橋本裕の日記
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2002年01月31日(木) 可愛い鼻

 昨日に引き続いて、「瀬戸内寂聴の人生相談」の話をしよう。寂聴さんのころもいじめはあった。そして寂聴さんもいじめっ子だったという。もっとも、寂聴さんがいじめるのは、弱い子ではない。弱い子をいじめるいじめっ子を、寂聴さんがいじめるのである。つまり、いじめっ子を征伐する係りだったらしい。

 そんな勇ましい寂聴さんにも、コンプレックスはあった。なにしろ色白で器量の良い姉となにかと比べられるからたまらない。むしろコンプレックスのかたまりだったという。その反動で、勝ち気で負けず嫌いの、お転婆の少女になったのかもしれない。

 しかし、いくら強がっていても、自分が不器用だという負い目は少女の感じやすい胸をいつも悲しく波立たせる。そこで、何とか白いきれいな肌になりたいと思って、お風呂に入るとき軽石でこすったりしたのだという。

 それから、洗濯鋏で鼻を挟んで寝た。そうすれば、少しは鼻が高くなって、見栄えがよくなると思ったらしい。ところが、母親がこれを見て、びっくりして、理由を尋ねた。そこで、鼻を高くするためだと答えると、母はニッコリ笑って、「そんなことしなくったって、おまえの鼻はかわいいよ」」と言ってくれた。

 この言葉で、寂聴さんは「そうか、私の鼻は可愛いんだ」と思うことが出来て、自分に自信ができたのだという。低くて見栄えのしない団子鼻でも、「可愛い」と言われれば、たしかに「可愛い」と思えてくる。彼女の心を明るくし、彼女の未来を明るくしてくれたのは、そんな母親のちょっとした言葉だった。

 矢崎さんは金子みすヾは「母親のような人だ」というが、寂聴さんも「母親のような人」である。かって彼女自身母親に「可愛いよ」と言われたように、今は「あなたたち、ひとりひとりみんな違っていて、みんな素敵なかけがえのない存在なのよ」と母親の役を演じ続けている。


2002年01月30日(水) 自分を愛するということ

 日曜日、何気なくテレビをつけたら、NHKの再放送で、「瀬戸内寂聴の人生相談」の再放送をやっていた。テーマは「自分を愛するということ」だった。

 寂聴さんは「自分を愛せない人間は他人を愛せない」という。だから、自分を好きになり、愛することが必要だという。なるほどと思って、夕食の時にその話をすると、「自分しか愛せない人もいるけどね」と妻が私の顔をみながらまぜかえす。たしかに(私のように?)自分しか愛せない人もいるが、しかし「自分を愛せない人は、他人を愛せない」ということは真実かも知れないと思った。

 寂聴さんはまた、「自分が幸福でない人は、他人を幸福にできない」とも語っていた。こうして書き出してみるとあまり説得力がないが、番組では具体的な悩みの相談にたいする解答だったので、なるほどなと納得できた。

「援助交際はべつに迷惑をかけるわけではないから、いいんじゃないの」と食ってかかる女子高生に、「それで、あなたは、そんなことしたいと思うの」ときいていた。「私はしようと思わない」という答えに、すかさず、
「そうでしょう。それは、あなたが自分で自分のことを大事に思っているからよ」
 この言葉に、女子高生の険しい顔が可愛くほころんだ。

 自分を好きになること、そして大切にすること、そのことのがすべての原点かも知れない。しかし、それではどうしたら、人は自分を好きになれるのだろう。そのためには、その人が大切に思われ、愛された体験が必要なのではないだろうか。そこで思い出すのが、金子みすヾの詩である。

   私と小鳥と鈴と

   私が両手をひろげても、
   お空はちっとも飛べないが、
   飛べる小鳥は私のやうに、
   地面(じべた)を速くは走れない。

   私がからだをゆすっても、
   きれいな音は出ないけど、
   あの鳴る鈴は私のやうに、
   たくさんな唄は知らないよ。

   鈴と、小鳥と、それから私、
   みんなちがって、みんないい。

  この詩は現在、小学校の国語の教科書に必ず載っているという。つまり、日本国中の小学生が、かならず一度は眼にして、学校で先生から話を聞くわけだ。そしてこの詩を読んだ子供たちから、「こんなやさしい詩を、はじめて読みました」という手紙が寄せられているという。

 金子みすヾを世の中に紹介した童謡詩人の矢崎節夫さんは、「こうした手紙がくることは、ほんとうは悲しいことだ」と言う。そうした手紙がくるのは、子供たちが生きてきた人生の中で、「みんなちがってみんないい」という無条件の愛を受けたことがないからだろう。そうした淋しい現実を考えると、たしかにかえって辛くなる。

 矢崎さんは金子みすヾは「母親のような人だ」という。子供の心の痛みをそのままそっくり受け入れ、まるごと肯定してくれるとほうもなく大きな愛。今、子供たちに必要なのはそのような愛であり、私たち大人にとって、みすヾの詩はその美しいお手本なのだろう。


2002年01月29日(火) 苦手なソロバン

 私が小学生の頃は、ソロバンが盛んだった。学校の授業でもソロバンをやったし、授業が終わった後も、放課後、ソロバンの課外活動があり、遅くまで居残りしてやらされた覚えがある。

 私の場合はさらに、友人に誘われるままソロバン教室にも通った。そして、日曜日には近くの若狭高校まで検定試験を受けに行って、何級かの免状をもらったおぼえがある。

 こう書くと、私がソロバンが好きで、得意だったように思われるかも知れないが、実際はあまり好きではなかったし、得意でもなかった。人より二、三倍は努力して、やっと人並みにできたくらいだと思っている。とにかく、あのせかせかしたリズムについていけないで途方に暮れることが多かった。

 さいわい中学に進学してから、ソロバンとは縁が切れた。そうすると、もう数年で、ほとんど使い方がわからなくなってしまった。今私はソロバンはまったくできない。かけ算や引き算はおろか、足し算もできない。それでもたまに妻がソロバンを出してきて、家計簿を見ながらはじいているのをみると、なにやら懐かしくなり、そっと手にとってみたくなる。

 ソロバンをやると暗算が強くなるときいたが、それは頭の中にソロバンが置ける人の話で、私くらいの腕では話にならないのだろう。とくに計算能力や暗算力がついたとも思えないし、一体何のための大騒ぎだったのかと、ほんとうに不思議でならないのである。

 数学が大の苦手だったという妻がやすやすとソロバンをあやつるのを見ていると、ソロバンの才能とは、結局手先の器用さの問題ではないか、数学的能力とは何の関係もないのだろうと考えざるをえない。のんびり屋で不器用でもあった私には、小学校のソロバンはいささか気のすすまない体験だったわけだ。


2002年01月28日(月) 科学基礎知識の定着しない教育

 文部科学省の発表によれば、日本人の科学の基礎知識力は欧米と比較して、14ヶ国中12位だそうである。たとえば、「電子の大きさは原子の大きさよりも小さい」という問いに、○と答えたのは30パーセントしかいない。これでは、下から数えて3番目でも仕方がないか、という気がする。

 調査したのは昨年で、18歳から69歳の約2000人に面接し、欧州連合や米国の調査結果と比べたのだという。問題は10問からなり、○×式である。その全問を朝日新聞から引用しておこう。カッコ内の数字は日本人の正答率(パーセント)である。

�‖舂Δ浪針�年もかけて移動している。(○83)
��現在の人類は原始的な動物種から進化した。(○78)
�C狼紊涼羶管瑤枠鷯錣帽皺垢任△襦�(○77)
�げ罅垢�呼吸に使う酸素は植物から作られた。(○67)
�イ垢戮討諒�射能は人工的に作られた。(×56)
�Δ瓦�初期の人類は恐竜と同時代に生きていた。(×40)
��電子の大きさは原子の大きさよりも小さい。(○30)
�┘譟璽供爾浪伺箸鮟乎罎垢襪海箸覇世蕕譴襦�(×28)
��男か女になるかを決めるのは父親の遺伝子だ。(○25)
��抗生物質はバクテリア同様ウイルスも殺す。(×23)

 つぎに各国の全問平均正答率(パーセント)をあげておこう。
�.妊鵐沺璽�(64) ��英国(63) �J胴顱複僑院法´ぅ侫薀鵐后複僑院�
�ゥ�ランダ(59) �Ε疋ぅ帖複毅検法´Д襯�センブルク(56) �┘戰襯�ー(55)
��イタリア(55) ��アイルランド(52) 

 このあと、スペイン(51)日本(51)ギリシャ(44)ポルトガル(43)と続く。○×の二択問題で正答率が51パーセントというのは、ちょっと信じられないほど低い数字である。さいころを振っても50パーセントだから、日本人はさいころと同様の知能だということだろうか。ギリシャ人やポルトガル人はさいころ以下ということになる。

 この調査結果について、文部科学省科学技術研究所の岡本信司上席研究官は「米国の中高年生はそれほど高くないのに、大人になるとトップレベル」と話しているという。トップレベルと言っても、これは科学のほんとうの基礎知識である。ほとんど中学校で教わる内容であり、高校の入学試験でもこれより専門的な問題が出されている。

 私はこれは知識の「定着率」の問題だと思っている。受験が終わるとすべてを忘れ、すっかり「蒸発」してしまって何も残らない日本人に比べて、受験勉強のないアメリカやヨーロッパの人の方が中学高校でより定着率の高い効果的な学習をしているということだろう。ペーパーテストの一夜漬けの実力は、所詮さいころ並みだということだ。

 分数計算が出来ない大学生のことを話題にしたことがあるが、これも「定着効果」の問題である。大学に進学した彼らの大部分は、もともと分数計算ができなかったわけではない。むしろ小中学校でさんざん計算問題をやらされた口だろう。しかし高校生になると計算があやしくなる。そして大学生になるとバカらしくてやる気も起こらなくなる。

 したがって大切なことは、ただ多量の知識をむやみやたら詰め込んだり、機械的な計算問題の量をこなすことではなく、本当に大切なことを、自分の頭で咀嚼して、充分納得しながら吸収することだ。そのようにして自分の頭で考えて理解し、真実であることを実感した知識は、そう簡単に「蒸発」したりしないものだ。


2002年01月27日(日) 銃社会の演出者たち

 アメリカでは毎年多くの人が殺人事件で命を奪われている。ピークは1991年の2万4700人で、そのほとんどに銃が使われていた。こうしたことをうけて、銃を規制しなければならないという機運が盛り上がった。運動の先頭に立ったのは、二人の兄を銃殺されたエドワード・ケネディ上院議員である。

 1994年に「資格ある人間にしか銃の所有を認めない」という銃砲規制法が成立した。この後殺人事件は減少し、98年には犠牲者は1万6900に減少した。人口10万人あたりでみると、7年間で36パーセントもの減少である。

 こうした統計が示しているのは、銃が殺人事件を作り出しているという実態だろう。全米ライフル協会の主張する、「銃は他人を殺傷する為のものではない。銃は暴力から身を守る為にある」という正義の為の護身論がいかに誤りであるかがわかる。

 湾岸戦争を指揮したブッシュ元大統領は大統領職につく前まで全米ライフル協会のメンバーだった。ブッシュに限らず、多くの政治家が全米ライフル協会に関係し、その恩恵と同時に圧力をうけている。

 アメリカで有名な銃器メーカーはコルト社を筆頭に、レミントンやウィンチェスターなどがある。コルト社を作ったサミュエル・コルトは1845年にインデアン掃討隊に自社の回転式リボルバーを売り込むことに成功し、その後の南北戦争で大儲けして富豪の仲間に入った。

