠れている。永田町への裏金ルートとして使われていてもわからないので、「政・官・業」の癒着が生じやすい。

 作家の猪瀬直樹さんは「日本の研究」の中で、「特殊法人、公益法人が寄生虫のように国家財政を食い荒らしている」と書いている。さらに、「霞ヶ関(官)」・「永田町(族議員)」・「虎ノ門(特殊法人、公益法人など政府系機関)」を「反行革のトライアングル」と名付けている。

 「行政改革」とは、この最強のトライアングルを崩すことであり、そのためには、「特殊法人等の行政代行機関を情報公開法の対象にする」こと、行政情報の宣伝機関になっている「記者クラブの廃止」や「国民の官依存体質からの脱却」が必要だという。

 今日の朝刊によると、石原仲晃行革担当相が公務員の天下りについて、情報開示の徹底を図る方針を固め、政府の行革推進事務局に見当を指示したという。個人名や再就職先の企業のポストのみならず、選考過程や企業の業務内容まで公表すべきだとしている。

 ちなみに昨年度関連企業へ再就職した794人のうち、個人名や企業名が公開されたのは40だけ。日本を支配する「天下りの構図」を崩すためにも、情報開示を徹底的に実行して欲しい。


2001年05月26日(土) 「役人天国」日本の実態

公団・公社など特殊法人といえば、一口に言えば公務員の天下り団体だが、 そうした団体に補助金を出しているのが各省の特別会計である。その2001年度の特別会計予算は概算で391兆円になるという。これは一般会計の80兆円の5倍近い額である。

 日本のGDPがだいたい500兆円だから、約60%が一般会計と特別会計が占めている。ソビエトばりの社会主義である。これでは日本が市場経済を中心とする資本主義経済だとはとうてい言えない。

 実際のところ、特別会計の資金がどこからどう流れているのかは複雑怪奇で実態がつかめない。一般会計と違って国会の承認を得ることもなく、財務省の査定を受けることがない。各省庁に裁量が委ねられた、隠し金であるからだ。

 その原資は郵便貯金や年金保険料である。特殊法人が抱える膨大な赤字を考えると、これらのお金が将来本当に必要な時に国民に返還されるのか不安になる。年金制度の破綻も懸念される。特別会計の含み損は数十兆円にのぼると言われるが、これも正確な額はわからない。

 例えば郵政省の簡易保険特会からは、全国75か所の「簡保保養センター」の建設や施設運営の「赤字補填」に資金が使われるなど、特別会計が無駄使いの温床になっている。役所は自分のポケットのように考えて、一般会計では予算がとれない事業を特別会計の資金で外郭団体にやらせてきた。こうした外郭団体のなかには事実上経営破綻しているものが多く、損失は膨れあがる一方である。

 これらの特殊法人が戦後復興期において、道路や橋などの社会資本整備、企業や家庭への資金供給で国民生活の向上に役割を果たしてきたことはたしかである。しかし、経済復興を果たし、世界の経済大国になった現在でも、こうした戦後復興の体制を維持し続けることは意味がない。

 むしろ民業を圧迫し、市場競争の阻害、累積赤字の増大による財政破綻といった、国民生活に対するマイナス要因の方がはるかに大きくなっている。さらに、特殊法人が行政機構の実質的な肥大化をもたらしてきたことも見逃せない。

 日本の国家公務員数は約84万人で、その人口に占める割合は先進諸国の中でも低い方である。ところが、官庁の仕事を「代行」する78の特殊法人には約50万人の職員がいる。さらにこれに主務大臣の認可を受けた84の認可法人や公益法人などを加えれば、その数は膨大なものになる。

 政府による調査では、七十八特殊法人のうち七十六法人が天下りを受け入れ、総裁や理事長といった役員ポストのうち四割を占めているという。認可法人に関しては、八十四法人で二百七の役員ポストのうち中央省庁出身者が六割を占める。公益法人でも天下りが常態化しているというから、日本はまさに「役人天国」だと言えよう。


2001年05月25日(金) 官僚に支配される閣議

 憲法には、「総理大臣と他の国務大臣で構成される内閣が行政権を有する」と規定されている。ところが、これまで行政権はほとんど内閣に属したことがなかった。それでは、だれが行政権を行使していたかといえば、それは官僚たちである。

 閣議の前日に「事務次官会議」がもたれ、閣議に出される法律案や予算案はすべて、ここにかけられ、そしてすべての省庁の事務次官が賛成した案件だけが翌日の閣議にかけられる。つまり、一つの省庁でも反対すれば法案は没になるわけで、省益優先がまかりとおるシステムになっている。

 定例閣議は、毎週火曜日と金曜日に行われるが、事前に「事務次官会議」で決着が付いているので、閣議は形式的なものでしかない。閣議の議決もまた、全員一致によることとされているが、これは、「内閣は、行政権の行使について、全国民を代表する議員からなる国会に対し連帯して責任を負う」(内閣法第1条第2項)ことに基づくものだそうである。

 行政改革の出発点は、まずこうした閣議の在り方を、根底から変えることだろう。今度の「ハンセン病控訴断念」の決定は、首相がイニシャティブを発揮して、官僚の決定を覆したものとして、これまでにない新しさを感じさせる。しかし、今後もこうした小泉流が通用するとは限らない。それは彼自身が今回の決定を「異例な決断」と呼んでいることでも分かる。

 首相は国民の信託を受けた行政府の長であるべきで、閣議を形式的に主宰する名誉議長のようなものであってはならない。しかし、現実にはこれまで首相の主宰する内閣に、その実権はなかった。行政権を官僚の手から取り戻し、日本を長年支配してきた「政治不在」を解消するためにも、国民の直接選挙で首相を選ぶ「首相公選」を実現したいものだ。


2001年05月24日(木) ハンセン病に首相決断

 国が全面的に敗訴したハンセン病国賠訴訟の熊本地裁判決について、政府が23日にこれまでの姿勢を覆し、一転して「控訴を断念」した。官僚の書き上げた「控訴」のシナリオを、首相が直前になって覆す決断をしたという。

「今回の判決を重く受け止めまして、きわめて異例な判断ですが、政府声明を出して、控訴を行わないことを決定いたしました」

 6時過ぎに官邸で行われた記者会見での小泉首相の発言である。まもなくテレビで「控訴断念」の速報が流され、首相との面会を終えて弁護士会館にいた約40人の原告たちは、弁護士や支援者たちと抱き合って喜んだという。

 国民に人気の高い首相である。党内に確固とした足場を持たない首相が唯一たよりにできるのは、国民の声であろう。もし官僚のシナリオにのって「控訴」していたら、人気に翳りが出る。そうすると、「聖域なき構造改革」もかけ声だけに終わる可能性がある。

ハンセン病の判決をどう受け止めるか。首相にとって正念場だった。首相が本当に「構造改革」をする気があるのかどうか、その「踏み絵」でもあったのである。人気ばかり先行した小泉政権だが、ここにきて一つの確実な「実績」をあげることができた。

 官のシナリオを覆した首相の決断は見事である。しかし、首相はこれを「きわめて異例な判断」と言っている。自民党幹事長の山崎氏は「超法規的」という言葉を使っている。裁判所の判決に従うことが「超法規的」というのがうなずけない。25日に正式に閣議決定して、政府声明を出すと言うが、このあたりの表現に注目したいと思う。
 


2001年05月23日(水) 明治憲法下の昭和天皇

 明治憲法下の日本は「神聖にして犯すべからざる」天皇によって統治される絶対君主制の国だった。明治憲法には内閣や総理大臣の規定はない。内閣は単に天皇直属の執行機関であり、首相はたんなるそのメンバーのなかの長というだけで、もちろん各大臣を任免する権限はない。

 裁判も本来は天皇が行うべきもので、裁判所が代行するだけである。また、天皇は陸海軍を統帥する。他国と戦争を始めるのも止めるのも天皇の大権である。要するに、立法、行政、司法、軍事の権力は天皇の下に分立し、それらを統括する最高権力者が天皇であった。

