橋本裕の日記
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2001年07月31日(火) 自民党は変われるか

 参院選は自民党の勝利で終わった。小泉旋風にあとおしされて、無党派層の大半が自民党に流れ、その分共産や社民が支持を減らした。野党第一党の民主党も議席はいくらか増やしたが、支持率は伸び悩んだ。

 これまでにも、80年代末に旧社会党・土井たか子さん、93年に細川護煕首相が国民の人気を集めて登場したが、期待はずれにおわり、国民の政治不信を増幅させた。そして、もはや野党に期待しても、日本は変わらないというあきらめが漂った。

 たよりになるのはやはり自民党しかない、自民党が変わらなければ、日本が変わらない、そう考え始めたところに、小泉さんが登場して、「自民党を変える」と言い出した。これが国民に受けたのである。

 構造改革の具体論が語られなかったにもかかわらず国民が支持したのは、利権政治、談合政治、派閥政治といった従来の自民党政治を打破しようという意気込みだけは伝わったからだろう。「小泉さんなら、きっとやってくれるだろう」という期待感が先行した選挙だった。

 選挙で自民党が勝利したのは、国民が自民党を支持したのではなく、「自民党を変える」と言った小泉さんを支持したのである。いってみれば、「いまの自民党では駄目だ」という自民党不支持の声だ。今度の勝利で安心して、自らの構造改革を怠ることのないように、小泉首相に要求したい。


2001年07月30日(月) 拡大する貧富の差

100万ドル以上の資産を持っている世界の金持ち600万人のうち、58%はアメリカと西ヨーロッパに、20%は日本を含むアジアに住んでいる。彼らの多くは、米国の株高などによって、資産を増やした。その値はこの半年で、7兆ドルにもなるという。この値は発展途上国のGDPの合計をはるかに凌いでいる。

 また、欧米に住んでいる金持ちの資産増加の平均は17%もある。アジアに住んでいる金持ちの資産増加は10%だが、これもアジア経済が低迷していることを考えると、驚きの数字である。金持ちの人々は、資産の多くをドルで持ち、国境を越えてアメリカなどに投資しているからだという。

 このように、金持ちはあまり自国の経済に左右されない。問題は投資先の経済状態である。そして、風向きが変われば、さっさと資金を回収し、投資先を変える。お金持ちでない普通の人はこうはいかない。自国の経済や、雇用状態に縛られて一喜一憂することになる。金持ちはいち早く経済のグローバル化に適応し、その恩恵を受けるが、一般の勤労者はそうはいかない。

 この結果、どこの国でも貧富の差が著しく拡大している。たとえば、アメリカ人で最も多くの給料をもらっている10%の人々と、最も少ししかもらっていない10%のとの給与格差は、1979年には3.6倍だったが、96年には5倍に広がっている。経営トップと平均的な社員との賃金格差では、アメリカの大企業では350倍になっているケースもある。

 アメリカ人は、「頑張れば私も金持ちになれる」というドリームを追ってきた。こうしたアメリカ流の自由主義経済システムが、ソ連邦が崩壊したあとのグローバリズムの波に乗って、全世界に広げられようとしている。その結果、この先、ますます世界で貧富の差が拡大していくだろう。

 自由な競争、能力主義の美名に隠れたあくなき金儲け主義をこのまま許し、この地上を一部の金持ちの支配する世界にしていいのだろうか。かつて、貧富の格差に対して憤りを感じたとびとは、社会主義革命を目指したのだが、市場原理を無視した社会主義は堕落した官僚主義をはびこらせ、結局人々にしあわせをもたらさなかった。

 それでは、現状に対して矛盾や憤りを感じる人々は今後どのような思想や理想を持って戦ったらよいのだろうか。庶民の立場に立った、あらたな「共生の思想」が今切実に求められているのだと思う。


2001年07月29日(日) 長良川の花火大会

 岐阜に住む友人のT氏から、「花火大会を見に来ないか」という誘いを受けたので、共通の友人のM氏を誘って、見に行くことにした。昼に岐阜駅で落ち合って昼飯をたべたあと、長良川の近くのT氏の家へ。

 コーヒーを飲みながら、四方山話をかわしたあと、近くのスーパー銭湯へ行き、ゆっくりと湯に浸かった。湯上がりのビールを飲み、近くの料理屋で少し早い夕飯をとった。それから、缶ビールや寿司や敷物を買って、長良川の河原まで歩いた。

 6時を過ぎて、河原には見物人が座を占めていた。家族連れが多かったが、浴衣を着たいきな恋人たちもいる。「なるべく美女の隣がいいな」という私の希望はあっさり退けられて、私たちは川に面したさびしい一角に座を占めることになった。

 川風が吹いてきて、とてもすずしい。正面に金華山がそびえ、対岸を花火見物の人が歩くのが見える。やがて花火が打ち上げられると、川面に映えて美しかった。鵜飼船が私たちの目の前を、篝火を焚きながら6艘ほど通るころには、すっかり夜が更けて、花火も盛りに近かった。

 3人とも50歳を過ぎたおじさんだが、いくつになっても花火は郷愁を誘うものである。一杯機嫌のT氏が歌を歌い出したので、「石が飛んで来るぞ。やめろやめろ」などと言っているうちに、8時をとうに過ぎて、私たちは混雑を避けて早めに帰路についた。私はTさんの家に泊まることにして、更に勧められるまま冷酒を飲んでいるうちに、いつかうとうとと夢路をさまよっていた。

 tenseiさんの家も長良川の近くだから、ひょっとしたら同じ河原で花火見物をしていたかもしれない。掲示板を見ると、北さんも津島で行われた「天王まつり」に奥さんと一緒に仲良く出かけたという。昨日の夜は全国各地で花火大会がたくさん催されていたことだろう。


2001年07月28日(土) 恵信尼の手紙

 親鸞が20年間修行した比叡山を下りて、京の六角堂にこもったのが29歳のときだった。95日目に彼は夢を見るわけだが、今日はその夢の内容について、もう少し詳しくかいてみよう。「親鸞夢記」から、引用する。

「行者宿報にてたとい女犯すともわれ玉女の身となりて犯せられむ 一生の間よく荘厳して臨終に引導して極楽に生ぜしめむ」

 29歳の親鸞にとって、性欲と求道心の葛藤は最大の悩みだったのではないか。修行を続けようにも、この身内からあふれてくるものを否定することができない。罪悪感にまみれ、打ちのめされていた彼に、「たとえあなたが女を犯したとしても、それは私の化身だと思いなさい。私があなたを極楽に導いて上げます」という観音の言葉ほどありがたいものはない。

 この観音の言葉に従って、彼は他力念仏を説く法然のもとにおもむき、その後、流罪の地で彼は恵信尼と結婚する。日本で初めて公然と結婚した僧となるわけだが、六角堂の夢を信じていた親鸞にとって、恵信尼は文字通り「観音様の化身」だったようだ。

 親鸞が京都で90歳で死んだとき、恵信尼は越後にいた。末娘覚信尼から父の臨終の様子を報せる手紙が届き、恵信尼はただちに返信をする。それが「恵信尼消息」として後世に残っているが、その消息にも、「九十五日目のあか月 聖徳太子の文を結びて、示現にあづからせたまひて候ひければ」と親鸞の六角堂の体験が記されている。

 彼女はさらに親鸞の「上人のわたらせたまわんところには人はいかにも申せたとひ悪道(地獄)にわたらせたまふべしと申すとも世々生々にも迷ひければこそありけめとまで思ひまゐらする身なれば」と、他力念仏によって法然上人と共に地獄に落ちても後悔しないと言いきる親鸞の決意を伝えている。

 恵信尼消息は親鸞の自力から他力への回心の様子を生き生きと記している。親鸞は手紙で、妻の恵信尼のことを観音菩薩と書いているが、妻の恵信尼も親鸞のことを観音菩薩と呼んでいる。

 親鸞と恵信尼にとって夫婦とはそのように神聖なちぎりであった。恵信尼が親鸞の死の報せを聞いて、娘に伝えたかったことは、そのような人間の神聖な愛の在り方であり、信仰の美しさではなかったかと思われる。


2001年07月27日(金) 夢の中の恐怖体験

 暑い日が続いている。夜が寝苦しい。そこで、これまでに見た夢で、一番怖い夢はなにか考えてみた。思い出したのが、次のような夢である。

 どこからか黒い表紙の本が送られてきた。本の扉に「この書を読むべからず。災いが汝の身にふりかかるであろう」と書いてある。私はその禍々しい本を閉じようとした。

 ところが、風が吹いてページがめくれ、私はそこに書かれてある文章を読んでしまった。そこにはこう書かれてあった。
「この呪文を唱えるべからず。汝は死ぬであろう・・・」

 本を閉じようとするのだが、手が動かない。目を逸らせようとするのだが、視線は呪文に吸い寄せられる。そして、恐ろしいことが始まった。

 私の口が動き出したのだ。私は自分の口から絞り出てくる、おどろおどろしい呪文を聴いた。口は動きを止めない。自分自身のものとは思えない声で呪文が唱えられるのを聴きながら、私は自分の死を覚悟した。

 それでも私は咄嗟に「仏さんお助け下さい」という気持で、「南無阿弥陀仏」を唱えた。そして夢から覚めたのだが、しばらくは震えがとまらなかった。この夢のことが1999年2月27日の日記に書いてある。

 2年経って、私はまだ生きている。日頃は迷信を否定し、「死ぬことは楽しみだ」などと吹聴している私だが、いざとなると仏にすがりつくしかない弱い存在であることを、この夢が教えてくれた。


2001年07月26日(木) 六角堂、等持院、嵐山

「花月」という宿から歩いて数分のところに、用明天皇2年(587)に聖徳太子が創建したという「六角堂」があった。本堂が宝形造の六角堂であることから、一般に六角堂の名で呼ばれるが、正しくは紫雲山頂法寺といらしい。小さなこじんまりとした町中の寺で、隣の池坊ビルに登ると、ビルに囲まれた境内と本堂の六角の屋根がすっかり見下ろせた。

