橋本裕の日記
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オランダではどんな会社に勤務していても、一年に最低25日の休暇がとれる。これに土日をくわえれば、全部で5週間は休める。病欠は別に有給休暇が無制限にとれるので、オランダ人にとってこの5週間はまるまるバカンスのための休暇である。
日本人の場合は、正規の有給休暇でさえほとんど消化しないであくせく勤労し、そして過労や病気になって、ようやく有給休暇を、それも上司や同僚の顔色を見ながら、恐縮したようないいわけをしながら取る。病気にならないと休暇がとれないという日本は、オランダからみればまるで「開発途上国」だ。
オランダの年間の総労働時間は、90年の統計では1732時間、これに対して日本は2143時間である。もちろんこれにはサービス残業は含まれない。たとえ有給でも時間外労働はうけつけないオランダ人からすれば、日本ははるか古代の奴隷制の国だということになるかもしれない。
確かに日本経済は発展し、国民所得もあがったが、その為に失ったものも大きい。世界一金持ちの国になりながら、国民はみんな疲れていて、その上、失業や老後の心配に怯えている。首切りのことを「リストラ」などとうまいこと言うようになったと感心していたら、小泉さんが首相になってから、さらに「構造改革」という便利な言い方が一般的になった。これにはあきれた。
先日も小泉さんがテレビで、「失業率が5パーセントをこえましたね」とNHKの記者に質問されて、「民間でも構造改革が進んでいるようですね」と満足そうに答えていた。他の大臣は対策について質問されて、「自己責任が大切です」としか答えない。
ちなみに、民間で進んでいる「構造改革」の一端を紹介しよう。東芝の約2万人、富士通の1万6千人、松下の5千人、NECの4千人と、この4社だけでも約4万5千人が社を去ることとなる。人数は明らかではないが、ソニーも工場の縮小に伴いリストラが行われる。日本を代表する優秀なIT産業でさえこのありさまである。
これからホームレスがますます増えるだろう。いや、私自身バブルの最中に家を買って、多額の住宅ローンをかかえている。この先「自己破産」して、一家でホームレスの仲間入りということになるかもしれない。
オランダはホームレスが一人もいない世界でも珍しい国だそうだ。倉橋さんは「物語オランダ人」の中で「私はオランダに12年間暮らしましたが、乞食の姿を見たのはただの一度もありませんでした」と書いている。法律の規制があって、乞食やホームレスが合法的に存在できないらしい。
フランスやベルギーにも同様な法規制があるが、ホームレスは存在する。それは社会福祉制度がオランダほど完璧ではなく、「生活が出来ない」という言い逃れができるためだ。この点、オランダはどうにも言い逃れが出来ないほど完全なしくみになっている。
たとえばオランダでは延べ床面積が130平方メートルのごく標準的な家が、30代のサラリーマンの平均年収の3年分で買えるという。ローンの負担は月収の15パーセント以下だ。しかも利息は30年間税金が控除されるという。オランダの家は100年はもつというから、庶民が家をもつ負担は少なく、ローン地獄とは無縁の世界だ。だからオランダ人は30歳になるかならないかのうちに家が持てる。
こうした理想的な住宅政策にくわえて、「ワークシェアリング」政策で失業率が3パーセントに満たない。この3パーセントという数字は、のんびりと次の職を物色中の人数がこれだけいるということで、ほぼ完全雇用に近い水準だという。強力な政策によって、失業やホームレスがありえない社会システムが実現しているのである。
オランダでは家が安いが車は高い。購買力平均で計算すると、日本のカローラクラスの値段が約400万円もする。これはオランダ政府が地球温暖化対策のためにとんでもない税金を掛けて、車を購入させないようにしているからだ。オランダだけが頑張っても仕方がない気がするが、オランダ人はそう考えない。必要なことは、たとえ少数者でも、断固やり抜く生活哲学をもっている。
オランダを訪れた人は、国中がまるで国立公園のようだと、その美しさに感心するらしい。アムステルダムの市内に住んでいても、自転車で20分も走れば田園風景がひらける。コンクリート舗装など一切無縁のアムステル川の土手に腰を下ろせば、手の届きそうな目の前を白鳥やほかの水鳥が泳いでいく。川の背後には牧草地が広がり、牛が悠々と草をはんでいる。
「田園風景をさらにきれいにしているのが、送電線が露出していないことです。どんな田舎でもオランダでは送電線が全て土中に埋設されており、それができる豊かさを羨むと同時にそれをする心のゆとりに脱帽します。豊かであっても金をそのような事に使わない国・国民が世の中に多いからです」(「物語オランダ人」倉部誠)
もっとも、こんな理想的な国にも泣き所はある。オランダ人の病気欠勤率が6.9パーセント(単純労働作業では10パーセント)と異常に高いのである。オランダでは「病欠」の場合、医者の診断書は必要でない。そして労働者保護が徹底しているので、「いったん病気になった人間はいかなる理由があろうとも解雇できない」のだという。
その結果、会社を病気で長期に欠勤しながらスキーに遊びに行く者もでてくる。倉部さんの経験によれば、同じ職場で2年半も会社を「病欠」しながら、その間サイドビジネスで稼いでいた男もいたという。彼は給料をただ取りし、その間アルバイトで余計に稼いだあげく、退職金までせしめたらしい。まさに彼は笑いがとまらないだろう。
オランダの社会民主的な労働システムではこうしたことが防げない。そしてどんな職場にも1割はこうした不届きな怠け者がいる。だから、会社はその分を予想して、一割り増しの雇用をあらかじめ確保しておかなければならない。それでも倉橋さんは「オランダ人は世界一勤勉な国民だ」と言う。
「明日から急に働く気がしなくなり、病気だからと言って会社を休み、本人がその気ならばそれを1年はおろか2年、3年も続けられ、給料はその間ほとんど変わらずに支給され続けられる。そしてめでたく病気が全快したら就職探しには困らないとしたら、一体どれだけの人間がまじめに働き続けるでしょう」(「物語オランダ人」)
「オランダ人たちはそのような天国のような恵まれた環境にあって、なおかつ多数派は依然として働き続けています。たかが全体の10パーセント近くがそうした過保護の恩恵をフルに利用して怠けているからと言って、そう目くじらを立てるものではありません。むしろそのような中にあってなお、90パーセント近くの人たちがまじめに働いている事実を驚嘆すべきなのです」(同上)
たしかに、これは驚くべき勤勉さである。日本人だったら、この数字は逆転するのではないだろうか。倉橋さんはオランダの会社で一緒に勤めていた日本人同僚の仕事ぶりを見て、「勤勉な日本人」というのが、全くの妄想にしか過ぎなないことをさんざん思い知らされたという。
日本の勤勉さは、強制されたみせかけの勤勉さであり、オランダ人の勤勉さは内面的に確立された勤勉さである。だから、日本人は命令や強制がなくなるととたんにだらしなくなる。オランダ人は自主性を尊重する教育を受けていた。そして学校や家庭で、強制されたり叱れれたことがない。だから日本人とは逆に、強制されなくても、その仕事が大切だと思ったら、自主的にやり遂げるのである。
他人がどうであると言うことは、あまり関心がないので、さぼっている同僚をとくに非難しない。たとえ不利益になっても、自分が正しいことはやり通すというオランダ人の個人主義が、こうした理想的な社会システムを支えている。
こうして見てみると、社会を支えるのは一人一人の個人であり、どんなに素晴らしいシステムも、こうした卓越した個人の力量がなければ、それはまともに機能できないことがわかる。「生活大国」オランダは、このようにしっかりした生活哲学をもった個人の協力と参加によって実現されている。なぜオランダが社会教育を重視するのか、それはこの楽園のような国を子孫に残し、世界の模範の一つとしたいからだろう。
昨日、tenseiさんの文章を読み、久しぶりに吉村貞司の「古仏の微笑と悲しみ」(新潮選書)を書架から取り出して読み返しているうちに、広隆寺に行きたくなり、妻を誘った。
「おい、いまから京都に行くぞ」 「こんな暑いときに行ってどうするのよ。一人で行ってらっしゃい」 妻に突き放されて、たちまち腰砕けになった。
という訳で、広隆寺「半跏思惟像」 に対面することがかなわなかった。何という主体性のなさだろう。出不精の性分に加えて、懐がさびしすぎた。
広隆寺へは十数年前に、前の職場の仲間と行って、そのとき国宝第一号で、もっとも有名なこの弥勒さんに会っているはずだが、今その姿が具体的に思い浮かばない。慌ただしい訪問で、じっくり対面する心のゆとりがなかったのだろう。
私が好きなのは中宮寺の「半跏思惟像」で、この菩薩さんには法隆寺へいくたびに会っている。むしろこの美しい菩薩さんに会いたくて、法隆寺方面に足が向くと言った方がよい。そして思いあまって、十数年前に、こんな短歌を詠んでいる。(「歌集 明日香風」より)
中宮寺御堂の畳に正座してととせぶりなるみ仏拝む やはらかき指のひとつを頬に触れをとめのごとき仏ゐませり ほのぼのと明日香おとめが微笑みて人の心もやさしくなりぬ み仏を拝みてのちの人の顔ほのぼのと見ゆをさな子のごと 人の世の濁りにしまず我もまたみ仏ひとつ心に持ちたし
中宮寺は畳に座って、のんびりくつろげるところがよい。菩薩さんを眺めるだけでなく、縁側から周囲の庭を眺めたり、参拝客の横顔を眺めたりする。菩薩さんを眺めている正座した若い女性の後ろ姿などもなかなかよい。
中宮寺の美しい菩薩の写真が私の部屋にも飾ってある。いまパソコンを打ちながら、ちょっと顔を上げれば、彼女のやさしい微笑がみえる。実はこの菩薩さんこそ、私の永遠の恋人なのだ。
「半跏思惟像」と言えば、中宮寺の「恋人」しか目にないので、広隆寺の菩薩さんの方には誰が何と言ってもあまり心が向かなかった。しかしtenseiさんがあまりにほれこんでいるので、今度初めて、「そんなによいものなら、一度じっくり拝んでみようかな」と思ったわけだ。
広隆寺の菩薩さんについて書かれた文章は多い。それらを読んでも、たしかにこの菩薩さんは別格のようである。たとえば哲学者のヤスパースはこの菩薩像に感銘してこう書いている。
「広隆寺の仏像には、本当に完成され切った人間実在の最高の理念があますところなく表現されています。それはこの地上におけるすべての時間的なものの束縛を超えて達し得た、人間存在の最も清浄な、もっとも円満な、もっとも永遠な姿であると思います」
吉村さんによれば、同じ広隆寺にあるもう一体の「半跏思惟像」、通称「泣き弥勒」がまたとてもすばらしいそうだ。両方とも推古仏で、秦河勝が聖徳太子からもらったのはこちらの方かも知れないと書いている。
そんな歴史の詮索はどうでもよい。この目で、この両方の菩薩様をじっくりと拝んでみたいものだ。この秋にでも、もう一度妻を誘って、私の尊敬する聖徳太子にゆかりの菩薩さんに、じっくり会いに行ってみようと思う。楽しみがまた一つ増えて、夏の終わりのさびしさが少しやわらいだようだ。
(という訳で、「オランダ紹介」今日はお休みにしました)
日本では誕生日になると、友人たちが当人にプレゼントするというのがよくみられる光景だが、オランダの場合、全くあべこべで、誕生日には当人が友人たちにケーキをご馳走するのだという。学校であれば前日に家で焼いたケーキを持っていく。職場なら菓子屋に注文して置いて、それを当日に職場の全員に振る舞うことが多い。
どうして日本とあべこべになるのかよくわからないが、誕生日はお祝いをされる日ではなく、こちらからお礼を言う「感謝の日」だと考えれば、説明がつかぬこともない。「おかげで20歳になりました。みなさん、どうもありがとう。お礼のしるしにケーキを焼きました。どうか召し上がって下さい」という訳である。
オランダの教育について書こうとして、誕生日の話が思い浮かんだのだが、教育についても何か日本とは根本的に違った姿勢を感じる。その一つは、昨日も書いた「社会参加型の教育」が実践されているということだろう。このことをもう少し一般的にとらえれば、オランダの教育は「自立と利他」という、はっきりした理念や目標のもとに行われているということだ。
たとえばオランダの小学校では必ず水泳の授業がある。しかも服を着たまま水に入る。プールサイドから後ろ向きに服を着たまま落ちたりする。こうしたことは、実際に起こりうる水難事故を予想してのことである。運河の多いオランダならではの授業ともいえるが、やはりこれもオランダ的実践教育の一貫だろう。
オランダの教育が実践的だということは、教育課程からも明らかである。そこでオランダの学制を紹介しておこう。
�ヾ霑旦軌蕁複固�間、4歳〜12歳)は日本の幼稚園に当たる2年間と小学校6年間を併せたもの。最初の1年間(4歳)は義務教育に含まれないが、多くの場合4歳から始める。