 こうした絶対君主制はローマ帝国や中国の皇帝、フランスの絶対王制がそうだったが、19世紀も半ばを過ぎて歴史に登場するのはいささか時代錯誤だとしかいいようがない。このあたりのことは、昭和天皇も心得ていて、「二・二六事件」のときの鎮圧命令と終戦の時の「聖断」を別にすれば、彼自身はあたかもイギリス流の立憲君主として振る舞っていた。つまり、「君臨すれども統治せず」の原則をかたくない守ろうとした。

 美濃部達吉の「天皇機関説」が問題になり、軍部や議会で彼が弾劾を受けていたときも、天皇は「彼のような立派な学者を排除するのはよくない。私は彼の説が間違っているとは思わない」と後の首相で当時侍従長だった腹心の鈴木貫太郎に述べている。

 しかし、天皇がいかに立憲君主のように振る舞おうとも、明治憲法はそのように規定していなかった。その結果生じたことは、最高権力の空白という異常な事態だった。そして、この空白をついて、軍部が権力を壟断することになった。昭和天皇はすぐれた人格者かも知れないが、最高権力者としての自覚に欠けるところがあった。

 最高権力の所在を明確にすることは、責任の所在を明確にすることでもある。先の戦争の反省を求めるならば、まずこのことであろう。この点から考えて、現在の日本の状況が戦前よりもどれほどましなものか、疑問を感じないわけにはいかない。


2001年05月22日(火) 税制は戦争の所産

 先日新聞に高額納税者のリストが載っていた。それによると、日本一は41億円余りを納税した大塚製薬の元相談役の大塚正士さんだという。6位、7位も大塚さんである。いずれも11億円あまり納税していて、肩書きは大塚化学の会長、アース製薬の会長とある。大塚一族はベスト100人に計7人を占めているというからなかなかのものだ。

 二位の三木谷さんは、インターネット上に仮想商店街を実現した「楽天」の社長。三位にソフトバンクの孫正義さんがつけている。土地成金ばかりで占められていたバブル最盛期の頃と比べると、上位者はいずれも会社の会長や社長、役員が占めており、健全化したように思う。高額納税者のリストにはその時々の世相が写し出されている。

 ところで、税金には大きく分けて、資産・所有物にかかる「資産税」、支出にかかる「消費財」、そして収入にかかる「所得税」の3つがある。その比率は日本でおよそ2:2:6になっている。この比率をどうするかが、税制改革の目玉だと言っていい。

 今日では税金の王様格の「所得税」だが、その導入はもっとも遅く、世界で最初に「所得税」を導入したイギリスでさえ1799年だった。それまでイギリスは他の国同様、資産税(地租)と消費税(酒税と関税)で財政を賄っていたが、ナポレオン戦争に直面して、戦費調達のために導入したのだという。

 導入に際して、「所得は、国民の消費生活と資産形成の源泉である。所得税は労働意欲を抑制し、経済活動の根幹に害を及ぼし、国力の衰退を招く禁忌である」という反対の声があがった。しかし、戦争の危機を前にして、その声は消され、アメリカ、フランス、カナダ、ドイツ、イタリアが追随し、日本も1887年(明治20年)に導入に踏み切っている。

 さらに日本では1940年(昭和15年)、真珠湾攻撃を翌年に控え、さらなる戦費調達のために、「源泉徴収制度」が創設された。これはサラリーマンから有無を言わせず効率的に税金を搾り取る制度として現在まで用いられている。

 たとえば約5200万人のサラリーマンで納税している人の割合(納税者率)は85・2パーセントにのぼるが、自営業者の納税者率は42・9パーセント、農業は納税者率がわずかに20パーセントとなっている。所得税は、捕捉という点でもこのような大きな欠陥を抱えており、所得がガラス張りのサラリーマンばかりが搾取されているという不平等な現実がある。

 もともと緊急避難的な意味合いで導入された「所得税」が、いまや税収の大きな部分を占めるにいたっている。税制に限らず、危急のためと称して一旦創設された国にとって都合のよい制度は、その後廃止されることはほとんどない。国は戦争が終わってからもどん欲に国民から税金をしぼりとり、ますます贅肉ばかりの巨大な怪物になって人々を苦しめる。


2001年05月21日(月) 托鉢するタイの僧侶

 昨日の朝日新聞の日曜版「出家、だれもが一度は考えた」にはタイの僧侶の清々しい姿が描かれてた。「頭をそって、はだしでゆくと、通りの光景は一変する。人の心のあたたかさに感動」という見出しに惹かれて読み始めた。

 タイではだれでも出家できるし、「一度は出家しないと一人前と見なされない」と言われるほど、仏教が人々の心のなかで大切な位置をしめている。これを書いた朝日新聞アジア総局長の宇佐見さんも、実際にタイで得度式をして11日間僧侶生活を体験したのだという。
 
 毎朝3時半に起床。4時から一時間あまりは読経と瞑想。寺の食事は午前7時半からの朝食と、午前11時からの昼食の2回だけ。正午を過ぎて食べることは戒律に反することだそうだ。宇佐見さんは最初の2日間は腹が減ってたまらなかったが、あとは2食で充分だったと書いている。

 托鉢をするので、運動不足にはならない。背中をのばして、1時間半ほど歩くと、ジョギング並の運動になると言う。市井の信者は僧侶の人柄を見抜く。若い僧には見向きもしなかった市場の商人たちが、人格者の僧侶には列をなして食べ物やお札、花などを捧げるという。

 宇佐見さんも托鉢に歩いたが、単独で出かける最初の乞食のときは冷や冷やしたという。しかし、この日に受けた施しは32品目にもなった。なかでも水撒きをしていた主婦が寄進してくれた20バーツ札は生涯の宝物になりそうだという。

 こうした体験記を読みながら、私も又、タイの人々の心の豊かさに感動した。そして托鉢という仏教の基本に忠実なタイの僧侶たちに大いなる共感を覚えた。托鉢を通して見えてくるもの、それは人の心のあたたかいぬくもりに違いない。


2001年05月20日(日) モンゴルに見る市場経済の影

 モンゴルで大統領選が行われている。モンゴルでは社会主義が崩壊した後、民主化がすすみ、96年の総選挙で共産党の人民革命党にかわり民主派勢力が政権を獲得した。そして家畜は私有化され、市場経済に移行した。

 しかし、これによって貧富の差が拡大し、多くの遊牧民が家畜を失い、経済不況が深刻化した。そして昨年の総選挙ではふたたび人民革命党が圧勝したという。今回の大統領選でも人民革命党の現職大統領が野党の民主党の候補を押さえていくらか優位に戦いを進めているようだ。

 モンゴルではこうした経済的混乱に加え、2年続きの大寒波で400万頭以上の家畜が死んだという。ウランバートル郊外の草原には家畜を失った遊牧民のみすぼらしい移動式住居ゲルがいくつも立ち並んでいる。都市にも職はなく、失業があふれているらしい。人口の36パーセントが月収7ドルに満たない貧困層で、昨年の一人あたりの国民総生産は350ドル。「民主でも共産でもいいから職が欲しい」というのが人々の切実な願いだという。

 転換期の混乱と言えばそれまでだが、左右に揺れる政治の混乱も貧困化に拍車をかけているのだろう。急速な市場経済化により、経済優先、お金儲け優先の拝金主義がはびこり、モンゴル旧来の生活様式や共同体が崩壊しつつあるように思われる。あと数十年もすれば、経済的に立ち直るかも知れないが、そのとき、モンゴルはもう以前のようなノスタルジーを掻き立てる「精神的にゆたかなモンゴル」ではなくなっているかも知れない。