 伝説では四天王寺を造営するため建材を求めて、聖徳太子がこの地の池で沐浴をしたところ、如意輪観音が夢に現れ、この地に寺の創建を求めたという。寺務所は池坊とよぱれ、僧たちが太子沐浴の泉と伝える池の傍に堂を営み、朝夕仏前に花を供えた。これが今日の華道のはじまりとされ、池坊流の起源だという。

 本堂の敷石中央には、へそ石と呼ばれる中央に穴のあいた石がある。延暦13年(794)の平安京造営の際、六角堂が道のまん中になるため、六角堂は自ら北に16mほど動いて、その後に礎石が残ったという。古くから、この石(要石)が京の都の中心とされていた。

 建仁元年(1201)には、若い親驚が百日間叡山より毎夜当寺に通ったという。95日目に夢の中に本尊の観音が現れた。「法然のもとへいくがよい」という観音の本尊の言葉を聞いて、親鸞は法然のもとへ行き、のちに浄土真宗を開創することになったという。このあたりのことを、親鸞は「「九十五日目のあか月聖徳太子の文を結びて、示現にあづからせたまひて候ひければ」と消息に記している。

 六角堂を出た後、近所の喫茶店(いのだコーヒー)でコーヒーを飲み、タクシーで等持院へ向かった。この寺は足利尊氏が夢相国師を招いて創建した寺で、禅宗十刹の筆頭寺院だという。門を入ったところで、ちょんまげに羽織袴、脇差し姿の武士数名と出会った。たまたま、テレビの「水戸黄門」のロケをしている最中だという。

 夢相国師作の庭園は三大名園の一つと言われるだけあって美しかった。ゆっくり鑑賞した後、本堂の前に回ると、ロケが終わったところで、黄門役の石坂浩二が他の俳優さんと一緒に弁当を広げてお茶を飲んでいるところだった。私たちも空腹を覚え、嵐山へ行って、ウナギを食べることにした。昨日はそう言えば「丑の日」だった。


2001年07月25日(水) 祇園太鼓の夜

かって定時制高校で同僚だった3人と、大阪、京都を1泊2日でまわってきた。昨日は大阪の難波で吉本新喜劇の観劇のあとと、京都の六角堂や本能寺の近くにある「花月」という宿に泊まった。

 吉本新喜劇を見るのは2回目だが、お昼の弁当を食べながら、くつろいだ雰囲気でそれなりに楽しめた。しかし、印象に残ったのは、京都の夜に、宿から近くの路上で見物した祇園太鼓である。

 宿で夕食をすました後くつろいでいると、宿の人がやってきて、「近くで太古が始まります。ぜひぜひ、いっておいでおいでやす」と進められた。京都は今「祇園の後祭り」の最中だという。暑い街の中に出ていくのが億劫だったが、熱心に勧めるので出かけた。

 そして、初めて身近に京都の太鼓を聞いて、その迫力にすっかり魅了された。とにかく太鼓を打っている人の表情がいい。その勇壮な太鼓にあわせて、見物人が手をたたき、踊っている連中もいる。腹にまで響いてくる太鼓の乱れ打つ音に身をさらせていると、知らず知らず興奮し、何かしら心の底から巨大な歓喜がわき上がってくる。

 太鼓を叩いていたのは、20人ほどだが、その中には女性や外人の姿もあった。鉢を振り上げ、体を踊らせ、交互に隊列を組み替えながら、前に進み、後ろに退き、大小さまざまな太鼓のリズムに合わせ、毛槍のような飾りを空に突き立てたり、鐘を鳴らし、かけ声を掛けたりしながら、何度も何度も、大きな波のような荒々しい高揚を作り出す。そして、人々を次第に宗教的ともいえるエクスタシーの絶頂へと盛り上げていく。

 それは私にとって原始的と言ってよい、神秘的で美しい圧倒的な体験だった。気がつくと暑さなどすっかり忘れていた。こんなに鳥肌が立つような、思わず身震いするような感動を味わったのは、高校時代にベートーベンを聴いて以来のような気がした。


2001年07月24日(火) 未来は選び取るもの

 株価の下落が続いている。23日の日経平均株価は11609円と85年1月7日以来の低水準で取引を終えた。22日に閉幕した主要国首脳会議(ジェノバ・サミット)で、具体的な景気・株価対策が示されなかったことに市場は失望感を強め、電機、精密などのハイテク株や銀行株を中心に、幅広い銘柄が大きく値を下げたのだという。

 4月に小泉内閣が誕生して、一時は持ち直した株価だが、最近はどんどん下がる一方である。小泉内閣の示す「痛みの伴う構造改革」に、市場は希望を抱いていないようだ。かけ声ばかりで、青写真が一向に示されないのだから、市場が愛想を尽かすのも無理はない。

 このまま、平均株価が下がり続けると、企業の倒産が増え、外資による企業買収がさらに加速されるだろう。やがて、日本企業の大半がアメリカを中心とする外資系の企業になりそうである。そうすると、この先、構造改革に名を借りたリストラの嵐がますます吹き荒れることになるだろう。

 欧米が日本にことあるごとに「構造改革」や「不良債権の処理」を迫るのは、日本経済の低米が世界経済に与える悪影響を恐れるからだと専門家は解説している。そして、不良債権がこのまま増殖を続ければ、いずれダムが決壊するように日本経済が破綻し、そうなると日本発の世界恐慌という悪夢が現実になりかねないなどということが、もっともらしく語られている。

 しかし、こうしたシナリオはたぶんに作られたものだと思う。各国首脳(とくにアメリカ)の本音はもっと現実的である。彼らの理想的なシナリオは、一口で言えば、日本の企業をいかに安く買いたたき、自国の経済の傘下におさめるかということである。アメリカはこれを「グローバリズム」と称している。

 アメリカが不良債権の処理を強く迫る背景に、こうしたグローバル(世界乗っ取り)戦略が見え隠れしている。しかし、日本の小泉首相がこの認識を持っているのか、はなはだ怪しい。小泉氏に限らず、日本の政治家や学者は客観的な現実認識力や大局的な戦略的思考に欠けている。これも厳しい論理的思考力に支えられた自立的な意志力が脆弱なためだと思われる。

「未来は予測するものではない、選び取るものである」(ヨアン・ノルゴー、デンマークの環境学者)という言葉がある。経済学者は予測すれば足りるが、政治の最高責任者として、小泉首相は一刻も早く改革の青写真を明らかにすべきである。そして手遅れにならないうちに、よりよい未来を選び取る選択肢を、国民の前に明らかにしてほしい。

(今日から再び1泊2日の旅に出ます。大阪、京都をかっての学校の同僚たちとまわって来ます。したがって、明日の日記の更新は夜遅くなりそうです)


2001年07月23日(月) 山荘での勉強会

「志談塾」の塾長の野田さんは、教科諸問題と長年取り組んできた。いわゆる家永裁判を献身的に戦った人である。勉強会では野田さんが「新しい中学歴史教科書」のコピーを配りながら、3時間以上を費やして、その詳細な分析をレポートしてくれた。そのあと、12名の参加者たちが意見を出し合って、白熱した討論が交わされた。

 私は以前に市販された「新しい歴史教科書」を店頭で立ち読みしたことがあるが、短時間の流し読みだった。その本文をもう一度、野田さんの解説を聞きながらじっくり読んでみて、「なるほど、これはひどい教科書だ」と思った。

「歴史を固定的に、動かないもののように考えるのはやめよう。歴史に善悪を当てはめ、現在の道徳で裁く裁判の場にすることもやめよう。歴史を自由な、とらわれのない目で眺め、数多くの見方を重ねて、じっくり事実を確かめることにしよう。そうすれば、自ずと歴史の面白さが心に伝わってくるようになるだろう」

 最初に書かれた「歴史を学ぶとは」のしめくくりの文章だが、ここに書かれていることは別に間違っているように思えない。しかし、このあと、「日本神話」の話が何ページと続く。そして仁徳天皇の墓がピラミッドや秦の始皇帝の墓よりも大きいといった「自慢話」を延々と聞かされることになる。

「ギリシャの初期美術に相当すると言ってよい」「イタリアの大彫刻家ドナテルロやミケランジェロに匹敵するほど」「17世紀ヨーロッパのバロック美術にも匹敵する表現力」「日本の科学は西洋諸国にくらべても、当時すでに高い水準に達していた」と、何からなにまで西洋との比較である。

毎日新聞の記者が、「西洋コンプレックスの隠れ蓑として愛国心を持ち出すのはいただけない。日本にもっと自信を持ってもいいのではないだろうか」と書いているのももっともである。

 しかし一番の問題点は、これは「歴史」のではなく「歴史もどき」の教科書だということだろう。著者は「歴史を自由な、とらわれのない目で眺め」と書いているが、「自由」ということの厳しさがわかっていない。神話を利用して、それを事実のように印象つけ、自己流のあやしげな物語をでっちあげ、それを勝手に「歴史」だと主張されてはかなわない。

 夕食を挟んで、勉強会は夜も続き、そこでは私は「数学と民主主義」というテーマで話をした。学問的真理はあくまで「論証」と「実証」によって支えられていなければならないこと、そして神話の世界を離れて、はじめて物事を論理的に眺めることを始めたのはギリシャ人であり、それが可能になったのは、彼らが民主的な社会を営んでいたためだということ。

 少し難しい話だったと思うが、「新しい歴史教科書」の問題と関連させて話をしたことで、参加者にはよくわかってもらえ、最後は参加者全員からあたたかい拍手をもらった。学校での授業ではなかなか味わえない、充実したひとときであった。


