橋本裕の日記
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2001年10月31日(水) 井上靖の愛した国

 井上靖といえばシルクロードだが、なかでもアフガニスタンを愛し、何度も訪れているという。かってこの国がどれほど平和で美しく、魅力的であったか、井上はこう書いている。

「この灰色の町(カブール)は、絨毯屋の多い繁華な町中に立つと、こんどはシルクロードの町に替る。町には近代的なビルが並んでいるが、その中を全身がすっぽりと袋のようなチャドリに収めた女も歩いているし、スカーフ様に顔だけを包んだチャデルの女も歩いている。

 種族によってはそれぞれ異なったターバンで頭を包んでいる男たち。果物をのせた大きな籠を頭にのせている老人も居れば、驢馬を連れた少年たちも町を横切って行く。町は平和そのもので、町の人たちの表情はおだやかである。

 しかし、アム・ダリヤの向こうの西トルキスタンのどの町々より生き生きしたものを感ずるのは、かつてのシルクロード時代の町の表情が、さして変わることなく、今に受け継がれているからであろうか。

 この町の夜は美しい。星も美しいし、燈火も美しい。空気が澄んでいるからであろう。そして何よりも羨ましいことは都会の騒音がないことである。(井上靖「古い隊商路(1971)」)

 この後10年を経ずしてカーブルはソ連の最新兵器に蹂躙されて廃墟と化した。この地上でもっとも美しかった国の自然と文化が、今は小説家の文章でしか味わえないのが残念である。

(池澤夏樹さんのメールマガジン「新世紀へようこそ」から、井上靖の文章を孫引きさせて頂きました)


2001年10月30日(火) ありし日の夢

 大学で物理の勉強をしていた頃、湯川秀樹博士の講演会があった。「一流の物理学者や数学者は20代、30代で仕事をしている。若いうちに仕事をしなければ駄目だ」と、はっぱをかけられた。

 湯川さんに言われるまでもなく、物理や数学で一流の研究が出来るのは若くて、頭が柔らかいうちである。アイザック・ニュートンは24歳の時「万有引力の法則」を発見し、27歳の若さで母校ケンブリッジ大学の教授に就任している。

 アインシュタインが光電効果の理論や特殊相対性理論を発表したのも26歳の若さである。量子論の父、ボーアが原子モデルを発表したのは27歳だった。

 そこで私はこんな人生設計を立てた。40歳までは理論物理学の研究に従事し、その後は、科学史や哲学を研究する。そして50歳を過ぎたら、詩や小説や俳句の創作をたのしもうと。

 残念ながら、こうはうまくいかなかったが、それでもこうした若い頃の夢想は、現在の私の人生の中に形をかえながら生きている。こうして、インターネットや同人誌、新聞の投稿欄に雑文を書いて発表しているのも、そうしたありし日の夢のかけらかもしれない。


2001年10月29日(月) 熊蜂の襲撃

 今年、我が家の軒先に足長蜂が巣を作った。あまり嬉しくない客人だが、仕方なくそのまま容認した。足長蜂はこちらから手出しをしなければ、まず攻撃してくることはない。そのかわり、下手の手を出すと、集団で襲いかかってくる。

 軒先の巣はかなり立派なもので、大勢の蜂たちがいそがしく出入りしている。巣の中には蜂の子が丈夫に育っているようだった。ところが数日前に、この立派な蜂の巣が、別の蜂に襲われて壊滅してしまった。

 私は学校で家にいなかったが、妻がその一部始終を目撃していた。妻の話によると、足長蜂の巣を襲ったのは、たった一匹の熊蜂(くまんばち)のようである。熊蜂がどういうものか、私は余り詳しくないのだが、雀蜂よりいくらか大ききくて色が黒いのだという。

 熊蜂の襲撃に、足長蜂はまるで応戦しなかったようだ。私たちが手を出すと集団で襲いかかってくる足長蜂が、まるで抵抗しないのは不思議である。いくら獰猛な熊蜂といえども、集団で襲いかかられたらたまらないだろう。なにしろ多勢に無勢である。

 しかし、結局は無抵抗のまま巣を離れ、巣の中の蜂の子はすべて食べ尽くされてしまった。襲われた蜂の巣に今は一匹も蜂の姿はない。あんなに賑やかだった庭にも蜂の姿はなく、ただ軒先に蜂の巣の廃墟が淋しく残されているだけだ。

 それを眺めながら、私は、「何という意気地のない奴らだろう。どうして力を合わせて熊蜂を撃退しなかったのだ」などと考える。鬱陶しい蜂たちがいなくなって、熊蜂に感謝してもいいのだが、取り残された空き家の蜂の巣を眺めていると、敗れ去った足長蜂たちが哀れに思われる。


2001年10月28日(日) 正義とは何か

 昨日は同人誌「象」の編集会議があった。主宰の水田洋先生をはじめ、北さん、私、稲垣、桜井、黒澤、加藤の7人である。出来上がった校正刷りを各自が手分けをして、最終チェックをする。それから、みんなで挿し絵になるカットを選んだ。

 同人誌は「作家」以来20年以上参加しているが、編集委員になったことはなく、今更ながらこうした裏方の苦労がわかった。しかし、この苦労も、苦痛ではないのは「象」の編集会議の雰囲気がいいからだろう。

 編集会議自体は3時間ほどで終わり、あとは飲んだり食べたりして無礼講である。アフガンやオランダ、ギリシャの歴史などが話題になり、盛り上がった。アフガン問題については、アメリカのアフガン制裁のありかたに問題があるとして、「象」有志で緊急アピールを出すことになっている。

 昨日の朝日の朝刊に、中村哲さんがアフガン問題について、「難民を出さない努力が先」という題で書いている。中村さんによれば、難民数百万人というが、難民になれるのはまだ恵まれている階級で、悲惨なのは難民にもなれずに放置されている大多数の棄民たちだという。

 アメリカのタリバン攻撃によって、この棄民が大量生産されつつある。中村さんは「正義の国アメリカ」対「悪のタリバン」という図式はわかりやすいが、たいへん無理があると言う。むしろ「近代文明を自負する国際社会」対「その枠内に収まりきらないアジアの伝統社会」の対立と考えた方がよいという。

「旧ソ連軍の10万の精鋭をもってしても制圧できなかったアフガニスタンの広大な国土の9割がわずか2万のタリバン政権で支配され続けたのは何故か。この事実の背後には、アフガン民衆自身が過去20年以上の内戦に疲れ切り、平和と国家統一を求めていたことがある」

 現在の国際社会は30�佑稜鮨Э夕錣亮臚蓋△慮気貌阿い討い襦�世界の富の60�佑�わずか6�佑凌諭垢砲茲辰篤叛蠅気譟△修里曚箸鵑疋▲瓮螢�の財閥の寡占状態にある。一方では50�佑凌諭垢�栄養失調状態に置かれ、10�佑凌諭垢鷲了爐両�態のまま放置されている。国際社会のこうした現状を変えていく努力こそが「正義」の名にあたいするのではないか。


2001年10月27日(土) 中高年のリストラ

 NTTはグループ社員14万人のうち、10万人を子会社に移管する計画だという。なかでも51歳以上の社員はいったん雇用契約を切り、子会社で賃金水準を大幅に(15〜30�諭縫�ットして再雇用するのだという。かなり思い切ったリストラ作戦だ。

 中高年がリストラの対象になっている。中高年はリストラされると、再就職もままならない。私は51歳だが、私くらいの年齢の人だと、高校生や大学生の子供がいて、家計のやりくりが大変なときだ。賃金カットもかなりの痛手になるのではないだろうか。

 私の場合、さいわい公務員ということで今のところ解雇の恐れはない。しかし愛知県の放漫財政のつけで、このところ3年連続で賃金カットが続いている。これでは住宅ローンや子供の教育費は捻出できない。じつのところ、毎月赤字続きで、定期預金を解約してどうにか辻褄をあわせている。

 日本の賃金体系はこれまで年功序列型だった。それがアメリカ標準の能力給体系に移行しつつある。たしかに50歳を越えれば一般的に体力的にも知力の面でも減退する。働きに見合った賃金をということであれば、とうぜんその水準が低下しても仕方がないのだろう。

 私は基本的に能力給に賛成である。私自身の場合を考えても、あきらかにここ数年教師としての生産性は下がっている。体力的に無理は利かないので、部活なども熱意が湧かないし、生徒と正面からぶつかる情熱もない。これでは教師失格かなと思いながら、なんとかお勤めをはたしている。

 しかし、私の半分ほどの賃金しか貰っていない若い人が、私以上の仕事をこなしているのをみると、申し訳なく感じる。だからいっそうのこと、能力給とまではいわなくても、年功序列はやめたほうがいいのではないかと考えるわけだ。そのほうが気が楽になる。

 こうしたことは教員だけではなく、おおくの職場であてはまるのではないだろうか。中高年の再就職がままならないのは、彼らの賃金水準が相対的に高すぎるからである。私はアメリカ流のグローバリズムに必ずしも賛成している訳ではないが、賃金体系についてはもう少し合理的なものに変えていく必要があるのではないかと痛感している。

 ただし、その場合大切な前提がある。アメリカやヨーロッパの場合、親が子供の学費を負担することはない。高校までの学費はほとんどかからないし、大学生は奨学金とアルバイトで自活することができる。また、住宅ローンなどというものに苦しむこともない。

 つまり、日本の中高年とは社会的に置かれた状況がまるで違っている。今後、日本の賃金体系は年功序列が崩れて、能力給体系に変わっていくだろう。その場合、中高年に負担をしいないこうした社会システムが完備されることが必要だろう。


2001年10月26日(金) テロに悩む大国

 BBCテレビによると、英ブレア政権は特殊部隊を中心に約1000人の地上軍をアフガニスタンへ派遣し、米軍と共同作戦を遂行する方針だという。

 多発テロが発生して、イギリスの対応は素早かった。ブレア首相はすぐにアメリカに飛び、テロ撲滅のために軍隊を派遣することを表明した。さらに、いつもはアメリカに批判的なロシアや中国も、今回ははやばやとアメリカ全面支持を打ち出した。

 珍しく大国の足並みがそろったのは、いずれも国内外の過激派によるテロの脅威に頭を痛めていて、テロ組織の排除という点で利害が一致したからだ。ロシアはチェチェン過激派を抱えているし、中国はウイグル族の過激派に頭を痛めている。イギリスは言うまでもなく、北アイルランド共和軍(IRA)のテロに悩んでいた。つまり、いずれも足下に危険な火種を抱えている。