��中等教育(4〜6年間、13歳〜18歳)はいくつかのコースに分かれている。初等教育最終学年時点で多くの学校で実施される全国共通学力テストの結果と普段の成績をもとにして、本人と保護者と学校側の三者が相談の上、どのコースに進むか決める。
・ 初等職業教育コース(4年制) ・ 中等一般教育コース(4年制)→中等職業学校(警察官、美容師) ・高等一般教育コース(5年制)→高等職業学校(教員、技術者) ・ 大学進学コース(6年制)→�9眦�教育(大学→大学院) 多くの場合、何種類かのコースを置く総合学校となっていて、最初の1年あるいは2年間の基礎期間を経てから改めて進路を決める場合が多い。場合によっては学校を変わることもできる。
どのコースも最初の4年間は義務教育で、18歳までは就労していても、週当り決められた時間、何らかの形で教育(講習)を受けることが義務づけられている。
一般的には、「中等一般教育」を選択して、「中等職業学校」に進み警察官、看護婦、美容師などの資格を得て社会人になるケースが多い。「高等一般教育」を終了して「高等職業学校」に進み、小学校教師、上級看護婦、技術者の資格を得て社会人になる場合もある。
6年制の「大学進学コース」を終了し試験を通ると、大学入学資格が与えられる。コースも最終試験は全国共通の国家試験で、各学校が独自に実施する卒業試験ではない。
オランダの場合は、日本のような過度の学歴偏重の傾向はなく、どちらかと言えば職業重視の実践指向である。総人口に占める大学卒業者の割合は、日本が9.5パーセントもあるのに対して、オランダは4.8パーセントと低い。教育ママに尻を叩かれて、大学に進学するということは、まったくない。日本と違って、親や教師は子供の意志を最大限尊重する。進路選択においてもこのことが言える。
しかし、職業等の資格(ディプロマ)取得によって職種や給与が違ってくるため、社会に出てからも、更に他の資格を得るために講習を受けたり夜間学校へ通う例が少なくない。国家や企業がこうした職業教育に熱心だということもあるが、やはり個人個人の職業人としての意識レベルが高いのだろう。
オランダは子供の自主性を重んじる教育をしている。勉強はあくまで個人の意志でするもので、強制されてするものではないと考えられている。その結果、本人の努力次第で、大きな差が生まれる。小学校の同じ学年で、二桁のかけ算が出来ない子供がいるかと思えば、分数計算がすらすら出来る子もいる。出来る子はどんどん高度な教材を与えて、上級の課程に進ませる。
オランダの教師はけっして出来ないこの尻を叩いて、クラス全体のレベルをあげようとはしない。出来ない子と出来る子がいて当たり前だと考えるからだ。もし出来ない子を叱りつけたりしたら、人権蹂躙ということで、教師失格とみなされる。
学力の優劣で人を差別することは、オランダでは許されない。勉強が出来ないことは、運動が出来ないのと同様、一つの個性であり、決して「犯罪」ではない。だからオランダの教師は決して叱らないのだという。同様のことはオランダの親にも言える。オランダの親も、ほとんど子供を叱らない。ただよいところを誉めることに忙しい。
日本では認められない考え方かも知れないが、オランダはこうした方針で成功している。最終的には有能な職業人を育てているし、大学、大学院レベルの学力は、日本と比較にならないほど優秀だ。社会人としても有能で、地域社会や国際社会に対して、積極的に発言し関わろうとする。その貢献度は世界でトップレベルである。
オランダ在住が長い倉部誠さんは「物語オランダ人」の中で、「南海の孤島で世界各国の子供たちが遭難し、サバイバルをすることになったとしたら、何もできずに真っ先に飢え死にするのは日本の子供たちで、最後まで頑張って生き延びる中には間違いなくオランダの子供たちがはいるでしょう」と書いている。
こうしてみると、日本の教育システムには何か根本的な欠陥があると言わなければならない。長坂さんは「オランダモデル」で「日本では社会教育がほとんどおこなわれていない。・・・日本の子供たちにとって最も不幸なことは『世界』や『社会』から隔離されていることではないか」と書いている。『世界』や『社会』から隔離されているのは子供ばかりではない。大人の日本人も同様である。
姉妹都市提携が活発なのは、オランダも日本もかわらない。しかしオランダ人に言わせると、何故日本が先進国とばかり提携したがるのかわからないという。それでは、メリットがないではないかと言う。オランダが姉妹都市を結ぶのは、それによって相手国の為に何か援助が出来ると考えるからだ。だから、むしろ発展途上国との交流に力を入れる。
日本は姉妹都市提携によって自分が得られる利益を重視する。そこで文化の進んだ国と提携しようとするのだろう。日本の発想はどちらかというと、未だに「発展途上国」なみとしか言いようがない。高所に立って「与える」という「先進国的」発想にも問題があろうが、いつまでも自己中心的な貧乏人の発想が抜けきらないのも見苦しい。
このことは教育問題についてもあてはまるのではないか。日本では高等教育教育は個人の利益や栄達のための手段としか考えられていない。しかしこうした日本の常識が世界の常識だとは言えない。そうした自己中心性に囚われていると、ますます「世界」や「社会」から遠くなる。
オランダの教育にあって、日本の教育にないもの何だろう。それは「この困難な人生を、他の人々とともに手を携えて、いかに幸福に生きるか。そのために、我々は何をなすべきか」という、人生や社会に対する実践的な視点ではないか。こうした視点を、まず親や教師がしっかりともつ必要がある。 (参考)「物語オランダ人」(倉部誠、文春新書、2001年刊)
他国で災害などが発生すると、オランダでは公、民を問わず、間髪を入れずに援助活動が始まる。阪神・淡路大震災の時も、オランダからただちに援助隊が到着した。バルカン紛争でも、アフリカの飢饉でも、真っ先に駆けつけるのがオランダの救助隊だ。
オランダ暮らしが11年になるという倉部誠さんが「物語オランダ人」(文春新書)のなかで、こんなエピソードを紹介している。メキシコで大地震が起きたとき、オランダの若者4人が休暇を取り、被災地にかけつけてボランティアの救助活動に従事した。その帰り、たまたま立ち話でそのことを聞いたオランダ空港の窓口の職員はすぐに上司に提案して、彼らのエコノミー航空券をただちにファーストクラスに変えたという。
ボランティアの場合、飛行機代や現地での生活費はすべて自分たちの負担になる。オランダ人といえば割り勘をダッチ式というなど、ケチで有名である。倹約家の代名詞のように言われ、車など滅多に買わず、30万キロを超えるまで乗りつぶすと言われるが、こと国際協力には出費をおしまない。彼らはお金の賢明な使い方を知っている。 オランダのGDP(国内総生産)にしめるODA(政府開発援助)の割合は0.8パーセントで、これはデンマーク、ノルウエーについで世界三位である。ちなみに日本は0.22パーセント。GDPが大きいので、額としては世界一だが、その中身が問題だろう。ODAの額だけで言えば日本は援助大国だが、その具体的な中身や民間の個人献金、ボランティア活動などを含めた総合的な評価では、オランダに遠く及ばない。
たとえば、アフリカのエイズ問題をとりあげよう。最近の調査によるとアフリカ人のエイズ感染率は少なくとも25%、この感染者のほとんどが、今後6年から10年間の間に発病し死亡すると推定されている。父親がエイズで死亡し、看病していた母親もエイズで死亡し、あとにはエイズ孤児たちが残される。その子供を引き取った兄弟もエイズで衰弱し、年老いた祖父母が極貧のなかで子供たちを育てているというケースがよくみられるという。
こうしたなかで、学校をドロップアウトする未就学児が増えており、その中の多くはストリートチルドレンとなっている。学校にも属さず保護者もいないため、公衆マナー・生活の知恵・基礎的な職業訓練など社会的なスキルを身に付けない若者たちが増大するに連れて、伝統的ソサィエティが急速に崩壊しつつあり、このことがさらにエイズの蔓延を助長している。
こうしたアフリカの悲惨な現実を前にして、ヨーロッパ各国は、農村部や子供に対して女性の人権やエイズの啓蒙活動、孤児への授業料支給などに力を入れている。アメリカは、TV・ラジオ、街頭ポスター等のマスコミを使った啓蒙活動とコンドームの低価格販売。そして、日本はエイズ検査薬という大量生産工業製品の提供というわけで、それぞれの国の援助の特徴がよく出ている。
オランダは、日本のJICA(国際協力事業団)のような政府系の開発援助の実施機関を持たない。そしてODAはNGO(非政府組織)に給付され、本国のNGOの自主的な判断によって現地で活動しているNGOに流れる。政府から相手国の政府にながれ、しかもそのほとんどがひも付きだという日本のやり方とはまるで違っている。だから現地に密着した実効のある援助が出来る。
オランダに特徴的に見られるような、こうしたNGOをとおしたきめ細かな人的援助が可能になるためには、これに参加する多数の国民の協力が必要である。そのために、学校では「社会参加型の教育」が熱心に行われ、国民の意識のレベルを高めてNGOへの参加や協力が得られやすい社会環境を維持しようと務めている。またこのために各NGOは質の高い教材を作り、積極的に学校に提供している。
オランダでは毎年国民の1/3にあたる500万人以上の人々が国際協力関係のプログラムに直接的に関わっているという。また寄付の提供、募金キャンペーンへの参加、開発NGOの会員になるなど、間接的な関与もふくめると、その数は国民の半数に登るという。これによって日本のように政府主導のODAに偏った援助ではない、地元に密着したきめの細かい国際協力が成り立つことになる。
「普段は財布の紐を締めて絶対に緩めない彼らですが、外国で飢饉や災害が発生すると、テレビで義捐金送金用の銀行番号が報じられ、たくさんの寄付金がそれこそアッという間に集まるのです。世界でも有数の金持ち大国と自他ともに認められる日本では、外国の災害にオランダで通常見られるような対応の迅速さ、気前の良さ、そして民間レベルでの広範な協力体制は絶対に期待できません」
倉橋さんの「物語オランダ人」からの引用してみたが、まったくその通りで、最近の歴史教科書の騒動ひとつ取りあげても、何という低次元の志の低い教育だろうと恥ずかしくなる。「他の人々のために、国境を越えてなにができるのか」という国際貢献の理念のひとかけらもない日本の教育の現状がいかに国際常識からかけ離れたものであるか、反省してみる必要がある。
オランダからの国際平和維持軍への派遣者数は、トップから九番目にランクされている。総人口1600万の小国であることを考えれば、この数字からもオランダが如何に国際貢献に熱心な国であるかがわかる。名実ともにオランダは国際貢献でトップクラスの実績を残しており、これが国民の生き甲斐であり、国のアイデンティティでさえあるのだろう。
| 2001年08月27日(月) |
麻薬や売春を容認する国 |
ノルウエーの皇太子がシングルマザーの婚約者と25日に結婚式を上げた。婚約者が過去に麻薬が使われたパーティに出入りしていたらしく、この点が将来の王妃の資質として問題になったが、彼女は記者会見で自らの「乱れた過去を」を涙混じりに告白して、むしろ人気が急上昇したという。
アメリカをはじめとする先進国は「麻薬問題」に悩まされている。オランダもその例にもれないが、その対処の仕方を見ると、いかにもオランダ的であることがわかる。アメリカのように外科手術的にこれを「犯罪」として除去するのではなく、「容認して、管理する」というのがオランダのやりかただ。
オランダでは、麻薬であるマリファナやハッシンを公然と「コーヒーショップ」で買い、吸うことが出来る。こうしたことが合法的に行われている国はオランダ以外ない。もう4半世紀近くおこなわれているが、これによってオランダ国民がとくに麻薬中毒になったことはない。
統計によれば、70年代には1万数千人いた中毒患者が98年には5018人に減少しており、しかもこのうちの62パーセントは外国生まれのマイノリティだという。しかも中毒患者の90パーセント以上はコンピューターのデーターベースに入れられて管理されているという。ドイツやフランスなど周辺諸国から苦情を言われながらも、オランダがこの政策をかえなかったのも、実績があがっているからだ。
完全になくなることのない問題をなくそうとしても、それは表向きのことだけで、かえって地下に潜り、マフィアなどの犯罪組織をはびこらせるだけだ。オランダ人は麻薬をやりたい人がいれば少しくらいならやってもとやかくいわない。そして、むしろそれを公にして、その害を少なくするようにコントロールすることが大切だと考える。
こうしたオランダ流の考え方はよくわかる。私も以前定時制高校に勤務していたとき、4年生の生徒を2回ほど修学旅行に連れていったが、もちろん高校生だから「アルコールは禁止」だった。しかし、実際のところ、飲むなと言っても、隠れて飲むことはわかっている。
