橋本裕の日記
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2002年03月31日(日) ほがらかであること

 私たちは時として、ほんのささいなことで幸福になる。たとえば、雨上がりの道端できれいな色をした花を見たり、無邪気に駈けていく幼い子供たちの声を聞いたり、風に吹かれていて、ふと遠い昔の記憶を取り戻したり、そんな他愛のないことで、なんだかすっかり気分が明るくなる。

 幸福とはなんだろう。私はそれは機嫌がよいことであり、朗らかな気分のことではないかと思う。世間的にどんなに成功して、地位や名誉がある人でも、ほがらかさを持たないひとは幸福とはいえない。

 反対に、どんなあばら屋に住んでいても、たとえ病床で死を待つしかない運命の人であっても、朗らかな心と笑顔を持っている人はしあわせである。なぜならその人は心の中にすばらしい幸せの泉を持っているからだ。

 それでは人はどうしたら、そんなに底抜けにほがらかになれるのだろう。それは持って生まれた性格だろうか。私のような陰鬱なたちの人間には、その秘密はよくわからない。

 しかし、私のような人間も、ときには心に中に晴れ間がひろがるように、ほがらかな気分になるときがある。たとえばゲーテの次のような言葉を目にしたりすると、なんだか訳もなくうれしくなる。

「人間は地上で楽しむためにはわずかの土塊があればいいのだ。地下で休むためには更にわずかの土塊があればいいのだ」(「若きウエルテルの悩み」より)

 幸せになるために、ほんとうは大それたものは何も必要ないのかも知れない。ただ自然に力を抜いて、この土の上に裸で立てばよいのだ。そして幼子のように目を細めて無心に空の青さを眺めること。しかし、そんな簡単なことが、実は一番難しいのだろう。


2002年03月30日(土) クーデタ計画の謎(4)

 林彪とその一派は、権力掌握を寸前にして、あえなく費え去った。林彪の権力争奪の企みは紅青グループ、周恩来らの抵抗によって失敗したが、彼らはこれをどのように位置づけていたのか。彼らが残したクーデタ計画書「五七一工程紀要」から一部を引用しておこう。

「毛沢東は真のマルクス・レーニン主義者ではなく、孔孟の道を行うものであり、マルクス・レーニン主義の衣を借りて、秦の始皇帝の法を行う、中国史上最大の封建的暴君である。・・・彼らの社会主義とは、実質的には社会フアシズムである。彼らは中国の国家機構を一種の、相互殺戮、相互軋轢の肉挽き機に変え、党と国家の政治生活を封建体制の独裁的家父長制生活に変えてしまった」

 この文章を読むと、林彪が毛沢東の暴政をかなり正しく認識していたことがわかる。しかし、わずか1年前に林彪は毛沢東を天才的なマルクス主義者だと讃えていた。毛沢東をもっとも極端に神格化し、個人崇拝をあおっていた元凶が林彪である。それもこれも、ただ自分が権力を握るための企みであったことがよくわかる。クーデターを警戒せよと主張した彼自身が、最後はクーデターを敢行し、毛沢東を抹殺しようとした。

 林彪は毛沢東を賛美し、文化大革命を押し進め、修正主義者のレッテルのもと多くの党員幹部を粛正した。そして中国を恐怖と不安のうずまく恐るべき密告社会にした。しかし、最後、彼の野心を砕いたのは、皮肉にも彼の娘による密告だった。林彪は自らが仕掛けた罠に、自ら落ちて自滅した。

 さて、最後に周恩来について書かねばならない。林彪事件ではっきりわかることが一つある。それは、毛沢東が最後に頼るのはやはり周恩来だということだ。このことを知っていて、周恩来はつねに気前よく、自分の上位に人を置く。

 彼は毛沢東という皇帝に宰相として使えた。毛沢東あっての周恩来であり、周恩来あっての毛沢東である。しかし中国共産党の歴史を見てわかるのは、周恩来は党内序列がNo2であったことはほとんどなく、彼と毛沢東の間には、必ず人がいるのである。そして、その人物は結局毛沢東によって粛正されるということだ。

 このことを周恩来は知っていたのではないかと思う。彼はNo1はおろか、No2でさえ目差さなかった。人はこれを周恩来の謙虚さや野心のなさのせいにするが、私の見方はすこし違っている。毛沢東王朝にあって、一番危険なのはNo2であり、毛沢東の後継者と目されることだとわかっていたためだろう。

 林彪が粛正された後、いやがうえにも、彼はNo2の位置に立たされた。もはや他に、適当な人材がいなかったからだ。周恩来の前には、秦の始皇帝や随の煬帝を中国の偉大な皇帝だったと讃えて憚らない無慈悲な皇帝毛沢東が聳え、後ろには、さらに恐ろしい陰謀家の江青がいた。

 周恩来は苦境に陥り、健康を急速に悪化させる。彼があとすこし生き延びていたら、劉少奇と同じ運命をたどっていなかったと、だれが断言できようか。しかし、それもこれも彼自身の身から出た錆ではないだろうか。周恩来は1976年1月8日になくなった。周恩来は結腸、膀胱、肺を癌に冒されていたという。

 しかし、癌に冒されていたのは、中国という国家そのものがそうだった。江青グループも元凶のひとつだが、最大の癌は、いうまでもなく毛沢東その人だった。そして癌をのさばらせた元凶は周恩来その人だった。彼の死後、意外な新人が首相の地位につく。華国峰である。1976年9月9日、毛沢東が死ぬと、彼は早速先手を打って江青グループを逮捕する。こうしてようやく、中国は再生へとその第一歩を踏み出すのである。

(少し長い文章を4回に分けて連載した。推敲をしなかったので、生硬な文章になってしまったが、読んで下さった方々には感謝します。この文章を書くに当たって、横浜市立大学教授の矢吹晋さんのHP、「矢吹チャイナ・ウオッチ研究室」http://www2.big.or.jp/~yabuki/が大いに参考になった)


2002年03月29日(金) クーデタ計画の謎(3)

 1969年末の段階で、林彪グループは軍隊を直接掌握するほかに、中央と国務院の一部部門、一部の省レベル権力を掌握した。これに対して、江青グループは政治局に張春橋、姚文元、汪東興(毛沢東のボデイ・ガード、のち党副主席)を送り込んだものの、国務院や軍内にはいかなるポストも持っていなかった。

 しかし、江青はすぐに巻き返しに入った。きっかけは林彪が憲法のなかに、「毛沢東が天才的に、創造的に、全面的に、マルクス主義を発展させた」とする記述を書き込もうとしたことだった。これを「毛沢東を天才としてもち上げることによって、その後継者としての林彪自身の地位をもち上げる作戦」と考えた江青は、この改正に断固反対した。

 1970年8月23日の二中全会の冒頭で、林彪は予定どうり毛沢東天才論をぶち、翌日の分科会では、陳伯達、呉法憲、葉群、李作鵬、邱会作がそれぞれれ天才論を支持するとともに、これに反対する江青グループを攻撃した。さらに林彪を国家主席にすることが決議された。

 これに対抗して25日、江青は張春橋、姚文元を率いて毛沢東に会い、これが林彪が権力を独占するための野心と陰謀だと訴えた。林彪一派の勢力拡大に脅威を感じていた毛沢東は、すぐに政治局常務委員会拡大会議を召集し、二中全会の休会を提起した。その一方で周恩来と協力して、林彪グループの追い落としに着手した。

 31日、毛沢東は「私のわずかな意見」を書いて、陳伯達を名指し批判した。これをうけて、再会された会議で、陳伯達が批判され、さらに呉法憲、葉群、李作鵬、邱会作の誤りも批判された。こうして9月6日二中全会が閉幕したとき、わずか10日間で情勢は劇的に変わっていた。

 合法的、平和的に毛沢東から権力を奪取することに失敗した林彪は、このあと軍部によるクーデタを画策するようになる。一方毛沢東も林彪一派に対する警戒を深め、彼らを名指しで批判するようになる。

 翌1971年9月5日、林彪、葉群は毛沢東が彼らの陰謀を察知したことに気づき、毛沢東謀殺を決定した。9月8日、毛沢東は南方巡視中に林彪一派の異様な行動を報告され、旅行中に謀殺される危険があることに気付いた。そこで専用列車を急遽紹興まで運行させ、そこに停止させた。こうして謀殺計画をはぐらかして、12日には北京に無事戻った。

 12日に謀殺計画の失敗に気付いた林彪は、翌日広州に飛ぶべく12日夜256専用機を秘密裡に山海関空港に移させた。北戴河で静養していた林彪、葉群、林立果と合流して、翌13日、広州へ飛ぶ予定だった。そこで体勢を立て直して、反撃しようと考えたようだ。

 ところが、その夜10時過ぎに、他でもない林彪の娘林立衡が、この逃亡計画を周恩来に密告してきた。周恩来は空港を管理する部隊に256号機の離陸をさしとめるように指示するとともに、毛沢東にこのことを知らせた。

 異変に気付いた林彪は予定を早めて、その夜零時ごろ、空港へ向かった。そして、前に立ちはだかる武装部隊の制止をふりきって、256号機を飛び立たせた。飛び立った飛行機は一旦北京に向かったが、すぐに進路を変えて西北をめざした。そして1時55分、256専用機はモンゴル共和国内に進入し、やがてそこに墜落した。

 確認されたのは9つの遺体で、林彪、葉群、林立果、劉沛豊、パイロット潘景寅、そして林彪の自動車運転手、専用機の整備要員3名。副パイロット、ナビゲーター、通信士は搭乗していなかった。燃料切れの情況のもとで、平地に着陸しようとして失敗し、爆発したものと推定されるという。

 つづく


2002年03月28日(木) クーデタ計画の謎(2)

 羅瑞卿の粛清は林彪を勢いづかせた。軍内の掌握を完全にしただけではなく、他の指導者たちにも恐怖心を与えることができた。羅瑞卿が勢力を持っていた公安部の副部長、司局長、省市レベルの公安局長も連座し、その職はことごとく林彪の一派で占められていく。

 林彪はクーデター計画をねつ造して、その他の有力者も一掃した。そうすると、あと残るのはただひとつである。いうまでもなく、劉少奇国家主席を失脚させることだ。しかし、これはもう時間の問題だった。林彪によって実権派の有力者4名が粛正された時点で、勝負はついていた。手足をもがれた劉少奇に、いかほどの権力も残っていなかった。

 1966年7月29日人民大会堂で文化大革命積極分子による一万人大会が開かれ、劉少奇はこの大会でこう述べた。「文化大革命をどうやるのか、君たちが知らないならば、われわれに聞きに来給え。私は正直に言うが、実は私も知らないのだ」

 劉少奇国家主席として毛沢東につぐNo2の位置にあったが、決して野心家ではなかった。毛沢東を尊敬することでは他にひけをとらなかった。だから、文化大革命についても、その理想を額面通り受け止めていた。彼が文化大革命が実は毛沢東個人崇拝を復活させ、自分たちを失脚させるための権力闘争だと気付いたとき、彼はすでに完全に武装解除されて包囲されていた。

 1966年8月、八期一一中全会が開かれた。毛沢東は「司令部を砲撃しよう──私の大字報」を書いて会議場に掲示させた。砲撃されるべき司令部が劉少奇であることはいうまでもなかった。劉少奇はナンバー2の地位からナンバー8に落ちた。実権派と認定され、実質的にポストを外された。

 劉少奇に代わって、No2に昇格したのは、No6の林彪だった。彼には党副主席の肩書きが与えられた。一気に、朱徳、周恩来、陳雲を飛び越えて、59歳の林彪がこの栄誉を手にすることになった。その背景に、彼の熱烈な毛沢東崇拝と、軍事力があった。しかし、かれの毛沢東崇拝がまっかな偽りであったことがやがてあきらかになる。

 No2に昇格したとはいえ、彼の権力基盤はまだ盤石とはいえなかった。軍隊の内部にも実務派を支持する勢力はあった。地方の軍司令官もまだ多くはゆれていた。その象徴は1967年5月13日の武闘と7月20日の武漢事件であろう。いずれも実権派と造反派の武力衝突だが、なかでも武漢事件では毛沢東が実権派の軍隊に軟禁されるという不祥事が発生し、周恩来の説得で毛沢東はようやく解放されてことなきを得た。この数年間の中国は、たしかに内乱状態一歩手前といってよかった。

