橋本裕の日記
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2001年09月30日(日) 秋の夜の夢

 昨日は4時頃までテニスコートで部活の指導。そのあと、急いで名古屋の東別院近くにある名古屋市女性会館にかけつけた。そこで演劇グループ「紙ふうせん」の公演を見るためである。

 出し物はシェークスピアの「真夏の夜の夢」である。友人のK氏が森の妖精たちの王オーペロン役で出ている。夏休みに一緒に京都に旅行したとき「是非見に来て下さい」とパンフレットを渡されていた。毎年彼の出る演劇は見に行っているので、もちろん今年も行くつもりだった。

 K氏とは10年ほど前まで、名古屋市の定時制高校で一緒に働いていた。私が転勤して職場が別々になってからも、毎年一泊でどこかに旅行している。その間、彼は持病の腎臓病が悪化し、今は毎週透析を受けているという。さらに、心臓病を煩い、発作で倒れて、入院したこともある。

 病院に見舞いに行くと、「神様が与えて下さった休暇を楽しんでいる」と言って、笑っていた。それから、「死ということを考えると、勇気が出てきた。これからの人生は、自分が本当にやりたいことをするつもりだ」と言っていた。彼が本当にやりたいこと、それは「役者として舞台に立つこと」だった。

 彼は若い頃、アメリカに渡って演劇を勉強し、帰国してからも役者を目差して、東京の「俳優座」のオーディションを受けたこともあった。しかし、その直後、外国での無理な生活が祟り、腎臓病を発病し、俳優としての道を断念しなければならなかった。しかし、50歳を目前にして、彼は再び若い頃の夢に挑戦しようと思ったようだ。

 退院すると、彼は定時制高校の英語教師を続けながら、名古屋にある俳優養成学校に通い、そして数年後には念願の舞台に立った。最初は脇役だったが、次第に台詞も増えて、去年は家出した父親の大役を熱演していた。

 毎年様々な役をこなしている彼だが、なかなか役になりきることはむつかしいようだ。彼の素顔を知っているだけに、「何だか少し無理をしているな」という感想をこれまで持っていたが、今回は違っていた。舞台の彼にいつにない存在感を感じた。妖精の王オーペロン役は、はまり役かも知れないと思った。


2001年09月29日(土) オカリナと雁

 通信販売でオカリナを購入したのが昨年の夏だったが、それから一年間以上、毎日のように吹いている。HP日記もそうだが、長く続いているのは、それなりに理由がある。つまり楽しいからだ。

 それと、「毎日」ということも、長く続けることの秘訣かも知れない。オカリナの場合は、通勤途中、木曽川の河川敷に車を止めて、そこで眼前の美しい風景を眺めながら、10分間ほど吹くことにしている。つまり、完全に習慣化しているわけだ。

 今頃の季節は、渡り鳥の姿が目に付く。たとえば「く」の字型をした雁の群が、河川敷の上の空を、西から東へ、次々と飛んでいく。わずか10分間ほどに、何百という数が渡っていく姿は、見ていて壮観で、おもわずオカリナを吹くのをやめて見とれていた。

 最近練習しているのは、「里の秋」「椰子の実」「浜辺の歌」など。ときには「荒城の月」や「惜別の歌」などを吹く。1年間以上毎日練習しながら、腕前の方はほとんど向上がみられないのが、すこし残念だ。


2001年09月28日(金) 国民生活優先の改革を

 アメリカで起きたテロが世界経済に与える影響が心配されている。テロがなくても、アメリカの景気は後退局面に入っていた。テロによってさらに不況が加速されることも考えられる。事実株価が下落した。

 アメリカの不況は日本の経済に今後深刻な影響を及ぼすことになるだろう。「構造改革なくして景気回復なし」をキャッチフレーズにしてきた小泉首相も、表向きは「構造改革優先」の立場を崩していないが、今後苦しい選択を迫られることになるかも知れない。

 なにはともあれ、待望の構造改革の「工程表」が出来上がったようだ。竹中大臣によると、今回のとりまとめにあたってとりわけ力を入れたのは次の3点だという。

�� 不良債権の問題。政府はこれまでも金融庁を中心にこの問題に取り組んできたが、今回、銀行の検査や企業再生の仕組みを大幅に強化するための積極策を取り入れたという。

�� 特殊法人の改革。これについては、原則として廃止・民営化を前提にしてすべての特殊法人等のあり方を検討する。さらに今回、道路4公団、都市基盤整備公団、住宅金融公庫、石油公団に関しては特に結論を急ぎ、年末までに閣議で正式決定することが織り込まれた。

�� IT革命の推進。電子政府・電子自治体の実現を大幅に早めること、民間の企業が未利用の光ファイバーを利用できるような規制改革を進めること。

 これらの政策に異存はない。とくに�◆↓�については、景気後退とは関係なく実行できるはずだ。�,砲弔い討發海譴泙任里茲Δ北軌挂戯�のまま問題を先送りするだけではいけない。

 私が小泉さんに望むのは「構造改革なくして景気回復なし」ということよりも、もっと本質的な「国民生活改善のための構造改革」を実行してほしいということである。景気景気と騒いでいる間は、とうてい腰の据わった改革は無理だろう。

(参考サイト) 「改革工程表」パンフレット(経済財政諮問会議)
          http://www5.cao.go.jp/shimon/index.html


2001年09月27日(木) 琵琶湖の十一面観音

 今年の秋も去年についで、「万葉集の旅」ができそうである。徳さんが旅館の手配や旅の計画を考えてくれたおかげだ。私も北さんもどちらかというと実務的能力に欠ける。口ばかりで実行力がともなわない。だから、徳さんのようなボランティア精神のある人がいないと、旅行もまとまらない。

 徳さんに希望を聞かれて、広隆寺の弥勒菩薩、それから琵琶湖湖畔の寺々に多く保管されているという十一面観音像を見たいと希望を述べた。こうした十一面観音について、井上靖や水上勉が小説に書いていた筈だが、あいにく小説の題名も寺の名前もわからない。

 ところが、徳さんが井上靖の小説を読んでいた。「星と祭」という小説だそうである。有名な国宝の十一面観音が祭ってあるお寺の名前も、徳さんのHPの掲示板である人が「渡岸寺(向源寺)」だと教えて貰った。

 渡岸寺は湖北の高月町(たかつき)にある。 この町は古くから京の都と北陸を結ぶ交通の要衝として栄えた。しかし、戦国時代にはこの湖北一帯は戦火が絶えなかった。高月町のすぐ東隣には織田信長によって滅ぼされた浅井長政の小谷城址があり、北には秀吉と勝家が雌雄を決した賤ケ岳決戦場、南には浅井・朝倉連合が織田・徳川連合軍と戦った姉川古戦場がある。

 渡岸寺は天平8年(736年)聖武天皇の勅願によって泰澄(たいちょう)が十一面観音を刻み、観音堂を建立したという。桓武天皇の延暦20年(801年)に、最澄が勅を奉じて七堂伽藍を建立し多くの仏像を安置して大刹として栄えたが、1570年浅井・織田の戦火のため堂宇は悉く焼失、寺領も没収され全く廃滅してしまった。

 しかしこの戦乱の中、観音様を崇拝する村人の手により観音像だけが兵火の中から搬出され、土中に埋蔵されて難を免れた。翌年、当地の豪族により建てられた一宇の坊に安置され、雨露を凌いで明治に至ったと伝えられている。渡岸寺の十一面観音だけではなく、多くの十一面観音が同様な歴史を持ち、土地の人々によって今日に伝えられてきたようだ。

 義母に借りた「近江・若狭の古寺と仏像〜十一面観音の里を訪ねて」(日本交通公社9)を読むと、十一面観音は、頭部に10ないし11の仏面をつける観音菩薩で、この仏面は化仏(けぶつ)と呼ばれ、衆生の11の苦難を断ち、悟りに導くという功徳をあらわしていると書いてある。

 渡岸寺十一面観音は、全体に面長の顔立ちで軽く腰を左にひねり、長く垂らした右手が上半身と均衡を保ち、官能的量感を備えているという。頂上と前面に菩薩面3、向かって右に瞋怒面3、左に狗牙上出面3、背後に大笑面1の計10面と本面とを併せ11面になっている。 頂上仏面に菩薩相を置き、左右各々の一面を耳の後ろに大きく表現しているのが特徴だという。義母も妻も数年前にこのお寺を訪れ、観音さまを拝んでいるらしい。

 こうしたことを知り、渡岸寺の十一面観音に興味を持った私は、さっそく書店で「星と祭」(角川文庫)を買ってきて読み始めた。かなりの長編だが、読み始めるとすぐに作品の世界に没入することができた。

 娘を琵琶湖の水難事故で亡くした架山がそのかなしみをいやすべく、湖畔に点在する十一面観音を訪ねて歩く。読みながら、そうした体験がない私も身につまされるような切なさを感じた。たしかに世評にたがわず、「死者と生者のかかわりを通して、人間の死を深く観照した、文学の香り高い名作」だと言える。

「架山は万葉集を繙いて、挽歌というもののすべてを読んだ。そして架山はあらゆる挽歌に流れているものを、たんなる追悼の心として見なすことはできなかった。はっきり言えば、そこにあるものは対話であった。生きている時にお互いに交わすことのできぬ対話であり、相手が死んでしまえば、それはそれで、もはや交わすことができない対話であった」

 最愛の娘を失った架山が、悲しみを胸に秘めながら、最初に訪れたのが渡岸寺の十一面観音で、彼はその凛とした気品のある美しさにひかれる。小説の中からいくつか拾ってみよう。

「胴のくびれなど ひと握りしかないと思われる細身でありながら、ぴくりともしないのはみごとである。しかも腰をかすかに捻り、左足を軽く前に踏み出そうとでもしているかのようで、余裕綽々たるものがある」

「観音像であるから気品のあるのは当然であるが、どこかに颯爽たるものがあって凛として辺りを払っている感じである。・・・確かに衆生を救わずにはおかぬといった必死なもの、凛乎としたものが、その顔にも、姿にも感じられ、それが観る者に颯爽とした印象を与えるのであろう」

 架山はこれを機縁に、琵琶湖河畔に40体はあるという十一面観音像をひとつひとつ巡礼することになる。そしてその観音像に死んだ娘の面影を求め、さらには「永遠」というものの思いを巡らせることによって、生と死の対話を深めていく。絶望から希望へ、主人公の心境が老境にある井上靖の静かな円熟した筆致で美しく描かれている。

「皎々たる満月の光が、琵琶湖の面に照り渡っていた。架山は、船の上で、静かに眼を閉じた。湖の北から東にかけて、何体かの十一面観音が、湖を取り巻くように立ち並んでいた。・・・娘よ、今夜から、君は本当の死者になれ、鬼籍に入れ、静かに眠れ」

