橋本裕の日記
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2001年12月31日(月) 家族で迎える新年

 少し前までは、私たち一家4人は大晦日に福井に帰省し、母や弟一家と正月を迎えていたが、数年前から、正月は自宅で迎えるようになった。妻と娘二人と私と、犬のリリオ君と、「4人+1匹」での水入らずの正月である。

 家族だけで迎える正月も悪くはない。家族のぬくもりを実感するひとときである。そんな思いで昔の日記を読み返していたら、1987年1月7日(水)の日記に、「家族」という題の自作の詩を見つけた。

   家族

   こうしてひとりで家に残されていて
   娘のおもちゃや
   妻の上着などを眺めていると
   淋しいような
   それでいて嬉しいような
   豊かな気持になる
   声もしないし
   顔も見えないけど
   確実に彼女たちは
   私とともにある
   家族という魔法のような
   あたたかい世界
   そのなかでやすらっている
   私自身や親しい者たち
   これこそ人生のゆたかな恵みだ

 2001年も今日で終わりである。この一年を振り返ると、家庭生活面では、長女の大学進学&別居という変化があった。社会的には小泉内閣の登場だろう。株価の下落や、失業率の上昇など、不景気がいっそう深刻化した一年でもあった。

 国際的には何と言っても、アメリカで起きた同時多発テロと、その後の、アフガニスタン情勢の変化である。パレスチナ紛争もにわかに危機的状況を迎え、予断を許さない。

 この正月を家族で迎えられない人々もいるだろう。とくに国がみだれているアフガニスタンの人々はたいへんだろう。難民キャンプにももう雪が積もっているのではないだろうか。

   日出て耕し
   日入りて 憩う
   帝徳いずこにありや

 中国の古詩集「詩経」のなかの一節である。こうした「平和」と「憩い」が、一刻も早く地上に実現することを祈らずにはいられない。

 それでは、みなさん、よいお年をお迎え下さい。


2001年12月30日(日) 恋とさとり

 良寛と貞心尼が月夜を語り明かした庵は、島崎の木村家の一隅にあった。私がそこを訪れたのは、4年ほど前だったが、その建物は残っていなかった。当主の話では戊戌戦争の時焼けたらしい。

 庵のあったあたりは、草むらだった。しかし、その昔、貞心尼がここを訪れ、良寛と月を愛でたり、歌を作ったのかと思うと、感慨が胸に迫ってきて、なかなか離れがたかった。

 その後、二人はしばしば会っている。たとえば明くる年の初夏には、今度は良寛が福島閻魔堂に貞心尼を訪ねている。そして秋には貞心尼が良寛を訪ねる約束をした。ところが、10月になっても音沙汰がないので、良寛は「霜月4日」付の手紙で問い合わせている。

 ここで面白いのは、しだいに良寛が貞心尼への思いを募らせていくことだ。貞心尼は教養もあり、若くて美しかったから、これは自然な流れとも言えるが、そこには貞心尼の様々な恋の手管があったのではないかと思われる。約束を履行しなかったのも、あるいは恋の手管のうちかと、私は楽しい空想にふけったりする。

  君や忘る道やかくるるこのごろは
  待てどくらせど音づれのなき  (良寛)

  山のはの月はさやかにてらせども
  まだはれやらぬ蜂のうす雲  (貞心尼)

 良寛を月にたとえ、自分の迷う心を峰の薄雲にたとえている。迷いの故に、会えないと言っているが、何となく勿体をつけて、良寛の恋心をもてあそんでいる気配がないでもない。そうなると、純真な良寛の恋心はますます募る。周囲もこの状況に気付き、何かと噂を始めたらしい。しかし、良寛は一途に貞心尼をもとめる。

  身をすてて世を救ふ人もますものを
  草のいほりにひまもとむとは  (良寛)

(身を捨てて他人のために尽くす人もいるというのに、あなたは庵にひきこもってなにをしているのですか。私がこんなに会いたいと言っているのに・・・・)

 こうなると、「良寛さん、大丈夫ですか。性悪の女に引っかかってはいけませんよ」と、余計な忠告をしたくなる。貞心尼はこうしてさんざん良寛をじらした後、翌年の春、良寛もとを訪れる。このとき彼女は良寛の弟子になる契りをした。

  さめぬれば闇も光もなかりけり
  夢路をてらすありあけの月  (貞心尼)

  天が下にみつる玉より黄金より
  春のはじめの君がおとづれ  (良寛)

 さらに、翌年の文政13年(1830年)の春、良寛と貞心尼は与板山田家で落ち合う。そして再び夜をともにして語り明かす。ここにきて、二人の恋心は激しくもえさかる。そのときの歌を、いくつか紹介しよう。

  いづこへか立ちてぞ行かむ明日よりは
  烏てふ名を人のつければ   (良寛)

  山がらす里にい行かば小烏をも
  いざなひ行けよ羽よわくとも  (貞心尼)

  誘ひて行かば行かめど人の見て
  あやしめ見らばいかにしましけ  (良寛)

  鳶はとび雀はすずめ鷺はさぎ
  烏はからす何かあやしき  (貞心尼)

 もはや恋の手練手管や、世間の思惑、自身が清浄な仏弟子であることも放り出して、貞心尼の心は真っ直ぐ、情熱的に良寛に向かう。もうあなたのいうことなら、なんでもしますと、心身を良寛の前に投げ出している。

  歌やよまむ手毬やつかむ野にや出でむ
  君がまにまになして遊ばむ   (貞心尼)

  歌もよまむ手毬もつかむ野にも出でむ
  心ひとつを定めかねつも   (良寛)

  いかにせむ学びの道も恋ぐさの
  繁りていまはふみ見るも憂し  (貞心尼)

  いかにせむ牛に汗すと思ひしも
  恋のおもにを今は積みけり   (良寛)

 この時、良寛は74歳である。貞心尼と初めてまみえて、4年の歳月が流れていた。そして、このあと、良寛はにわかに病の床についた。翌年の一月に良寛の危篤を告げられた貞心尼は、越後の深い雪の中を駆けつける。

  いついつと待ちにし人は来たりけり
  今はあひ見て何か思はむ   (良寛)

  生き死にの界はなれて住む身にも
  さらぬ別れのあるぞ悲しき  (貞心尼)

  うらを見せおもてを見せて散るもみぢ  (良寛)

 貞心尼の献身的な看病のかいなもく、数日後の正月6日、午後4時ころ、良寛は貞心尼の見守る中で、座したまま往生をとげた。あまりにあっけない、恋の幕切れだった。

 しかし、貞心尼にとって、これは恋の終わりではなかった。彼女は良寛の歌をあちこち訪ね歩いて集め、良寛と詠み交わした歌を書き添えて、良寛歌集「はちすの露」にまとめた。貞心尼はこれを生涯肌身から離さず持っていたという。

 外出中に住居の閻魔堂が焼け、良寛の手紙や文献は失われたが、「はちすの露」はかろうじて残った。貞心尼は1872年(明治5年)2月11日になくなった。享年75歳である。そして、残された「はちすの露」が、良寛を後世に伝える最も貴重な文献になった。


2001年12月29日(土) 良寛と貞心尼の恋

 文政10年(1827年)春、貞心尼が島崎にある良寛の庵を訪れたとき、良寛はあいにくそこを離れたあとで、不在だった。そこで、彼女は手鞠と一緒に、こんな歌を知人に託した。

  これぞこのほとけの道に遊びつつ
  つくやつきせぬみのりなるらむ  (貞心尼)

 このとき、貞心尼は30歳だった。彼女は長岡藩士の娘として生まれ、17歳の時に医者の家に嫁いだが、5年で夫に死別し、それがきっかけとなって、23歳の時、剃髪し、尼僧の生活に入った。やがて良寛の歌や書を見て、その気高い美しさに驚き、弟子になりたいという思いを募らせていた。

 良寛は秋になって、その庵に帰ってきた。貞心尼のことは噂で聞いていた。しかし、会いたいとは思わなかった。歌好きの尼など、鬱陶しいだけだからだ。ところが、彼女の手鞠と歌を見て、気が変わった。こんな歌を返している。

  つきて見よひふみよいむなやここのとを
  とをとおさめてまたはじまるを  (良寛)

 良寛の返しの歌を見て、彼女は小躍りしたに違いない。「つきてみよ」というのは、「是非いらっしゃい」という良寛の許諾とも受け取れた。彼女はさっそく、嶋崎村の木村家に良寛を訪ねた。

 月夜であった。貞心尼はあこがれの良寛を前にして、上気していたに違いない。彼女は色白でもち肌だと伝えられている。70歳の良寛も、恋いこがれて自分のもとにやってきた、この若い女性に心のときめきを覚えたに違いない。

  君にかくあい見ることのうれしさも
  まださめやらぬ 夢かとぞおもふ    (貞心尼)

  ゆめの世にかつもどろみて夢をまた
  かたるも夢よそれがまにまに  (良寛)

  向ひいて千代も八千代も見てしがな
  空ゆく月のこと問わずとも   (貞心尼)

  心さへ変らざりせばはふ蔦の
  たえず向かはむ千代も八千代も  (良寛)

 月を眺め、歌を詠むうちに、いつか二人の心が一つになっていた。夢のような出会いに二人はよろこび、そして時がたつのも忘れた。一夜を語り明かし、貞心尼が帰るとき、良寛は別れを惜しんで、こんな歌をおくった。

 又もこよしばの庵をいとはずば
 すすき尾花の露をわけわけ

 こうした相思相愛二人の交際は、その後5年間、良寛の死まで続く。そして、良寛は最後はこの貞心尼に看取られて息を引き取ることになる。そのとき、良寛はこんな辞世の句を詠んでいる。

  うらを見せおもてを見せて散るもみじ

(あなたにはすっかり、私の裏も表もみせましたよ。そして、今、一枚の色づいた紅葉葉のように、はなやいだ気持でこの世を去っていきます。何も思い残すことはありません。どうもありがとう)


2001年12月28日(金) ワークシェアリングで豊かな人生を

 朝日新聞の調査によると、ワークシェアリングに賛成する人が62パーセントで、反対の26パーセントを大きく上回っているという。とくに50〜60代は7割の人たちが、「仕事と賃金のわかちあい」に賛成しているという。

 オランダの場合はもう20年近く前に、労働団体がアンケート調査をして、ワークシェアリングに踏み出している。国民の支持を背景に、労・財・政のトップが会談を開いて、これを合意した。1982年のことで、会談の行われた村の名前を取って、「ワッセナー合意」と呼ばれている。

 これによって、12パーセントを超えていた失業率は3パーセントを割り込むまでになった。経済は活性化し、財政赤字は25年ぶりに黒字になるなど、オランダの奇跡とよばれるめざましい復活である。

 オランダの場合は夫婦で1.5の働きをするのが一般的だという。フル労働といっても、もちろん完全週休2日制の36〜38時間労働である。この他、週休3日や週休4日のコースなど、就労時間をいろいろ生活にあわせて選ぶことが出来る。これで、生産性が落ちたかというと、反対にめざましく経済が復活したのだという。

 しかし、ワークシェアリングの恩恵は、生活にゆとりが出来て、人生の楽しみが多くなったことではないだろうか。NGOなどに参加する人が国民の過半数を超えているというのも驚きである。社会貢献や国際貢献に生き甲斐を見出し、環境問題にも何よりも積極的に発言する人々がいるのも、こうした精神的ゆとりのたまものだろう。


2001年12月27日(木) 奨学金制度に見る教育の貧困

 日本の奨学金制度の貧しさについては、以前にもこの日記に書いたことだが、昨日の新聞を読んでいて、もう一度書かずにはいられなくなった。教育への投資こそ最重要である。ところが、この国ではこの一番大切なことがないがしろにされていると思われるからだ。