 しかし、こうした小刻みな闘争を経て、林彪は確実に勢力を拡大していった。そして、1969年4月の第九回党大会で、彼は生涯の絶頂期を迎える。林彪は軍内を基本的に掌握し、党のレベルでは唯一の副主席として、腹心を政治局と中央委員会に多数配置できた。軍隊だけでなく、党、政府、地方レベルでも、林彪グループに鞍替えするものが続出した。党大会で採択された党規約のなかに毛沢東の後継者として林彪の名前がはっきりと書き込まれた。

 八期の中央委員195人のうち、九期中央委員として留任したのは53人にすぎず、わずか27%である。陳雲、陳毅、李富春、徐向前、聶栄臻らは政治局を追われ、劉少奇、Deng Xiaoping 、彭真、彭徳懐、賀竜、ウランフ、張聞天、陸定一、薄一波、譚震林、李井泉、陶鋳、宋仁窮らは大会にさえ出席できなかった。(このとき選ばれた21名の政治局委員のうち、半数以上の12名がのちに林彪、江青グループとして処分された)

 第九回党大会でかっての国家主席劉少奇は正式に党を除名された。党内で幹部の審査工作を行ってきた江青グループの康生が、劉少奇が活動中に当局に逮捕されたあと釈放された経歴があることに注目し、これをもとに彼を当局のスパイにデッチ上げた。中央委員会がこれを認め、1969年年11月12日劉少奇は裏切り者の汚辱を着せられたまま惨死した。

 これによって、実権派はすっかりなりをひそめた。しかし、実権派が後退した後、林彪の前に、江青グループというあらたな敵が立ちはだかった。そして、このあと彼と彼のグループはアッという間に、権力闘争の罠に落ちて、奈落の底へ転落していくのである。

 つづく


2002年03月27日(水) クーデター計画の謎(1)

 何事もそうだが、歴史も少し視点を変えてみると、また思いがけない真実が浮かび上がってくるものだ。これまで現代中国の政治を論じたほとんどの書物は、毛沢東は問題があったが、周恩来は立派だったという「周恩来善玉説」である。しかし、この通説に私は疑問を呈してきた。今日はこうした立場から、林彪によるクーデター未遂事件を取りあげてみたいと思う。
 
 文化大革命のなかで、一人の人物がのしあがってきた。林彪(1907年〜1971年)である。彼は1969年4月の第九回党大会で毛沢東の後継者としての地位を手に入れ。毛沢東の親密な戦友と讃えられた。ところがその2年後、71年9月に毛沢東暗殺に失敗し、飛行機で逃亡中にモンゴル領内で墜死した。この事件の背後に何があったのか。

 毛沢東のすすめた「大躍進」をもっとも痛烈に批判したのは、当時国防部長の要職にあった彭徳懐だった。1959年の夏廬山会議で毛沢東は彭徳懐を失脚させ、のちに惨殺させた。そして、その後釜に林彪を据えた。林彪は革命活動の初期から毛沢東のもとで働いており、毛沢東にとっては安心できる腹心だった。

 こうして軍事委員会を牛耳るようになった彼は、毛沢東個人崇拝をおしすすめ、毛沢東の庇護のもとに異分子を排除し、軍部を自分の息のかかった部下で固め、実力をつけていった。大躍進路線の失敗が追求された1962年の七千人大会では、「この数年の誤りと困難は毛主席の誤りではなく、逆に多くの事柄を毛主席の指示通りに行わなかったことによってもたらされたものである」と最大限毛沢東を擁護し、周恩来とともに毛沢東を窮地から救った。

 1966年5月、政治局拡大会議の席上、林彪は反革命のクーデター計画があると発言し、その首謀者として、彭真(北京市長)、羅瑞卿(総参謀長、副総理、中央書記処書記、国防部副部長)、陸定一(中央宣伝部部長)、楊尚昆(機密、情報、連絡担当、中央弁公庁主任)らの名前を挙げた。

 この頃林彪は紅青(毛沢東夫人)など四人組と組んで文革路線を押し進めようとしていた。そのため、その障害になる反文革派のこの4人をまず粛正する必要があった。とくに彼の部下でありながら文革に批判的な羅瑞卿の粛正は、彼が副総理として軍部の実権を握っていただけに絶対に必要なことだった。

 さすがに毛沢東もこの主要な4部門の責任者を粛正することには反対だったが、彼らを摘発することが修正主義者による奪権を防ぐことになると力説する林彪にしぶしぶ同意を与えた。羅瑞卿は逮捕された後飛び下り自殺を図り、重傷を負った。毛沢東は生まれて初めて意に反して、他人の意見に同意したと、江青に宛てた手紙(1966年7月8日)に書いている。(林彪失脚後、羅瑞卿の名誉は回復された)

 つづく


2002年03月26日(火) 愚忠をつらぬいた周恩来

 1953年にスターリンが死んだ後、その後継者となったフルシチョフは1956年2月のソ連共産党第20回大会で、スターリン支配下の個人崇拝と不法な抑圧や処刑を批判した。いわゆる有名な「スターリン批判」の始まりである。

 毛沢東はこれに驚いた。なぜなら、彼こそ中国のスターリンであり、スターリン批判は、そのまま毛沢東個人崇拝への痛烈な批判になりかねないからである。事実56年9月の八全大会は、基本的にソ連共産党第20回大会の新政策を是認し、党規約からは「毛沢東思想」という言葉が消えた。これを主導したのは、党内序列のNo2とNo3を占めていた劉少奇と��小平である。

 焦りを覚えた毛沢東は先手を打って、人々から自由な意見を求めるとした百家争鳴・百花斉放運動を始める。ところがこれが裏目に出た。中国共産党や毛沢東に対する批判がさらに吹きだしてきたからである。これに不安を覚えた毛沢東は、態度を一転して、彼を批判する者はプロレタリア革命に対する敵対者だとして、「反動者」のレッテルを張り、弾圧した。これが有名な「反右派闘争」と言われるものである。

 さらに1958年、毛沢東はソ連やアメリカに対抗するため、中国の国力の「大躍進」を掲げて、急激な工業化・農業の集団化など無理な政策を推し進めた。その結果、食糧生産力が破局的に低下、中国全土に大飢饉が発生。この飢饉による死者は何千万と言われ、日中戦争(約2000万)を数倍する被害を出した。

 これにはさすが身内からも多くの批判が起こった。1959年4月、毛沢東は国家主席および国防委員会主席を退き、党務に専念することとなった。フルシチョフのスターリン批判から3年を経て、中国共産党も毛沢東の個人崇拝からおもむろに劉少奇、��小平、周恩来を中心とする「集団指導体制」へと、政治機構の近代化を遂げるかに見えた。

 ところが、毛沢東はこの変化をよく思っていなかった。59年から62年にかけては新国家主席劉少奇を中心に、経済復興がはかられ、ようやく安定化へ向かいかけており、劉少奇の現実路線を支持する人々は、��小平をはじめ、党中央、政府機関のなかでも圧倒的多数をしめていた。これが毛沢東の孤立感をさらに深めた。

 そこでこれに対抗するために、毛沢東は65年10月北京を脱出し、上海において「プロレタリア文化大革命」を発動した。劉少奇路線のなかにソ連におけるような党官僚主義、専門家尊重、経済主義的偏向があるというのである。その後、中国がどんな悲惨なことになったか、映画や小説にも描かれているので説明するまでもないだろう。

 こうした中国の現代史を振り返ってみて、そこにうき彫りにされるのは、毛沢東の権力志向のすさまじさである。彼の後継者と目された劉少奇、��小平、林彪など、No2はいずれも粛正された。ひとり、周恩来だけが、その荒波をくぐり、何とか晩節を全うすることができたが、その秘訣はといえば、ただ毛沢東を決して批判せず、その忠実な下僕となって、彼をひたすら崇拝し、神格化することによってであった。

 周恩来なかりせば、毛沢東の偉業はなかった。と同時に、度を外れた毛沢東の悪行の数々もなかっただろう。私は周恩来をあえて、「人類史上まれにみる極悪人」と呼んだ。なぜ、私が周恩来を毛沢東以上に巨悪だと考えるか、以上に述べたことから、その一端を理解してもらえたらありがたい。

 周恩来はなぜこれほどまでに毛沢東に忠愚を貫き通したのであろうか。ここに一つの大きな謎がある。周恩来を擁護する人々は、毛沢東に対する個人崇拝が破られれば、中国は内戦状態に陥っただろうという。しかし、私はそうは考えない。

 フルシチョフによる「スターリン批判」があったあと、中国は「毛沢東個人崇拝」を脱却する方向に一時動きだした。これは時代の要請であり、これによって中国はスムーズに国の近代化や民主化をはかることができた筈である。そうすれば、中国の現代史ははるかに明るく、美しいものになっていたし、毛沢東自身も歴史上の偉人として、私たちの胸にいつまでも輝き続けに違いないのである。

 その、歴史上のターニング・ポイントを握る人物こそ周恩来その人であった。毛沢東の手足となり、毛沢東の命令を忠実に実行することで、彼は毛沢東と常に一心同体だった。そして国政上の実権を握っていた彼のこうした暗愚が、中国を恐るべき恐怖と貧窮の王国と化したのである。その後遺症は、今も中国大陸に住む十数億の人々の上を覆っている。


2002年03月25日(月) 毛沢東の真実

 最近、毛沢東に関する興味深い一冊の本を読んだ。「毛沢東の私生活」(文春文庫上、下)である。著者は二十数年間に渡って毛沢東の主治医を勤め、彼の臨終を看取った李志綏 という人である。

 毛沢東の一番近くにいた人物によって、毛沢東と彼を中心とする中国共産の赤裸々な真実がここに描かれている。彼はこの本をアメリカで出版した。おそらく命がけのことだったと思う。北京政府はただちにこの書物を発禁処分にした。しかし、それでことはすまなかった。

「もし私が殺されてもこの本は生きつづける」という著者の予言がすぐにほんとうのことになった。著者は本書が発売された3カ月後、シカゴの自宅浴室で遺体となって発見されたからだ。

 毛沢東の前でひざまずく忠犬のような周恩来の姿、そして愛人に溺れ、口げんかをして心筋梗塞におそわれる毛沢東の姿。取り次ぎ役を自認じていたその愛人が昼寝をしているため、2時間も待った後ですごすごと帰っていく華国峰首相の姿。そして文化大革命の嵐の中で、自裁に追い込まれていく人たち。

 著者はまた、数千万人が餓死している中で、毛沢東の家で催される豪華なパーティを様子を冷静な筆で描く。この本に描かれてあることを真実と認めるのは、毛沢東や周恩来を崇拝する人には、かなりの勇気がいることかもしれない。
 
・・・・・・・・・・・・資料1・・・・・・・・・・・・・

産經新聞1994年7月18日付

 【ワシントン17日=熊坂隆光】中国で毛沢東主席が実権を掌握していた1950年から76年の間に、急進、過激な経済政策の失敗により伝えられるよりはるかに多数の人民が死亡し、文化大革命の犠牲者などを合わせると死者数は8千万人にも及ぶことが明らかになった。17日のワシントン・ポスト紙が報じたもので、毛主席にその責任があると論評している。

同紙は、この数字について中国や西側学者の研究と同紙独自の調査を総合した結果としており、具体例を挙げて数字の正確さに自信を示している。経済政策の失敗や文革の犠牲についてはこれまでも研究や報道があったが、大幅に塗り替えられることになる。

 同紙によると、死者の多くは「人災」と断定できる飢きんによる犠牲者。原因のほとんどは大躍進政策を強引に推し進め、西側に追い付こうと農業生産より工業生産を重視した毛主席の誤りとしている。プリンストン大現代中国研究センターの陳一諮氏によると安徽省の飢きん(59−61年)では、4300万人が死亡したという。

 中国社会科学院が89年にまとめた581ページに及ぶ調査資料によると、この飢きんでわが子を殺して食べてしまった例や人肉が商品として取引された例などが記録されているという。このため中国政府自身がある程度実態を把握しつつあるのではないかとみられる。

 こうした数字が事実とすると、毛主席はスターリンなどを上回る史上まれにみる残酷な指導者ということになるが、同紙は、毛主席が依然として中国で尊敬され評価されていることに疑問を呈している。