 解説を書いている角川源義さんは、朝日新聞に連載されたこの小説を注目して読み始めたばかりのころ、実際に娘さんが自殺するという悲劇を体験し、もはや主人公の心の痛みが他人事ではなくなったとのこと。新聞に連載中に、同じ境遇にある親たちから、共感の手紙が寄せられたようだ。

 6000人をこえる犠牲者を出したアメリカのテロをブッシュは「戦争」と表現したが、日本では年間3万人をこえる人々が自殺をしている。これもまた「戦争」と呼ぶことができよう。テロ以上に、姿の見えない敵を相手に、私たちはいかに戦ったらよいのか。この秋の十一面観音を訪ねる旅は、この「人生の問い」を巡る鎮魂の旅になりそうだ。

(参考文献)  「星と祭」 井上靖 角川文庫
         「近江・若狭の古寺と仏像〜十一面観音の里を訪ねて」
                (日本交通公社9)
(参考サイト) 琵琶湖の風物詩
          http://homepage1.nifty.com/~sakuranamiki/room1q.htm
         高月町立観音の里歴史民俗資料館
           http://www.biwa.ne.jp/~kannon-m/


2001年09月26日(水) 競争から共生の教育へ

 日本の教育は画一的だという批判がある。知識偏重で、個性が尊重されず、独創性が育たないという批判である。この画一性がどこから来たのか、その歴史を振り返ってみよう。

 意外なことに、明治政府が当初めざしたのは、国家のための教育ではなく、個人のための教育であった。福沢諭吉流に言えば「一身独立して、国家独立す」という考え方が根底にあった。

 1872年の学制公布にあたって出された太政官布告では、「身ヲ修メ、智ヲ開キ、才芸ニ長ズルハ学ニアラザレバ能ワズ」と学問こそが世に立つ基であることを明らかにし、「必ズ邑(むら)ニ不学ノ戸ナク、家ニ不学ノ人ナカラシメン」として、教育の平等を強く打ち出している。実際その後わずか5年ほどで2万6千校以上の小学校が設置された。

 1879年に出された教育令でも、強制的、画一的教育を排すべきとされた。自由な教育が国の政策だったのである。「国家のために学問をするという考えは誤りで、各人が身を立てるためにすべきである」と述べられている。

 1890年に教育勅語が出て、この流れが変わったが、それでも、大正期には「新教育運動」として、自由な教育をめざすさまざまな試みが行なわれた。しかし、この動きは、戦時体制の中で抑圧された。太平洋戦争を控えた1940年、国家総動員態勢が敷かれ、教育にも軍隊式の規律と服従の集団主義が浸透した。

 戦時体制下において、個人は国家への絶対的な服従が要求される。1941年に公布された国民学校令はその具体化である。学校行事や団体的訓練などをとおして、徹底的な個人主義敵視、集団主義尊重の、国家主義的画一教育が実施された。

 戦後、1947年に学校教育法が公布され、教育理念の民主化がはかられた。しかし、経済復興を優先させる必要から、この理念はほとんど実行されなかった。集団的規律という戦時体制に適した人材は、戦後の高度成長期においても求められた。社会が産業戦士として従順で没個性的、画一的な人材を要求し続けたからである。

 東大教授の野口悠紀夫さんは、日本は現在も「1940年体制」を続けているという。つまり戦後半世紀以上経っても、いまだに私たちは集団的画一主義の戦時体制のまま走り続けているわけだ。

 しかし、この体制は「工業化社会」では通用したかも知れないが、「情報化社会」ではかえって足かせになる。産業界や企業もこの事に気付きだした。そこで旧体制を脱却して、個性重視のシステムを作り上げることが急務であると発言し始めた。

「1940年体制の打破」は必要だが、そのことで真に自立した個性が育つと考えるのは幻想である。「集団に埋没しない個性を」という教育改革のスローガンは美しく響くが、一体だれのための教育改革であるのか、その根底にあるのは「経済体制優先」「競争重視」の個人主義である。

「一身独立して国家独立す」というのは、現代において、どれだけ意義のある主張といえるだろう。むしろ新しい国家主義の復活でなければ幸いである。現代において本当に個性的な教育を実現しようと思ったら、「地球人類の共生」という国家の枠を超える人類共同体を視野に入れた発想に立つ必要がある。

 日本の教育改革に欠けているのはこうした「共生志向」の発想であろう。個人の自由と独立は実のところ、豊かな共同社会のたまものであることを知らなければならない。


2001年09月24日(月) 咸臨丸の一生

 幕末、幕府はオランダに軍艦咸臨丸を注文した。咸臨丸はライン川のほとりのキンデルダイク(赤ちゃん堤)にある造船所でつくられ、1858年の春に軍港ヘルフットストラス(地獄への第一歩)で装備されて、オランダを旅立った。

 咸臨丸は軍艦と言っても、排水量2〜300トンの小型艦で、大砲も一段しかそなえてなかった。この小型艦をはるばる日本まで運んできたのは、オランダ海軍のカッテンディーケ少佐で、同年の8月5日に長崎港に着いている。

 幕府は咸臨丸を海軍の練習船にした。そして招聘したカッテンディーケ少佐のもとで、さっそく勝海舟らを精力的に学ばせた。カッテンディーケ少佐は2年ほど教えた後、オランダに戻り、のちに海軍大臣になった。「長崎海軍伝習所の日々」という著作も残している。

オランダ軍人のカッテンディーケのもとで勝海舟らはよく学び、わずか2年後の1860年1月には自らこの船を操縦してアメリカに渡った。このとき福沢諭吉も同行している。

 こうして日本史にさっそうと登場した咸臨丸だが、アメリカから帰国後、どうなったかあまり知られていない。さいわい司馬遼太郎さんが「オランダ紀行」のなかに記してくれている。

 帰国後、小笠原開発の御用船になったが、破損したため、蒸気機関をはずして純粋の帆船になった。幕府が瓦解すると、榎本武揚らとともに江戸湾を出たが、途中で新政府軍に拿捕された。

 明治になっても、北海道開拓使の官船として働いたが、1870年に函館港外で風のため破損し、翌年には民間の運送会社に払い下げられ、ほどなく廃船にされたようだ。

「明治5年に廃船にされたとすれば、建造後わずか15年の船齢なのだが、老化がはなはだしかった。2,3百トン(400トンという説もある)の小船にしては建造後の回航だけでも世界一周であり、その後太平洋も往復しているのである。働き過ぎと、当時の人々の操船の未熟さが、寿命を早めたのかも知れない」(「オランダ紀行」司馬遼太郎)

 廃船にされないで、今日博物館に残っていれば文句なしの国宝だろうが、惜しい話である。しかし、咸臨丸は勝海舟や福沢諭吉を乗せてはじめて太平洋を渡った船として、私たち日本人の記憶の中にいつまでも生き続けるだろう。



2001年09月23日(日) 半ドン

 土曜日の仕事は昔から半日と決まっていた。これを「半ドン」というわけだが、こうした言葉も週休二日制が定着すると使われなくなるのだろう。早く死語になって欲しいと望みながら、この言葉のもつ浮き浮きした情緒までなくなるのかと思うと、少しさびしくなる。

 ところで、この「半ドン」という言葉だが、もとはオランダ語らしい。日曜日になると、出島のオランダ人が休日だと言うことで浮かれていた。当時曜日の感覚がなかった日本人が不思議に思って訳を尋ねると、「日曜日(ドンタクzindag)だから」と答えた。

 土曜日は半分の日曜日ということで、「半ドン」と呼ばれるようになったという。また、ドンタクは「祭り」という意味でも使われるようになり、「博多ドンタク」などという言葉も生まれた。

 日本語になったオランダ語にはこの他、「おてんば」「かっぱらい」「マドロス」「ビール」「ガラス」「カバン」「ランドセル」「インキ」「レンズ」「オルゴール」「ピストル」「メス」「カンフル」「ブリキ」などがある。

 いずれも身近な日本語として定着しており、多くの日本人はオランダ語だと知らずに使っているのではないだろうか。オランダ語が日本文化に与えた影響の大きさに、いまさらながら驚かされる。


2001年09月22日(土) 蘭学事始

 私は小学生の頃の数年間、若狭の小浜市で暮らしたことがある。私の通った小学校は城跡に建っていた。もともとは小浜藩の藩校だったのだという。この小浜藩は10万3千石の小藩ながら、藩主の酒井家は初代の大老を出したほど、幕府では重きをなしていた。

 杉田玄白(1773〜1817)はこの小浜藩の藩医だった。1772年3月4日、彼は一冊のオランダ語の医学書「ターヘル・アナトミア」を胸に忍ばせて、江戸の小塚原の刑場におもむいた。

 そこで解剖(ふわけ)された50歳ほどの女性の内蔵と胸中の本とを比べて、彼は西洋の医学書の人体図が精密に人体の内景を写していることに感嘆した。そして前田良沢などの同志をあつめて、この本を翻訳することを決意した。こうして完成したのが「解体新書」である。

 翻訳に当たって、だれもほとんどオランダ語を知らなかった。辞書もなく、オランダの通司もいないなかで、まったくのてさぐり。ウエインブラーフという語が眉毛だと気付くのに、一日かかったという。玄白は晩年に「蘭学事始」という本を著して、この苦労話を書いた。

 これは筆写本で、世の中に余り流通したわけでもなく、すぐに忘れられた。しかし、幕末になって、福沢諭吉が神田の古本屋で偶然この本を手にした。その本を読みながら、彼は先人の苦労を思い、涙が流れて仕方がなかったという。彼はさっそくこの本を自費出版して、広く世間に報せた。

 福沢諭吉が始めてオランダ人に会ったのは、1860年にオランダ製の咸臨丸に乗ってアメリカに渡ったときだという。サンフランシスコの近くに住むオランダ人医者が日本人に親しみを寄せて、艦長の木村摂津守とその通訳の福沢を自宅に招待してくれた。

 それは福沢にとってはじめてアメリカの家庭風景を見る機会だった。彼が何よりも驚いたのは、夫人が客をもてなし、主人が台所で立ち働く光景だったという。日本とはアベコベだと「自伝」に書いてある。


2001年09月21日(金) 挑戦する男たち

 1598年、秀吉が死んだ年、オランダから5隻の船が東洋を目差して出航した。「希望号」「信仰号」「信義号」「使命号」「慈愛号」である。6月27日の事だという。

 しかしこの船団は次々に不幸に見舞われた。まず、三ヶ月後に提督が病死してしまう。そして翌年4月1日にマゼラン海峡に達したときには、飢えと寒さが船団を襲い、多くの乗務員が死んだ。