2001年07月22日(日) 樹のすがた

 一泊二日で山梨県まで旅行に行ってきた。「志談塾」の仲間との研修旅行である。メンバーのK夫妻が山荘を持っていると言うことで、7月の勉強会は泊まりがけで行うことになった。

 勉強会を終えて、2日目は高遠経由で「しらびそ」高原まで脚を伸ばした。そのため、帰宅が9時近くになった。少々つかれ気味である。とはいえ、旅のすがすがしさは余韻として残っている。

 私がとくに心を惹かれたのは、旅の間中目に付いた樹木の姿だった。一本一本の木を、暇に任せてじっくり眺めているうちに、田村隆一さんに「木」という素敵な詩があったのを思い出した。

   木

   木は黙っているから好きだ 
   木は歩いたり走ったりしないから好きだ
   木は愛とか正義とかわめかないから好きだ

   ほんとうにそうか
   ほんとうにそうなのか

   見る人が見たら
   木は囁いているのだ ゆったりと静かな声で
   木は歩いているのだ 空に向かって
   木は稲妻のごとく走っているのだ 地の下へ
   木はたしかにわめかないが
   木は
   愛そのものだ それでなかったら小鳥が来て
   枝にとまるはずがない
   正義そのものだ そうでなかったら地下水を根から吸いあげて
   空にかえすはずがない
   
   若木
   老樹
   ひとつとして同じ木はない
   ひとつとして 同じ星の光の中で
   目ざめていない木はない

   木
   ぼくは君のことが大好きだ


2001年07月21日(土) 豊かな共生社会を目指して

 小泉首相の言う「痛みを伴う構造改革」というのが、いったいどういう痛みなのか、スローガンばかりで、具体性がないだけに、何か不気味である。方向としては、市場原理優先のアメリカ型競争社会を目指しているのだろう。

 そうすると、自由な競争の美名のもとに、弱肉強食や弱者切り捨てのリストラが横行し、所得格差は拡大し、一部の富めるものによる経済支配、政治支配がすすむことになる。持てるものと持たざる者へと社会的富の分極化がすすみ、いわゆる「中間階級の没落」が懸念される。

 しかし、競争によって、社会が活性化し、進歩するというのは本当だろうか。こうした弱肉強食のダーウイン主義がどういう結果をもたらしたか、その悲惨な例が20世紀の帝国主義戦争である。国内的にはモラルの退廃や、犯罪の増加が考えられる。歴史は繰り返すと言うが、「繰り返されるのは歴史ではなく、歴史を忘れた人間の愚行」である。

 そうした愚行を繰り返さないために、私は「競争社会から共生社会へ」というパラダイムの転換を提案したい。来るべき21世紀型社会は20世紀的な競争社会ではなく、人間重視の共生社会であるべきである。そして、そうした社会へと扉を開く最初のステップが「ワークシェアリング」であり、それは「痛みを伴わない理想的な構造改革」を進める王道でもある。

 不況下における少ない仕事をみんなで分かち合うのが「ワークシェアリング」である。失業率が20パーセントなら、労働者が20パーセントずつ仕事を減らせばよい。その分、給料は減るが、自由時間は増える。そして、日本のように貯蓄が進んだ先進国では、自由時間の増大は、むしろサービス・社会福祉型の産業を活性化する。

 こうした生活重視のサービス型産業を中心に、内需の増大が生じ、その結果、就業人口が増加し、経済構造の変動が生じるにつれて労働人口の移動が生じるだろう。そうすると再び労働時間の増大が見込まれるが、ここで「賃金優先」の過剰労働状態に戻っては意味がない。

 この段階でむしろ流通や建設、金融といった古い産業の解体や合理化をすすめればよい。そうすれば、「痛みや混乱、出血を伴わない構造改革」がスムーズに実現する。つまり、最初に合理化ありではなく、新しい需要の喚起を優先させて、ワークシェアリングである程度産業構造の転換を促した上で、おもむろに旧来産業の合理化・効率化をはかるのである。小泉首相に是非こうした知恵と夢のある改革を進言したい。

 小泉首相の「聖域なき構造改革」に欠けているのは政策の具体性ばかりではなく、「21世紀型共生社会の実現」という理念そのものである。弱肉強食の競争原理に支えられた改革はいかにも勇ましく、歯切れがよいが、社会の不安定化と荒廃を生み、国際関係の緊張、ひいてはファシズムの台頭という事態さえ招来しかねない。

 こうした事態を避けるために、日本のような成熟した社会がなすべきことは、共生原理に立脚した文化的で豊かな社会の実現を目指し、物質的欲望の追求から、精神的充足へと社会的価値観やシステムの転換をはかるべきである。「儲けること」ばかりでなく、人生を「楽しむこと」に人生の目標を変えること、それはとりもなおさず、「競争社会」から「共生社会」へと目を向けることである。

 賃金と自由時間とどちらをとるか、あくせく働くばかりが人生でない。これまでの日本は「経済優先」で走ってきたが、質の高い文化的生活を実現するためにも、世界の環境問題を解決するためにも、こうした金銭中心の価値観を変えて行く必要がある。そうして、産業・経済体制そのものを、福祉・環境型へ「構造改革」して行かなければならない。

 豊かな精神文化の伝統を持ち、かつ経済的繁栄の頂点を極めた日本は、「ゆたかな共生型社会」の実現にむけて、世界史的にもその先陣を切ることのできる幸運な立場にいる。その理想社会の実現の第一歩を「ワークシェアリング」によって、力強く踏み出したいものだ。

 そのために必要なのは、こうした「共生」という豊かで美しい理想を共有する人々の輪を少しでも広げていくことだろう。私はいま多くの日本人の心の底にあるのが、「共生社会」への切なる願いではないかと思っている。この希求に力強く応えることのできる、豊かな理念と意志をもった政治家の登場が切に望まれる。

(今日から1泊2日で山梨県へ「志談塾」の仲間たちと旅行に行きます。あしたの日記の更新は少し遅い時間になりそうです)


2001年07月20日(金) 忍耐強い日本人を育てる学校

 昨日終業式がおわって、ようやく授業の苦しみから解放された。この時期になると教室は毎日蒸し風呂のようで、授業をする方も、される方も拷問をうけているようだ。そうした拷問から解放されたことを、生徒共々祝いたい。

 7月になると、姉妹提携しているカルフォルニア州の高校から短期留学生がやってきて、一緒に授業を受けるが、彼らは日本のこの暑さに驚く。今年はとうとう体調が悪くなって、一人の生徒がアメリカに帰っていった。ロサンジェルスの7月の平均気温は26,7度らしいから、連日35度を越えた暑さに、さぞかし参ったことだろう。アメリカの高校の年間授業日数は180日で、日本より40日以上短く、6月のうちに夏休みにはいるのだという。

 先日の新聞を読むと、日本人は世界でもっとも「苦痛を感じることの少ない」という統計結果が出ている。とくにアメリカとくらべると、苦痛に対する敏感度はかなり低いようだ。日本人が生物学的に鈍感なのではなく、忍耐強いということだろう。そうした忍耐強さを養うのに日本の禁欲的な学校文化が貢献しているのではないかかと思う。

 作家の渡辺淳一さんは医学部出身だが、「高校生くらいの年代の少年を6時間も机に縛り付けておくのは、生理的な拷問だ」と書いている。人間は自由に手足をのばし、歩き回るのが自然である。肉体的に成熟した高校生の男子は、とくにこうした活動欲が旺盛である。それを長時間自由を奪い、強制的に机に縛り付けておくことは、いちじるしく自然の法則に反している。

 私たち教師はともすると、管理的な立場から、おとなしくじっと座っていられない生徒を白眼視する。そして学習意欲のないことを嘆き、忍耐力のないことを非難しがちだ。しかし、考えてみれば、それがいかに自然の状態を逸脱した強制行為であるか、学校というシステムの陥りがちな非人道的な異常さを、もう少し自覚すべきかも知れない。


2001年07月19日(木) ローマ帝国の光と影

 高校生の頃、古代ローマを舞台にした2本の見事なスペクタクル映画をみた。一つは「ベンハー」であり、もう一つは「スパルタカス」である。大方の評判と違って、私が好きなのは断然「スパルタカス」である。

 ローマの圧制に対して立ち上がった剣奴たちの反乱が、壮大なスケールで描かれていて、高校生の私はたちまちこの映画のファンになってしまった。それ以来、ローマについて、いろいろと本を読んだりしたが、どうしてもローマ帝国憎しの気持が先にたってしまう。

 ローマ帝国は私の尊敬するアルキメデスのシラクサを滅ぼし、この老人を惨殺した。シラクサは焼き討ちと略奪で完全に破壊され、数日間で廃墟と化したという。そして、同じことをローマはその後、いたるところで繰り返した。

 シラクサが亡びたのがB.C212年のことだが、その数年後にはギリシャ本土がローマ侵略軍の手に落ちている。そしてカルタゴがシラクサ同様に略奪を受けて完全な廃墟と化すのが、62年後である。

 ギリシャ人の多くは奴隷にされた。家庭教師や芸術家として扱われたのは一部で、多くは牛馬のような肉体労働者として使役されるか、スパルタカスのような剣奴として売られた。

 ローマ人の悪行は大規模な侵略戦争による殺戮行為よりも、最大の娯楽施設コロセウムで行われた出来事に象徴的に現れている。そこで市民の娯楽のために剣闘士が戦って死に、戦争捕虜、囚人、キリスト教徒たちが一度に5000匹もの野獣の餌食にされた。

 あるものはそこで生きたまま磔にされ、埋められた。興奮した市民たちが、さらに血を見たいと歓声をあげると、人工の池が掘られ、19000人もの剣闘士たちによる海戦が、人工池に血が満たされるまで続けられたという。キリスト教徒の皇帝になってからも事態はかわらなかった。キリスト教徒のかわりに、異教徒たちがライオンの餌食に供されたからだ。