・・・・・・・・・資料2・・・・・・・・・

「愚忠をつらぬいた宰相」 http://www2.big.or.jp/~yabuki/doc5/mz196.htm

このような周恩来讃歌に真向から挑戦して、周恩来のもう一つの顔を描こうとしたのが、香港の政論家金鐘である。

金鐘によれば、周恩来は遵義会議以後、四〇年間一貫して毛沢東に対する「愚忠」を貫いたという。文革においてもし周恩来の存在がなかりせば、毛沢東、林彪、江青の失敗はもっと早く、かつもっと徹底したものとなったであろう。文革における周恩来の役割は結局のところ、毛沢東の独裁的統治に有利であった。

文革期に湖南省省無聯が「中国はどこへ行くのか?」を書いて、周恩来を「中国の赤色資本家階級の総代表」と攻撃したが、まさにその通りであり、周恩来こそ共産主義官僚体制の集大成者であり、この体制の凝固化を助長した人物であった。

周恩来は自己の私欲を抑えることヒューマニズムに反するほど甚だしく、党派性と徳性のほかには自我のなかったような人物であって、まさに現代の大儒にふさわしい。

金鐘はこのように辛辣な周恩来評価を行っている。実は大陸の知識人の間にも、類似の厳しい周恩来評価が存在している。たとえば呉祖光(劇作家、八七年の胡耀邦事件以後、共産党を離党した)は、かつて来日した際にズバリこう述べている。

「周恩来は宰相であり、皇帝の地位にはいなかったが、宰相としての職責を果していなかった。皇帝(毛沢東を指す)が過ちを犯した場合、宰相(周恩来)が諌めるべきだが、そうしなかった。しかし、諫言していれば、彭徳懐(元国防部長)と同じ運命をたどったであろう」。

奇妙なことに、毛沢東批判に関するかぎり、中国大陸でもかなり深い分析が行われるようになってきたが、周恩来についてはまだ厳しい批判が少なくとも活字には登場していないようである。その理由として考えられるのは、次の事情であろう。

まず第一に、社会主義建設期の二つの大きな誤り(大躍進政策と文化大革命)は毛沢東の提唱したものであるから、この点で毛沢東はいわば「主犯」である。周恩来は「従犯」にすぎない(むろん、ここで周恩来が協力したからこそ、矛盾の爆発、顕在化が遅れたとして、周恩来の役割を強調する、省無聯や金鐘のような見方もある)。

第二に、ソ連では長らく、レーニンの権威に依拠して、スターリンの誤りを批判する時期がつづいた。レーニンを含めてソ連社会主義を、全体として批判的に総括する動きが出てきたのは、ゴルバチョフのペレストロイカ以後のことである。

中国では革命と建設双方の当事者だという意味で、毛沢東はレーニンとスターリンの役割をかねていた。そこで中国ではレーニンの役割をはたした毛沢東を評価しつつ、スターリンの役割をはたした毛沢東を批判するという使いわけがおこなわれてきたのである。肝心の毛沢東評価でさえ、このように曖昧さを残したものである以上、矛先が周恩来まで届かないのも当然であった。

それだけではない。長きにわたって神格化された毛沢東を批判することに伴う心理的動揺を、周恩来の存在によって補償しようとする心理状況が、広範に存在していたことも否めない。この場合、過ちを犯した厳父と対照して、周恩来は慈母のごとくである。周恩来に関してはとくに「棺を蓋うて論定まる」段階にはまだ到っていないことがわかる。


2002年03月24日(日) 国家権力の恐怖

 北さんがあまりに周恩来を持ちあげるので、すこし反対意見を書いてみたくなった。平成9年(1997)にフランスで刊行された「共産主義黒書」によると、中国共産党の専制支配による犠牲者は6500万人だそうだ。

 これはヒトラー・ナチズムによる犠牲者2,500万人をはるかに上回って、断然人類史上最悪の数字だと言える。ちなみに悪名たかいカンボジアのポルポトによる犠牲者は200万人だから、その30倍をこえている。

 毛沢東は、「1949年から54年までの間に80万人を処刑した」と自ら述べているが、周恩来もこれを受けて、1957年6月の全国人民代表大会報告で、1949年以来「反革命」の罪で逮捕された者のうち、16%にあたる83万人を処刑したと公式に報告している。その後、悪名高い大躍進運動や文化大革命が起こって、2000万人以上が死に追いやられ、その間の失政で、2,000万人から4,300万人がさらに餓死しているらしい。

 こうした巨悪の体制を、周恩来は毛沢東とともに実質上指揮してきた。毛沢東が死んだ後は、英雄のように祭られているが、常識的に考えてもこれはおかしい。私はつねづね周恩来こそ人類史上まれにみる極悪人だと考えているのだが、いまだ、彼を賛美する人が絶えない。

 1947年3月の動員大会で周恩来は、「われわれには毛主席の直接指導があり、必ず勝ち戦さができる。延安を防衛せよ、毛主席を防衛せよ」という有名な演説をした。毛沢東を神格化した元凶は周恩来である。彼が文化大革命に乗り気でなかったという話があるが、彼がこのすさまじい犠牲を看過し、毛沢東の忠実な下僕であり続けたことはまぎれもない事実である。

 なおついでに書いておくとに、1997年11月6日、モスクワ放送は「10月革命の起きた1917年から旧ソ連時代の87年の間に6,200万人が殺害され、内4,000万が強制収容所で死んだ。レーニンは、社会主義建設のため国内で400万の命を奪い、スターリンは1,260万の命を奪った」と放送したという。北京放送が真実を伝える日はいつのことだろう。

 (参考サイト)「虐殺事件の犠牲者数」http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/kak2/1209301.htm


2002年03月23日(土) いのちが一番

 ここ数年、血圧が上昇していて、健康診断をうけるといつも要注意だと言われる。検査の結果が悪いので、養護の先生が保健室に呼んで測ってくれたが、何度測っても値が出ないので、最後はベッドに寝て、一休みしてから測った。それでもかなり高い値だった。

 血圧が高い理由は、たぶんストレスだろう。少し前まで最高血圧が100を切っていて、むしろ低血圧だと言われていた。それが一転して160を超える高血圧になったのは、ストレスの多い環境に身を置くようになってからだ。

 最近は血圧の他に、心電図でも異常が出るようになり、ときどき胸が苦しくなる。そんなとき、ふと、死を思う。今ここでぽっくり死んで、何か不都合はあるだろうかと考える。まあ、死にたいとは思わないが、死んで悪いとも思わない。50歳を過ぎれば、あとはもうけものの人生だと、日頃から思っているので、とくに不満があるわけではない。

 養護の先生は、病院へ行って治療してはどうですかとすすめてくれるが、私は病院が嫌いだし、薬で症状を抑える気にもならない。そうした対症療法がなんだか姑息に感じられるのである。むしろ、ぽっくり死ねば、それはそれでもうけものだなどと考えてしまう。とはいえ、健康で長生きできれば、それにこしたことはない。

 そこで、なるべく血圧が上がらないように、生き方を変えてみよう思っている。小さなことでくよくよしないで、何事も腹八分目をよしとして、とにかくあまり頑張らずに、なるべくのんびり構えること。50歳を過ぎたら余生だと考えて、肩肘をはらずに、気ままに生きて行くのがいいのではないだろうか。

 せせらぎに まなこつむれば 春の風   裕


2002年03月22日(金) 見えない努力

 中学生の長女が、高校は普通科ではなく、看護科にすすみたいと言い出して、看護科のある県立高校のパンフレットを見せたとき、私は「大学へ行かなくていいの?うちは借金があって貧乏だけど、大学くらいは出してあげられるよ」と一応確認した。「看護婦になりたいから」と長女。妻も私も長女のこの選択に反対しなかった。

 道端で身をかがめて具合悪そうにしていた見知らぬ人に、通学途中の長女が近づいて親切に話しかけていた、そんな情景を近所の人が見ていて、「感心ですね」と話してくれたことがある。まあ、そんな面倒見のいいやさしいところがあるので、看護婦にはむいているかなとも思った。

 その長女が高校に進学して、2年生が終わる頃、国立大学の看護学科に進学したいと言い出したとき、私は意外だった。そして、まずそんなことが可能だとは思わなかった。長女は中学時代はテニスであけくれた感じで、勉強は得意な方ではなかった。推薦で県立高校の看護学科に入ったので、受験勉強らしいこともこれまでしたことがない。

 高校に入ってからも近所の歯医者でアルバイトをしたり、デートをしたり、漫画を読んだりばかりで、ろくに勉強している様子はない。これで難関の大学入試に合格できるなど、虫がよすぎると思った。しかし、またどうして、急に大学進学を考えるようになったのか。

 部活動で一緒だった先輩が、とてもいい先輩で、その先輩の進学した大学へ行きたいということも一つ、アルバイト先で出会ったとても知的で魅力的な大学生の影響、そして病院での実習体験も大きかったようだ。進路を看護婦に限定しないで、もう少し広く考えて、さまざまなことを学びたいと思ったのだろう。しかし、現実はそれほど甘くはない。いまさら手遅れではないかと思った。

 予想した通り、共通一次(センター入試)の点数は、英、数、国とも、あまりぱっとしない。同じ高校から受験するA子さんと比べても、はるかに低い点数である。きくところによると、A子さんは1年生の頃から大学進学に照準を合わせて、河合塾に通って勉強したのだという。長女の場合、塾はおろか、模擬試験をうけた形跡もない。とても受験生とは思えない暢気で優雅な生活だった。

 ところが、ふたをあけてみると、高得点のA子さんが不合格になって、長女が合格した。妻は涙を流して喜んでいたが、私はなんだかキツネに化かされたような気持である。世の中には不思議なこともあるものだと思った。

 こうしたことが起こったのは、大学入試が多様化して、大学が学力だけで合否を決めなくなったせいだろう。長女の場合は共通一次の成績は悪かったが、小論文や面接の成績がよかったようである。

 長女は中学生の頃から看護婦になりたいと言っていたので、志望の動機などはかなりしっかりしていた。その上に、歯科でのアルバイト体験や、1ヶ月近くあった病院での実習も自分の進路を考えるよすがになった。一般の受験者と違って、こうした現場に身を置いた体験の重みは大きい。

 あとで知ったことだが、ノートに医療関係の新聞の記事を切り出して、医療問題について自分なりに考えていたようである。親の知らないところで、本人なりに努力していたということだろう。あまり、「奇跡だ」などと騒ぎ立てるのは、本人に対して失礼かも知れない。

 長女は高校では合唱部と数学クラブに入っていたが、面接官の一人が「数学というのはどんな学問ですか」と訊いてきたらしい。長女は父親の口癖を思い出して、即座に、「数学で大切なのは、証明です」と答えたらしいが、これでいくらか点数が稼げたのかも知れない。まぁ、私も少しは貢献したわけだ。

 大学生になった娘は、歯医者のアルバイトがいそがしくて、ほとんど家では勉強しないと言う。それでも英語や中国語の授業は面白いというし、何とか及第点をもらえたようだ。専門の看護科目については、昔取ったなんとかで、最高点だったと喜んでいたが、すぐに天狗になる性格は私に似ているのだろうか。ともあれ、大学の入試がこうした形で変わっていくことは、とてもよいことだと思わずにはいられない。


2002年03月21日(木) 受験体制と安楽な精神主義

 昨日の朝日新聞の「私の視点」に法政大学教授の川成洋さんが、「昨今の大学生の学力低下はすさまじい」と書いている。川成さんによると、現在、国立大学の6割がリメディアルと称する高校指導内容の補習教育を実施しているのだという。

 どうしてこうした状況が生まれたのか、川成さんは「ゆとりの教育」が原因だという。そして、大学入試の形骸化がこれに拍車をかけている。たとえば、私大の場合は学力検査をいっさい行わない推薦入試やAO入試で、定員の6割も入学させている。

「おためごかし的な入試を一切やめて、学力テスト一本に絞るべきである。それも、入試科目を5教科に増やして、高校卒業の基礎学力を持たない学生は入試段階でチェックすべきである」

 私も大学生の学力崩壊や「大学のレジャーランド化」を憂える点で、川成さんとかわらない。ただその処方箋については、大学入試を学力試験に一本化し、受験科目数を増やすという、受験体制強化を目差す川成案には賛成できない。これは一つの対症療法にはなろうが、根本的な解決にはならないと考えるからである。