 マゼラン海峡を渡ると、南太平洋である。ここで暴風雨にあい、まず「使命号」が脱落。南へ流されて食料が尽きたこの船は、結局チリ海岸に漂着し、スペイン人に投降して、「使命」を果たすことができなかった。

「信義号」はもっと悲惨で、86人のうち24人しか生存せず、しかもモルッカ諸島の(インドネシア)のチドール島でポルトガル人に拿捕されて、多くが殺されてしまったという。

「信仰号」も飢えと寒さで乗員の半数を失い、結局オランダに引き返すことを余儀なくされる。暴風雨の前に「信仰」の力も太刀打ちできなかったようだ。

 結局残ったのは、「希望号デ・ホープ」と「慈愛号デ・リーフデ」の二隻だけになった。ところが二隻ともすでに船長がいない。一人は病死し、もう一人はスペイン人との交戦で死んだという。

 この二隻の船の乗務員が今後の身の振り方について会議を開く。そしてその結論は初志貫徹して「日本」を目差そうというものだった。しかし、チリ海岸から日本までは遠い。

 1599年11月27日に二隻の船は、進路をひたすら北西に向けたが、3ヶ月後再び暴風雨に遭遇。「希望号」は行方不明になり、おそらく沈没したらしいという。

 こうして、「慈愛号」だけが太平洋の荒波を抜けて、日本にたどり着いた。1600年2月23日のことだという。場所は豊後の臼杵湾。110人いた乗務員はこの1年8ヶ月の航海の間に24人に減り、しかも生存者も多くは病んでいて、漂着したとき立って歩けたものは6人だけだったという。

 家康は大阪城でこの報を聞いた。そして彼らの代表を大阪城に呼ぶことにした。雇われ航海士でイギリス人のウイリアム・アダムス(1564〜1620)とオランダ人のヤン・ヨースティン(1556〜1623)がさっそく大阪城に出向いて、家康と対面した。

 家康はこのときはじめて「オランダ」という国の存在を知ったに違いない。そして艱難辛苦を乗り越えてやってきた船団の物語を聞いて、海の男たちの勇気に驚いたことだろう。

 家康は二人に幕臣の地位と、屋敷地を与えた。アダムスは三浦按針と改名して江戸日本橋近くの屋敷に住んだ。ヤン・ヨースティンの屋敷は現在の東京駅八重洲口の八重洲にあったという。この八重洲(やえす)という地名は、オランダ人「ヨースティン」の名前のなまったものだ。

 五隻のうち日本にたどり着いたのは「慈愛号」の一隻だけだったが、この一隻が日本の運命に大きな関わりを持つことになる。もし、「慈愛号」もまた太平洋の藻屑になっていたら、日本はオランダという西洋に開かれた安全な窓を持つことはなかっただろう。

 オランダは多くの犠牲をおかして、地球の裏側からはるばると日本に出会いを求めてきた。そのおかげで、日本はオランダという理想的な教師にであうことができた。日本はオランダから実に多くのことを学び、今も学びつつある。

(参考文献) 「オランダ紀行」 司馬遼太郎著 朝日文庫


2001年09月20日(木) 成功の条件

 成功する秘訣は何か。それは数多く失敗し、その失敗から多くのことを学ぶことだという。失敗は成功の母というわけだ。だから失敗を恐れていては成功はおぼつかない。

 たとえ99回失敗しても、100回目に成功すればよい。1回や2回の失敗でへこたれていては、成功のチャンスは得られない。失敗を恐れず、果敢に人生に挑戦する勇気が大切だ。

 とはいえ、失敗はダメージを伴う。だから失敗を恐れて一度も挑戦することなく、ただ無難に人生をやり過ごすことしか考えない人も出てくる。しかし、そうした無気力な人間ばかりであふれる社会はあまり魅力的な社会とはいえない。

 創造的で活力がある社会とは、失敗を許す社会である。たとえ失敗しても、再び立ち上がり、挑戦し続けることが出来る社会である。社会のバイタリティは、失敗についてどれほど寛容であるかにかかっている。

 そして、失敗に寛容な社会は、失敗に寛容な人々によってつくられる。他人の失敗について寛容な人々とは、つまり他人の成功について寛容な人々だと言ってもよい。


2001年09月19日(水) 愛のセーフティネット

 最近、両親の子供に対する虐待が増えている。とくに母親が荷担して、すさまじいまでの虐待を加えるケースが目立つようになった。こうして虐待を受けて育った子供は、心にひどい傷が残る。その傷を癒すことはなかなか難しいのではないだろうか。

 サーカスの曲芸師たちは、セーフティネットがあるので、思い切り芸を磨き、危険なわざに挑戦することができる。おなじように、母親というセーフティネットがあって、子供は安心して人生の冒険を楽しむことが出来る。自立心や独立心を育てるためには、こうした愛の培地が必要だ。

 彼らの安全を保障する庇護者がなかったら、子供は大胆な行動を控えて、自ら身を守るために萎縮するしかないだろう。そこからは積極的に人生に関わろうという主体性は生まれようがないし、他人や社会に対する信頼感も育ちようがない。

 両親が加害者や敵として子供を迫害するばあい、子供はどこに人生のシェルターを求めたらよいのだろう。そうした寄る辺なき子供たちのために、そして社会全体の幸せのためにも、私たちはお互いが安心して暮らせる「愛のセーフティネット」を早急に用意する必要がある。


2001年09月18日(火) 私の暢気眼鏡

 一昨日、百円ショップへ行った。広いフロアに日常品から食料品、衣服、玩具、文房具、インテリア、何でも置いてある。しかもすべて百円だというのに驚いた。

 私が欲しかったのは老眼鏡である。最近細かい字が見えなくなって困っていた。度数ごとにいくつかの籠の中に盛り上がって置いてある老眼鏡は、それぞれにデザインも多彩で、とても百円には見えない。

 さっそくいくつか試してみて、気に入ったのを二つ買った。一つは私自身のためで、もう一つは妻へのプレゼント。妻は40代だが、最近私と同じく、近くが見えにくて、遠くがやけによく見えるという。

 それにしても、百円ショップがこれほど魅力的だとは思わなかった。消費者にとっては有り難いことだが、これでどれだけの利益になっているのだろう。また、こうした安売りの店がふえることで、普通の店も一段と厳しい価格競争に巻き込まれることになるのだろう。

 バブル崩壊後、日本経済を立て直すうえでキーワードとなってきたのは、市場原理だった。これは弱肉強食の世界でし烈な競争を勝ち抜いた企業、個人が評価される仕組みである。

 市場原理というのは、市場におけるこうした弱肉強食の競争原理と同義と言っていい。そして、百円ショップはその最前線だろう。単に低価格だということだけではなく、それなりの品質の商品が豊富にそろっているところが強みである。

 しかし市場におけるこうした価格破壊の動きは、いずれ労働市場での賃金破壊つながっていく。モノが安くなると、企業の収益が減り、賃金がカットされたり、リストラが行われて、失業が増える。そうするとますますモノが売れなくなり、企業はさらなる賃金カットやリストラに走る。

 そしてやがて倒産が始まり、大量の失業者が街にあふれる。いわゆる「デフレスパイラル」だが、こうしたことを考えると、安売りショップの成功を、諸手をあげて喜んでばかりはいられない。価格破壊はやがて労働破壊、そして市場破壊へと進む可能性を秘めているからだ。

 さらにデフレによる収入の目減りは、借金の返済をむつかしいものにする。666兆円の公的債務を抱える政府や地方自治体をはじめ、巨大な不良債権をかかえる銀行や企業、そして住宅ローンにあくせくしている個人にとっても、デフレは恐ろしい疫病神だ。

 そこで最近注目されるようになったのが「調整インフレ論」である。あるていどのインフレを政策によって実現し、デフレを避けようというわけだ。しかし、インフレで物価が上昇しても、賃金は遅れて後追いするので、庶民の生活は苦しくなる。借金は目減りするが、貯金や保険や年金も目減りする。

 インフレもデフレもあまりありがたくはないが、現段階でどちらがよいかと問われたら、私はデフレの方をとるだろう。日本の物価や賃金は世界の最高水準である。物価や賃金が半分くらいになっても、そうあわてることではないのではないだろうか。百円の老眼鏡で新聞を読みながら、そんなことを考えた。


2001年09月17日(月) 大学改革の行方

 自然科学の分野でノーベル賞を受賞した日本人は、湯川秀樹、朝永振一郎、江崎玲於奈、福井謙一、利根川進、白川英樹の6人。それでは他の国のばあいはどうか。戦後だけに限っても、米国では180人、英国では44人、ドイツでは27人が受賞している。

 この数字だけで、日本の科学技術のレベルが低いと決めつけるわけにはいかないが、日本の閉鎖的な研究環境が、国際的な科学研究者を育て、これを評価する上でのマイナス要因になっているのはたしかだ。

 日本人は欧米の学者のように自己宣伝が得意でない。日本人同士でお互いの業績を認めて、他薦する体制もできていない。したがって、ノーベル賞を受賞するまでは無名で、もらってから文化勲章を受章したりする。

 今年3月に閣議決定した「科学技術基本計画」には、「今後50年間にノーベル賞受賞者を30人程度輩出すること」を、国の目標として掲げている。そのための方策として、文部科学省は、国立大学を、国の予算は使いながらも国の行政組織からは切り離す、いわゆる独立行政法人に移行する方針を決めている。

 また、民間の経営手法を取り入れるために、大学運営の意志決定に学外の専門家を加えることや、大学間の競争を高めるために、研究や教育の成果を第三者が評価するシステムを設けて予算配分に反映させることなど考えているようだ。

 たしかに日本の大学がさまざまな問題を抱えていることはたしかである。そしてその責任の一端は「自己変革」に意欲を持たなかった大学自身が追うべきこともたしかだ。しかし、政府主導のこうした外部からの改革がどれほど有効か疑問がないわけではない。

 ここで大切なのは、自らの反省点をふまえて、現場の教官たちが主体的に声を上げ、自主変革への意欲を見せることだろう。反省なき反対は、単に保身の徒と見なされても仕方がない。

 参考までに、独行政反対首都圏ネットのホームページに「文部科学省による大学序列表」が掲載されているので、リンクしておこう。文科省がかねてから大学を系列化して序列をきめていたことは公然の秘密だったが、このように明確に公開されたのははじめてだという。

独行政反対首都圏ネットホームページ
http://www.ne.jp/asahi/tousyoku/hp/nettop.html


2001年09月16日(日) 書くということ

 このインターネット日記も先月中に2周年を迎えた。一日も欠かさず、750日以上続いたことになる。我ながらよく書いたものだ。

 しかし頑張って書いたという印象はない。書くことは好きだったので、道楽で書き続けたと言ってもよいだろう。またそうでなければ、私のような意志薄弱人間が毎日書き続けられる訳がない。