 文部科学省の「教育指標の国際比較」によると、たとえば米国では返済の必要のない給与奨学金「ペル」の総額が9578億円、この他に貸与奨学金「スタフォード」が総額1兆3千億円が用意されている。公立大学の授業料の安さを考えれば、これで学生は親から経済的に自立することができる。

 これにたいして、日本育英会の平成十三年度貸与総額は4732億円。アメリカの給与奨学金「ペル」と単純比較すると、総額で半分、人数では1/5だという。千葉大教授の三輪定宣氏が「教育費が高い中で、国際的にみても日本の奨学金制度は非常に不十分」と指摘しているが、まったくその通りである。

 不況が慢性化する中で、経済的に苦境におかれた家庭がふえつつある。こうしたなかで、日本育英会が独立法人化され、今後「無利子」の奨学金枠は大幅に減らされる方向だという。この方向性ははたして正しいのだろうか。

 日本では教育は親がするものだという考え方が強い。個人の立身出世意識が強く、良い学校を出て、一流の会社や職業に就き、ハイレベルな生活を享受したいという利己主義と上昇志向が顕著である。しかし。、こうした考え方は世界の中で例外だと見なさなければならない。本来教育は社会的に有用な人物となり、社会に貢献するために行われるものだからだ。

 したがって、本当は、教育は社会が責任を持って行うべきものである。当然その費用は社会が負担すべきものである。こうした考え方が確立されれば、日本の教育環境も大きく変わってくる。そして、教育を受けた子供たちは、恩恵を受けた社会に対して、より多くの責任と義務を感じるようになるだろう。


2001年12月26日(水) 整合性なき政策の罪

 日本経済は長い不況に陥り、出口を見いだせないでいる。物価が下がり、賃金も下がるというデフレ現象も次第に顕著になってきた。この悪循環を逃れようと、政府はこれまで100兆円にものぼる財政出動や、史上まれにみる低金利政策で景気浮揚をはかってきたが、ほとんど効果が現れなかった。

 その間に、バブル崩壊による不良債権は膨らみ30兆円をこえた。財政赤字も累積し、666兆円を超える公的借金を背負い込むことになった。この他に特殊法人がかかえている借金もあり、その総額はどれほどになるか、だれも正確に把握できない状況である。

 小泉内閣は財政再建と景気対策の両方を迫られているが、もともとこの両者は相性が悪い。いわは車のブレーキとアクセルのようなもので、いくらアクセルをふかしても、同時にブレーキを踏んでいては車は進まない。これまで政府が行ってきたのは、こうした相互に矛盾する政策である。そして、そのために10年以上の歳月が無駄に過ぎ去ってしまった。

 たとえば、最近の政策を例に取ると、健康保険法の改正がある。国民の負担を増やすことで財政の健全化をはかろうというわけだが、こうした政策は国民に先行きの不安を与え、消費行動を抑制する方向にはたらく。これはかなり強力なブレーキになりかねない。こうしたブレーキをかける一方で、国債を発行して、莫大な公共事業が行われている。

 こうした矛盾が生じるのは、日本の官庁が縦割りだからだ。財政再建に熱心な財務省と、景気対策に熱心な経済産業省や国土交通省などが、独自にそれぞれの省益を優先させるので、相互の政策に整合性がないのである。

 こうした弊害は以前から指摘され、中央省庁を一府十二省庁に再編成する省庁改革関連法が成立し、2001年1月から始動しているわけだが、その実があまり上がっているとは思えない。省益の背後にはそれぞれの業界が控えており、族議員がいる。

 しかし、そうした諸勢力の要求に屈していては、首尾一貫した整合性のある政策の立案はおぼつかない。体系性のある政策を立案実行するためには、国民によって直接信託されて強力な指導力をそなえた政権を樹立するしかないだろう。首相公選制の早期実現を切望する。


2001年12月25日(火) ゆっくり生きよう

 来年度から学校週5日制が実施される。ところが、全国の私立小学校、中学校、高校で完全週5日制を実施するのは、約7割にとどまることになりそうだという。「学力低下」論のたかまりを背景に、授業時間の確保を優先させ、公立との授業時間格差を売り物にするつもりらしい。

「学力低下」というが、その実は「土曜を休むと授業時間が減り、大学入試に対応できない」というのが本音のようである。そもそも日本の「大学入試制度」が教育の正常化を妨げている元凶だと思うのだが、入試制度をそのままにして、諸外国並の「学校5日制」を導入するわけだから、矛盾が生じてくるのは当然のことだ。 

「風の中の子供」などの童話作家として知られる坪田譲治(1890〜1982)さんは、中学入試で2回、高校入試で1回、大学の進級試験で3回、計6回も落第したという。そんな坪田さんが、62歳の頃にこんなことを言っている。

「ユックリと勉強して、ユックリと恋愛して、ユックリと年をとっていくことである。人生の楽しみ、自ずからその中にありである」

 日下公人という人生評論家が「幸せになるための4つの条件」を上げていた。
�,修海修核�かであること
�⊆�由な時間があること
��自分を発揮する場があること
�ぜ�分自身らしさがあること

 いまの教育は人工肥料ばかりのひよわな促成栽培ではないかと思ったりする。あまり、急いでいては、じっくり自分自身らしさをつくることはできないだろう。受験勉強でなどにわずらわされることなく、「ユックリと勉強して、ユックリと恋愛して、ユックリと年をとっていくこと」が出来る時代は、いつになったら実現するのだろう。


2001年12月24日(月) よりよき生のために

 自殺者が増えている。平成8年に22,436人だったのが、3年後の平成11年の統計では、33,048人(男23512人,女9336人)に激増している。原因として以前は病苦がトップだったが、現在は経済苦がトップを窺おうとしている。ストレスによる精神疾患も増えているようだ。

 自殺企図経験者は、男子で人口の1割以上、女子では2割以上いるという。なにをかくそう、私も自殺を企図したことがある。小学生の頃、屋根裏へ上がって、首をつってみたが、縄がほどけて失敗した。今では天の恵みだったと思っている。(詳しい事情を知りたい人は、「少年時代」をご覧下さい)

 高校受験に失敗した後、精神的に不調な時代があって、強迫神経症や視野狭窄などというけったいな体験もした。そのころ哲学や宗教や文学にこって、ありとあらゆる本を、手当たり次第に読んだものだ。カントやデカルト、ショーペンハウエル、ラッセル、ドストエフスキー、トルストイ、「歎異抄」などなど。

 悩みを解決するために、哲学や宗教や文学に救いを求めたのだろうが、結局のところ、そうした読書がどれほど救いになったか疑問である。むしろ悩みを深め、さらなる絶望へとあおり立てられたのではないかと思う。青年時代にあまり読書にはまるのも考えものだ。悩んでいる者に、安易に宗教や哲学をすすめてはいけないと思う。(その後遺症で、いまだに哲学青年気取りで、こんな文章を書いている)


 それでは、何が救いになったのかというと、一つには父に強制されて行っていた山仕事だろう。それから、修学旅行で行った長崎の原爆資料館での体験。悲惨な戦争を身近に知り、たいへん衝撃を受けた覚えがある。これを転機にして、私の思考が外に向くようになったからだ。

 その頃読んだバートランド・ラッセルの本に「幸せになりたかったら、心を外に向けることだ。社会のことを考えれば、じぶんの個人的な悩みなどいかにつまらないかわかるだろう」と書いてあった。この文章に目の覚めるような啓示を受けた。心の窓を思い切り外に開くことが大切だ。そうすれば新鮮な光と空気が自然に魂に流れ込んでくる。

 そのころ、映画「スパルタカス」を見た。高校時代に見た映画の中で、私はこの映画をベスト3の一つに数えている。人間とは何か、正義とは何か、そして愛とは何か、ローマの圧制に対する剣奴の反乱を描いた、この雄大な歴史的社会スペクタクルを見ていると、私の個人的な悩みなど実に取るに足りないように思われたものだ。

 現在、不況が深刻になってきている。倒産やリストラの話題ばかりの、暗い時代である。ますます自殺者が増加するのではないか心配だ。さらには、こうした苦しみから逃れようと、宗教に走る人も増えるのではないだろうか。しかし、こうした時代だからこそ、私たちは内向きになって、自己に囚われてばかりいてははいけないと思う。

 心の窓を大きく開き、社会の問題をしっかり直視すべきだろう。そしてその足場として、本物の宗教や哲学を探求すべきだと思う。個人の問題であっても、広い社会的視野に立って、実践的に深く考えることが大切だ。出家遁世も悪くはないが、その前になさねばならないことがある。


2001年12月23日(日) 安楽か自由か

 良寛は18歳で、隠居した父の跡をついで、庄屋見習いになった。ところが、22歳の時突然出家した。そして、故郷の越後を離れて、遠く瀬戸内海の円通寺に修行に行く。

 良寛の出家の動機は、よくわからない。良寛自身、自らのことをあまり語っていないからだ。庄屋見習いの職になじまなかったからだとか、国仙和尚に出会って道心に目覚めたからだとか、色々な説があるが、どれも憶説である。

 そこで、私自身の説を書こう。私は良寛の出家の根底に、「自由への憧れ」があったのではないかと見ている。なぜなら、良寛の生涯を通して、一貫しているのが、この自由への意志だからだ。

 良寛は自由を求めて出家した。しかし、寺に来てみると、そこにも自由はなかった。あるのは俗世以上に腐敗した現実である。そこで、良寛はふたたび、寺をはなれて、故郷に還ってくる。

  焚くほどは風がもてくる落ち葉かな

 世を捨てた良寛に、もはや俗人としての生活はない。俗でもなく、僧でもない一介の人間として生きること、彼がたどり着いたのはこのような境涯だった。彼は生来の性として、このような狂気とでもいえる性向をもっていたのだろうと思う。あえていえば、この狂気が青年時代の彼を出家へと走らせたのだろう。

(参考) 「良寛讃歌」橋本裕 (「作家」1986年)


2001年12月22日(土) 漂泊の詩人良寛

 高校生の頃、出家にあこがれた。永平寺が近くにあり、托鉢僧の姿を近くで見ていたせいかもしれない。仏教の授業で釈迦の生涯や鎌倉仏教、「歎異抄」などを習っていて、仏教に親近感を持っていたこともある。

 出家に対する憧れは現在もある。しかし、寺に入ったり、僧侶になりたいという気持は微塵もない。それは本当の宗教がそうした世界に残っているとは考えられないからだ。教団や教会といった俗世の組織に、現在の私は何の魅力も覚えない。

 私は良寛さんに憧れていて、彼のように自由に生きてみたいと思っている。良寛は一度は出家したが、結局寺を捨てて、一介の乞食者として生きた。たまたま書や漢詩、和歌をよくしたが、そうしたものは彼にとってつけたしだったにちがいない。後世に自分の名前が残るとさえ思っていなかっただろう。

  形見とて何か残さむ春は花
  夏ほととぎす秋は紅葉葉

 死ねば無に帰る。自己は滅びるが、自然は残る。ハンナ・アレントのいう、共同の世界である。良寛はおそらく死後の世界など信じていなかっただろう。地獄や極楽などという戯言は言わずに、ただ、自然が残っていればよいという。そして、「死ぬ時節には死ぬがよく候」と知人への手紙に書いている。その爽やかな潔よさが好きだ。

 


2001年12月21日(金) 支配者なき支配

 社会哲学者ハンナ・アレントが「人間の条件」という本のなかで、現代における支配の特徴的なありかたとして、「支配者なき支配」をあげている。古代や近世であれば、皇帝や絶対君主という目に見える支配者がいた。しかし、現代ではこの「支配者」が目に見えなくなりつつある。

 なぜこういうことになるのかと言えば、現代はシステム優位の時代だからだろう。現代のシステムは私たちに衣食住を提供し、多くの場合、快適な生活を保障してくれる。こうしたシステムのなかで生きていると、そのシステムから離れた生活が次第に困難になる。そして、考え方までいつか、システムに順応したもの洗脳される。