 コルトの一族は早くからハリウッドに関心を持ち、サミュエルの息子は女優エセル・バリモアと結婚している。バリモア家はロックフェラー家やルーズベルト家とも閨閥をもつハリウッドの名門である。「間諜マハタリ」のレイオネル、「アルセーヌ・ルパン」のジョン、「E・T」のドリュー・バリモアなど、多くの俳優を輩出させている。彼らがコルト社製の拳銃で派手に撃ち合い、人殺しの快感と恐怖を民主の間に浸透させ、拳銃の購買欲をそそりたてた。

 コルト社をはじめとするアメリカ製の銃器は20世紀に入って、全世界に浸透していった。現在コルト製M16マシンガンは、シンガポール、フイリピン、韓国のコルト工場で作られ、インドネシア、グアテマラ、カンボジア、ハイチ、レバノン、スリランカ、コンゴ、アフガニスタンなどへ大量に輸出されている。

 宗教や文化の違い、民族の対立が紛争や戦争の原因だというが、武器がなければ戦争は起こらない。というより、武器の大量生産によって恩恵を受けている闇の勢力が紛争をつくり、戦争を呼び起こしているといった方がよい。もしアメリカが武器輸出をやめて、武器の輸出入禁止を提唱すれば、世界はずいぶん平和になるに違いない。


2002年01月26日(土) 兵器の過剰と戦争

 アフガンには1000万個から2500万個の地雷が残されているという。今も毎日、だれかが地雷に触れ、手足を失っている。地雷は人の命を奪わない。身体不自由者を作りだし、社会の足手まといにしようとする。きわめて非人道的な武器だが、これをアフガニスタンから一掃するには、50年ほどかかるらしい。

 世界の紛争各地に、こうした武器を供給しているのが、アメリカをはじめとする先進国の軍需産業である。武器産業の国際的規模がどのくらいか、私はまだ調べてないが、おそらく100兆円を超えるのではないだろうか。ちなみに2000年のアメリカの国防予算は約3000億ドル(36兆円)である。

 アメリカの軍需産業のベスト4を上げておこう。カッコの中の数字は、そのグループが1998年にペンタゴンから受注した金額である。
�.蹈奪�ード・マーティン(123億ドル)
�▲棔璽ぅ鵐亜複隠娃顕�ドル)
��レイセオン(56億ドル)
�ぅ痢璽好蹈奪廖Ε哀薀泪鵝複械恐�ドル)

 ちなみにペンタゴンから受注しているのは100社を超えており、その総額は548億ドルである。上位に2社で総額の42パーセントを占めている。上位4社で58パーセントを超えており、市場が一部の有力な軍需産業に独占されていることがわかる。

 こいうした軍需産業の思惑がアメリカ政府の政策を事実上支配してきた。たとえば、それぞれの企業のトップを占めているのはいずれもかってペンタゴンで力を持っていた軍人たちである。また、現在のペンタゴンの要人たちも、いずれこれらの軍需産業に就職する。

 たとえばブッシュjr政権が生まれたとき、国防長官として最初に名前が挙がったノーマン・オーガスティンはロッキード・マーティンの最高経営責任者である。彼は軍需産業に就職する前まで、陸軍長官補佐官、陸軍次官として、ホワイトハウスの軍事予算を取り仕切っていた。

 ロッキード・マーティンの重役室には、リー・アン・チェニーという女性がいる。彼の夫は湾岸戦争のときの国防長官で、現在の副大統領のリチャード・ブルース・チェニーその人である。ペンタゴンから軍需産業へ、そしてホワイトハウス入りというコースはアメリカでは珍しくない。実際大統領そのひとが、軍需産業の代理人といって過言でないからだ。

 しかし、アメリカという国の本当の支配者が誰であるかを理解するために、もうひとつ見逃してならない勢力がある。それはこの巨大な軍需産業に投資している巨大財閥の勢力である。軍人や政治家は実は、こうした巨大財閥の代理人と言ってもよいのだが、この勢力のことは意外と知られていない。

 その理由は簡単で、彼らは同時に娯楽産業や通信産業を手中にしているからだ。そして、彼ら巨大財閥が考えることは一つしかない。つまりあくことのない「富の蓄積」である。そしてそのためには手段を選ばない。いずれその実体について、くわしく書いてみたいと思っている。

(参考文献)
「アメリカ経済の支配者たち」 (広瀬隆 集英社新書1999)
「アメリカの巨大軍需産業」 (広瀬隆 集英社新書2001)


2002年01月25日(金) 過剰生産のメカニズム

 昨日は生産性の向上が過剰生産を生み、過剰生産が貧困と戦争を生むという話をした。しかし、こうした結論に至る理論的な検討は行わなかった。そこで、今日は過剰生産を生みだすメカニズムについて、「生産関係簡易モデル」を使って説明してみたい。

 いま、ひとつの小さな世界を考え、そこにA,Bという二つの企業体があるとしよう。両者とも同等数の従業員を抱え、労働時間や賃金も等しく、生産物をすべて、この二つが折半して生産していたとする。ところがA社が技術革新に成功し生産性を一挙に2倍にしたとする。

 このとき、A社の選択として、たとえば次のような場合を考える。
� ]�働者数、製品の価格を変えずに、労働時間を半分にする。
�◆]�働時間、価格を変えずに、労働者数を半分にする。
�� 労働者数、労働時間をあまり変えずに、製品の価格を安くする。
 こうしたA社の対応の結果、どのようなことが起こるか。

� 。措劼亮勸�の自由時間が増大するだけで、製品の優位性はかわらないので、両者は平和的に共存する。やがて、B社も技術革新に成功し、労働時間の短縮をすれば、生産性の向上が、国民全体の労働時間の短縮に結びつく。この場合、需要にたいして供給過剰は生じない。

�◆。措劼力�働者が半減した分、失業が発生する。失業はやがて製品の購買欲の減少に結びつき、そのしわ寄せは、利益率の低いB社の経営をを圧迫するだろう。つまり、間接的にA社はB社に打撃を与えることが出来る。さらに失業によって需要が減少し、過剰供給が発生する。

�� A社は利益率を下げることなく、安い製品を大量に市場に供給することができるので、直接的にB社を圧倒し、これを倒産に追い込むことが出来る。B社の倒産により、多量の失業が発生し、需要が減退して、過剰供給が発生する。

 市場原理を優先させた場合、�△鉢�の混合した<競争型シナリオ>が実現し、いずれも「過剰供給」を生むことになる。これにたいして、「ワークシェアリング政策」は�,痢禧β厳織轡淵螢�>の実現を目差そうとするものだといえよう。

 実際の市場はもっと複雑だが、基本概念である「賃金」「労働時間」「価格」を変数として組み込んだ「生産関係簡易モデル」はそれなりに有効だと考える。このモデルを使って、さらに進んだ考察を行うこともできるが、今は問題の所在をあきらかにするために、必要な議論に絞った。

 科学技術の発達は、本来ならば人類の幸福に結びつくはずだ。たとえば、日本の生産性はこの35年間に13倍以上になったという。ロボット技術で工場の無人化が実現したし、コンピュータの発達は、デスクワークの効率化をもたらした。いずれも本来ならば、人間を労働から解放し、豊かさとゆとりに恵まれたユートピアが実現していてもよいところだ。

 しかし、科学技術の進歩によって、労働が軽減されることはなかった。むしろ「過労死」が国際語になり、中高年の自殺者が増大し、ついには自殺者が3万人をこえるという悲惨な現実を招来することになった。どうしてこのようなことになったのか、この簡単なモデルで、私はそのメカニズムをあきらかにしたつもりだが、まだまだ足りないところがあるかも知れない。


2002年01月24日(木) 過剰が貧困と戦争を生む

「何故戦争は起こるのか」という問いに、「人口論」を著したマルサス(1766-1834)なら、「過剰な人口」が原因だと答えるだろう。人口の増加に生産の増加が追いつかない。したがって、需要に対して供給の絶対量が不足する。そこで、限られた資源やモノの奪い合いが起こる。

 戦争によって、殺し合いが行われ、人口が減ると、生産力と需要が均衡し、平和が訪れる。しかしやがてまた人口の幾何級数的な増加が始まり、供給が追いつかなくなる。そこで再び人口調節の必要が起こり、戦争がはじまる。このサイクルが続く。人口調節のメカニズムとして、戦争の他に飢饉や疫病の流行があるが、戦争はより人為的であり、文明的であるといえる。

 こうしたマルサスの考え方は、ダーウインの「適者生存説」やマルクスの「階級闘争の理論」に受け継がれた。いずれも貧乏や欠如から闘争が生じるという考え方である。現在の学者や政治家も大方はこうした枠組みでものを考えている。だから、戦争をなくすためには、生産力を高め、世界が豊かになればよいと考える。

 しかし、戦争の原因を「貧困」に求めるのは一面的である。私はむしろ「生産性の増大」こそが戦争のほんとうの原因だと考えたい。生産性の増大による生産過剰、供給過剰がもとにあって、人々はそのはけ口を戦争に求める。昨日も書いたように、これが戦争の本質的原因ではないだろうか。つまるところ、「貧困」でさえも「過剰」の産物なのである。

 1920年代にアメリカの生産性は飛躍的に伸びた。フォード式の大量生産システムが完成したからだ。しかしこの生産性の向上が、やがて需要と供給のミスマッチを生み、世界恐慌を引き起こした。不況や貧困という現象面の背後にある本質が「過剰生産」だということがわかる。

 そして、生産過剰の背後にあるのは、生産性の増大であり、科学の発達である。つまり、科学的文明の発達が戦争を生むという、皮肉なことになった。20世紀はまさに過剰による貧困と飢餓と戦争の横行する時代だった。

 21世紀はどうだろう。私たちが生産力や効率という近代的概念の呪縛に縛られて、そうした生産至上主義、利潤至上主義の生き方や考え方を変えない限り、過剰による飢餓と戦争の世紀は続くだろう。おそらく、人類滅亡のそのときまで・・・。

(参考サイト)
 マルサスと人口・政治経済学
 http://f50.josai.ac.jp/~ishi/ronbun1.html


2002年01月23日(水) 不況と戦争

「何故不況になるのか」といえば、答えは簡単で、「モノやサービスが売れないから」である。モノが売れないと、会社の利潤が減り、私たちの給料が減る。だから、私たちは余計にモノを買わなくなり、さらにモノが売れなくて、不況が深刻化する。

 供給と需要の関係で言えば、供給に対して需要が少ない場合に不況が起こってくる。だから、不況から抜け出すためには、需要を高める必要がある。そこで、政府は公共事業を行い、需要を作り出そうとする。

 しかし、公共事業による需要の増大は一時的なものである。いわばカンフル剤にすぎないので、効果はそれきりである。効果がなくなればまた注射をしなければならない。この注射代がバカにならない。これが財政赤字をうむ元凶になる。しかし、薬が切れると苦しいので、どうしても打たずにいられない。こうなるともう完全な中毒である。今の日本がこの状態だ。

 需要を作り出す、もう一つの有効な方法は戦争である。戦争は大量の物資を消費する。つまり、需要を喚起するわけだ。また、攻撃によって、敵国の生産設備が破壊され、供給量を減らすことで、供給と需要のバランスが改善される。また、廃墟から復興する過程で、多くの物資が投入され、需要を増大させる。つまり、戦争による破壊が完全であればあるほど、その経済効果は大きくなる。