 読むことによって、見えてくる世界がある。同様に、書くことによって開かれる世界がある。そうした世界に入り込むと、つい夢中になって、その虜になり、やめられなくなる。読書もそうだが、書くことも、私にとって一種の中毒症状といえるのかもしれない。


2001年09月15日(土) 9月11日の惨劇を思う

 NYの世界貿易センタービルと言えば、エンパイアビルにかわるアメリカの象徴だった。この110階建てのツインビルには5万人もの人々が働いていて、ウオール街のNY証券取引所にもほど近く、ユダヤ系も多く活躍する世界の金融センターで、日本企業も多数入居していた。

 9月11日午前8時45分、ハイジャックされた2機の航空機がこのビルに突っ込み、ビルは2棟とも崩壊した。行方不明者は3600人にのぼり、NY市は6000人分の遺体収容袋を準備しているという。

 世界貿易センタービルから開始された航空機を使ったテロは、さらにワシントンDCの国防総省にも襲いかかった。アメリカ軍の中枢であるペンタゴンもまた、一部が破壊されて炎上した。数百人の死傷者が出た模様だ。

 さらにペンシルベニアにもハイジャック機が突入した。この機はホワイトハウスを標的にしていたという情報もある。ホワイトハウス、ペンタゴン、世界貿易センターといえば、アメリカの政治・軍事・経済の中枢部だ。

 これはアメリカを敵視する勢力によって、周到に準備・実行された同時多発テロである。その犯行手口や規模の大きさから、米治安当局は即座に事件の黒幕として、国際テロリスト、ウサマ・ビンラーディン氏を思い浮かべたという。
 
 93年2月にも世界貿易センタービルは爆破され、多数の死傷者をだしている。主犯、ラムジ・ユセフは逮捕されたあと「ツインタワーなので片方を倒せばもう一つを押し倒して完全につぶせると思った」と自白していた。米当局はこのユセフ受刑者の言葉を思い出し、事件の黒幕だったビンラーディン氏が八年前にやり残したテロを仕上げたと考えたようだ。

 米上院は14日、報復のための武力行使を認める決議を全会一致で採択した。米政府はこれを受けて、テロ組織の黒幕とされるウサマ・ビンラディン氏が滞在するアフガニスタンへの軍事報復作戦の準備を進めているようだ。

 今度のテロ事件の背景には中東におけるアラブとイスラエルの対決がある。ビンラディン氏はサウジアラビアの大富豪の御曹司らしいが、湾岸戦争のときアメリカがイラクに軍事侵攻するのを見て、反米闘争を決意したという。今回の大規模なテロの背後に、イラクの関与がなかったと考える専門家はだれもいない。

 多発テロによって、ブッシュ大統領の支持率は30ポイント以上も上昇し、いまや90パーセントのアメリカ国民がブッシュを支持しているという。湾岸戦争のときの大統領は彼の父親のブッシュだった。そして、そのときの国防長官が副大統領になり、軍の指揮を執ったパウエルが、国防長官である。 

 アメリカの報復のための武力行使がどこまで及ぶのか、場合によっては湾岸戦争以来の緊張を世界に強いることになりそうだ。しかし、戦争による弾圧はあらたなテロ集団をうみだすことになりかねない。そのつけはいずれ払わされることになるだろう。

 報復ではなしに、もっと冷静に、世界の平和を実現するための方途を考えるべきである。そして何よりも日本は友人として、アメリカにそのことを進言し、具体的な援助の提案をするべきだろう。


2001年09月14日(金) コトの世界

 昨日は「モノの世界」について書いた。モノとは実体であり、主語となりうる存在である。しかし「モノ」がその霊力を失うとき、それはたんなる客観的存在としての「物」になる。

 現代の私たちは「モノの世界」に生きているという実感は乏しく、むしろ「物の世界」に生きている。ニーチェがいう「神は死んだ」というのはこのことだろう。すなわち、存在には二通りの在り方がある。
�� モノとして在ること
�� 物として在ること

 しかしここに、もうひとつ別の世界がある。それが「コトの世界」である。コトとは出来事(現象)だが、しかし単なる出来事ではない。それは、人間の精神活動によって生命を与えられた生きた現実である。

「コトがコトとして成立しうるには、私が主観としてそこに立ち会っているということが必要である」(木村敏「時間と自己」)

 たとえば、いま私たちの目の前で一匹の蛙が池の中にぽちゃんと飛び込んだとする。それはひとつの何でもない「出来事」である。しかし、それをみた私が芭蕉の有名な俳句を思い浮かべたとしよう。

   古池や 蛙飛び込む 水の音

 そうすると、「蛙が池に飛び込んだ」という現実が、また違った風に生き生きと体験される。なぜなら、その出来事に私という存在が関与し、立ち会っているからである。それはもはや単なる客観的なよそよそしい出来事としてではなく、私という存在によって意味を付与された、もっと精彩のある主観的な「コト」として存在する。

 そうすると、モノの場合と同じように、コトについても、二通りの存在様式が考えられる。
�.灰箸箸靴討△襪海�
�∋�としてあること

「モノの世界」とは私たちの向こう側にある「客観的世界」である。これに対して、「コトの世界」は私たちの側にある「主観的世界」だということができる。

 そして、「モノ」がモノとしての客観力を失うとき、「物」としての存在に還元されるように、「コト」もまたそこに立ち会うべき主観の力が衰えるとき、それは「事」へと還元される。

 しかし「コトの世界」が単なる主観的存在かというとそうではない。それはあくまでも客観的存在として私たちに意識される。だから、それは主観と客観をそれぞれ縦糸と横糸として織り上げられた共同作品だと言える。

 そうすると、「客観−コト−主観」という図式が思い浮かぶ。しかし、ここで肝心なことは、「まず客観や主観があって、それらの働き合いによってコトの世界が産み出される」と考えるのは、正しい認識とはいえないということである。ここで思い浮かぶのは、私を哲学に目覚めさせてくれた、つぎの言葉である。

「自我があって経験があるのではない。経験があって自我があるのである」(西田幾太郎「善の研究」)

 西田がここで「経験」と言っているのは、私たちの言葉で言えば「コトの世界」である。だから西田の言葉は、「主観や客観があってコトの世界があるのではない。コトの世界がすべてであり、主観や客観はそこから推論された形而上学的観念(ドグマ)である」という風に敷衍される。

 そこで再び、基本的な存在様式である、
�� モノとしてあること
�� コトとしてあること
について考えてみよう。

 西田的経験主義の立場に立てば、�△�すべてであり、コト(経験)を第一義的に考えなければならない。そうすることで、首尾一貫した哲学の体系がうち立てられる。すくなくとも「善の研究」にみられる初期の西田はこのように考えていたのだろう。

 しかし、たとえそれが正しい哲学的認識であっても、実際のところ、「モノの世界」は「コトの世界」のただ中に、その彼岸として立ち現れてくる。私たちは「コトの世界」を深く経験するにつれて、いやおうなく、「モノの世界」に対面させられ、そのまか不思議な威力を再認識することになるのではないだろうか。


2001年09月13日(木) モノの世界

 北さんから、なぜ「無常と言うこと」とは言うのに、「無常というもの」とは言わないのか、質問を受けた。Tenseiさんによれば、「無常観というもの」という言い方はあるとのこと。

 私の考えを言えば、「モノは主語となりうる実体をあらわす」「コトはその実体の在り方(状態)をあらわす」ということだ。実体(主語)は実際に存在するもの(固有名詞、一般名詞)ばかりではなく、「真・善・美」や「無常観」と言った理念(抽象名詞)もふくむ。

 こう考えれば、「無常」がコトに、「無常観」がモノに分類される理由ががわかる。つまり、「無常」というのは状態概念だから、コトでうけるのが相応しいわけだ。だから、もともと「○○ということ」というのは日本語として少し無理がある表現で、「○○であること」というのが自然である。

 なお少し付け加えると、「無常であること」という風に、コトをつけることで、状態は名詞化(実体化)される。だから、「人間というモノ」と言う場合、人間=モノだが、「人間であること」と言う場合は、人間=コトではない。「人間である」という状態を名詞化しているのである。

 そうすると、世の中には二つの世界が存在することになる。すなわち、「モノの世界」と「コトの世界」である。今日は「モノの世界」について、もう少し考察してみよう。

 たとえばここに大きな岩があるとする。そうすると、昔の人は一体誰がこんなに重いものを運んできたのか不思議に思ったに違いない。そして人知と人力を越えた世界をそこに感じた。そうした人知と人力を越えた世界が「モノの世界」である。

「モノの世界」は今日でいう「物質の世界」とは少し違っていて、それは、同時にまか不思議な神々の支配する世界でもある。昔の人は、人間の向こう側にある人力の及ばない世界に畏敬を覚え、これを崇拝した。森や川や岩などがそうである。蛇や熊やキツネでさえも信仰の対象になった。

 人間も死者はもうこちら側の世界に属さないので、一種のモノということになる。時には生者でさえも、モノになった。生き霊とか鬼がこれである。源氏物語を読むと、いたるところにこうしたモノノケが顔を出している。こうした鬼やモノノケについての恐ろしい話が、すなわち「モノ語り」であった訳だ。だから「源氏物語」はたしかに「モノ語り」の資格をそなえている。

 こうしたモノの世界は近代が始まり、人知や人力が拡大するとともに、急速に衰退していった。「モノ」は単なる物質上の「物」になり、もはや畏敬の対象ではなくなった。こうして「モノの世界」は「物の世界」へと姿をかえていった。「モノ語り」も「物語」になって、つまらなくなった。

 しかし、今日でも「モノの世界」がまったく滅びたわけではない。たとえば、私たちが日常的に使う言葉にもその痕跡が残っている。私たちは「子供は親に反抗するモノだ」という風な言い方をする。このとき、モノという言葉は「私たちの力では変えることができない掟」のようなものを表している。モノはこうして、北さんのいう「普遍的原理」に結びつく。

 北さんの質問をもう一度繰り返せば、「諸行無常」もこうした普遍的原理だから、「モノの世界」に属するのではないかということだ。そうすると「無常というモノ」という言い方ができる筈だが、まずこういう言い方は一般的ではない。何故だろう、ということだった。

 その答えは、最初に述べたように、「無常」というのがそもそも「状態概念」だということだ。しかし、コトによって名詞化すると、そこになにかしらの「モノ的要素」が付け加えられる。さらに「無常であること」=「無常」と言う風に進んで、さらにこの傾向が進むと、それは「美」や「善」といったイデアの世界に入っていく。