 スティーブ・ハッサンは「マインドコントロールの恐怖」という本のなかで、支配のレベルを次の4段階で説明している。

�々堝阿離灰鵐肇蹇璽襦兵�由時間と行動の制限)
�∋彖曚離灰鵐肇蹇璽襦福�か×かの紋切り型の思考)
�4蕎陲離灰鵐肇蹇璽襦丙甍�感、恐怖)
�ぞ霾鵑離灰鵐肇蹇璽襦柄�択された知識や情報しか受け付けなくなる)

 戦前の日本はまさにレベル4の段階だったといえよう。そして、ある意味では「支配者なき支配」の様相を呈していた。なぜなら、天皇は名目上の支配者にしかすぎず、それではだれが権力を握っていたのかと問われると、まったくはっきりしないのである。

 そのような「支配者なき支配」の状況は、戦後も続いている。私たちも又、知らず知らずのうちに、システムによって支配され、洗脳されている。そしてシステムによる支配のレベルは第4段階のかなり深いところに達していると見なければならない。恐怖はなにもホラー映画のなかにばかりあるのではない。恐怖は私たちの日常の中にひそんでいる。


2001年12月20日(木) よりよきものを求めて

 昨日は「英語」の話をしたので、今日は「数学」の話をしよう。「correct と good」の問題が起こってくるのは、数学においても同じである。ある問題について解答を書かせた場合、その答えは○か×の二つだけではない。

「correct か uncorrect か」という基準に立てばそうだが、GOODという観点に立てば、そこには無数の段階が考えられる。そして数学的思考の豊かさや楽しさも、そうした多様な解答、よりGOODな解答を模索するなかにある。

 日常的に数学を使っているのは、コンピュータのプログラマーだろうが、彼らが骨身を削るのもGOODなプログラムを書くためである。数学者もおなじくよりエレガントな解答を求めて、あれこれと考えをめぐらす。

 ただ単に答えを出すことがではなく、その求め方が大切なのである。受験数学では答えが○か×かしか問題にしない。だから、もしよりエレガントな解答を書こうと試験中に努力をしても、決して成績の面で報われることはない。ただひたすら型にはまった手順に従って、制限時間内にcorrectな解答を書くことが要求されるのである。

 こうしたシステムの中に何年も暮らしていると、数学がただ○×だけの殺伐とした世界のように思われてくる。そして、ただ結果だけ合っていればことたれりという習性が身について、しだいによりよきものを求める努力をしなくなる。

 努力をしなくなるのは生徒ばかりではない。教師も又そうした安易な「○×思考」のなかに安住し、GOODを求める努力を怠りがちになる。しかし、数学に限らず、人生において大切なのは、GOODを求める続けることではないだろうか。「correct」ばかりで「GOOD」のない世界はつまらない。


2001年12月19日(水) correct と good

 私たち日本人は何年も学校で英語を習いながら、簡単な日常会話でさえろくに英語で話すことが出来ない。こうした状況は、他の国ではあまりないことらしい。どうしてこんなことになるのか。

 さまざまな原因が考えられるが、私が思うのはやはり学校で習う英語が「試験のための英語」だということだろう。試験の場合、○か×かという二者択一的な選択になる。

 たとえば、「あなたをサポートします」という英語の英訳として、次のような英文が考えられる。
 ��I will suport you.
 ��You will have my suport.

 これらは、いずれも正しい英語(correct English)である。しかし、いずれがgoodな英語かと言えば、�△諒�だろう。以前にも書いたが、話者中心の日本語に対して、英語は聞き手を中心にして発想するからだ。

 つまり、試験英語では、こうしたgood English が身につかない。実際は使われることがないどこか不自然な和製英語が○として通用する。もちろん通用するのは日本の学校の中だけだから、ものの役には立たない。

 中学校で私たちがまず習ったのは、たとえば、次のような英語である。
 � �This is a pen.
 �◆�I am a boy.

 しかし、このような英語が実際に使われる状況はあるのだろうか。�,呂燭箸┐弌�交通事故で脳を破損した患者が医者から知能検査を受けている状況といったところだろうか。いずれにしても、かなり特殊な状況である。

 �△留儻譴鮖箸�場合は、とくに注意を要する。たとえば、女性を前にこんな英語を使ったとしたら、ちょっと困ったことになる。なぜならセックスアピールと受け取られ兼ねないからだ。眉をひそめられるか、笑われるかするのが落ちだろう。「Be a good boy.」(おりこうさんにしているのよ)とたしなめられるかもしれない。

 � �I have a pen.
 �◆�Do you have a pen.

 これらの英語を日本語に訳したらどうなるのか。もし試験に出たら、私たちは迷うことなく次のような答えを書くのではないだろうか。
�〇笋楼賈椶留�筆を持っています。
�△△覆燭榔�筆を一本持っていますか。

 もちろん、これで○である。しかし、これらの英文がこうした意味で用いられることはまずないだろう。それでは、普通はどんな意味で用いられののか。
� .撻鵑鬚�貸ししましょうか。
�◆.撻鵑鬚�借りできますか。

「受験英語」ではこうした訳が浮かばないだろう。しかし、これが実際の英語なのである。なぜ、日本人が英語を話せないか、それは「受験英語」に習熟すればそれだけ、こうした自然な英語の発想や感覚から遠ざかることになるからだ。

 多摩大学長となったグレゴリー・クラーク氏は、大学入試に英語を課さないことから大学改革を始めた。その理由は、中学・高校と間違った方法で英語を学んだ生徒の英語力などテストをしても意味がないからだという。

 若い頃にこうした受験英語に毒され過ぎると、大学に入ってからこれを矯正することがむつかしくなる。中学、高校の劣等生の方が、大学に入ってから伸びるかも知れない。同様のことは「数学教育」や他の教科の場合にも当てはまるのではないだろうか。

 ペーパーテストを中心にした学校教育の在り方を根本的に変えることで、私たちはcorrectであるばかりではなくgoodでもある、まっとうな「学びの世界」へ足を踏み入れることが可能になる。


2001年12月17日(月) 目で見えないもの

「星の王子さま」は1943年にアメリカで出版された。原題は「ル・プティ・プランス」(小さな王子さま)だが、内藤濯さんはこれを「星の王子さま」と訳した。なかなかの名訳だ。

 サン・テグジュペリは前書きで、「おとなは子どもだった。しかしそのことを忘れずにいるおとなはいくらもいない」と書いている。彼がこの本を書いていたのは、第二次大戦のさなかだった。祖国フランスがナチスに蹂躙される悲惨な戦争のまっただなかだった。

 大人たちが始めた戦争で、子供たちが死んでいく。そして、大人たちの中に生きていた「子どもの心」も死んでいった。童心を失い、美しいものにたいする感動を失った大人たちは、「ほんとうに大切なもの」を見失って、お互いを殺し合う戦争に我を忘れている。そうした危機感が、彼にこのような童話を書かせたのではないだろうか。

「きみのすんでいるとこの人たちったら、おなじ一つの庭で、バラの花を五千も作っているけど、自分がなにをほしいのか、わからずにいるんだ。だけど、さがしているものは、たったひとつのバラのなかにだって、すこしの水にだって、あるんだがなあ・・・。だけど、目ではなにも見えないよ。心でさがさないとね」

 作家の三田誠広さんは、「星の王子さまの恋愛論」という本の中で、「作品の中の設定では、王子さま小さなプラネットからきたことになっていますが、作者のサン・テグジュペリの心の中に、この小さな少年のイメージが宿ったのは、作者自身の過去の記憶に出発点があります。星の王子さまは作者の過去からきた。少年時代の記憶の中から、この少年はやってきたのです」と書いている。

 星の王子さまは、幼い頃の作者の化身であり、この童話そのものが、彼自身の少年時代との対話そのものだともいえる。私たちも又、「星の王子さま」を読みながら、自分自身の少年時代と対話することになる。そして、人生に対する大切な認識を、かっての自分自身から教えられるのだ。

 王子さまは、小さな星にすんでいた頃、その星の上ですこしずつ椅子をずらしながら、一日に43回も太陽が沈むのを眺めたことがあるという。こうした淋しさを、だれしも子どもの頃に一度は経験したのではなかろうか。

 ところで、この本を書いた1943年に、彼は43歳の誕生日を迎えている。そして、この本を書き上げた後、彼は空軍パイロットとして戦場に赴き、翌年の1944年7月31日に、地中海の戦線で愛機とともに姿を消した。

「星の王子さま」は戦後1946年にサン・テグジュペリの遺作として、パリのゲリマール社から改めて刊行された。そして、今では世界中の子どもと大人がこの本を自国語の翻訳で読んでいる。この半世紀に、聖書についで、世界でもっとも多く読まれた本ではないかと言われている。

 ところで、「南方郵便機」「夜間飛行」「人間の土地」の著者として、アメリカでも評判の人気作家になっていたサン・テグジュペリが、なぜ作家としての地位や名声を捨てて、戦地におもむいたのだろう。

「ぼくには飢えている者たちから遠くはなれていることが耐えられない。ぼくの良心と折り合いをつける方法はひとつしか知らない。それはできるかぎり苦しむことだ。・・・ぼくは死ぬために出発するのではない。苦しむため、そうやって同胞と通じ合うために出発するのだ。ぼくは殺されることは望んでいないが、そんなふうにして眠りに入ることはよろこんで受け入れる」
(山崎庸一朗訳「サン・テグジュペリ著作集」「戦時の記録」みすず書房)

 彼が「星の王子さま」を書き上げた後、フランスにいる妻コンスエロにあてて書いた手紙の一節である。結局彼は暢気で贅沢なアメリカ人たちのなかで、居場所を見つけられなかった。「星の王子さま」の著者は、ナチスドイツが祖国フランスを蹂躙するなか、人々の美しい心や生活が滅び去っていくのを、もはや座視することが出来なかったのだ。


2001年12月16日(日) 砂漠が美しいわけ

 昨日に引き続き、サン・テグジュペリの「星の王子さま」の一節を、内藤濯さんの訳で紹介しよう。王子さまは小さな星で一本のバラの花と暮らしていた。彼女は「自分のようなものはどこにもない」と言っていた。ところが、地球に来て、王子さまはたくさんのバラの花が咲いているのを見る。それをみて、王子さまはすっかり悲しくなる。

「ぼくは、この世に、たった一つという、めずらしい花を持っているつもりだった。ところが、じつは、あたりまえのバラの花を、一つ持っているきりだった。それと、ひざの高さしかない三つの火山・・・・」

 そこへ、「こんにちは」とキツネが現れる。そしてキツネがこんな話をする。このキツネのセリフが、なかなかいい。読み返しすたびに、ますます味わいの深くなる言葉だ。

「おれの目から見ると、あんたは、まだ、いまじゃ、ほかの十万もの男の子と、べつに変わりがない男の子なのさ。だから、おれは、あんたがいなくたっていいんだ。あんたもやっぱり、おれがいなくたっていいんだ。あんたの目から見ると、おれは、十万ものキツネとおなじなんだ」

「だけど、あんたが、おれを飼いならす(tame)と、おれたちは、もう、おたがいに、はなれちゃいられなくなるよ。あんたは、おれにとって、この世でたったひとりのひとになるし、おれは、あんたにとって、かけがえのないものになるんだよ・・・」

「もし、あんたが、おれと仲よくしてくれたら、おれは、お日さまにあたったような気もちになって、暮らしてゆけるんだ。足音だって、きょうまで聞いていたのとは、ちがったのがきけるんだ。ほかの足音がすると、おれは、穴の中にすっこんでしまう。でも、あんたの足音がすると、おれは、音楽でもきいている気もちになって、穴の外へはいだすだろうね」