 テロ対策に鈍感な日本は、アメリカから「旗を見せろ」と一喝されてうろたえたが、もし第二次大戦に勝利して朝鮮半島あたりを支配していたら、おそらく日本も日常的にテロの洗礼を浴びていて、アメリカのテロにも我がことのような身近さで、もっと機敏に対応していただろう。

 イギリスがアメリカに肩入れするのも、実はこうした国内事情があるからである。ブレア首相の国際テロに対する強硬な姿勢は、国内の過激派に対する牽制と恫喝でもある。この強腰が利いたようで、IRAが初めて武力放棄に一部応じたという。


2001年10月25日(木) 井戸を掘る人の言葉

 孤立するアフガンで献身的に医療活動や難民救助活動を行っている日本人がいる。その中の一人が、中村哲医師である。彼と彼を支える「ペシャワールの会」は、1984年より現地活動を開始し、パキスタン・アフガニスタンに1病院と10診療所を設立して年間20万人の患者診療を行ってきた。

 加えて2000年夏より戦乱についで今世紀最悪の干ばつに見舞われるアフガニスタンの村々で約600か所の井戸を堀続けてきたという。中村医師については10月10日の日記でも紹介したが、今日は彼の講演会の言葉を少し紹介しておこう。

「1989年、旧ソビエト軍がアフガンから撤退を開始しました。これによってパキスタンに逃れていたアフガン難民350万人がすぐに帰国するとの観測が流れ、国連は数百億円の予算(その多くを日本が拠出)を使って難民帰還計画を立てました。

 これに欧米の200を越えるNGOが群がりました。しかし、誰一人帰国する者はいませんでした。実はアフガンの戦闘がさらに激しくなったからです。生き残りを賭けるカーブルの社会主義政権と、戦いに勝って新政府の主導権を握りたいゲリラ各派がぶつかりあいました。

 そして、数千万個にのぼる未処理の地雷や不発弾もあります。そのような実情を無視して、国連や欧米のNGOは机上の難民帰還計画に熱中し、難民たちを翻弄しました。結局何一つ実現しませんでした。数百億円はどこに消えたのでしょうか。

 そして、1990年に湾岸戦争が勃発すると危険だという理由で、彼らの多くは難民を見捨てて撤退しました。その難民たちは、1992年4月にナジブラ社会主義政権が崩壊し戦闘が下火になると、自主的に帰国を始めました。

 今でもはっきり覚えています。彼らは胸を張り、希望に顔を輝かせて家財道具をトラックやラクダ、あるいはロバの背に乗せて、続々と国境を越えて帰還しました。信じられないような光景でした。夢のようでした。誰にも指図されず、誰の手も借りずに、自分たちの力で故郷へ帰っていったのです。一生あの光景を忘れないでしょう」

 今また、その人々が難民となってアフガニスタンの国境に押し寄せてきている。しかし国境まで逃れてきたのは、比較的裕福な人たちだという。多くの人は廃墟となったカンダハルやカブールなどの都会に取り残され、そのまま難民になっている状態らしい。

 以前、私は難民を助けるための募金先として、ユニセフのPHを紹介したが、中村医師は「ユニセフなどの援助団体に寄せられる募金の9割は、組織の維持のために使われます。残りの1割しか難民に使われません」と言う。そうすると、ユニセフに募金するのは少し考えものである。さらに、中村さんはこのように言っている。

「アフガンの農村においては、イスラム教の指導者(村の長老がなる)が寺子屋を開いて、子どもたちに字の読み書きを教え、クルアーン(コーラン)の暗誦させます。クルアーンには、人が人としてなすべき道徳や、日常生活の決まりが書かれてあります。そして、幼いころから大人と一緒に働いて仕事を覚えます。 それがこの国の農村における教育です。よく国連のユニセフあたりがこのような状況を見て「なんたる教育の貧困」を嘆き、学校を建設し、教育を施そうとします。しかし、私はそれが良いとは思いません。

 もし、すべての農村に学校を建設し、子どもたちに先進国なみの教育を施したら、学校を卒業した途端に村を捨て都会へ流れるでしょう。ほとんどの村が過疎で空っぽになることが予想されます。教育を通じて豊かな都会の生活を知るからです。それは日本がすでに経験したことです」
 
 過酷なアフガンの現場に長く身を置き、実際に汗を流して援助に携わった人だからこそ見えてきた現実だろう。ペシャワール会へ寄せられる募金の9割は実際の援助に使われるという。全くのボランティアで運営されるために、それが可能だということである。

 選択肢の一つとして、ペシャワールの会(NGO)を支援することも考えてみたい。ペシャワールの会には現在4000人ほどの会員がいるという。年会費は1万円。会員になると年4回ほど活動報告書が送られてくるらしい。

(参考サイト)ペシャワールの会 http://www1m.mesh.ne.jp/~peshawar/


2001年10月24日(水) 難民の目で見た世界

 ブッシュ大統領は、どうしてテロを受けたと思うかと訊かれて、「それは我々があまりにGOODだったからだと思う」と答えている。たしかにアメリカは唯一の超大国として繁栄していた。地上の10億の人々が極貧状態にあるなかで、地上の資源を惜しげもなく使って、華やかな消費生活を送っていた。そして人々はそれを文明と呼んでいた。

 世界貿易センタービルはその文明の豊かさと優秀さの象徴だった。そこには世界の一流企業が本社を置き、世界経済の最先端で活躍するエリートたちが働いていた。世界で最も豊かで自由で安全な場所、それがニューヨークの中心部にそびえ立つ世界貿易センタービルだった。

 もし、これと全く対照的な世界はどこかと言われたら、それはアフガニスタンということになるだろう。飢餓と疫病、そして地雷と戦争の恐怖の中で、人々は地を這うような悲惨な暮らしを強いられている。

 この対極にある二つの世界はしかし、無関係ではない。アメリカの繁栄とアフガニスタンの貧困は、実はふかいところで繋がっている。端的に言えば、我々もふくめた西側世界の豊かさは、もう片方の世界の貧困を代償にして成り立っているのである。この地上における豊かさと貧しさは双子の兄弟だと言ってもよい。

 世界貿易センタービルは何故ツインビルなのだろうか。それはある心理的な充足感と安定感を私たちに与える。しかし、この充足感や安定感は見せかけであった。そればかりか、この世界の奥深い対立と矛盾を隠蔽するための虚像でさえあった。そのことを、こんどのビル崩壊の無残な映像が雄弁に語っている。

 しかし、このことをアメリカ人は実はすでに心の深いところで意識していたのではないだろうか。そう思わせるものが、このところのアメリカ映画にふんだんに描かれていたからだ。たとえば数年前に空前のヒットを記録した「タイタニック」がその代表だろう。

 アメリカ人は映画の中でやたらと自動車や地下鉄や飛行機や高層ビルなど、次々とモノをぶっこわし続けてきた。作家の日野啓三さんはこのことについて、「アメリカ人たちは意識下では自分たちがつくり出した機械文明が憎らしくてたまらないのではないか」(新たなマンハッタン風景を)と書いている。

 機械文明に対する憎悪もあるだろう。しかし、むしろそこにあるのは現代文明のいかがわしさにたいする不安やかくれた罪悪感ではないだろうか。この繁栄が実は実に脆いモノで、それはいつか何者かによって破壊されるに違いないという予感である。

 ツインビルは鏡のように自画像を写す。人はビルの中にいながら、ビルの中にいる自分の姿を、眼前の双子ビルに重ねて想像することができる。しかし、そこのあるのは異質なモノとの対話を拒んだ、自己閉鎖的な安心感と満足感でしかない。その虚像の欺瞞に人々はすでに気付きはじめていた。そして不安と焦燥が広がりつつある中で、まさに今度の事件が起こるべくして起こった。

 ところで、いまアフガニスタンは史上最悪の干ばつに襲われている。干ばつは突然やってきたものではない。この十数年間、アフガニスタンを東西に横切るヒンズークシ山脈に降る雪の量が毎年目に見えて減り、雪解け水の量も激減していたという。あきらかに地球温暖化の影響だろう。

 そしてとうとう昨年アフガンには雨が一滴も降らなかった。川は干上がり、地下水の水位が下がって、井戸は枯れた。田畑や牧草地は乾き、砂漠になった。飢餓と水不足で約100万人が餓死し、今も餓死しつつあるという。

 このことは全くといっていいほど先進国では報道されなかった。アメリカは地球温暖化対策には冷淡で、京都議定書にも同意せず、ただ自国の経済の繁栄を優先させた。しかし、環境破壊の上に成り立つ繁栄がいかに危うく脆いものか、今度の世界貿易センタービルの崩壊を機会に、私たちはもう一度根本から考えてみるべきではないか。

 ニューヨークを訪れた観光客の多くは世界貿易ビルに登った。そして自分を数百メートルの文明の高みにおいて、世界を睥睨した気分になった。しかし、私たちはときには、アフガニスタンの難民キャンプの中で飢えと寒さに息絶えようとしている子供の目で、世界を眺めてみるべきではないか。そのとき、世界は全く別物に見えるに違いない。


2001年10月23日(火) 世界同時不況と戦争

 日本の平均株価は、85年の13,000円台から、89年の年末には39,000円レベルまで急角度で上昇した。5年間で株価水準が3倍にもなった。同じように、米国株式市場もダウ平均株価で、95年の4,000ドルから99年、2000年の11,000ドル台へと、こちらも5年間で約3倍になっている。

 日本の場合は、株式・不動産バブルと呼ばれ、バブルがはじけた90年代に入ってほぼ一貫して下落基調が続き、株価はバブル最盛期の3分の1以下にまで下落した。米国の場合はITバブルと呼ばれている。在来産業の多いダウ指数は、何とか9,000ドル代で推移しているが、IT銘柄が多いNASDAQ(店頭市場)は、すでに高値の3分の1程度まで下落している。

 株価などの資産価格が下落すると、株式を保有している投資家の収益状況が悪化する。そうすると、投資家はさらに株式を購入することに消極的になり、この先米国株式市場がさらに下落する可能性も大きい。