そこで、どうしたかと言うと、「どうしてものみたい奴は部屋に集まれ」と招集をかけて、ホテルにアルコールを注文し、そこで教員と一緒に飲ませた。20歳未満の生徒も大目に見たのは、隠れて飲まれるより教員の目の行き届いたところで飲ませた方が事故につながらないと考えたからだ。これも「容認して管理する」というオランダ方式だと言える。
こうした方法がオランダでは「売春」や「安楽死」の問題にも適用されている。アムステルダムの「飾り窓」は一度訪れてみたい観光名所だが、正規の手続き踏めばだれでもそこで売春が出来る。「麻薬」や「売春」は禁止してもなくならない。だからこれをコントロールして、これによってもたらされる問題を極小にしようという発想は現実的で合理的である。「悪」を直視し、これを制御しようという意志がうかがえる。
オランダでは94年に世界に先駆けて「安楽死法」が実施された。オランダはホームドクター制を取っていて、「安楽死」を行うのは患者を長年診てきた馴染みの医者である。そして日本で見られるような延命治療はない。長坂さんは「オランダモデル」のなかで、「尊厳死ができるというだけでも、オランダは永住したいと思うに足る国だ」と書いている。
原理原則にこだわらないフレキシブルな問題解決法は、治水の歴史から学んだものらしい。災害は必ず起こる。これを根絶やしにすることはできない。問題はどうやって、その被害を最小限度にとどめるかということだ。そしてオランダ人の人間に対する洞察の深さである。オランダの「寛容の精神」は、こうした強靱な合理精神と英知に支えられているようだ。
<オランダは、しっかり学んでみたい国ですね。経済面だけでなく、文化についても知りたい。宗教、教育、芸術活動、科学技術の状況、人々の美意識、幸福観、人生設計の仕方など、もし分かったら教えてください>(北さん、掲示板)
北さんの要望にこたえて、何回かに分けてオランダを紹介しよう。考えつくテーマは次のようなものだ。「麻薬と売春を容認する国」「安楽死を認める国」「環境問題先進国」「NGOとNPOの先進国」「自由と平等の国」「高齢者が元気な国」「協議と合意の国」など。
オランダの面積は日本の九州ほどしかない。人口も九州と変わらない約1600万人。ところが国際社会でのオランダの知名度と発言力の大きさはあなどれないものがある。政治、文化、経済、教育、あらゆる面で、オランダのシステムは個性的であり、先進的で魅力的である。
オランダの首都であるアムステルダム市は、ヨーロッパの玄関口ともよばれる魅力的な都会だが、面積は東京都の12分の1で、八王子市より少し大きいくらいである。人口も約72万人である。「アンネの日記」で有名なアンネ・フランクの隠れ家もここにある。
なお、オランダは干拓で出来た国で、今も国土の1/4が海抜下にあり、アムステルダムはアムステル川にダム(堤防)を作って出来た。他にロッテルダムなどの都市がある。地球温暖化で海面が上がり、堤防がもちこたえられなくなれば、これらの都市は海に沈む。オランダが環境問題に敏感なのも、こうした危機感があるからかも知れない。
宗教はカトリック系が32パーセント、プロテスタント23パーセント、イスラム系などその他の宗教が7パーセント、無宗教が40パーセントである。これらがそれぞれお互いを認め合いながら共存している。宗教の違いや民族の違いで差別を受けることはない。
オランダはその昔、植民地にしていたインドネシアやスリナムからの移住者や、出稼ぎ労働でオランダに駆り出され居着くようになったトルコ系住民、オランダ近隣諸国からの移住者、果てはアジアから中国系、韓国系など多様な民族が暮らしている。戦後オランダが受け入れた移民や難民の数は98年1月現在で182万人にのぼる。
オランダでは異なった人種同士で家庭を築いている家族も多い。目立つのは、白人女性と黒人男性の家庭で、その逆のパターンや、白人男性とインドネシア系、あるいは東洋人女性とのカップルも見られるという。人種融合が進んでいるのは、お互いの宗教や文化も受け入れているということだろう。
オランダは83年に憲法を改正して、自国を「多民族国家」として認め、他のヨーロッパ諸国に先駆けてマイノリティの政治参加を認めた。たとえば合法的に5年以上滞在する外国人に対して、地方レベルの参政権を与え、5年以上滞在する成年には帰化申請を認めている。国籍を容易にして、政治参加を促進したわけだ。その他、異文化教育を推進する政策を実施している。
オランダはもともと迫害者を受け入れてきた歴史がある。スペイン、ポルトガルで迫害にあったユダヤ人や、フランスで迫害にあったユグノー(プロテスタント)、英国の清教徒たちもオランダを避難場所にしてやってきた。メイフラワー号でアメリカへ旅立った清教徒たちも、オランダで12年間ばかり生活していた。デカルトやスピノザなど、多くの文人たちもここを避難所として暮らしている。
彼らはオランダ人と対等の権利を与えられた。そして母国で禁書となった本がオランダでは出版できた。17世紀のオランダの出版産業は世界最大の出版部数(世界の半数)を占めたという。このように迫害者や亡命者を受け入れてきた歴史が、異文化・異人種の存在に寛容なオランダの国民性をつくりあげたのだろう。
「オランダモデル」の著者でアムステルダムジェトロ所長だった長坂寿久さんは、アメリカやオーストリアで生活していると「どれだけその社会にとけ込んでいるか」と、いつも監視されているような感じをうけるが、オランダではこうした圧迫を感じなかったという。その理由を「自分が日本人であることに自由であったからだ」と述べている。
アメリカもまた多民族国家として同様な面を持っている。しかし、アメリカと比べても、オランダははるかに寛容性が高い。そしてその価値観や制度も多元的である。オランダ人の異文化・異人種についての寛容性は、ヨーロッパの過酷な歴史を生き抜いてきただけに筋金入りだと言える。
しかしその一方で、オランダは戦争責任の追求に熱心な国という印象がある。ナチスドイツに対してもそうだったが、日本の軍国主義についても容赦がない。東京裁判で一番多くの絞首刑(なんと226人)の宣告を与えたのはオランダの判事だという。
現在オランダにはたくさんの日本企業が進出しているが、戦争責任をしっかりと認めて謝罪しない日本について、いまも根強い批判があるという。そして自由や権利の侵犯にたいしては敏感である。「ドイツ人は人種によってドイツ人たるが、オランダ人は信条によってオランダ人たる」と言われるゆえんかもしれない。
オランダはかってスペインとの独立戦争を勝ち抜いた。しかし、ナポレオンやヒトラーに国土を蹂躙された苦い歴史がある。国土や人口で言っても小国である。しかも、その国土は堤防で守られていて、これが決壊すれば首都までは海に沈む。
こうした弱点を多く抱えながら、オランダは多民族国家としてしぶとく生き抜いてきた。オランダの強さは、「弱さからくる強さだ」と言う人がいる。アメリカが強さを自覚した文字通りの強国なら、オランダは弱さを自覚した戦略的システムによる強国だと言えるのかも知れない。地球の未来を先取りした多元化システムの採用などに、その真骨頂を見る思いがする。
今大きく羽ばたこうとしているEUももともとはオランダが提唱した。そして現在も事務局長をオランダの前首相が務めるなど、EUにあって「小さな強国」オランダはつねに先進的地位をたもっている。世界に向けて開かれてきたオランダの歴史は、そのようにしてしか生きられない小国のたくましさだと言えよう。
オランダは1960年代に北海海底に天然ガスが発見され経済が潤い、70年代にはヨーロッパでトップクラスの社会福祉制度を誇る豊かな国になった、しかしその後、経済政策を誤り、景気が過熱してバブルが生じた。
そのバブルがはじけて、財政が破綻、社会保障制度が維持できなくなり、失業と社会不安が蔓延した。そして80年代になると失業率は12パーセントを超えた。このような経済政策の誤りによってもたらされた悲劇的状況を、世界の人々はかって「オランダ病」と呼んだ。
しかし、それから15年もしないうちに、オランダはこの悲劇的な経済破綻から見事によみがえった。現在オランダの失業率は3パーセントで、先進国のなかで最も低い水準である。そして経済成長率は3パーセントを超える高い水準を維持している。99年には25年ぶりに財政の黒字化に成功、国際機関によるビジネス環境の評価で世界第一位になった。これを世界の人々はいま「オランダの奇跡」と呼んでいる。
それでは、どうしてこんなすばらしい逆転劇が可能になったのだろうか。その秘密は、1982年に政労使が結んだ「ワッセナーの合意」にある。この合意にしたがって、政府はパートタイマーの雇用条件や税制、年金制度を正社員並に保証する法律を作り、これによってパートタイマーで働く労働者が増え、「ワークシェアリング」が実現し、失業率が大きく低下した。
オランダの労働者は、その生活設計にあわせて、�―亀截夏�(40時間)のフルタイム労働、�⊇亀截各�(32時間)の大パートタイム、�L鵤横飴�間程度のハーフパートタイム、�ぃ隠音�間以下の短時間パートタイム、と多様な就業形態を選択できる。
たとえば�,鉢�、�△鉢△箸いα箸濆腓錣擦如◆嵒徂悗韮院ィ機廚箸いζ�き方が可能になり、これが「コンビネーショントリオ」として共稼ぎの理想的パターンになっている。アメリカの2.0型に比べ、オランダの1.5型は女性が労働市場に参入しやすいシステムで、働きながら育児や人生のゆとりを大切にするという新しい「家族システム」を実現した。経済システムの改革がライフスタイルの改革と見事にリンクしている。
オランダの成功を受けて、「ワークシェアリング」は欧州で盛んに行われ始めた。失業率11%、400万人以上の失業者が溢れたドイツでは、まず10万人の従業員を抱えるフォルクスワーゲンが1993年暮れに「雇用安定化のための労使協定」を締結し、労働時間を20%短縮して、週休二日制から三日制へ移行するわりに、年収を10%カットして、過剰人員とされていた3万人を解雇するのを避けた。1996年には鉄鋼や繊維産業でも同様な労使協定が結ばれ、ワークシェアリングの動きが広まっている。
フランスでは今年の2月にワークシェアリングの考え方を取り入れた週35時間制がスタートしている。これは12%以上になった失業率を減らすため、政府主導で法定労働日の短縮を実現し、従業員21人以上は今年2月1日から、また21人未満の企業については2002年から適用されるようになったものだ。これによって当面、約57000人の雇用を確保・創出したと言われている。
「ワークシェアリング」は大切な出発点であり、やがてその効果が現れれば失業率は低下し、欧州経済は立ち直るだろう。しかし労働の分かち合いは、単なる失業対策として有効なばかりではない。労働時間の短縮は、自由裁量時間の増大であり、精神的にゆとりのある生活やライフスタイルの創造をうむ。それは新しい21世紀型産業の創出に結びつく。
日本では経済効率重視のアメリカ型グローバリゼーションの道を行くことが「構造改革」だと考えられている。ワークシェアリングという「共生の道」ではなく、弱肉強食を是とする「競争の道」を歩むつもりだ。この先リストラによる失業の増大がもたらす社会不安、犯罪の多発など社会システムの崩壊が懸念される。
日本にはもともと「共生の思想」が生きてきた。このすばらしい伝統を投げ捨てて、馴染みの薄いアメリカモデルに追随することは、戦前の日本がそうであったように、木に竹を接ぐような不整合を生じさせはしないか。その結果生じる、おそるべき事態を危惧しないわけにはいかない。
オランダの「ワッセナー合意」の背景には、治水の共同管理で養われた「協議、合意、統合」のコンセンサスを重視する伝統的な思想があったという。そうした伝統と国民性を生かすことで、オランダは生き生きと甦ることが出来た。今同じような不況にあえぐ日本が学ぶべきは、伝統的な共生原理に基づいたオランダの改革ではないだろうか。
(参考) 「オランダモデル」(長坂寿久、日本経済新聞社、2000年刊) 多様性の国オランダ
| 2001年08月24日(金) |
「共生なき競争」の世界 |
シャーレの培地の中に細菌を移植すると、一時的に繁殖しても、やがて栄養を食べ尽くして死滅する。その際に、共食いが生じたり、一斉に自ら毒素を出して、集団自殺のようなかたちで死滅することもあるらしい。
こうしたことは人工的環境ではごく一般的なことで、試験管の中にA,B,C,D・・の何種類かの微生物を入れたとき、そのなかで最強のAが他を駆逐して残っても、最後にはAそのものも生存条件を奪われて死滅することになる。
人工的な環境と違って、自然界ではA,B,C,D,・・など多種多様な生物が、それぞれ補食関係を構成しながらも生き残り、子孫を絶やすことはない。自然界は非常な多様な種が無数に存在し、関係しあう「複雑系」をなしている。そしてこの多様な豊穣性が、生物の「共生」を可能にしている。
人間世界もそこには様々に異なった人種や思想信条を持った人々が共存する「複雑系」である。また、人間世界はさらにそれを包摂する自然界の一部であり、私たちはこうした多様な自然と生命の恵みに支えられて生きている。