 だから、不況が深刻化すると、おおくの国は戦争に活路を求める。最近の例で言えば、80年代に深刻な不況に陥っていたアメリカ経済が、湾岸戦争を境に立ち直った。反対に日本はアメリカに120億ドルも資金を提供し、坂道を転がるように経済環境を悪化させていった。

 1930年代の大恐慌ではニューデール政策が登場した。これはケインズ経済学に基づいた「公共事業による有効需要の創造」である。しかし、結局、この政策はそれほど効果を上げなかった。世界を不況から立ち直らせたは、第二次大戦である。まさに戦争による大量破壊が、最終的に需要と供給のマッチングを生み、アメリカ経済を甦らせた。

 今、ふたたび、株式が下がり、アメリカ経済が傾きつつある。ブッシュ大統領は2002年は「戦争の年になる」と発言した。アメリカの大統領がこう発言するのは、つまり「戦争の年にする」という意志表示だという。アフガンではまだ空爆が続いているらしいが、経済の成り行きによっては、アメリカはさらに戦線の拡大も企図しているのだろうか。


2002年01月22日(火) アフガン仏像が観たもの

 アフガン復興会議が昨日から、東京のホテルで開かれている。日本は最初の一年間に2億5千万ドル、アメリカは2億9600万ドルを援助するという。これにたいして、NGO活動家が「援助額の大きさを競っているかにみえる」と発言している。額も必要だが、大切なのは中身の有効性だろう。

 先週の木曜日、NHKのクローズアップ現代に「カンダハール」を製作したイランの映画監督、モフセン・マフマルバフが出演していた。彼が涙ながらに訴えるアフガンの窮状に、多くの人々は胸を打たれたのではないだろうか。あの知的で冷静な国谷裕子キスターが泣いていた。この放送を見ていた、何千、何万という日本の人たちが、おなじくテレビの前で涙を流していたのだと思う。

 映画「カンダハール」は、カナダ在住のアフガン人女性ジャーナリストが、妹を探すため危険を冒してアフガニスタン入りするというストーリーで、アフガニスタンの抑圧された女性と難民の実態を描いている。主役の女性は、実生活でもアフガン出身のカナダ在住ジャーナリストで、半分ドキュメンタリーとも言える作品だそうだ。去年5月のカンヌ国際映画祭に出品され、エキュメニック賞を受賞した。その数ヶ月後に、同時多発テロが起こり、一躍世界的に注目の的になった因縁の作品である。
 
 映画には、難民収容所や神学学校、地雷で足を失った人々に義足を支給する赤十字のセンター、元はアメリカ兵だったという黒人の医者、カンダハールの婚礼に向かう女たちの一行が描かれているという。私も是非映画館で観てみたいと思っている。

 モフセン・マフマルバフは、アッバス・キアロスタミと並んでイラン映画界を代表する監督だが、作家でもあり、去年、『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない。恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』という長いタイトルの本を書いている。彼はこの本を書くために、1万ページの資料を読み、そのエッセンスをわずか150ページに簡潔に表現したのだという。この本の出版も又、多発テロのおこる前だった。

 「このレポートを最後まで読むには、一時間ほどかかるだろう。その一時間のあいだに、アフガニスタンでは少なくとも12人の人びとが戦争や飢餓で死に、さらに60人がアフガニスタンから他の国へ難民となって出ていく。このレポートは、その死と難民の原因について述べようとするものである。この苦い題材が、あなたの心地よい生活に無関係だと思うなら、どうか読まずにいてください。」

 「私は、ヘラートの町のはずれで、2万人もの男女や子どもが、飢えで死んでいくのを目のあたりにした。彼らはもはや歩く気力もなく、皆が地面に倒れている。ただ死を待つだけだった。この大量死の原因は、アフガニスタンの最近の干魃である。同じ日に、国連の難民高等弁務官である日本女性(訳注 緒方貞子氏)もこの2万人のもとを訪れ、世界は彼らのために手を尽くすと約束した。3カ月後、イランのラジオで、この国連難民高等弁務官の日本女性が、アフガニスタン中で餓死に直面している人びとの数は1〇〇万人だと言うのを私は聞いた」

「ついに私は、仏像は、誰が破壊したのでもないという結論に達した。仏像は、恥辱のあまり崩れ落ちたのだ。アフガニスタンの虐げられた人びとに対し世界がここまで無関心であることを恥じ、自らの偉大さなど何の足しにもならないと知って砕けたのだ」

 この本に書かれているのと同じ内容のことを、モフセン・マフマルバフはテレビで語っていた。彼の肉声を聞き、翻訳された日本語を聞きながら、私もまた恥辱を覚えた。大仏が壊され、さらにアメリカで未曾有の同時多発テロおこって、はじめて私の目はアフガニスタンに向いた。

 それまでにアフガンでは何百万人もの難民が飢餓に苦しみ、地雷で手足を奪われ、両親を失った子供たちが路頭に迷い、飢えと寒さの中で衰弱死していたのである。ほとんどアフガンについて報道や情報がなかったとはいえ、自らの、想像力のない貧しい心をはずかしく思った。

 私たちの本当の敵はタリバンでもアルカイダでさえもないのだろう。それは、私たち自身の中にすんでいる「世界の虐げられた人々に対する冷酷な無関心」なのではないだろうか。

(参考サイト) 池澤夏樹「マフマルバフの映画と本」
 http://miiref00.asahi.com/national/ny/ikezawa/020119.html


2002年01月21日(月) 日本語の正体

 今年は例年にない大雪だった。私の住むあたりでも雪が積もった。とくに、私の家の周辺は多かった。大学生と高校生の娘二人が夕食後、家を抜け出したので、なにかと思ったら、近所の公園で雪合戦をしていたのだという。なんとも他愛のないことである。

 その後、あたたかい日が続いて、雪は次第に融けた。それでも、日当たりの悪い私の家の庭や、軒先の雪は最後まで融けずに残っていた。公園に行くと、やはり所々に、雪の固まりがしばらく残っていた。

 そうした雪の残り方に意識が向いたのは、たぶん私が世界の孤立言語について、あれこれと思索をめぐらせていたからだろう。日本語やバスク語の他に、ウラル山脈のふもとにも、類縁のわからない孤立言語群が残っている。こうした孤立言語のありさまが、どこか残雪の分布に似ているように思えた。

 松本清張の「砂の器」に、西日本の鳥取、島根の両県にかけて、東北弁に似たズーズー弁が飛び地のように残っていることがうまく使われていたが、こうした日本国内に飛び地のように残る方言のありさまも、どこか、世界の孤立言語の分布と似ている。

 バスク語や日本語のように、周囲に孤立した言語が残っているとき、この孤立現象を説明するのに二つの方法がある。ひとつは、その言語の担い手が移動したと考える方法で、私はかりにこれを「移動説」となづける。大野氏が日本語がタミル語と似ているのは、タミル人が船団を組んで移住してきたからだと考えるのはこの「移動説」である。

 これに対して、もう一つ、別の考え方がある。それはもともと広くそうした種類の言語が使われていたが、雪が融けるように周囲を浸食されて、あるいは潮が満ちてきて飛島が出来るように、ところどころ取り残されて孤立言語になったという見方である。私はこれをかりに「残留説」とよんでいる。

「残留説」で有名なのは、柳田國男の「方言周圏論」だろう。関西で「デンデンムシ」と呼ぶ生き物を、辺境の東北と南九州では「ナメクジ」と呼ぶ。こうしたことから、柳田氏は新しい言葉が都を中心に波のように広がり、周辺部になるほど、古い言葉が残ると考えた。

 なぜ東北地方と同じズーズー弁が島根や鳥取に残っているのか。このことも「方言周圏論」できれいに説明される。もともと日本の古代言語がズーズー弁に似ていたのである。そのズーズー弁がそのまま周辺部に残ったわけで、何も東北人が中国地方に集団移住してきたわけではない。

 私は世界に飛び地のように存在する孤立言語にも、この「言語周圏論」は基本的に成り立つのではないかと思っている。その理由は孤立言語がすべて「膠着語」であるということ、そして、それらの言語がいずれも周囲を強力な「文明語」によって取り巻かれ、その圧迫に対して抵抗してきた歴史があるということである。

 そして、もしこの仮説が認められるなら、そこから、文化と文明の在り方について、さまざまな有意義な認識が得られるのではないかと思っている。たとえば、日本語について、これが世界でももっとも原始的な言語のありかたを保存している可能性が生まれてくる。これらのことについては、また別に、日を改めて、くわしく考察してみたいと思っている。


2002年01月20日(日) バスク語の謎

 スペイン東北部とフランスにまたがるピレネー山麓に六十数万人の小数民族バスク人が住んでいる。人数は少ないが、バスク人はその独立不羈の精神によって世界的に有名である。

 何しろヨーロッパの真ん中に住んでいるというのに、バスク語はスペイン語やフランス語など周辺の言語と一切の類縁関係を持たない。その昔、ローマ帝国がこのあたりを支配し、その言語をローマの公用語であるラテン語に置き換えたのだが、バスク人はこれに従わなかった。

 現在でも、バスク人のこの独立精神は衰えていない。バスク地方では分離独立運動が盛んで、ETA(祖国バスクと自由)という民族主義組織がある。ETAは時にはテロ活動におよんだり、現在でもその活動の過激さで知られている。

 さて、話題をバスク語にもどそう。バスク語は、ラテン語を母体とするスペイン語などの印欧諸語とは本質的に異なる孤立言語だが、これが大きな謎で、いまだに納得の行く説明がないのである。

 それでは、バスク語はまったく世界の孤児かというとそうでもない。不思議なことに、これが日本語やタミル語と親戚関係にある。たとえば、これらはいずれも比較言語学の分類で言うと膠着語である。

 言語学者シュライヒャーは、動詞の活用の仕方によって、言語を「膠着語」「屈折語」「孤立語」に分類した。「膠着語」では動詞が活用し、さらに他の品詞がその後に付け足され、膠着していく。日本語・朝鮮語などがそうで、一般にウラル・アルタイ語族がそうである。また、一応SOVの構文を持っているが、語順がかわってもよい。

「わたしはどちらかというとかのじょといっしょにいってもいいとかんがえたりもするのだがしかしかのじょのつごうをかんがえたりしているうちにまよいがおこってきてなかなかおもうようにかんがえがまとまらないのでとりあえずかのじょのいしにまかせることにしてもいいとおもったりもしたりして・・・」

 これにたいして、「屈折語」は動詞が活用する言語で、英語・フランス語・ドイツ語など、一般に印欧語族がそうである。「孤立語」は、動詞が全く活用しない言語で、中国語やチベット語がそうである。構文はいずれもSVO型である。

 かって西洋の言語学者の中には「膠着語」は「屈折語」や「孤立語」にくらべて、幼稚な段階の言語であるという差別的な見方があった。私はもちろんこうした考え方に反対だが、しかし、もともと人類が自然発生的に使い始めた原始的な言語(原始言語)は「膠着語」だったと思っている。これにたいして「屈折語」や「孤立語」は文明語としての性格が強い。

 さて、日本語と同じ膠着語に属しているバスク語は、語順も同じSOVで、「は」や「が」などに相当する助詞をもち、テニオハもよく似ている。地理的に随分離れている日本語と、こうした親密な類縁があるのもミステリーになっている。

 日本との接点といえば、日本にキリスト教を伝えた、フランシスコ・ザビエルもバスクの人だ。バスクの人たちは、独特の文化を持っており、ラテン系のいい加減さがなく、勤勉で真面目だという。こういう点も日本人と似ている。