 こうした「無常」のモノ化がさらに進むと、「無常というモノ」という表現が可能になってくる。北さんの頭の中では、この過程がかなり進んでいると思われる。しかし、一般人の頭の中ではまだそこまで「モノ化」が進んでいない。

 したがって私たちは一般に「無常というもの」という言い方をしないで、「無常ということ」と言う。そして、私はこれが正しい日本語であり、また正しい世界の認識の在り方だと思っている。

 その理由については、「人間を守るもの」のなかにも書いたが、「実体のないものを実体とみなす」ことに反対だからだ。たとえば「国家」がそうであるように。「モノの世界」から「コトの世界」へというのが仏教の「空観」の基本だが、「コトの世界」から「モノの世界」への移行は、迷いの世界への逆行ではないだろうか。


2001年09月12日(水) 普通であること

 私はラーメンが好きだ。学校の近くにも、ラーメンのうまい店が何軒かあって、北さんたちと食べに行く。ラーメンは手頃な値段だし、焼き豚やネギなどが入っていて、栄養のバランスも悪くはなさそうだ。それに注文して待たされることが少ない。

 家の近くにも家族で行きつけの店がある。年輩の主人が家族を使って経営しているその店は、以前は屋台をしていたらしく、その頃の写真が飾ってある。屋台の時のままの、ごく普通の味のラーメンである。とくにこれという個性のない味だが、この店はいつ行っても客で賑わっている。駐車場に入れない時は、あきらめて前を素通りするしかない。

 一年ほどまえ、その店のすぐ近くの広い空き地に、にわか作りの大きなラーメン屋が開店した。そこの駐車場は広々としていて、いくらでも客が入れそうである。ところが、目と鼻の先にあるこの新しいラーメン屋にあまり客がついている様子がない。

 先日、いきつけの店が一杯だったので、はじめて家族でこの新しい店に入ってみた。広々とした空き地の駐車場に車を止めて、店の中にはいると、先客はわずかに二人。何となくものわびしげにラーメンをすすっている。

 しかしよく冷房の利いた店内は快適で、しゃれた作りの内装がしてあり、テーブルや椅子もゆったりしていて、居心地はなかなかよい。メニューを見ると、結構いろいろな種類のラーメンがある。私は普通のしょーゆ味のラーメンを頼んだが、妻や娘たちはそれぞれ別々の特製ラーメンを頼んでいた。

 メニューに「当店のラーメンは個性的であることが自慢です」と書いてある。私はそれを読みながら、何となく悪い予感がした。正直言って私が食べたいのはごく普通のラーメンであって、あまり個性的なものであってはこまる。それではラーメンを食べた気がしない。

 はたして出てきたラーメンは、なんだかいつものラーメンらしくない。卵が入っているのも変だし、味もストレート過ぎて、ラーメンらしいこくが出ていない。妻や娘が注文した特製ラーメンは、もっと凄くて、シチューのようなごてごてした見かけで、私にはとても合いそうにない。妻や娘に「どうだ」と訊くと、「これでは客が来ないはずだ」と言う。

 見渡すと、いつのまにか先客がいなくなっていて、広い店内に私たち一家4人になっていた。三人ほどいる店の従業員もひまそうにしている。「こんな訳の分からない個性的なラーメンではなくて、どうして、もっと普通のラーメンをださないのかしら」と私は不思議に思った。私のようにごく普通のラーメンが食べたくてやってくる人は多いと思うのだ。

 しかし、考えてみれば、「普通ということ」が、本当は一番難しいのかも知れない。行きつけのラーメン屋の主人は60歳を過ぎていて、いかにも年季が入っているという感じである。新しい店の方は、脱サラをしたばかりですという風な中年の男性だ。

 一口に「普通」というが、その「普通」を実現するために、職人のわざが必要なのだろう。「個性的」ということは、ときとして「未熟」であることの言い換えでしかない場合がある。これは何もラーメンに限ったことではなさそうだ。


2001年09月11日(火) オランダとギリシャ

 オランダについて書きながら、ときどき私の頭にギリシャのことが浮かんだ。オランダはギリシャに似ている。早い時期に市民社会や民主主義が成立したこと、人間中心主義の合理的で自由な社会であったことなど、いろいろ共通点がある。

 ギリシャ人にとってのエーゲ海はオランダ人にとっての北海だろう。オランダの諸都市も又、海上交通によって栄えた。ギリシャはペルシャの専制主義やローマの帝国主義に抵抗したが、オランダもスペインの専制支配に抵抗し、イギリスと覇権を争った。

 ニューヨークは旧名がニューアムステルダムであるように、オランダ人の植民都市だった。オランダ人が最初にそこにやってきて町を造り、まわりに外壁をめぐらせた。今でもウォール街という名前に、その痕跡が残っている。地中海のギリシャの植民都市がローマ帝国よって奪われたように、オランダの植民都市も七つの海を支配したイギリス帝国によって奪われた。

 オランダもギリシャもヌードの国だというのも似ている。ギリシャ人は一糸まとわぬ姿で体操や運動をし、その肉体美をきそって大理石の像にあらわしたが、オランダ人もまたヌードに寛容である。その精神性が明るくて開放的だという共通点が感じられる。

 ルネサンスは文芸復興と訳される。具体的に言うと、ギリシャ的な人間中心主義の文化の復活である。14世紀のイタリアがその発祥だが、毛織物工業や北海貿易で経済的に繁栄してオランダでも、イタリアとほぼ同時期にその運動が始まっている。

 油絵の技法を改良し、フランドル画派の創始者ともなったファン=アイク兄弟、16世紀になると「農民の踊り」で知られるブリューゲルが、農民や遊ぶ子供など,素朴な民衆の群像をえがいた。そして、「愚神礼賛」でカトリック教会を批判したエラスムスらが有名だ。

 エラスムス(1469?-1536)はルネサンス期最大の人文主義者(ヒューマニスト)だと言われる。ロッテルダムに生まれ、ギリシア・ラテン語を基礎に聖書、教父や古典古代の著作を研究し、古典の校訂版を出版。カトリック協会の浄化、キリスト教信仰の純化を志し、新約聖書ギリシア語原典を精力的に刊行した。

 彼は著作「痴愚神礼讃」(1511)で社会や文化の歪みを痛烈に風刺した。彼のキリスト教ヒューマニズムは福音主義や宗教改革への道を開いた。彼は晩年は国際人として各国を訪れ、最後はスイスのバーゼルで没している。ルターはエラスムスの思想に影響されて、宗教改革をはじめた。

 このように、思想的にもオランダはギリシャの影響を濃厚に受け、その歴史や風土に共通するものも多い。ギリシャびいきの私がオランダに惹かれたのも自然な成り行きだろう。


2001年09月10日(月) オランダの歴史(後編)

 17世紀のオランダは、世界に先駆けて「市民社会」を作り上げた。そしてオランダ人は、どの国とも気負いなく貿易をした。オランダという母国に縛られることなくどこへでも出かけることができた。つまり環境や因習にとらわれない自由で先進的な気風がオランダの国民性として培われた。オランダは世界に進出し、ついには極東の日本にまでやってきた。

 北海のニシン、東南アジアの香辛料、大西洋の奴隷、バルト海からの穀物や造船材料はすべてオランダ経由で西ヨーロッパに輸入され、文字通り世界の金融がアムステルダムに集まり、世界史で初めて貿易立国としての繁栄を勝ち取った。アムステルダムのみならず、デルフト、ロッテルダムといった地方都市も繁栄を謳歌した。

 フランス生まれのデカルトはオランダに来たとき、人はいかに自分が育った環境の因習にとらわれているのかを知った。彼は晩年の20数年間をオランダで暮らしたが、彼の近代合理思想はこうしたオランダの精神風土の賜だと言える。

 イギリスの「立憲民主主義」の思想家ジョン・ロックも清教徒革命の後迫害されて、5年余りをオランダで過ごしている。オランダ生まれのスピノザはユダヤ教会から破門されても、母国を離れることなく、アムステルダムで不自由なく思索を続けることができた。

 こうしたオランダと組んでスペインと対抗したイギリスは、その後もオランダとの関係を深めた。当時の英国はまだ後進国で、羊毛が最大の輸出品であった。それをより価値の高い毛織物などにして輸出するには、オランダの進んだ技術が必要である。

 そこでエリザベス一世はオランダから毛織り職人を招き入れ、毛織物に関する生産・販売に関する「独占的実施権」を与えた。そしてその見返りに女王は、上納金を課した。

 その後、英王室は上納金目当てに独占的実施権を乱発して、トランプの製造・販売まで特定の業者が独占するまでになり、ついに議会は1624年に「専売条例」を制定して、発明と新規事業に限って特許権を発行できるようにした。この専売条例が、近代特許法の原型と言われる。

 専売条例のもとで、新しい技術の発明者は、最長14年間の独占権を認められ、その間に収入を得ることができる。その期間が過ぎれば、独占権は消滅し、多くの業者によってその技術が普及する。このように特許は、技術の革新と普及を促進した。

 イギリスではこの条例のもとで、ジェームス・ワットの蒸気機関や、リチ
ャード・アークライトの水車紡績機など、画期的な新技術が次々と発明され、英国に産業革命をもたらした。こうして次第にイギリスの経済力がオランダを浸食していった。

 17世紀半ばになると世界的にイギリスの軍事的覇権が確立し、イギリスは続いて経済的な覇権をかけてオランダを挑発してきた。航海条例(1651年)が出され、オランダはイギリス領での商業活動を禁止されてしまう。

 17世紀の経済的繁栄のなかで民主化が進んだオランダは、オラニエ公家による総督制度を廃止し、強力な指導体制を欠いていた。こうした状況で、オランダは二度にわたってイギリスと戦争をするものの、圧倒的なイギリス軍の前に敗北を喫して、北米植民地を譲り渡さなければならなかった。こうして世界貿易の中心はアムステルダムからロンドンへと移った。

 この状況を虎視眈々と眺めていたフランスの太陽王ルイ14世は「ライン川まではフランスの領土でなければならない」と主張して、オランダに迫ってきた。イギリスに援助を求めたが得られず、ここに至ってオランダは、オラニエ公家の当主ウィレム3世を再び総督として迎え入れる。

 ウィレムはブランデンブルクのホーエンシュタウフェン家、そしてオーストリア、スペインの両ハプスブルク家と結んでブルボン王家を包囲し、太陽王の野望を食い止めた。そしてここにウィレムを始祖とする王国としてのオランダが成立する。現在のベアトリクス女王も、オラニエ家の出である。

 1689年、名誉革命によってカトリック信者のジェームス2世を追放したイギリスは、ウィレムに新国王になることを求めた。こうして彼はイギリス国王ウィリアム3世として、オランダ・イギリス両国の国王となり、英蘭の基礎的な関係がこのとき築かれた。