しかし、人間はややもすると、単純な原理によってこの世界を割り切り、支配しようとする。その最初の現れが一神教であろう。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ、海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」という「旧約聖書・創世記」の言葉はその力強い宣言である。
やがて自然科学が興隆し、18世紀に入り産業革命が成功すると、人間の自然に対する支配はさらに加速された。そして21世紀を迎えた私たちの前にある自然は、いたるところでもはや原形をとどめないほど無残に破壊されている。
世界の人口は1600年には5億、1830年には10億、1900年には15億人ほどだったと考えられている。それが21世紀を迎えた今は60億人である。わずか100年間で4倍に増えている。人口の増加につれて、環境破壊が進み、この一世紀で4分の1の生物種が滅びたという報告もある。
人類は今や遺伝子の本体であるDNAの構造を解明し、生命現象そのものを自らの支配下におこうとしている。まさに神のように自由で、強力な存在のように見える。しかし、人類のこの繁栄が永遠に続くと考えるのはあまりに楽観的というべきだろう。
人口の増加につれて、破壊されたのは自然だけであろうか。世界一豊かだといわれる日本の社会で、毎年3万人以上の人が自殺している。学校では登校拒否やいじめが横行し、鬱病や精神異常、凶悪犯罪もじりじりと増加している。厚生労働省への児童虐待の相談件数は90年の約1100件から10年で10倍以上、夫婦間の暴力事件は3倍に増えた。警察へのストーカー被害相談も97年から3年間で4倍増だという。
今私たちの目の前にあるのは、「競生」と「凶生」と「狂生」の世界ではないのか。私たちは他者の生存条件を奪ことで、自らの環境を貧しいものにしつつある。こうした愚行が行き着く先がどのようなものであるか、「共生なき競争」の不毛さは今や誰の目にも明らかではないだろうか。
昨日の日記で、共生には「新和的共生」と「競争的共生」があるという書いたところ、北さんから次のような反論があった。
<人間社会は相手をつぶしてしまうという「弱肉強食」関係よりも、むしろ「親分子分」関係が多いと私は思っています。「競争的共生」の概念は、それを是認する危険な思想につながるように思います。「競争的共生」は、「肯定」されるべき事実ですが、「是認」されるべきことではないと思います>(掲示板より、一部を引用)
私は「共生」ということを「ともにあること」という風に考えている。そしてその在り方が、友好的なものを「親和的」とよび、反友好的なものを「競争的」と呼んだ。そして「競争的共生」の例として、ライオンとシマウマをとりあげた。
北さんがいうように、たとえばやくざの世界の「親分」と「子分」も、ともにあるという意味で「共生」である。しかしこれは「競争的」という訳ではないだろう。支配―非支配という構造はあるものの、これはどちらかというと「仲間的」と見た方がいいのではないのか。あるいはお互いがそれぞれ依存していることを重視して「依存的共生」とでも名付けた方がいいのかも知れない。
私が今思い浮かぶ「競争的共生」の例に、たとえば、かっての「自民党」と「社会党」の関係がある。お互いに与党と野党として敵対しあい、国会で乱闘劇まで繰り返していた。しかしその「競争的」な関係は見せかけで、見えないところでは案外手を組んでうまくやっていた。その証拠に、最後に社会党は自民党と手を組んで、自民党の最大の苦境を救っている。まさに「(競争的)共生」である。
「資本家」と「労働者」も、ときにその利害は対立し、敵対的である。しかし、資本家と労働者はともに会社の発展を願う者同志であり、その根底では共生している。日本の場合はとくに、この共生の面が強く、競争的な面が弱い。これも括弧つきの「(競争的)共生」と言うべきかも知れない。
このようにこれまでの日本は根本が「共生社会」であり、競争はあくまでも(競争)でしかなかった部分が多い。しかし「年功序列」「終身雇用」「企業内組合」を特色とする日本型システムが崩れると、これから競争的な面が強くなるだろう。
「(競争的)共生」から「競争的共生」へ。しかし、私が危惧するのはその先に、「共生なき競争」が存在することである。こうした競争は建設的というより滅亡的である。社会的というより反社会的であり、社会の安定・発展を阻害し、ときとしてその集団を破局に導くことになる。(場合によってはやくざ同志の抗争のように、お互いに滅亡してくれた方がよいこともあるが)
こうした「共生なき競争」については、稿を改めて明日の日記にでも詳しく書いてみたいと思うが、さしあたり私の立場を言っておくと、私は「競争的共生」を肯定し、また場合によっては是認する。どうした場合に是認するかというと、その競争が共生的であるだけではなく、建設的で、社会に有用な場合である。
たとえば、tenseiさんが掲示板に書き込んでくれた「ライバル関係」などがそうだろう。<相手の成長も願いつつ、自分はそれ以上に成長しようとし、それでも自分が負ければ相手を祝福するような>関係は、社会的にも当事者自身の成長にとっても意義のある関係だと言える。
一方ではかっての「自民党と社会党」のように、非生産的で、社会的意義の面からも首を傾げざるを得ない共生関係もある。そもそも共生だからといって、なんでもよいというわけではない。たとえば「日本のやくざ」と「中国のやくざ」など、共生して欲しいとはちっとも思わない。
「競争」にも社会的に有用なものとそうでないものがあり、「共生」についても同様である。一概に「競争は悪で、共生は善」だとはいいきれない。しかし、「共生を否定する排他的競争」は一般に有用な場合が少ないように思われる。
いずれにしても、私たちは「殺戮と恐怖の支配する競争社会」を克服して、「平和で豊かな共生社会」を一刻も早く実現したいものだ。その為には「競争的共生」を「親和的競争」へ変えていく知恵や工夫とともに、「競争的共生」を社会的意義のあるものに変えていく努力が必要なのだろう。
| 2001年08月22日(水) |
ライオンとシマウマの共生 |
「共生」というのはもともと生物学の言葉である。たとえば「花と蝶」「やどかりとイソギンチャク」などがそうである。花は蝶に蜜を与え、蝶は花の受粉をたすける。こうしてお互いに助け合って生きているわけで、まさしく「共生」という言葉がぴったりする。そこで、私はこれを「仲良し共生」もしくは「親和的共生」と呼んでいる。
それでは、ライオンとシマウマはどうだろうか。この両者は食物連鎖を構成しており、生物学ではこれを「補食関係」とよぶ。ライオンにとってシマウマは餌であり、シマウマにとってライオンは身を守らなければならない恐るべき敵である。
しかし、シマウマのいるところライオンがおり、ライオンがいるところシマウマがいる。ライオンはシマウマを餌にしているが、決してこれを根絶やしにしたりしない。ただ必要な最小限を餌として殺すのである。そうしなければ、ライオン自身全滅してしまう。
ライオンとシマウマはこうした補食関係のなかで切磋琢磨し、それぞれの能力を磨いた。狩りの能力が低いライオンや足の遅いシマウマは自然淘汰され、こうした競争関係の中で、それぞれの種が見事に進化した。だからこの両者もまた長い目で見れば「共生」しているのである。私はこうした敵対的・対立的な共生関係を「競争的共生」と呼ぶ。
「競争的共生」とは「生存競争」をふくむ「共生」である。しかしこの場合も、互いに創意と工夫を凝らして自己の利益を追求しながら、相手を排除することなく、むしろ相手と共生することで、自己の生存を確保しようとする。生物社会では「競争」もまた大きく「共生」のなかに包摂されている。
共生は仲良く助け合って生きることを必ずしも意味しない。味方といっても常に利害が一致するとは限らず、多くの場合は弱肉強食の熾烈な生存闘争を伴っている。共生関係は、互いに利害が対立することもある微妙な均衡の上に成立している。
このように異質なものと共存するための概念が「共生」である。そして、一見敵対関係のように見えるものも、よく観察すればその根底にあるのは「共生関係」である。生物社会では、強いものが生き残り、弱いものは廃れるという考え方は成り立たない。対立する一方が、他方を駆逐する形で決着することがないからである。
人間社会が生物世界とちがっているのは、「弱肉強食」が文字通りの「弱肉強食」になりうることだ。それはすなわち「強いものが生き残り、弱いものは亡びる」ことを意味している。
岸田秀さん流に言えば、こうした競争万能の考え方が幅を利かせるのは、「人間は共生本能が壊れた動物」だからだろう。本能が壊れた以上、私たちはこれを理性で補わなければならない。「共生の思想」が重視されなければならない所以である。
「福翁自伝」は私の愛読書だが、そのなかに、福沢諭吉がチェンバーの「経済学」を訳したときの逸話が書かれている。本の目次にコンペティションという単語があって、諭吉がそれを「競争」と訳して幕府の翻訳方に提出した。
ところが幕府の役人は「競争」という言葉が気に入らない。「ヨーロッパというのは、怖いところだな。ともかく、争いというのは穏やかではない。これでは上司に見せるわけにはいかない」という。
諭吉は例を挙げて説明する。二つの店があるとする。そうすると、客はよいものを安く売る店で買おうとする。そこで店の方はお互いに負けまいとしてがんばる。これが競争だ。この競争によって、経済が発展する。
しかし、幕府の役人には、「競争によってものごとが発展する」という考え方が理解できない。「何事であれ、争いはよくない。人の和が大切だ」という訳で、諭吉も最後は匙を投げて、「コンペティション」の項目は削って、上司に差し出したという。
資本主義社会では、人々はお互いに競争をして、競争に勝った者が生き残っていく。そしてその競争は、かならずしも武力ではなく、知識や知恵の優劣を競う戦いである。このことに気付いた諭吉は「学問のすすめ」を書いて、人々を啓蒙した。
福沢諭吉にとってヨーロッパ流の近代合理主義こそ、日本が早急に学ぶべきものだった。上に立つ者が封建的道徳を説くのは、彼らがその地位を維持するのに都合がいいだけで、それでは一般大衆は浮かばれないし、社会は発展しない。国民に「独立自尊」の気構えがなければ、西洋列強の前に蹂躙されて、植民地になるだけである。
こうした認識が、諭吉を西洋の「近代主義」に駆り立て、そして最後には大陸侵略を肯定する「国家主義」にまで近づけた。しかし、「福翁自伝」には「私がこれまで説いてきたのは、ただ国民の心を上品にすることが目的です」という言葉もある。
「独立自尊」を説いた福沢が「弱肉強食」を是とする単なる「近代主義者」でないことは言うまでもないが、彼の中で近代主義の限界がどのように認識されていたのだろうか。「競争」を尊ぶ精神と「心の上品さ」をどう両立させるか、現代に生きる私たちの課題でもある。
江戸時代、たくさんの籠かき人足がいた。平安時代から牛車というものがありながら、なぜ日本は車輪を使った乗り物が発達しなかったのだろう。牛車はともかく、馬車に比べれば、籠ははるかに非効率的である。
効率が悪いと言えば、刀がそうである。すでに戦国時代に、我が国は世界一の鉄砲の生産国であり、所有国だった。それがあっさり鉄砲を棄てて、刀に戻った。
こうしたことから言えることは、江戸時代の日本はあまり効率を重んじない社会だったということだろう。しかし、これは必ずしも非難されるべきことではない。江戸時代の250年間、日本人は戦争を経験しなかった。これは平安時代の350年間につぐ記録である。おそらく、世界的にも珍しいことだ。
このころ世界が人間の生存にとってどれほど過酷な時代であったか、一つだけ例を引いておこう。明治大学の入江隆則教授は西欧の近代主義を批判して、次のように書いている。
「スペイン人が現れる前には、中央アメリカの推定人口は7千万人から9千万人はいたとされているが、私がすでに書いたようにスペイン人の侵入のわずか一世紀後には、350万人に激減している。またこれも推定であるが、3千万人から6千万人に及ぶ黒人奴隷がアフリカからアメリカ大陸に連れ去られ、その三分の二が航海途上で死亡して、大西洋に捨てられたといわれている」
江戸時代の日本の人口は3000万人である。これは当時のヨーロッパの人口に匹敵する。江戸の100万という人口はもちろん世界一だ。これだけの大都市でありながら、衛生環境の悪化も見られなかった。治安がよかったこと、識字率が高かったことも世界に例を見なかった。
衛生環境について言えば、江戸の長屋には共同の便所があったが、屎尿は大家が農家に売っていた。その代金が家賃よりも高かった。このように、江戸をはじめ日本の町はどこも屎尿を土に返して、物質循環という大きな自然のしくみの中で生産活動を行っていた。100万都市の江戸を筆頭に他の都市でも、衛生的な生活環境が実現され、様々な生物が棲むことができる緑が豊かに残っていた。
ペリーが来航したとき船の甲板やマストには人間を恐れない鳥たちがたくさんやってきた。それを船員たちが鉄砲で撃つのを見て日本人は驚いたという。当時日本では、鳥や獣をとることが禁止されていた。幕府はこの報を聞いて、日米和親条約の付則に「鳥獣遊猟は禁じられている。アメリカ人もこれに服すべし」とつけ加えたという。