 その理由については、これまでこの日記に繰り返し書いてきた。「何でも研究室」の「数学World」には、それらがまとめて再録してある。そこに詳述してあることを一言にまとめるのは難しいが、要するにほんとうの学力は「思考力を鍛える」ことによって得られるということである。

 この観点から考えて、私は大学入試に学力検査は必要ないと考える。5教科はおろか、1教科も必要ではないと思っている。そのかわり、国語と数学について、大学入学のための資格試験を実施する。これに合格すれば、すくなくとも学力的にはよしとするのである。

 大学生の学力崩壊は受験体制を強化しても無理である。ますます勉強嫌いを大量生産し、姑息な計算ばかり達者で、自ら主体的に考えることの苦手な、「安楽な精神主義者」を大量生産するだけである。受験のための勉強から生まれるのはこうした怠惰な精神であり、それが今日本を覆っている。学生ばかりではなく、学生の学力低下を嘆く教授たちさえ、その例外ではない。

 しかし、生徒たちを受験のための勉強から解放することで、問題は解決するだろうか。受験体制をゆるめれば、多くの人はその先に「さらなる学力崩壊」を予想するのだろうが、私はこの点でかなり楽観している。

 それはほとんど受験勉強のない他の先進国の状況をみればあきらかだからだ。日本の大学生の知的レベルが低いことの本当の理由は、実は大学自身のあり方に根本的な原因がある。しかし、受験体制の勝者によつて今の大学が支配されている現状では、大学の改革もむつかしい。

 彼らをはじめ日本の教育界の指導者たちの多くは、自分の成功体験を唯一無二のものと考える「安楽な独善主義」に汚染されている。彼らに欠如しているのは、事柄の本質をつきつめて考える力、つまり私が「ほんとうの学力」と呼ぶところの「思考力」に他ならない。


2002年03月20日(水) 安楽な批評家

 私は基本的に評論家が嫌いである。なかでも嫌いなのが教育評論家。あれこれ立派なことを言うが、言うは易く、行うのが難しいのが育児や教育である。新聞の投書などでも、随分立派なことを書く人がいるが、実際、現場に立ってみると、なかなかそう思ったようにはことが運ばない。

 以前に塾の先生が「塾では授業崩壊が起こっていない。そのことを学校の教員はよくよく考えるべきだ」などと新聞に書いていたのを見て、「塾と学校の違いもわからずによく書くなぁ」と腹立たしい思いをしたものだ。

 以前に中学の教師に平手打ちを食ったと訴えた女生徒にたいして、東京地裁が学校側の非を認める判決を言い渡した。この判決について、私は何も不満はないのだが、そのときの判決文の内容に、首を傾げたことがある。

「体罰を加えるからにはよほどの事情があったはずだというような積極、消極の体罰擁護論が、いわば国民の本音として聞かれることは憂えるべきことである」

 体罰擁護論が国民の本音であって、どうしていけないのだろうか。裁判官は法に則り、判決を下せばよいのであって、それ以上、国民の思想信条に介入する必要はないし、またその権限もないはずである。国民の本音を「憂える」などというのは、思い上がりもはなはだしい。裁判官はいつから私たちに道徳を説くようになったのだろう。

 ちなみにこの判決文を、我が意を得たりとばかり引用したのが、朝日新聞の「天声人語」である。さらに国法に従って死の道を選んだソクラテスの言葉まで引用して、「実際にはソクラテスの道を選ばず、法などおかまいもなく体罰に走る教師が少なからずいる」と、こちらのほうも、大いに憂えている。

 教師は規則や法律を守らない生徒を野放しにするわけにはいかない。そのような生徒に対してどのような罰がふさわしいのか、体罰に代わる有効な方法を考えてみることが必要だろう。体罰反対を叫ぶのは簡単だが、それでは何ら教育問題は解決しないし、前進もしない。


2002年03月19日(火) 安楽な独善家

 私が「精神の安楽家」と呼んでいるものに、「安楽な懐疑家」「安楽な多元主義者」「安楽な独善家」がある。今日は「安楽な独善家」について書いてみよう。

 私たちの精神はともすると、あまり深く物事を考えずに、安易にひとつの結論にしがみつこうとする。たとえば円柱をみて、ある独善家はそれを四角だときめつける。それを別の角度から眺めたもう一人の独善家は丸だと主張する。そしてお互いに自説が正しいこと信じて疑わない。

「群盲象を撫でる」という諺があるが、これも同じような状況である。ある盲人は象の鼻を撫でて、それはホースのように長いといい、別の盲人は耳を撫でて、団扇のように平べったいといい、他の一人は脚を撫でて、丸太ん棒のようだという。いずれも象の全体像をわきまえずに、その部分を全体だと思って判断しているわけだ。

 しかし、私たちもこうした盲人を笑うことはできない。多かれ少なかれ、私たちは独善家であり、同じようなまちがいを犯して、他人を一方的に拒み、非難することがあるからだ。これに対して、懐疑家の盲人は象など存在しないというかもしれないし、多元主義者の盲人は、丸くて平べったくて丸太のような何かが象だと言うかも知れない。

 独善と懐疑はまるで反対のように考えられるが、その実、そうかけ離れたものではない。なぜなら、懐疑することに疲れた懐疑家は一夜にして独善家になることがあるし、独善家は自説が破られたとき、一気に懐疑家に変身することがあるからだ。

 つまり、懐疑と独善はコインの表裏であり、「精神の安楽主義」のそれぞれの側面に過ぎない。これに安楽な多元主義をくわえれば、おおむね、怠惰な精神の立体像が完成する。もう少し本質を言えば、○○主義者はおおむね精神の安楽家の代名詞だと考えて間違いないようである。


2002年03月18日(月) 日記のたのしみ

 日記らしいものを書き始めたのは高校生の頃からで、さかのぼってみると、もう30年以上も書いていることになる。なんのために書くのかといえば、書くことがたのしいからだ。世の中には、笛を吹くのが好きな人もいれば、テニスが好きな人、山登りが好きな人もいる。私の場合は、書くことが好きだった。

 もう少し正確に言うと、「いろいろと考えること」が好きなのである。書きながら考える、読書しながら考える、人と話をしながら考える、散歩しながら考える、音楽を聴きながら考える、そうしているうちに、書くことや、読書や会話、散歩、音楽を聴くことも好きになった。

 書いたものが溜まってくると、まとめて処分する。高校や大学時代の日記は、金沢から名古屋に来るときに処分した。冬の季節に、内灘の淋しい海にひとりで出かけて行って、長い時間をかけて波打ち際で燃やしたのを覚えている。

 その後、大学院時代や新米教師の頃に書いていた日記は、結婚と同時にすべて処分した。これはビリビリに破って、可燃物として出したような気がする。したがって、現在手元にあるのは、結婚してから、この20年間の日記帳十数冊だ。これを早く処分しなければと思いながら、ぐずぐずしている。これだけのものを処分しようと思うと、なかなか大変だ。

 最近の数年間は、インターネットに書くようになったので、数年後、これを消去することは簡単にできそうである。インターネット日記のよさは、こういう手軽さにあるのだろう。しかし、この手軽さが、精神の安楽主義を助長することもあるかもしれない。

  死ぬときは我が身がひとつ青い空   裕


2002年03月17日(日) 一枚の絵葉書

 部屋でパソコンに向かって、むつかしい文章を考えていると、高校2年生の次女が入ってきて、「詩らしいきものを書いてみたけど、ちゃんとできているか読んでみて」と言う。おやおやと思いながら、彼女のノートを受け取って、読み始めた。

「夏、あなたから一枚の絵葉書が届いた。
そこには私が見たこともない、真っ青で、どこまでも澄み切った海が、優しく、大地を浄化させるかのように続いていた。
私はホッとため息を漏らし、ゆっくり絵はがきを回した。同じコバルトブルーで書かれた文字に、思わず目が和み、高鳴る鼓動を感じながら、一つ一つを丁寧にゆっくり読んでいく・・・。思わず私の顔から笑みが零れる。
ーー目を閉じてあなたの声を追懐する。それは頭の中に響き渡り、やがて心の奥底にあなたの優しさを感じさせた。ーーー」

 一読後、「もう少し無駄な文字を削ったほうがいいね。そうすれば、少しは詩らしくなるよ」と私。首を傾げる次女に、「たとえば、こんな風に書いてはどうかな」と、傍らの紙に書き付けたのが、つぎの文章である。

    一枚の絵葉書

  夏、あなたから一枚の絵葉書が届いた
  見たこともない真っ青で澄み切った空
  大地を浄化させるような優しい海
  ため息をもらし、絵葉書をゆっくり裏返すと・・・
  コバルトブルーの文字に目が和み、鼓動が高まった
  ーー目を閉じて、あなたの声を追懐する
    あなたの声は私の頭の中に響き渡り
    私の心の奥底に
    あなたの優しさがしみとおる
    思わず私の笑みがこぼれる・・・

 次女は「ほんとうだね」と素直に感心して引き下がった。あとで居間に行き、妻の感想を聞くと、「あなたの書いた詩より、もとの文章の方がいい」という。その理由は、「なんだかきれいに整いすぎて、個性がなくて、面白くないから」だそうだ。「そうかなぁ」と少しがっかりした私。

  絵葉書に君のいる海しのびつつ  裕


2002年03月16日(土) 光の正体は何か

 ニュートンは光は粒子だと考えた。そうしてこの立場から、光の直進性や屈折現象、スペクトルの問題を考えた。これに対して、オランダ人のホイヘンスは光は波だと考えた。そうすると光の回折や干渉が容易に説明できる。

 光は粒子か波かという論争は、19世紀にイギリスのマクスウエルが「光は電磁波である」ことを示して、一応決着がついたかにみえたが、その後20世紀になって、アインシュタインが「光量子説」を唱えて、ふたたび、再燃した。

 金属に光を当てると、金属の表面から電子が飛び出してくる。これを「光電効果」と呼んでいるが、その様子を実験でくわしく調べてみると、光があたかもとびとびのエネルギーをもつ「粒子」のような振る舞いをしていることがわかる。こうした光の粒をアインシュタインは「光量子」と呼んだわけだ。

 アインシュタインと言えば「相対論」が有名だが、実は彼がノーベル賞を受けたのはこの「光量子説」に対してであった。彼は26歳のとき、「特殊相対論」を発表したが、その同じ年に、この「光量子説」も発表している。両者とも、まさにこれまでの科学の定説を覆すような画期的な発見だった。

 さて、このアインシュタインの論文によって、ふたたび光の粒子説が息を吹き返したわけだが、一方には光が「電磁波」であるという厳然とした「波動説」も存在するわけで、物理学者の頭は大変混乱してしまった。

 光は波動であると同時に粒子でもあると主張すればいいわけだが、実はこの主張の中には矛盾が潜んでいる。「波であること」と「粒子であること」は全く違った現象だと考えられていたからだ。ところが、光は同時にこの二つの属性をもっている。

 これは一見矛盾するようだが、物理学者はやがてこの矛盾止揚することに成功した。それは簡単に言えば、「光はそれを観測する方法によって、波の性質を表したり、粒子の性質を見せたりする」と考えるのである。光という実体のなかに、この二つの側面が含まれていると考えればいいことに気付いたわけだ。

 たとえば、ここにある図形Aがあって、ある人はそれを○だといい、ある人はそれを□だと主張したとしよう。Aが同時に○と□であることは一見矛盾のようだが、実はこの矛盾はAが平面上の図形だと考えるから起こってくるわけで、Aを円柱という立体として捉えることで解決される。

 波であり同時に粒子であるという相反する属性も、このように光を立体化してイメージすることで解決される。大学に入って量子力学を学んで、まず感動するのは、こうした「立体的な思考」のすばらしさである。考えてみれば、科学の歴史はこうした「立体的な思考」の宝庫だといえる。

 さて、付け加えておくと、その後、物理学者は光だけではなく、電子やその他のすべての物質が粒子性と波動性をともに持っていることに気付いた。こうしてアインシュタインの「光量子」から始まった物質についての新たな理論は、その後半世紀ほどかかって完成され、現代の物理学者はそれを「場の量子論」と呼んでいる。
 