 これは全くの余談だが、バスク (Basque)のなかに、ASQが含まれている。これと飛鳥(ASUKA)や地上絵で有名なナスカ(NASKA)との類縁をいう人がいる。ちなみに鳥のことを、バスク語でも「トリ」と言うらしい。

 さて、日本語、タミル語、そしてバスク語と書いてきた。なぜ地理的に離れたところに、離れ小島のようにして、こうした類縁性の高い言語が残されているのだろうか。そろそろ、私の仮説を述べるときかも知れない。明日の日記に、そのあらましを書くことにしよう。


2002年01月19日(土) 文明語と文化語

 冷戦が終結し、アメリカはいまや唯一の覇権国家として存在している。そして英語もまた世界の共通語になろうとしている。今後インターネットの発達にともない、この傾向はさらに進行するだろう。世界に何百とある言語が、21世紀のうちにほとんど姿を消すのではないかと言われている。

 かってローマ帝国が栄えていた頃、ラテン語がヨーロッパの公用語として用いられた。このように、有力な文明が誕生すると、その文明の言語(文明語)が周辺諸国へと浸透し、やがてその土地に根ざした文化語(土着語)は勢力を失い、姿を消すことになる。

 たとえばラテン語に変わる前は、今のスペインからルーマニアにかけて住んでいたケルト人たちは当然ながらケルト語を使っていたのだが、やがてその痕跡はセーヌと言った一部の単語に残すだけになった。こうして、ラテン語からスペイン語、フランス語、ルーマニア語などが生まれた。これらはいわば、ラテン語の方言のようなものである。

 日本でも明治の頃、日本語を廃止して英語をもちいるべしという考えが起こった。初代の文部大臣・森有礼がそうだし、早稲田大学の総長で、文部大臣をもつとめた高田早苗がそうである。

 彼らは留学体験を持ち、日本語ではとうてい表現できない内容を、英語やフランス語で自由に表現できた人たちである。そして、彼らは日本語ではとうてい西洋に匹敵する高度な文明を構築できないと考えた。そこで、おもい切って、日本語を捨てて、英語に乗り換えるしかないと考えたのである。

 このように、弱小な文化が、他の巨大な文明に出会うとき、その文明を摂取するために、まずその文明の言葉を学ぼうとする。そしてさらには、自国語を捨てて、まるごとその文明語を自国の言葉とし、その文明圏の一員になる切る道を選ぶことも起こってくる。

 日本語の場合、明治維新の頃がそうだった。太平洋戦争に負けたときも、そうした主張が一部で唱えられ、志賀直哉が「日本語をやめて、フランス語を採用すべきだ」と唱えたことは有名である。当時、文部省内部にも、漢字廃止論があり、将来は日本語のローマ字化も考えていたようだ。

 さらに歴史を遡れば、聖徳太子の頃、仏教の伝来とともに、和語から漢語への転換が行われても不思議ではなかった。なぜなら、当時圧倒的な文明語としての漢語(中国語)があり、聖徳太子をはじめ、当時の教養人にとって文章といえば漢文しかなかったからだ。中国に見習って法治国家をつくるために、まず言葉の問題を解決しなければならない。

 そこで、とりあえず漢語から文字(漢字)を借りてきて、日本語の文章がまがりなりに成立する訳だが、もし「万葉かな」という一大発明がなかったら、朝鮮語がそうであったように、日本語の文章はまちがいなく「漢語」に置き換わっていたに違いない。そうなれば、日本語も漢語の亜種ということで、現在とはまったく違ったものになっていただろう。

 日本語が近隣に親戚を持たない孤立語になったのは、日本人が文明語である「漢語」の浸食に抵抗したまれな民族だったからだといえる。つまり言い方を変えるならば、「名誉ある孤立」ということだろうか。そして同じことが、日本から7000キロもはなれた南インドのタミルにも起こったわけだ。

 タミル人はもともとインドの原住民であるドラビタ族の仲間である。彼らは古代インダス文明を築いていたが、BC1500年頃にアーリア人の侵入を受け、インド南部へと追いやられた。当初アーリア人の築いた文明は圧倒的で、これに対抗することが困難だった。アーリア人がどのくらい優秀だったか、それは彼らの言語であるサンスクリット語を見ればよい。

 西洋の学者によると、サンスクリット語の語彙の豊かさは、同じ印欧語族に属するギリシャ語、ラテン語を凌駕し、その文章構造の精緻さもこれをしのいでいるという。この言語が世界でもっとも深遠と言われる仏教経典や思弁哲学を生んだ。さらには世界に先駆けて「ゼロの発見」をして、高度な論理学や数学を完成させた。ちなみにサンスクリットという言葉の意味は「整理され、浄化された」ということらしい。

 こうした優秀な文明の影響と圧迫を受けながら、やがてタミル人は独自の文字を作りだし、サンスクリットをまねて紀元前後に書かれた「詩歌集」が、最古のタミル語の文献として今日に残されている。「万葉集」が古代の日本語を知る手がかりになったように、この詩歌集によって、古代のタミル語の姿がわかる。

 このようにして、その独自性を現在までたもってきたのが、タミル人であり、タミル語である。言語を守るということは文化を守るということである。漢語から独立を守った日本人とタミル人は、言語における保守性という点でも似ている。現在タミル語を話す人口は5千万人ほどで、そのほとんどがヒンズー教徒だという。


2002年01月18日(金) 日本語とタミル語

 大野氏の「日本語の源流はタミル語」説について、もう少し具体的に書いておこう。たとえば、日本語に、「張る」「腫れる」「晴れる」「払う」「祓う」「腹」「原」などの一群の言葉がある。

 これらの言葉に共通するのは「far」という語根である。大野氏によればこの「far」という語根がになう意味は、「物が平面的にも立体的にも大きく広がり、結局ばらばらになってきえてしまうこと」(「日本語の起源」岩波新書)だという。

 一方、タミル語には日本語の「far」に対応する「par」という語根を持つ語群が存在している。
 par−u (ふくれる・大きくなる・張る)
 par−a (広くて大きな面・原)
 par−avu (罪障の消滅を祈る・祓う)
 par−iyam (代金・支払う金)

 見事な対応である。しかもこのような語根どうしの対応が他にたくさん存在している。こうなればもう、偶然の一致だとは言えない。タミル語と日本語はほとんど同一の言語だと結論してもよい。

 しかし、「2千数百年前、縄文時代末期に、タミル人が海路、船団を組んで北九州に到来した」という大野氏の「タミル人到来説」はにわかには信じがたい。南インドと日本は6000キロも離れている。一体何の必要があって、タミル人は船団をくんではるばる日本へやってきたのか。

 言語の見事な一致は認めるにしても、「タミル人到来説」を信じる人は少ないのではないだろうか。しかも具体的な考古学上の証拠もない。たとえ船団が到来したにせよ、それでまるごと言葉が置き換えられるというのも不自然である。大野説がなかなか受け入れられなかった背景に、このことがあるように思われる。

 それでは、日本語とタミル語のこの驚くべき一致はどう説明したらよいのか。このことについて、私なりに考えたことを、これからぼちぼち書いてみようと思う。私の「日本語の起源についての仮説」は、大野説に負けないくらい壮大で、驚くべきものなのだが、その妥当性については読者の判断に委ねよう。


2002年01月17日(木) 日本語のみなもと

 昨日の日記で、日本語は言語の系統があきらかではなく、世界の言語のなかで孤立していると書いた。しかし、これには異論がある。「万葉集」や「古事記」の研究の第一人者で、「岩波古語辞典」の編者として古代の日本語に造詣の深い学習院大学名誉教授の大野晋氏が、「日本語の源流は南インドのタミル語にある」という説を、この20年間粘り強く展開しているからだ。

「日本語の起源」(岩波新書)によると、大野氏がこのことに気付いたのは、英語で書かれたタミル語の辞典を読んだからだという。そして、日本語とタミル語とが、あまりにも鮮やかな対応を示しているのに驚いた。

 「こめ」「なへ」「あぜ」「たんぽ」「かね」「たから」「おる」「はた」「かみ」「まつる」「はか」「あはれ」「さび」など、何百という単語に類縁が認められる。類縁は単語だけでなく、係り結びといった独特な文法構造にも及んでおり、比較言語学の立場からも類似が際立っているという。

 さっそく大野氏は南インドへおもむき、現地を調査した。そして、類似性は風習や文化一般にまで及んでいることを知る。すでに還暦を過ぎていたが、ここから彼の命がけの精力的な研究が始まった。

 彼の説はなかなか受け入れられなかったが、次第に外国で認知されるようになり、タミル大学前学長でタミル語学の第一人者、アゲスティアリンガム教授も、「タミル語と日本語は起源的に親族関係にあると確信した」と、大野説を認めているという。

 それにしても、日本と南インドは遠い。そんな遠いところから、どうやって言葉が伝わってきたのだろうか。大野氏は2千数百年前、縄文時代末期に、タミル人が海路、船団を組んで北九州に到来したと考えている。彼らが稲作文明とともに言語(タミル語)を日本に伝えのだろうという。

 もしこの大野説が本当なら、日本語の源流はタミル語にあることになる。さらにタミル語はその源をインダス文明に遡り、さらにメソポタミア文明へと遡ることができる。つまり、私たちの日本語の起源は遠く、シュメー人の文明までさかのぼることができる。

 こうした大野氏の20年に及ぶ研究成果は大著『日本語の形成』(岩波書店)となって結実した。序文に彼は「私はこの本の序文を書くときまで生きていることができて仕合せである。私の一生はこの一冊の本を書くためにあったと思う」と書いている。読んでみたいが、定価が18000円もする。まずは、どこかの図書館で探してみたい。

(参考文献) 「日本語をさかのぼる」(大野晋著、岩波新書1974)
        「日本語以前」(大野晋著、岩波新書1987)
        「日本語の起源」(大野晋著、岩波新書1994)


2002年01月16日(水) 日本語のふしぎ

 最近の遺伝子を使った研究によると、私たちの先祖の現生人は20万年ほど前にアフリカで生まれ、10万年ほど前に中近東へと移動を始めたという。彼らはその後、ユーラシア大陸の各地に広がっていった。

 1万数千年前の氷河時代、日本列島は大陸と陸続きだった。私たち日本人の祖先はそのころ大陸から渡ってきたらしい。彼らは縄目のついた土器をつくり、縄文人と呼ばれている。

 これはNHKの番組で知ったことだが、縄文人のDNAをしらべたところ、もっとも近い人々が今もシベリアのある地域に住んでいるらしい。映像でみてもそれらの人々の容貌はほとんど日本人と変わらない。近くに石器時代の遺跡があり、縄文文化との類似をうかがわせる遺物も発見された。縄文人の故郷はそのあたりだという。

 その後日本列島に大陸から次々と移民が押し寄せ、大規模な混血が行われた。縄文人の血はうすめれれ、今日の日本人の原形が生まれた。現在の日本人の中には、北方系ばかりではなく、南方のポリネシアの人々の血も流れているようだ。

 ところで、それでは日本語はどのようにして生まれたのか。世界に千いくつもある言語の中で、日本語に近い言葉は何語なのか。地理的に言えば朝鮮語や漢語(中国語)などがその候補だろうが、じつのところどうなのだろう。

 高島俊男さんは「漢字と日本人」の中で、「日本語に親戚なし」と書いている。「日本語の系統はまだわかっていない。今後も、わかる見込みはまずないでしょうね。要するに日本語は、地球上どこにも親戚のいない、孤立無縁のことばである」ということらしい。