「おれは、パンなんか食いやしない。麦なんて、なんにもなりゃしない。だから麦ばたけなんか見たところで、思い出すことって、なんにもありゃしないよ。それどころか、おれはあれ見ると、気がふさぐんだ。だけど、あんたのその金色の髪は美しいなあ。あんたがおれと仲良くしてくれたら、おれにゃ、そいつが、すばらしいものに見えるだろう。金色の麦をみると、あんたを思い出すだろうな。それに、麦を吹く風の音も、おれにゃうれしいだろうな・・・」

「もう一度、バラの花を見に行ってごらんよ。あんたの花が、世の中に一つしかないことがわかるんだから。それから、あんたがおれにさよならをいいに、もう一度、ここにもどってきたら、おれはおみやげに、ひとつ、秘密をおくりものにするよ」

 このキツネの言葉を聞いて、王子さまはもう一度、バラの花たちを見に行く。そして、そこに咲いているバラたちにこう語る。

「あんたたち、ぼくのバラとは、まるでちがうよ。それじゃ、ただ咲いているだけじゃないか。だあれも、あんたたちとは仲よくしなかったし、あんたたちのほうでも、だれとも仲よくしなかったからね。ぼくがはじめて出くわした時分のキツネとおなじさ。あのキツネは、はじめ、十万ものキツネとおなじだった。だけど、いまじゃ、ぼくの友だちになっているんだから、この世に一ぴきしかいないキツネだよ」

「あんたたちは美しいけど、ただ咲いているだけなんだね。あんたたちのためには、死ぬ気になんかなれないよ。そりゃ、ぼくのバラの花も、なんでもなく、そばを通ってゆく人が見たら、あんたたちとおなじ花だと思うかもしれない。だけど、あの一輪の花が、ぼくには、あんたたちみんなよりも、たいせつなんだ」

「だって、ぼくが水をかけた花なんだからね。覆いガラスもかけてやったんだからね。ついたてで、風にあたらないようにしてやったんだけらね。ケムシを−−二つ、三つはチョウになるように殺さずにおいたけどー−殺してやった花なんだからね。不平もきいてやったし、じまん話もきいてやったし、だまっているならいるで、時には、どうしたのだろうと、きき耳をたててやった花なんだからね。ぼくのものになった花なんだからね」

 王子はバラの花にこう言って、またキツネに会いに行く。キツネは、最後にこんな言葉を送る。

「さっきの秘密をいおうかね。なに、なんでもないことなんだよ。心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目にみえないんだよ」

「あんたが、あんたのバラをとてもたいせつに思っているのはね、そのバラのために、ひまつぶしをしたからだよ」

「人間っていうものは、このたいせつなことを忘れてるんだよ。だけど、あんたは、このことを忘れちゃいけない。めんどうをみたあいてには、いつまでも責任があるんだ」

 キツネと出会った王子さまは、やがて砂漠に不時着した飛行士に出会うことになる。そして、飛行士にこんな美しい言葉を語りかける。「星があんなに美しいのも、目に見えない花が一つあるからなんだよ」「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ」

 The stars are beautiful , because of a flower that cannot be seen.
 What makes the desert beautiful is that somewhere it hides a well.


2001年12月15日(土) 大切な情報リテラシー

 私の文章にはかなり数字が出てくる。北さんは数字アレルギーで、数字がたくさん出てくる文章は読む気がしないらしい。「統計で嘘をつく方法」という本を読んで、数字いかにあてにならないか、思い知らされたいう。学校でわけのわからない計算計算をやらされた後遺症ばかりではなさそうだ。

 北さんの文章を読んで、ふと、サン・テグジュペリの「星の王子さま」の一節を思い出した。内藤濯(ないとう あろう)さんの訳で、紹介しておこう。

「おとなというものは、数字が好きです。新しくできた友だちの話をするとき、おとなの人は、かんじんかなめのことはききません。<どんな声の人?>とか、<どんなあそびが好き?>とか、<チョウの採取をする人?>というようなことは、てんできかずに、<その人いくつ?>とか、<きょうだいは、なん人いますか>とか、<目方はどのくらい?>とか、<おとうさんは、どのくらいお金をとっていますか?>とかいうようなことを聞くのです。

 おとなの人たちに、<桃色のレンガでできていて、窓にジュラニウムの鉢がおいてあって、屋根の上にハトのいる、きれいな家をみたよ・・・・>といったところで、どうもピンとこないでしょう。おとなたちには<十万フランの家を見た>といわなくてはいわなくてはいけないのです。すると、おとなたちは、とんきょうな声をだして、<なんてりっぱな家だろう>というのです」

 実は私も、あまり数字が好きではない。むしろ詩や小説のたぐいが好きで、「星の王子さま」は昔からの愛読書である。数字大嫌い、計算問題大嫌いであるが、その不愉快な数字や計算式を多用しなければならない、なんとも殺伐とした世界に私たちは住んでいる。個人的にはこういう世界とはできるだけ早くおさらばしたいものだと思っているのだが・・・。

 数字で嘘をつくことのうまい政治家に、北さんは田中角栄をあげていたが、現代の政治家では石原慎太郎がその筆頭だろう。医療民営化問題などで、彼が公立病院の非効率を示すために使った数字に疑問をもった医者が、厚生省に問い合わせたところ「そうした統計がございません」という解答をえたという。

 石原都知事といえば、最近では首都機能移転問題を審議する衆院の特別委員会で、11年前に行われた国会の首都機能移転決議について、虚偽の発言を繰り返したという疑惑が浮上している。

 石原知事は90年11月7日に行われた決議案採決について「自民党で座った(反対した)のは私を含めて4人」「とりあえず首都を移すという、こんなばかな決議をした国会というのは、世界中ないよ」「一種の暗黒裁判」などと発言を繰り返したという。

 ところが新聞社が保管していた当時の写真に、衆院議員だった石原氏の席で起立している男性議員の姿が写っていたという。記者会見した永井委員長は「決議に反対したことを前提に陳述しており、事実なら国会の権威を失墜させる」と語った。つまり、「こんなばかな決議をした国会というのは、世界中ないよ」といいながら、自分もそのときその議決に荷担していたわけだ。

 石原知事は珍しくビジョンを語ることの出来る政治家だと思う。しかし彼が口にする威勢の良い言葉は、俗耳にはいりやすいだけに、本当に真実かどうか、よほど慎重に検討してみる必要があると思う。とくに彼の口にする統計は、眉唾物がおおいのではないだろうか。

 ちなみに、私がこの日記でつかう数字は、ほとんど「朝日新聞」と「毎日新聞」の記事から取っている。しかし、こうしたメジャーな新聞社の統計が必ずしも正しいかどうか、保証の限りではない。たとえ数字は正しくても、それをどう扱うか、テニオハ一つで、内容は180度変わってしまう。

 情報が氾濫するこの時代、やはり一番大切なのは「自分の頭で考える」ということと、「健全な懐疑の精神」ではないだろうか。これからの教育の根幹に「情報リテラシー」を据えるべきだろう。

 


2001年12月14日(金) 食料の過剰と不足

 日本では米があまっている。米ばかりでなく、たくさんの食料があまっていて、食べ残した食料は年間1600万トンほどになるという。これはアフガンの人々の3年間分の食料に相当するらしい。(12/11の朝日新聞)

 それではアフガンを攻撃しているアメリカの年間の食べ残し量はどのくらいかというと、なんと4360万トンになるという。世界の食糧援助の総量が1000万トンだから、これはアメリカと日本の食べ残し量の1/6にすぎない。

 世界には栄養不足の人たちが8億3千万人もいる。しかし、世界的に見ると、食料生産は足りている。たとえば世界の穀物生産は推定で18億7千万トンだが、これは世界の人口を養うのに必要な量の2倍だという。

 2倍も生産していて、なぜ地上に飢餓や栄養不良で苦しむ人々が満ち満ちているのか。それは、いうまでもなく私たち先進国にすむ一部の人間が食料を過剰に消費しているからである。そのしわ寄せが、もう片方で窮乏を生む。たとえば、タイやベトナムは国内に1千万人をこえる栄養不良者をかかえながら、それでも外貨を稼ぐ必要上米を輸出している。

 必要量の2倍を超える穀物は、それではどこへ行くのだろう。食べ残し量も馬鹿にはならないが、多くは牛や豚などの家畜の餌になっている。私たちは年間6億6千万トンもの穀物を家畜に与えている。これは穀物全生産量の1/3を超える量である。

 ところで、牛を1キログラム太らせるのに、8倍の穀物が必要になるという。豚で4倍、鶏だと2倍の穀物を与えなければならない。穀物を直接食べるのではなく、牛や豚を太らせて、その肉を食べるために、これだけの穀物が余分に消費されている。

 インドのヒンズー教徒は牛を食べない。何故食べないかというと、牛は神であり、聖なる動物だからだという。イスラム教とはまったく反対の理由で豚を食べない。私たち日本人も江戸時代までは仏教の教えに従って肉食を慎んできた。宗教上の理由はともかくとして、こうした掟があったため人類は食料の過剰な生産や浪費を免れ、環境の決定的な破壊や汚染を免れて、今日まで生き残ることができたのかもしれない。その抑制がなくなりつつある。

 今日本やヨーロッパで問題になっている狂牛病も、こうした先進国の資源浪費や環境破壊にたいする警鐘かもしれない。牛や豚を太らすために使われている穀物の10分の1でも食料援助にまわすことができたら、飢餓線上にある何千万という人々の命を救うことができる。食料生産に伴う環境問題もふくめて、私たちはこのことを、もう少し真剣に考えてもよいのではなかろうか。


2001年12月13日(木) ミカンとリンゴの足し算

「3個のミカンと4個のリンゴを足したら何個になりますか」という算数の問題を出されて、「3個のミカンと4個のリンゴは足せません」と答えて叱られた子どもの話を読んだことがある。

 先生が期待した答えは、もちろん3+4=7だろう。しかし、多少の数学的センスがある人なら、この足し算は不可能だと考えた生徒の方に軍配を上げるにちがいない。なぜなら、この生徒の言うように、「3個のミカンと4個のリンゴは足せない」からだ。

 もし3+4=7を期待するのなら、「3個のミカンと4個のミカンを足したら何個になりますか」と問うべきだった。そうすれば、生徒は先生の期待通りの答え方をしたであろう。

 あるいは、「籠の中に3個のミカンと4個のリンゴが入っています。籠の中の果物は全部で何個あるでしょう」と問うことはできる。そうすれば、生徒は少し考えてから、3+4=7と解答しただろう。

 だから、「3個のミカンと4個のリンゴを足したら何個になりますか」というような無神経な質問はあまりしてほしくはない。ところが、現実にはこのような問いが教室で行われている。そして、生徒たちは、ただ機械的に3+4=7と答え、「はい、よくできました」と先生に誉められている。

「3個のミカンと4個のリンゴは足せない」ということは、「長さ3メートルの紐の長さと、面積が9平方メートルの円の面積は足せない(足しても無意味)」という例で置き換えてみればよくわかる。つまり長さと面積という次元の違う量はふつう足し算や引き算はしない。

 つまり、足し算や引き算は同等と見なせるものの間で可能だということである。ミカンとリンゴという質の違うものどうしの足し算を持ち出すことは、この原則に対する数学の正常な感覚を混乱させるおそれがある。そして、この感覚が破壊されると、後に学習するベクトルなどの代数・幾何の考え方がまるでわからなくなる。つまり、数学オンチになってしまうのだ。

 3個のミカンと4個のリンゴを足すということは、式で書くと、3a+4bであり、これはたしかに足せない。3個のミカンと4個のミカンを足すときは、3a+4a=7aが成り立つ。3個のミカンと4個のリンゴを足すためには、別にa=c、b=cという置き換えを要する。つまり「ミカン=果物、リンゴ=果物」と一般化する。そうすれば、ミカンとリンゴは同類項ということになり、3c+4c=7cという計算が可能になる。

 しかし、学習の初期の段階に、このような概念が錯綜した複合問題をおくことは、学習心理学上望ましいことではない。同時に二つの異質なことを教え込もうとすることが、しばしば学習に混乱を持ち込み、つまずきの原因になっている。この問題が現実から遊離した複合問題であるという自覚を、教師自身がもう少し持つ必要がありそうだ。