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昨日の日記について、掲示板にスビンさんから、論理的であることは、真理が多元的、多様性を持つことを排除しない」というご指摘があった。たとえば、同じ幾何学でも、ユークリッド幾何学の他に非ユークリッド幾何学が複数存在している。論理性はむしろ多様性や多元性を支えているのではないか。

 スピンさんのこの説に賛成である。私の文章の舌足らずの部分を補っていただいたと思っている。私は真理というのは多元的で多様なものの統一体であると考えている。そして論理というのは、この多様性に秩序を与え、すっきりと統一する働きがある。

 まさに、論理があってはじめて、多元性や多様性が秩序として存在しうるのだろう。そのもっとも分かりやすい例は数学だろうが、今日は私が大学時代に学んで感激した現代物理学から、話題を拾ってみた。


2002年03月15日(金) 安楽な懐疑主義

 人と議論をしていて、こちらの旗色が悪くなったり、面倒になったりすると、「それも一つの考え方だね」と鷹揚にいなして、相手に悔しい思いをさせることがよくある。十人十色という諺があるように、人それぞれに異なった考え方があるのは当然だが、見解の相違ということで片づけられてはたまらないだろう。

 ある一つのことに対して、AとBの異なった見解が提出されたとき、そのいずれが正しいのか、徹底的に議論し、決着をつけるべきかもしれない。そうした妥協を排した厳しい論争や対話によって、ものごとの認識が弁証法的に深められ、私たちは真理へと一歩ずつ近づくことができるからだ。

 しかし、私を含めて、日本人はどちらかというと、こうした論争や対話が苦手なのではないだろうか。そして、「見解の相違」ということで、結局うやむやのうちに終わらせてしまう。こうしたことは、人と人の論争の場合だけではなく、思考という、一人の人間の内部で営まれる対話の場合も同様である。

 あるときはAだと言い、別の時はBだと考え、その両者の間に存在する矛盾について、つきつめて考えようとはしない。一人の人間がその時々に応じて、平気で矛盾することを主張するというのは、知的能力が劣っているか、人間的誠実さに欠落があるとしか考えられないのだが、おおむねこのようなことが何の疑問もなく行われている。

 これに対して、あくまで筋を通して白黒を鮮明にすべしというのが、西洋流の徹底した合理主義にもとづく考え方だろう。「真理は一つ」という立場である。これに対して、私たちは真理は相対的なもので、多元的であり、そもそも人知の及ぶ範囲のものではないと考える習性が身に着いている。

 真理に対するこうした考え方の違いは、それぞれのおかれた社会的風土や歴史によるところが大きいのだろう。いずれがいいのか、にわかには判定しがたいところだが、私たちの怠惰な精神はともすると懐疑主義の安楽椅子を求めがちだ。

 そして、真理の絶対性を説く相手に対しては、「まあ、それも一つの考え方だね」と、呪文のようにこの言葉をつぶやく。そうして、私たちは厄介な苦役を逃れた子どものような、ひそかな満足と安堵を覚える。


2002年03月14日(木) 川の流れのように

 私は川が好きで、昔からよく川のほとりを歩いた。福井にいた頃は、足羽川が私の散歩コースだったし、金沢に住んでいた頃は、犀川や浅野川を歩いた。名古屋では山崎川の近くに住んでいた。

 そして現在は木曽川のほとりに住んでいる。先月号のHPの表紙は私の家から10分ほど歩いた木曽川の景色である。向こう岸は岐阜県で、岐阜城のそびえる金華山が見える。伊吹山や御嶽山もみえて、すこぶる気分が爽快になる。

 ただ、気になるのは、木曽川にあまり生き物の姿が見えないことだ。川だけではなく、途中の田圃や小川にもそれらしい姿が少ない。今の子どもたちはこれが当たり前の景色なのだろうが、ドジョウやメダカ、カエル、トカゲ、亀やザリガニがわんさわんさといひしめいていた小川や田圃を知っている私たちの世代には淋しいことだ。

 農薬や除草剤、有機洗剤を大量につかうようになったことや、護岸工事で生態系が破壊されたことが大きいのだろう。おかげで農業生産性は飛躍的に向上したが、ほんとうにこれで大丈夫なのだろうかという不安を拭いきれない。

 木曽川に比べて、長良川はまだ生き物が豊かな印象を受けた。最近は知らないが、10年ほど前に家族で水浴びに行ったときには、水も澄んでいて、生き物も活発に活動していた。美しい清流は微生物をはじめたくさんの生物が棲み続けることで保たれる。生き物と川が共生することで、ほんとうにゆたかな清らかさが生まれるのである。

 こんなことを考えているうちに、私たちの体内を流れる川の存在に思い至った。人間の体内を流れる血液はたくさんの支流を持つ大河の流れと似ている。このかけがいのない流れを、これ以上薬物などで汚染させてはいけない。この体内の川が清らかであるということが、すなわち私たちが健康であるということだからだ。

 そしてそのために大切なことは、私たちの外にある自然をもういちど美しく甦らせることだろう。土壌や空気、水の汚染が、私たちの内部の川を汚染している。目先だけの生産性や効率を優先する文明のあり方を、根本的に変えていく必要がある。水俣病やイタイイタイ病の悲劇は終わってはいない。それは姿を変えて、しずかに今地球の生命を蝕みつつある。


2002年03月13日(水) 大切な共生菌バリア

 20世紀後半になって、フロンガスなどの人工的に作られた化学物質によって、大気圏が急速に汚染され、オゾン層の破壊が進んだ。オゾン層が希薄になると、強力な紫外線が地上にふりそそいでくる。そうすると、皮膚癌や白内障が増加し、免疫力が急速に低下する。

 被害は人間だけではなく、あらゆる生物に及ぶ。稲や大豆はまっさきに影響を受けるし、海中のプランクトンも大量死する。そうすると、これを餌にしている海の生き物も激減するだろう。人類にも食糧危機が襲いかかり、種の滅亡も考えられないことではない。

 前世紀後半になって、こうした恐るべきシナリオが科学者によって明らかにされたため、オゾン層の破壊から地球を守ろうという国際環境会議が開かれ、ウイーン条約やモントリオール議定書が結ばれ、交際協調が実現した。この結果フロンガスの使用や製造は規制された。現在もオゾン層の破壊は進んでいるから楽観はできないが、人類は何とか危ういところで破滅を免れることができそうである。

 以上はよく知られたオゾン層バリア崩壊の話だが、私たちはこの他にもさまざまなバリアによって生命や安全を守られている。国や社会、家庭も私たちが安全に生きていく上で必要な社会的バリアだといえる。知識や言語、法や道徳といった精神的バリアもある。こうしたものによって私たちは幾重にも守られて存在している。

 今日はもうひとつ、私たちのごく身近にあって、私たちの健康を守ってくれている共生菌バリアについて書いてみよう。オゾン層バリアの崩壊に続いて、共生菌バリアの崩壊が、いま人類をもう一つの危機に導こうとしているからだ。

 人間の皮膚にはブドウ球菌など雑多な細菌が何十兆と棲みついている。もしこの共生菌が失われたら、皮膚はバリアーを失って、外部からの病原体にさらされる。

 皮膚はそこで「顆粒菌」という防衛担当の細胞を繰り出して、病原菌の排除にとりかかる。そのとき排出される「活性酸素」が病原体もろとも皮膚の細胞を破壊し、皮膚を化膿させることになる。さらに、ダニなどの抗体が体内に入りやすくなって、アトピー性皮膚炎を生じるようになる。

 共生菌は皮膚以外にも棲んでいる。たとえばヒトの腸には乳酸菌や大腸菌など約100種類の細菌が100兆個ほど棲みついている。これらの細菌が食物の消化を助けたり、ビタミンを合成したりしている。さらには外部からの細菌感染にたいしてこれを予防する。

 ところが抗生物質や消毒剤が乱用され、清潔志向がすすんで、抗菌グッズのような商品が出回るようになった。共生菌の生活環境が悪化し、バリアが消失しようとしている。そしてその結果、私たちはアトピー性皮膚炎や花粉症といった厄介な病気を次々と背負い込むことになった。

 東京医科歯科大学の藤田紘一郎教授は現代の過度な清潔志向に警鐘を鳴らして、「ヒトは無菌の国では生きられない。寄生虫、細菌、ウイルスを含めた、すべての生物と共生することで、本当の健康は得られるのではないだろうか」(共生の意味論)と書いている。

 作家の五木寛之さんは頭や手を洗わないそうである。石鹸や消毒液のない生活はさぞかし不潔で健康上問題があると思うかもしれないが、彼は健康そのもので、いままでに医者にかかったことがないという。健康の秘訣は、あまり清潔志向に走らずに、いろいろな黴菌と仲良く共生することらしい。

 オゾン層の破壊については、私たちは随分認識が進み、国際協調も進んでいるが、もっと身近な皮膚や粘膜の共生菌バリアの消失については、その恐るべき弊害について、ほとんど無知なのではないだろうか。化学物質や薬物の規制についても、国際的取り組みが必要なときではないかと思う。


2002年03月12日(火) 体内環境の悪化

 花粉症の原因ついて、昨日書いたことを、もう少し補足しておこう。先日、北さんの掲示板に書き込んだ内容の再録が中心である。

 藤田紘一郎さんの「共生の意味論」によると、日本で初めて杉花粉症を見つけたのは、1963年で、藤田さんとおなじ東京医科歯科大学教授の斎藤洋三博士だそうだ。

 日光にすむ成年男子だったが、日光に延長37キロメートル、約1万3千本の杉が植えられたのは17世紀前半だという。昔の日本人は別に杉花粉症にはならなかった。それでは発症の原因は何かということだが、たとえばつぎのような要因が考えられる。

�‖腟け�染のなかの免疫増強因子の増加
��都市化による住宅環境の変化
��杉の花粉飛散量の増加

 しかし、藤田さんはこうした環境変化だけではなく、
�ご鸚乎遒両談任覆匹梁瞭盍超�の変化
が大きいのではないかという。

 日本人は太古の昔から、体内でたくさんの虫やバクテリアと共生してきた。それを薬物によって駆除したために、この30年間ですっかり体内環境が変化してしまった。このことと花粉症の発症が密接に関係していることを、藤田さんはニホンザルの花粉症と比較することで論証している。

 花粉症という文明病の根底に、「共生の破壊」をとらえていて、なかなか奥が深い。藤田さんはNHKの「人生読本・こころの時代」のなかで、こんなことを語りかけたそうだ。

「ヒトが病気からまぬがれるための免疫から、いま、異物を認識し排除しする免疫に考えが変化してきた。しかし、僕たちがヒトと寄生虫や微生物とのやりとりを研究していると、免疫とは異物を排除するための機構ではなく、共生をいかにスムーズにするか、そのための機構であるように思われてくる」

「寄生虫や体内細菌など汚いものを排除する、この清潔運動が社会を突き動かすと危険である。・・・うわべのきれいさの裏に汚物が積もっていく。神戸の痛ましい少年事件の背後にも、免疫機能を失った社会で、この清潔運動が見え隠れしている」

 昨日の日記でも触れたが、現在の日本人のスギ特異的lgE保有率は5割で、この30年で5倍になっている。中国人の場合は3割。中国で最初の花粉症は、1998年に南京医科大学で32歳の女性だそうだ。

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 なお、花粉症について書かれたHPはたくさんある。いずれも対症療法について述べたものが多く、その原因を深く追求しているものはそう多くはないが、まるでないわけではない。たとえば「生活環境協会(NPO)」のHPがそうである。ドイツの花粉症の現状について、私はこのHPから学ぶことができた。以下に引用しておこう。

<ドイツにはアレルギーを持つ人が3000万人も存在するといわれる。花粉症も非常に広がっている。日本では杉花粉が多いが、ドイツではシラカバ花粉が中心である。そして、花粉症の患者は田舎よりも都会に多い。電子顕微鏡で見ると、たとえばバード・エムスタール付近の花粉は非常に綺麗なのに対して、ベルリンやミュンヘンの花粉にはスモッグの微粒子が付着している。つまり環境公害が花粉とコンビネーションを組んで、アレルギーを起こすと考えられる。人間の肺の面積は80平方メートルもあり、一番花粉が飛ぶときは、1日に8グラムも花粉を吸い込んでいる。杉やシラカバ花粉の対策プログラムを作ったとしても、その他にいろいろなアレルギーが付いてくることを知らなければいけない。