2001年05月19日(土) 旅のHPに見るインターネットの明日

 私が最近毎日訪れるHPがある。「日本一周二輪旅」で、管理人の市川さんが、題名の通りバイクで日本一周をしながら、その道中記をHPに発表している。東京を出発してから、38日目になる昨日は沖縄の那覇からのレポートだった。

 HPの場合、文章だけでなく写真が載せられるので、リアルタイムで各地の風景が眺められて楽しい。バイクが故障したり、山中で野宿をしたり、こうした旅につきもののさまざまなトラブルや不都合にもかかわらず、市川さんの旅を楽しんでいる思いが伝わってきて、思わず応援したくなる。実際読者の中にはHPを見て、会いに行く人もいるようだ。そうした人との出会いも綴られていて、決して孤独な旅だという印象は受けない。

 市川さんはバイクに積んだ自分のノートパソコンでHPを毎日更新している。そして接続には携帯電話を使っているようだ。これなら日本各地どこからでもインターネットに接続することが出来る。

 専門家はあと数年もすればインターネットの接続は携帯電話などのモバイル・ギアによるものが一般的になると予測している。光ファイバーを各家庭に引こうという計画もあるようだが、こうした地上通信はすたれて、電波によるモバイル・ネットワークが主流になるのではないかという。通信速度も光ファイバー並の高速化が達成されるだろう。

 こうした点で、日本政府やNTTの地上インフラ優先の戦略は時代遅れの印象を拭えない。ハイビジョンにこだわって、テレビのデジタル化に乗り遅れたように、せっかく優秀な技術を持ちながら、戦略戦術がまずいために世界規格を取り逃がすということを繰り返して欲しくはない。


2001年05月18日(金) 学び上手の日本人

「タイム」の4月号が33ページもの日本特集を組んでいるという。巻頭記事はずばり「なぜ日本人は他人にどう思われるのかを気にするのか」だそうだ。「日本は中国がアジアの中心であった時代には、常に中国が自国をどう見るかを気にしていた。文化に中心が西欧に移っていると気付いた日本人は、今度は西欧ばかり気にするようになった」という。

 明治時代の「文明開化」も、「肝心の西洋人の目から見れば、自国の文化の伝統をおろそかにし、西洋のものまねをするという卑屈で滑稽なものだった」と指摘し、「力の勝った文明のモノを喜んで受け入れようとする態度」について批判的に書いている。

 日本人といえば物まね上手というのが、彼らのステレオタイプ化されたものの見方になっている。こうした批判は昔からあったようで、明治時代、ドイツに留学した数学者の高木貞治は指導教官だったクロネッカーから「東洋から黄色い日本人がやってきた。こんどは猿がやってくるに違いない」とからかわれたという。

 こうした日本人に対する軽蔑は、「物まね=盗み=ずるい」という文脈から生まれるのだろう。しかし、こうした文脈は日本人にはあまりない。日本では学ぶということは決して悪いことだとは考えられていない。むしろ先人や隣人から学ぶことは何らやましい行為ではなく、むしろ向上心の現れであり、賞賛されるべきことである。

 長い間日本は文化の辺境に位置した後進国であり、中国や西洋から学ぶことで精一杯だった。NHKの平野次郎さんが番組で、アメリカ人の知人が口にした「日本は何も世界に貢献していない。地上から日本が消滅しても、我々はなんら不都合を感じることはない」という発言を紹介していたが、大方の世界の人々は同じような感想を持っているのではないだろうか。

 しかし、こうした判断はいささか性急すぎると思う。日本は鎖国を解いて、世界の仲間入りしてまだ200年と経っていない。学び上手の日本の文化が、やがて世界に貢献する日がないとは限らない。それに、西洋文明なるものも、その源をたどればギリシャ文明である。科学も文化も政治も経済も、古代ギリシャの物まねであることに変わりはない。


2001年05月17日(木) リヴァイヤサンの消える日

 ギリシャの都市国家ポリスはその中心にアゴラと呼ばれる広場を持っていた。午前中はこのアゴラで市場が開かれ、午後になると自由な市民の社交の場となり、政治や哲学などの討論や集会が持たれたりした。ポリス国家が生まれたのは、このアゴラからだと考えられている。

 ギリシャに限らず、古代の王朝は多くは都市から生まれた。そして都市の前身はなにかと言えば、「市場」である。日本でも少し大きな町の事を「市」と呼ぶ。「四日市市」や「八日市町」などという市や町があるが、たとえば「一宮市」にしても寺社の門前町であり、これは寺社の前に立った「市(いち)」が発展してできたものである。同様なことは大阪や江戸をはじめとする城下町にも言える。

 これまでの教科書では、農耕のための大がかりな灌漑事業の必要が強力な王権を生み出したという説が主流だった。エジプト、メソポタミア、インド、中国など古代王権は大河の流域の農耕地帯に展開している。農耕文明の集団主義的性格が国家成立の基礎条件であるという考え方は説得力がある。しかし、こうした国家観は歴史の現実を必ずしも正確に写しているとは限らない。

 農業革命によって、過剰な生産物が生まれ、農民はこの余剰生産物を他の産物と交換するために、物々交換の場として作られた「市」に持ち込んだ。やがてこれを仲介する階層があらわれ、彼らが「市」の実権を握り、農耕集団をも支配するようになったと考える方が歴史の実態にあっているのだろう。

 ユダヤの民話では、最初2匹のリヴァイヤサン(旧約聖書に出てくる恐竜のような怪物)がいたが、ます一匹が神に滅ぼされ、ついで残りの一匹が滅びたとある。二匹のリヴァイヤサンというのは、東西に分裂したローマ帝国を考えるとわかりやすい。

 あるいは時代が下って、冷戦時代のアメリカとソ連を考えれば、いっそう分かりやすい。1989年のソ連が解体はまさに一方のリヴァイヤサンの死である。のこる一匹はアメリカだとしたら、これもやがては解体するのだろうか。

 リヴァイヤサン(国家権力)は「市場」から生まれたが、彼が凶暴になったのは、一口に言えば、市場を巡る縄張り争いに勝つためである。いわばリヴァイヤサンの正体は市場の守護神であり、用心棒である。そこでもし今後世界で「市場のグローバル化」が進むと、そこにただ一匹残ったリヴァイヤサンは、もはや戦うべき敵がいないという事態に直面する。

 ユダヤの民話では、リヴァイヤサンの死骸は、人々の食料となり、住居の材料にさえなっている。市場から生まれたリヴァイヤサンは、ふたたび市場の世界の中に姿を消して、しかも栄養になる。恐竜が亡びた後の国家なき世界の、理想的な姿がそこにある。しかし、リヴァイヤサンがそう簡単に自然消滅するとは思えない。断末魔の苦しみから、世界を道連れにして地獄に落ちようとするかも知れない。

 私は去年「経済学」の本をいくらか読み、自分で考えて、納得したことをHPに発表した。難解だった経済学も「市場」という視点から見ると、驚くほど分かりやすい。ともすれば神学論争めいた議論に陥りがちな「政治学」だが、それも見方を変えれば理解不可能ということではなさそうである。政治学が難解なのは、学者たちが専門性の罠に陥り、権威主義的な思考にとらわれて、国家や権力の起源について素朴な問いを発することを忘れているからではないだろうか。


2001年05月16日(水) 王様を欲しがるカエルたち

 イソップ物語に「カエルの王様」の話がある。支配者がいないのを気に病んだカエルたちが、ゼウスに「自分たちにも王様を授けて下さい」とお願いしたところ、ゼウスはこれがよかろうと「木片」を沼の中に投げてよこした。最初はありがたがっていたカエルたちも、ただ浮かんでいるだけの木片に失望し、「もっと立派な王様と取り替えてください」と改めて、ゼウスに要求した。そこで、ゼウスは「水蛇」を沼に投げてよこした。カエルたちはこの恐ろしい水蛇に残らず食べられてしまったという。