 P・ベックマンは、「ローマ人の科学への貢献は、古代の偉大な数学者を殺したこと、アレキサンドリアの図書館を焼き払ったこと、皇帝の植民地で栄えていた科学をゆっくりふみつぶしてしまったことでほとんどつきてしまう」と、「πの歴史」のなかに書いている。

 最近、北さんが連載した「ローマ人の物語をよむ」などを通して、古代ローマの別の一面を知った。キケロやセネカの作品を読むうちに、ローマ帝国に対する見方も、ずいぶん修正された。とはいえ、私は古代ローマを賛美する著作には、いまだに不信感と違和感を抱かないわけにはいかない。


2001年07月18日(水) アメリカの終業式

 アメリカ在住のyukoさんが出しているメルマガ「ちょっとアメリカ」を愛読している。日本とはまたひと味違ったアメリカの開放的な生活のようすが生き生きと描かれていて、何かと参考になる。

 たとえば、アメリカの学校では朝礼や、堅苦しい式などあまりないようだ。たとえば6月におこなわれた小学校の終業式は、全校生徒が公園に行って、半日を過ごしておしまいだそうである。

 家族で集まってきて、敷物をひいてのんびりと談笑したり、お昼も各自がサンドイッチやおやつを持参して、それを食べてから解散する。式などというものはなく、ピクニック気分で学期最後の日を楽しむだけだ。

「低学年の子供たちはシャボン玉や顔にペイントで絵を書いてもらったり高学年になると、水鉄砲というとなんだか小さい子の玩具ってイメージですが大きな、そしてかなりのパワーのあるwatergunというものを持ってきては、お友達や先生にも掛け合ったりしています。もう、頭から水浸しになりながら遊んでいます」

「こちらの場合は先生や親も楽しんでいるので叱られもせずに、思う存分と水の掛け合いをして楽しんでいます。ここロサンジェルスは湿気がなく乾燥しているので水浸しになっても案外、乾いてしまうのです」

 アメリカの夏休みは6月から2ヶ月以上続く。日本ならたくさんの宿題が出て、塾に通う子もいるだろうが、アメリカの子供はまず夏休みに勉強したりはしない。学校が休み中の子供の家庭生活に干渉することも、まず考えられない。したがって、式を行って校長講和や、指導部の話をする必要もないわけだ。

 こうした自由な教育が日本で可能かどうか。やはり国の文化や伝統の違いがあるので、実現はむつかしのだろう。しかし、「この公園での過ごし方ってアメリカ人が得意なのは、はやりこうやって小さい頃から、自然に楽しんでるからだろうなって思ってしまう私」という風な文章を読むと、アメリカの子供はしあわせだなと思わずにいられない。


2001年07月17日(火) 新しい学びの時代

 米マサチューセッツ工科大(MIT)は近く、講義資料などをインターネットで無料公開するという。授業計画や講義録、参考書リスト、宿題などを順次ホームページに掲載するらしい。

 どうしてそんなことをするのか。その目的は「優秀な学生を世界中から集めるため」(チャールズ・ベスト学長)だという。しかし、やがては約2000ある講義の資料をすべて公開するというから、単位が認められなくても、意欲があればだれでも独学ができる。

 15世紀、グーテンベルクが発明した活版印刷は世界を変えた。それまで知識や情報は一部の特権階級の専有物だったが、これを一般市民にまで広げた。啓蒙主義がおこり、宗教改革や市民革命がなしとげられたのも、こうした情報革命があったからである。

 インターネットの普及はこれに続く第二の情報革命だといえよう。この新たな波が今後どのように世界を変えていくことになるのか、とても楽しみである。日本の大学がこの波から取り残されて、知的敗残者の収容所にならないことを祈りたい。


2001年07月16日(月) アルキメデスからの手紙

 1906年にコンスタンチノーブルで古くさい羊皮紙が多量に見つかった。つまらない宗教上の迷信を書き連ねた価値のないもののように見えたが、実はもとの文字を消してその上に新しく文字を書いたパリンセストといわれるものだった。

 コンスタンチノーブルは東ローマ帝国の都であり、数知れぬ侵略戦争の結果、略奪品や戦利品が多く持ち込まれた。異教徒の書物は多く焼かれたが、羊皮紙は高価なものだから、このようにして再利用されるものもあった。

 パリンセストはもとの文字の消し方が不完全な場合、特殊な写真でこれを復元することが出来る。そのとき見つかったパリンセストもこのようにして、もとの文字の復元が試みられた。

 復元によって、とんでもない歴史上の掘り出し物が得られることがある。今の場合がそうだった。なんとそこから、シシリー島のアルキメデスが、アレキサンドリアのエラトステネスにあてた手紙が浮き出してきたのである。

「前のお便りで、私の見つけた定理のいくつかをお知らせしました。ただし、命題を書いただけで、証明はあなた自身がされるよう、そのときには書きませんでした。その後、定理の証明をこの本に書きましたので、あなたにお送りする次第です」

「いつもいうように、あなたが相変わらず熱心な生徒であることを知っていますので、この本にある、ある特殊な方法について、詳しく説明するのが適切と存じます」

「この方法によれば、数学におけるいくつかの問題を力学の方法で攻めていくことが可能になりましょう。このやりかたは、私の信ずるところによれば、定理の証明そのものに勝るとも劣らぬくらい有用なのです」

「と申しますのも、何か物事が私にはっきり見えてくるのは、力学的方法によってなのです。それは本当の証明にはなっていないので、もちろんあとで幾何学によって証明し直さなければならないのですが、問題について何らかの知識をこの方法によってあらかじめ知った場合には、証明を与えるには、事前に何も知らずにやるのに比べてずっと容易になることは言うまでもありません」

 もしこの手紙を、その著者を隠して読まされたら、私はたぶん「微分積分学と物理学の父ニュートン」を予想したと思う。そのくらい、その文面は近代的知性の輝きと豊かさを感じさせる。その「方法」の先進性はとても古代世界に住んでいた人のものとは思えない。

 アルキメデスが緻密な論理能力を有していたことは、彼の証明が彼以前のギリシャの数学者のだれよりも厳密なものであったことで立証されている。しかし、彼の本当の真価は、問題を新しく「発見」するその独特の独創性にあった。まさにそれは、「定理の証明そのものに勝るとも劣らぬくらい有用」な才能である。彼はいかにしてその能力を身につけたか。その秘密が「力学の研究」だったことが、この手紙からわかる。

 アルキメデスはシシリー島のシラクサに生まれ、若い頃エジプトのアレキサンドリアに留学した。その後シラクサに戻って、人生のほとんどをそこで過ごしたが、数学や科学についての研究を続け、その成果をこうしてアレキサンドリアの友人たちに送り届けていた。ローマの伝記作家プルタークは次のように書いている。

「アルキメデスは気高い精神、深遠な魂、そして科学的知識のいっぱいつまった宝庫を備えもった人物であった。今日、彼はそういった発明品を通して、人間離れのした英知という評判を得ているが、それについては何のコメントも文書も残そうとしなかった。機械や実用や利益につながる種類の技術を卑しい、品性に欠けるものとして一切の売買を拒否したのだ。彼は自らの愛情と志を純粋な思索においており、そこには人生の卑俗な要求など入り込む余地はなかったのである」

 たしかに、プルタークの言うとおり、彼は「思索の人」であった。彼以前のギリシャ数学は、ユークリッドに代表されるように、「円と直線も幾何学」だった。それは彼らが何よりも観念世界の単純な調和を重んじたからだろう。


 しかし、アルキメデスは単にそうしたギリシャの純粋な思索家ではなかった。彼がエジプトに留学したとき発明したラセン式のポンプを持つ「アルキメデスの水車」は2000年以上も経った今でもエジプトで灌漑用の機械として使われている。

 また、こや滑車の原理を発見して使用したり、金の王冠にまつわる浮力の発見の話も有名である。幾何学を「円と直線の世界」の呪縛から解放し、楕円や放物線の研究に向かわせた自由な探求精神は、彼が幾何学を物理学や技術と結びつけて考えていたことが大きい。そしてそれこそが彼が発見し、手紙に書いた「方法」だった。

 ローマ軍が小国シラクサを攻撃したとき、彼の発明した起重機や投石機などの新兵器が活躍して、3年間ローマの大軍を寄せ付けなかった。しかし、やがて陥落するときがきた。そのとき75歳だった彼は、あいかわらず数学の研究に没頭していた。そして「私の円にさわるな」と言って、ローマの兵士に斬り殺されたという。

 ローマの将軍マルケルスはローマを苦しめた偉大な学者の死を悼み、彼の遺言どおり円柱に内接する球の体積を表す図を刻んだ墓碑を建てた。この墓碑はやがて失われたが、シシリーの太守になったキケロが捜しだし、もう一度そこに建てたという。

 今日、アルキメデスの著作はかなり残っている。クレオパトラとシーザーの暴虐によって古代世界の知識の集積庫であったアレキサンドリアの図書館が焼かれたとき、貴重な文献のほとんどが灰燼に帰したが、彼に関しては多くの写本があったことが幸いしたのだろう。

 アルキメデスの死後、およそ2000年間のあいだ、世界史において彼を凌駕する数学者、科学者、技術者を見ることはできなかった。ニュートンが「もし私が、他の人より遠くまで見ることができたとすれば、それは、私が巨人の肩に乗っていたからである」と述べたとき、彼の頭の中には、イタリアの小島に住んでいた精神世界の巨人、アルキメデスの姿があったはずである。


2001年07月15日(日) 数学的真理と多数決

 1897年、アメリカのインディアナ州下院議会に、ある法案が提出された。それはインディアナ州ソリチュードにすむ医師グッドウインなる人物が「発見」したπの値を、今後州内で用いるべしとう奇妙な法案だったが、驚くべき事にこの議案246号は67対0という全員一致で通過してしまった。