 そして、花粉症のうち多くの人は食料品(食物)アレルギーを持っている。このように複合したアレルギーのことを「クロス・アレルギー」と呼ぶ。1999年の統計では、ドイツで人口の3%、約200万人が食料品によるアレルギーに苦しんでいるという結果が出ている(ドイツの総人口は約8220万人)。私自身(ルノー博士)はもっと多いと思っているが、200万人としても非常に大きな数字といえる。食料品によるアレルギーは、ドイツでは国民病になっているのである>

(参考サイト)「生活環境協会」 http://www.seikatsukankyo.or.jp/index.htm



2002年03月11日(月) 花粉症の原因

 花粉は太古の昔からあったが、花粉症などいう厄介な病気は現代人特有のものである。福井の田舎で杉木立に囲まれて暮らしていた私も、そして私の周囲の大人たちも、くしゃみ、鼻水、目のかゆみとは無縁だった。このことからしても、花粉が「花粉症」の主原因だとは考えにくい。それでは、本当の原因は何か。

 研究によると、花粉がディーゼルの排気ガスと融合して化学変化を起すことによって、症状を誘発するアレルゲンとなるという。きれいな花粉は症状を引き起こさない。症状を引き起こすのは、大気汚染で汚れた花粉であり、もうすこし正確に言えば、花粉に着いた「汚れ」の方である。

「花粉症」という名前は間違いで、「ディーゼル汚染症」と呼ぶべきだったのだ。事実、世界で一番花粉症患者が多いのはドイツで次が日本だが、この順位はまさに全車両数に対してジーゼル車が占める比率の順位でもある。

 しかし、多くの人はいまだに花粉症は花粉による自然災害だと思っている。そしていつでも産業界の利益を最優先する政府は、今もこの研究を無視して、「花粉症」の犯人を花粉に転嫁し続けている。そのことで利益を上げているのは誰だろう。自動車業界や運輸業界ばかりではない。膨大な患者を抱える医療機関もそうだ。政治献金をうけている政治家もそうだろう。「花粉症」の本当の犯人は実は彼らなのだ。「政府無策国民虐待症」と呼ぶべきである。

「花粉症」で苦しんでいる日本の1300万人の同胞たちに訴えたい。これ以上犠牲を堪え忍んでばかりいないで、今こそ真実に目覚めて、ディーゼル車を放置している政府の無策に、怒りの声を上げようではではないか。

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 実は上の文章は、そっくり一年前の日記の引用である。花粉症について書こうとして、まてよ、昔もかいたことがあるなと思い、日記を読み返してみたら、ちゃんとかいてあった。とくに、不都合な間違いもないようなので、そのまま再録することにした。

 たしかに花粉症は、ものの本にも書いてあるとおり、「アレルギー体質に、花粉、大気汚染、かぜや寒さ、遇労やストレスが加わって起る一つの文明病」といえるもので、環境汚染だけが原因ではない。根本にあるのはアレルギー体質だろうが、このことに関連して、私はこのところ「共生」ということを重大に考えるようになった。花粉症を理解するときも、この観点は大切なのではないかと思っている。

 日本医科歯科大学の藤田紘一郎教授は、「共生の意味論」(ブルーバックス)の中に、寄生虫や細菌を薬物で体内から駆除して体内環境を破壊したことが花粉症を誘発したと書いている。これからは、大気汚染一辺倒ではなく、こういう視点も大切にしたい。

 ところで、病院へ行くと血液検査をして、「杉花粉のアレルギー反応が陽性ですね」などと告げられる。するとやはり原因は「杉花粉」と思ってしまうが、実は日本人の5割が陽性だそうである。おなじ検査をすると、中国人の3割が陽性らしい。(週刊朝日3/15日号)

 しかし、もちろんそんなに多くの人が花粉症を発症しているわけではない。有病率は昨年3月の日本アレルギー協会調査によると19.2パーセントで、とくに都会に住む人に多い(北海度や沖縄は5パーセント以内)。最近では中国でもぼちぼち患者が出始めたというが、経済開発にともなう大気汚染の進行と無縁ではないように思われるが、くわえて、藤田博士の主張する薬物汚染による体内環境の破壊も充分考えられる。

 大気汚染と花粉症の関係をはじめてはっきり口に出した日本の政治家は石原都知事だったと思うが、その後ようやく国がディーゼル排ガス規制に向けて重い腰を上げ始めた。遅きに失したとはいえ、今後のとりくみに期待したい。うわさによると小泉首相も花粉症だそうだ。国民と痛みを分かち合うチャンスである。花粉症対策で人気挽回をはかってはどうだろうか。


2002年03月10日(日) またも、帰省できず

 今年は正月に大雪で帰省できなかったので、この連休に3カ月遅れで福井に帰省するつもりだった。さいわい、大学生の長女も三重から帰ってきたので、一家四人でそろって、母や弟の一家に会いに行こうと楽しみにしていた。

 ところが、直前になって、福井の母から電話で、弟の息子が二人もインフルエンザでダウンしたという情報が入った。これでは出かける訳にはいかない。こっちが伝染してもいけないし、第一向こうも大変である。

 母は弟一家と暮らしているが、弟夫婦は共稼ぎ。弟は建設関係でいつも夜が遅い。嫁さんは病院の薬剤師をしていて、夜勤や宿直がある。4人の男の子がいるが、この腕白坊主たちを、母がこの十年以上面倒を見て育ててきた。こんどインフルエンザにかかったのは中学生の長男と小学生の3男らしい。

 母は現在70歳を超えている。この歳で男の子ばかり4人の面倒を見るのは大変である。事実去年の暮れには肝臓を患って入院したが、これも過労による体力の低下が原因らしい。しかし、一番下の子はまだ保育園なので、長く入院している訳にもいかない。

 福井に帰れなくなって、残念だった。「あんまりむりをしないで」と電話で言っておいたが、「でも、私ががんばらなくてはね」と母。たしかに、福井の弟の一家は、母ががんばらなくてはしかたがない状況にある。長男の私は母にらくをさせてやりたいと思いながら、どうにもならない。あいかわらず、親不孝を決め込むしかない。

 心配なのは、母がインフルエンザにかかることだ。老齢に加えて、疲労が重なれば抵抗力が落ちて、ひとたまりもないだろう。そうすると、また肝臓症状が悪化するかも知れない。状況をそこまで悪化させない手だてがないものだろうか。そんなことを考えているうちに、昨日は一日が暮れてしまった。

 荒海に水仙の花しづまれり  裕


2002年03月09日(土) モンテーニュの叡智

 エラスムスとならぶルネサンス最大のモラリスト(人間論者)、モンテーニュ(1533〜1592)は、フランスのボルドーに地主の子として生まれた。彼の生きた16世紀フランスは、ユグノー戦争の「聖バルテルミーの大虐殺」をはじめとして、人間同士が利害と狂信のために殺し合う時代だった。彼はこうした多くの惨劇がおこった狂気の時代を、高等法院の評議員やボルドー市長として生きた。

 彼はこうした嵐の時代を生きた人生経験から、争いをなくすためには「寛容」と「対話」が大切であると考えた。彼のこうした主張は、彼の死後、異教徒に対して信教の自由を認める「ナントの勅令」として結実している。

 また、こうした彼の人生哲学は「エセー(随想録)」の中に見事に書き残されていて、後代の知識人に大きな影響を与えることになった。今日はその中から、私の好きな言葉をいくつか紹介しよう。

「孤独の目的はただ一つ。すなわち、もっと悠々と安楽に生きることである」

「私の書くものには、正義や理想や使命感に類する言葉が極端に少ない。使ってあったとしても、反語的に使われているに過ぎない。それも私が、絶対的な何ものかを持っていない証拠である」

「私は自分を凡庸な人間だと思っている。しかし、ただ、そう思っている点だけが、他の人と違うところである。私は、最も低劣で平凡で欠点だらけの人間であるが、私はそれを隠しもしないし、弁解もしない」

「私はただ、自分の値打ちを自分で知っている点だけが、自分の値打ちだと思っている」

「健全な精神を作るには、学問はあまり必要ではない」

「ある者は鼻をたらし、目やにを出し、垢だらけで、夜中過ぎに書斎から出てくるのだが、はたしてたくさんの書物の中に、立派な人間になり、より幸福になり、より賢明になる方法を求めているのだろうか」

「事物を解釈するよりも、解釈を解釈する仕事の方が多く、どんな主題に関するよりも書物に関する書物の方が多い。われわれはたがいに注釈しあうことばかりしている」

「われわれは他人の知識で物知りにはなれるが、少なくとも賢くなるには、我々自身の知恵によるしかない」

「なるほど書物は楽しいものである。けれども、もしそれと付き合うことで、しまいにわれわれのもっと大事な財産である陽気さと健康を失うことになるなら、そんなものとは手をきろう」

「私が孤独を愛し、これを説くのは、隷属と恩義に縛られることを死ぬほど嫌うからである。人の多いことをきらうのではなく、仕事の多くなることを嫌うからである」

「精神を鍛練するもっとも有効で自然な方法は、私の考えでは、話し合うことである。それは人生の他のどの行為よりも楽しい」

「いかなる信念も、たとえそれが私の信念とどんなに違っていようと、私を傷つけない。どんなにつまらない、突飛な思想でも、私にとって人間の精神の所産としてふさわしく思われないものはない」

「私と反対の意見は、私を憤慨も興奮もさせずに、私を目覚めさせ、鍛えるだけである。われわれは人から矯正されることをいやがるが、本当は自分からすすんでそれに立ち向かわねばなるまい」

「私は、真理をどんな人の手の中に見いだしても、これを喜び迎える。そして、遠くからでも真理の近づいてくるのを見れば快く降参して、私の負かされた武器を差し出す」

「竹馬に乗っても何にもならない。なぜなら竹馬に乗ってもしょせんは自分の足で歩かなければならないし、世の中でもっとも高い玉座に昇っても、やはり自分の尻の上に坐っているからである」

「死ぬのをいやがらないということは、生きるのをよろこぶ人にのみふさわしいことである」

「人は病気だから死ぬのではない。生きているから死ぬのだ」

 モンテーニュは海外に出かけたキリスト教徒が、現地の非キリスト教的な土着民よりもはるかに残忍であり、倫理的にも劣る行為を犯していると批判している。彼のこの主張は、当時の心あるキリスト教徒に深い衝撃と内省の機会を与えた。まさに、現代に通用する叡智の人だと言えよう。
 
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 パスカルはモンテーニュが嫌いだったようである。こんな悪口を言っていることからもわかる。

「私はモンテーニュを許すことができない。彼は人間の悲惨を言つたが、人間の偉大について言はなかつた。また、エピクテトスも許せない。かれは人間の偉大を知つているが、人間の悲惨を知らなかつた」(サシとの対話)

 パスカルの「パンセ」も、モンテーニュの「エセー」も好きな私は少し困ってしまうわけだが、しかし私の嗜好は次第にパスカルからモンテーニュの方に変わりつつある。パスカルの「許すことができない」という発言よりも、モンテーニュの寛容と対話の世界により多くひかれるようになったせいだろう。

 パスカルの文章は高校生でも分かるが、モンテーニュのいぶし銀のような滋味豊かな文章は、あるていど人生経験を積まないとわからない。パスカルが神を夢見る絶対主義者だとしたら、モンテーニュは神々の調和と人間の平和を願う相対主義者ということになろうか。彼の視線はあくまでも、神の栄光ではなく、人々の幸せの方に向いている。


2002年03月08日(金) 「ローマ頌詞」考

 北さんの雑記帳で、2Cギリシャの哲学者アリスティディス次のような「ローマ頌詞」を読んだ。塩野七生さんの「ローマ人の物語」第10巻「すべての道はローマに通ず」のなかに引用されている文章である

「かつて、ホメロスは謳った。大地はすべての人のものである、と。ローマは、詩人のこの夢を、現実にしたのである。あなた方ローマ人は、傘下に収めた土地のすべてを、測量し記録した。そしてその後で、河川には橋をかけ、平地はもちろんのこと山地にさえも街道を敷設し、帝国のどの地方に住まおうと、往き来が容易になるように整備したのである」