 イギリスのトマス・ホッブスは「国家」を「旧約聖書」にでてくる怪物「リヴァイアサン」にたとえたが、「イザヤ書」ではこの怪獣は「海蛇」として描かれている。ユダヤの民話では、神がこの怪獣を砕き、その皮膚で聖都を覆うテントを作り、その肉を美味な料理ととして信者たちに与えたという。

 経済学者の竹内靖雄さんは「国家と神の資本論」のなかでこれらの話を紹介して、「リヴァイアサンとしての国家は本来国民を取って食うことのできる恐るべき存在であって、やさしい保護者であると考えるのはまちがい」だと述べている。

 しかも、怪獣は一匹ではない。地上に何匹ものリヴァイアサンが存在し、食うか食われるかの闘争を続ける。とくに16世紀に国民国家というリヴァイアサンが登場してからは、覇権闘争が日常化した。国民の租税はこの凶暴なリヴァイアサンにとってなくてはならない餌である。リヴァイアサンの最大の好物は貨幣と人肉だという。

 それでは、どうしてこのような恐ろしい怪獣「国家」が生まれてきたのだろうか。ホッブスは「人間は自然状態において、お互いに敵になり、食うか食われるかの戦いをよぎなくされる。そこで自分たちの共通の支配者として一人の王様を作り出した。そして自分たちの『自由と独立』の権利(自然権)を彼に委ね、彼に従属することで、自分たちの平和と安全を作り出そうとした。これが国家の起源である」と考えた。

 しかし、竹内さんは「自然状態の野蛮」を前提にしたホッブス流の社会契約論はフィクションに過ぎず、ポッブス以来の定説となった「支配し戦うリヴァイアサン」という国家観も、その起源と本質から見直して、プラトンが「国家論」で展開したように、「国家は市場から生まれた」と考えるべきだという。そして岡田英弘が『倭国の時代』(中央公論社)で展開した次のような説に賛意を表している。

�� 交易から都市と国家が生まれた。
�� 王や貴族の起源は市場にある。
�� 交易する人は農耕する人と区別される。
�� 市場に「朝廷」が出現する。
�� 租税は市場への入場料から生じた。
�� 常設の市場が都市国家になる。
�� 公用語・共通語は市場から生まれる。
�� 中国という国家の実態は一大総合商社であった。
�� 中国は民族国家ではなく統合商社システムである。
�� 朝鮮や日本は中国の商業ネットワークの末端に位置していた。

 ホッブスの『リヴァイアサン』を書いた頃、まさにヨーロッパは覇権の時代だった。その後産業革命や植民地戦争、帝国主義の時代が続き、まさにどう猛な「国家」たちによって、地上に殺戮が繰り返された。こうした血なまぐさい現実が「国家=リヴァイアサン」というフィクションに現実味を与えたことは確かだろう。

 ちなみに、リヴァイアサンの凶暴性を実感するために、データーをいくらか上げておこう。竹内靖雄さんの本によると、ローマ帝国の英雄シーザーが殺戮した人間の数は30万人にのぼり、これはナポレオンに匹敵するということ。21世紀になるとナチスドイツが600万人ものユダヤ人をガス室で虐殺し、日本軍は2000万人ものアジア人を死に至らせた。第二次大戦全体での死者は1億人を越えると推定されている。

 国家の凶暴性は外部ばかりでなく国内にも向けられる。むしろ本当に怖ろしいのはこちらの方かも知れない。スターリンの粛正は4000万人にのぼることがモスクワの「論争と真実」誌があばいている。中国の場合も、文化大革命の時代、2000万人の犠牲者があったと推定されてる。おそるべし、国家、リヴァイアサン。

 21世紀になって、私たちはプラトンの提出した「市場国家」という原点に立ち戻って、もう一度新しい国家論を構築すべき時なのかもしれない。そして、こんなに野蛮で、恐ろしいリヴァイアサンに一刻も早く死の宣告を与えたいものだ。少なくとも私は、おろかなカエルたちの二の舞にはなりたくない。


2001年05月15日(火) 今こそ民主的な権力の樹立を

 小泉首相は「聖域なき構造改革」を掲げているが、いまのところかけ声ばかりで、改革の具体的なプログラムは明らかにされていない。本当に出来るのかどうか、膨らんだ期待感の背後に、不安も広がっている。

 改革を行うには、強力なリーダーシップが必要である。しかし、日本の政治システムはそうした指導力を許容するようにはできていない。権力の中枢部にいるはずの首相にそれだけの権威も権力もそなわっていないからである。権力構造の中枢がしっかりしていないので、重要な国政や外交の問題についてなかなか自己決定ができない。

 日本は自ら改革するのが苦手な国だ。重要なシステムの改革はほとんど外圧によっておこなわれる。そもそも日本が新しい憲法のもとで民主国家に生まれ変わったのも、戦争に負けたからである。アメリカという絶対権力によって、外部から強制されて改革が行われた。

 日本人は昔から「和をもって貴し」と考えてきた。そして、ともすると権力そのものを罪悪視する風潮があった。それは独裁的権力のおおくが、あまり幸福な結果を人々の上にもたらさなかったからである。天皇制という権力の中枢を空白にする独特なシステムを一貫して維持してきたのも、こうした独裁をきらう国民性の現れとみることができる。

 しかし、こうした権力の中空システムでは、大きな改革を行うことが出来ない。だから改革は常に外圧によって強制的に行われるしかなくなる。戦前や戦中は軍部によって、戦後はアメリカという外圧によって政治が動かされてきた。真の権力者は軍部やアメリカだったわけである。冷戦構造が解消した現在、そろそろ日本は自立した国家として世界に立つ必要がある。そのためには、まず自ら自己決定できる権力システムを構築することだろう。

 民主主義とは権力を否定するシステムではない。権力者を民衆の中から、民衆の手で選ぶシステムである。具体的に言えば、あらゆる権力を公明正大に選挙で決めるシステムである。権力を否定するシステムではなくて、権力を民主的に樹立するシステムである。「首相公選制」とは、まさにこうした民主的な権力を樹立するシステムであり、日本を本当に自立した民主国家として世界に認めさせるシステムだといえよう。


2001年05月14日(月) 議員内閣制は君主制の名残

 共産党の下田議員が参議院本会議で、「首相公選制」に反対の弁論をしている。下田議員に限らず、多くの識者や学者も主に次の二つの理由をあげて、「首相公選制」に反対している。そこで、まずこの点について、反論してみたい。

 �‘蛤朮修良坩臓´�議会と対立する可能性 

 まず、「�‘蛤朮修良坩臓廚呂燭靴�にある。国民の直接選挙によって選ばれた首相には権威が生まれる。権力も強化されるだろう。しかし選挙は一回限りにものではない。4年後に再び洗礼を受けるわけだし、途中でも国会による弾劾裁判は可能である。近いところではフイリピンやアメリカの前大統領の例がある。こうした漠然とした不安を理由に、「指導者を直接国民の手でえらびたい」というしごく当然な国民の要求が否定されてはたまらない。

 次に「��議会との対立する可能性」だが、これは当然あり得る。しかし、これはむしろあってしかるべきものではないのか。議会政治はイギリスで生まれたが、これは権力者である王様の専横を押さえるための装置だった。そもそも権力者の横暴を押さえ、その政策を批判することが、議会の役目なのである。権力者と対立しない議会など、その名に値しない。

 議員内閣制の場合、首相は議会で選ばれる。したがって、首相と議会が対立することはまれである。そして、両者は癒着して一体化し、政策に対する批判も少数派の野党による形式的なものとなる。首相は指導者や権力者ではなく、単なる調停者であり、悪くすると名誉職のごとき飾りものになる。そして議会との連合政権は権力の司令塔や中枢部を持たないまま、空洞化して腐敗する。相互批判のない体制は堕落して、亡びるしかない。