 この日下院を訪れていたバーデュー大学の数学教授C・A・ウォルドは、立法の場で数学が論じられているのに驚き、さっそくその法案が無効であることを勧告し、アメリカのメディアも取り上げ始めた。

 議員の全員がこの法案の数学的内容について認識能力を持っていなかったらしい。それにそもそも数学的真理は論理的に実証されるべきで、立法府によって多数決で裁可されるべき性質のものではない。

 さすがに、上院はこうした批判に驚いて、これに対する討議を無期延期することにした。そして今日に至るまで、この法案は再浮上することはなかった。もし、上院がこれを可決していたら、インディアナ州の議員たちの知的水準が疑われる事態になっていただろう。

 ところでこの法案でその数学的業績を認められた医師のグッドウインなる人物は、アマチュアの数学愛好家で、ギリシャ以来の難問の一つといわれた円積問題(円と等しい面積を持った正方形を作図できるか)のアマチュア研究家だった。彼は神の啓示を受けて、この問題を解決する方法を発見したと思いこみ、彼の論文が「月刊アメリカ数学」という雑誌に掲載されたことで、周囲もこの説の正しいことを信じたようだ。

 すでに数学界ではリンデマンが1882年にπが超越数であり、この作図は不可能であることを証明していた。それにも関わらず、世界中でたくさんの数学愛好家が、依然として「円積問題」の解決を夢見ていた。それもそのはずだ。エジプト人がパピルスに記して以来、3000年以上も前から人間はこの夢を追ってきたのだから。

「図形の操作によって、私はこの割合が6対19になることを発見した。今、その比率を求めるために19を6で割ると、得られるのは3.166・・・。私の証明すべき根拠とは何かと尋ねられたら、こう答えよう。りんごはすっぱいがなぜそうなのかを証明するのに、全員の賛同以外、他に方法があるだろうか」(ジョン・デイビス「円の計測」1854年)

 証明とは何かについて、中学校の教科書には、「証明とはすでに正しいと認められたことがらを用いて、筋道を立てて、仮定から結論を導くこと」と書いてある。仮定から結論を導く間に、正しい推論がなされなければ、証明とは言えない。


2001年07月14日(土) 円周率に見る数学の歴史(8)

 πという記号は、ギリシア語で円周をあらわす言葉の頭文字をとったもので、円周率の記号πを最初につかったのは、イギリスの数学者ウィリアム・ジョーンズといわれるが、広くつかわれるようになったのは、レオンハント・オイラーが1748年に「無限解析序論」という書物の中でつかって以来である。

 さて、円周率πを小数点以下60桁までをしめすと、3 .1415926535 8979323846 2643383279 5028841971 6939937510 5820974944… となる。
(産医師、異国に向かう。産後薬なく、産児、御社に虫燦々、闇に鳴く頃にや、早う行くな)と中学生の頃の私は円周率を40桁まで覚えて得意になっていたものだ。

 πとは円の円周と直径の比だが、半径1の円の面積だと言ってもよい。面積が2の正方形の一辺の長さが、無理数の√2であるように、πもまた無理数だということは、たとえば7世紀のインドの数学者プラフマグプタが円周率を無理数の√10としたことでもわかるように、かなり広く信じられていた。しかし、その証明はそう簡単ではない。

 無理数というのは整数の比(分数)で表すことの出来ない数である。πが無理数であることは、1761年にドイツの数学者ヨハン・ランベルトによってはじめて証明された。彼は「tanxが有理数ならば、xは無理数でなければならない」という命題を証明し、tanπ=1からπが無理数であることを導いた。

 ところで、無理数の中には、√2のように代数方程式(x×x=2)の解になる<代数的数>と、いかなる代数方程式の解にもならない<超越数>の二種類がある。πが超越数であることは、1882年にフェルディナント・リンデマンが証明した。

 超越数とは、代数的に表現すれば、「整数を係数とする代数方程式の解にはならない数」のことだが、幾何学的には「定規とコンパスだけをつかって作図できる長さはでない」ことにあたる。したがってリンデマンの定理によると、「円と同じ面積をもつ正方形を、定規とコンパスだけをつかって作図することはできない」ことになる。

 これはギリシャ以来の数学者を虜にした「三大難問」のひとつで「円積問題」といわれた。他の二つは「与えられた任意の角を3等分線せよ」「与えられた立方体の2倍の体積をもつ立方体を作図せよ」というもの。ここにギリシャ以来の最後の難題が否定的な形で解かれたことになる。

「ギリシャの哲学者たちは、2の平方根が有理数でないことを見つけたとき、牡牛100頭を生け贄にささげてその発見を祝福した。πが超越数だというさらに奥の深い発見は、それ以上の生け贄に値することだ」(エドワード・カスナー「数学と想像力」)

 なお、πが超越数であるというリンデマンが証明に先だって、1873年にエルミートがオイラーの定数(自然対数の底)「e」が超越数であることを証明していた。リンデマンはこれにヒントを得て、「eのix乗=−1」という式はxが代数的数では成り立たないことを証明した。オイラーの有名な式「eのiπ乗=−1」が成り立つためには、πが代数的数でないこと、すなわち超越数でなければならない。

 πは幾何学を代表する定数である。これに対して、eは代数・解析学を代表している。オイラーの公式は、数学の二大分野である幾何と代数を統合している式のように見える。そしてその二つの世界を取り持っているのが、虚数単位iということになる。

 数学における二つの神秘的な定数であるeとπが、虚数単位iをとおして一つに結びついているのはまさに驚嘆すべきことだろう。オイラーが発見したこの式を、ほとんどの数学者はこれまでに人間が発見したもっとも深遠で美しい式だと考えている。

(オイラーの定数eが無理数であることについては、高木貞治の「解析概論p68」にTaylor級数を使ったエレガントな証明がある)


2001年07月13日(金) 円周率に見る数学の歴史(7)

 和辻哲郎が「風土」のなかで、法隆寺の円柱にはるかギリシャのパルテノン神殿との類似性を指摘している。シルクロードを通り、東西の異文化の交流があったことはまちがいない。

 アルキメデスの多角形を用いた円周率の計算法について、私はインドや中国でも独立に発見されたという説に傾いているが、アレキサンダー大王の遠征を通じて、ギリシャの学問がインド、中国へと伝わった可能性も否定できない。

 日本では三浦按針(ウイリアム・アダムス)が江戸城で徳川家康にユークリッド幾何学を講じたという話が残っている。そのころ、スペインの宣教師カルロ・スピノラ(1564〜1622)が京都の天主堂にアカデミアを設け、数学を教えていた。そこで学んだのが、後に「割算書」を書いた毛利重能や「塵劫記」の吉田素案、光由親子たちで、「和算」は彼らから始まったと考えられる。

 私が「和算」に興味を持ったのは10年ほど前で、東京の国会図書館に行って和算関係の本を読み、ノートを取った。それをもとに、当時在職した県立高校の「紀要」に文章を書いた。そこで論じた「和算」の独創性についての議論もふくめて、円周率の計算の日本における歴史を簡単に振り返っておこう。

 さて、「割算書」「塵劫記」で円周率として、3.2もしくは3.16を使っている。その由来は記されていないが、これは師のスピノラが円に内外接する正6角形もしくは12角形を使って計算したのを拝借したのではないかと思われる。この値は世界のどこにもなく、和算の世界だけで50年間も使われた。

 1663年、村松茂清が「算俎」を著し、円に内接する正多角形を使って円周率7桁まで求めている。この書が画期的なのは、これまでの秘伝主義によらずに、はじめてその解法の手口まで書かれていたことだ。以後、日本でも正多角形を使う方法が広まって、1712年に関孝和が12桁まで、1722年には建部賢弘が40桁までこの方法で計算している。

 これらの数値は「正多角形法」をもちいた計算としては、世界の最高水準であった。しかし、このころヨーロッパでは級数をもちいたもっと進んだ計算法が確立されていた。この新しい級数的方法によって、1719年にはトマスが127桁まで計算しているから、勝負はあきらかだろう。

 アルキメデス以来の旧式の方法で、これだけの成果を上げた日本人の職人的な計算能力には脱帽しないわけにはいかないが、これをもって日本人の独創性や優秀性を主張するのはむつかしい。

 日本や中国ではこうした先進的な学問上の成果が、一般社会に浸透していかなかった。日本では江戸時代の末期まで、円周率=√10説が使われていたし、中国では19世紀の算術書「微精周術」が円周率を3.125であると書いている。

 解法の手口をあかさない東洋流の秘伝・秘技の権威主義が、学問や技術の発展を阻んだ要因であることは疑いがない。しかし、こと「和算」に関しては、全国にその愛好家はかなりいて、神社の「算額」(絵馬の一種)などに問題を書いて、お互いに技術を競い合っていたようだ。

 たとえば、岐阜県養老郡養老町高田の田代神社には、天保12年(1841)に作られた算額があるが、その中に「一辺の長さが10寸の正方形に等しい円の直径を求めよ。答えて曰く、11.2寸。術に曰く、1.12×10」というのがある。

 これを出題したのは当時12歳の土屋房吉という少年である。田代神社には他に11歳と13歳の少年の出題した問題が算額として残っているという。これによっても江戸時代に和算が庶民の知的遊戯として日本の津々浦々で盛んに行われていたことがわかる。


2001年07月12日(木) 円周率に見る数学の歴史(6)

 定時制の高校に勤めていた頃、私より年輩の男性が生徒として私のクラスにいた。彼があるとき、「先生、なぜ、マイナスとマイナスを掛けたらプラスになるのか、私にわかるように説明して下さい」と食い下がってきた。

 とっさに答えられなかったが、彼と放課後話をしているうちに、これはデカルトの方法を使えば説明できそうだと気付いた。数直線をかき、マイナスを掛けるということは、原点のまわりに180度することだと教えた。そうすると、マイナス掛けるマイナスだけでなく、数というものの体系そのものが統一的に見えてきた。