「しかもその上、帝国全域の安全のための防衛体制を確立し、人種がちがおうと民族が異なろうと、共に生きて行くに必要な法律を整備した。これらのことすべてによって、あなた方ローマ人は、ローマ市民でない人々にも、秩序ある安定した社会に生きることの重要さを教えたのであった」

 アリスティディスの「ローマ頌詞」は、ギボンの「ローマ帝国衰亡史」にも引用されていて、かなり有名な文章らしい。たとえばギボンは「過去を讃え、現在を貶すのが、人間の常であるとはいえ、帝国の繁栄と安泰は、ローマ市民ばかりでなく属州民たちも、強く感じており、正直にそれを告白している者もいる」と述べて、その一人としてアリスティディスのこの文章を引用している。

 たしかにアリスティディスは、同時代人であり、属州民のギリシャ人でもあるが、しかし、ローマを評価するのにふさわしい証人かどうか問題である。なぜなら、彼は一般の属州民ではなく、やや特権的なギリシャの属州民であり、しかも「ローマ市民権」をもつ、特権階級の一人だからだ。

 さらに、もう少しアリスティディスについて知り得たことを書いておこう。いずれもインターネットで検索した文章の引用である。

<2c前半のギリシャの哲学者。改宗してキリスト教護教家となる。140年頃、ロ−マ皇帝アントニウス・ピウスに『弁証論』(アポロギア:Apologia)を提出し、異教的生活とユダヤ教的生活の誤謬を指摘、神の概念を哲学的に規定してキリスト教の真理とキリスト教的な生活の意義深さを弁証した>

<「キリスト教大事典」で彼の項を見ると、彼の述べた四人種区分説は有名
であると言われている。
�〔酥攷佑浪佗�土水などの4要素を崇拝するが、
これらは被造物であって神ではない。
��ギリシャ人は神々を崇拝するが、それらは背徳不倫の輩であって、
真の神ではない。
��ユダヤ人の神観は純粋であるが、外的祭儀にのみとらわれがちである。
�ぅ�リスト者のみが《父・子・聖霊》の真の神、創造の神を礼拝する>

 ちなみに属州民ではないが、生粋のローマ人でかつ元老院議員・執政官だった歴史家タキトゥスは、支配階級の最上に属していながら、もうすこし違ったローマの姿を伝えている。彼の著作から引用しておこう。

「全人類でローマ人だけが、自分の富と世界の貧窮を、同じ情熱で欲している。略奪し、殺戮し、強盗することを彼らは支配という偽りの名で呼び、人住まぬ荒野を作ると、そこを彼らは平和と名付ける。・・・われわれの最も愛する子どもや大切な肉親が、ローマが課した徴兵制度で奪われ、妻や姉妹は、彼らの情欲によって汚されている」(アグリコラ伝)

 タキトゥスはローマによる平和について、「文明開化と呼ばれていたが、じつは奴隷化を示す一つの特色にしか過ぎなかった」となかなか自分の祖国に対して厳しい評価をしている。ほぼ同じ時代に生きたギリシャ人とローマ人が、ローマ帝国についてこのようなねじれた証言を残している。属州民であるギリシャ人がローマの偉大さをほめたたえ、ローマの知識人はむしろローマの繁栄に懐疑的なところが興味深い。

「ローマ市民たちよ。これまで外国人たちを統治するために我々が派遣した者たちの貪欲のゆえに、また彼らが加えた加害のゆえに、我々が外国人の間でいかに憎まれているか、言葉では言いあらわせない」

 これはキケロが残した言葉である。こうした文章を読んでいると、歴史というものが、そう一筋縄でいかないものであることを実感させられる。残された歴史的文書を読む場合、どのような人物が、いつ、どこで、どのような目的で書いたものか、しっかり押さえておく必要がある。


2002年03月07日(木) リバイアサンの戦い

 ホッブスは人間相互の争いをなくすために、強大な権力の必要性をといた。そしてこの強大な力を持つ国家を聖書に出てくる怪獣リバイアサンにたとえた。 ところで「ヨハネの黙示録」によると、このリバイアサンたちは常に戦いをしていて、最後に一匹が残る。そして最後にのこった一匹も最後は解体して滅んでしまう。

 ヨハネの黙示録がかかれた時代はローマ帝国の全盛期だった。だから聖書はローマ帝国の滅亡を予言していたといわれたりするが、考えてみればこの世に栄枯盛衰はつきものである。永遠につづく権力など存在しない。この予言はあたって当然なのである。

 それはともかく、「万人の万人にたいする戦い」を終息させるために創られた権力が、そうして創られた権力どうして、こんどは食うか食われるかの戦いを始める。何のことはない、「人間と人間の戦い」が「国と国との戦い」にバージョンアップをしただけだ。

 国どうしの戦いは人間どうしの個人的な争いとは比べものにならないほど悲惨である。このリバイアサンたちの間に平和と秩序をもたらすことができるのだろうか。ホッブス流に考えれば、ここでも強力な権力が必要だということになるだろう。つまりローマ帝国のような、特別に獰猛で強いリバイアサンがあらわれて、他のリバイアサンを征服・支配するのである。

 もっともそうして勝ち残ったリバイアサンにも寿命がある。ローマ帝国がゲルマン民族によって滅ぼされたように、やがて新しいリバイアサンが台頭して、これが覇権を奪おうとする。

 こういう弱肉強食のリバイアサンの時代を、人類はもう何千年も経験してきた。つい最近まで、世界には巨大な二匹のリバイアサンの王が対峙していて、ボタン一つで世界が滅びる恐怖が私たちを覆っていた。

 一方のリバイアサンが倒れて、核戦争による地球滅亡の確立は少なくなったとはいえ、油断はできない。ポップス流の覇権主義が国の内部や、国際政治の世界で幅を利かせている間は、私たちは常にこの恐怖と不安の中に身を置いているしかない。

 それでは私たちはどうしたらよいのか。身近なところから権力の民主化をすすめることである。さらに、この民主的な思想を国際政治の舞台に持ち込むことである。そうした中で、国と国の垣根が低くなり、文化の交流や相互理解が進んで、本当の意味でのグローバリゼーションが達成されるだろう。リバイアサンが生まれる土壌がある限り、今後も無数のリバイアサンが登場し、人類の悲惨は永遠になくならない。


2002年03月06日(水) 生きた学力を育てるには

「生きた学力とは何か」と問われたら、私は何よりもそれは「自分の頭で考える力」だと答えたい。これまで私は数学を勉強するのは「自分で考える力」を養成するためだと述べてきたが、これは何も数学に限ったことではない。すべての教科について言えることだ。

 ほんの一握りの指導者が社会を動かしている非民主的な管理社会では、「考える力」が必要なのはそれらのエリートだけだ。社会の現実を見据えて社会のあり方や自己の生き方を論理的・実践的に掘り下げて考える能力など、管理される立場の民衆には必要ではないし、むしろ社会を統治するのに邪魔なだけである。

 近代的な産業社会でも、事情は同じである。一般労働者に必要なのは、生産や型にはまった社会生活を営む上での限られた知識と技能であり、あとは与えられた仕事を長時間、能率よくなしとげる忍耐力や服従心である。

 だから近代の学校はこうした労働者の資質を養うために、規律や時間にうるさく、個人的な自由をなるべく制限し、長時間にわたって精神や肉体を拘束するシステムになっている。そこで重視されるのは、知識力や計算力、忍耐力、組織の規律に対する従順な服従心や協調心である。

 こうした規格にあった良質な労働力を大量生産する場として、近代的な学校が創設され、運営されてきた。とくに日本の学校はこうした「期待される人間像」の生産工場として有効に機能し、優秀な産業ロボット人間を作り出してきた。そしてひところは日本から輸出される工業生産物が世界を圧倒した。

 しかし社会はいまや大きく変わろうとしている。情報化社会の到来で、あたらしい産業が生まれ、これまでのような反復練習や機械的暗記に重点をおいた画一的で没個性的な軍隊式教育では、このポストモダン的な状況に対応できなくなった。そこで、やおら「考える力」を重視する「あたらしい学力」が経済界からも求められるような状況になってきた。

 しかし、学校は過去の遺産や社会の慣例を尊重する場所である。私たち教員もほとんど実社会での生活体験はない。自己の教科に対する知識や、自分の成功体験に固執しがちである。したがって、学校はなかなか容易なことでは変わらない。

 とくに日本ではこうした社会とのギャップがいちじるしい。あいかわらず、知識偏重の没個性的で規律重視の価値観でかたまっている。学校が社会の発展に必要な創造力や個性豊かな人材を育成する場でないばかりか、その足かせにさえになっている。

 生きていく上で必要とされる学力は時代とともに変わっていく。これまでの日本ではエリートでさえもが、知識力と理解力が優先されていた。すでに存在している世界の先進的な文化や技術を学ぶことに重点が置かれていたからだ。私にいわせればそのような学力は「死んだ学力」である。

 これからの時代に必要なのは「過去から学ぶ力」だけではなく、あたらしいシステムや生き方を発見し、「未来を発想し、変える力」でなければならない。めまぐるしく変化する時代に生きている私たちは、過去の知識やしきたりに囚われずに、未来と世界を視野に収め、新たな状況に対応しなければ生きていけないのである。

 こうした変化のなかに身を置きながら、自分の頭で考えて状況を判断し、自分の意志と力で工夫して生きていくというのは、大変なことかもしれない。しかし、それがほんとうに人間らしい、生き甲斐のある生き方だと考える個性的な人間が、これから世界で確実に増えて行くであろう。そして日本もこうした独立心のある個性的な人間が多数を占める社会にならなければ、この停滞から抜け出すことはできない。

 以上に述べたことからあきらかなように、構造改革のかなめは、教育改革だということがわかる。現在わが国の教育は画一的な受験体制の呪縛状態に置かれている。そうした閉鎖的な学校を解体して、子供たちを人工的に管理された場所から、生きた教育の受けられる現実的な環境の中に置くことが必要ではないか。

「自らの頭で考える」という思考の自立こそ、生きた学力の核心だと思うが、そのような力は、生き生きとした現実と対峙し、その厳しさの中に身を置くことで鍛えられる。学校という秩序が重んじられる管理社会の中で、死んだ知識や死んだ知識を尊重する教師たちに囲まれていても、ほんとうにこの社会を生きていく上で必要な学力がつくわけではない。

 学力を鍛えるには、ある種の厳しさが必要だが、それは何よりも人間らしくいきる力を養うための厳しさでなければならない。現在の学校教育の問題点は、そうした厳しさと無縁であることだろう。


2002年03月05日(火) 生きた学力の見える眼鏡

 3月3日の朝日新聞の「私の視点・生きた学力の評価を」に、千葉大学の「飛び級」試験の小論文の問題が紹介されていた。「人間に見える光の波長の範囲が変わったとしたら、人間の生活様式や行動様式はどう変わるか」という問題である。ちなみにこの試験は辞書や参考書、パソコンが持ち込み可能だそうだ。

 筆者の宗守優子さんには登校拒否の中2の息子さんがいる。彼にこの問題をぶつけてみたら、「どのくらい波長がずれるかで違うよ。たとえば赤なら、ポストが見えなくなって手紙が届けられなくなる。ボールに赤いペンキを塗れば、消える魔球になる。・・・・紫外線が見えると紫外線対策がしやすくなる」などと答えたという。

 さて、私ならどんな答えを書くか。少し考えてみたが、あまり大したことは浮かばない。ただ「紫外線が見えると紫外線対策がしやすくなる」という答えにヒントを得て、たとえば紫外線が見える眼鏡があればいいな、いや、そのうちに人間自身が進化して、紫外線が見えるようになるかもしれない、などといろいろ考えた。

 宗守さんの息子さんは小2のときに学校で心身ともに疲れるできごとがあって、集中力や記憶力などが極端に低下してしまい、読み書きや計算、単純な暗記などが苦手になってしまったという。しかし、この問題に対する答えなど、なかなかいい線だ。彼は国語のテストの点数は低いけれど、宗守さんが書いた投稿文の批評などはできるのだという。

「顕微鏡の各部の名称を正確に暗記した子どもより、顕微鏡の操作ができて顕微鏡を使って見たい物のある子どもの方が価値があるはず。なのに、学校では暗記力の高い子どもの方がよい評価をもらえる」