 さらに今回のテロ事件やその後の炭疸菌事件が経済に与える影響が懸念される。不安と恐怖が人々の心を支配し、航空機を利用して、観光地や遊園地に出かける人も減少している。消費者マインドが冷えて、景気が悪化することも考えられる。日本経済が低迷するなかで、頼みのアメリカ経済もまた先行きが危ぶまれる。

 世界経済を牽引してきた米国の経済が息切れして、牽引役がいなくなると、世界同時不況ということも考えられる。そうすると、こうした中で、戦争に活路を見出そうという声が起こってこないとも限らない。

 アメリカ国防省や軍需産業は年に2,3回の小さな紛争、10年に一度くらいの戦争を想定して武器補充計画を立てているという。1991年1月の湾岸戦争からはや10年が過ぎた。「そろそろ戦争を」という声もありそうである。

 アメリカ経済が長い停滞を脱して急成長をはじめたのは湾岸戦争の後だった。さらに歴史をふりかえれば、アメリカ発の世界大恐慌から立ち直ったのも、第二次大戦のあとである。アメリカという国はこれまで戦争によって経済を立て直してきた実績がある。アフガン空爆がこの悪しき伝統の復活でないことを祈りたい。


2001年10月22日(月) 国旗への忠誠

 昨日は旅から帰って、この3日間のメールチェックや、録画しておいたビデオのチェックをした。中でもNHKのクローズアップ現代「アフガン難民の現状」には、心が動かされた。一度に現実に引き戻されたという感じである。

 ところで、これはメールマガジンの記事で知ったことだが、10月12日の金曜日、東部時間の午後2時に全米の小中学生全員が一斉に「国旗への忠誠」の唱和をさせられたそうである。教育長官の指示ということで相当に徹底されたようだ。

 日本では「国旗への忠誠」などというと、軍国主義の復活が頭に浮かぶが、アメリカでは国旗に忠誠を誓うということは、すなわち建国の精神である「自由と民主主義の象徴」に忠誠を誓うということで、人民主権という伝統を支えるための行為とされるらしい。そのせいか、「国旗への忠誠」という行為は割合抵抗なく受け入れられるのだろう。

 それでも、全米一斉に学校で唱和を強制するということは、まったく異例なことで、合衆国憲法の精神にも違反しているという議論もあったらしい。「唱和」を伝えたCNNのニュースキャスターは「子ども達は可愛らしいけど、なんだかオーバーですねえ」と言って苦笑していたという。

 アメリカでは同時多発テロに続いて、炭疸菌事件が起こり、先日はとうとう下院まで汚染されて閉鎖されるという事態になった。折からの景気後退に加えて、こうした一連の出来事で飛行機の旅客は落ち込み、航空業界や旅行会社の収益悪化が懸念されている。

 テロリストに乗っ取られたユナイテッド航空やアメリカン航空はいうまでもなく、コンチネンタル、ノースウエストといったアメリカの代表的な航空会社が9月末の時点で、すでに13万人以上もの社員に一時解雇通知を手渡したという。

 こうした不況の波は航空業界のみならず、観光・ホテル業界や、自動車業界、IT業界等にまで及んでいる。解雇された人々に同情はするが、それでもアフガンの人々の悲惨とは比べようもない。アフガンの難民には、失業保険もなく、水や食料や家もなく、抗議すべき政府さえまともに機能していない。

 アフガニスタン全土に空爆が拡大され、地上部隊も一部投入され、タリバン制圧の作戦は一応順調に進んでいるようだが、「国旗に忠誠」ということが大々的にセレモニーとして行われたのは、アメリカもかなり心理的に追いつめられていたのかも知れない。


2001年10月21日(日) 長崎日記

10月19日(金) 太宰府

 台風の影響が心配されたが、秋晴れの好天になった。昨日は名古屋空港8:56発の旅客機で福岡空港まで。そのあと観光バスに乗り換えて、太宰府天満宮、有田焼の磯州窯に行き、「てびねり」体験をした。佐世保のホテルで一泊した。

 天満宮では、長女が受験でお世話になったので、そのお礼をした。ガイドさんに3拝3拍2拝のお参りの仕方を教えてもらったが、3拍3拝2拍とアベコベをやってしまった。まぁ、こういう形式はどうでもいいという頭があるので、こういうことになったようだが、神様に失礼なことをしてしまった。

 太宰府政庁跡というのが近くにあったが、修学旅行のコースから外れているので、足を伸ばすことができなかった。そのむかし、大伴旅人や山上憶良らが歌を詠んだところである。家持もこの地で多感な少年時代を送ったことだろう、そんなことを考えながら、あたりの山を眺め、水城の跡を眺めた。


10月20日(土) 長崎の鐘

 長崎を訪れるのは、高校時代に修学旅行で来ていらい、30数年ぶりである。平和公園の平和の像や平和の鐘を眺めた跡、原爆資料記念館に入った。30数年前に見て記憶に刻まれたのは頭蓋骨の付着した鉄兜だったが、今回はそれも片隅に展示されていた。

 それを眺め、原爆でなくなった方々の遺品やパネルを眺めているうちに、アフガニスタンのことを思い出した。アメリカの空爆が始まり、今も同じような悲惨が地球で繰り返されているのだと思うと憂鬱である。

 平和公園を出たあと、築町の中華街で「皿うどん」を食べた。同僚の先生に誘われるままに、軽くビールを一杯。生徒たちが「先生、僕らものみたい」とうるさいこと。

 そこを出て、オランダ坂を通り、浦上天主堂やグラバー邸のあたりに来たが、時間の都合で入らなかった。教員詰め所になっている全日空ホテルのラウンジに行き、ゆっくりコーヒーを飲み、同僚たちと話しているうちにいつかバスの時刻がせまっていた。

 宿のある小浜温泉に行く途中、普賢岳がきれいに見えた。そのふもとの火砕流跡地を見学したが、今は土産物屋が並び、すっかり観光化している。小浜温泉の宿に着いたのが少し遅くて6時ごろ。そのあとが慌ただしかった。

 宿の浴場は別館になっていて、とても広くて生徒たちが喜んでいた。私は12時まで館内見回りの当番になっていたので、入浴は12半頃になった。屋上の露天風呂に一人でつかりながら、眼前の海を眺め、星空を眺めているうちに、睡魔が襲っていた。


10月21日(日) ハウステンボス

 最終日の昨日は8:00に宿を出て、ハウステンボスに行った。オランダの街並みや風車がそっくり再現されているということで、オランダに興味がある私は見学するのが楽しみだった。

 ガイドさんのお薦め通り、カナール・クルーザに乗って、ドムトールンに向かった。運河の両側に水車やレンガ造りの街並みが眺められ、いかにも異国らしい風景である。

 運河の堤にはコンクリートは使ってない。すべて石積みでできていて、生態系に配慮しているとのこと。水と土がこの石積みで接していて、「皮膚呼吸」をしているとのことだ。これは実際のオランダの運河や川もそうなっているらしい。

 これは街並みの道もそうで、アスファルトやコンクリートではなく、敷石になっている。もう何百年も前から、石を立方体に切って、それを埋めて道を造ってきたらしい。電柱や電線はなく、すべて地下の生活溝にまとめてあるらしい。

 そこを光るケーブルも通っていて、コンピューターによる制御が行き届いており、御見かけは昔だが、機能は現代的である。ちなみに「アウステンボス」は行政的にも正式な町になっていて、「自然と人間」「伝統文化と科学」の共生をめざした未来都市づくりを目差しているのだという。思わず応援したくなった。

 クルーザーを降りて、ドムトールンに登り、地上80メートルからの景色を眺めた。ディズニーランドの1.5倍の広さだというだけに、森や池や運河が広々と眺められた。そこをおりて、一番奥にあるパレスハウステンボスに行った。

 このパレスは実際にオランダにある宮殿を正確に模造したものだという。内部が美術館になっているらしいが、私たちは時間の都合で庭園を散策しただけでそこから引き返した。途中港に停泊している帆船を眺めた。「臨海丸」の模造船も停泊していた。

 11:20から1時間、当番で本部に詰めていた。それから昼食を食べに、ふたたびドムトールンの飲食街に出かけた。途中「チーズの農家」に立ち寄り、オランダから来たという白人の娘さんが二人、チーズ作りの実演をしているのを眺めた。「豆腐作り」に似ているというのがその感想である。チーズは「西洋の豆腐」と考えたらどうか。実際、しょうゆと鰹節で食べるとおいしいという。

 オランダの地図を指しながら、たどたどしい日本語で、「アナタ、ここからきました」という。「僕たちは愛知県から来たんだよ」と目を白黒させていると、やっっと過ちに気付いて、すこし頬を赤らめながら、「ワタシタチ」と訂正した。そこで試食した醤油と鰹節のチーズがあまりにおいしかったので、チーズを食べない私が思わずおみやげに買ってしまった。

 アウステンボスを出て、福岡空港へ。空港で生徒の祖母だという人から明太子のおみやげをもらった。名古屋空港についたのが6:40である。事故や病気もなく、好天に恵まれた3日間だった。それでも生徒の付き添いは大変だ。この2日間、就寝は1時過ぎだったが、起床は5時前。昨夜は久しぶりの快眠だった。
 


2001年10月17日(水) タリバン登場の背景

 アフガン王国崩壊からタリバン登場までのことを、もう少し詳しく書いておこう。1973年7月17日、国王ザヒル・シャーが眼の治療のためイタリアを訪れていた間、彼の甥であるダウド将軍が共産党の支援のもと、クーデターを起こした。

 この新政府の閣僚14人中、7人はアフガニスタン共産党党員であり、また約160人の共産党員が行政官として地方に派遣された。この共産党シンパ政権はソ連の影響のもと、反イスラム政策を押し進め、これに抵抗するイスラム勢力を弾圧した。

 しかし、やがてこの共産党政権内で「流血の内部抗争」が始まった。1978年4月にダウド大統領が軍のクーデターにより暗殺。タラキがつぎの大統領になったものの、またも暗殺。彼の後継者アミンもソ連進行時に暗殺され、カルマルが大統領になった(1979年12月)。この間、わずか20ヶ月くらいの出来事である。

 しかし共産党の影響力が増すにつれ、アフガン国内・国外で反体制運動、反共運動が盛んになった。1978年12月、この混乱に乗じて、ついにソ連軍がアフガニスタンの地に侵攻してきた。その数、10万人。米ソ冷戦・開発競争がもたらした最新式の装備で彼らはやってきた。