 以前に「分数の割り算」のことを書いたが、「3個のミカンと4個のリンゴを足したら何個になりますか」というような質問も、現実から遊離した「難問・奇問のたぐい」だろう。やはり、小学校、中学校の教育が大切である。数学上の理論を無視して、ただ計算が出来ればよいということでは、正しい数学的センスは育たない。

 私の二人の娘についても、小学校の算数を教えるのに腰が引けた。私が横から口を出したりしたら混乱するので、「先生の言うとおりにやるんだよ」と自重した経験がある。生自身が本当に理解して教えているのか、かなりあやしい。しかし、ひとりの先生がたくさんの教科を教えていると、そういうことになる。

 tenseiさんが掲示板に書いていたように、小学校に教科担任制を導入するのも一案かも知れないが、さらに大切なことは、先生に教材研究が可能なゆとりを与えることだろう。雑務に忙殺され、肝心の教科指導にまで頭が回らないのが小学校や中学校の現状ではないだろうか。

 算数の計算練習については、私は大いに行うべきだと思うが、それはやはり正しいやり方で、生徒に意味を理解させた上で行うべきだと思っている。算数=計算でないことも含めて、現在の学校教育のありかたを反省してみる必要がある。「滅び行く思考力」という本の中で、著者のJ・ハリーは点数中心の学校教育のありかたに警鐘を鳴らしている。

「教育的に重要であるが、ものさしでは測りにくいことが、教育的に重要でないが、測りやすいやすいことと、置き換えられています。今では学ぶ価値のないことを、どれほどうまく教えたか、われわれはそればかり測っています」

 生徒の学力を点数化するということは、「3個のミカンと4個のリンゴを足したら何個になりますか」という問いかけを正当化する論理そのものである。数学の点数と美術の点数を単純に加えて合計を出すことに、一体どんな意味があるというのだろう。

 本当に私たちは教育的に重要なことを子供たちに教えているか、ただ、試験しやすいということで、そして大学入試の選別に使えると言うだけで、あたかもそれが重要なことだと自らを欺瞞しているところはないか、私たち教師は自省してみる必要がありそうだ。


2001年12月12日(水) 心配な「物つくり大国」の将来

 小学生の頃、よく模型飛行機を作ったものだ。竹籤を曲げて、翼を作り、そこに紙を貼る。よく飛ぶ飛行機を作るために、それぞれ秘密の工夫を凝らした。土曜日の午後など、公園にはそうした自慢の飛行機を飛ばす少年たちの姿があった。私も夢中になったものだ。

 ノーベル賞受賞者が何人も出ているアメリカの有名な研究所を訪れると、まず最初に案内されるのがマシンショップ(工作機械室)だという。そこに腕のいい職人がいる。研究者はこうした技術者を大切にし、自慢にしている。

「たぶん日本の研究所だと、○○先生の研究室だとか××先生の実験室ところに案内し、有名な先生がいることをまず自慢するのではないだろうか。しかし、アメリカは違うのだ。オリジナルで独創的な装置を、ちゃんと自分で作っているのである」

 青色発光ダイオードを発明した中村修二さんは著書にこう書いているが、彼も装置は自分でつくった。世界に二つとない独創的な装置だからこそ、世界に先駆けてた独創的な研究が生まれたのだろう。

「大手大企業の研究員は、必要な物は注文してそろえればいい。お金にまかせて、あれが必要、これも必要とやっていればいい。これがダメならあれで試そうという具合だ。一見、効率的に仕事が進み、完成に至る道のりも早そうなのだが、実は、これでは何ら独創的な結果は得られないのだ」

「物作りの基本は、想像力にあると思う。ああなるかもしれない。こうなるかもしれないという想像力を働かせて、試行錯誤をしながら物を作りあげていく。けれども、実際には当初の想像とは違って、うまくいかない部分が多く出てくる。それらを自分の経験や知恵で克服していこうとする。そして、この困難を乗り越えたところに創造的な物が生まれてくると思うのだ」

「手作りでコツコツ製品を完成させていった時、その過程の中でふと見えるあわい光のようなもの、それがその後に自分流となっていく。そして、この自分流を強く押し出し、徹底して貫くとき、さらに大きな成功が可能になっていくのである」

 日本の中小企業にはすばらしい「もの作り」の伝統があり、中村さんのような優秀な技術者や職人がいて、彼らの創意と工夫が日本経済の基盤を支えてきた。しかし、いまその職人の世界がどんどん崩壊しようとしている。

「日本は大手企業に入ることが、まるで人生の目的みたいになっている。ここで出世して、あわよくばサラリーマン社長になるのが夢ということなのだろうか。こういう状況だから、日本では世界に通用するようなベンチャー企業が育っていかないのだ。・・・アメリカ流に言えば、一流大学など出て、大手企業に嬉しそうに就職していくような日本の若者は、みんな情けない男たちということになるだろう」

「成績のいいやつは大企業で、成績の悪い奴は中小企業でと、本人の好き嫌いに関係なく進んでいたのが、何年かすると半数は会社を辞めて他の会社に移ったり、あるいは家業を継いでいたりするものなのだ。それでまた何年かすると、不思議とそれぞれが好きな道を進んでいるのである。そして、この自分の好きな道を歩んでいる人が、だいたいは成功しているものなのだ」

「ならば、何も年をとってから好きなことをやるよりは、若い頃からやったほうがずっと伸びる。それは誰が考えても自明の理なのではなかろうか。学校の成績だとか、給料だとか、あるいは人間関係だとかには関係なく、とにかく最初から、というよりは十代前後の若い頃から自分の道を捉えて進む。そういうシステムがあれば、人はどんどん伸びていくと思うのだ」

 日本の教育制度を見直す、大変重要な視点だと思う。「十代前後の若い頃から自分の道を捉えて進むことができるシステム」を早期に構築する必要がある。テレビゲームと携帯電話に熱中する世代から、どんなものが生まれるというのだろう。彼らと日本の将来がたいへん心配である。


2001年12月11日(火) 夢を育てる中小企業

 昨日は中村さんの発明を紹介したが、そのとき彼のいた徳島県の日亜化学工業という会社について、あまりいいことはかかなかった。しかし、中村さんは彼の著書で、一方的にこの会社を非難しているわけではない。むしろ、ある意味ではおおいに評価している。

 それはそうだろう。こんなに小さな会社が、海の物とも山の物ともわからない研究に、さまざまな苦情をいいながらも、とにかくお金を出し続けたのである。一年間、アメリカの大学に留学さえ認めている。研究中止命令を無視して、会議にも出なくなった中村さんを、解雇もしなかった。普通の会社では考えられないことである。

 中村さんは東芝の入社試験を受けて落ちている。しかし、もし彼がこうした大企業に就職していたら、彼の発明はなかっただろう。「青色発光ダイオード」の発明は、中村さんが徳島県の片田舎にある日亜化学工業という中小企業に就職したからこそ可能だったのだ。

 日亜化学工業は現会長の小川信雄氏が1956年に創業した。彼は徳島大学薬学部を卒業し、太平洋戦争では薬剤師として激戦地ガダルカナルへ行った。彼はそこで、占領軍の部屋で、蒼白い光にであって感動する。それが彼が始めて目にした、蛍光灯の光だった。

 戦後、彼は専門知識を活かして製薬会社を興し、抗生物質ストレプトマイシンを製造する。しかし、売れなかった。品質では大手の会社のものよりはるかに良質だが、地方の小企業の薬は見向きもされない。会社のある徳島県東部の阿南市はわずか人口5万の地方都市に過ぎない。こんなところに本拠を置くマイナーな会社の製品をだれも信用しないのだ。ブランドの力は大きい。

 それではどうやったら、東京や大阪の大企業に太刀打ちできるのだろう。そのとき、小川氏の頭の中に、ガダルカナルで出会った蒼白い光が甦ったのだという。蛍光体ならば、品質が一目でわかる。これなら大企業と勝負できると考えた。そこでさっそく蛍光体の生産にとりくみ始めた。

 蛍光体の特許はアメリカのゼネラル・エレクトリック社が持っていたが、日本の大企業は特許料をはらっていなかった。小川さんはこれではいけないと思い、まず特許の正式な使用を求めた。ゼネラル・エレクトリック社はこれを評価して、使用権をすべて日亜化学工業にくれたのだという。

 こうして、中村さんが入社したとき、日亜化学工業は地方の企業といいながら、蛍光体では国内トップクラスのシェアを持っていた。年間の売上高は40億円、従業員も180人ほどいたという。

 日亜化学工業では、「勉強しよう。よく考えて、よく働こう。そして世界一の商品をつくろう」をスローガンにしていたが、小川氏はこの言葉を繰り返すだけで、研究開発につては社員の自主性を尊重したという。

 日亜化学工業ではすでに20年も前から、夏休みが20日間もあったという。小川氏はこのことについて訊かれたとき「20日間の夏休みなど、欧米の企業に比べれば珍しくも何ともない」と答えたという。何事も日本が基準ではなく、つねに世界のレベルで考えていた。

 そんな小川氏のもとに、中村さんは「青色発光ダイオードを作らせて下さい」直談判にいったのだという。小川氏は「やってみろ」と言って、3億円の研究開発資金を出してくれた。これは当時の日亜化学工業にとって、年間売上高の1.5パーセントに相当する大金だった。さらにアメリカへの留学も認めてくれた。世紀の発明が日本から生まれることになった背景に、こうした決断ができるトップがいたことを忘れてはならない。

 ちなみに、日亜化学工業はバブル期にも不動産投機に走ったりしなかった。多くの日本を代表する企業や銀行が投機に走る中、日亜化学工業は利益を研究技術開発に集中し、堅実な企業経営をした。こうした会社だからこそ、中村さんも解雇されずに、腰を落ち着けて地道な研究を続けることができたのだろう。


 


2001年12月10日(月) 世界を変える発光ダイオード

 このところ、2年連続で日本の自然科学者がノーベル賞を受賞している。日本の科学技術もそう捨てたものではないなと思っていたが、青色発光ダイオード(LED)の開発者として世界的に知られる米カリフォルニア大サンタバーバラ校の中村修二教授の書いた「考える力、やりぬく力、私の方法」という本を読んで、この思いをあらたにした。と同時に、日本の教育体制や企業風土の旧弊を思い知らされて、暗澹とした気分にもなった。

 中村教授は徳島大学工学部大学院修士課程を修了後、東芝の入社試験を受けたが落ちて、結局地元徳島県の日亜化学工業という従業員二百人たらずの田舎企業に入社した。ブラウン管の蛍光剤を製造していた会社で、電子工学部出身の技術者は中村さんひとりだけだった。就職して10年間は会社に言われるまま製品開発を続けたが、ほとんど売れなかった。そこで開き直って、周囲のだれもが無理だと言った青色発光LEDの開発に取り組みはじめた。

 ちなみに赤色発光ダイオードを開発したのは、日本の西澤潤一東北大教授(当時)である。もし青色LEDの開発に成功すれば、これで光の3原色がそろい、白色発光ダイオードができる。現在世界中で用いられている白色電球をもはや無用の長物になる。なぜなら、白色発光ダイオードはずっと寿命がながく、省エネルギー効果も抜群である。

 なぜなら、それは電気エネルギーを直接光に変える夢の技術だからだ。白熱電球を用いた交通信号の一機当たりの電力消費は、年間千八百円程度なのに対し、発光ダイオードを用いればわずか二百円程度ですむ。これはエジソン以来の技術革命だと言ってもよい。

 実際、中村さんの発明のおかげで、今世界中の国で、交通信号が発光ダイオード式にかわりつつある。たとえば1999年にシンガポール政府は国内にある五万九千機の交通信号をすべて発光ダイオードに変えると発表している。現在各国の国際空港の滑走路を照らしている皎々とした明かりも白色ダイオードだという。やがて家庭もダイオードの明かりになるのだろう。