 その後、オランダ王国はナポレオン戦争で併合されたり、第二次世界大戦ではおよそ5年にわたってナチスドイツの支配下に置かれた。戦後主権を回復したオランダは、英独仏という西欧の3強国の戦争による悲惨を繰り返さないために、ベルギーなどとともに一貫してヨーロッパ統合を推進する役割を果たしてきた。そして1992年のEU条約は、オランダの田舎町、マーストリヒトで締結された。


2001年09月09日(日) オランダの歴史(前編)

 今日と明日の二回に分けて、オランダの歴史を紹介しよう。今日はヨーロッパの辺境に位置していたオランダが、世界の中心に躍り出て、「栄光の17世紀」を築くまでの物語である。

 オランダが歴史上に登場するのは、紀元前1世紀、カエサルの『ガリア戦記』だ。カエサルはゲルマン人とも何度か戦い、ケルンなどの植民市をつくった。そのなかに今のオランダやベルギーが「低地ゲルマニア」という地名で登場する。

 そのころのオランダは湿地で、農業ができないので、人々は舟で北海に漕ぎ出して魚を獲って暮らしていた。文明国家であるローマ人のカエサルにとって、そこは征服するほどの魅力に乏しい土地だった。

 その後、オランダ人は根気強く干拓を続け、排水と水運のための運河を作り、耕地を増やして行くが、彼らの生活の糧は、中世に入っても北海で獲れるニシンだった。そんなオランダ人を豊かな高地にすむヨーロッパ人は「ゼーゴイセン(海の乞食)」と呼んでからかった。 彼らは、航海術でバイキングに張り合い、海運と貿易に乗り出す。13世紀にフランドル地方の毛織物が交易商品の中心となると彼らの力は高まり、1437年、高地ゲルマニアの商業組織ハンザ同盟と戦って勝利を収め、以後しばらくバルト海から大西洋に至るまでの貿易を手中に収めた。

 しかし15世紀になると、フランスのブルゴーニュ家の支配をうけるようになり、さらに16世紀には当時世界最強の軍事力をもつスペインのハプスブルク王家の領土となり、熱烈なカトリック信者だった国王フェリペ2世の統治下で、新教国オランダは受難の時代を迎えることになる。
 
 旧教は教会が絶対であり、個人による聖書解釈など許されなかった。自宅で聖書を読んでいるだけで、異端とみなされ処刑された。こうしたスペインの弾圧に、1568年、総督だったオラニエ公ウィレムが立ち、独立戦争を始めた。このとき、独立軍の士気を高めるために歌われた「ウィルヘルムス」が現在のオランダ国歌である。

 もっとも、オランダ軍はスペイン軍に連戦連敗、1584年にはウィレムが暗殺されてしまう。オランダの要請をうけて、イギリス女王エリザベス1世は1585年、議会の反対を押し切ってオランダ支援を決定。イギリスはスペインとの全面戦争に突入する。

 1588年、スペインの無敵艦隊を英蘭海軍の連合軍が撃破したことで戦局は両国に有利にかたむいた。そして1597年にはウィレムの息子マウリッツ率いる独立軍がネーデルラントからスペイン軍を追い出し、事実上の独立を獲得する。

 17世紀に入ると、新興国イギリスが世界各地でスペインと軍事衝突を繰り返し、勝利を確実にしつつあった。この間、オランダの商人たちは両国に大量の資金を融通、世界各地に商品を売りさばき、オランダは「栄光の17世紀」と呼ばれる繁栄を謳歌することになる。



2001年09月08日(土) 多元社会の政治学

 オランダには汚職がないらしい。政治のすべてのプロセスがガラス張りになっていて、そうしたスキャンダルが起こる余地がないからだという。現在の首相は労働党のビィム・コック氏で、大臣たちはいずれも40歳代の颯爽とした若手である。議員もまた能力主義で選ばれており、年齢の比較的若い議員が多いという。

 ちなみに国会議員に占める女性議員の比率は36.0%で、調査対象177国のなかで第5位の位置をしめている。日本の女性議員の比率は衆院が4.6%で92位だという。フランスは10.9%(56位)と低いが、今年1月に世界初の「男女同数法案」が下院を通過し、これから大幅な改善が行われそうだ。オランダも元来女性進出の遅れた国だったが、最近は改善が著しい。

 こうしたオランダにおける女性進出は、最近の経済的繁栄とあわせて、1982年に政・労・使三者で結ばれた「ワッセナーの合意」によるワークシェアリング政策の賜だが、ビィム・コック氏はこれを成立させた労働側の立て役者だった。

 ワッセナーはハーグの郊外にある田舎町で、高級住宅街があるところ。オランダ経団連会長の自宅もここにある。そこへ当時の首相と労働組合連合の会長だったビィム・コック氏がまねかれ、三者で雇用確保を最優先させるとりきめがなされた。

 その頃オランダは不況の最中で、12パーセントという最悪の失業率に苦しんでいた。そこでビィム・コック氏はこの会談に臨むに当たり、労働者に対する大規模なアンケート調査を行った。その結果、労働者の過半数がパートタイム労働の促進に賛意をしめしており、たとえ賃金が下がっても、労働時間を減らして、家庭と仕事の両立を望んでいることがわかった。

 こうした労働者の意向を背景に、この世界の労働界でも画期的なワークシェアリングの政策が産み出された。そしてこの政策が見事に成功して、10数年後の現在、ヨーロッパの多くの国でいまだに失業率が10パーセントを超えている中で、ひとりオランダの失業率は3パーセントを切ろうとしており、経済は「オランダの奇跡」とよばれる活況を呈している。

 オランダのスキポール空港は5本の滑走路を持ち、そのうちの4本が4000メートル級である。日本の成田空港や関西空港が4000メートル級の滑走路を1本ずつしかもたないlことを考えると、その充実ぶりはめざましい。ビジネス誌はスキポール空港をヨーロッパ一、あるいは欧米一の実力を備えた空港として上げている。

 空の玄関口とならんで、海の玄関口となるのが、ロッテルダム港だが、ここでは年間3億トンの貨物を扱い、ヨーロッパ域内の3億5千万人の市場の玄関口になっている。ヨーロッパのどの港よりもコンテナの扱い量は多く、その規模は世界で二位である。しかもロッテルダム港からスキポール空港までは80キロしか離れておらずその抜群のネットワークのよさを誇っている。

 オランダはIT革命でもヨーロッパの先端を行っており、オランダのパソコン普及率は50パーセントを越えている。アムステルダムの街には公衆電話ならぬ公衆インターネットが点在しており、市民生活のなかに浸透している。

 なおオランダ人の外国語力はヨーロッパでも飛び抜けており、たとえば英語が話せる人の割合はベルギーやドイツが41パーセント、フランスが32パーセントに対して、オランダは77パーセントに達する。

 ドイツ語はフランスが9パーセント、イギリスが5パーセントなのに対して、59パーセントと、たいていのオランダ人が母国語のオランダ語の他に、英語やドイツ語、もしくはフランス語を話すことが出来る。国際的な情報が飛び交うインターネット時代に、こうした多元語力は大きな武器であり、みえないインフラとしてオランダの経済の躍進を支えているようだ。

 こうした中で、労働党を率いるビィム・コック氏が、1994年からキリスト教民主同盟政権にかわりオランダの首相を務めている。与党の労働党はオランダ最大の政党だが、下院150議席のうち45議席を占めるに過ぎない。したがって、自由民主国民党や民主党と組んで、連立政権をつくっている。野党ではキリスト民主同盟が29議席、グリーン・レフトが11議席、あとはマイナーな政党が8つほどある。

 もともとオランダの政党は、右派の自由主義政党、中道のプロテスタント政党、同じく中道のカトリック政党、左派の社会民主主義政党と4つのブロックに分かれていた。そして政党を頂点に、これらの支持者はそれぞれ別の社会グループを形成した。

 各社会グループごとに、学校、病院、保険、労働組合、雇用者団体、農民団体、新聞、小売店など、人々の生活は各々のグループの中で編成されてきた。こそしてのように宗派別、イデオロギー別に分離した社会は「柱状社会」と呼ばれている。オランダはこの4つの柱が協調することで、多党分立ながら、政治的な安定を保ってきた。

 こうした社会構造が根底にあるかぎり、政党も多極化せざるをえない。アメリカやイギリスのような二大政党制とはひと味違った民主主義のかたちがオランダをモデルとして考えられる。実際、オランダの政治学者レイプハルトは、こうした複数の極をもち、柱状社会の「柱」の協調によって産み出される民主制度を「多極共存型デモクラシー」と名付けている。

 オランダには、政府に政策を直接提言できる審議会や諮問機関のネットワークが張り巡らされている。審議会は背不の規則により設立され、政府は諮問内容についての対応を回答する法的義務を持ち、諮問委員会は、各省が独自に設定するもので、NGOなどを指名する場合が多いという。

 オランダはNGOの活動が活発で、諮問委員会での政策提言の他、社会福祉サービスの提供や、ODA (政府開発援助) の代行機関としての役割もある。NGOは政府に補助金も含め全面的に支援を受けているが、ODAの代行に関しては選定されたNGOの各プロジェクトは政府の事前承認なしに、事後の年次報告でよしとされるなど、その自由は保障されている。

 オランダはNGOをはじめとする様々な機関のネットワークが政府の手足となり、また時には頭脳となって活動している。国民のほとんどはこうしたネットワークに参加し、その活動を通して日常的に政治や社会に影響を与えることができる。

 政党がこうした確固とした支持基盤をもち、社会の中に根を張っていることが、オランダの柱状政治の特色だと言える。政策がなく、政略ばかりという日本の政治家と違っていて、オランダの政治家は政策を重んじるので、日本のように選挙の最大勢力が「支持政党なし」で、そのときどきの流れで気分的に投票するということはない。こうしたこともオランダの政治をわかりやすく質の高いものにしている。

 オランダが多極型社会なら、アメリカやイギリスなどのアングロ・サクソンは階級対立の2極型社会、そして日本はいまのところ一極集中型社会と呼べるかもしれない。ある意味で多元的価値を尊ぶ多極型共生社会のオランダとは対照的な日本である。しかしこれからは日本も価値の多様化が進行し、政治も多極化していくものと思われる。そうした時代の変化を見逃さずに、日本の風土にあった自前の民主主義を、私たちも将来に向けて構築して行くべき時なのかも知れない。

 ところでオランダには汚職政治家がいないが、公務員の汚職もないという。警察官の不祥事などもなく、もの腰のやわらかさは特筆にあたいするほどらしい。「物語オランダ人」の中で、倉部誠さんはこう書いている。