江戸はこうした世界もうらやむような「自然と人間の共生社会」だった。その上、経済的にもそこそこ繁栄していた。それでは江戸の豊かさはどうして可能になったのか。最近の研究では、それは実は江戸時代はみかけほど効率の悪い世界ではなかったということが言われている。一部だけ取り出せば非効率に見えることが、社会全体で考えると、見事に効率化された社会だということがわかってきた。
たとえば籠かきを例に取ると、これによってかなりの労働力を吸収し、人々に生活の糧を提供することができた。これは武士階級にもいえることで、たとえば江戸の町には北町奉行と南町奉行があったが、これは地域の分担ではなく、ペアで月々交代で仕事をしていた。つまり少ない仕事をワークシェアリングすることで、失業を防いでいたのである。
現代人の我々は、そしてとくに日本人は資本主義市場の競争原理に飼い慣らされ、いつの間にか洗脳されている。そして無駄を省き、コストを削減し、効率化をはかることが善だと思っている。しかし、ほんらい文化とは、大いなる無駄を作り出す営みなのだ。それは無用のようでいて、本当のところ無用とはいえない。人間と人間、人間と自然がお互いに支え合い、共生するための知恵であり、仕組みである。
江戸時代は人類史上まれにみるほど成熟した「共生社会」だった。そして彼らは無駄を作り、非効率を作っていた。そのことが人間がしあわせに生きるために必要なことだと知っていたからである。こうした江戸時代の人々がゆたかに持っていた「共生生活」の知恵を、私たちは虚心に学ぶべきだろう。
(参考サイト) http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog024.html
少し前に、一泊二日の旅から帰ってきた。宿は昼神温泉の近くの阿智村のペンションである。そこに文学を愛好する同人誌のメンバー数人があつまった。
緑と花に囲まれ、家族的な雰囲気の宿で、前田さんと奥さんの心ずくしの手料理を食べながら談笑していると、いつか時間を忘れていた。たのしいひとときだった。
宿は見晴らしのよい高台にあり、そこから周囲の山や川が見えた。山と里はすでにコスモスが咲き乱れて秋の気配。それもそのはず、暦の上ではもう10日も前から秋なのだ。
秋きぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる
住の江の岸による浪よるさへや 夢の通ひ路人目よくらん
古今集にある私の好きな歌。作者は藤原俊行で36歌仙の一人。秋の歌、恋の歌に秀歌が多い。こうした歌を口ずさんでいると、本当に日本語は豊かで、繊細で、美しいなと思う。
詩人の新川和江さんの『ことばの森へ』から、印象に残った一節を引用しておこう。
「わたしは辞書を引くとき、森に花摘みに出かけていく童話の中の少年少女のように、いそいそとした気分になります。美しい花や、まだ見たこともないめずらしい花が、森にはたくさん咲いています。おいしい木の実がこぼれているかもしれません。日に幾度となくことばの森へ出かけていきたくなったとしても当然でしょう」
「いきなり、森の真ん中に入っていって、五分でひきあげてくることもできますし、一日ゆっくり未知の世界を散歩することもできます。すぐに通りぬけてしまう町外れの森や林と違って、なにしろ言葉の森は、この地上のどこにもないくらい、深く大きく豊かなのです。ことばの一つ一つを発音しながら歩いていけば、数千数万羽の小鳥たちの楽園にふみこんだ心地がします」
辞書の中で眠っている美しい言葉たちを、眠りから覚まして生き生きとした魂を吹き込み、表現という広い大地に自由に羽ばたかせてやれたら、それはどんなに素晴らしいことだろう。
夏休みも次第に少なくなってきた。そろそろ庭では秋の虫が鳴き始めるころである。とはいえ地球温暖化のせいか、まだまだ暑い。虫も季節がわからなくて、こまっているのではないか。
「虫」という言葉は生まれるという意味の「ムス」という言葉と関連があるのだろう。「大言海」には「虫」は「蒸す」からきたと書いてある。なるほど、蒸したところに虫が発生する。
ところで虫は人間の体内にも棲んでいる。回虫やサナダムシなど、その代表的な例だろう。空腹でお腹が鳴ると、「ああ、虫が鳴いている」といわれたものだ。私の父は幼い頃母親を亡くしたが、小学校から帰ってくると、すでに母親は息絶えていて、「腹の虫だけが鳴いていた」そうだ。
私が小学生の頃は、よく虫下しを飲まされた。その結果、日本人の寄生虫感染率は30年前は60パーセントもあったが、いまではほとんど0になった。「腹の虫がおさまらない」「虫のいどころが悪い」「虫が好かない」など、虫を使ったたくさんの言い回しが残っているが、やがてこうした表現もしだいに廃れていくのかも知れない。
こうした腹の中の虫たちは「寄生虫」と呼ばれて嫌われた。そして徹底的に駆除されてきた。しかし、腹の中の虫たちがいなくなって、すべてよくなったかというと、そうでもない。実は少し困ってきたことが起こってきた。
腹の虫がいなくなると同時に、花粉症やアトピー、気管支喘息などのアレルギー病で苦しむ人が増えてきたのだ。ドイツのハンブルク大学の研究によると、回虫などの感染率が低い地域では、アレルギー病の発生率の上昇が見られるという。
京都大学霊長類研究所の調査によると、この20年間で猿の花粉症は少しも増えていない。一方で、サルに棲みついている寄生虫が常に80パーセントを超えていることがわかっていて、ここでも人間における寄生虫の感染率の低下と花粉症発病率との相関が指摘されている。
東京医科歯科大学教授の藤田紘一郎さんは、このメカニズムを免疫学の立場からあきらかにした。簡単に言えば、寄生虫によって産み出された抗体が、花粉などの異物に対するアレルギー反応を抑制しているということである。日本人や旧西ドイツ人のような先進国の人々にアレルギー病が異常に増えた最大の原因は、先進国の人々が体内から寄生虫を追い出したという体内事情にある。
「数百万年にわたって寄生虫と共生してきた日本人の体内には、寄生虫に対する防衛を任務とする「特殊部隊」が用意されていた。この特殊部隊はこの30年で、突如として失業集団となってしまったわけである。この失業した免疫細胞軍団は寄生虫の代りに、僕たちが今知らない間に吸込んでいるダニや花粉などを攻撃するようになり、アレルギー反応を誘発するようになった」
藤田紘一郎さんはフラリア研究の専門家で、この寄生虫を日本から一掃した運動の推進者の一人である。フィラリアは蚊を感染媒体とする寄生虫でリンパ腺に棲みつき、隠嚢水腫や象皮病を起こす。かっては青森県以南の日本各地でかなりの数の患者がいた。
ところがこの悪玉のようなフィラリアが実は、もっとおそろしいマラリアを押さえる働きをしていたことが明らかになった。マラリアというのはフィラリアと同じく蚊を媒体とする寄生虫だが、感染者は世界に8億人、年間死亡者が150万人という恐るべき病気である。
ところがアフリカやアジアの人たちは、ある程度成長していればまずマラリアの犠牲者にはならない。なぜなら生まれてしばらくすると、彼らはフィラリアに感染する。そしてこのフィラリアによる抗体が、マラリアの発病をブロックするからである。ふたたび藤田紘一郎さんの文章を引用しよう。
「日本人は寄生虫ばかりではなく、ウイルスや細菌など身の回りにいる微生物をことごとく追い出してしまった。・・・しかし、清潔志向がここまで極端につき進んだいま、僕はやはり微生物とヒトとの共生を強調したいのである。近視眼的な見方ではなく、長いタイムスケールで観察すると、必ず微生物とヒトとの共生が最も重要であったことを認識する時代がくるであろう。現在の日本に早くもその兆しが見えている」
(参考)「共生の意味論」講談社ブルーバックス
最近、また温水プールに通いだした。腹が出てきて、適当な運動をする必要を感じたからだ。4年前にプールで泳ぐことを止めたが、それから体重がかなり増えている。ズボンやシャツが苦しくなってきた。
プールに通うのを止めたのは、皮膚炎が悪化したからだ。薬局で薬を買ってきて塗ったり、皮膚科の医者に通っても治らなかった。それが、プールを止めたら、嘘のように完治した。O−157の食中毒が騒がれていた頃だから、プールの水に多量の塩素が含まれていたのだろう。
人間の皮膚にはブドウ球菌など雑多な細菌が何十兆と棲みついている。塩素は人間の皮膚に働いて、そうした共生菌を根絶やしにする。その結果、皮膚はバリアーを失って、外部からの病原体にさらされ、ダニなどの抗体が体内に入りやすくなって、アトピー性皮膚炎を生じやすくなる。
皮膚はそこで「顆粒菌」という防衛担当の細胞を繰り出して、病原菌の排除にとりかかる。そのとき排出される「活性酸素」が病原体もろとも皮膚の細胞を破壊し、皮膚を化膿させることになる。私の場合もこうして皮膚炎が生じたのだろう。これからはなるべく消毒用の塩素の少ない温水プールを選ぶ必要がありそうだ。
さて、共生菌は皮膚以外にも棲んでいる。たとえばヒトの腸には乳酸菌や大腸菌など約100種類の細菌が100兆個ほど棲みついている。これらの細菌が食物の消化を助けたり、ビタミンを合成したりしている。さらには外部からの細菌感染にたいしてこれを予防する。
ところが抗生物質や消毒剤を乱用すると、共生菌の生活環境が悪化する。そのとき一部の大腸菌はこれに対抗して、赤痢菌の毒素生産を促すウイルスと共生しはじめた。こうしてO−157型大腸菌が生まれたらしい。
私たちは細菌や寄生虫と聞くと、悪玉のように考えて、これを駆除しようとする。こうした考えに沿って、様々な新薬が開発され、また抗菌グッズのような商品が出回るようになった。しかしその結果、私たちはアトピー性皮膚炎や花粉症といった厄介な病気を次々と背負い込むことになった。
東京医科歯科大学の藤田紘一郎教授は現代の過度な清潔志向に警鐘を鳴らして、「ヒトは無菌の国では生きられない。寄生虫、細菌、ウイルスを含めた、すべての生物と共生することで、本当の健康は得られるのではないだろうか」(「共生の意味論」講談社ブルーバックス)と書いている。
作家の五木寛之さんは頭や手を洗わないそうである。石鹸や消毒液のない生活はさぞかし不潔で健康上問題があると思うかもしれないが、彼は健康そのものでいままでに医者にかかったことがないという。健康の秘訣は、あまり清潔志向に走らずに、いろいろな黴菌と仲良く共生することらしい。
生態学者の井上民二京都大学教授は、熱帯雨林の研究者として知られている。かれの研究を一口で言えば、「生物世界はダーウィンの自然選択説に基づく競争原理によってとらえられてきたが、熱帯では共生関係のほうが支配的だ」ということだ。
たとえば熱帯では、身を守る手段としてアリを利用している植物が多数ある。まるで用心棒を雇うかのように、特定のアリに住居やえさを提供して共生関係を結び、対動物防衛をゆだねる。
アリと共生するオオバギ種では茎の内部が空洞状になっており、アリがここを巣場所として利用する。また、食物体と呼ばれる栄養物質が葉の裏や葉の付け根から分泌され、アリはえさの大部分をこれに依存している。
アリは常にオオバギの葉の表面や茎内に待機し、オオバギを食べようと接近する昆虫に対して攻撃を加える。茎をよじ登ろうとするつる植物もかみ切って排除する。アリは住と食を全面的にオオバギに依存し、オオバギも生存をかけた防衛をアリに任せている。
こうした「共生原理」が濃厚な熱帯に比べて、温帯ではむしろ「競争原理」が目立っている。そしてこれまでの生物の研究は温帯をモデルにしてきた。そのため、どうしても生物学者は競争原理で考えるのが支配的だった。
たしかにこうした共生関係は最初から存在したわけではない。最初は単なる寄生関係でしかなかったものが、熱帯では約1億年という歳月をかけて、そのような支えあう関係が築かれた。
ところが温帯では、そうした成熟した関係を作る前に、氷河期が何度も押し寄せ、生物の共生をうながす進化が中断された。その結果、その社会はいつまでたっても成熟することが出来ず、競争関係が改善されないまま残っているのである。温帯社会は「共生原理」で見ると、発展途上の社会であるわけだ。
いま生物学に「競争から共生へ」というパラダイムシフトが起こっている。ダーウイン進化論が全盛期の頃は、人類社会も「競争原理」でとらえる弱肉強食の思想が横行した。これからは「共生原理」を基本にした新しい考え方が、社会科学や思想界でも主流を占めることになりそうである。
(参考サイト) http://osaka.yomiuri.co.jp/oldtopics/scbi/home.htm http://homepage2.nifty.com/ToDo/cate1/kyousei5.htm
13日に小泉首相が、靖国神社に参拝した。終戦記念日の今日公式参拝すると公言していたが、諸般の事情を熟慮した結果、予定を2日早めて、この日の参拝になったようだ。何だか姑息な印象で、小泉さん自身、すっきりしていないのではないか。