 名目は「反体制運動により、アフガニスタンの治安は悪化した。これを回復する」ということだが、しかし、その本当の目的は共産圏拡大と領土的野心だった。これに危機感を抱いたのがパキスタンやアメリカで、彼らはソ連の共産党勢力と対抗するムジャヒディン(「イスラム聖戦士達」の意)に肩入れした。

 これが以後今日まで続く内戦のはじまりである。アメリカ、パキスタン、サウジアラビア、イランなどに応援されたムジャヒディンはアメリカから供給された最新式の武器を取って、10年間これと戦い、ついにソ連を追い出した。しかし、ソ連が撤退した後も、平和は訪れなかった。

 それぞれのムジャヒディンのグループが、彼らを支援する国々の思惑の違いから、再び反目しあって内戦を始めたからである。たとえばパキスタンはのヘクマティアルを支援した。アフガンで最大の部族であるパシュトゥン人のヘクマティアルに権力を握らせて中央アジア・イランとの貿易ルートを独占し、パキスタン最大のライバル、インドとのカシミール紛争を有利に導こうと考えた。

 それに対抗するために、インドはヘクマティアル最大のライバルで、タジク人のラバニ・マスードを支援した。タジキスタンも同様に、ラバニ・マスードを支援した。そうするとウズベキスタンはウズベク人のドスタムを支援した。

 サウジアラビアは国教であるイスラム教ワッハーブ派の拡大と、内戦後のアフガニスタンに与える影響力を睨んで、違う陣営に属するヘクマティアルとサヤフを支援。イランはアフガニスタンでは少数のシーア派を今後も存続させるために、両勢力のシーア派を支援した。隣国が完全なスンニ派の国家になっては困ると考えたからだ。

 こうした隣国の思惑の絡んだ身勝手な支援は、アフガニスタンをさらに混乱させ、400万人以上の難民を生みだすことになった。ムジャヒディンたちは、その組織の大小を問わず、略奪や暴行を働き、一般の人々から煙たがられていた。中には落ちぶれて山賊と化したムジャヒディンもいて、地方で暴れ、勝手に通行税を取り、国内経済をマヒさせた。もはやその名に「聖戦士」の面影はなかった。

 混沌とした状況を人々が憂い始めていたとき、一つの希望が見えた。この状況を一変する新たな勢力が登場したのである。1994年11月、南部の都市カンダハルにその勢力は現れた。それが「タリバン」だった。あしたはこのタリバンについて、少し詳しく書いてみよう。

(参考サイト)   ソ連介入後のアフガニスタン内戦


2001年10月16日(火) カンダハルの石榴

 カンダハルは首都カブールにつぐ人口を持つアフガニスタン第二の都市だが、その歴史はカブールよりも古く、アフガニスタンではヘラートと並ぶ由緒ある古都だ。この辺りに人が住み始めたのは紀元前3000年前の青銅器時代だが、都市国家としての古代カンダハルは紀元前500年にまでさかのぼる。

 カンダハルは東はインド、アラビア海へ、西はヘラート、イランへと続く古代貿易路の結び目に位置していた。この街には古来から豊かな貿易商が住み、バザールは美術・工芸の多彩さで有名だった。

 また、カンダハルの名は、ブドウ、メロン、桑の実、イチジク、桃、ザクロの産地としてインド、イランにまで知られていた。カンダハルの果樹園でとれたザクロは1000年前に書かれたペルシャの医者の処方箋にも記されているし、前世紀にはデリーのインド総督の食卓にも供されていたと言う。

 6世紀の中国とインドの文献は、ガンジス川の東に住んでいたパシュトゥン人について述べている。この部族は15世紀になると西方へ移動を始め、やがてカブール、カンダハル、ヘラートに達した。パシュトゥン人は自らの出自を、預言者モハメッドの友人クァイスに遡ると主張している。

 1747年、部族長たちがカンダハルに集まり、アハマド・シャー・アブダリを王に選出した。アハマドはすべてのパシュトゥン人部族をまとめ、最初のアフガン帝国を築いた。アフガン民族の父と言われる彼は聖人としてカンダハルにある壮麗な墓所に埋葬されていて、今日でもアフガン人たちが大勢礼拝にやってくるという。

 彼の息子の代になって、都はカブールへとうつった。以後、隣国インドを植民地化した英国はアフガニスタンもまた属国にすべく、3度にわたり侵攻したが結局失敗し、1973年、ザヒル・シャー国王がいとこのダウドに追放されるまで、200年以上もアフガン王国の繁栄は続いた。

 ダウドはもとより親ソ派で、ソ連から援助を受けていたが、やがて親ソ派のなかの内部対立で、5年後の1978年4月、ソ連で軍事訓練を受けた軍内部のマルキストシンパによって倒された。ダウドと家族たち、そして護衛たちも全員が殺されたという。

 こうしてアフガン王国が滅びた後、アフガンの各民族、各部族の対立がはじまった。そしてアフガンの混乱のなかで、1979年末にソ連が進行してきて、さらに内戦が激化した。古都カンダハルを占拠したソ連軍に対して、イスラム戦士(ムシャヒディン)たちが立ち上がり、果樹園に実を潜めて激しく抵抗した。

 ソ連は数千本の果樹を切り倒し、果樹園の灌漑設備を破壊した。そこに世界で最も高密度といわれる地雷が埋められ、多くの農民は職を失って難民と化した。10年近い戦いの後、結局ソ連は破れてカンダハルを撤退したが、荒廃した農園がそのあとにのこされた。

 1990年以降、荒れ果てた果樹園にもどってきた避難民たちは、生活のためにケシを育てはじめるしかなかった。かってカンダハルの果樹園は王侯貴族にまで供された香しい果物の産地だったが、いつかそれが悪名高い麻薬の産地になってしまった。

 ソ連はムシャヒディン鎮圧のために、毎年50億ドル、総額450億ドルをアフガニスタンにつぎ込んだという。これに対抗して、アメリカ、パキスタン、サウジアラビアもまた総額で100億ドル以上をムシャヒディン側に注ぎ込んだ。これらの援助の大半は強力な近代兵器だった。今のアフガニスタンの殺伐とした光景はその代償である。 


2001年10月15日(月) 中央アジアのパン籠

 アフガニスタンの映像を見ていると、殺伐とした砂漠と廃墟ばかりが目に付く。その昔、この不毛の地に西欧世界をも圧倒するような香しい文化と文明があったことを誰も信じないだろう。

 今日はアフガニスタンの西部にあるヘラートという都市について書いてみよう。なぜならこのヘラートこそ、アフガニスタンの歴史と文化の揺籃の地だからだ。この地に人が棲みついたのは5000年も前である。灌漑農業が進み、中央アジアで最も豊かな土地だと言われたその文明の輝きは古代ギリシャにまで届いていて、歴史家ヘロドトスはヘラートを「中央アジアのパン籠」だとほめたたえている。

 歴史の夜明け以来、この地は文明の十字路として栄えた。ここは原始宗教ゾロアスター教の地であり、仏教系、ペルシャ系、トルコ系の美術と建築が建てられた世界最古の都市の一つである。

 巡礼者や商人たちがシルクロードを伝ってこの都市を訪れ、そして遠く中国やヨーロッパへと旅立っていった。ギリシャ人たちもまたここを訪れ、ギリシャ文化とアジア文化が出会い、その文明の輝かしい対話の中から新たな芸術が創造された。

 こうした豊かな文化的遺産の上に、さらにイスラムの文化が移植され、あでやかに華開いた。市の中心にあるモスクは7世紀に創られ、12世紀に再建された。1088年に没したヘラートの聖者ハワジャ・アドブラ・アンサリはイスラム神秘主義の詩人で、今もなおアフガニスタンで人気があって、崇拝者がたくさんいるという。

 1222年に地獄がこの文化都市を襲った。チンギス・ハンがヘラートを占領し、16万の市民を殺害した。このとき助命されたのは40人にすぎなかったというから、ほとんど皆殺しにされたわけだ。

 しかし、2世紀後、ヘラートは奇跡的な復興をはたした。チムール帝国のシャー・ルフ王が都をサマルカンドからヘラートへと移したからだ。彼はペルシャ、インド、中央アジアから職人を集め、何十ものモスク、学校(マドラサ)、公衆浴場、図書館、宮殿を建設した。

 ヘラートのバザールは復活し、精巧な絨毯や、宝石、武器、タイルや精密画が売られた。当時首相を務めたアリシェルは「ヘラートでは、足を運べば詩にぶつかる」と書いているが、かれ自身詩人で画家、作家でもあった。

 シャー・ルフ王の妃ゴワール・シャドの墓は、花模様のペルシャ青のタイルで覆われ、青いドームには真っ白な文字でコーランが書き付けられ、世界でもっとも精巧なイスラム建築の一つだった。この墓を見た詩人のバイロンも「神と自らの栄光のために、人間が作り出した、もっとも色彩の美しい建築の例だ」と述べている。

 シャー・ルフ王とその妃ゴワール・シャドはこうした美しい建造物を300ほども建てたと伝えられている。しかし、これらの建造物の大半が1885年にイギリスによって破壊された。

 さらに1980年にソビエト軍がヘラートを爆撃して、モンゴル人よりも大きな打撃を与えた。ソ連軍はイスラム戦士を近づけないために、この一帯を地雷源にした。今日ヘラートは、世界でもっともひどく破壊され、最も多くの地雷が埋められている都市だという。

 そして1995年9月、タリバンがヘラートを占領した。タリバンは市民数百人を逮捕し、すべての学校を閉鎖して、女性には外出禁止令を敷くなど、厳しいイスラムの掟を強制している。数千年の文化と歴史を誇るこの都市が、再びその廃墟のなかから甦る日のあることを、アフガニスタンの人々とともに祈らずにはいられない。

(参考)  「タリバン」 アハメド・ラシッド著 講談社 2000年刊


2001年10月14日(日) テロに備えるには

 アメリカでガスマスクが売れているという。殺人ガスによるテロから身を守るためだが、専門家によると気休めにしかならないらしい。殺人ガスの種類が多く、そのいずれにも効果がある万能マスクはないからだ。