 もちろんテレビやパソコンの画面も変わる。これでレーザー光線を作れば、これまでとは比較にならない大容量のDVDも可能になる。これまで映画一本分しか入らなかったDVDに10本以上が入るようになる。しかも、コンピュータの読み出しスピードも10倍以上早くなるので、これを搭載したやミサイルの発射スピードも10倍早くなるのだという。

 省資源、高性能を実現する青色発光ダイオードの発明が、世界を変える巨大なビジネスになることがわかっていたので、世界の企業や大学は巨額の研究費と人材を投じて、青色発光LEDの開発に躍起になっていた。そんななかで、ろくな研究費も施設もない中村さんの孤軍奮闘が続いた。

 中村さんに対して、会社はあまり協力的ではなかった。むしろ何度も書面で「青色発光ダイオード研究の中止命令」を出してきた。中村さんはこれをゴミ箱に放り込み続けたという。

「電話にも出ず、会議も一切無視し、人とも口をきかなくなった。当時、社内で私の話し相手と言えば、アシスタントの部下ひとりだったのだが、そのうち彼ともあまり口をきかなくなった。・・・当然会社では変人扱いされるようになっていた」

「半導体を扱っているのは私だけで、会社での上司に当たる人はみな蛍光体の製造をやっていたから、それこそもうボロクソに言われた。・・・『俺たちが苦労して蛍光体を作って売った金を、おまえはただ無駄遣いしているだけじゃないか。もう会社を止めろ』という具合なのだ」

 こうした、約10年の四面楚歌と悪戦苦闘をへて、見事開発に成功した。中村さんのおかげで従業員数二百名足らずだった片田舎の会社が、いまや数千人を抱える中堅企業で、売上高も毎年倍々ゲームを続けているという。六階建ての発光ダイオードの生産工場や、同様なレーザー生産工場も完成した。

 それにしても、同様の研究をしていた大企業が失敗して、中村さんが成功したのはどうしてだろう。そもそも青色ダイオードの発明は袋小路に入り、世界の学会でも当分不可能だろうと言わていた。ところが、日本の片田舎の、日本でさえあまり名前の知られていないマイナーな企業の、地方大学出の落ちこぼれ研究者が独力でこれをなしとげ、しかもまたたくうちに製品化したのである。彼はこの「奇跡」についてこう書いている。

「他の世界中の研究者、大手企業の研究員と私が決定的に違うところ、それは、大手企業や研究所は大勢のスタッフが分担して開発しているのに対し、私は一人で開発に当たってきたという点だ。しかも、半導体やダイオードとは無縁のバックグラウンドからたたき上げてきた。だから、その間に発光ダイオードについてのすべてのことを学んだという自負があったのだ」

「少年時代から、物事を深く考えることが好きだったせいもある。それが自分の得意技の一つであることを知っていたのだ。いつまでも、一つのことについて考えるには、私のクセでもあった。・・・期間で解けと言われれば、あるいは時間制限があったりすれば、たぶんあまり実力は発揮できないだろう。実際、高校の数学の試験などは、数式を証明するところから始めて、時間の足りないところがままあった。しかし、時間さえあれば、自分は絶対に問題が解けると信じて疑わなかった」

「私は青色ダイオードを開発するにあたって、何度も泥沼の袋小路をさまよった。しかし、いくら泥沼に落ち込もうとも、自分流を忘れはしなかった。自分のやりかたをかたくなまでに貫いた」

「製品化の強い催促を私は完全に無視して実験を繰り返し、論文を書き続けた。約一年間もこのような状態が続いたため、会社とはほんとうに危ない関係になっていたのである。だが、私はかまわなかった。そのようなことより、夢の実現の方が私には大切だったのだ。そして、結局それが会社にも大きな利益をもたらすものと確信していた」

 中村さんの名前は「現代の発明王エジソン」として世界的に知られ、ノーベル賞に一番近い男と言われるようになった。世界の企業や大学が、何億、何十億というお金を積んで、中村さんを獲得しようとした。しかし、日本の企業や大学からの誘いはひとつもなかったという。

 中村さんは日本を去ることを決断して、現在米カリフォルニア大サンタバーバラ校の教授として巨額の収入を得て、高級住宅地に豪邸を構え、潤沢な研究費にも恵まれて、優雅な研究生活を送っている。

 会社をやめたのは、日本の企業風土が研究者や技術者に報いる体勢になっていないからだという。会社に何百億円という莫大な利益をもたらしても、中村さんが特許申請時に手にした報奨金は2万円のだけ。あまりにも見返りが少ない。中身さんは、研究成果に報いない現在の制度を変える必要性を訴えて、今や中村さんとともに世界的有名企業となった日亜化学工業を相手取り、特許権の帰属確認と正当な報酬の支払いを求める訴訟を起こしている。

 さらに、日本で魅力的なベンチャー企業や人材が育たない最大の理由は「大学入試にある」と指摘。少し長くなるが、大切な指摘だと思うので、最後にその部分を彼の著作から引用しておこう。

「人間の頭脳が一番冴えているのは、やはり高校生ぐらいから二十歳前後の頃だ。日本では、この頃に過酷な大学入試がある。そのため、この最も貴重な時代を、無味乾燥で何の役にも立たない受験勉強ですごさなければならなくなる。創造性を養っている暇などなくなってしまうのだ。

 ところが、皮肉なことにこの頃が一番素晴らしいアイデアが浮かぶ頃なのである。あまたのノーベル賞学者や、大発明家の多くは、この二十歳前後に浮かんだアイデアが持続されたために成功しているのだ。

 日本の場合には、この出発の時期からしてすでに遅れている。この時期を大学受験で費やすため、いいアイデアが浮かんでくる余地がなくなっている。大学に入ってからではもう遅いと言っても過言でないくらいなのである。

 だから、この頃に本当に好きなことやらせて、創造的で発展的で面白いアイデアを培っておく必要があると思うのである。そういうことから、私は大学受験をなくさなければならないと言っているのである。

 大学受験を即廃止し、好きな大学、学部に自由に行かせたらいい。その代わり、卒業を難しくすればいいのだ。本当にやる気があるものだけが卒業できるのである。現在の日本の受験システムでは、生まれた瞬間から大学受験勉強のコースに入っており、即、暗記勉強の世界に突入させられる。このようなシステムでは本当にやる気のある若者が育つであろうか。

 アメリカもたぶん四十年から五十年前は、日本と同じようなことをやっていたのではないか思う。しかし、アメリカのいいところは、徐々にではあるが教育システムを変えてきたところだ」

 さて、日本の教育システムはいつになったら変わるのだろう。少しでも変えて行けたらとという。、ささやかな願いを込めて、これからもこうしてHPなどに駄文を書き続けていこうと思う。


2001年12月09日(日) 美しい文章の魅力

「私はその人を常に先生と呼んでいた。だから此処でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚る遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである」 (「こころ」夏目漱石)

「山の手線の電車に跳ね飛ばされて怪我をした。その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた。背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、そんなことはあるまいと医者に云われた」(「城崎にて」志賀直哉)

 日本を代表する小説の冒頭の部分である。夏目漱石の文章はあまり主語の省略がない。英文学の先生らしい律儀な文章である。志賀直哉の文章になると、まったく主語が現れないことがある。独特の文章でありながら、読んでいて違和感はなく、自然そのものである。
 川端康成の「山の音」から引用しよう。

「枕元の雑誌を拾ったが、蒸し暑いので起き出して、雨戸を一枚あけた。そこにしゃがんだ。
 月夜だった。
 菊子のワン・ピイスが雨戸の外にぶらさがっていた。だらりといやな薄白い色だ。洗濯物の取り入れを忘れたのかと信吾は見たが、汗ばんだのを夜露にあてているのかもしれぬ」

 ここでも主語がほとんど省略されている。そのために、読者も自然に主人公の心象世界に入って、主人公とともに行動し、感じている。やはり、日本語の性格を活かした名文のひとつだと言えよう。

 英語に訳すときは、もちろん主語をおぎなわなければならない。今手元にある、Seidensticker氏の英訳本では、こんなふうになっている。

 He took up magazine at his pillow.Then,the room being sultry, he got up,opened a shatter,and sat down biside it.
The moon was bright.
One of his daughter-in-low's dress was hanging outside,unpleasantly gray.Perhaps she had forgotten to take in her laundry.or perhaps she had left a sweatsoaked garment to take the dew of night.

「月夜だった」は「The moon was bright.」と月を主語にして訳出されている。次に、英文の逐語訳を試みよう。

「彼は枕元の雑誌を取りあげた。そして、部屋が蒸し暑かったので、彼は起きあがって、雨戸を開け、その傍らに座り込んだ。
 月が輝いていた。
 彼の義理の娘の一人のドレスが戸外にかかっていて、不快な灰色だった。たぶん彼女は彼女の洗濯籠に取り込むのを忘れたのか、それともおそらく、彼女は汗のしみた衣服を夜露にあてるために残しておいたのだろう」

 逐語訳もそれほど違和感が感じられないかも知れない。ということは、それだけ私たちが翻訳調の日本語にならされているということだろう。しかし、文章の生き生きとした美しさが感じられない。やはり、川端康成や志賀直哉の文章を読むに限る。


2001年12月08日(土) 主語の省略

 昨日の日記で、簡潔な文章を書く要諦のひとつとして、「主語の省略」をあげた。日本語の場合、主語はできるかぎり省略される。たとえば、英語で「I am sorry.」を、日本語では「私はすみません」とは言わない。そこで、今日はその意味を探ってみたい。手がかりは時枝誠記の「日本文法・口語篇」である。

「国語においては主語は述語に対立するものではなくて、術語の中から抽出されたものである。国語の特性として、主語の省略ということが言われるが、右の構造から判断すれば、主語は述語の中に含まれたものとして表現されていると考える方が適切である。・・・・国語においては、主語は述語の修飾語とみることができる」

 昨日の、「私が妻と結婚して30年間の歳月がたった」という文例で考えてみよう。「私が」という主語は「結婚して」という術語を修飾していると考えることができる。そして修飾語だから省略できるわけだ。

「30年の歳月がたった」でも、「三十年の歳月」は「たった」という述語を修飾していると考えることが出来る。つまり、日本語の文章は「述語」を中心にして、これに様々な修飾語がつくことで成り立っている。この点で英語などの外国語とはずいぶん違っている。

 しかし、このことは日本語が「私」を持たない、非主体的な言語だということではない。日本語が「話し手を中心とする言語」だということを以前に書いた。つまり、日本語は構造的に「自己中心的」にできているので、もはや「私」を文頭に置く必要がないのである。「すみません」のなかに、「私」が入っているので、「私はすみません」といっては「私」が重複する。 

 日本語が「自己中心的だ」というのは、西田哲学流に言えば、「主客未分」と言うことにもなるかもしれない。西洋の言語のように客観原理に則った「個の論理」ではなく、主観的な情況を重んじる「場の論理」に立脚している。道元流にいうなら、「自己と他己の世界」の言葉である。客観も又、主観の一部という無意識の心的傾向を、私たち日本人は持っているようである。

 たとえば、私が外出するために、玄関の戸をあけたとする。その時、外の冷気に触れて、思わず「寒い」とつぶやく。それでは「何が」寒いのか。それは「天気」や「私」だということになる。しかし「天気が寒い」「私が寒い」などと主語をおぎなった文章は不自然である。私たちはむしろ主語が何であるかを意識しない。つまり「主客未分」の状態にあるわけだ。

 このように日本語における「主語の省略」ということは、私たち日本人が普段から「主語を意識しない」生活を送っていることと無縁ではない。もっとも、このことは、主語を省略する言語習慣があるので、主語を意識しないで生きているというふうに、逆に言うこともできよう。