「はじめて、長い間の疑問が解決しました」と感謝されたが、私自身、これは目の覚める体験だった。定時制にいた頃、これに類した質問をときどき受けて、そのたびに、頭の中が真っ白になりながら、必死に考えたものである。

 さて、デカルト(1596〜1650)が座標を発明したあと、数学は飛躍的に発展した。これまで図形の問題だったものが、代数の方程式に定式化され、計算されるようになった。また、代数の計算式を図形の問題として視覚的にとらえることが出来るようになった。デカルトの解析幾何学の発明、フェルマー(1608〜1865)の微分学の発見で、ギリシャ時代を越える、数学の新しい時代が開かれた。

 こうした数学の発展を背景に、級数や微積法などの研究が進められ、17世紀末になって、円周率の世界でも、これまでの「正多角形の方法」を越える新しい計算法(アルゴリズム)も編み出された。たとえば、ライプニッツ(1646〜1716)による、tan(タンジェント:正接)を使った円周率の計算を示してみよう。

 tan π/4(=45°) = 1 であることから、arctan 1 = π/4 (arctan:アークタンジェント(逆正接))となり、arctan 1 = 1 - 1/3 + 1/5 - 1/7 ・・・の式を使って計算し、その値を4倍すればπに近づく。ちなみに、4*(1 - 1/3 + 1/5 - 1/7+ 1/9 - 1/11)=2.9760…。

 これならだれにでも計算できるが、近似を上げるためには、計算機を片手にかなり苦労しなければならない。ライプニッツは計算機の考案者だとされているが、彼が計算機を考案した動機もこのあたりにあったのかもしれない。

 ニュートン(1642〜1727)の級数の一つを使えば、たった4項の計算をするだけで、3.1416の値が出てくる。ニュートンは1665年頃に円周率を16桁まで計算しているが、円周率の桁数を上げる競争に何の関心もなかった彼は、この計算結果を生涯公表しなかった。(死後に出版)

 18世紀の数学者の巨人オイラー(1707〜1783)もまた、円周率を計算するために効率のよい公式を作ったが、彼はその公式を使って1時間のうちに、20桁まで計算しただけだった。しかし、彼の新しい計算法を使うことによって、その後円周率の桁数は飛躍的に増大した。

 19世紀になると、500桁を越える数値があらわれ、さらに20世紀にはコンピュータを使って、計算がさらに高速化することになった。1949年にはENIACが70時間かけて2037桁を計算してみせたが、1997年には日立のコンピュータを使って、日本の金田博士が29時間で515億桁を計算している。

 アルキメデス以来、円周率の桁数は数学者の計算能力を競う対象だった。それが級数・微積分の登場によって理論力の競争の場になり、いつかコンピュータの性能を競う場になっている。そして、次のような名言まで生まれることになった。

「πの計算はコンピューターにとって、究極の体力テスト−いわばデジタル心電図だ」(イバース・ピーターソン「真実の島」1990年)

 ちなみに、アポロ計画で人類を月に送るためにNASAが必要とした円周率の値は12桁までだったそうだ。


2001年07月11日(水) 円周率に見る数学の歴史(5)

 西洋世界では、アルキメデスの求めた円周率の値が1000年以上も破られなかった。中世期のヨーロッパは学問と知性の暗黒時代だった。それを象徴するのが、東ローマ帝国のユステニアヌス大帝が529年に行ったアカデミアの閉鎖だろう。これによって、多くの学者がギリシャ語で書かれた書物を携えてペルシャに亡命した。

 そのころ、すでにアラブが数学の先進地帯になりつつあった。エジプト、ギリシャ・ローマの古代文明の成果はアラブに継承され、インドの数学(記数法・0の発見)と結合し、やがて9世紀にはアル・フワーリズミー(785〜850)が出て、アラビア数学の栄光の時代を築いた。

彼は算術,代数,天文学,地理学,暦学,さらに日時計や観象儀について広く著作を行ったが、なかでも算術と代数についての著作は数学のその後の発展に大きな影響を与えた.

 彼の著作は12世紀にはラテン語に訳され、『実用算術についてのアルゴリズムの本』という題でアラビア商人たちの手でヨーロッパに伝えられた.今日使われる「アルゴリズム(計算法)」という言葉はアル・フワーリズミーがなまったものだし、Algebra(代数学)という言葉も、アラビア語で「移項する」という意味だから、アラビア数学の影響は大きい。

 とくに、アラビア数学を西洋に紹介するのに功績があったのは、ピサに住んでいたフィボナッチ(785〜850)である。イタリアの裕福な貿易商の息子だった彼は、若い頃にエジプトからシリア、ギリシア、シシリ−など多くの旅行をし、イスラム人の教師からはアラビア数学の深い知識を得た。

 ピサに帰った後、彼は1202年に幾何学や数論の著作である「算盤の書」という書物を著し、とくにアラビア数学の優秀な記数法を多くの人に印象づけた。そして、彼はその証拠として、西洋世界でアルキメデス以来、1000年以上も破られることのなかった円周率の値を更新した。1220年に彼はπ=3.141818・・・を得ている。

 しかし、アラビア数字による記数法をもってしても、「正多角形の方法」による円周率の計算はなかなかの難物だった。ドイツ人のルドルフは1695年に「正多角形法」で35桁まで計算しているが、そのために彼は全生涯を費やすことになった。

 ところが、彼の死後しばらくして、円周率の新しい計算法(アルゴリズム)が発見されて、ほとんど彼の努力は無駄になってしまった。もっともドイツでは彼のこの超人的な努力をたたえて、円周率をルドルフ数と呼んでいる。


2001年07月10日(火) 円周率に見る数学の歴史(4)

 古代中国の算術は非常にすぐれていたが、こと円周率に関しては、長い間3が使われていた。3世紀になって王蕃(おうはん 229〜267)が「円周が142なら、直径は45になる」と述べている。142/45=3.153はかなりよい値だが、彼がどのようにしてこの値にたどり着いたのかわからない。

 中国人で初めて正多角形を用いて計算するギリシャ的方法を用いたのは劉徴(りゅうき)で、彼は265年に出版された本の中で、円に内接する正192角形を使って、この円周率が3.141024と3.14416の間にあることを突き止めている。

 さらに5世紀になって、祖沖之(そちゅうし)が息子と正24576角形を使った計算を行い、355/113=3.41159269であるという結果を得た。これは真の値である3.14159265・・・と800万分の1しか違わない。この値はアルキメデスの記録を破り、その後1000年間以上世界で破られることがなかった。

 円周率の計算はギリシャで始まり、インド、中国、日本でも行われたが、その計算の原理はいずれもアルキメデスの「正多角形法」である。正6角形、から、さらに、12、24,48,56,112,224と倍々に角数を増やしていけば、その値はかぎりなく真実の円周率に近くなる。

 しかしこの方法の欠点は、角数が大きくなるにつれて、計算の煩雑さがいよいよ大きくなり、労多くして益少ないことである。たとえば、15桁までの円周率を計算しようと思えば、1億をこえる辺の長さを扱わなければならなくなる。

 アルキメデスが円に内接する正96角形と外接する正96角形を作り、これを計算したが、0と位取りの技法を持たなかった当時の記数法を考えると、このことがどれほど大変な力業を必要としたか想像が付く。この点、中国の記数法ははるかに進んでいたようだ。


2001年07月08日(日) 円周率に見る数学の歴史(2)

数学はギリシャから始まったと言われる。それは初めて証明ということを考え出したのが、ギリシャ人のターレス(前640〜546)だからだ。二等辺三角形の底角が等しいことや、1辺と両端の角が等しい三角形は合同であることを彼ははじめて証明した。また、円の研究をして、直径の円周角が直角であることも彼が証明した。

ターレスの後、ピタゴラスやユークリッド、アルキメデス、アポロニウスが出て、ギリシャ数学の黄金期を築いた。ギリシャ人の特徴は、それまで知られていた経験的知識を「定義」「公理」「定理」と言った概念を使って、厳密な理論的体系に組み立てたことである。

なぜギリシア人が初めてこうしたことを達成できたのか。それは彼らがチャレンジ精神に満ちた先進的な海洋民族として、国際的に自由に活動していたからだ。政治的・経済的な自由が保障される中で、しかもターレスにみられるような富の裏付けのある余暇時間があったことが、こうした成果となって現れたのだろう。

強権的な王権や、宗教的権威がつよい社会では、思考の自由と自立を尊重する数学や哲学は生まれようがない。ターレス以後、ギリシア世界はさらに発展し、高度な文化を花開かせ、さらに「民主制」という政治的にも画期的な発明をした。

「数学」と「民主主義」は実は深いところで結びついている。一言でいえばそれは「いかなる権力や権威にも毅然として、自分の頭で自由にものを考え、自分の正しいことを正々堂々と主張できる人間」を育て、またそうした人間たちによって支えられているということだろう。

しかし、ギリシャ世界が凋落した後、数学や哲学は衰退した。西暦最初の1000年間のヨーロッパは学問的に言えば、暗黒時代であったと言えよう。なぜ、ギリシャの学問の伝統がヨーロッパにおいて衰退したのかと言えば、キリスト教の影響が大きい。

キリスト教は啓示宗教だといわれるように、真理は神から預言者に啓示によって与えられ、それを記した「聖書」の中に書かれてあるとされた。人間が経験をもとにして、自分の頭で論理的に考えること、すなわち「証明」によって真理が明らかにされると考えたギリシャ人の合理思想とはあいいれない。


2001年07月07日(土) 円周率の話(1)

 紀元前1650年頃、エジプト人書記のアーメスがパピルスにその頃知られていた数学上の公式を記した。「リンド・パピルス」と呼ばれているその書物のなかに、こんなことが書いてある。