 化学兵器も怖いが、生物兵器も怖い。筆頭が「炭疽菌」だろう。米NBCテレビの女性職員の炭疽菌保菌の原因になったとみられる郵便物と同様に不審な郵便物が、ニューヨーク・タイムズ紙本社や国連本部、ネバダ州のマイクロソフト関連会社に届いたらしい。フロリダ州に端を発した炭疽菌問題は全米に広がり、FBIは刑事事件として本格的な捜査を始めた。テロとの関連も有力視されている。

 生物兵器の専門家の報告書では、炭疽菌は「想定すべき生物剤」のトップに天然痘ウイルスとともに挙げられている。保存や運搬がしやすく生物兵器として便利で、空中散布や飲料水に混入する手口もあるという。

 肺から感染した場合、発熱やせきに続いて呼吸困難に陥り、致死率はほぼ100%。皮膚の傷などからも体内に入り、この場合の致死率は25%だという。初期症状には抗生物質が有効だが、1〜6日間の潜伏期間の後、病状が進めば救命の手段はなくなる。

 生物兵器はコストが安く「貧者の核爆弾」と呼ばれている。1平方キロに大損害をもたらすには通常兵器2000ドルに対し、生物兵器はわずか1ドルだ。炭疽菌900キロを詰めた弾頭を落とせば、一つの都市を丸ごと汚染することができる。
 
 1999年に「ベクター−媒介−」(ロビン・クック著)という小説がアメリカで出版された。アメリカに恨みを持つ犯人がニューヨークで炭疽菌を使った無差別テロを計画し、最初はダイレクトメールで効果を試す。さらに、セントラルパークと連邦ビルで大量散布を試みるという内容で、今回の事件はこの小説を下敷きにした犯行かもしれない。

 アメリカ国務省はビンラディン氏が率いるテロ組織「アルカイダ」は、炭疽菌など生物・化学兵器になりうる物質を大量に保有しているらしいと発表している。核爆弾を所有している可能性はほとんどないとしながら「放射性物質を撒き散らす兵器の製造は可能」とも述べている。

 テロに備えるには、ある程度の安全対策や危機管理が必要なことはいうまでもない。しかし、そうしたものにだけ頼っていては、私たちの安全は永久に実現できない。実際のところ、巨額の税金を投入し、検問を強化して市民の人権と自由を大幅に奪い、極端な管理主義体制をしいても、その可能性を0に近づけることは至難の業である。

 そうした効果の怪しい、気休めでしかないテロ対策に莫大な費用を使うくらいなら、その何分の1かのお金を難民対策や最貧国の援助にあててはどうだろう。報復とテロの悪循環を断ち切ることが、一番有効なテロ対策だからだ。


2001年10月13日(土) 同時多発テロから学んだこと

 最近、何だか憂鬱である。アメリカで起きた大規模なテロや、その後の動きを見ていると、言いようもなく淋しい気分になる。とくにアメリカによるアフガン空爆の報道に接してから、この気分ははなはだしくなった。空爆そのものも不愉快だが、それ以上に気を滅入らせるのは、それを当然と考える世論の趨勢である。

 正直言って、タリバンやビンラディンが好きではない。アメリカで起こった同時多発テロとの関わりはかなり濃厚だし、たぶん限りなく黒に近いのではないかと思う。しかし、だからといって、これを悪の代名詞のようにきめつけて、「殲滅せよ」というのはどうだろうか。まさに洗脳された狂気の世界に生きているような不気味さを覚えずにはいられない。

 こうした病的な志向性はナチズムの全体主義やユーゴスラビア内戦で行われた民族浄化の思想にも通じている。あるいは異物を排除しようとする現代の極端な清潔志向の現れと見ることも出来よう。その根底にあるのは現代人が魂の内部に押し殺している死にたいする恐怖や不安であろう。

 私は今アメリカが行っている軍事行動は、テロリスト以上に罪深い所業だと思う。それは何も、この無慈悲な攻撃によってあらたに何百万という難民が生まれ、さらに悲惨な状況が無実の人々の上に覆い被さるからという理由からだけではない。

 テロリストに対して、だれも愛や正義を要求することはない。しかし、自由と民主主義を標榜する超大国アメリカに、私たちはもうすこし高尚なものを要求したいのだ。アフガンの歴史を見れば明らかなように、アメリカにはこの地域が直面するさまざまな危機的状況にたいして歴史的責任がある。このことをもう少しアメリカは自覚すべきだろう。

 アメリカはテロリストを打倒するだけではなく、この地上をもう少しまともなものにしたいと考えている人間の理想と努力をもうち砕こうとしている。そうした人類の未来に対する夢と理想を無慈悲にうち砕き、世界の良心的な人々や飢餓に苦しむ人々にこれ以上の絶望を与えることをして欲しくないのである。

「ぼくは思う。暴力は暴力の連鎖しか生まない。報復をすればさらに凶悪なテロの被害が、アメリカ人だけでなく世界中の人間に及ぶことになろう。巨大な破壊力をもってしまった人類は、パンドラの箱を開けてはいけない。本当の勇気とは報復しないことではないか。暴力の連鎖を断ち切ることではないか。人類の叡智と勇気を誰よりも示せるのは、世界一の力を自ら動かすことのできるブッシュ大統領、あなたではないのか」

 これは音楽家の坂本龍一さんが朝日新聞に寄せた一文である。ニューヨーク在住の坂本さんは、第一報を聞いて、いてもたってもいられなくなり通りに出たが、炎上するWTC(世界貿易センター)ビルを茫然(ぼうぜん)と見ながら、腰が萎えるようなショックを受けたという。そうした悲惨を目撃した彼が、その怒りと悲しみを乗り越えて、このような文章を書いていることに、私はいくらか心に明かりが灯る思いがした。

 報復しない勇気だけが希望を生む。しかし、空爆は始まってしまった。時間の針はもう元には戻せない。したがって私たちは新たな希望を創り出さなければならない。そして希望はこの場合も「報復」の中にはなく、「対話」の中に求められる。アメリカに少しずつ理性と冷静さが戻ってくることを期待しよう。タリバンを殲滅しようとするのではなく、これと対話し、ときには妥協することが必要である。

 アフガニスタンが平和で豊かな国になることが、すなわち私たちが平和で幸福に暮らす前提なのである。これを今回のテロから私たちが学んだ第一の教訓にしたいものだ。繰り返し書いておこう。報復からは何も建設的なものは生まれない。私たちは時には「悪」とすら対話を試み、これと共生する忍耐を持つことも必要である。

 それはたしかに困難な道かも知れない。しかしこの試練を乗り越えることなくして、人類はもはや希望のある未来を切り開くことは出来ない。報復がもたらすものは、たんなる破壊である。そこにあるのは「力による支配」を正当化する弱肉強食の論理であり、その行き着く先にあるのは、人間の人間に対する不信と、人間という存在に対する「絶望」だけだろう。


2001年10月12日(金) もう一つの真実

 作家の村上龍さんが「同時多発テロの意味」というテーマで、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)カブール事務所所長の山本芳幸さんと対談をしている。私はその内容を村上さんのメールマガジンで読んで、少しタリバンの実体がわかった。

 米国よりの一方的な報道が行われる中で、現地の国連事務所の責任者としてアフガンの現状やタリバンを知り尽くしている当事者の発言には重みがある。少し長くなるが、山本さんの発言を中心に日記に引用しておこう。なお(括弧)の中が村上さんの言葉である。

ーーーーーーーーーーーー「同時多発テロの意味」ーーーーーーーーーーー

 僕らは日常タリバンと一緒に仕事をしていて、要するに彼らは取引先みたいなものなわけです。タリバンはアフガン国民をいかにして救うかということに本 当に必死です。タリバンにも外務省や厚生省などのように色々な省があります。その人たちはその仕事を懸命にやっていて、お金もほとんどありません。それでもなんとか国民を助けようとしています。

 そういう省の建物も日本人からは想像もつかないくらいにボロボロです。第三世界の政府の人間はものすごいお金持ちが多いですが、タリバンは本当に質素です。着ている服もボロボロだし、靴下も履いていない。食べ物も質素。

 国連からのお金で毛布や布団を作って、国民に配給するときも僕たちが一緒にプロジェクトを進めます。タリバンもまったく普通の人たちです。盗みもしません。安心して仕事を一緒にできます。・・・全般的に言うと、パキスタンで仕事をするよりもタリバンの支配下にある方が仕事がやりやすかった。

 タリバンがアフガニスタンを制圧していく中で、実際にはほとんど戦闘は起こっていません。アフガン人にとっては、とうとう救いの人たちが現れた、という思いで、タリバンが入ってきたら大歓迎された。92年4月に共産政権が倒れた後、ムジャヒディン同士の壮絶な戦闘が始まりましたが、その当時、アフガニスタンは完璧なアナーキーな状態です。局地支配をしているムジャヒディンが自分の支配地域で略奪・レイプやりたい放題です。

 誰もがそんな状態にうんざりしていた。そこに秩序の回復を最優先とする集団が現れた。それがタリバンです。彼らは略奪もレイプもしなかった。彼らが真っ先にしたのは武装解除です。タリバンが非常に短い期間に支配地域を拡大することができたのは、タリバンのそんな評判が口コミであっという間にアフガニスタン全土に広がり、それに対する支持があったということを考えないと説明しきれない。

 (テレビで放送される難民のインタビューのほとんどは、タリバンに支配される苦しみの声です。昔の王政を懐かしむような声も放送されています)

 難民はどういう答えをメディアが求めているか知っているんです。

 (今、実はタリバンは武力専制ではない政治を行っているとか、質素で誠実だとか、そういう情報が入ると、考えなくてはいけなくなります。タリバンが悪逆非道な連中だと決めつければ、考えることは少なくてすみますね)

 今、そういうことを言うと、"タリバン派"だと決め付けられてしまいますしね。タリバンのやった秩序回復・治安維持の功績は大きいと思います。内乱状態を収めることは他の誰にもできませんでした。内乱を収めて治安維持を行わなければ、次のステップには進めません。

 カブールのような都会にはタリバン嫌いが多いんです。昔はミニスカートがはけたのに、タリバン以後ははけなくなったというようなことです。しかし、カブールのような都会を除けば、ほとんどは何も変わっていません。

 アフガン人女性の人権団体で今活動している人たちがメディアで取り上げられていますが、ほとんどは毛沢東派と呼ばれるようなコミュニスト達で構成されています。コミュニストだからダメだというわけではないんですが、かつて冷戦下アメリカでは冷遇されていたのに、今は使えるのでどんどんメディアに露出しています。