 さてそこで、日本語についての以上の考えをもとに、芭蕉の俳句の魅力に迫ってみよう。たとえば、次の三句である。
  古池や蛙とびこむ水の音
  閑かさや岩にしみいる蝉の声
  荒海や佐渡によこたふ天の川

 これらの名句たるゆえんはなにか。それは「蛙とびこむ」「岩にしみいる」「佐渡によこたふ」という動詞句の生き生きとした表現だろう。「とびこむ」「しみいる」「よこたふ」という動詞が生きて働いているところに、これらの俳句の文学としての成功の秘密がある。

 俳句に限らず、日本語の文章は動詞がいきいきと働いているほど美しい。主語を省略することで、かえって「ものそのもの」に内在する主体性が躍動し、文章はさわやかな生命感に満たされる。そこに広がるのは、他者の在り方をそのまま自己の在り方に重ねる、自己解脱的な共感の世界である。


2001年12月07日(金) 簡潔さを求めて(2)

 簡潔に書くことについて、具体例を上げて考察しよう。与えられた文章は「私が妻と結婚して30年間の歳月がたった。したがって、私は妻に感謝したい」というものである。この文章を藤本流文章術で彫琢してみよう。

� 嶌覆鳩觝Г靴藤械闇�間の歳月がたった。妻に感謝したい」
 「私が」「私は」という主語を省くことで自然な文章になる。また、「したがって」という接続詞も省略する。

�◆ 嶌覆鳩觝Г靴藤械闇�間がたった。妻に感謝したい」
 「の歳月」を省いたのは、こうした「手垢の付いた常套句」をなくして、文章をすっきりさせたいからだ。

��「結婚して30年間がたった。感謝したい」
「妻と」を省いたのは、「結婚」は妻とするものだからだ。同様に、「妻に」も前後の文脈を考えて、省く。むだな修飾語を削ることで、文章が引き締まる。

�ぁ峽觝Г靴藤械闇�。感謝したい」
「がたった」は不要。さらに、「間」も省いた。

�ァ嶌覆箸裡械闇�。感謝したい」
「結婚」という抽象的な言葉を、具体的に表現すると、「妻とともにいること」だろう。そこで、「結婚して」という観念語を、「妻との」という具象的な表現に置き換える。これで、文章が魔法のように生きてくる。

 再び二つの文章を並べてみよう。
「私が妻と結婚して30年間の歳月がたった。したがって、妻に感謝したい」
「妻との30年。感謝したい」
 単語の数が半分以下になって、文意は明確、含蓄も深くなった。並べてみると、最初の文章が駄文であることがわかる。

 もとの文章の中で、ほんとうに大切な単語は、「妻」「30年」「感謝」という3つである。彫琢することで文章の精度や純度が高まる。対象に対する認識を深めて物事の本質を明らかにすることができる。簡潔な表現の力強さや含蓄の豊かさが、深い感動をよびおこす。

 一般に、日本語らしい自然な文章を書くために、次のポイントが大切だという。
�ー膰譴篝楝鎧譴鮠覆�
��慣用句などの月並みな表現を使わない。
�4愀源譴鮖箸辰進J犬話永犬砲垢襦�
�ぁ嵌燹廖◆嵌狃�」「その」「あの」などの代名詞や冠詞を多用しない。
�ゴ崚蟷譴筌�ノマトペ、形容詞などの修飾語を多用しない。
�γ蠑欷譴鯣鬚韻襦�(具体的な名詞、もしくは動詞で置き換える)

 私自身の感想を付け加えるならば、文章にとって大切なのは「間」ではないかと思う。文章を簡潔に書くことによって、「間」が生まれ、含蓄が生まれる。文章が生き生きとしてくる。

 そして、さらに大切なのは、明確な問題意識をもち、問題の本質を洞察する直感力をたかめることだろう。「人生についての二十一章」に書いた言葉を、私自身への自戒として、最後に引用しておこう。

「饒舌は彼がまだ問題の本質をつかんでいないことの証しである。物事の核心に触れた言葉は簡潔で、恐ろしい力がこもっている」


2001年12月06日(木) 簡潔さを求めて

 パリの酒場で、高名な画家(たしかピカソ)を見かけた男が、ペンと紙を差し出して、ここに何でもよいから描いてくれと頼んだ。画家はペンを走らせ、数秒で作品を書き上げ、そして男にとても高額の謝礼を要求した。

 男が驚いて、数秒でこんなに稼ぐのは法外だと口にしたところ、その画家は涼しい顔で、「私がこの線を描けるようになるまでに、30年間の修行があった」と語ったという。なにかの本に紹介されていたエピソードである。

 これもある本で読んだことだが、サーカスの名人が「どんな芸が一番難しいか」と訊かれて、「観客に難しそうに見える芸はほんとうはそう難しくない。なんでもない、やさしそうにみえる芸が、実は一番むつかしいのです」と答えたそうである。

 こうした画家の言葉や、サーカスの名人の言葉は、文章を書くことについても当てはまるのかも知れない。私たちが100万言を要するところを、文章の達人はほんの数行の、何でもない素朴な言葉で片づけてしまう。しかし、この簡潔さを身につけるまでには、厳しく長い修行の日々があったのだろう。

 こんなことを書いたのは、藤本義一さんが、「井原西鶴」の中で、簡潔に書くことの魅力を具体例を上げて説いているのに出会ったからだ。たとえば、「私が妻と結婚して30年の歳月が経った。私は妻に感謝したい」という文章があったとする。

 藤本さんによると、この文章は日本語としてあまりいい文章ではないらしい。名人の目からすれば「かなりの悪文」ということになるそうだ。それでは、どうしたら、この文章が名文として甦るのか。明日の日記で、この藤本流文章蘇生術を紹介しよう。


2001年12月05日(水) 永遠との出会い

 ヨハネ伝に「律法はモーゼをとおして与えられ、恵みとまことは、イエス・キリストをとおしてもたらされた」という言葉がある。若い頃の私は、この言葉に感激し、「旧約聖書」に描かれた神の義とか怒りには馴染めなかった。むしろ、個人の魂の救済をテーマにした「新約聖書」に多くの共感を抱いた。

 しかし、歳をとるとともに、「旧約聖書」の世界に心が傾くようになった。昔あるひとから、「ある程度歳をとらないと、旧約聖書はわからないよ」と言われたが、この歳になってなるほどと思う。

 人間の生の領域は、「個人の領域」を越えて、「共有の世界」にまで広がっている。この広がりがわかるにつれて、「旧約の世界」もまた、よく見えてくるようになるのだと思う。そして、そのためには、人はある程度の人生経験をへなければならない。

 共有の世界とはなにか。それは私たちが生を受けているこの世界である。それはこの豊かな自然であり、国家であり、民族であり、そしてさまざまな共同体や家族である。しかし、それはこうした単に目に見えるものばかりではない。学術や文化、芸術、言語や技術も又そうした広大な世界に属している。更に大切なことがある。それはこの共有の世界は私たちの世代を超えて過去と未来に広がっているということだ。

 この点をもう少し詳しく書いておこう。歴史哲学者ハンナ・アレントによれば、人間は二つの領域の生を生きている。ひとつは個人の人間に属する「個人的な領域」であり、もう一つは人類の文明世界、あるいは自然界といった「共有の世界」である。そうして、アレントはこんな風に続ける。

「われわれは生まれたときに、共有の世界に入り、われわれが死んだあとも共有の世界は残る。・・・共有の世界は、われわれの生命が続く期間を超え、過去と将来の世代につながる。それは、われわれが生まれる以前から存在し、われわれが短い期間そこに住んだあとも、存在し続ける。それは、われわれと同じ時代に生きる人だけでなく、かって地上に住んだ人たち、われわれが死んだあとに生まれてくる人たちとも、共有するものである」(人間の条件)

 私たちが単に個人の力で生きているという考えが、現代のように、個人主義に名を借りた利己主義の横行する時代では一般的な風潮にさえなってしまっている。しかし、それは幻想である。私たちは社会や自然によって保護されなければ、一刻も生き延びることは出来ない。

 つまり、私たちは個人の領域をとりまくはるかに大きな共有の世界を持っており、この永遠なものを通して、私たちは過去と未来につながって生きているのである。もし私たちがこの人生に対する根本認識を失うならば、私たちの人生はきわめて視野の狭い刹那的なものになってしまうだろう。反対に人がこの永遠なものの認識にふれるとき、人生の意義もまた、自ずと明らかになる。

 ラスコーリニコフやスビィドリ・ガイロフの抱いた「虚無」をどのように捕らえたらよいのか、それは私たちの人生でどのような意味を持ち、どのように超克されるのか。この「共有の世界」の考え方がヒントになるだろう。東洋的な「無の世界」や宗教的悟達という方法に親しみを覚えないわけではないが、私にはこれは一つの逃避であり、精神的頽廃ではないかと思われる。

(こうした視点から、私は5年ほど前に「人間を守るもの」という作品を書いた。興味のあるかたは、ご覧になって下さい)
 


2001年12月04日(火) スビィドリ・ガイロフの地獄

 昨日に引き続き、「罪と罰」について書こう。ラスコーリニコフの分身で、冷血漢そのものと言うべき恐るべき人物にスビィドリ・ガイロフがいる。彼は善悪を無視し、本能のままに生きる。そして、十三歳の少女を犯して、彼女を自殺に追い込みながら、何の悔悟も覚えない。

 無信仰の彼が天国や地獄を信じているとは思えないが、もしそのようなものがあったら、それは「隅々に蜘蛛の巣のうずくまっている狭苦しい田舎の湯殿」のようなものかもしれないという。彼のニヒリズムは来世さえもこうした散文的な風景として描く。

「われわれはげんに、いつも永遠なものを不可解な観念として、なにか大きなもののように想像しています。が、なぜ必ず大きなものでなければならないのでしょう。ところがあにはからんや、すべてそういったようなものの代わりに、田舎の湯殿みたいな、すすけたちっぽけな部屋があって、そのすみずみにくもが巣を張っている、そして、これがすなわち永遠だと、こう想像してごらんなさい。じつはね、私はどうかすると、そんなふうなものが目先にちらつくことがあるんですよ」

 こうしたスビィドリ・ガイロフの言葉に、さすがのラスコーリニコフでさえ、「一種の悪寒」を覚えざるを得なかった。スビィドリ・ガイロフは家庭教師をしていたラスコーリニコフの妹を追いかけてペテルブルクまでやってきて、こんな哲学談義の後、ラスコーリニコフに1万ルーブルをちらつかせながら、彼の妹のソーニャに会わせてくれるよう依頼する。

 もちろんラスコーリニコフは断るが、スビィドリ・ガイロフはその後、手管をつかって、ソーニャを手込めにする寸前まで行く。しかし、彼は突然、これを断念する。そして、ソーニャに善行までほどこして、自らは死におもむく。最初から最後まで、何とも謎の多い人物である。

 人類の共同世界から追放された人間は、いずれもこのような耐え難い虚無を生きなければならないのだろうか。ドストエフスキーはこうした虚無に生きる人間の真実を追究して、みごとなまでに成功を収めている。

 ある意味で、ラスコーリニコフやスビィドリ・ガイロフは、私たちの内部ある観念を具現化した人物であり、私たちの分身でもある。なぜなら、現代に生きる私たちもまた、高度に発達した文明の幻影に包まれて、その虚無を内面に抱きながら、しかもその虚無に気付かず、その日その日を目先のことで紛らわせてあくせくと生を消耗させているからだ。

 たとえば、チェーホフの登場人物がそうである。「子犬を連れた奥さん」のグーロフに、私たちはもう一人のスビィドリ・ガイロフを見出すことが出来よう。チェーホフのすぐれている点は、ドストエフスキーと対照的に、そのような取るに足りない平凡な市民の日常生活を描きながら、そこに存在する虚無の問題をするどく追求して見せたことだろう。