 したがって、�,鉢△呂茲�考えてみると、裏腹の関係にある。独裁化を阻止するために議会があるのであって、また議会が健全な批判勢力である以上、独裁は起こらない。「対立があるから不都合」なのではなく、「対立があり、相互批判と、権力チェックがあるるからこそ好都合」なのである。

 ついでに、これは自民党の議員からよく出される、「�E傾沈�となじまない」という批判についても考えてみよう。公選首相と天皇と二人も元首がいては困るということだろう。しかし、日本の天皇制の歴史を考えてみれば分かるように、天皇はあくまで象徴であって、権力者ではない。権力と権威、政治と文化を使い分けるこうした日本的伝統からしても、両者の存在は違和感なく受け止められるだろう。

 それでは、そもそも「議員内閣制」とは何者か。これは実は、王権に対する戦いの産物なのである。もともと首相とは王様の臣下の中の第一人者(プライム・ミニスター)でしかなかった。しかし王様の強力な王権に対抗するため、貴族たちは自分たちの中から首相を選ぶことを要求した。したがって、議院内閣制は君主制のもとで、君主の専制を許さないために生まれたものである。

 もし天皇が専制君主なら、これに対抗するため「議院内閣制」に固執することも選択肢に考えてもよいが、君主制に逆戻りするのでなかぎり、有効な制度だとは思えない。共産党はいまだに日本が専制君主制の国だと思っているのだろうか。


2001年05月13日(日) 色が浜と芭蕉の句

 昨日は妻と愛犬リリオと私で、若狭敦賀の「色が浜」まで、ドライブをした。名神から北陸道に入ったが、真っ青な空にはえて、周囲の山々の新緑が美しかった。一宮の家を出てから、1時間半ほどで敦賀市につき、まずは「ヨーロッパ軒」で昼飯を食べた。

 実を言うと、この日帰り旅行は「ヨーロッパ軒」の「ソースカツ丼」を食べたいという私の希望で始まった。そのついでに、西行や芭蕉も訪れたという景勝の地「色が浜」まで足を伸ばそうということだった。

「ヨーロッパ軒」が東京に開店したのは大正時代で、洋行帰りの主人が日本人の口にあうように工夫して店に出したのが「カツ丼」のはじまりだという。つまり、「ヨーロッパ軒」の「ソースカツ丼」はカツ丼の元祖である。関東大震災で店は灰燼に帰したが、福井出身の主人が故郷に帰ってきて「ヨーロッパ軒」を福井市に再建した。戦後になって、敦賀にも「ヨーロッパ軒」ができた。

 妻にそんな講釈をしながら、腹ごしらえがすんだところで、再び車に乗った。海水浴で昨年来たことがある「気比の松原」の松林の道を通り、西浦海岸沿いの道を走った。30分足らずで「色が浜」についた。妻が学生時代に敦賀に来たとき、「色が浜」に行こうとバスに乗ったが、途中までしか行けなかったという。

 今その海岸にきて、砂浜に寝転がり、しばらく海を眺めた。11歳になる雄犬のリリオがうれしそうに浜辺を駆け回る。人気がほとんどないので、のんびりくつろげた。それから、両側に釣り船旅館が並ぶ鄙びた通りを、芭蕉の句碑がある日蓮宗本隆寺まで歩いた。「奥の細道」の旅で、芭蕉はこの地を訪れ次のように記している。(現代語訳)

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 十六日、空が晴れたので、ますおの子貝を拾おうと、種の浜(色ガ浜)に舟を走らせる。浜までは海上七里ある。天屋なにがしという者が、破籠や小竹筒などをこまごまと気をつかって用意させ、召使を大勢舟に乗せて出かけたが、舟は順風を受けてわずかの間に吹き着いた。浜はわずかに漁師の小家があるだけで、そこにさびれた法花寺(本隆寺)がある。その寺で茶を飲み、酒を暖めなどしていると、この秋の夕暮れが寂しさの極致であると確信した。
 
 寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋
 波の間や小貝にまじる萩の塵
 
 その日のあらましを、等栽に書かせて寺の記念に残した。

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 同行した門人の等栽に書かせて寺の記念に残したという文は今も本隆寺に寺宝として残っている。なお「ますほ」は「赤い」という意味の古語で、「ますほの小貝」は、小豆ほどの大きさの二枚貝で、学名はチドリマスオガイ。西行がやはりこの地を訪れたとき、「汐染むるますほの子貝 ひろふとて 色の浜とは いうにやあらなむ」(山家集)と詠んでいる。

 残念ながら、私たちはこの風流な貝を拾うことは出来なかった。なお、芭蕉がのちに「色が浜」を偲んで詠んだものにつぎの句がある。

   衣着て 小貝拾はむ 色の月

「色の月」がなんともよい。なお、芭蕉がこの地を「奥の細道」の最終ルートとして訪れたのは、元禄2(1689)年8月14日夕刻から8月16日の3日間とされている。今を去る300年以上も前のことである。

 海岸道路の上を鳶が何羽か悠然と飛んでいた。妻が「ヨーロッパ軒」で持ち帰り用に買った「とんカツ」を鳶にやりたいと言い出して、それをちぎって空に放り上げはじめた。鳶に襲われては大変と、私もリリオも車の中に避難。恐る恐る眺めていたが、結局鳶は近くまで来るものの空中で「とんカツ」をキャッチすることはできず、さいわい妻も襲われて怪我をすることはなかった。残念なのは、夕食にも食べようと思っていた名物の「とんカツ」が残り少なくなったことだった。


2001年05月12日(土) 児童虐待の悲しい現実

 親や親にかわる養育者が子どもに対して行う身体的暴行、養育の拒否や放置、心理的虐待、性的暴行など、いわゆる「児童虐待」が増えている。厚生省の発表によると、その発生件数は毎年約3万件ほどだそうだ。虐待の内容は、身体的なものが51パーセントで、無視が37パーセント、そして心理的虐待10パーセント、性的虐待2パーセントだったという。

 虐待の被害を受けた人たちの手記をあつめた『日本一醜い親への手紙』という本がある。この本や続編の『もう家には帰らない』に寄せられた200人の手記はインターネットでも読むことが出来る。そこには被害者の赤裸々な心が綴られている。

「お父さん、お母さん、最近私は一冊の本を読みました。『日本一醜い親への手紙』という本です。生まれて初めて自分と同じ思いを抱えた人達の言葉にふれた、という感じです・・・」

「それからの母は目に見える場所に火を押し付けるという馬鹿な事だけはしなくなった。たとえ私が父とお風呂に入っても絶対バレない場所に焼印した。さて、それは何処でしょう? 答えはおしりの割れ目の陰部の近く。娘の陰部を開けて見る父親はいない。ここなら焼印の跡を父に発見される心配はない。幾重にも上から同じ所を焼かれた為40年近く経った今もケロイド状に残っている」

 私たちは毎日、様々なストレスの中で生活している。ストレスが引き金となって、病気になったり、精神的障害を経験するが、そうした苛立ちを子供にぶつけていると、それが度重なって、止めようと思っても止められなくなってしまい、幼児虐待に結びつく。こうした加害者の苦しい心中は、姉妹本の『子を愛せない親からの手紙』に寄せられた手記を読むとわかる。

「怒鳴って、殴ると、一瞬スッとする。でもその後、すっごく後悔する。 昨日も、娘が食べない、飲まないと、一杯殴ってしまった。娘は大泣きした。私も泣いた。後で、ごめんねと、殴った所を一杯撫でてあげた。 いい加減、こんな事、早くやめなきゃ。娘が物心ついてしまう前に…絶対。自分の家でさえくつろげない、と娘に嘆かれない様に。悲しい子供は、私の代でもうたくさん」

「私は世界で一番、最低の母。今、ぷくぷくのほっぺで長いまつげで、無防備で眠っているあなたを見ていると、自分の愚かさに吐きけすらしてこの世から消えてしまいたくなる。なぜ、いずれ自分の手から離れていくに決まっている我子を、ほんの一時、心から愛してやれないのだろう。いつも自問し、反省し、良き母になろうと決めるのだが長続きしない。自分の感情に流され激しく怒ってしまう。まるで心に悪魔がいるようだ」
 