現職首相の靖国神社参拝は、政教分離をうたった憲法に違反しているおそれがある。さらにそこの合祀されている二百五十万人の中には、東京裁判によって処刑されたA級戦犯も含まれている。
靖国神社の前身の東京招魂社は、明治維新で命を失った人たちを慰霊するための神社だった。1879年(明治12年)に靖国神社と名称が改められ、やがて国家神道の中心的存在になり、天皇や神道の権威をたかめ、侵略戦争を遂行するために使われた。
こうした歴史を考えれば、たとえそこに眠る戦死者の慰霊のためだとはいえ、現職の首相が参拝することは問題が大きい。「侵略戦争を美化している」という考えがなくても、近隣諸国は疑いの目をむけるだろう。
さらに、日本の道義的責任の問題がある。たとえ中国や韓国が、国家賠償の請求権を放棄したとしても、日本の侵略行為にたいする道義的責任を追求する権利まで放棄したわけではないからだ。
私は人間にとって大切なことは何かと問われたら、「礼節」だと答えたい。礼節が大切なことは、、国と国のつきあいであっても変わらない。そして日本人は昔から「礼節を重んじる国民」だと思われていた。
それが前の戦争で豹変した。中国大陸に侵略し1000万人以上の人的損害を与えた。アメリカに対しては、宣戦布告前に真珠湾に攻撃をしかけた。とても礼節をわきまえた国民の振る舞いとは言えない。
日本人はこの点を恥じるべきである。そして再び礼節を重んじる国として立つことを決意すべきである。首相が「ただの慰霊のためです」と言って靖国神社に参拝することは、日本が始めた太平洋戦争で命を奪われた何千万という近隣諸国の人々の心をわきまえない、あまりに厚顔無恥で無礼なふるまいというしかない。
昨日は家族で福井に帰省して、田舎にある菩提寺に墓参りに行ってきた。そこには祖父や父が眠っている。田舎の父の家はもともと村の庄屋も務めた大きな屋敷だった。そして私が小学生の頃まで、祖父と一緒に長男の一家も暮らしていて、大勢で墓参りしたものである。
やがて長男一家が家を棄てて、ブラジルに移住した明くる年、大雪で屋敷が潰れた。そして倉で生活を始めた祖父も数年後には他界した。その家を父が継いでいたが、私たちは福井市の家にそのまま住み、そこから休日には山仕事に通った。今は父も死んで、倉もなくなり、屋敷跡は千坪ほどの空き地になっている。
福井の私の家にはかってカマドがあった。そこで御飯を炊き、魚などを焼いていた。ところが、山の中にある祖父の家に遊びに行くと、生活の中心に囲炉裏があった。囲炉裏の火を囲んで、家族が座り、食事をしていた。
鍋の中には山と川の幸が放り込まれ、手頃に煮えたところで、それを祖父が私の椀の中によそってくれた。町育ちの私には、囲炉裏のある生活は珍しく、それはまるで異境に来たような体験だった。
私は町ではカマドを使い、田舎では囲炉裏を使うのかと思ったが、そうではなくて、もともと囲炉裏は縄文時代からあったところに、カマドが弥生時代になって入ってきたようである。したがって縄文文化の色濃い東日本や山間部の集落には、最近まで囲炉裏を中心とした暮らしがあった。
現代はガスコンロや電子レンジの時代である。しかし、寒い夜など、ときには食卓のコンロを囲んで、家族で鍋料理を食べたりする。そんなとき、ふっと祖父の田舎の囲炉裏の風景が浮かんだりする。
こうした暮らしは、私たちの遠い先祖である縄文時代にまでさかのぼるのだろう。竪穴式住居の中で、彼らは囲炉裏を中心にして、それこそ一つ屋根の中で肌を寄せ合って暮らしていたようだ。
縄文時代の住まいは、平地を30センチ程円形に掘り込んで柱を立て、草や木の皮を覆う、堅穴式住居だった。発掘された遺跡によると、彼らの住居は小さく、円の直径は4メートル弱から6メートル位らしい。
囲炉裏のまわりに夏には干し草を敷き、冬には毛皮でも敷いて、家族が肌を寄せ合って休んでいたようだ。厳しい寒さの夜は親が子を抱いたり、子供同志が抱き合い、膝を曲げ、体を丸めてお互いの体温を確かめ合うようにして眠りについたことだろう。
東北の南部地方に「尻枕」という風習があったという。正月の夜に家族が囲炉裏を囲んで横になり、尻を枕にして寝るのだそうだ。縄文時代の人々も、ときにはこうして親も子も尻枕で、おたがいの肌のぬくもりを頼りにして眠っていたのかも知れない。
現代の日本人の多くはエアコンの完備した個室にすみ、ベッドで体を大の字にして眠る。縄文時代といわず、ほんの数十年前と比べてみても別世界のような快適さだが、しかし、膝枕や腕枕、尻枕と無縁の世界に住む私たちが、昔の人とくらべてどれだけしあわせか、疑問なしとはしない。
10年前に父が他界して、田舎はさらに遠くなり、今は年に一度墓参りに訪れるだけである。屋敷跡の空き地を眺めながら、かってそこにあったいまは亡い無数の人たちの暮らしを思い、しばらく感慨にふけった。
(参考サイト) 「縄文の世界・生活と文化」
昔夏祭りの近くになると、お化け屋敷が出来て、そこへ肝試しにでかけたものだった。お化け屋敷の中には決まって墓場のセットがしつらえてあった。そして井戸から生首が覗いたり、卒塔婆の陰から人魂のようなものが飛んできた。
墓場は肝試しの場所として、絶好の場所だろう。お化けや幽霊が出る、鬼や火の玉が出るなど、怪談に事欠かない。じめじめしていて、お墓や卒塔婆の立つ薄暗い木陰は、昼間行ってもあまり気持のよいものではない。
そのせいか、近頃の墓場は居住地から離れた郊外や山の麓に造成されることが多くなった。そして年に一度、お盆の季節に家族で連れだってお墓参りにでかけるくらいで、普段はあまり縁がなくなった。
しかし、昔は墓地は集落内の人々が生活する範囲にあった。私達の肉親や親族が眠り、休んでいる墓所は、少しも恐ろしい場所ではなく、むしろ慕わしい所だった。そこから亡き人が生きている人々を見守り、幸せを願っていてくれた。
大規模な縄文遺跡として有名な三内丸山遺跡でも、墓地は集落の中に造られていた。縄文の人々も又、墓地を恐れてはいなかった。お墓が恐ろしい怪談の場になったのは、権力や武力がものをいい、弱者が強者の犠牲になる社会だからである。そして恨み、憎しみ、復讐等というおどろおどろしい人間関係が生まれたからだ。
青森県のある村ではつい近年まで自分の庭に土葬にして遺体を埋める地域があったという。そうすることで墓地を自分の家からいつも眺め、また故人も墓地から生前に住んだ家が見ることができる。そこでは死者と生者が隔離されることなく、仲むつまじく共生していた。そうした家では、生者どうしも仲良く支え合って暮らしていたのだろう。
さて、今日はこれから墓参りのため、福井に帰省する。10年前に父を亡くしたが、その父が田舎の菩提寺の墓で眠っている。
父母がいて弟嫁の子もをりぬふるさとの家なつかしきかな わが父母の暮らしを思ふ貧しくていさかひたるも今はなつかし 父母のいずれを好くと尋ねられ中に埋もれて寝(いね)し日もあり
父が在世のころに作った自家製歌集「花あかり」のなかから数首引いてみた。昔詠んだ歌が、時が経つにつれて、みんなよく見えてくる。歌ばかりではなくて、墓の中に眠る故人もそうだ。
少年時代、私は父とよく山仕事をした。冬が終わって、まず最初にする仕事が、木起こしである。雪の重みで倒れた木を起こして歩くのだが、これが大変な重労働だった。
木を起こすときにも、起こした木を固定するときにも縄を使った。木を固定するのに針金やロープを使うと、またいちいち外して歩かなければならない。曲がった木は反対側に反らせて置くが、いつまでもそのまましておくと今度は木が反対側にまがってしまう。適当な時間で腐って土に帰る縄は、この点理想的で、しかも木や森を痛めない。
山のはいるときには背中に縄束をいくつも背負った。父と二人で5束ほども背負っただろうか。この縄束がなくなるまで仕事が続く。背中の縄束が段々軽くなり、縄の残りが少なくなるとほっとした。しかしそのころは、もう口を利くのも大儀なくらい、体に疲労がたまっていた。
起こした木を固定するために、すばやく縄を結ばねばならないのだが、私の結んだ縄はすぐにゆるんできたりして、父の叱声を浴びることになった。縄一つ結ぶにも技術があり、手先の器用でない私は失敗ばかりしていたような気がする。
父はもともと山育ちなので、縄の扱い方がうまかった。縄結びもそうだが、縄で即席の籠のようなものを作ってそこに山の収穫物を入れたり、縄ばしごを作って高い木に登っていく。ただの縄だが、これが使いようでさまざまな生活の道具に変身するのである。
こうした技術は、おそらくもう何千年も昔から、はるか縄文時代から受け継がれて来たのだろう。縄文文化は縄の文化だった。獲物を捕らえり、縛ったりするときにも縄が威力を発揮した。縄は生活の必需品であったばかりでなく、彼らの生きる技術力の象徴でもあったと考えられる。
彼らの使った土器には縄を押しつけた跡があり、いわゆる縄文土器といわれている。これも単なる装飾ではなく、縄の持っていた呪的な生命力をそこに付着させたのだろう。
狩猟、漁業、採集を生活基盤とする彼らは、食べ物は神からの授かり物であると信じていた。動物も魚も、木の実にも、そして道具にも心があり、生命があるものだと信じていた。
その中で縄にはとくに神聖な力があり、神が宿るとされた。その名残は至る所に残っている。神社や正月飾りの注連縄などがそうだ。正月飾りの注連縄には昆布と木炭、松の葉をつけた。こうした風習ははるか縄文時代の名残なのかも知れない。
日本は2200年ほど前に、狩猟採取中心の縄文時代から農耕を中心とする弥生時代に移行したと見られている。この新しい文明をもたらした弥生人は大陸からの渡来者らしい。中国大陸の揚子江あたりから渡来したという説が有力である。
彼らは先住民である縄文人を駆逐し、森を切り開いて、田畑を作った。こうして日本列島は少しずつ姿をかえていった。新しい集落が生まれ、人口が増加し、やがて集落が発展し、村や国が生まれることになった。
「古事記」によれば造化三神に続いて、様々な神が生まれている。とくに神代7代として、�.�ニトコタチ、�▲肇茱�モノ、��ウヒヂニ・スヒヂニ、�ぅ張離哀辧Εぅ�グヒ、�ゥ�ホトノヂ・オホトノベ、�Ε�モダル・アヤカシコネ、�Дぅ競淵�・イザナミが有名である。
この中で、�.�ニトコタチ、�▲肇茱�モノの2神はその名前からして先住民(縄文人)の神であろう。征服民の国造りを物語る「古事記」では「これらの神はやがて姿を消した」と簡単に片づけられている。
続く��ウヒヂニ・スヒヂニウヒはウヒ(泥)やスヒ(砂)と格闘する弥生人の神である。そしてやがては本格的農耕稲作のための土木工事(農業土木)がはじまり、角杭(つのぐひ)や柵(さく)が打ち立てられる。これを象徴する神が�ぅ張離哀辧Εぅ�グヒだ。
縄文時代の集落の代表といえば、青森県の山内丸山遺跡が有名だが、この巨大な村落には柵がない。一方、弥生時代の村落、たとえば佐賀県の吉野ヶ里遺跡の方は、完全に防備柵で囲まれた戦闘的な環壕集落になっている。こうした戦闘的な設備が、本格的な農業生産によってもたらされた富を守るために必要だった。
同時に、集落の中で貧富の差があらわれる。広大な土地と屋敷を所有する�ゥ�ホトノヂ・オホトノベが生まれ、彼らは経済的豊かさを享受することができるので、思(おも)いがかなって満足(たる)を知る。さらに彩(あや)かしい文化がうまれてくる。すなわち経済的・文化的豊かさを象徴する�Ε�モダル・アヤカシコネの神が出現するわけだ。
縄文文化は「森の文化」である。それは「必要なだけ働き、必要なだけ取る」という知足の文化である。そうした文化に貧富の差は生まれようがなく、また争いが生まれようはずがなかった。
たとえば、丸山三内遺跡では成人の墓約100基、小児用の墓約800基が見つかっているが、集落のそばに整然と配列されたこれらの墓地は、全く大小の区別なく、副葬品もみな同様である。巨大な建物も、王や貴族の家ではなく、宗教的儀礼や共同の作業場、食料貯蔵庫などであったと推定されている。
これに対して弥生文化は農耕の文化である。大規模な土木工事や、社や古墳を造り、その威容をお互いに競い合うことで、さらに支配の領域を広げ、その権力を拡大していった。そして綾やかな装飾文化を創造した。
しかし、「田の文化」は結局「森の文化」を完全に駆逐することはしなかった。むしろ日本人はそれぞれの文化に価値を認め、その共生をはかった。森が亡びるとき、豊かな水が失われ、田の文化もまた亡びることを知っていたからである。
アメリカの森は17世紀以降の移民によって切り開かれ、ワタ、トウモロコシ、タバコなどの大規模栽培が始められた。その結果、かっての大森林がこの3百年間にほとんど破壊つくされてしまった。森の崩壊は、農地の乾燥をうながす。森の崩壊は世界的な現象だが、とくに世界の穀倉と呼ばれるアメリカ農業の崩壊は、人類生存の危機である。
日本では神社にはかならず鎮守の森がもうけられ、森を食いつぶす家畜の数は抑えられた。さらに森と海の共生がはかられて、「魚付き林」が維持された。この結果、日本の緑被率は67%と、フィンランドの69%に続いて世界第2位である。