2001年12月03日(月) ラスコーリニコフの孤独

 ドストエフスキーは「罪と罰」について、編集者カタコフあてに売り込みの手紙をだして、主人公のラスコーリニコフについて、「犯行の直後からまざまざと実感するようになった人類との断絶感、分裂感が、彼をぶちのめしたのです」と書いている。

 たしかに「罪と罰」は人類という共同世界から追放された孤独な人間の悲劇の物語である。この悲劇がもたらされた直接の原因は、彼が金貸しの老婆ばかりでなく、その妹までも殺害した犯行の結果だが、実は、それ以前に、彼の心の中に胚胎していたとみることができよう。

 彼は犯行後、ネヴァ河の橋の上にたたずみ、宮殿の見える壮大なパノラマを見つめる。そこは彼にとって、大学に通っていた頃からの馴染みの場所だった。しかし、彼は当時から、この眺めに違和感を抱いていた。

「いつもこの壮麗なパノラマが、なんともいえぬうそ寒さを吹き付けてきたのだった。彼にとってこの華やかな画面が、口もなければ耳もないような、一種の鬼気に満ちているのであった」(米川正夫訳。以下同じ)

 ラスコーリニコフは、この世界の繁栄はみせかけの張りぼてにすぎないと考え、心象風景として、「口もなければ耳もないような、一種の鬼気に満ちた世界」を感じていたのである。この感覚が犯行後まざまざと顕在化してくる。

「どこか深いこの下の水底に、彼の足もとに、こうした過去の一切が、以前の思想も、以前の問題も、以前のテーマも、以前の印象も、目の前にあるパノラマ全体も、彼自身も、何もかも見え隠れに現れたように感じられた」

 このあと、ラスコーリニコフは商家の女から乞食とまちがえられて、「キリストのために」と声をかけられ、一枚の銀貨を渡される。

「彼はこぶしを開いて、じっと銀貨を見つめていたが、大きく手を一振りして、水の中に投げ込んでしまった。それから踝を転じて,帰途についた。彼はこの瞬間、ナイフかなにかで、自分というものをいっさいの人と物から、ぶっつり切り離したような気がした」

 ここに描写されているのは、たぐいまれなニヒリズムの心象風景である。とくに「口もなければ、耳もない」という表現が利いている。それはチェーホフの主人公がヤルタの海岸に見た「永劫の世界」とも一脈通じながら、しかもその対極にある寒々とした孤独な風景だといえる。

 ロマノフ王朝の栄華をきわめた壮麗な宮殿と、ラスコーリニコフの暮らす人生の悲惨に満ちた貧民窟の人々の暮らし。ラスコーリニコフはこの繁栄と窮乏の対照の中に隠された恐ろしい欺瞞に気付いていた。しかし、彼はこの「欺瞞」を「虚無」というかたちでうけとる。ラスコーリニコフの悲劇の大本は、ここにあったのではないかと思われる。

 私たちは普通は「目鼻立ちの整った」日常の世界に暮らしている。しかし、何かの折りにこの仮面がはずれて、「世界そのもの」の混沌とした姿をかいま見る瞬間がある。しかし、私たちは直ちにその「目鼻立ちのない」世界から目を背ける。そしてまた、日常性に覆われた、見せかけの世界に復帰して、安心する。

 プラトンはこの世界を幻影の世界だと考えた。私たちは洞窟の中にいて、光に背を向けて暮らしている。そして洞窟の壁に映る影を眺め、それを真実の世界だと考えている。それではなぜ、光(真理)に背を向けて立つのだろうか。

 それは直接その光を眺めると、目を痛めるからである。幻影の世界を本当の世界だと考えてきた人間は、そうした「真実の世界」の強烈さにたえられない。「目も鼻も口もない姿」におぞけを感じるのである。だからプラトンはすこしづつ、目を慣らしなさいと忠告する。

 洞窟の奥から、すこしずつ入り口の方に場所を移して、真理の光に親しむのである。そうすると、今度は欺瞞に満ちた幻影の世界がまざまざとよく見えてくる。ラスコーリニコフの悲劇は、真理の光に背を向けながら、しかもまざまざとこの世界が幻影であり、欺瞞であることに気付いてしまったことだろう。そして、さらに大きな悲劇は、自分自身を「真理の光」だと過信したことだろう。


2001年12月02日(日) 犬を連れた奥さん

 昨日に続いて、チェーホフについて書こう。私の好きなチェーホフの短編に「犬を連れた奥さん」がある。主人公のグーロフは四十前の男である。結婚して3人の子どもがいるのに、女遊びに熱中して、家にもよりつかない。

 女のことを「低級な人種」と公言しているくせに、この「低級な人種」なしでは二日と生きていけないという女好きである。そんな俗物の主人公グーロフが保養地ヤルタにやってきて、犬を連れた、小柄なブロンド髪の奥さんを見初める。知り合って一週間ほどしたころ、グーロフは奥さんをヤルタ郊外の海岸に連れ出す。

「オレアンダでふたりは教会からほど遠からぬベンチに腰かけて、海を見下ろしながら黙っていた。ヤルタは朝霧をとおしてかすかに見えた。山々の頂には白い雲がかかってじっと動かない。木々の葉はそよりともせず、朝ゼミが鳴いていて、はるか下の方から聞こえる海の単調なにぶいざわめきが、われわれ人間の行く手に待ち受けている安息、永遠の眠りを物語るのだった。
 はるか下のそのざわめきは、まだここにヤルタもオレアンダもなかった昔にも鳴り、今も鳴り、そしてわれわれのない後にも、やはり無関心なにぶいざわめきをつづけるのであろう」(神西清訳。以下同じ)

 こうして、グーロフは、この若い人妻と何度か逢い引きを経験した後、モスクワに帰ってくる。グーロフはこれまでそうして多くの女とかかわり、別れてきた。だから、今度の女の場合も、たんなる行きずりの関係だと思っていた。そして、再会する希望や願望さえ抱いていなかった。

 ところが、モスクワに帰って1カ月がたち、クラブや晩餐会に顔を出し、医師会館でトランプをしながらも、この女のことがふと、頭にうかんでくる。そればかりではない。彼は自分の日常生活がしだいに我慢のならぬ醜悪なものにさへ感じられてくる。

「何という連中だろう。何という無意味な毎晩、何というつまらない灰色の生活だろう。狂ったようなトランプ遊び、暴飲暴食、役に立たない仕事と、くどくどと繰り返す決まり切った話とに、最良の時間と精力が取られて、どどのつまり残るものは何やら中途半端な飛躍のない生活・・・・」 グーロフはいたたまれなくなり、女に会いに行く。

「グーロフは女に近寄り、その肩に手をかけて、女を愛撫し、すこしおどけて見せようとしたが、そのとき鏡の中に自分の姿を見た。この数年のうちにこれほど老け、これほど醜くなったのはふしぎに思われるほどだった。グーロフの手に触れている肩は暖かくて、震えていた。まだこんなに暖かくて美しいこの生命も、グーロフの生命と同じように、まもなく色あせ萎びはじめるのだろう。グーロフはそんな女の生命に哀れを催した」

「グーロフは女たちと知り合ったり、親しくなったり、別れたりしたが、愛したことは一度もなかった。その他のものは何でもあったが、愛だけはなかった。そして頭が白くなり始めた今、グーロフはまともに、ほんとうに、生まれてはじめて愛したのである」

「二人はお互いに過去の恥ずかしい行為を赦し、現在のすべてを赦しあい、この恋が二人のどちらをも変えてしまったように感じるのだった。昔のグーロフは、悲しいときには思いつく限りの理屈で自らを慰めたものだったが、今はもう理屈どころではなく、感じるのは深い憐れみばかりで、ひたすら誠実にやさしくありたいと思うのだった」

 グーロフはこうして、生まれて初めての、切ないほどに純粋な恋に落ちる。そして、あの好色漢で俗物の彼がこんな風に人生を考えるようになる。「よくよく考えてみれば、究極のところ、この世の一切は何と美しいのだろう。人生の高尚な目的や、わが身の人間としての品位を忘れて、われわれが自分のために考えたりしたりすること、それを除いたほかの一切は」

 チェーホフがこの作品を書いたのは三十九歳の時だった。彼はすでに結核に蝕まれ、5年後に訪れることになる死を予感して、自分の全集の編集に心血を注ぎ始めていた。グーロフはある意味でチェーホフの分身であり、「よくよく考えてみれば、究極のところ、この世の一切は何と美しいのだろう」という主人公の感懐は、チェーホフの末期の目に映った自然と人間の姿でもあったのだろう。


2001年12月01日(土) 簡潔な文章の魅力

 日記を書くために、ドストエフスキー全集を久しぶりに手に取った。「カラマーゾフの兄弟」の中の「大審問官」に一通り目を通したが、なつかしかった。ただ、いささか文章が冗漫なのが気になった。

 彼の文章や作品が長いのは、原稿料稼ぎのためだという説を以前読んだ覚えがある。本題にはいる前に、当時流行したらしい思想や、なんだか怪しげな学説をもったいぶって書いている。こういうところは、現在の私には何の興味もないので、飛ばし読みするしかない。

 いきおい、会話だけ目を通すという横着な読み方になるのだが、それでも意味は通じるし、かえって緊迫感が出て面白いのである。さすが、ドストエフスキーだなと、そのうまさに脱帽である。

 ところで、ドストエフスキーはかなり創作手帖や手紙などで、創造の舞台裏なども書き残していて、こちらのほうも読んでいて面白い。たとえば、ソーニャ・コツレフスカヤにあてた手紙にはこんな一節がある。

「作家としての最大のこつは、消し方の上手ということです。自分の書いたものを消すことを心得、かつその力を持っているものは進歩します。すべての大作家は実に簡潔に書いたものです」

 こうした文章を読むと、ドストエフスキーも簡潔に書く努力をしていたことがわかる。原稿料稼ぎのために長く書いたなどと言われるのは、心外なことかもしれない。しかし、この言葉が似合うのは、ドストエフスキーよりも、チェーホフではないだろうか。そこで、いくつかチェーホフの言葉を引いてみよう。

「ものを書く技術とは、実を言えば、書く技術そのものではなく、下手に書かれたものを削る技術なのです」(ラーザレフ・グルジェンスキーの回想)

「海が息づいたり、空が眺めたり、荒野が甘えたり、自然が囁いたり、話したり、悲しんだり、こういう比喩は描写をいくらか単調に、時には甘ったるく、時には不明瞭にします。自然描写における色彩の豊かさや表現力は、ただ素朴さによってのみ、つまり、『日が沈んだ』、『暗くなった』、『雨が降っていた』など、こうした素朴な言葉によってのみ達せられます」(ゴーリキーへの手紙)

 たしかに、これはまさしく、チェーホフらしい言葉だと納得する。ロシアの詩人で小説家・批評家のメレジェフスキーは、「チェーホフの簡潔さは、時には気味の悪くなるような簡潔さだ。なんだか、もう一歩この道を進めば、もう芸術の終わり、人生そのものの終わりと言った感じだ」と書いている。

 ドストエフスキーの文章が冗漫に見えるのは、たぶんチェーホフのこの気味の悪いほどの簡潔さを知っているからだろう。もう一人、ゴーリキーのチェーホフ評から引用しておこう。

「チェーホフの物語を読むと、晩秋のもの悲しい日に、空気がとても透き通っていて、その中で裸の樹木や狭い家や、灰色の人々がくっきり描き出されている時のような感じがする」

 さて、チェーホフの言葉の中で、私がとくに好きな言葉がある。
「僕には、神、ペシミズムなどといった問題を解決せねばならないのは、小説家ではないような気がします。小説家の仕事は、誰が、どんなふうに、いかなる環境のもとで、神あるいはペシミズムについて話したか、また考えたかを描くだけです。芸術家は、自分の作中人物や、彼らが語ることの裁判官になるべきではなく、ただ公平な証人になるべきです」(A・S・スヴォーリンへの手紙)


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