 虐待は子どものこころとからだに深い傷あと(トラウマ)を残し、時には生命を奪うもある。さらに虐待されて育った子供は大人になったとき自分のこどもを虐待することになることが多い。この悪しき連鎖を断ち切ることが必要だ。虐待する親も、虐待される子供たちも、ともに被害者であるところに、この問題の余りにもかなしい現実がある。


2001年05月11日(金) ユーゴスラビアでの人身売買

 コソボ自治州に連行され、売春を強制された130人の女性について、国際移住機関が聞き取り調査をしたところ、被害者の平均年齢は21歳で、14歳の少女もいたという。彼女たちの出身地はモルドバが多く、ルーマニア、ブルガリアと続く。

 外国での仕事を求めて、勧誘に載ったところ、売春を強要され、3分の2の女性が「性的虐待を受けた」と答えているという。何回も転売され、転売される度に価格が上がり、最終的に8万円から28万円ほどになるらしい。

 勧誘するのは女が多く、しかも4割が顔見知りだという。安心して話にのると、とんでもないことになる。女性や顔見知りを使って勧誘させ、一旦手に入れると、転売しながら利ざやを稼ぐあくどい男たちの存在が背後にあるようだ。

 日本にも古くから人身売買が行われていた。たとえば江戸時代、宿場町には飯盛女といわれる下級遊女たちがいた。前借金で束縛された年端もいかない娘たちに無理な勤めを強い、病気になったり客がつかなければ、食事を与えなかったり、裸にして水を浴びせたり、竹で打ったりむごい虐待を加えた。 過去帳によると、彼女たちの平均死亡年齢は22.7歳だったという。

 コソボからの報告は、こうした悲惨がいまなお世界で行われていることを示している。貧困が直接の原因だろうが、その背後には「戦争」があり、共同体の崩壊による人心の荒廃という現実がある。現代の人身売買のほうが、虚無的で退廃的なのはこのためであろう。


2001年05月10日(木) 「首相公選制」と改憲論

 小泉首相が誕生して、「改憲」の動きが活発化した。小泉さん自身、名うての「改憲論者」で、戦力の放棄をうたった九条を含めて改憲すべきだという、かなりのタカ派である。その彼が私的な諮問機関を作り、首相公選制の実現に向けて動き出すという。

 彼は首相公選制について、「総理を選ぶ権利を国会議員から国民に手渡す政界の規制緩和だ」と述べている。首相公選制は現行の憲法では無理なので、当然改憲が必要であるが、この点についても「首相公選制のためだけの改選なら理解されやすい」と言う一方で、「首相公選制が実現すれば、憲法改正の手続きも鮮明になる」と述べ、これを改憲のための「突破口」にするという意図も明言している。

 朝日新聞のアンケート調査では、74パーセントの人が「憲法第九条をかえないほうはよい」と答えている。小泉内閣の支持率は78パーセント、首相公選制に賛成する人も8割を越えると言うが、そのほとんどの人が憲法9条の「改正」を望んでいない。

 私も首相公選制に賛成だし、そのための改憲はいたしかたないと思っているが、しかしこれを「突破口」に九条まで変えられてはたまらない。首相公選制は改憲へのステップではなく、民主主義実現のためのステップでなければならない。小泉首相はこうした国民の声に耳を傾けて欲しい。そうでないと、支持率はアッという間に下落し、国民の政治不信はさらに深刻な状態に陥るだろう。


2001年05月09日(水) 経済優先から環境優先へ

 かっては「資源の枯渇」ということがよく言われたが、今あまりこの言葉を聞かない。これにかわって、「環境破壊」ということが言われるようになった。資源が枯渇する前に、環境破壊が限界値を越えるだろうという予想が一般的になったからである。

 たとえば、温暖化の原因になる二酸化炭素濃度は産業革命が始まる前の1750年頃には280ppmだったのが、現在は376ppmにまで上昇している。森林や海の吸収能力を越えて、現在排出される二酸化炭素の半分が大気中にたまりつづけているという。つまり、環境破壊を避けようと思ったら、排出量を現在の半分に押さえる必要がある。

 97年に京都で開かれた世界環境会議(COP3)では「京都議定書」が採択された。そこで、欧州が8パーセント、米国7パーセント、日本6パーセントと言った削減目標が掲げられたが、ブッシュ政権がこれを認めない方針を示したことで、その先行きが危ぶまれている。

 ブッシュ政権は今後20年間で1300ヵ所の発電所を建設するという方針を明らかにし、チェイニー副大統領は「毎週1基ずつ発電所を作らねばならない」と発表した。二人ともかって石油会社を経営した経験を持ち、石油業界の利権に直結した政権といわれている。したがって、「京都議定書」の批准を放棄したことも、政権と石油業界との癒着とらえられ、温暖化防止に積極的なヨーロッパ諸国の反発をかっている。

 ところで、地球上の全人口の4%を占めるアメリカ人が、人類の活動によって出される二酸化炭素の25%を排出している。一人あたりの二酸化炭素の年間排出量は5・5トンで、日本(2・5トン)の2倍以上である。これによっても、アメリカがいかに資源を多量に使っているかがわかる。

 アメリカの二酸化炭素排出量が多い原因の一つに、アメリカが「自動車社会」だということがある。一人あたりの年間排出量は、同じく自動車社会であるオーストラリアが4・7トン、カナダが4・4トンであるのに対し、公共交通が発達しているイギリス、ドイツ、韓国などは日本同様に2トン台、メキシコやインド、中国などの発展途上国に至っては1トン以下である。

 したがって、環境破壊を避ける一つの方法は、「車社会」から脱皮することだろう。広大な国土をもつアメリカでこれを実現することは難しいことだが、しかしこのことは避けて通れない道である。経済優先社会から環境優先社会へと、パラダイムを転換させる以外に、この危機を乗り越える手だてはない。


2001年05月08日(火) 現代の奴隷制の恐るべき実態

 奴隷制といえば、ギリシャ・ローマ時代やアメリカの奴隷貿易がすぐに思い浮かぶ。たとえばアメリカの場合、15世紀半ばから19世紀までの奴隷貿易で、アフリカから約1200万人が積み出され、200万人近くが航海中に死亡、さらに「捕獲」から出港までにほぼ200万人の死者が出たと算定されている。

 しかし、奴隷制が最も栄えているのは、他ならぬ現代で、後世の歴史家から見れば、21世紀こそ奴隷貿易の時代だと映るかもしれない。というのも、現在世界中で毎年数百万人の子供や女性が売買されているからだ。

 たとえば先月中旬にも、西アフリカのペニンを出港した船が約100人の子供を「奴隷」として外国に売り渡そうとしているという報道が世界を駆けめぐった。どうやらこうしたことが、21世紀に入った現在でも日常茶飯事でおこなわれているらしい。

 国連の国際労働機関は、5歳から14歳の子供が年間250万人も奴隷労働下に置かれていると見積もりを出している。そして数え切れない少女や女性が売春を目的とした売買の対象になっていると警告している。最近のアメリカの研究では、国際的に取り引きされる子供や女性の数は200万人ほどだが、むしろ多くの場合、奴隷労働は国内で秘密裏に行われているという。

 奴隷制が国際的に禁止されたのは、1808年のことである。しかし、依然として奴隷貿易も奴隷制度も続いている。それはこの地上にはまだ何億もの人々が極度の貧困と飢餓状態に置かれているからだ。IT革命が進む中で、国際的経済格差はさらに広がろうとしている。こうした現代の矛盾がなくならない限り、貧しい国の子供や女性を対象にしたこうした非人道的で、悪質な商売もなくならないのだろう。