 ちなみに漢語(中国語)は、チベット語、タイ語、ビルマ語などと系統をおなじくする「支那西蔵語族」に属している。英語は「印欧語族」に属し、これはヨーロッパ全域からアジア西部にまたがる世界最大の語族だという。

 こうした数ある言語の中で、日本語は孤立している。世界に類縁を持たない独特の言語を私たちは話しているらしい。ということは、私たちのものの考え方や文化も、世界に独特なものがあるということだろう。

 日本語にこれから先どのような運命が待ち受けているのか。それは日本人だけではなく、地球に住むさまざまな人々との関わり合いによって違うものになるだろう。せっかくこうして世界に生まれ出た言葉である。私たちにはこれを慈しみ、大切に育て上げたいものだ。


2002年01月15日(火) 漢字を書きたがる人

 最近、文章はほとんどパソコンを使って書くようになった。書くと言うより、叩くとか、打つという感じである。ワープロソフトを使うと、手書きよりも早く、楽に文章を書くことができる。とくに漢字を書くのが楽になった。

 手がきのときはあまり面倒な漢字を使うことはしない。だから、和文調のやわらかい文章になる。たとえば、「場所」と書くかわりに、「ところ」と書く。「書く」という単語も「かく」とひらがなで書く。それがワープロだと、どうしても漢字が多くなり、文体も漢文調になるようだ。

 これは私ばかりではなく、他の人でも同じことだろう。ワープロで書いた文章は漢字が多くなり、むつかしい表現が多くなる。そして、その分、立派な文章が書けるようになったと自惚れたりするが、これは錯覚だろう。

「漢字と日本人」(文春新書、高島俊男著)によると、ほんとうに教養のある人は、やさしい文章を書くそうである。難しい漢字を使った難解な文章を書くのは、むしろ教養のない人らしい。

「漢字をよく知っている人は漢字の多い文章を書く、と思っている人があるようだが、それは逆である。漢字の多い文章を書くのは、無知な、無教養な人である。これは第一に、かなの多い文章を書くとバカにされるんじゃないだろうかと不安を感ずるからである。

 第二に、漢字をいっぱいつかった文章を書くと人が一目おいてくれるんじゃないかというあさはかな虚栄ゆえである。第三に、日本語の本体は漢字で、どんな日本語でもすべて漢字があり漢字で書くのがほんとうだと信じこんでる無知ゆえである。 

 ボラはどう書くのムジナはどう書くのナメクジはどう書くのと言っているのは、かならずこういう程度のひくい連中である。ワープロが普及してからいよいよこういう何でも漢字を書きたがる手合いがふえてきた」

 高島さんは漢字の専門家だが、文化植民地根性丸出しの、儒者、漢学者、漢文先生が大嫌いだという。そして何かと横文字を使いたがるハイカラな手合いも大嫌いらしい。この本を読んでいると、いちいち思い当たることがあり、反省させられる。


2002年01月14日(月) こころを耕す

 tenseiさんは、太宰治の「正義と微笑」が好きだという。高校生の時に、太宰のこの文章に出会って、「心を耕す」勉強の大切さを教えられたという。彼のHPから、その一部を引用させていただこう。太宰はこの文章を恩師の言葉として書いているらしい。

「覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記していることではなくて、心を広く持つということなんだ」

 勉強するということは、「こころを耕す」ということ。つまり「自分という人間をつくる」ということなのだろう。教育の目的も人づくりである。すこし難しい言葉で言えば、「人格の形成」ということになる。

 そうすると、数学や理科を勉強して、人格の形成になるのか、反論が出るかも知れない。これにたいして、作品中の恩師はこんな風に語っている。

「代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強しておかなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ」

 最後は妻子を捨てて、女性と心中してしまった太宰治が、こんな言葉を書き留めている。この生真面目さを意外に思う読者もいるかもしれない。しかし、彼は学生時代、かなり勉強家だったようだ。ガリ勉ではなかったが、そこそこ優等生だった。彼もtenseiさん同様に、この恩師の言葉に感激したのかも知れない。

「学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものなんだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん」
 
 私は勉強はやはり必要性があっておこなわれなければならないと思っている。代数や幾何もまた、私たちの論理力をきたえてくれる。決して日常の役に立たぬ無用の長物というわけではない。しかし、そうしたことも含めて、学問が本来、心を耕してひろくゆたかなものにし、人格を高めるためにあるということはほんとうだと思う。


2002年01月13日(日) 恋に落ちて

 昨日にひき続いて、映画の話を書こう。メルリ・ストリープの魅力を知る手頃な映画はなにかと訊かれたら、私は「恋に落ちて」(1984年)をあげるだろう。夫がありながら、妻子ある男性と不倫の恋におちて、思い悩むメルリの演技がたまらなくいい。このときメルリは35歳。まだまだ若い。

 相手の男を演じているロバート・デ・ニーロは36歳。この二人の名優が、ニューヨークを舞台に、ちょっぴりほろ苦く、哀愁の漂う大人の恋の雰囲気を味あわせてくれる。とりあえず、ストーリーを紹介しておこう。

 デザイナーのモリー(メルリ・ストリープ)と、建築技師のフランク(ロバート・デ・ニーロ)の出会いは、マンハッタンにあるリゾーリ書店(57丁目5番街と6番街の間に実在する)。そこで二人はお互いの連れ合いへのクリスマスプレゼントの本を買うが、本屋の雑踏の中でお互いの本を取り違えてしまう。

 数ヶ月後、フランクは通勤列車で偶然、本を取り違えた相手を見つける。最初は名前も訊けなかったが、やがて二人は名前を告げあって、通勤列車で待ち合わせる。二人はお互いの家族のことを話し、自分のことを話すうちに次第に好意以上のものを感じ始め、そして、いつか食事をともにし、ニューヨークの街でデートを重ねるようになる。

 ある日、モリーからフランクの仕事場に電話がはいり、別れ話をもちかけられる。驚いたフランクは、とにかく駅でまちあわせしたいと告げる。しかし、仕事が長引いて、約束の時間に遅れたフランクは、いそいで駆けつけたプラットホームから出ていく電車を見て悄然とする。

 そこに、もう車中の人だと思っていたモリーがあらわれる。モリーもまた、別れ話を切り出しながら、彼に傾いた心を持て余していたのだ。この日、ニューヨークのグランド・セントラル・ステーションで、二人は初めての口づけを交わす。このシーンは何度見ても、ジーンとくるが、それにしても、ここまでくるのに、なんと長かったことだろう。

 大人の恋と書いたが、二人は既婚者でありながら、どうかすると、まるで中学生の男女のように、うぶで不器用なところがある。駅でコーヒーを飲みながら、モリーにかける言葉を何度も復唱し、最後は自分の馬鹿さかげんに呆れるフランク。自室の鏡の前で次々とドレスを試着しながら、ふと正気に返ったように鏡の中の自分に、「一体あなたは何をしているの?」と問いかけるモリー。

 数日後、モリーは誘われるままに、フランクの友人の家に行き、そこで、フランクにすべてを与えようとするが、最後になって、彼を拒絶してしまう。配偶者がいるのに人を好きになっていくどうしようもない気持や葛藤が押し寄せてきて、モリーはどうしても一線を越えることができない。フランクも後ろからモリーを抱きかかえながら、彼自身の内部にも愛する妻子への思いが渦巻いていて、それ以上強く迫ることが出来ない。


 そうしているうちに、再びモリーの口から別れ話が切り出され、こうしていったんは別れた二人だったが、恋の後遺症がその後二人を苦しめる。やがて二人とも、連れ合いに追求されて思わず本音を漏らしたため、家族を失うはめになる。恋人も失い、同時に家族も失った孤独な二人に、ふたたび月日が過ぎて、クリスマスの季節がやってきた。

 出会いから一年経ったクリスマス・イブの日。場所も同じ、「Rizzoli」書店に、二人は吸い寄せられるようにやってきて、再会する。去年、モリーが買って、間違えて家に持ち帰った釣りの写真集がそこに並んでいる。それを眺めるフランクに、遅れてやってきたモリーの懐かしい声が届く。だが、なぜか二人は、まるで初対面のようにぎこちない。

 二人ともすこしどぎまぎして、遠慮がちに、「元気そうだね」とあたりさわりのない会話をかわし、そして、そそくさと店を出て、モリーは駅の方へ、フランクは反対方向へと雑踏の中を歩く。最初立ち止まるのは、モリー。しかし、もう雑踏に隠れて、フランクの姿は見えない。思いを残したまま、力なく歩き出す。そのときフランクの足が止まる。振り返り、そして彼女を追って、雑踏を押しのけながら駅へと向かう・・・。

 クリスマスの夜、恋人と見るには最高の映画かもしれない。しかし、家庭のお茶の間で見るにはふさわしい映画だとは言えない。モリーとフランクにとっては幸せな結末かもしれないが、彼らによって捨てられた家族のことを思うと、割り切れないものがのこる。

 同じメルリ主演の映画「マディソン郡の橋」はこの点、まだ納得できる。しかし、若々しいメリルの魅力をふんだんに味わおうと思ったら、やがり「恋に落ちて」が最高だろう。ちなみに、私はこれを昨日自室でこっそりと見て、久しぶりの感激に胸をときめかせた。どんな「理性」も、「恋」の魔力には勝てないと思ったものだ。

 
 この映画には、随所にニューヨークの名所がでてくる。リゾーリ書店、セントラル駅、ティファニーからトランプタワービルあたり。グリニッジ・ビレッジやチャイナタウンも二人のデートコースだ。クリスマスの5番街のイルミネーションやロックフェラーセンターのスケートリンクも見られる。二人の粋で都会風な恋も、こうした背景があって可能になったのかも知れない。


2002年01月12日(土) フランス軍中尉の女

 むかし、よく鬼ごっこをして遊んだものである。鬼になって追いかけていく。そのとき誰を追いかけるかというと、大好きなA子ちゃん。でも、A子ちゃんばかり追いかけていると、えこひいき(?)しているように思われるかもしれない。だからわざと、他の子を追いかける。そして、たまにA子を追う。

 A子の肩に私の手が触れたとたん、追う者と追われる者の立場が逆転する。鬼ごっこの面白いところはここだ。追われていたA子の表情が、一瞬にして、追う鬼の目つきになる。その瞬間の表情の変化が、子供心に印象的でまぶしかった。A子の中にひそんでいた、何やら不思議な魔性が、表に現れてくるという感じである。このとき世界の裏と表がひっくり返る。

 メリル・ストリープとジェレミー・アイアンズが共演した「フランス軍中尉の女」(1981年)を見ていて、そんな昔の鬼ごっこのことを思い出した。映画の主な登場人物は、アナ(メリル・ストリープ)とマイク(ジェレミー・アイアンズ)で、二人はややこしいことに劇中でも映画俳優で、「フランス軍中尉の女」という同名の映画を撮影中である。つまり映画の中で、同じ題名の別の映画の撮影が行われているわけだ。

 二人が共演している映画の舞台は現代だが、作中劇のほうは19世紀の中頃のイギリスのうらびれた港町である。そこに愛したフランス人中尉に捨てられたがゆえに売春婦呼ばわりされる一人の女がいた。港町を訪れた一人の考古学者が、突堤にたたずむ彼女の神秘的な魅力に惹かれ、やがて二人に恋が芽生える。とくに女の考古学者の男に対する恋は狂気に近いものがある。

 そもそもこの二人の俳優、アナとマイクは実生活でも恋人どうして、不倫の関係にある。面白いのは、劇中では女が男を追っているのだが、現実生活では、マイクがアナを追っている。そこで、撮影に入るたびに、二人の表情(とくにメルリ)の表情が切り替わる。追う側と追われる者が入れ替わるところ、鬼ごっこに似ている思ったわけだ。