 北部同盟を応援するとアメリカは言っていますが、彼らが行ってきた酷いことはアフガン人の記憶に生々しく残ってます。略奪、レイプにハザラ族の虐殺も しているし一般の人の支持なんて全く考えられない。彼らを政権に就かせると いうのは空想物語ですね。

 ここ数年間のタリバンの最大の望みは承認してもらうことなんです。でも、アメリカは彼らを承認しない。アメリカが承認しなければ、他の国もついていきません。おかしいのは189カ国あるなかで、その中には入れてあげないといっておきながら、色々と注文をつけるわけです。国際社会のルールを遵守しろと迫る。

 それは論理としておかしいと思います。村八分にして村の掟に従えというのはありえない話です。タリバンはルールの外に置かれているからルールに従わなくていいという論理もあるわけだから、国連の中でも一部の人たちはすぐに承認すべきだったと言っています。国家として承認されてしまうと様々な義務が発生します。条約も守らなくてはいけないので、どんどん国家らしくなっていきます。今、彼らをアウトローだと言っている人たちが彼らをアウトローにしているという側面もあるわけです。

 だから何も失うものがない。国家でもないし、爆撃すると言ってももう壊すものもない。食べるものもない。そこへの攻撃は何の意味もありません。影響があるとするなら、イスラムへの同情心でアメリカが孤立してしまうことです。日本もそうなる可能性があります。

 今CNNの画面には常にWAR AGAINST TERROR と出ています。それは具体的なテロに対する戦いという意味ですが、抽象的に訳せば、テロに対する戦争とも取れます。テロ対戦争ならテロが勝つに決まっているんです。テロはルールの外で、戦争はルールの中で戦うわけですから、結果は見えています。どうしても勝とうと思ったら、戦争側もテロをやるしかない。泥沼というのはそういうことです。

 イスラマバードにアメリカ兵が来たりすると、内乱状態になってしまう可能性もあるんです。そうなると一番心配なのはインドの相乗りの攻撃です。パキスタンも、「来るなら来い!核撃ちこんでやる」みたいな感じになって混乱しています。

 テロを撲滅するにはどういうオプションがあるのかということをまったく議論していないですよね。一つのオプションとしてアメリカがたまたま軍事攻撃というのを出しているだけで、それがベストかどうかを他の国が検討しない。その他のオプションを提示することが本来の貢献ではないかと思います。

 日本の報道で本当におかしいと思ったことがあります。トランジットでバンコクの新聞を読んだのですが第一面の見出しに"Afghan Offer Rejected"と大きく書かれてる。どういう内容かというと、タリバンが宗教者を集めて会議をしてその中で、ビンラディンに自主的に国外に行くように勧告しましたよね。それはタリバンにとっては、もうほとんど自殺行為に近い決定だったんです。

 アフガンにとってはとても大きなシグナルなんです。でも、アメリカはそのシグナルを無視してしまった。だから、見出しの意味は、「アフガンが出した申し出が拒絶された」ということです。見出しの書き方としては正確です。ところが、日本の新聞を見たら、"ビンラディン引渡し タリバン拒否"と書いてあるんです。意味がまったく反対です。読んでいると、「タリバン強硬姿勢を鮮明に」とか書いてあってまったく正反対のことが書いてある。本当はブッシュが強硬姿勢を鮮明にしてタリバンはそれを何とか緩和しようとしてものすごい決断をしている。

 日本の新聞記者も取材によく来るんです。そのときに僕は、そういうことを話すんですが、そういうことを記者が書いても記事にならないみたいですね。

 もともと女性はブルカを被って顔を隠していたんです。一部に東京のような大 きな街があって、そこの人たちだけは被っていなかった。まずは、都市の人も 宗教的な戒律を守って治安を維持していこうということだったんです。

 現段階で550万人くらいの人がアフガニスタン国内で餓死寸前なんですが、それが750万人くらいまで増加する可能性がある。つまり、予測不能の期間、援助機関がアフガニスタン国内に入れないとそんな数の人間が戦闘とは関係なく死んでしまう。戦闘による犠牲者ももちろんでるでしょう。国連総会で軍事行動を支持するような決議が出てしまう可能性もありますが、その一方で国連はこういう情報を出して警告しているんです。こういう情報は国家の行動に影響を与えるかもしれない。そういう意味で重要だと思うんです。


2001年10月11日(木) もし、テロに襲われたら

 外交評論家の岡本行夫さんが「毎日新聞」に掲載された「相対主義に決別を」と題する論文の中で、「テロは大悪。市民殺戮(さつりく)も大悪。6000人殺害に至っては言葉もない。『アメリカもテロリストも、どっちもどっち』というわけしり顔の相対論に今回は決別しよう」と書いている。

「国際法には「復仇(ふっきゅう)」という概念がある。武力紛争の最中などに違法行為が行われた時に、その再発を防ぐ他の手立てがない時には、こちらも違法行為を行ってよいという概念である。『違法行為を国際法が許すなんて!』と金切り声が聞こえてきそうだが、国際社会は、我々お人よしの日本人が考えているより余程冷厳なのである」

「アメリカで起こったようなテロが日本で起こっても日本の自衛権は発動されないとしよう。日本はテロへの強い非難声明を出し、それから「恐れながら」と国連に願い出ることになる。テロリストたちから見てこんなにラクチンな国はない。原理主義過激派が文明社会に鉄槌を下そうと考える場合には、最も抵抗力の弱い日本を狙うのがいちばん怖くない」

「北朝鮮がミサイルを撃ち込んで百人殺す場合には自衛隊が出動してもいいが、テロリストたちがサリンを撒き散らして一万人殺されても自衛隊は出ちゃいかんというなら、国民みんなで年間5兆円も負担して高度に訓練された防衛のプロ集団にいてもらう必要もないのだ」

 岡本さんは、もし日本がアメリカと同様なテロに見舞われたら、自衛隊を派遣して、アメリカ同様にタリバンを攻撃すべきだという考えらしい。これもまた「自衛権」の発動だというのである。正直言って、こうした主張が日本の大新聞の論壇で堂々となされていることに驚いた。

 しかし、考えてみれば、アメリカで起こったことが日本で起こらないという保証はない。もし、今回狙われたのが日本の高層ビルで、やはり1万人近い死傷者が出たとしたら、私たちはどのような対応をとったらいいのだろう。

 私は基本的に「目には目を」の精神に賛成だ。殺人者は死刑に値する。テロリストは死刑に値する。実行犯だけではなく、支援者も同罪だろう。だから、彼らを捕捉して国際法廷で死刑を宣告できればいちばんよい。

 しかし、容疑者であるビンラディンを捕捉するのはむつかしい。タリバンが渡そうとしないからだ。そうすると容疑者をかくまうタリバンも同罪だということになる。それではアメリカに習って自衛隊を派遣し、アフガン攻撃をすべきだろうか。

 もちろん武力行使のために自衛隊を派遣することは違憲である。これを「自衛権の発動」などと強弁することは許されないだろう。この場合は憲法や法律の改正をしなければならない。その上で国際社会の理解を得る必要がある。少なくともアメリカの協力は不可欠だろう。

 こうしたことが可能だととうてい思えないが、1万人も殺されれば、あるいは世論が動き、アメリカも自国の国益を考えて日本に同調するかも知れない。そうすると、日本の自衛隊がアメリカ軍やその他の国々の軍隊とともにタリバンを攻撃できるかもしれない。

 しかし、たとえビンラディンが有罪であり、彼をかくまうタリバンが 同罪だとしても、アフガンの多くの人々まで同罪だとすることは人道上問題がある。無実の人々が犠牲者となり、多くの人々を難民化する武力による実力行使は避けるべきではないか。

 それでは、どうしたらいいのだろうか。私は日本はまずテロの温床となる難民対策に乗り出すべきだと考える。世界最貧国で世界最大の難民を持つアフガニスタンに積極的に経済援助をして、この国をもとの緑豊かな牧畜と農業の国に戻してやるのである。

 そうすれば、イスラム原理主義もタリバンも自然消滅するに違いない。ビンラディンを捕捉することもできるだろう。回り道でも、これが一番確実な方法であり、かつ根本的なテロ対策に違いない。これは日本がテロに襲われた場合の架空のシナリオだが、アメリカに対しても、かくあってほしいと切に願わずにいられない。


2001年10月10日(水) 空爆の空の下で

 アフガンでは、79年の旧ソ連軍侵攻とその後の内戦で、人口の3分の1が隣国のパキスタンやイランへ流出したという。さらに昨年、アフガンを空前の大干ばつが襲った。被害はアフガン全土から周辺諸国に広がり、400万人が飢餓に直面。100万人が餓死寸前との世界保健機関(WHO)の報告がある。

 非政府組織(NGO)「ペシャワール会」現地代表、中村哲医師らはこの大災害を目にして一人でも多くの人を助けるために干ばつ対策に専念することを決断し、アフガン東部一帯で井戸掘りを始めた。その結果、約1年で20万人以上の難民化を防いだという。ところが、命をつなぎ留める地下水でようやく息をつきかけたころ、今回の同時多発テロが起きた。

 日本人に退去勧告が出されたとき、中村さんはアフガン東部のジャララバードで、ともに作業したアフガンの人たちを前に「やむを得ず一時避難します。米国による報復でここも危険にさらされています。しかし、私たちは必ず帰ってきます。生き延びたあかつきにはまた汗を流しましょう」と語りかけた。

 そうすると長老が立ち上がり、「皆さん、世界には2種類の人間があるだけです。無欲に他人を思う人、そして己の利益を図るのに心がくもった人です。私たちはあなたたち日本人と日本を決して忘れません」と応えたという。

 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、アフガンで発生した難民は世界最多で、同時多発テロ直前の9月10日現在、パキスタンに200万人、イランに150万人など計約370万人に上るという。

 さらに今、戦火を恐れ100万人以上の避難民が農村部や国境付近へ逃れている。攻撃が始まったことで、新たに150万人の難民が隣国へ流出すると予測される。

 内戦と干ばつ、そしてこのたびの戦禍で、多くの人々が家を捨て、難民となって路頭に迷っている。この悲劇が終わるのは何時のことだろう。テロへの報復を叫ぶ人々の目に、この現実が見えているのだろうか。