2001年05月07日(月) 「問う」ことの大切さ

 アインシュタインは子供の頃、「光と同じ早さで走ったら、世界はどんな風に見えるのだろう」という疑問を持った。彼の「相対性理論」はこの問いに対する解答である。偉大な発見や発明の多くは彼が子供の頃に抱いた素朴な疑問に発している。そして創造的な研究を続けている人は、誰も皆幼子のような純真な目で自然や社会を見つめ、「何故?」と問い続けることを止めない。

 誰しも幼いときは「問う」ことの名人だった。どうして虹ができるのか。どうして空は青いのか。どうして日は朝と晩には赤く色が変わるのか。太陽はどうして燃え尽きてしまわないのか。雲や風はどこからやってくるのか。磁石はどうして北を向いているのか。どうして人間は愛しあわなければならないのか。

 ところが、私たちは学校で、「問う」ことの大切さをあまり学ばない。私たちに要求されるのは、「問い」ではなく、与えられた問いついての「解答」である。問いは発するものではなく、「与えられるもの」だという考えが、日本の学校教育を支配している。

「学問」とは、「学び、そして問うこと」だが、「問うことを学ぶこと」でもある。日本の優秀な学生は「学ぶことの達人」かもしれない。しかし、彼らが同時に「問うことの達人」であるかどうか疑問である。

「学ぶこと」の前に「問うこと」が存在しなければならない。自ら問い、その答えを発見すること、本当の生きた学問はこうした過程の中にある。学生や学者に限らず、私たちも「問うこと」との価値を忘れるべきではない。深く問うことは、深く知ることに通じる。人はその問いの深さに応じた答えを、人生から引き出すことができる。


2001年05月06日(日) 福沢諭吉と独立自尊

 今年は福沢諭吉没後100年にあたる。諭吉の根本的考え方は「独立自尊」ということだ。これは個人に対してだけではなく、国家にも言える。そこで個人の独立が先か、国家の独立が先かということが問題になるが、諭吉は個人の独立が先だと考えていた。「一身独立して国家独立する」(学問のすすめ)という立場である。

 諭吉は国家を契約的なものと見ていた。明治8年に彼は天皇についての「覚書」を書き、その中で、「君主はあたかも珍奇な頭」だと述べて、「天子など幾人あっても構わない。文明のためなら、君主でも共和でもよい」と書いている。

 ところが明治15年の「帝室論」で立場を変えた。「一国の帝王は一家の父母のようなものだ」と主張し始める。「帝室は人心収攬の中心となって、国民政治の束縛を緩和し、海陸軍人の精神をコントロールして、その方向を知らしめ、・・・その功徳のきわめて大きくきわめて重いことは数えあげることができないほどである」と書く。

 7年間で諭吉の考え方は劇的な変化を見せた。この7年間に起こったことを列記すれば、西南の役、大久保利通の暗殺、参謀本部の天皇直属(統帥権の確立)、国会開設の上願書提出、1890年の国会開設の勅諭など。しかし、こうした国内の動静から彼の「転向」を読みとることはむつかしい。

 そこで考えられるのは、中国、朝鮮との関係である。1882年に朝鮮で兵士たちによる反日・反政府反乱「壬午軍乱」が起こった。朝鮮半島を巡り、中国との主導権争いが熾烈になりつつあった。こうしたアジア情勢の緊迫が諭吉に国家戦略面での転向を促したと考えられる。

 諭吉はこうしたアジア情勢を、グローバルな視点から考えていた。二度の洋行を経験した彼には西欧列強のアジア侵略の構図が見えていた。これに対抗するために、「富国強兵」をさらに押し進め、強力な国家を早急に立ち上げる必要を感じた。優先すべきは「国家の独立」であり、強力な国家の建設である。そして、国家を統合する精神的支柱として皇室を考えた。

 国家が亡びて個人の独立はありえない。諭吉は悲惨な奴隷状態を、列強の植民地になったアジアに見ていた。これらの人々のふがいなさに苛立ち、「韓国、国にして国にあらず」「皆殺しするに造作なきこと」など、過激なまでのアジア蔑視の姿勢を見せるようになった。

 しかし、彼が根っからの国家主義者であったと考えるのは誤りである。最晩年の「福翁自伝」の中で、「一国の独立は国民の独立心から湧いて出ることだ。国中をあげての奴隷根性ではとても国がもたない」と述べているし、明治30年の最後の演説の中でも、「議論をやかましくして、一度や二度では承伏しないようにこねくりまわして、そうして進歩の先人となって世の中をデングリ返す工夫をすることが、私の死ぬまでの道楽だ」と言っている。

 彼のアジア蔑視も、権力にへつらう奴隷根性にたいする嫌悪感がなさせたものであろう。しかし、彼の言動が狂気の侵略へと傾いていた日本軍国主義を後押しすることになったことは事実だ。列強の植民地支配という困難な状況の中であっても、先覚的な言論人の諭吉には、あくまで個人の独立と自由、尊厳を一貫して主張する英知の人であって欲しかった。


2001年05月05日(土) 書くことは「格闘技」である

 作家の渡辺淳一氏が「文章を書くことは格闘技だ。気力の充実がなければ書けない」と随筆の中で書いている。「書くことは格闘技だ」というのは、とてもよくわかる。よい文章を書こうとすれば、体力や知力をふりしぼらなければならない。書くことはかなりの「重労働」だからだ。

 私の好きな志賀直哉の短編小説の一つに、「雨蛙」という作品がある。直哉がこの作品を書いている頃、尾崎一雄が下の部屋で寝ていると、地震のような音がして、家が揺れる。それは二階で直哉が物を書いている最中に興奮して歩き回る音だったという。そのころ直哉が日記にこんな事を書いている。

「作家は書くことで段々と人生を深く知るより道がない。書いてみて初めて自分がそのことをどれだけ深く知っていたかが判然としてくる。書いてみて如何にそのことが本統の行いでなかったかという事が分かって来る。深く書いてみることが必要だ。深く書いてみなければその事は分からない」(大正15年2月8日)

 書くことがつらい重労働だとしても、その苦しみを補って余りある喜びがそこにある。だから、作家は文章を書くことを止めないのだろう。それではその喜びとは何かと言えば、それは「真実を発見する」ことの喜びだ。直哉の言葉を借りれば、「物事を深く知る」ことの喜びということになる。

 しかし、書くことは単に人生の真実を知るためのものではない。直哉が言うように、それは「何が本当の行いか」ということを明らかにすることでもある。より善く生きる道を求める努力でもあるのだ。「書くことの喜び」は、つまるところ「より善く生きる喜び」である。そして、私たちがより善く生きるためには、ときには本気で「人生と格闘する」ことも必要である。作家にとって、それが「書く」ということなのだろう。


2001年05月04日(金) 憲法と個人の尊厳

 昨日は憲法記念日だった。連休で帰ってきていた大学生の娘に、「今日は何の日か知っているかい」と尋ねてみたが、「さあ、何の日だったかしら」という気のない返事。ちなみに妻と次女にも、同じ質問をしたが知らなかった。

 私の場合は、朝刊を読んでいて、憲法の話題が多いので、「ああ、そうか、今日は憲法記念日だったのか」と気付いた次第である。もし新聞を読んでいなかったら、妻や娘たちと同様で、答えに窮したであろう。

 憲法記念日には憲法を読んでみるのもいいだろう。今はインターネットで何でも読める。もちろん憲法も例外ではない。私のHPのリンク集にも「憲法」が載せてある。そこでさっそく読んでみることにした。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」(前文抜粋)

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」(九条)

 人によっては、この条文は気に入らないかも知れない。私も戦争放棄条項(九条)の「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という部分は、現に自衛隊が存在する以上、削除した方がよいという意見を持っている。しかし、憲法の「平和主義」の理念は堅持すべきだろう。この憲法が320万人もの同胞の犠牲と、2000万人を越えるアジアの人々の犠牲の上に成り立っているという歴史認識を忘れてはならないと思った。