世界は20世紀になって本格的な「工業社会」に入った。そしてさらに、21世紀は「情報化社会」の時代だと言われている。時代は激しく変化しているが、私たちは「多様な文化が共生すること」の大切さを認識すべきだ。とくに今私たちに求められているのは、日本独自の「森と田の共生する文化」を守り、この思想の価値を世界に知らしめることだと思う。
一昨日、妻と二人で越前海岸へ海水浴に行った。途中、北陸道を走ったが、山の緑が目に染みて美しかった。梅原猛さんが「日本が誇れるものがあるとしたら、それは天皇制でも、経済力でもなく、国土の67パーセントを占める森林である」(「森の思想が人類を救う」小学館)と書いているが、その通りだと思った。
日本にこれだけの森林が残ったのは、狩猟採取を生業とする縄文時代が長く続き、農耕文明の始まりが遅かったこと、しかも牧畜が伴わなかったので、その分自然破壊が遅れたためである。世界の四大文明の発祥地では農耕・牧畜文明が早くから栄え、いちはやく森林が姿を消した。
農耕文明が起こる以前、世界は森に覆われていた。人間は森の中で、自然の一部として、つつましく生活していた。森林やそこに生きる動物は生きる糧そのものであり、同時に信仰の対象だった。人間は樹木に神を感じ、蛇やキツネや熊などの動物さえも神の化身だった。
農耕が始まると、人間は森林を切り開き、そこに棲む生き物のすみかを奪った。こうして人間は自己の力に目覚め、森林や動物たちは崇拝の対象ではなくなり、征服・支配の対象になった。こうして多くの神が亡びていった。人間の自然支配が進むに連れて、人々の信仰は多神教から、一神教へ、そしてその神も人格神に近づいた。
今から5千年前にメソポタミアに生まれたシュメールは、最初の都市文明だと言われている。そしてシュメールの最初の王であるギルガメシュが最初にしたことは、森の神フンババの殺戮だったことが、世界最古の文学作品といわれる叙事詩「ギルガメシュ」に書かれている。
「エンキドゥの言葉に力を取り戻したギルガメシュは、巨大なフンババに立ち向かった。二人は素早く飛び回りながら、フンババの頭に打撃を与える。二人の大地を蹴る衝撃によってヘルモンとレバノンの地が裂け、空は黒くなり、死が霧のように彼らに降り注いだ。戦いのさなか、ギルガメシュは太陽神シャマシュに加護を願う。その祈りに応じて、シャマシュ神は十三の激しい嵐を巻き起こしてフンババの顔面に投げつけた。フンババは視界を遮られ、進むことも退くことも出来なくなった。そこへギルガメシュのクリティカル・ヒットが決まり、フンババは崩れ落ちた」(「ギルガメシュ第5章」)
日本の神話にも同じような話がある。下界に下ったスサノオはオオケツヒメに食べ物を所望した。ところが、オオケツヒメは、鼻や口や尻から食物を出して饗宴したので、スサノオは怒ってヒメを殺してしまった。という古事記の記述がそうである。
ここでスサノオをギルガメシュに、森の神フンババをオオケツヒメに比定することができる。オオケツヒメがスサノヲに出した食物というのは、狩猟で得られる森の木の実や小動物の肉だったのだろう。スサノヲはそれに満足できなかった。
オオケツヒメの殺戮は、森の破壊と死を意味する。そうすると、オオケツヒメヒメの死体から、稲や小豆や麦が生じたということの意味がよくわかる。森が亡びたあとに田畑が作られて、やがてそこから夥しい農作物が得られるようになったということだろう。
ギルガメシュの創立したシュメールは自然破壊によって亡びた。後に残されたのは、砂漠と石と粘土から出来た遺跡である。さいわい、日本にはまだ森林が残っている。そして人々の心の中には自然を崇拝する多神教的な伝統が生きている。自然との共生を願う「森の信仰」が残っている間、日本はまだ大丈夫だろう。
世界七不思議のひとつに、イースター島の巨石人像モアイがある。イースター島(チリ)は南アメリカから3747kmも離れたところにある。人が住んでいる一番近いピテカーン島までですら2250kmもある。「世界で一番遠い島」と言われるゆえんである。
この絶海の孤島に巨石人像モアイが約1,000体もある。モアイを作ったイースター島の先住民はポリネシア人で、450〜690年ころタヒチから移り住んだと言われている。しかしモアイの顔は鼻筋が通っていて長く、目が窪み、唇は薄く、とてもポリネシア系には見えない。その表情はどれも苦渋に満ちて悲劇的に見える。
彼らは700年頃には石像を祭り始め、その後、神化された先祖がモアイの形で祭られるようになったらしい。モアイは島の内陸を向けて建てられていた。最大のものは、長さ20m、重さ100トン以上になる。
人類学者トール・ヘイエルダー博士によると、一体を彫るのに、平均して7mある像を完成するには12カ月から15カ月はかかるだろうという。 さらに山で彫った巨石を、海岸まで運んでアフという社の上に立てた。かつてはほとんどの像の上に赤い石の帽子が乗っていた。これをどのようにして乗せたのか。この島の伝承らしきものを木の板に彫り込んだ象形文字「ロンゴロンゴ」の木片がわずかに残されているが、その数が少なくて解読は不可能だという。
1772年,イースター島を最初に発見したオランダ人の船長,ロックヘフェーンは島の人口を約4000人と指定している。イースター島という名前は,ロックヘフェーンがイースター(復活祭)の日曜日に上陸したことからつけた。
2年後の1774年にクックが島を訪れ、モアイを見て、「力学的知識が全くないこの島民達がどうやってこんなとほうもない石像を立て、そのあとで大きな円筒状の石を頭にのせることができたのか、私たちには想像もつかない」と記している。しかし彼は島の人口を700〜900人と推定した。わずか数年間で、人口は急激に減ってしまっている。
人口の急激な現象は、人口増加に伴う自然破壊と食料不足、それによって部族間の争いが絶えなくなったためだと考えられている。彼らは敵の部族の守り神であるモアイを倒し、土台である墓地のアフまでが破壊した。これが「フリモアイ(FURIMOAI)」と呼ばれるモアイ倒し戦争である。
彼らは最終的には、人間を食べるまで至ったことが、地層から武器やバラバラに砕かれた人の骨が発掘されていることからわかる。そして、滅びる最後の最後まで石像を彫り続けた。石切場に残された製作途中の石像がそれを物語っている。こうしてイースター島の文明は完全に亡びてしまった。あとに残されたのは地面にうつぶせに倒された無数の石像だけの、ほぼ無人の島になってしまったのである。
これまで地球上で多くの文明が起こり、そして亡びた。イースター島の文明もそのなかの一つに過ぎないが、外界と全く隔絶された社会であったこと、そしてモアイという象徴的遺跡を残したことで、そこで演じられた悲劇とはどんなものであったのか、人類の文明の現在と未来を考える上で、絶好の研究材料を提供している。
「自ら滅びた文明」の特徴として、次の4つが上げられる。 (1)人口の急激な増加 (2)自然破壊 (3)貧富の差(階級制度) (4)巨大な建造物
「滅びない文明」の特徴はこれの逆で、一口に言うならば「自然と人間、人間と人間の共生」を重んじる循環型社会だということができる。アイヌなどの先住民族や、かってのアジアの循環型社会がその好例ではないだろうか。
巨人石像群を残して亡びていったイースター島の先住民の悲劇を、私たちはよそ事のように眺めていられない。人口増加と自然破壊、戦争や巨大な建造物は私たちの文明の特徴でもある。ミクロコスモスとしての島の歴史は、民族、国家、ひいては地球の将来を暗示している。
この4日間、部活のテニスの試合だった。三日間は炎天下での試合が続き、昨日は雨の中での試合で、何度も中断があり、試合時間が大幅に遅れるなどして、選手も顧問も大変だった。
この4日間、昼飯は妻の握ってくれた3個の「おにぎり」だった。何を隠そう、私の好物は梅干し入りの「おにぎり」である。とくに妻が握ってくれた物は格別で、これを食べると元気が出る。
ところで、「おにぎり」のことを「おむすび」という。この「おむすび」というのは何だろうと、「おむすび」を食べながら疑問に思い、さっそく調べてみることにした。そして、色々なことがわかった。
まず「むすび」だが、これは神代から伝わる由緒だ正しい言葉で、「コケむす」「ムスこ」「ムスめ」などにその用例があるように、「うまれてくる.うみだす」という意味の「むす」と、「神様の霊力」という意味の「ひ」が合わさったものらしい。つまり、「むすび」とは、「生まれたり産み出したりする神の霊力」ということだ。
ところで、「おむすび」は御飯(米)で出来ているが、米の起源は「古事記」によると、須佐之男命に殺された大気津比売神(オオケツヒメ)の二つの目から稲種がうまれ、これを神産巣日神(カミムスビノカミ)が種としたことが始まりである。
日本の神話で最初に刻まれた神の名は、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)で、次の高御産巣日神(タカミムスビノカミ)と神産巣日神(カミムスビノカミ)加えた三神が日本神話の根元神、造化三神と言われている。
ここで注目すべきは高御産巣日神・神産巣日神に共通する、産巣日「ムスビ」という読み方だろう。日本人は森羅万象が生成して行く様を、こうした神々の霊力と考えた。「ムスビ」とは万物を生成し、創造する神秘的な霊力ということになる。
カミムスビのカミはカガムミ(屈む身)だとする説がある。そうすると高・中・低の三者がそろう。ナカムスビは天と地を結ぶ神とみなされ、カミムスビノカミは地にあって、万物の生成を司る神ということになる。カミムスビが米の種をとったという古事記の記述が生きてくる。
それはともかく、こうして「おむすび」の大半の謎は解けた。「おむすび」を食べると力が湧いてくるのも頷ける。しかし「おむすびの力」の秘密はこれだけではない。その独特の三角形の形状にも秘密がひそんでいる。
三角状の形は、実は古代日本の山岳信仰に関係があり、それ自体が神の霊力を象徴している。古代日本人は三輪山や耳成山に代表されるきれいな三角形の山を神奈備山と呼び、そうした美しい形の中に神が宿ると考えた。つまり「おむすび」の三角形には、古代日本人の信仰が息づいている。
これからは「おにぎり」とは呼ばずに「おむすび」と呼ぼう。この名前の中には、日本人の千古の伝統が生きているのだから。うちのカミさんの握ってくれた「おむすび」を噛みしめながら、そんなことを思った。
「新しい歴史教科書」には神武の東征の話とか、いさましい神話の世界がふんだんに記されている。しかし、神話におけるもっとも大切な事柄は、私たちの先祖が自分たちの「いのち」をどう考えていたのかということではないだろうか。
私たち日本人の先祖が、「いのち」についてどのような認識を持っていたのか。また、命をやしなう「食物」についてどのような認識を持っていたのか。「古事記」や「日本書紀」を覗いてみよう。 「下界に下ったスサノオはオオケツヒメに食べ物を所望した。ところが、オオケツヒメは、鼻や口や尻から食物を出して饗宴したので、スサノオは怒ってヒメを殺してしまった。すると、ヒメの死体の頭に蚕、両目に稲、両耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆が生じた。そこでカミムスビノカミがこれを取って種にした」(古事記)
私たちが口にする米や麦などの食べ物は、「女神の死」によって生まれた。しかも、女神の死はたんなる自然死ではない。殺戮による血なまぐさい死である。食物に先立つこの血なまぐささは注目にあたいする。
ところで、オホケツヒメ(大気津比売、日本書紀では保食神/ウケモチノカミ)というのは、オホ(大いなる)ケ(食)ツ(の)ヒメ(女神)という意味らしい。全国に32000もあるという稲荷神社はこのオホケツヒメを祀っている。私は稲荷神社は狐を祀っているとばかり思っていたが、ちなみにキツネも古語ではケツネであり、分解すると、ケは御饌(みけ)のケ、つまり食で、ネは根。つまり、「食物の根源霊」で、つまりはオホケツヒメということだそうだ。
話は変わるが、アイヌには「イヨマンテ」と呼ばれる熊おくりの儀式がある。人間に食料や衣料を提供してくれる熊を弔う儀式である。殺した熊を食べ尽くし無駄なく活用するならば、熊は生まれ変わってもまた身体を提供してくれるという「死と再生」の信仰である。
東京都の公立小学校教諭だった鳥山敏子氏は、生徒達に「生きた鶏を殺して食べさせる」という授業を行っていたという。彼女はこのときの授業実践について、著書「いのちに触れる」の中でこう書いている。
「自分の手ではっきりと他のいのちを奪い、それを口にしたことがないということが、ほんとうのいのちの尊さをわかりにくくしているのだ。殺されていくものが、どんな苦しみ方をしているのか、あるいはどんなにあっさりとそのいのちを投げだすか、それを体験すること。ここから自分のいのち、人のいのち、生きもののいのちの尊さに気づかせてみよう」
親鸞は「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや」という名言をのこしている。親鸞のいう悪人には、生業のために「不殺生戒」をおかさずにいられない一般庶民がふくまれている。生きるといことは単なるきれい事ではない。そのもっとも根っこの真実を、日本の神話は、「女神の死と再生」の物語によって私たちに生々しく語りかけている。