「直径の1/9を切り取り、残りの部分一編とする正方形を作ると、その面積は円の面積と同じものになる」

 この記述をもとに、円周率(円周と直径の比率)を割り出すと、256/81、もしくは3.16049・・であることになる。これは今日知られている値の3.141592・・・の誤差が1パーセント以内という、かなりいい値である。

 もっとも、この事から、エジプト人が円周率についての認識、すなわち「円周と直径の比がどんな大きさの円に対しても常に一定値をとる」という認識を持っていたかどうかわからない。たとえ持っていたにせよ、その値を3.16049・・と考えていた訳ではなさそうだ。

 それから1000年ほど経ったバビロニア人やヘブライ人が円周と直径の比として使っていたのは3という数字だった。彼らは「直径を3倍すれば円周になる」というおおざっぱな認識しか持っていなかった。そしてそれで、実際何の不都合もなかったのである。

 旧約聖書のソロモン王の神殿建設を述べた「第一列王記」を読むと、「彼は鋳物の海を作り、その端から端までの長さは10キユービット、周囲は円形で、高さは5キュービットだった。そして、長さ30キュービットの縄がその周囲を囲った」とある。10*3=30という計算だから、円周率は整数の3ということだ。

 それでは、幾何学を理論的観点から純粋に学問として研究したギリシャ人はどうか。ソクラテスと同時代の頃、すでにプリソンとアンティフォンは円についての理論的研究を進めていた。たとえば、円の面積を円に内接する正多角形の面積で近似的に表す方法などが彼らによって確立された。

 この正多角形の外辺を使って円周を計算したのがアルキメデスである。彼は円に内接する正96角形と外接する正96角形を作り、それらの辺の長さから円周率の上限と下限を計算で理論的に求めた。その値は22/7より小さく223/71より大きいというもので、その平均の値は3.1419で、真の値との誤差は、1万分の3以下という正確な値である。

 彼は祖国シラクサがローマ軍に襲われたときも円の研究に没頭していて、侵入してきた敵兵に「私の円にさわるな」と叫んで殺されたという。しかし、彼の記録は1220年にフィボナッチが「幾何学の実践」の中で3.4118と値を得るまで、ヨーロッパでは1500年間も破られることがなかった。

 しかし、アルキメデスの数値が実際に利用されたことはなかったようだ。たとえばローマ帝国絶頂期の測量をテーマにした論文には、「円周を4分割し、それを一辺とした正方形を作ると、その面積は円に等しい」と書かれているが、これでは円周率が4になってしまう。

 デビット・ブラットナーは「パイの神秘」という本の中で、「このことを考えると、ローマ人にあれだけすぐれた建築が作られたことが驚異に思えてくる」と述べている。もっとも、ギリシャ人のように厳密な理論に囚われない、融通無碍のおおらかさが、ローマ人の強みであったのかもしれない。


2001年07月06日(金) 自由民と戦士の名誉心

アリストテレスは「ニコマコス倫理学」の中で、「矜持ある人とは何よりも名誉に自分は値すると---もちろん自己の価値に依拠して---自認している人々だ」と書いている。ギリシャ古代国家はこのような「名誉」を重んじる自由市民によって支えられていた。彼らの誇りの背後に、多数の奴隷民たちへの優越感があったことは否めない。

 そしてまた、ヨーロッパの中世封建制を支えた貴族戦士たちが最も重んじたのも「名誉心」であった。日本の「武士道」でも、武士が一番重んじたのは「名誉」であった。戦士は、自らの誇りのために死を賭して戦わなければならない。このように、「名誉心」は戦士にとって必要な心構えであった。

 ホッブズによれば、「人々は絶えず、名誉と位階honour and dignityを求めて競争している」(リバイアサン)のであって、こうした人間の「自然の情念は、えこひいきpartiality、プライドpride、復讐revenge、及びその他の類似のもの」へと導き、人間が戦争状態に陥る原因の一つであるとされた。

 つまり、他者との比較に基づくような名誉心やプライドは、闘争の尽きせぬ原因であって、平和状態を導くよりもむしろ戦争状態を導くものであり、このような戦士たちによって守られた国家は始終戦争状態におかれていることになる。ギリシャのポリスが戦争状態におかれていたことや、中世を代表する出来事に十字軍の遠征があったことを考えれば、このことは納得される。

 モンテスキューは国家の統治形態を君主制、共和制、専制に分類したが、君主制は「名誉」、共和制は「徳」、専制は「恐怖」によって支えられると考えた。(『法の精神』第3編第9章)キリスト教の博愛精神をベースにした共和制を目指した彼の理想は、アメリカの独立宣言やフランス革命の「自由、平等、博愛」の人権宣言へ受け継がれた。

 しかし、今日の共和国がモンテスキューのいう「徳」によって支えられているようにも見えない。プラトンは、「国民の魂はすっかり軟らかく敏感になって、ほんのちょっとでも抑圧がかせられると、もう腹を立てて我慢ができない」(国家)という自制心の欠如が民主政治を危うくすると書いた。「最高度の自由からは最も野蛮な最高度の隷属が生まれてくる」という予言が何とも恐ろしい。


2001年07月05日(木) 夜は千の目を持つ

 私はこの歳になるまで、あまり大病をしたことがない。ただひとつの例外は、小学6年生のころに、ジフテリアにかかったことだろう。このときは、病院の隔離病棟に入れられて、ずいぶん心細い思いをした。

 病室の壁に、落書きがしてあって、私は熱のある目で毎日それを眺めていた。いずれも病人を励ますような人生の格言だったが、そのなかに英語の詩があって、「夜は千の目をもつ・・・・」という訳文がついていた。退院後も、訳文のこのフレーズが記憶に残った。

 ところが、高校1年生の頃だと思うが、英語の教科書でたまたま同じ詩に巡り会った。思うに、病院の壁にこの詩を書き付けたのも、おなじ教科書でこの詩を学んだ高校生だったのかもしれない。たしかに魅力的な美しい詩だった。

 その後、私の頭から詩の記憶は薄れたが、不思議に「夜は千の目を持つ」というフレーズだけは残った。そして、何かの折りに、浮かぶのである。私が覚えているのは、その一節だけで、一体誰の詩かも忘れてしまった。

 是非、その詩や作者をを知りたいと思っていたが、何十年間も、手がかりが得られなかった。ところが、昨日、ふと思い立って、インターネットで「The night has a thousand eyes」を検索してみると、十分足らずで、おめあての詩らしいものを載せたサイトを探し当てることが出来た。

   Light

   The night has a thousand eyes,
   And the day but one;
   Yet the light of a bright world dies
   When day is done.

   The mind has a thousand eyes,
   And the heart but one;
   Yet the light of a whole life dies
   When love is done.

       - Francis William Bourdillon
 
 高校1年生の教科書に載っていた詩ならば、そんなに難しい詩であるわけはない。しかし、日本語に訳そうとして、難渋した。この詩は、このまま英文で味わうのがいいのかもしれない。そう思いながら、とりあえず訳をしてみた。

   かがやき

   夜は千の目を持つ。昼はただひとつだけ。
   しかし、昼が終わるとき、世界は輝きを失う。

   理性は千の目を持つ。心はひとつだけ。
   しかし、愛が終わるとき、人生も輝きを失う。

 理性は千の目をもつというのは、世の中には様々な思想があるということだろうか。愛が目覚めるとき、こうした理性は光を失う。こんなふうに解釈したが、これでは「夜は千の目を持つ」という夜の世界の神秘性が生かされない。もっと違った訳があってよさそうだ。

作者のF.W.ブーディロン(F.W.Bourdillon1852〜1921)は、愛、戦争、死など、いろいろなテーマで詩を書いていた、ほとんど無名なイギリスの詩人だという。
 (参考) Mukku's Lapu-lapu Poetry site(英米詩と洋画のシナリオの紹介) 


2001年07月04日(水) 「起承転結」の認識論

「認識の4段階説」を、大阪教育大付属池田小(大阪府池田市)での乱入殺傷事件に当てはめて、論じてみよう。この事件が起こった当初報道されたのは、8人の児童が死亡し、さらに多くの負傷者が出たという現場を中心とした事件のあらましであり、�仝従殤静�段階の報道だった。

 つぎに、犯行を犯した容疑者についての報道が続いた。宅間守容疑者(37)の生い立ちとか、4人の女性と結婚・離婚していた過去や、精神病院に入院していたこと、薬物注入などの事件をおこし起訴されていた事実など、犯行までの容疑者の軌跡や足取りが辿られた。こうして事件と事件に至るまでの流れが明らかにされたのだが、これが�⊆詑力静�段階といえよう。

 さらに、犯行の動機が詮索された。犯人はサイコパス(反社会的人格障害)ではないかとか、いろいろな心理的分析がなされ、容疑者の行動の謎に迫ろうとした。さらに、そのような犯行を生んだ社会的背景にまで、メスが入れられた。こうした容疑者の動機の解明や、社会的背景の解明、さらには人間存在そのものへの問いかけなされた。これが�K楴創静�段階だと言えよう。

 さらに、今後こうした犯罪を生じないための方策が議論された。刑法の改正も含めて、犯罪防止のためのさまざまな提案がなされ、具体的実践案が考えられたが、これが�ぜ汰�論的段階である。

 こうした一連の報道の流れを振り返ってみると、そこに「起承転結」の構造が浮かび上がってくる。すなわち、�ゝ�(何が起こったのか)、�⊂機覆修譴呂い�に起こったたのか)、�E勝覆修譴浪晋竜�こったのか)、�し襦丙8紊匹Δ垢譴个茲い里�)という、「起承転結」の4段階である。そしてこれが、�仝従殤澄↓⊆詑力澄↓K楴創澄↓ぜ汰�論の4段階に対応している。