 実際は、メリルもジェレミーもまったく対照的な二役をこなしている訳だが、その演技が実に絶妙で、私はこの映画でいっぺんにメリル・ストリープのファンになってしまった。ジェレミー・アイアンズも実に切れ味のいい俳優だと思った。


2002年01月11日(金) 「深沢七郎」私論

 1956年、第1回中央公論新人賞に、深沢七郎の「楢山節考」が選ばれた。審査委員だった武田泰淳、三島由紀夫、伊藤整をして「恐ろしい小説」と言わしめた力作だった。授賞式での三島由紀夫の「この作家はうすきみわるいな」という一言は特に有名である。

 しかし、この激賞ともいえる選評を、作者の深沢は意外だという。彼は「おりん」のような年寄りの気持ちが好きで書いただけで、そんなに深いことは考えていなかった。だから、自分の小説が文壇の大御所から仰々しく言われることに戸惑いを感じたらしい。

「(ひょっとしたら、「楢山節考」には?)と思った。あの小説には、ボクが忘れてしまった人生観などという悲しい、面倒クサイものが、書こうともしなかったのに、形を変えて書いてしまったのではないかと思った。もしそうだったら、ボクは、また、人生観などという、暗い、深刻な、見つけたら叩きつけてやりたいような憎らしいものを、また、考えなければならないのだろうか」

 こうした言葉から、作者の創作心理を類推すると、深沢七郎はおりん婆さんのような、あまり生に執着しない<自然な>生き方や死に方にあこがれがあった。そして、ただ単純にそうした世界を描きたかっただけのように思われる。

 ところが、その舞台設定として、姨捨伝説を用いたところにさまざまな混乱がうまれてきた。さらに、彼自身の創作意識がこれに輪をかけた。あれこれ作り上げるうちに、さまざまな別の要素が入り込んできた。まさに、「書こうともしなかったのに、形を変えて書いてしまった」のである。

 その結果、作品としては思わぬ奥行きが出て、面白くなったが、その分、なにやらわからない混沌が生まれてきた。そして、そこがこの作品の魅力でもあるのだろう。この作品については、さまざまな角度から、さまざまな分析ができて、それ自体興味が尽きないところがある。

 さて、それから4年後、三島由紀夫の熱狂的な支持をうけて、深沢七郎は「風流夢譚」を再び中央公論に発表した。天皇の存在自体をちゃかすような、滑稽で、残酷で、風刺的な内容の小説である。これが右翼を刺激した。そして「嶋中事件」と呼ばれる右翼テロ事件を引き起こした。

 中央公論社長宅のお手伝いの女性が日本愛国党員に数カ所をめった刺しにされ殺害された。日本の言論界はこれによって沈黙した。右翼の脅迫は、深沢の支持者、三島由紀夫にも及んだ。そして深刻な精神的打撃を受けた三島由紀夫は、これを契機に武道に走ったという。(『三島由紀夫の生涯』安藤武著)

 一方、深沢七郎も右翼の迫害を逃れて、漂泊の旅に出た。そして、この漂泊の旅が、ますます深沢を彼らしくしたようだ。深沢七郎はやがてこんなことを書くようになる。

「ひとりだけの世界に生きていた者は生態がどんなに変わっても変化しないのである。私が気がついたことは、勿論悪人たちの集団に入っていることはできないのだが、私は善人たちの仲間入りもできないのである。どんな善意の集合へも入っていられないのである。私はひとりだけがいいのだ。ずーっといままで、私はそうだったのだ」(生態を変える記)

 深沢は「人生は屁みたいなものだ」とも書く。だからあまり深刻にならなくてもよい。好きなように生きればよい。そして彼自身、そのように気ままな人生を送ったように見える。


2002年01月10日(木) 家族愛の脱構築

 最近よく「脱構築」という言葉をつかう。もともとはデリダの発明した言葉のようだが、私はかなり自分勝手に使っている。たとえば「家族愛の脱構築」というふうな具合にである。

 家族は一番身内である。これを愛するのは自然な感情だろう。私はこれを否定するわけではない。しかし、こうした自然な家族愛はしばしば因習的で排他的な身内意識にしばられがちである。また、家族はかくあらねばならないと言った常識や押しつけが、個人の自立をはばみ、ときには個人を歪め、社会生活そのものに支障を来す場合もある。

 そこで、こうした従来の常識を一度根底から疑い、これを否定してみてはどうだろ。「脱」というのは、こうした従来のシステムやそうしたシステムが作り出す幻想から逃れて自由になることである。

 そうして、いったんはゼロにリセットして、ほんとうに必要であれば、こんどは自分の主体的な判断と意志で再構築するのである。私はこうした否定を媒介にした肯定のプロセスを「脱構築」と呼んでいる。

 だから、脱構築とはいいかえれば「色即是空、空即是色」である。「愛は空である」というのが前半、しかし、その「空」の中から、再び愛を建設することが大切である。血縁にもとづく情念としての因習的な愛から、もっと明るく開放的で自由で意志的な愛へと、愛の領域を広げ、豊かなものへと深めていくことが大切ではないか。

 おりしも、アフガンにおける米軍の空爆で、民間人の死者が37000人をこえたという集計が米ニューハンプシャー大学のマーク・ヘロルド教授によってなされた。空爆に伴う食糧危機を考慮すれば、間接的な空爆の犠牲者はこれをはるかに凌ぐ規模になるのだろう。

 アフガンの人々に身の上を、自分の家族同様に案じることはできることではない。しかし、彼らも又、私たちと等しい人間であり、同じように家族を持ち、この地上にともに生をうけた同胞である。そのことを忘れてはならない。

 こうしたより寛容な心で愛を育てることが出来ればと思う。そのために必要なことは、身近なところにある自然で因習的な愛を、単純に否定するだけではいけない。これを足場にして「脱構築」することが必要になる。

 自己愛を頭から単純に否定するのではなく、これを批判的に再構築すること、すなわち「脱構築」することが必要なのだろう。そのとき私たちの自己中心的な煩悩は昇華して、より普遍性のある愛へと姿をかえる。主体的に生きるということは、こうした「脱構築」を不断に行うということではないだろうか。


2002年01月09日(水) 愛することの意味(2)

 昨日の私の日記について、北さん、tenseiさんからコメントをもらった。北さんは、<橋本さんの論は、やや観念性が強すぎるような印象があります>と言う。たしかに、「愛はすべて自己愛である」という結論は極論のように見える。これだけでは説得力がない。

 tenseiさんも同じような感想らしい。「さとり」や「宗教的解脱」といった崇高な愛にこだわっていては、いつまでたっても愛は実現できないのではないか。愛はもっと身近なところから出発していいのではないかと言う。さらに、こう書いている。

<憎悪は感情一本やりだけど、愛は、恋とか母性・父性とか、血縁の情とか、友だち感情とか、そういう感情に活気づけられる感情的な場合もあれば、意志、という場合もあると思っています。>

 つまり、愛には「感情的」なものばかりでなく、「意志的」な側面のあるというのはその通りだろう。<その意志的な愛が、お互いの感情に変化をもたらす可能性がある>という主張はよくわかる。

 私は「愛はすべて自己愛だ」と書いた。これが命題として成り立つことに疑いは持っていない。そして、「他者を自己と等しい者と感じるとき、他者への愛が成り立つ」ということも、その通りだと思っている。

 しかしこれはあくまでも、愛についての基本的認識であり、抽象的な定義であって、実践論ではない。あしたの日記で、このあたりのところを、もうすこし考えてみたい。(どなたでも、私の考えに異論があれば、遠慮なく掲示板に書き込んで下さい)


2002年01月08日(火) 愛することの意味

 人であれ、自然であれ、私たちが何かを愛するということは、その存在を「大切に思う」ということである。ときには愛する存在のために、自らの命さえ犠牲にすることをいとはない。したがって愛とは自己犠牲と自己放棄の営みであるということもできる。

 しかし、人はどのようなときに「愛」を感じるのだろう。相手の存在を「大切に思う」のはどのような時だろう。結論から言えば、それは私たちがその対象と一体感を感じるときである。

 母親が子供を愛するのは、子供が自己の延長だからだ。人が国を愛するとき人は国と一体感を味わっている。つまり人は自分と一体だと思った相手を愛し、愛情を注ぐのである。

 反対に、この一体感を阻害する他者に対しては、「憎しみ」を抱く。そうした存在は敵であり、ときとして殲滅すべき対象である。ここから様々な争いと災いが起こってくるわけだが、憎悪と愛が表裏一体のものであるとすると、愛こそが災いの種であるということもできよう。

 このように、愛が自己の延長である者に対する愛だとすると、それは愛は「自己愛」でしかないということになる。だから私たちが憎悪から自由になるためには、私たちは同時にこのような愛の呪縛から自由になる必要がある。

 それでは、すべての愛がこのような忌まわしい自己愛に過ぎないのだろうか。私は原理的にはそうだと考える。だから、キリストでさえ、「自分を愛するように、他者を愛しなさい」と教えた。これは言い換えれば、「他者を自分だと思って愛しなさい」ということでもある。

 人間はどこまで行っても、自己愛から抜け出すことはできない。自己愛を否定するためのあらゆる修行は所詮むなしいのではないだろうか。一見自己否定であるかのような行為でも、その根底にあるのは自己愛である。キリストは「友のために命を捨てるのは最大の愛だ」(ヨハネ伝)と行ったが、「友」というのは、つまり「身内」であり、自己の延長に過ぎないからだ。

 しかし、それではどのようにして私たちは生きたらよいのだろう。キリストの説く「隣人愛」、仏教の説く「慈愛」は所詮虚妄であり、美辞麗句にすぎないのだろうか。私はそうではないと思っている。愛はあくまで自己愛であるが、ひとつだけ、「自己愛でありながら自己愛でない愛の在り方」が可能なのである。

 それはどういうときかというと、全世界と和解し、全世界を自己と感じるときである。そのとき自己と他者というかきねが一切なくなり、自己が他者であり、他者が自己であるという状態、そのような「無の境地」に達したとき、そのときに限って、自己愛は正確に他者愛と同じ者になる。

 キリストの説いた「隣人愛」はこのようなものである。「隣人」という抽象的な表現がそのことを語っている。同様に親鸞は「自分は父母の孝養のために念仏をとなえたりしない。その理由は、この世に存在するすべてのものが、自分の父母であり、兄弟だからだ」(歎異抄)と述べている。仏教でいう「色即是空」や、ハイデガーのいう「存在のあかるみへの脱自」も、私はこういうことではないかと思っている。


2002年01月07日(月) 永訣の朝

 この正月、大雪になった。二日の日は福井へ里帰りする筈だったが、この雪で行けずじまい。4日、5日と予定されていた部活動も、テニス場が雪に埋もれて中止になった。その分、家でゆっくり読書やビデオやインターネットを楽しむことができた。

 私は雪国(福井)の生まれだから、雪は珍しくない筈だが、こちらに出てきてもう25年以上になるから、雪とのつきあいも随分少なくなった。今年のような雪はほんとうに久しぶりである。

 落ちてくる雪片を見ていて、ふと宮沢賢治の「永訣の朝」を思い出した。金子みすずの生涯を描いたドラマを見た後だっただけに、よけいに気になって、さっそく本棚を探し、去年故人となった畑山博さんの「わが心の宮沢賢治」という本を見つけ、引用された「永訣の朝」を読み返した。