私の勤務校は昔、女子校だった。裁縫がさかんだったせいか、「針塚」が敷地の一角に残っている。無生物の針にまで命を認めて、これを供養するというのは、いかにも日本的伝統である。こうした伝統がつい最近まで私たちの身の回りに息づいていた。
私自身の経験で言えば、これまで乗っていた車を手放すときに、とても深い悲しみを覚えた。私が手放した車はどれも10万キロ以上は乗っていたので、たぶん中古車にはならずにそのまま解体される。家族の思い出のいっぱい詰まった車は、とてもただの物質とは思えない。
命のない物質にさえ、日本人はこれほど心を動かされてきた。まして命のある生命に対して、これを愛惜する心はいいようもなく深いものがある。いや、深いものがあつた、と過去形にすべきだろうか。
昔、中学校の頃、「貝塚」について、縄文人が貝を食べたあとに棄てた跡だと習ったが、これもたんなる食べかすのゴミ捨て場ではなく、貝を供養したあとの墓場だという説がある。
縄文時代の遺跡からは、鹿や猪の骨が発掘されいるが、驚くべきことに子供の獣の骨は出てこないという。縄文人は無駄な狩猟や殺戮はしなかった。そこに流れているのは、人間の犠牲にされる他の生命への感謝であり、畏敬の念であろう。
同じく生あるものとして、その命を奪う事への罪悪感と、そうしなければ生きていけない「いのち」というもの矛盾と悲しみ。そしてそうしたなかで営まれているはかない生命への愛惜と、共生への切実な祈りのようなものを、かっての日本人はゆたかに持っていた。
昨日の朝日新聞に山折哲雄さんが、「教育改革、芸術・文化を第3の軸に」と題して書いている。日本のGDPはイギリス、フランス、ドイツの3国を合わせたものに匹敵する。こうした驚異的な経済力を持ちながら、日本は世界であまり尊敬されていない。
それはそうした繁栄のシステムを日本は西欧から学び模倣したに過ぎないからだ。猿真似がいくら上手でも、尊敬はされない。むしろお金儲けしか頭にない経済優先の生き方は軽蔑の対象になる。
こうした日本の現状に対して、山伏さんは、それはその通りだが、しかし日本にも一つだけ例外があるという。それは1千数百年の風雪に耐えて、この日本列島で辛抱強く育まれてきた日本の芸術・文化である。
「その伝統にたいしては、いかに西洋人といえども軽蔑の眼差しを向けることはできないであろう。それどころか、尊敬の念さえおこしてみつめるのではないだろうか」
最近「教育改革」の声がかまびすしいが、どこからも芸術・文化の面を尊重しようと言う声が聞かれない。これに対して山伏さんは、科学技術創造立国と社会科学重視の2軸だけではだめで、芸術・文化を3軸に据えるべきではないか、「そのときはじめて、わが国の教育と学問は夢と希望と志のあるものになるだろう」と主張する。
山伏さんの主張に全く同感である。山伏さんは控えめに、第3の軸と言うが、本音のところではこれが第1軸だと考えているのだろう。なぜなら、芸術・文化が根底にあって、科学技術や社会科学が発展するものだからである。西洋の科学技術文明の根底には西洋の4千年の文化の伝統がある。
科学技術や社会科学は模倣が出来きても、芸術・文化はなかなか模倣が出来ない。しかし、我が国にも独自の芸術・文化の伝統があり、こうしたものを深める中で、東西の文化の対話が可能になる。
ダーウインは突然変異によって発生した個体が他者と比較して、生存するための優位性を持っている場合に競争に勝ち残り、その反面、生存競争に敗れたものは死滅すると考えた。
つまり、突然変異と自然選択によって多様な種が形成されるわけだ。生物の多様性がこうした「進化」によってもたらされたことは、今や常識になっている。しかし、それを証明する化石等の証拠は今のところ得られていない。
ダーウインの進化論は「自然淘汰説」「適者生存説」などと呼ばれるが、この考え方は、経済学者のマルサスが「人口論」で述べた考え方に近い。マルサスは「人口論」で、「人口の増加は等比級数的であるのに対し、食料の生産は等差級数的にしか伸びないから、一部の人間の貧乏・飢餓は一種の自然現象として不可避である」と主張し、適者生存、自然淘汰(自然選択)を社会理論として唱えた。
資本主義が勃興し始めていた当時のヨーロッパには、この考え方は非常に説得力があった。こうした社会背景があって、ダーウインの進化論を唯一の真理のように流布させたのだろう。そして、この近代主義の思想は現代でも連綿と続いている。
私は生物の多様な進化をもたらした原動力は「競争」ではなしに、「遊び」だと考えている。この考えはホイジンガーの名著「ホモ・ルーデンス」に学んだものだが、学問や芸術に限らず、経済活動においても創造的進化の背後には「遊び」や「自由」の領域が重要な位置をしめているのではないかと思う。
この「遊び」という言葉を、もう少し学問的に表現すると「共生」ということになるのだろう。創造的進化は「競争」によってではなく、「共生」によってもたらされるという考え方である。
その代表は今西氏の「棲み分け理論」である。ある種から新しい種が生まれても、従来種は駆逐されることなく、新しい種と共存していく。唯一絶対の「環境世界」があるのではなく、種の多様化が環境の重層的多様化を生む。そのなかで多様な種が共存共栄する世界が実現すると考えるのである。
ダーウィンの進化理論が競争原理に基づいているのに対して、今西氏のそれは共生原理に基づいている。我々の棲む生物的自然が競争の場でなくて、種社会の平和共存する場であるという考え方は、きわめて東洋的であり、前近代的である。
しかし、現代にもとめられているのは、「我々の棲む社会は弱肉強食の競争の場ではなく、各人が共存共栄するくつろぎと楽しみの世界である」という、多神教的な包容力のある思想ではないだろうか。
宗教民俗学者で国際日本文化研究センター教授の山折哲雄さんが、「アジアがつくる共生の思想」のなかで、「日本人は千年間は中国から学んできた。明治以降百年間はヨーロッパから学んできた。さて、これからどこから学ぶのか。それはインドだ、というのが僕の持論です」と述べている。
インド人が2千年前に考えついた人生観に「四住期」というのがある。人間は4つのライフステージを経て死んでいくのが理想的だという考え方だ。山折さんの解説を引いておこう。
「第1ステージは「学生期」。師について学んで、禁欲的な生活を送る。第2ステージが「家長期」で、結婚し職業に就いて、子供をつくる。どこの文化圏にもこの2つのライフステージというのはあります。おもしろいのは第3ステージなんです。彼らは『林住期』と言ってます」
「林住期」というのは、出家と違って、結婚も仕事もし、経済も安定した段階で旅に出て、自分がいままでやりたいと思ってもやれなかったことをやる時期だという。宗教的な生活を送ったり、森に入って瞑想したりする。あるいは、バイオリン片手に音楽によって食べていく。現在でもインドを旅してると、そういう人間によく会うという。1年、2年、巡礼地をめぐり歩いたり、都市の盛り場をめぐり歩いたりして、遊行遍歴の旅をする人もいる。
「そのうちカネがなくなってくる。そうすると、彼らは物乞いをするんです。乞食(こつじき)ってやつをやるわけです。単なるお乞食さんの場合もあるし、芸を売る――音楽を聴かせる。大道音楽士ですよね。あるいは、瞑想して宗教的体験を得て、それを人々に話して聞かせることによってお布施をいただく。そしてしばらくしたら、また自分の家族のところに戻ってくる。2年たって戻ってくる。5年たって戻ってくる。いろいろな人間がいるわけです。自分の能力とか体力に応じて選択すればいいわけです。これを林住期と呼びます」
「だから、共同体とか自分の家族とは縁を切ってないわけです。しかし、世俗的な社会から出ようとする意欲はあるわけです。僕は、これは聖と俗が混交しているライフステージだと思います。聖俗浮遊といったらいいのかな。これは非常に味がある生き方です」
「林住期に出ていった人間の中から、千人に1人、1万人に1人、その次の第4ステージにのぼっていく。第4番目は遊行期、あるいは遁世期ともいいます。これは共同体や家族のもとに帰らない。本当の聖者になるわけです。かつての仏陀がそうだったし、現代では仏陀の精神を受け継ぐマハトマ・ガンジーがそうだったと僕は思うわけです。この考え方が、2千5百年の歴史を貫いて生きてるわけです」
「林住期は何も男だけがやる必要はないんで、女性もやっていい。現代の日本の社会では、男というのは家を捨てにくい動物で、女性のほうが平気で家を出て、群れをつくってやってます。危険だということもあるから群れをつくるんでしょうけど、群れをつくってるのはいけない、1人でやれば1番いいんです」
「聖の世界と俗の世界を行ったり来たりする、第3ステージとしての林住期、これを我々は現代の日本の社会にどう生かしていくか。個人的な生き方のレベルで考えるのもよし、会社と個人との関係で考えてもいいし、そういうことが必要になってくるだろうと思います」
日本でも中世時代、西行や吉田兼好、親鸞、芭蕉、良寛などがこうした生き方を実践していた。日本の文化を創造し、伝えていたのは半聖半俗のこうした人たちだった。しかし、こうした生き方が一般的だったわけでも、世間的に認知されていた訳でもない。
しかし、人は誰でも50を過ぎたら、あくせく働くのは一休みして、「林住期」的な生き方をするのが自然ではないだろうか。これからの時代、こうした東洋的な知恵のある生き方の重要性が認識され、一般人の生き方として社会的に許容されていくと面白いと思っている。
大学の入試科目で数学を選んだ人は、選ばない人に比べ、在学中の成績がよいうえ、卒業後も所得が高く、転職でも有利だという調査結果を、京都大学経済研究所の西村和雄教授らがまとめた。「数学で身につく論理的思考力が役立つからではないか」という。
有名私立大学3校の経済系学部卒業生を無作為に選び、23−60歳の2239人から回答を得た。在学中、専門科目の成績が上位だったのは数学選択者の50.8%に対し、非選択者は45.4%だった。
選択者の平均年収は931万円で、非選択者(880万円)の約1.06倍だ。共通一次試験導入後の卒業生でみると、差は約1.17倍(748万円と641万円)に広がるという。
西村さんは「IT時代には、コンピューターを使いこなす論理的思考力が求められている。それを育てる数学の重要性はますます高まっている」と話している。
これは私の推測だが、世界の企業の経営者や政治家の多くは数学に堪能ではないかと思う。たとえば、リンカーンやナポレオン、ガンジー、チャーチルの愛読書がユークリッドの「幾何学原論」だったことは有名な話である。
しかし、頭脳だけの論理的思考はともすると、心を忘れた非人間的な冷徹さに傾きやすい。これを矯正し、その思考に人間的な潤いと豊かさをもたらすためには「感性」の力をかりなければならない。これからのIT社会を生きるためには、冷徹な理性とあたたかい感性の共生が何よりも求められるだろう。
高校生の頃、父と山仕事をしていると、都会の若者たちが私たちの近くをハイキングスタイルで通っていくのを見かけた。同じ年頃の若者がハイカラな服装でわいわい楽しそうに手を繋いで傍らを通り過ぎるのを見ると、日曜日だというのに長靴を履き、手ぬぐいで汗を拭いながらむさくるしい風体で山仕事をしている自分が惨めになった。
そんな私の心を忖度してか、昼休みのとき父が、「お前の植えた木がきれいな空気と水を作って、町の連中の生活を支えているのだ」と言った。この言葉を、30数年経った今も明瞭に覚えている。
父の言葉で山仕事は単なる金儲ではなく、もっと大きな社会的意味があるのだと気付いた。そして、屈辱感が去って、むしろ自分たちの仕事を誇りたい気分になったのを覚えている。
山は単に町に住む人々に空気と水を供給するだけではない。それは海にすむ植物や動物を育てる。黒川記章さんの「共生の思想」(徳間書店)のなかに、「森と海の共生」について、こんなことが書いてある。
「世界の年間の漁獲高のうち50パーセント(5千万トン)は、全海面のわずか0.1パーセントの場所でとれているのだ。その場所とは、落葉樹の森の土壌の栄養が河川をへて海に注がれている地域、湧昇流があり、深層水に含まれている栄養分が海表面から30メートル以内の太陽光の届くところまで上昇してくる地域なのである」
近年日本近海の漁獲高が激減している。開発によって山が荒れた上に、ダムを造り、河川をコンクリートで固めることで、川や海の環境が大きく変わったせいである。しかし今でも漁民が山に入り木を植える行事が全国各地で残っている。昔の人は山の緑が海の幸をもたらすことを、長い経験で知っていたのだろう。
山と川と海が共生し、自然と人間が共生していた豊かな時代を、私たちはもう一度作り出さなければならない。高度に発達した科学技術を、これからは自然を破壊するためではなく、自然と人間を共生させ、蘇生させるために使いたいものである。
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