「おなじ警察官でも、これが隣国のベルギーへ行くとたちどころに、警察の構造的腐敗は当たり前、同じ政党に属する同僚の腐敗を調査していた元副首相が暗殺され、その政党が組織的に証拠隠滅まではかるのですから本当に不思議です」

 オランダに住んでいるから不思議に見えるのだろう。日本に住んでいると、政治家や公務員の不祥事は当たり前で、汚職がないオランダの方が不思議に思われる。麻薬やセックスに寛容なオランダで、政治家や公務員の汚職や不祥事がないというのも信じがたいことだ。しかし、これも包み隠すことを嫌い、すべてガラス張りにするという、開放的な国民性からくるのかも知れない。



2001年09月07日(金) 文化大国オランダ

 オランダは哲学者スピノザを生んだ。スピノザは「国家とは国民を支配するためにあるのではなく、国民に自由を保証するためにあるのだ」と書いている。

「国家の究極の目的は支配することではなく、また人間を恐怖によって束縛し、他者の権利のもとに置くのではなく、むしろ逆に、各人を恐怖から解放し、そして各人ができるだけ安全に生活できるようにすること、言い換えれば、生活と活動のために、各人の自然権を、彼ならびに他人を損なうことなしに、もっともよく保持できるようにすることである」

「私はあえて言う。国家の目的は、人間を理性的存在者から、野獣あるいは自動機械にすることではなく、むしろ反対に人間の精神と身体を全く完全にその機能をはたし、彼自身が自由に彼の理性を行使し、憎しみ、怒り、欺瞞をもって争うことがないように、また相互に敵意を抱くことがないようにすることである。それゆえに、実に国家の目的は国民を自由にすることにある」(「神学政治論20章」スピノザ)

 スピノザはデカルト哲学の影響を受けているが、デカルトも母国のフランスを追われて晩年の20数年間をオランダで過ごしている。有名な「方法序説」など、世界を変える著作がこの地でかかれた。

 オランダは世界に先駆けて独立戦争を戦い、市民社会を創造した。デカルトやスピノザの哲学思想も自由と平等を尊ぶオランダ人であればこそ、広く受け入れられたのだろう。そして彼らの哲学もオランダの合理的な生活様式から多くを学んで出来上がったのに違いない。

「ユートピア」を書いたイギリス人のトーマス・モアもオランダ大使だったことがある。また、モアの後継者ともいうべき人民主権説の思想家ジョン・ロックは名誉革命までの4年間をオランダに亡命していた。彼の「市民社会論」はオランダ研究のたまものとも言える。

 私がもっとも注目する「遊びの哲学」を展開した「ホモ・ルーデンス」のホイジンガーもオランダ人である。彼は文化は世知辛い生存競争からではなく、遊びのなかから生まれると主張している。オランダはルーベンスやフェルメール、ゴッホなどの芸術家も生んでいる。物理学者ではホイヘンスやローレンツなど。

 自然科学関係のノーベル賞受賞者の数を見ると、オランダが13人で、日本は6人である。オランダの人口の割合から行くと、日本の16倍以上の数だ。九州とほぼ同じ面積を持つ小さい国なのに、歴史に名をとどめる偉人や天才を輩出している。その上、普通の人々がみんな個性的で輝いているのが、何よりもすばらしい。


2001年09月06日(木) 自転車天国オランダ

 高さが50メートルを超える丘を、オランダでは「山」とよぶ。これは半分冗談らしいが、そのくらい起伏に乏しい平地の国である。したがって、坂が少ないので、自転車が走りやすい。

 オランダにはどんな小さな町にでも、自転車専用道路がある。赤いアスファルトで舗装されている事がおおく、自転車はここを車や歩行者に気兼ねすることなく走る。オランダ以外の国では自転車専用道路が普及していないので、これがあるかないかで、たとえばドイツとオランダの国境がわかるという。

 郊外へ行くとサイクリングコースが整っていて、美しい田園地帯を巡る自転車専用のサイクリングロードを、ところどころに立っている標識に従って走るだけで、地図などなくても目的地に達するという。こうしたインフラが整っているので、自転車は多くの国民に愛されている。自転車の数の方が人口よりも多いらしい。

 自転車道路があるので、歩道は歩行者の専用となる。日本のように歩行者は自転車に怯えながら歩かなくてもすむ。前にも書いたが、オランダではすべて電線は地下に埋められているので、電柱もなく、考え事をしながら歩いていても、自転車や電柱にぶつかるということはない。

 このように自転車族や歩行者にとってオランダは天国だが、自動車族にとっては町中の環境はあまりよくないようだ。先ず、歩道のない道路の多くは進入禁止だし、車道があるばあいでも一方通行である。

 とは言え、都市の外へ出ると、高速道路が完備している。環状線も発達しており、そのネットワークは国土を網の目のように覆い、ヨーロッパの主要都市へとつながっている。ベルギーやフランスなどとの国境は車で走っているとわかるという。道路の舗装が悪くなり、でこぼこが感じられたら、それはオランダから外に出た証拠だという。

 田園地帯を走る高速道路は、ともすると環境破壊の元凶になるが、オランダの場合、自然保護に細心の注意がはらわれている。オランダの高速道路にはグリーンブリッジと言って、ウサギなどの動物用の橋や、蛙などの生物のトンネルが作られていて、生態系への影響が考慮されている。

 ヨーロッパ有数のスキポール空港とロッテルダム港をもつオランダは、貨物の輸送量も多く、ヨーロッパの輸送量の30パーセントがオランダとの国境を越えている。こうした産業の動脈として、高速道路ばかりではなく、有名な運河や、鉄道もあり、こうした総合力がオランダの経済的競争力の源泉になっている。

 しかし、オランダは決して産業優先ではない。産業と自然や人間との調和を考え、人々にゆたかな生活環境を提供することを優先させている。そうした考え方が、自転車専用道路を世界に先駆けて完備させ、「自転車天国」オランダを実現させたのだろう。


2001年09月05日(水) 女王の国オランダ

 オランダは自由と平等の国である。カソリックの支配にも屈せず、スペインの覇権主義にも抵抗した。そうした歴史の中で戦い取られたのが「自国の独立」であり、「自由と平等」の民主主義だった。

 ところがそのオランダが共和国ではなく、れっきとした君主国であるというのが、また面白いところである。一切の上下の関係を認めず、命令や強制を嫌う国民性とこうした君主制がどのように両立し調和しているのか。この問題を解く鍵は、オランダの国の成り立ちにある。

 オランダの王制の始まりは、スペイン独立戦争を果敢に戦い、最後は暗殺された国民的英雄のオランニュ公ウイリアム一世に始まっている。そして現在の君主であるベアトリクス王女もオランニュ家の生まれだ。オランダ人は自分の国の歴史に誇りを持っている。そしてそれは同時に、オランニュ家への尊敬と愛情に結びついている。

 オランダの君主は日本の天皇やイギリス、スエーデンの君主とはちがって、随分庶民的である。ベアトリクス女王は随員もつれずに市電に乗り、一般人と同じようにデパートで買い物をするという。女王だということで偉ぶることはない。そこには君主という堅苦しさや威厳は感じられない。

 ちなみに日本の初代の天皇は神武だというが、この人物がどんな人物かよくわからない。わかっているのは大陸からやってきた渡来人の系統らしいということくらいだろう。そして天皇の支配を正当化するために、神懸かり的な神話が利用されてきた。

 イギリスやスエーデンの王朝にしても、もとを質せば外部からやってきた征服民の王である。この点、オランダはちがっている。しっかりと自国の歴史に足場を持ち、たしかな由来を持っている。そして、尊敬と敬愛を受けるだけの実績を持っている。まさしく国民の統合の象徴であり、民主主義の象徴なのだ。

 国民の祭日の一つが、4月30日の「女王の日」だ。この日は都市から農村まで、国中でフリーマーケットが開かれる「倹約の日」でもある。各家庭では不要になったものを持ち出し、それを道路や広場に並べて売る。

「この日、広場や人通りのある道へ出ると、びっしりと露天が並び、子供たちだけで店を出していたり、笛を吹いたりで大きな縁日のようです。普段は締まり屋のオランダ人ですが、この日ばかりは、子供たちのコーラスや楽器演奏に、気前よく1ギルダー硬貨をポンポンと投げ入れます」(「物語オランダ人」倉部誠)

 このフリーマーケットは、貧乏で玩具が買えない家庭の子供たちが、他で不要となった玩具を格安の値段で手に入れられるようにするためにはじまったのだという。これがいまや全国に広がった。しかもそれが、「女王の日」だというところに、国民の王室によせる気持が現れている。

 ちなみにこの「女王の日」は先代のユリアナ女王の誕生日だという。現在のベアトリクス女王の誕生日が1月で季節が悪いので、国民の便宜を図り、あえて、先代の誕生日をそのまま使っているらしい。オランダの君主制はこのような国民生活優先の合理主義のうえに成り立っている。

 オランダの君主は最初から現代まで「民衆のために」という立場を崩さない。この点が国民に評価され、いまや君主制はゆるぎのないものになっている。信じられないことだが、民主主義の最先端をいくオランダで、各都市の市長はベアトリクス女王が直接に任命している。それでいて、どこからも文句は出ないらしい。


2001年09月04日(火) オランダの結婚事情

 オランダの男女は14歳の頃から、異性と特別な性的関係をともなう交際をはじめる。つまり中学生のうちに、たいていの男女はセックスを体験し、恋人をもつわけだ。

 そして16歳ごろになると、親から独立して恋人と同棲生活を始めることが多い。学生同士の場合はとうぜん収入がないので、市役所に安い公営アパートを申請して、許可を取る。

 国もまた生活費を特別支給して、こうした若者の自立を支援するので、オランダでは若者が親から離れて同棲生活をするのがそれほど困難ではない。それに、オランダ人は子供の頃から、自分でやりくりする方法にたけている。5,6歳の子供でさえ、安易に親から小遣いをもらうのではなく、自分で工夫して儲けようとする。

 フランスのキャンプ場に行くと、オランダ人の子供たちがそこかしこで店を出している光景に出くわすそうだ。キャンプ場で拾い集めた珍しい形の石ころだの貝殻などをテーブルに並べて、それを売って自分たちの小遣いを稼ぐ。彼らはそのために、英語、フランス語、ドイツ語などを学び、それらを駆使して、商売にはげむのだという。

「オランダの子供たちを同じ世代の日本の子供たちと比べると、自分の力で生きるということの心構えという点で、大人と幼児ほどの大きな開きが出来ています。こうした子供がたくさん育っている限り、これからもオランダという国は商業を通じて発展し続けるでしょう」(「物語おらんだ人」倉部誠)