2001年10月09日(火) 難民救済のために

 大学生の長女が帰ってきて、昨夜も二日続きの外食になった。レストランで食後のコーヒーを飲みながら、雑誌を読んだ。アメリカの同時多発テロと報復についての記事を読みながら、いよいよ始まったアフガン空爆を思い出して、今この瞬間にも多くの人々が傷つき、あるいは飢餓のため死んでいるのだと思った。

 現在世界には4000万人をこえる難民がいるそうだが、なかでもアフガニスタンは過去30年でもっとも大規模な干ばつに見舞われ、これによって100万人以上の難民が発生したと言われている。しかし、今回のアメリカの武力行使によって、この数は今後さらに数倍にふくれあがるだろう。

 フランスに本部を置く医療援助NGOメドゥサン・デュ・モンド(世界の医療団)のボランティア医師によると、同国西部のヘラートとマスラクでは、農村地帯からやってきた20万人を超える避難民が、水、食糧、テントの不足するキャンプで暮らしている。劣悪な保健衛生環境の中、下痢や脱水症により、1カ月に100人のペースで子どもたちが命を落としているという(2001年6月現在)。

 ヘラートとマスラクの避難民キャンプに派遣された7名の医療ボランティアとおよそ100名のローカルスタッフは、1診療所あたり1週間に2500件にのぼる診察をこなしていた。増え続ける避難民の列を前に、危機感を募らせている矢先に、アメリカで同じ多発テロが起こった。

 国際機関や各国政府から孤立していたアフガニスタンにおける人道援助活動は、NGOを通じた市民レベルの国際援助に多くを負っていた。しかし、今回のアフガン空爆でNGOも撤退を余儀なくされている。ボランティアの医師たちも撤退した今、難民たちは完全に孤立無援の状態におかれている。

 難民キャンプには伝染病が蔓延する兆候が見られ、人権侵害も多発していたという。こうしている間にも多くの子供たちが息を引き取っていることだろう。そして今後アメリカやイギリスの強襲部隊が投下され、タリバンと北部同盟の内戦が激化すれば、どれだけの人命が失われるか見当もつかない。

 こうした中で、隣国パキスタンのペシャワルにある日本のNGO「難民を助ける会」は現地のNGOとともに5000人分の食料を、今日にもアフガンから逃れてきた難民に配る手筈になっているという。

 アメリカ軍の後方支援に熱心な日本政府に対して、私たちは難民救済に挺身しているこれらのNGOを後方支援したいものだ。折りしもユニセフがアフガニスタンの難民への緊急募金を募集している。参考までにユニセフの募金のお知らせと、アドレスを書いておこう。

(参考)「ユニセフ(国連児童基金)は、長引く紛争と干ばつ、アメリカの同時多発テロ事件の影響を受けアフガン国内外で避難生活を送っている子どもと女性に対する緊急援助のため、3600万米ドル(約42億円)の支援を国際社会に要請しました。財団法人日本ユニセフ協会(本部:東京都港区、会長:澄田 智)は、すでに72万米ドルの緊急拠出を行いましたが、引き続きユニセフの緊急援助を支援するため、「アフガン難民緊急募金」の受け付けを行っています。皆様のご支援を宜しくお願い致します。http://www.unicef.or.jp/siryo/kin.htm」


  〜アフガン難民緊急募金〜

 郵便振替:00110-5-79500
 口座名義:財団法人日本ユニセフ協会
 (通信欄に「アフガン難民」と明記)
 当協会への募金は寄付金控除の対象となります 尚、送金手数料は免除されます。
 インターネットからも募金を受け付けています。(http://www.unicef.or.jp)




2001年10月08日(月) 生きる糧としての農作物作り

 妻の実家が田圃を持っているので、毎年何日か妻が労働に出かける。その見返りに、一年間分の米をもらう。その米がなくなったので、新たにもらいに出かけたところ、まだ二俵も残っているので、いくらでも持っていってくれといわれたとのこと。米を買わなくてすむのはありがたいことだ。

 それにしても、農業も機械化されて随分楽になった。妻の実家も義兄が公務員で、典型的な兼業農家である。というよりもほとんど農作業はしないので、農家という感じではない。それでいて、農協に毎年米を出荷して、それなりの収入を得ている。そのおこぼれを私たちももらっている。

 主食である米を買わなくてもよいというのは、単なる金銭的なものではない安心感と幸福感を与えてくれる。我が家の場合、畑を借りて野菜も作っているから、食糧自給率はかなり高い。

 借りている畑の地代は月2百円だというから、ほとんどただのようなものである。かなり広い土地を、多くの人が共同で借りているので、それぞれ違った作物を作って分け合ったり、知識や経験を交換できる。このあいだも隣の畑の人から無花果をもらったが、とてもおいしかった。

 さて、ここから話が堅くなる。日本の農業の話である。昭和40年には約1200万人近くいた農業就業人口は、平成11年には384万人にまで減っている。その年齢別構成を見てみよう。

  15〜44歳 14%
  45〜54歳 12%
  55〜64歳 23%
  65歳〜   51% 

 統計で見る限り、農業従事者の過半数が65歳以上であり、高齢化現象がはっきりと現れている。今後さらにこの傾向がすすむだろう。しかしこの数字に私はそれほど危機感を抱いてはいない。農業はもう昔のような重労働ではない。高齢者や主婦が片手間に楽しみながらやることができる。こうなるともはや半分は趣味の領域である。

 昔は人口の大半が農民であった。その農民が汗水働いて、ようやく国民が生きていけるだけの農作物を生産していたのである。それにくらべて、現在はほんの一握りのひとびと(総人口の3%強)が、しかも片手間仕事で必要な食料を生産している。

 日本は先進国でも食糧自給率が40パーセントときわめて低い。しかし今後我が家のような「自給派」がふえれば、この数字も改善するのではないかと思われる。農業を経済活動とはとらえずに、生活の糧として身近に体験できる環境が広がっていけばよいと思う。

 もともとこの国の地形は山地が多く大規模な農法に向いていない。私たちの先祖はそれほど広くもない土地を営々と守りつづけ、作物を育ててきたのである。アメリカ型の大規模農業は環境破壊を加速する。そうすると今後世界的に見た食糧需給は逼迫する可能性が高い。そのとき環境に優しいこうした身近な農作物作りが見直されるに違いない。


2001年10月07日(日) TI化がもたらすもの

 日本やアメリカで失業率がじわじわ上がってきている。失業率を下げるにはどうしたらよいか。経済を活性化し、景気を回復させればよいというのがこれまでの右肩上がりの時代の考え方だった。

 しかし、これからのIT化時代にはこの考え方は成り立たない。IT化は生産性の飛躍的な向上をもたらす。機械化によってブルーカラーが大幅に淘汰されたように、IT化はホワイトカラーの大幅な淘汰をもたらす。

 生産性の向上は「労働の合理化」であり、リストラでもある。現在世界で進行中のデフレ現象も、その本質をつきつめればIT化による生産性の向上の結果だと言える。

 10人が8時間働いてこなせる仕事が4時間でこなせるようになったからといって、5人を解雇するのではなく、10人を雇用したまま、労働時間を半分にすることが必要なのである。そうすれば、失業は発生しないし、むしろ自由時間の増大が、新たな需要を喚起し、経済を活性化する。

 一般に、生産性の向上は労働の短縮を生み、自由時間の増大と、精神的に満ち足りた生活を可能にする。生産性の向上が失業を産むのは、社会システムに問題があるからである。したがって、IT化時代に対応した新しい社会システムを早急に構築する必要がある。


2001年10月06日(土) 賃金闘争がもたらしたもの

 日本の国民一人あたりのGDPは約3万ドルである。これはG7先進国の中でも、アメリカについで高水準である。ちなみにドイツが2万9千ドル、フランスが2万5千ドル、イギリスが約2万4千ドルである。参考までに主要国の数値をあげておこう。

  〜国民一人あたりのGDP(千ドル)〜

  日本         30.0
  シンガポール     21.6
  韓国         7.0
  中国         0.6
  インド        0.4
  アメリカ        31.5
  イギリス        23.6
  ドイツ        28.8
  フランス       24.6
  ロシア        1.9
  オーストラリア     19.4

 それでは日本の賃金はどのくらいの水準にあるのだろうか。日本の財界は「日本の賃金は世界のトップクラスだ」と主張しており、私も漠然と日本人は世界一の高給取りだと思っていたが、政府が出資する「日本労働研究機構」の「国際労働比較2001」の1998年の統計を見ると、これが思ったほど高くはないことがわかる。

「時間あたりの賃金」は、為替レートで比較して、日本を100とすると、アメリカ102、イギリス78、旧西ドイツ地域は144,フランス108である。G7先進国ではイギリスくらいしか日本の下位にはない。これではとくに日本が高賃金だとは言えない。

 これを生活の実態に合わせるために、購買力平価で比較してみよう。この場合は日本を100とすると、アメリカ143、イギリス89、旧西ドイツ地域は173,フランス128になる。

 さらに日本の場合は統計にあらわれない「サービス残業」による無報酬労働の問題がある。単位時間あたりの報酬でみるかぎり、日本は先進国の中ではむしろ低賃金の部類だと言ってもよい。

 日本労働研究機構も「生活の原資という意味での賃金は国際的にみてまだ低い水準である」と書いている。日本の労組はこれまで「賃金闘争」に熱心だった。しかし結果として、労働時間の短縮を求めてきたヨーロッパ諸国の方が、この面でも成果を上げている。

 これは日本の長時間労働を前提にした労働生産性に問題があるということだろう。これからはGDPの数値に惑わされないで、もっと生活の実質を考えて労働環境を改善するべきだろう。単なる賃金闘争は、結局物価の高騰をもたらすだけで、実質的な高賃金をもたらすことはない。

(参考サイト)
 「FPWCリタイア後の海外暮らし」
       http://www.fpwc.co.jp/index.html
 「国際労働比較2001」
        http://www.jil.go.jp/statis/databook/kokusaicontent.htm


2001年10月05日(金) 文化人のHP

「インターネット白書」(インターネット協会監修)によると、日本のインターネット人口は2001年2月で3263万人(昨年同期比1325万人増)で、2001年末には3628万人に達すると予想している。また、1世帯に1人以上のインターネット利用者がいる割合は46.5%で、昨年の24.6%から倍増した。