 さらに私が大切にしたいと思ったのは「個の尊重」を唱う第13条である。憲法の精神は何かと問われたら、それは個の尊厳を認めたこの13条であろう。このことがあって、主権在民や平和主義が生きてくるのだと考えたい。

「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」(第13条)

 さて、昨日は午前中は憲法の勉強をした後、午後からは家族で、岐阜県の百々峰(どどがみね)に登った。標高300メートルほどの山頂まで、駐車場から山の緑の中を、鶯の声を聞きながら2時間ほど歩いた。頂上の展望台から、私たちの住んでいる一宮市が見えた。ちまきを食べながら眺めていると、涼しい風が吹いてきて、私の体と心を清々しさで満たしてくれた。


2001年05月03日(木) 老年の豊かさについて

 キケロ(前106〜前43)の晩年の作品に「老年の豊かさについて」がある。たまたま行きつけの図書館に置いてあったので、借りてきて読んでみた。キケロはセネカとならぶローマ時代の文人である。その文章はラテン語の模範とされているが、私はラテン語は読めないので、八木誠一・八木綾子さんの訳で読ませてもらった。

 キケロは老年は決してわびしいものではなく、「老年には老年の楽しみがある」という。それは、「老人は欲情や野心や敵意など、諸々の欲望に仕えることを終えて、自分を取り戻し、世に言う如く自分らしく生きるようになる。まして、研究や学問というような味わい深い世界を持っていれば、ひまな老年以上に楽しいものはない」からだと言う。

 自然の中で、自然に従って生きることのすばらしさをキケロは説く。たとえば、「農作物を作る楽しみはどんなに年をとっても妨げられないし、賢者の生に最も近いように思われる。楽しみは大地との取引にあるのだ。・・・と言っても、喜ばしいのは実りばかりではない。大地自身の働きと本性だ」と書き、自然の営みを感動の籠もった筆で生き生きと描き出し、さらに、人の一生をもそうした自然の営みのなかに置いている。

「私の考えるところでは、何であれ、求めるものを手に入れることが、満ち足りた人生をもたらすのは確かだ。幼年時代には幼年時代で手に入れたいものがある。でもそれは若者が欲しがるものとは違う。青春には青春の追求するものがある。でもそれは落ち着いた中年が求めるものと同じではない。中年が必要とするもの、しかしそれは老人の要求と同じではない。老年には人生最後の欲求がある。こうして、結局のところ、先立つ時期の欲求がそれぞれ消滅して行くように、老年の欲求も消滅する。こうして人は人生に満ち足りる。死の時期が熟するのだ」

「最高の指導者である自然に従い、神に対するかのように服従している点でこそ、私は賢明なのだ」とキケロは考えていた。そして、「自然にしたがって起こることはすべて善とみなされるべきだが、老人にとって死より自然にかなったことがあるだろうか。それはたとえてみれば、よく熟した果実がひとりでに落ちるようなものだ。・・・こうして私はこの世から立ち去るのだが、この世は我が家というより仮の宿なのだ。つまり自然は私たちに、永住するためではなく、一時の滞在のための宿を与えてくれたわけだ」と語る。

 キケロやセネカの文章を読んで感じたことは、彼らが「死をみつめ、それを自然な過程として受容している」ということだ。そして人生のあらゆる過程が、死へと成熟していく過程として捕らえられている。訳者の八木誠一さんは「あとがき」の中で「ラテン文学は、ギリシャ文学とは違い、あまり青年向きではないように思われる。情熱と冒険というよりは、経験と常識の産物で,華麗ではないが滋味があり、年輩の人の静かな共感を呼ぶ」と書いている。

 ギリシャびいきの私は、おおよそギリシャの通俗版でしかないローマ文化に対して、内心侮蔑の念を持っていた。香り高いギリシャ文化の静謐な美しさに比べて、ローマの文化はあまりに浅薄で仰々しく、精神性の希薄さを感じさせる。そして、その悪趣味に辟易しながら、「ギリシャになくて、ローマにあったものが一つだけある。それは度を外れた悪徳だ」と考えていた。

 ところが、キケロやセネカを読むうちに、ローマにはギリシャとは違った英知が存在したことに気付いた。それはたぶん、私の人生が彼らの言葉の「滋味」に感応できるまでに成熟したということかもしれない。私もいささか老境に入りかけてきたと言うことだろう。

(なお、北さんがHPに「ローマ人の物語を読む」を連載している。キケロやセネカの生きた時代の背景がわかりやすく紹介されていて、たいへん参考になった)


2001年05月02日(水) 対話重視、国民本位の改革を

 朝日新聞の世論調査で、小泉内閣の支持率が78パーセントに達したという。この数字は歴代内閣の最高だそうだ。前任者の不人気の反動もあるのだろうが、そればかりではない。やはり「改革」を志向する小泉さんの姿勢が評価されたのだと思う。

 新政権の経済財政相になった経済学者の竹中平蔵さんは、名うての「構造改革論者」として知られているが、彼は入閣に当たって、小泉さんから「これからすさまじい戦いになる。一緒に戦場に行ってくれ」と言われたという。

 入閣した以上、竹中さんにもその覚悟はあるのだろう。彼は朝日新聞の取材に対して、「構造改革には政治的な力と知恵が必要だ。私は知恵の部分を担う役割だと理解している」と述べ、さらに「政治的な抵抗に対抗する唯一の力は世論だ。つねに世論との対話をつづける」と言っている。

 構造改革には痛みが伴う。経済成長率は短期的にマイナスになるだろうし、失業率もあがる。そうした中で、世論は揺れるだろうし、それに乗じて当然保守派の巻き返しがはじまるに違いない。高い支持率を続けるためには、しっかりした中長期の展望を示すとともに、社会的弱者に対する配慮を怠ってはならない。そして国民との対話を重視することだろう。

 小泉さんは総裁選挙中、「国民の支持があれば、かならず党員が支持する。党員が支持すれば議員も無視できない」と語り、陣営幹部が「もっと国会議員票にも力をいれて」と助言しても耳を貸さなかったという。小泉氏がこの姿勢を崩さないかぎり、多少の犠牲を覚悟で国民は小泉氏の「改革」を支持するのではないだろうか。

 ところで気がかりなのは、新しく幹事長になった山崎氏が首相公選制に関して、「そこまでやるなら、九条を含め、権利と義務、地方制度など全部一緒にかえるべきだ」と発言していることである。「全部一緒」という発想ほど恐ろしいものはない。小泉氏の改革をつぶすのは、たぶん身内のこうした硬直した古い発想ではないかと思う。小泉氏の高い支持率は、日本という国がとんでもない方向に暴走しかねない可能性をはらんでいることも銘記すべきだろう。


2001年05月01日(火) 円周率論争と教育の貧困

 小学校の新学習指導要領で、円周率が3になるという話をよく聞く。文部省の見解によると、実際には3.14で教えるが、計算上3を使ってよいということのようだ。私はこれで十分だと思っている。

 地球はほぼ球体をしており、その円周は4万キロメートルである。正確には球ではないし、4万キロでもないのだが、こうして近似的に数値を捕らえる能力はとても大切である。こうした実際的な訓練を小学生の頃からしておくことは必要だ。

 円周率の学習で大切なのは、どんな大きさの円でも、円周が直径の約3倍になっているということ、つまり円周と直径の比が常に同じ数(これが円周率)になっているということである。そして、そうした数が存在する不思議を考えてみることで、数学の世界の奥行きが見えてくる。

 些末な知識よりも、大きな幹から、枝葉へと視点を移していくことが大切なのだが、日本人はこうした訓練をあまり受けていないので、どうしても小さいことにこだわり、大局観を見失いがちである。これは数学教育のみならず、日本の教育全般にわたる弊害だと言えよう。



橋本裕 |MAIL |HomePage

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