 こうして親から自立し、同棲生活を始めたカップルが、そのまま結婚することはあまりなく、たいていは破局を迎え、またあらたなカップルができて、あたらしい同棲生活が始まるのだという。そして何人かの異性または同性と体験を重ねた上で、お互い充分納得した段階で結婚に踏み切ることになる。

 オランダ人の結婚式はきわめて簡素である。彼らは日本の若者たちのようにホテルで豪華な披露宴を催したりはしない。そしてほとんどのカップルは教会ではなく、市役所で市長の立ち会いのもとで結婚式をあげる。オランダの市役所にはそのための祭壇が設けてあり、格安で式が執り行われるのだという。いかにも実質を重んじるオランダらしい。

 このように慎重にことを進めても、離婚率はそれほど低くはない。そもそもオランダでは共同生活を始めるに当たって、二人はこの日があることを予定して契約書を作るという。つまり二人の共有するものをどのように分けるか、将来もめごとがおこらないようにしておくのである。オランダでは男女は平等であり、共同生活の解消や離婚に際しても女性が男性に慰謝料を請求することはない。

 オランダ人は個性を殺してまで共同生活を維持する考えはなく、お互いに有意義であり楽しいことが共同生活をする動機なのだろう。彼らにとって結婚もまた、あらゆる人生の出来事と同じく、別離を前提にした「一期一会」の体験なのかもしれない。男女(男男、女女)の交際に置いても、オランダ人はあくまで自由かつ平等であり、自分自身であることにこだわり続けているようだ。


2001年09月03日(月) 自由の国オランダ

 オランダの海水浴場にはトップレスの女性が珍しくないという。ヌーディスト・ビーチでは、男女が一糸まとわぬ姿で砂浜に寝そべっている。有名なリゾート地でヌーディストビーチとして有名なのは「Scheveningen」で、これは日本人が聞くと「スケベニンゲン」に聞こえるという。

 オランダの女王様の住むハーグ市の市営プールは週一回、ヌーディストのための日があり、この日は水着を着た人は入れない。こうしたことは日本では考えられないだろう。 

 倉橋さんは「物語オランダ人」のなかでヌーディスト村について書いている。そこでは男女がやはり一糸まとわぬ姿で生活している。近くのゴルフ場のコースからその様子が丸見えなので、日本人は決まってスコアを乱すのだそうだ。

 オランダ人は裸を恥じるという意識に乏しいのかもしれない。倉橋さんがアムステルダムのアパートに一家で暮らしていたとき、若い女性が裸のまま暮らしているのが向かいの窓越しに見えたという。裸のままベランダに出て、道を行く人と話をしたりするので、慣れないあいだは気になって仕方がなかったらしい。

 こうした話を聞くと、私もオランダに移住してみたくなる。オランダでは人種差別がなく、異世代交際もさかんだというから、日本では味わえない楽しみがいろいろとありそうだ。

 オランダでは子供にも性行為の自由がみとめられている。性行為をしても罰せられない年齢を16歳から12歳へと引きさげる法律が、1991年に成立したからだ。改訂されたオランダ刑法247条はこう規定している。

「16歳未満の者(男女問わず)とのセックスを禁じる。ただし12歳以上16歳未満の場合、子供自身、法的な代理人、幼児保護組織のいずれかによる公式の申し立てがないかぎり、起訴はされない」

 子供が同意してさえいれば、12歳の子供とセックスしても、法的には罰せられない。12、3歳の子供と大人とのあいだで、愛をはぐくむことができるようになったわけだ。これまではセックスの対象が高校生以上でなければならなかったのが、中学生、あるいは小学生でもよいというのだから、これには世界が驚いた。

 オランダは「自由」の国である。思想、信条、経済活動や政治的自由はいうまでもないが、セックスの自由も世界の最先端を行っている。たとえば同性同志の結婚も自由で、実際アムステルダムのアパートに住んでいると、上下、両隣を合わせた5軒のうちの1軒はこうした人たちが、「普通に」暮らしているという。

 北欧やドイツでもポルノ出演は18歳以上に限られているが、オランダでは16歳以上ならかまわない。だから、現役女子高生が登場するポルノ雑誌がある。たとえば1975年に創刊されたセックス雑誌『セヴンティーン』は直後から爆発的に売れまくり、現在では英、独、仏も加えた四ヶ国語版を発行し、売上高ナンバー1を誇っている。

 オランダは安楽死や、麻薬、売春の自由を、世界に先駆けて認めてきた。そしてついには、子供たちがセックスする自由まで認める。個の権利を最大限に尊重し、民主主義の最先端に位置するオランダだから、こんなことが可能なのだろう。

 禁じるよりもオープンにし、管理するのがオランダのやり方だ。高校生にセックスを禁じ、純潔を守れと騒ぎたてたところで、効果があるわけではない。むしろ容認して、きちんとした性教育をほどこす方がずっと有益だろう。

 しかし、中学生や小学生にまでセックスの自由を認めるのはどうだろうか。オランダの高校にも修学旅行のようなものがあるらしいが、カップルは同じ部屋に泊めるという。これも驚きである。

(参考サイト) 紳士はロリータがお好き
         自由の国オランダ


2001年09月02日(日) 共有と分かち合い

 地球環境をこれ以上悪化させないためには、世界全体の資源の消費を現在の半分にしなければならないと言われている。とくに資源を大量に消費しているアメリカ、日本をはじめとする工業先進国でこうした努力が必要だろう。

 環境問題の研究者によれば、これらの先進国は工夫次第で、その生活のレベルを大幅に落とすことなく、資源の消費を現在のレベルのわずか10%にまで減らすことができるという。

 そのための具体的方法としては、紙や鉄のような基本資源のリサイクル、製品の再規格化、そして車による通勤の代わりに通信を用いることなど、より無駄の少ない手段への代替が考えられる。

 しかし、ここにもう一つ忘れてはならない伝統的な方法がある。それはかって私たちの先祖が所有していた「分かち合いの精神」を復活させることだ。オランダはこうした「分かち合い」をとおして環境問題の解決をはかろうとしている。

 多くの国が車を増やそうとしていたころから、オランダではすでに環境面を考えて、車の私的所有を減らそうという政策がとられてきた。車にかける税率を高くしたり、駐車の制限、バスと自転車利用の促進などだ。そしてさらに、車を共用する「カー・シェアリング」という新しいアイディアを生みだし、当局がこれを後押した。

 たとえばアムステルダムでは250ドルの保証金を払えば「カー・シェアリング運動」のメンバーになることができる。メンバーは特別な駐車場に止めてある共有車を、電子式のカードを使って自由に利用することができる。そして走行距離と時間に基づいて、料金が月末に請求される。

 毎日車を使う人にとってはその料金は割高だが、年間の走行距離が1万マイル以下で、公共交通やバイク、徒歩も利用できる人々にとっては、カー・シェアリングは魅力的である。これによって都会に住む多くの人は、自分で車を持たなくてもすむ。そして資源の節約にもなる。

 オランダ人といえば、ケチで有名だが、言葉を換えれば彼らが節約家だということである。私的所有と浪費を美徳とする悪しき資本主義の時代は終わった。むしろ「共有と分かち合い」のオランダ式倹約術の中に、私たちは未来の心豊かな共生社会への展望を求めるべきだろう。

 その具体例の一つである「カー・シェアリング」は「ワークシェアリング」とともに、オランダから世界に広がりつつある。労働を分かち合い、資源を分かち合う、こうしたオランダ式節約術が、一刻も早く世界の標準となり、日本の常識となる日がくることを祈らずにはいられない。人類にとって残されている時間はもうあまりないのだから。

(こう書いてきたが、日本の現状を考えると、いささか憂鬱になる。オランダに出来て、日本になぜ出来ないのか。なぜこうも日本は絶望的なのか。その理由を言えと言われたら、私は一言「日本に政策がないからだ」と答えよう。日本にあるのは政策ではなく、政略ばかりである。政策のように見えるものも、結局政略でしかない)

(参考サイト)「なぜ分かち合うのか」


2001年09月01日(土) 独立自尊の国

 オランダはアルプスを源流とする三つの大河、ライン川、スヘルデ川、マース川が北海に注ぎ込む三角州にできた国だ。これらの川と海から押し寄せる洪水と格闘し、これを粘り強くコントロールすることで、オランダ人は自分たちの生活を守ってきた。そうした自然との闘いを通して、彼らは自らのアイデンティティを築いてきた。

「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」と言われる。オランダの正式の国名は「ネーデルランド」だが、その意味は「低地の国」である。その名の通り、堤防によって守られた国土の大半は海面下にある。明治時代になって、岩倉使節団が欧米の視察の際にこの国を訪れた。そして、猫の額のような土地にしがみついて悪戦苦闘している健気で勤勉な国民に驚いた。

「塗泥ノ中ニ富庶ヲ謀ル景況ヲ見ル。嗚呼、天利ニ富メルモノハ、人力ニ惰リ、天利ニ倹ナルモノハ、人力ヲ務ム」(「欧米回顧実記」岩波文庫)と、「人がつくった国」であることに感激している。恵まれない環境の中で、世界に誇る富と文化を築いた勤勉なオランダ国民の姿は、これから国つくりをしようとする彼らにとって大いなる励ましになったようだ。 明治政府はさっそくオランダからファン・ドールン、デ・レーケなど10人の技師団を招聘した。彼らは日本に近代的治水工法をもたらし、利根川、木曽川、長良川、揖斐川、庄内川、吉野川、多摩川、淀川など日本各地の河川で本格的治水工事をなしとげた。東京港、横浜港、長崎港、新潟港など港湾計画を遂行し、福島県の安積疎水や利根運河なども手がけた。日本の国土整備と開発にたいして彼らオランダの技術者の果たした貢献は底知れないものがある。

 オランダ人は他人の土地を奪って国を広げたのではない。自らの努力と技術によって海を干拓し、そこに堤防を築いて文字通り国土を作った。司馬遼太郎は「オランダ紀行」(「街道を行く」朝日文庫)の中で、「オランダ人には、他に誇るべきものがある。文化もそうだが、とくにかれら自身が造成してきた国土がそうであるといっていい」と書いている。

 オランダは「自由と平等の国」だと言われる。しかし、オランダ人の「自由」はこうして血のにじむ努力の結果獲得された自由であり、それは今も努力して維持されなければならない自由である。なにしろ国土の2/3が海面下にあり、治水を怠ると、アッというまに国土は崩壊するのである。こうした悪条件を見事に克服することで、オランダは世界に誇る文明と文化を築いた。

 明治時代の日本人はこうしたオランダの姿に感激し、その「独立自尊」の生き方に共鳴した。21世紀に生きる私たちも、もう一度原点に立ち返って、オランダから「独立自尊」の精神を学んでみてはどうだろう。





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