 ところで、宅間守容疑者(37)は府警捜査本部の調べに、「顔は刺していない。確実にたくさん殺すため、急所を狙った」と供述している。捜査本部が、児童の傷の部位や数などを調べたところ、顔、腕、足に傷を受けた児童はほとんどおらず、いずれも心臓付近を前後から深く刺していることが判明したという。

 宅間容疑者は興奮状態でやみくもに出刃包丁を振り回したのではなく、「明確な殺意」のもとに、子どもの急所に冷静に狙いを定めて刺したことになる。殺人の動機が「たくさん殺して死刑になりたいから」だというのだから、ひどいはなしである。

 事件が起きて20日以上が経ったが、そろそろ風化し始めたきらいがある。事件についての追求を、現象論や中途半端な実体論の段階で終わらせないで、本質論、実践論へと深めていく努力が必要なことはいうまでもない。


2001年07月03日(火) 理論進化の4段階説

 ものごとの認識に4段階のレベルがある。すなわち、�仝従殤静�段階 �⊆詑力静�段階 �K楴創静�段階 �ぜ汰�論的段階。これはまた、学問の歴史の段階である。

 というようなことを、大学時代、物理の勉強をしながら、友人たちとさかんに論じたものだ。当時流行していたマルクスの弁証法や理論物理学者の武谷三男さんが主張していた「三段階説」の受け売りである。

 恐ろしいもので、その頃の思考形式が、いまの私をも支配している。だいたい、私は物を考えたり書いたりするとき、上の4段階説をベースにしている。自分の説がどのレベルにあるのか、ときどき意識する。

 昨日のマルクス経済学を例に取ると、「あらゆるものが商品として市場で売買されている」という認識が�仝従殤静�段階である。使用価値や交換価値の分析も、このレベルの研究だとみればよい。交換価値のみを体現する純粋な商品・貨幣の出現や、労働力という特別な商品の性格分析もこの段階だろう。

 それではこれらの商品の価値はどこから生まれるのか、アダム・スミスによって発見された「価値の源泉は人間の労働である」という「労働価値説」が、もう一段階進んだ�⊆詑力静�段階だといえる。富は人間の労働によって作られると言うのは、今日ではいわば常識かもしれないが、アダム・スミス以前は必ずしもそうではなかった。

 たとえば金や銀が価値があるのは、それらが「貴金属」だからだと考えられていた。それ自身に内在する価値(使用価値)だと考えられていたのである。しかし、ほんとうのところはそうではないということになる。それが価値を持つのは、それが稀少なために、あらゆる商品と交換可能で、すぐれた社会的交換価値をもつからである。

 労働力はそれ自身商品だが、それは特別な性質をもつ商品で、それは消費されることによって、あらたな剰余価値を生むというのが、マルクスの「労働力剰余価値説」である。そして、この剰余価値は搾取されて、資本を形成する。資本主義的生産関係のもとで、労働が新たな資本を生み、この資本があらたな労働を組織する。そして、この世界をこうした資本中心の自己運動として展開するサイクルとしてとらえるのが�K楴創静�段階である。

 ここから資本による労働の疎外がうまれ、生産関係の社会的公共性と生産力(資本)の非社会的私有性という矛盾が生まれる。そしてこの矛盾を解決するために「資本の社会的共有」という社会主義の運動が生まれる。こうした「階級闘争の理論」が�ぜ汰�論的段階ということになる。

 こうしたことを、熱っぽく議論したのはもう30年近く前のことだが、今こうして書いてみて、それほど間違った理論だとは思えない。やはり私はいまでも頭の中では「共産主義者」のはしくれなのかもしれない。


2001年07月02日(月) 商品の不思議

 私たちは日頃から見慣れているものに、不思議を感じない。たとえば庭に薔薇の花が咲いているのを見ても、「ああきれいだな」とは思うが、不思議だとは感じない。

 私が小さい頃、父がラジオを買ってきた。そこから音楽や人の声がでてくる。中を覗くと、ガラス管が並んでいて、赤く輝いている。それは何とも不思議な、胸がわくわくするような光景だった。しかし、そうした感動も最初のうちだけで、やがて何とも感じなくなる。箱の中から声が出てきても、それはラジオだからあたりまえということになる。

 考えてみれば、人間という存在そのものも、とてつもなく神秘的な存在だと思うのだが、それは人間がアメーバーのような原始的な生物から進化してきたことを知ったとき考えることで、ふだんは何とも感じない。

 商品などというものも、私たちの身近にありふれていて、誰も格別不思議を感じることはない。しかし、マルクスはそこに不思議なからくりがあることに気付いて、その秘密を暴くために情熱を傾けた。そして大著「資本論」を書いた。「第一巻 資本の生産過程 第一篇商品と貨幣 第一章 商品 第四節商品の物神的性格とその秘密」から一部を引用しよう。

「一つの商品は、見たばかりでは自明的な平凡な物であるように見える。これを分析してみると、商品はきわめて気むずかしい物であって、形而上学的小理屈と神学的偏届にみちたものであることがわかる」

「商品を使用価値として見るかざり、私がこれをいま、商品はその属性によって人間の欲望を充足させるとか、あるいはこの属性は人間労働の生産物として得るものであるとかいうような観点のもとに考察しても、これに少しの神秘的なところもない」

「人間がその活動によって自然素材の形態を、彼に有用な仕方で変えるということは、真昼のように明らかなことである。例えば材木の形態は、もしこれで一脚の机を作るならば、変化する。それにもかかわらず、机が木であり、普通の感覚的な物であることに変わりない」

「しかしながら、机が商品として現われるとなると、感覚的にして超感覚的な物に転化する。机はもはやその脚で床の上に立つのみでなく、他のすべての商品にたいして頭で立つ。そしてその木頭から、狂想を展開する、それは机が自分で踊りはじめるよりはるかに不可思議なものである」

 商品の不可思議さの正体をマルクスは追求する。そしてその過程で、この世界のおどろくべき構造があきらかになる。残念ながら、この浩瀚な書物を読破することは至難の業である。私自身、学生時代に買った「資本論第1巻」(岩浪書店 向坂逸郎訳)が手元にあるが、詳しく読んだのは「第二篇 貨幣の資本への転化」までの229ページほどである。

 しかしこのくらいなら、何とか読めるし、「資本論」はこれだけでも十分に醍醐味が味わえる。物事を本質的に考えるということはどういうことか、大事なエッセンスがここにはっきりと語られているからだ。あとは読むにこしたことはないが、専門家でもない私たちにとっては、今の時代、労多くして益少なしという感じがしないでもない。


2001年07月01日(日) 若い世代と戦争責任

 中国へ観光旅行に行った大学生が、「おまえたちは昔中国にひどいことをした」と言って、非難されることがある。そのとき、「祖父たちが犯した戦争の責任を、そのころ生まれていない私にとれといわれても困る。僕は何も悪いことはしていない」と言い返して、さらに先方の怒りに油を注ぐことがあるようだ。

 たしかに、戦争に参加していない人間に、彼の先祖の行った残虐行為の責任をとれといわれても困る。はっきり言って、私たちは自分の先祖が行った行為について、個人的に責任をとることはできないし、また取る必要もないのだろう。

 それにも関わらず、責任をとれと言ってくるのは、彼らが「日本人は戦争中にひどいことをした。日本人は悪い奴だ。そしてお前は日本人だ。だからお前は悪い奴だ。さあ、謝れ」という、前近代的な「集団の論理」でものを考えているせいである。

「集団の論理」にあっては、全体と部分が一致している。集団は個人であり、個人は集団である。個人の罪は集団の罪になり、集団の罪は個人の罪になる。戦争中の隣組や、兵隊の班を考えてみればよい。

 あるいは敗戦のとき言われた、「一億総懺悔」がそうである。個人が確立されない前近代的な社会ではこうした「集団的論理」が「論理」の代理物としてまかりとおる。もちろんこれは、正確には「論理」と言える代物ではない。あきらかに非論理である。

 こうした個人を集団のなかに包摂し、集団としてのアイデンティティを重視する傾向は、「あたらしい日本の教科書を考える会」のメンバーの思考の特質でもある。「日本人は優秀だった。私は日本人だ。だから私は優秀だ。優秀な先祖をもったことに、もっと誇りを持とう」というわけだ。

 こうした「前近代的集団主義論理」から脱却しないかぎり、これからも不毛な摩擦が続くだろう。全体主義の「論理」に対しては、個人主義の論理で、次のようにしっかりたちむかうべきだ。

「私たちの先祖が犯した誤りを、私たちは責任を負うことは出来ない。なぜなら、それは私自身が犯したあやまりではないからだ。しかし、私は自分たちの先祖が犯した誤りを、事実としてみとめよう。そして、それがどんなにあなた達の祖父母たちやあなた達を現在も苦しめ、悲惨な人生を強いることになっているか、理解しているし、またもっと理解したいと思っている。なぜなら、私はこのような過ちを二度と繰り返してはならないと肝に銘じているからだ」

「なるほど、私たちの先祖は悪いこともしたが、よいこともたくさんした。先祖の行為を一概にいいとか悪とか決めつけることは出来ない。私たちはその両方から学び、未来へと希望を持って歩んでいく必要がある」

「日本という国を愛することは自然な感情だが、ことさら優秀な民族だとか、その伝統に誇りを持つべきだと強調するのは馬鹿げている。誇りなどと言う集団主義の考え方に埋没するのではなく、個人に立脚した独立自尊の精神を大切にしたい。自分を尊ぶことから他者を尊ぶことにつなげていきたい」

 論理とは本来個人的なものである。しかし、論理は個人を他者に結びつけるかけ橋でもある。私たちはお互いの相互理解と友情のために、自己埋没的な集団志向の思考習慣を棄てて、より普遍的で世界に通用する論理力を身につけていく必要がある。


橋本裕 |MAIL |HomePage

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