   永訣の朝

  けふのうちに
  とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
  みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
    (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
  うすあかくいっさう陰惨〔いんさん〕な雲から
  みぞれはびちょびちょふってくる
    (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
  青い蓴菜〔じゅんさい〕のもやうのついた
  これらふたつのかけた陶椀〔たうわん〕に
  おまへがたべるあめゆきをとらうとして
  わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
  このくらいみぞれのなかに飛びだした
    (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
  蒼鉛〔さうえん〕いろの暗い雲から
  みぞれはびちょびちょ沈んでくる
  ああとし子
  死ぬといふいまごろになって
  わたくしをいっしゃうあかるくするために
  こんなさっぱりした雪のひとわんを
  おまへはわたくしにたのんだのだ
  ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
  わたくしもまっすぐにすすんでいくから
    (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
  はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
  おまへはわたくしにたのんだのだ
  銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
  そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
  ……ふたきれのみかげせきざいに
  みぞれはさびしくたまってゐる
  わたくしはそのうへにあぶなくたち
  雪と水とのまっしろな二相系〔にさうけい〕をたもち
  すきとほるつめたい雫にみちた
  このつややかな松のえだから
  わたくしのやさしいいもうとの
  さいごのたべものをもらっていかう
  わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
  みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
  もうけふおまへはわかれてしまふ
  (Ora Orade Shitori egumo)
  ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
  あああのとざされた病室の
  くらいびゃうぶやかやのなかに
  やさしくあをじろく燃えてゐる
  わたくしのけなげないもうとよ
  この雪はどこをえらばうにも
  あんまりどこもまっしろなのだ
  あんなおそろしいみだれたそらから
  このうつくしい雪がきたのだ
     (うまれでくるたて
      こんどはこたにわりやのごとばかりで
      くるしまなあよにうまれてくる)
  おまへがたべるこのふたわんのゆきに
  わたくしはいまこころからいのる
  どうかこれが天上のアイスクリームになって
  おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
  わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

 1922年11月27日、憲治は妹に「あめゆじゅとてちてけんじゃ」と頼まれて、降りしきる雪の中に、<まがったてっぽうだま>のように飛び出して行った。ところで、苦しい息の下で、どうして妹は憲治にこれを頼んだのだろう。それを憲治は<わたしをいっしょうあかるくするために>だと考えた。

  死ぬといふいまごろになって
  わたくしをいっしゃうあかるくするために
  こんなさっぱりした雪のひとわんを
  おまへはわたくしにたのんだのだ
  ありがたうわたくしのけなげないもうとよ

 悲しい詩である。そして、なんともうつくしい詩である。この詩の中には、不思議な明るさがある。この明るさは魂のそこから兆してくるきよらかな明るさだ。ハイデガーが主著「存在と時間」のなかで、「存在の明るみへの脱自」と呼んだものが、この詩のなかに美しく語られている。

(参考サイト) 宮沢賢治 http://www.cypress.ne.jp/why/index.html


2002年01月06日(日) 知と愛の世界

 仏教(法華経)では私たちの生命の状態を、�|蝋���餓鬼�C楡賢そね絖タ祐岫ε鍬Ю縞広┗鏗亅�菩薩��仏の十段階で説明する。ここで、� 銑Δ蕨仔擦噺討个譟△い錣罎襦嵬造い寮こΑ廚澄��А銑�が「さとりの世界」である。

 �,�ら�Δ鮖拉曚垢襪里蓮嵌冉此廚函崑濃察廚任△襦�この煩悩のエネルギーと打算によって、私たちは目まぐるしく生命の状態を変えながら生きている。これを「六道輪廻」とよぶ。欲望や感情に支配され、つまらない計算をして、ときには人と争い、ときには幸運を手にして天にも昇るほど幸せを感じていたかと思うと、絶望し、地獄に突き落とされて死を思い詰めたりする。

 釈迦はこうした浮き草のような迷いの世界を解脱せよと説いた。それではどのようにしてそれは可能か。一口に言えば、四諦八聖道の修行によってである。この修行によって、真理が体得できる。

 ところで仏教で説く真理とはないか。一口で言えば「色即是空、空即是色」ということだが、法華経ではもう少し具体的に「10の法則(十如是)」であらわす。釈迦自身に従えば、「因縁果の法則」である。

「因縁果の法則」とは、この世に起きる出来事はすべて、お互いに関連を持ち、相互依存しており、絶対的なものは存在せず、あらゆる存在が相対的なものとして生起するということだ。これを体得することで、私たちは世界の有様を理解し、また自己の煩悩がどこから起こってくるか、その根本を知り、これをコントロールすることができる。

 私たちは実体のないものを実体だと思いこんで執着し、こうした悪しき観念や幻想に囚われて、しかもその囚われていることさえ知らないまま、悩み悲しみ、他者に支配され、主体性を失ってあくせくと生きている。「因縁果の法則」によって心身が解脱すれば、一切の存在が「空」であることがわかる。偏見や幻想から解放されて、主体的に、すこやかに生きることができる。

 そのとき、煩悩は昇華され、そのエネルギーは心身を清々しく充たし、私たちは煩悩という自我の洞窟をでて、自由で広々とした世界へ歩みを進めることになる。現代的に表現すれば、生存競争で充たされた「競争の世界」から、愛と叡智でみたされた「共生の世界」へ入る。

 こうしたさとりを得ようと菩提心を発し、修行するのが�Ю縞垢任△襦H爐録人�の求道者であり、そのかぎりで、煩悩の世界から一歩を踏み出したといえる。そしてやがて彼は真理をさとって�┗鏗个砲覆襦�

 声聞・縁覚の世界は「知の世界」だと言ってよい。煩悩に汚染された打算的な知ではなく、真理をもとめる純粋で明るい愛知(フィロソフィー)の世界である。そこにはいかなる権威や偏見もなく、自立的で、自由な思考が生き生きと呼吸している。それはまさに美しい「叡智」の世界である。

 しかし、仏教ではこの先に、��菩薩��仏をおく。真理を求めて修行するのが声聞・縁覚だが、菩薩・仏の目的はそうではない。すでに真理を体得した彼らの目的は、そうして得た真理を一切の衆生にわかちあたえることである。したがって、菩薩・仏の世界は「愛の世界」だといえる。菩薩と仏の違いは、菩薩はこれを修行として行うが、仏はごく自然にこれを行う。

「打算と煩悩」「真理と愛」を基本とする10の範疇に分けて私たちの心のありようを説くのが仏教の「十界論」だが、ここでもうひとつ大切なことがある。それは、この十の状態そのものが相互に依存して存在しているということだ。

 たとえば善人と悪人で考えよう。私たちはこの両者を一応区分するが、実はこの両者は別物ではない。コインの両側のように、善と悪は張り付いている。いかなる善人であっても悪心を持たないことはなく、また悪人の心の中にも善の心は潜んでいる。

 殺人を犯し、地獄の状態に置かれている人間の心にも、学問をして本当のことを知りたいという「声聞」の求道心が潜んでいる。愛する夫を奪われて逆上し、包丁を持ち出してきた妻の修羅の心の中にも、じつは夫を愛する純粋な菩薩の心がひそんでいる。

 つまり、それぞれの十界がまたそれぞれに十の世界を内包し互具している。こうした心のありようを、仏教では「十界互具」とよんでいる。十の世界がそれぞれ十の世界をもつので、10*10=100である。つまり、私たちの生命の状態はもう少し詳しく言うと、100の世界から成り立っているわけだ。

 これは私たちのその時々の「心の番地」だということができる。たとえば、相手と訴訟を争って勝ち、大金を手にした人間がいるとする。彼はいま天にも昇る勝利の美酒に酔っている。彼の心はまさに「天界」にある。

 しかし、それは表面のことで、その浮かれた心の底には争いの心がうごめいている。だから、彼の心の番地は。「天町修羅」とでも言うべきだろう。同様に、将来の栄冠を目差して、他人を蹴落とすべくあくせくと学習塾に通っている受験生の心の住所は「修羅町天」である。

「十界互具」ということは、煩悩の中に叡智や愛があり、愛の中にも叡智や煩悩がある。そして叡智もまた、煩悩や愛の所産だということだ。だからどんな人間にでも、機縁さえ熟すれば菩薩となり仏となる道が開かれている。反対に菩薩の心の中にも地獄や修羅があり、それゆえに彼らは万人の苦しみや悲しみを我がこととして理解することができるのだ。

 法華経では、これに「十如是」「三世間」を加えて、三千大世界という。この三千大世界こそ私たちの心の姿であり、また心の中に写し出される宇宙の姿でもある。全世界がそのまま私たちの心(一念)に宿っているという教えを、仏教では「一念三千論」と呼んでいる。

  つきてみよひふみよいむなやここのとを
  十とおさめてまたはじまるを       

  あわ雪の中に立ちたる三千大世界(みちあうち)
  またその中にあわ雪ぞふる       (良寛)


2002年01月05日(土) 金子みすゞの墓

 矢崎節夫さんが最初に下関を訪れたとき、金子みすゞの痕跡はまったくなかったという。彼女の生まれた土地が先崎だということさえわからなかった。それが、東京で弟の上山正祐(雅輔)氏とであって、一気にわかった。そして、その真相というのが、実に驚くべきものだった。

 上山正祐(雅輔)氏は下関にあった上山書店のあととり息子で、みすゞはそこで働いていたことがある。みすゞの母が上山家に後妻としてはいってきた。先妻がみすゞの母の妹だったので、いちおう上山正祐(雅輔)氏とみすゞはいとこということになる。

 ところが、事実はそうではなかった。上山正祐(雅輔)氏はみすゞの母の実子で、生まれてすぐ金子家から上村家に里子に出されていたのである。だから、上山正祐(雅輔)氏とみすゞは実の姉と妹だった。このことを、上山正祐(雅輔)氏は知らされていなかった。そのため、みすゞに恋心を抱いてしまうのである。

 上山正祐(雅輔)氏には真実を知らせることなく、彼の父は彼をみすゞから強引に引き離そうとする。そのために、みすゞをあまり素性のわからない店員の一人と結婚させる。ここから、次々と悲劇が起こってきた。

 矢崎さんは上山正祐(雅輔)氏と会ったとき、みすゞの墓の在処をたずねた。金子家の菩提寺を教えてくれたが、彼自身、みすゞの墓のありかはよくわからないという。みすゞの死後、上山正祐(雅輔)氏は故郷を離れ、故郷との関係は希薄になっていたようである。

 矢崎氏は先崎におもむき、お寺に集まってくれたみすゞのゆかりの人たちから彼女の話を聞いた。集まってくれたのは、みすゞの小学校の恩師や、同級生、それから近所の人、もと上村書店の店員。身近にいて、みすゞの裏も表も知っている人たちである。矢崎氏はわくわくしながら、録音機をセットした。

 ところが、途中から雷が鳴り出し、豪雨になった。真っ暗になってきたので、電灯をつけたが、やがて停電になった。3台の録音機の内、2台が動かなくなり、1台だけが乾電池で動いていた。しかし、雷鳴と豪雨の音で、発言者の声がききとれないほどだったという。

 矢崎さんは「みすゞさんが怒っている」と思ったという。過去を暴かれることに対する怒りが、このような恐ろしい雷鳴と豪雨を呼び起こしたのだと思った。そして、何時寺に雷が落ちるかと肝が冷えた。もう一刻も早く、話を打ち切りたいという気分だった。