「地理なら、いろいろな国にさまざまな暮らし方があることを理解できれば十分なのに、イヌイット(エスキモー)の氷の家の名称を覚えなければ点数を稼げないのだ」

「生きた学力を必要とする時代なのに、学校の体質はあまりかわっていない」と訴える宗守さんの主張はもっともだ。「生きた学力の見える眼鏡」があればいいのだが、残念ながらそんな魔法の眼鏡はない。もし発明されたら、まっさきに学校の先生方にかけてもらってはどうだろう。

 私たちが生徒の生きた学力を見抜けないのはなぜか。それは私たち自身が「生きた学力」を身につけていないからだ。だから大切なのは、大人がもうすこし本当の学力を身につけて、社会や人生に対して自分の主張や批評を持つことだ。そうすれば「生きた学力」がどういうものか、少しは理解できるようになるだろう。


2002年03月04日(月) 地方自治は民主主義の学校

 民主主義にとって、中央政府の三権分立と並んで、あるいはそれ以上に大切なのが、「住民の、住民による、住民のための自治」という、地方自治、地方分権の確立である。

 地方分権とは、地方にできることはすべて地方に任すということだ。住民自らが自らの地域のことを考え、自らの手で治めていくことであり、地方自治の権利は憲法にも保証された民主主義の原点である。

 地方分権推進法の成立を機に、議論の段階から実行の段階へ入った地方分権の推進は、政府自らが、明治維新、戦後改革に次ぐ「第三の改革」として位置づけている。地方分権が確立されると、どんな利点があるか。総務省のホームページから引用しよう。

�/閥瓩蔽亙�公共団体で、住民が自主的にまちづくりなどの仕事を決めることができるようになります。
��国、都道府県、市町村のそれぞれに役割と責任の範囲が明確となり、責任逃れができなくなります。
�9颪硫莪貪�な基準や各省庁ごとの「たて割り行政」にしばられず、地域の実情やニーズに適った個性的で多様な行政を展開することができるようになります。
�す颪涼亙�自治体に対する手続き、関与等が必要最小限のものとなり、労力・経費等が節減されるとともに、住民にとっても事務処理手続きが簡素化されます。

 中央集権型行政システムはすでに疲労している。そして政府自らが、HPで現在のシステムの弊害を次のように書いている。
�仝�限、財源、人間、情報を中央に過度に集中させ、地方の資源、活力を奪う。
�∩換餡莪譴療�一性と公平性を重視するあまりに、地域的な諸条件の多様性を軽視する


 国と地方の関係はこれまで、上下・主従だった。これを対等・協力の関係に変えていくことが大切だろう。しかしそのためにはそれを保証する財源的な裏付けがなければならない。現在のようにお上から下賜される地方交付税に頼っていては、上下関係から脱却できるわけがない。

 私は住民税や所得税、法人税、相続税、贈与税などはすべて地方税にしてはどうかと思っている。中央政府にはいるのは、環境税や消費税くらいでよい。まずはこうした財政面での確立が、地方分権の前提ではないかと思う。

 そうでないと、東京都のように自分でやっていけるところはよいが、他は中央政府の官僚に頭が上がらない。だから、知事クラスに官僚経験者ばかりがならぶことになる。これでは首長公選制の意味がない。

 地方分権に消極的な人の論理が、地方に任せると何をするかわからない、という地方不信だろう。さらに地方格差が広がるのではないかという危機感もある。しかしこうした後ろ向きの議論からは何も生まれない。

 たとえば、日本の九州の面積と人口はオランダと同等である。もし、地域に大幅な自治権をみとめれば、将来九州からオランダに匹敵する豊かな成果が生まれないとも限らない。そうすれば、日本のそれぞれの地域が、これを見習って活性化するだろう。そうした可能性の芽をつみとらず、拡大していくことが大切だと思う。

 地方が自立しなければ、国の自立もできない。思い切って自治の権利を与え、そして責任もとらせる。そうすることで、すこしずつ本物の民主主義がこの国にも根付いていくのではないだろうか。「地方自治は民主主義の学校」だといわれるゆえんだ。


2002年03月03日(日) 日本の政治に必要な三権分立

 民主政治というのは、「人民の、人民による、人民のための政治」をいう。つまり市民が等しく政治に参加し、その意志が正しく政治に反映されるシステムである。したがって、民主国家において、「法」とは、人民にこうした政治権を保証し、行使させるものでなければならない。

 政治や統治を行うための機関として、一般に議会と政府と裁判所がある。いわゆる立法、行政、司法の三権である。近代国家においては、権力の独裁化と腐敗を防ぐために、権力をこの三つに分割して相互に牽制する仕組みができている。

 こうした三権分立の考え方を確立したのは、ジョン・ロックとモンテスキューである。彼らは君主権力の横暴な支配からいかに人民の利益(モンテスキューの場合は貴族の利益)を守るかを考えてこれを考案した。時代は変わったが、三権分立の必要性は今もかわらない。

 日本のような議院内閣制度をとっている国では、立法権と行政権が癒着しやすい。行政権を担う首相には国会多数党の党首が選ばれる。国務大臣の過半数は国会議員でなければならないという規定があるが、実際には国会議員がほとんどだ。

 こうなると、議会と政府は一体化せざるをえない。そして行政権と立法権の相互チェックが甘くなり、なれ合いや談合がおこる。くわえて、日本では自民党の長期政権が続いたために、この癒着がひどくなっている。

 さらに、行政権が実質上官僚組織によって牛耳られていることから、国民には政策決定の現場がますます見えなくなっている。それをいいことに鈴木宗男のような族議員が跋扈し、行政に介入して政策決定をゆがめている。

 日本では「議員立法」などという言葉がまかり通っている。そもそも立法は議員の本務であるはずだが、実際は役所に任せている。官僚が立法権さえも行使しているのが現状である。

 さらに、違憲立法審査権に関して、裁判所の消極的な態度がしばしば問題になっている。裁判権の独立が犯され、肥大化した行政権に呑み込まれてしまったかのようである。

 かくして、日本の現状は、三権分立の理想から遙か遠くなってしまった。そもそも権力がどこにあるのか、その正体が見えないのが現状である。権力の中枢が空白であるため、そこにさまざまな部外者が入り込み、政権を私物化している。また、直面する政治的、経済的課題に対して、一貫性のある政策を立案し、実行することができない。

 かってモンテスキューは「権力は腐敗する。絶対権力は、絶対腐敗する」と主張した。日本のように三権が癒着した正体不明のぬえのような権力も同様に腐敗する。なぜならすべてが国民の見えないところで行われ、責任の所在がはっきりしないからだ。だれも責任をとらない体制ほど恐るべきものはない。

 私はこの無責任体制を解消し、権力の癒着を断ち切るには、議院内閣制をやめてはどうかと考える。官僚と族議員から行政権を国民の手に取り戻すために、首相公選制を実現させるのだ。行政権を確立し、さらに立法権、司法権を確立すべきだと思う。分権というのは、権力を否定することではない。むしろこれをはっきりと確立し、相互に牽制させることである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  参考  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 三権分立について、日本国憲法は次のように規定している。
 「国会は国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」(41条)
「行政権は、内閣に属する」(65条)
「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」(76条)

 憲法は三権相互のかかわり方も具体的に定めている。たとえば、立法権から行政権、司法権への関与は次のように規定されている。
国会は国政調査権を有する(62条)
衆議院は内閣不信任案を可決できる(69条)
国会は罷免の訴追を受けた裁判官を裁判する弾劾裁判所を設置する(64条)。

 また、行政権から立法権、裁判権への関与は、次のように規定されている。
内閣総理大臣は、衆議院を解散することができる(54条)
内閣は最高裁判所の裁判官を任命する(79条)
さらに、司法権から行政権、立法権への関与は
最高裁判所は「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限」を有する(81条)


2002年03月02日(土) 菜の花で循環型社会

 ドイツでは現在、117万ヘクタールもの菜の花畑があるという。そして菜種の7割が食用油、3割が乗用車などの燃料として使われているという。73年のオイルショックを契機に、化石燃料の代替として、菜種が注目されたのが始まりだという。

 ドイツでは環境に負荷をかける化石燃料には環境税をかけている。反対に環境にやさしいバイオ燃料は非課税。こうした法的措置の後押しがあって、菜の花畑がどんどん広がったわけだ。

 ドイツを見習って、日本でも1998年から「菜の花プロジェクト」が動き出した。昨年4月に滋賀県の愛東町で行われた「第1回菜の花サミット」には、自治体や民間非営利団体(NPO)関係者らが500人もあつまったという。運動を推進してきた滋賀県環境生協理事長の藤井絢子さんは、1月27日の朝日新聞で次のように述べている。

「菜の花プロジェクトは、循環型地域づくり運動です。休耕田を提供する、菜種をまく、菜種油を売る、廃食油を回収する,農機具などにリサイクル燃料として使う。地域の人が受け身ではなく、当事者となることで地域が動き出します。参加の仕方はその人の生き方。日常を豊かにする一種の文化運動といえます」

 藤井さんが環境問題を考え始めたのは、琵琶湖の汚染だという。富栄養化が進み、赤潮が毎年発生した。そこで合成洗剤をやめよう。廃食油を回収し、石鹸にリサイクルしようという運動を70年代後半から始まった。こうした「せっけん運動」の延長に「菜の花プロジェクト」も動いている。

 菜の花の明るいイメージが受けたのか、運動は3年間で全国に広がった。現在30前後の都道府県がプロジェクトにとりくんでいるという。日本の未来を明るくするこの運動を、政府も政策や税制で支援してほしいものだ。そうすれば日本の農村もまた生き生きとよみがえるだろう。


2002年03月01日(金) メタフィジカル・モメント

 幼い頃の思い出をひとつ。早起きして、家の外に出た。夏のことで夜明けは早い。しばらくすると、すっかり明るくなり、朝刊配達や牛乳配達の人が往来を通る。みると烏が数羽、道端で餌をついばんでいる。

 何でもない街の光景だったが、私は何かいい知れぬ快さを感じていた。啓示のように深く静かに心にしみてきて、そこはかとなく詩的で美しいものを、その早朝の空気の中に感じた。

 高校生の頃、哲学の解説書を読んでいて、メタフィジカル・モメント(形而上学的瞬間)という言葉がどうしてもわからなかった。それがこの幼い頃の至福体験を思い出した瞬間に納得できた。

 その頃だと思うが、国語の教科書でスタインペックの「朝食」という短編を読んだ。一人の旅人が、荒野で野営する家族に出会い、焚き火を囲んでコーヒーとトーストの朝食をごちそうになるという、ただそれだけの話だったが、私はこの時もメタフィジカル・モメントを実感した。さっそく感想文を書いて、国語の先生の自宅を訪ねた。そしてこの感動を熱く語ったものだ。

 昔ギリシャに、デオゲネスという風変わりな哲学者がいた。樽をねぐらとし、無一物の境涯にありながら、とても幸福そうにしている。評判を聞いたアレクサンダー大王がやってきて、「何か欲しいものはないか」と聞いたら、「横にどいて、私に日光を下さい」と答えたという。

 もうひとつ、こんな話。南海の国へ赴任した日本の商社マンが、怠惰な現地人を見て、「もうすこし勤勉に働いてはどうか」と忠告をした。そうすると、現地人は寝そべったまま、「あたなたどうしてそんなに忙しく働くのか」と訊いてきた。

「それはお金を稼ぐためだ」と日本人。「どうして、お金を稼ぐのか」と現地人。
「金持ちになったら引退して、妻と一緒にのんびりくらす」と日本人。
「そんなことなら、今からできるではないか。私たちのように」と現地人に言われて、返す言葉がなかったというのである。

 私はこうした話が好きだ。それは何故かというと、やはり幼い頃の「早朝の体験」を思い出させるからである。幸福はあくせく努力して手に入れるものではない。それはむしろ身近にある。人生の福音は、この単純な真実の中に宿っているのではないのか。

 そんな風に人生を考えるようになって久しいのだが、現実の私は蜃気楼の幸福を求めてあくせくばかりしている。ときにはデオゲネスの心境になって、メタフィジカル・モメントの訪れを待ち、天上の至福の旋律に身を委ねたいものだ。

  青空が創りし朴の花白し   橋本鶏二


橋本裕 |MAIL |HomePage

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