 アメリカではインターネット人口が5割を越えているが、日本でも3割を越えて、次第に市民権を得てきているようだ。我が家でも今年の夏から、妻や娘がインターネットを始めた。現在我が家では3人がメールアカウントを持ち、それぞれにメールフレンドを持って、対話を楽しんでいる。

 あと、1,2年もすれば、ほぼ全世帯にインターネットが接続されることだろう。常時接続があたりまえになって、インターネットを通したテレビ電話やショッピング、映画鑑賞などが普及するにちがいない。

 すでに会社や公的機関だけではなく、各個人がHPをもち、HPアドレスを名刺代わりに交換する風景が見られるようになった。政治や経済、教育の仕組みも少しずつ変わりつつある。

 たとえば米国で起こった同時多発テロについても、インターネットのHPを使って、有名無名の多くの人々が発言している。先日の朝日新聞に文化人のHPが紹介されていたので、再録しておこう。

  池澤夏樹 http://www.impala.co.jp
  藤原新也 http://www.fujiwarashinya.com
  小田実 http://www.dcn.ne.jp/~skana/oda.htm
  宮内勝典 http://pws.prserv.net/umigame
  柄谷行人 http://www.criticalspace.org


2001年10月04日(木) 小泉流「適者生存説」

 小泉首相が「所信表明演説」でダーウインの進化論に触れたそうである。自然淘汰説によれば、「生存競争」によって、「環境に適応できる生き物」だけが生き残る。

 小泉首相はこれを「変化に対応できる生き物だけが生き残ることができる」という風に発言したようだ。「環境」と「変化」、わずかな言葉の違いだが、この違いは注目すべきだろう。

 従来の自然淘汰説は、環境の安定を前提に、その環境に最も適合した種が生き残ると主張してきた。しかし環境が激変する局面においては、むしろ環境に適合すべく高度に進化した種の方が、絶滅する傾向にある。

 例えば、恐竜が繁栄したジュラ紀と白亜紀は、高緯度地域を含めた地球全体が高温多湿で常夏の無氷河時代であった。この環境に適合しすぎた恐竜は、白亜紀末の気候の寒冷化を生き抜くことができず、絶滅したと考えられる。環境に適応しすぎると、変化に対応する能力が失われるのである。

 今は変化の時代である。小泉首相は政治の世界では変わり者だと思われていた。永田町の環境に充分適応しているようには見えなかったが、世論の変化に敏感に対応して、あっというまに頂点に上り詰めた。「変化」に対する適応力が高かったことが、彼が成功した秘訣だろう。

 現代の社会や経済はたしかに進化論で説明されるとわかりやすい。しかし、科学の装いをまとった生半可な進化論は、少し用心してかからなければならない。社会が「競争と淘汰」によって発展するとうそぶく「社会ダーウィニズム」がその先に待ちかまえているからだ。

「社会ダーウィニズム」は強者の支配を合理化するために使われる。西欧列強の植民地支配や帝国主義、奴隷売買や人種差別、ドイツのナチズムがここから生まれている。大企業のリストラを応援し、中小企業の淘汰を押し進める小泉改革に、冷酷な「社会ダーウィニズム」の匂いが感じられる。そう思っていた矢先の国会発言だった。

「変化に対する適応力」とは、身軽に自分の意見や立場を変える保身術にも通じる。しかしこうした適応力をいくら身につけても、ほんとうに大切なものが手にはいるとは限らない。大切なのは、一本筋の通った思想や哲学だろう。そうしたものがあって対話が成り立ち、この対話を通して社会が発展するのである。

 小泉首相はブッシュと並んだ共同記者会見で、アメリカの記者に「日本はどのような貢献が出来るのか」と訊かれて、「ウイ・アー・フレンズ、エブリィシング」と英語で答えたという。エブリィシングとは何でも差し上げるということで、日本の首相の気前の良さにアメリカの記者たちも驚いたらしい。強い者には無条件で従えと言うのが彼の哲学だろうか。


2001年10月03日(水) 在日米軍に51億ドル

 米国防総省の「共同防衛に対する同盟国の貢献に関する報告」2001年版によると、現在、在日米軍45,000人に対し、日本の年間負担額は約51億ドルを越えている。これはダントツの世界一で、二位のドイツ(13億ドルあまり)以下24カ国の合計33億1700万�砲鬚呂襪�に上回っている。

 その内訳は、いわゆる「思いやり予算」にあたる労務費、施設建設費、水光熱費など、実際の財政支出を伴う「直接支援」が39億5700万ドルで、残りの12億ドルあまりが基地の地代や税金の免除などの「間接支援」ということである。

「思いやり予算」には、米軍基地で働く2万3千人ほどの日本の民間人の人件費と、駐留米軍の電気/ガス/水道代が含まれる。日本人労働者には、ゴルフ場のマネージャーやスロットマシンの修理係、料理人が含まれている。アメリカ軍の内部資料によると、「日本は一番経済的にアメリカ軍を駐屯させる事が出来る国なので、軍の移転や縮小は考えられない」と書かれている。

 ところで、日本がこれほどの税金を費やしてアメリカ軍を駐留させているのは、「アメリカが日本を守ってくれている」と考えるからだ。しかし、同じ質問をアメリカ人にすると、「日本が再び軍国化するのを防ぐため」という解答がかえってくる。そしてかって日本に侵略されたアジア諸国もまた、アメリカ軍の日本駐留の意義を同様に考えている。

 そうすると、日本は自国が軍国主義化しないために、年間51億ドル以上の税金を費やして、外国の軍隊に駐留してもらっているということになる。そればかりではない。アメリカが他国と戦争するばあい、その重要な前進基地となる日本がまず敵の標的にされるだろう。アメリカ軍のプレゼンスはかえって日本の平和を脅かしている。

 この滑稽で愚かしい現実に多くの日本人は一刻も早く気付くべきだろう。51億ドルものお金を、アジア友好のために使えば、はるかに効果的だし、日本の平和にも役立つのではないだろうか。


2001年10月02日(火) 日本の低金利で戦費調達

 空母キティホークが1日午前10時過ぎ、報復作戦に必要な支援を行うために、米海軍横須賀基地を出港した。小雨の降る東京湾には、海上保安庁の巡視船艇24隻、航空機3機と海上自衛隊の護衛艦が警備にあたったという。

 小泉首相は9月19日、唐突にアメリカ支援の6項目を打ち出した。自衛隊法の改正、新法の制定、自衛隊艦船による後方支援・情報収集など、これまでの憲法解釈を大きく踏み出した超法規的措置といえる。

 ここでアメリカの機嫌を損じたら大変と、躍起になっているようだ。日本の判断と決断による国際協調行動というより、アメリカに追従しようとしているだけのように見える。そして気がついたら、戦場の真ん中に投げ込まれ、いいようにアメリカに利用されることになりそうだ。

 戦費の面でも、アメリカはその多くを日本から調達しようとしている。日本政府は正規の戦費として湾岸戦争を上回る150億ドル以上の米国支援を考えているという。さらに、正式な資金協力とは別に、日米間では政策協調によるアメリカへの資金還流計画が着々と進められている。

 日銀は9月18日に公定歩合引き下げを発表した。先行利下げしていた欧米に合わせることで世界的な株価暴落を防ぐというのが表向きの理由だが、日銀の金融緩和によって、邦銀は経営危機の中で資金だけは過剰にあるというバブル状況が生じている。

 いくら資金が余っても、巨額の不良債権処理を迫られている銀行は企業への貸し出しを増やせず、資金は米国市場への運用に向けられる。その結果、米国の多くの銀行は邦銀へのドル貸しで濡れ手で粟の利益を得る。彼らの利益は税金として国庫に入るから、日本が金融緩和をすればするだけ戦費を稼がせていることになる。

 先日の日米首脳会談で、ブッシュがまず小泉首相に求めたのが、不良債権問題の早期解決だった。アメリカは日本政府が非常事態を口実に経済統制を発動して銀行に湯水のように税金を注がせようとしている。しかし低金利政策の元でだぶついた銀行の金は、結局アメリカに流れ、結果として米国に戦費を上納してくれることになる。まさに米国の戦費調達のための隠れたシステムである。

 日本の低金利政策はつねにアメリカの金利政策の影響下に置かれている。1980年代のバブルの発生もそうだし、今回もそうである。資金はその自然な性質として、少しでも利益を生もうと金利の高いところへ流れる。日本の金融資産の多くは、こうしてアメリカに吸い上げられ、結局はアメリカのバブルを生んだ。そしていま、テロ報復の莫大な軍資金になろうとしている。


2001年10月01日(月) 雨の日曜日

 昨日はテニスの新人戦大会だったが、途中から雨に降られて、各会場とも途中で試合は中止になった。途中で雨にふられるというのは最悪である。選手は雨の中で試合、応援の生徒もずぶぬれである。

 試合は正午前に中止になったが、生徒を最寄りの駅まで送って、家に帰るとすでに2時を過ぎていた。予定の試合を消化できず、後日又出直さなければならない。せっかくの休日も台無しで、疲労感ばかり残った。

 そんなことで、気分は最悪だった。妻に「高橋尚子がベルリンで走っているわよ」と言われ、テレビをつけたが、気持が乗らない。しかし、他に何をするという意欲も湧かないので、ぼんやり眺めていた。

 しかし、可憐な彼女の走りを眺めているうちに、次第に画面に引き込まれていた。シドニー五輪女子マラソンの金メダリスト、高橋尚子の走りは見事だった。そして女子で史上初めて2時間20分の壁を破り、2時間19分46秒の世界最高記録を樹立して見事に優勝。ゴールインした瞬間、私も感激して思わず涙ぐんだ。

 ゴールした後の彼女のさわやかな笑顔を見ているうちに、憂鬱な気分はすっかりどこかに消し飛んでいた。日本人の場合、勝ってもいかにも万感籠もったような涙のゴールシーンになりがちだが、彼女や彼女を迎える監督は、終始笑顔で明るく喜びを表現していて好感が持てた。

 気がつくといつの間にか、彼女の胸にメダルがかかっている。表彰式のような仰々しいものはなくて、主催者側からさりげなく彼女に手渡されたのだろう。こうしたことも、私の気分をおおいに愉快にしてくれた。


橋本裕 |MAIL |HomePage

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