 ところが、集まった人たちは、話を止めようとしない。みすゞがどんなに心の優しいいい子であったのか、その思い出をなつかしそうに語り続ける。その長い話が一通りおわったころ、雨が上がり、日差しがもどってきた。矢崎氏は人々が口々に、「テル(みすゞの本名)さんがあんなに喜んでいましたね」と言うのを聞いて意外に思ったという。

 それからみんなで金子家の墓にお参りした。実はその金子家の墓にみすゞの名前は刻まれていないことがわかっていた。それで、あらかじめゆかりの人々が菩提寺の墓をしらみつぶしに何度も探してくれていたが、彼女の名前の刻まれた墓の所在がわからなかった。仕方がないので、金子家の墓に参ろうと言うことになったのだという。

 ところが矢崎氏が金子家の墓に参ったとき、ふと近くの墓を見ると、そこに「金子みすゞ」の名前の浮き出した小さな墓があるではないか。大勢の人が探して見つからなかった墓が、すぐそこにあった。

 謎はすぐに解けた。さきほどの豪雨が墓石の苔をそぎ落としてくれたのである。苔で覆われた墓は無縁仏の墓としか見えなかった。それがいま日差しを浴びて、美しく金色に輝いていた。それはあたかも、金子みすゞが全身で、「わたしここだよ」と笑いかけているようだった。その墓で、彼女は彼女が幼い頃死別した父親と一緒に眠っていたのだという。


2002年01月04日(金) 愛する者のために

 前にも書いたように、「日本童謡集」(与田準一編・岩波文庫)に載せられた金子みすゞの《大漁》という作品に出会って、矢崎節夫さんの人生が変わった。彼はそれから16年間にわたり、金子みすゞを追い続けた。

 1982年、矢崎さんはとうとう彼女の弟の上山正祐(雅輔)氏が東京で生存中であることをつきとめる。上山氏にとっても、それは奇跡的な出会いだった。彼は大切に保管していた姉の3冊の手帖を、《大漁》の詩の熱烈な愛好家だという童謡詩人の矢崎氏に委ねた。こうして、矢崎氏の献身的な努力で、みすヾの残した512編の詩が、一気に甦ることになった。

 ところで、矢崎さんが山川さんに会って、最初に訊いたのは、「金子みすゞさんはどうして亡くなられたのですか」という問いだったという。没後50年余を経て、26歳で夭折した彼女の死因がわからなくなっていた。病死説と自殺説の両方があったが、はっきりしない。

 上山氏は言下に、「姉は愛する娘のために命を捨てたのです」と答えた。これを聞いて、矢崎さんはいっぺんに胸のつかえが下りたという。あんなにすばらしい詩を残した詩人の死が、生活苦や狂気、恐怖、失意などから世をはかなんでの自殺であったりしてほしくはなかった。それでは、彼女の詩そのものがまがい物だということになってしまう。しかし、それは杞憂だった。

 金子みすゞの別れた夫は、親権をたてに彼女から娘を奪おうとしていた。しかし、放蕩三昧で生活力のない夫に娘を預けることは出来ない。そこで、彼女は自分の命をかけて、娘を救おうとしたのだった。夫にあてた遺書の中で、彼女は娘を彼女の実家にそのまま預けておいてくれるように懇願している。実家には母がおり、庇護者の義父がいた。

 金子みすゞはそのすべての詩で「いのちのすばらしさ」「愛することの大切さ」を訴えている。愛する娘のために命を捨てることは、それはそれで彼女にふさわしい死に方だった。彼女の26年間の生涯そのものが、まさに彼女の詩と見事に照合し、あまりにも美しく調和している。

 もっとも純粋な愛とは何か。それは、「その人のために、自らのいのちをも捧げることができる」ということだろう。金子みすゞは最後まで愛の詩人として生き、そしてその純粋さのまま死んでいった。


2002年01月03日(木) 共同幻想と民主主義

 映画通の北さんに、これまでたくさんの映画を薦められて見た。そのなかでとくに印象に残った一つが、「十二人の怒れる男」である。制作は1957年、監督はシドニー・ルメット、主演はヘンリー・フォンダ。この映画を見ると、アメリカの陪審員制度や、民主主義というものがそもそもどのような精神に基づいているのかがよくわかる。

 ニューヨークの下町に住む不良少年が、父親をナイフで刺し殺したという容疑で逮捕され、裁判にかけられた。そして、一般市民から無作為に選ばれて召還された12人の陪審員が、被告が有罪であるか無罪であるかを判定するために裁判所の一室にこもる。

 少年と父親は日頃から仲が悪い。階下の老人は、少年が激昂して「殺してやる」と言ったあと人が倒れる音がして、逃げてゆく少年の姿を見たと証言している。電車の線路を隔てたアパートの女性は、通り過ぎる電車越しに、少年が父親を刺すのを見たと証言した。かんじんの少年は父親と喧嘩して家を出た後、映画を見ていたというけれど、その内容もタイトルも覚えていない。

 だれがみても、少年の有罪は明らかなように見える。ところが、ヘンリー・フォンダの演じる一人の陪審員だけが「無罪」を主張する。全員一致でなければ判決は成立しない。ただ一人の常識外れのために、審議をやりなおさなければならない。彼の「無罪」の投票に誰もが驚き、腹を立てて、詰め寄る者もいる。釈明を求められて、彼はこう主張する。

「自分も無罪と信じているわけではない。しかし、一人の人間の生命がかかっているのだから、少しは議論をしてもいいのではないか」 

 彼も少年が父を殺さなかったと確信して、「無罪」を投じたわけではないのだ。ただ、法廷で彼を有罪とするに足るだけの立証が行われたかどうか、もういちどよく検証してみたいと思ったのである。

 そうしてしぶしぶ始まった議論の中で、証言の信憑性が崩れてゆく。何度も評決が行われ、12人の陪審員たちの職業や家庭環境、性格や気質、偏見と言った社会背景や人間模様が次第に浮き彫りになっていく。そうした様々なバックグラウンドを背負って行われる緊迫した言論のやりとりがあり、最後には全員が自分たちの呼び覚まされた良心に照らして、少年の「無罪」を認める。

 アメリカ民主主義の精神はこの陪審制度にあると言われている。政治家を選挙で選ぶだけではなく、裁判をも自分たちの手で行う。ギリシャ以来の直接民主主義の精神がここに受け継がれている。しかし、ギリシャ民主主義が衆愚政治となり、ソクラテスを有罪としたように、この制度は常に転落の危険性を孕んでいる。

 この危うさをこの映画は私たちに見せつけてくれる。もし、12人の陪審員のなかにただ一人の「彼」がいなかったら、この少年は「有罪」になっていただろう。「12人の全員一致による評決」という規定の中に込められているのは、12人中一人くらいは「彼」が存在するに違いないという切実な期待である。

 私たちはともすると、一つの与えられたものの考え方に囚われて、それが多数の人々によって共有された偏見であり、共同幻想であることに気付かない。そうした思いこみが集団を支配するとき、これに「否」という言えるかどうか、ほんとうの勇気はここにある。

 ヘンリー・フォンダの演じた「彼」は、その意味で民主主義社会が必要とする「勇気」の在り方を示している。地味で目立たないが、「彼」もまた貴重な現代の「Hero」の一人だと言っていいのだろう。


2002年01月02日(水) 明るいほうへ

 大晦日の夜に、DVDで「金子みすゞ」の生涯を描いた「明るいほうへ、明るいほうへ」というTVドラマを見た。金子みすゞは私のもっとも尊敬し、愛惜する詩人だし、主演は私の好きな松たか子である。

 放送を見損ねた私は、DVDが発売されたと知って、30日にさっそくインターネット(アマゾン)で注文した。驚いたことに、それが翌日には届いた。しかも、送料なしである。インターネットはすばらしい。

 そんなことはともかく、作品の出来は思った通りだった。松たか子はNHKドラマで「櫂」を見ていらい、その実力を買っている。時代背景も「櫂」と同じ、大正・昭和ということもあり、大いに期待したが、まさに期待にたがわない好演だった。題名になった、金子みすゞの詩を引用しておこう。

   明るいほうへ

  明るい方へ
  明るい方へ。

  一つの葉でも
  陽(ひ)の洩(も)るとこへ。

  やぶかげの草は。

  明るい方へ
  明るい方へ。

  はねはこげよと
  灯(ひ)のあるとこへ。

  夜とぶ虫は。

  明るい方へ
  明るい方へ。

  一分もひろく
  日のさすとこへ。

  都会(まち)に住む子らは。

 DVDには特典として、松たか子へのインタビューや、長峰由紀アナウンサーによる詩の朗読、関連書籍の紹介などがある。なかでも、この作品の監修者で、みすゞの発見者である童話作家・矢崎節夫氏が自ら語る、「金子みすゞ甦りの軌跡」がすばらしかった。

   大漁(たい りょう)

  朝やけ小やけだ
  大漁だ
  大ばいわしの
  大漁だ。

  はまは祭りの
  ようだけど
  海のなかでは
  何万の
  いわしのとむらい
  するだろう。

   星とたんぽぽ

  青いお空のそこふかく、
  海の小石のそのように、
  夜がくるまでしずんでる、
  昼のお星はめにみえぬ。
    見えぬけれどもあるんだよ、
    見えぬものでもあるんだよ。

  ちってすがれたたんぽぽの、
  かわらのすきに、だァまって、
  春のくるまでかくれてる、
  つよいその根はめにみえぬ。
    見えぬけれどもあるんだよ、
    見えぬものでもあるんだよ。

 矢崎さんは、「金子みすゞの宇宙」という言葉を使う。彼女の残した百数十篇の詩は、どれも夜空の星のように光っている。それはひとつの、広大無辺な宇宙だというのだ。そして、その中心にある巨星が「大漁」の詩だという。

 大漁で湧く浜辺、そのにぎわいと対照的に、海の中では何万ものいわしのとむらいがなされている。矢崎さんは学生時代に岩波文庫の童謡集の中にただ一編だけ収められていた金子みすゞのこの詩に出あって、彼女の存在をしる。

 こんな深い眼差しをもったやさしい詩はこれまでみたことがなかった。この詩を見たとたんに、童謡集に収められていた他の何百篇という詩がいっぺんにかすんでしまったという。

 もし、この詩が矢崎さんの目に留まらなかったら、おそらく金子みすゞは世に出ることはなかっただろう。もちろんこのような感動的なドラマが作られることもなかった。26歳で夭折した金子みすゞのかなしい魂も、これで迷わず天国へ行けるのではないだろうか。合掌。

(参考) 金子みすゞの世界


2002年01月01日(火) 霊感はどこにでも

 あけまして、おめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

 今日は2002年の元旦である。何か改まった気持ちで、日頃とは違ったものを書こうと思ったが、あいにく正月早々怠け心がきざして、霊感が働かず、筆が重い。昨日に続き、十数年も前に書いた詩の引用で、この場をしのごう。その題も「霊感(インスピレーション)」である。

   霊感(インスピレーション)

  何事であれよき仕事は
  ゆたかな霊感によってなしとげられる
  芸術上の創作ばかりではなく
  家事や学業や教育であっても
  霊感がなければ
  しみったれた奴隷の労働とかわらない

  霊感はどこにでも満ちている
  雨に濡れた歩道や
  葉を落とした木立や
  その上の青い空や
  白い雲にも
  子供たちのほほを過ぎていく風や
  赤ん坊の泣き声
  犬の遠吠えにさえも

  六畳間の本棚や
  カーテンをもれる光
  セザンヌの複製
  一杯の紅茶のかおり
  そして使い古した私の万年筆
  すなおな心さえあれば
  霊感はどこにでも満ちている

   (1987年1月7日の日記より)


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