橋本裕の日記
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| 2002年06月30日(日) |
日本の教育の問題点(16) |
私「私は日本の教育の問題点の一つに<教えすぎ>があると思っています。なぜ<教えすぎ>が問題かというと、答えが先に与えられることで自ら考え、発見する喜びが奪われるからです。学習とは本来、発見の驚きと感動を伴う、とてもエモーショナルな活動ではないでしょうか」
B「橋本さんは、分母の違った分数の足し算を教えることも<教えすぎ>だと考えるのですか」
私「あらかじめ先回りして、答えを押しつけるべきじゃないと思っています。ただ、1/2+1/3はどうなるのだろうね、と生徒に問いかけることは大切ですね。こう問いかけられたときに、皆さんならどう答えますか」
C「ええと、1/2=3/6,1/3=2/6なので、 1/2+1/3=3/6+2/6=5/6 こんなところでしょうか」
私「大正解ですね。生徒はすでに、1/2=3/6,1/3=2/6などは学習しているわけです。3/6+2/6=5/6もできます。この二つの考え方を<化学反応>させればいいわけですね。すでに知っている知識を、実際に自分の頭の中で組み立てる格好の機会になるはずです。頭の中で一種の合成反応が起こるわけで、教師はその触媒になる必要があります」
C「少なくとも小学校の段階では、教師はそうした機会を提供するだけで、答えは教えないのですね」
私「そうです。そうすれば、生徒のなかには自分で考えて、正解を出す者が必ずいます。そのときは、最大限ほめてやりたいですね。なにしろその生徒は自分で答えを見つけたのですから、きっと、その生徒にとっては一生を決定するような事件になるかもしれません」
B「そうした生徒は、例外中の例外ではないでしょうか。どうやら、橋本さんにはそうした体験がありそうだけど、多くの生徒にとっての有効な教育法だとはいえませんね。やはり教育は大多数の凡人を対象にしなければいけないと思います」
C「さきほどBさんは、日本の教育は国際競争に負けてはいけないと言われましたね。そして今度は、教育は凡人のためだと言われる。ちょっと矛盾しているように思うのですが・・・」
B「矛盾はしていませんよ。橋本さんが重視するのは、いわゆる<発見学習>方式でしょうが、そうした効率の悪い方法を採用していては、国際競争に負けてしまいます」
F「国際競争はともかくとして、効率が悪いことは事実でしょうね。いちいち自分で発見していては、なかなか先に進めないのではないでしょうか。やはり、一般の生徒にはきちんと答えを教えるべきではないでしょうかね」
G「ただ、その場合にも頭ごなしに覚えさせるだけではなくて、その道筋を考えさせ、原理を理解させることは大切だと思います。私も橋本さんの教育論はこの場合はいささか非現実的ではないかと思います」
私「私はとても現実的な方法ではないかと考えています。長い目で見れば、とても効率のよい方法だと考えています」
B「その理由を言って下さい。論理的に、かつ具体的に説明して欲しいですね。橋本さんは数学の先生だから、ひとつお手本をお願いします」
私「必要最低限で簡潔にやってみましょう。私の方法ではまず、落ちこぼれがなくなります。なぜなら、児童の心理的発達段階に適応して教材を精選しているからです。さらに、教えすぎの弊を逃れることで、平均以上の発達段階に達している生徒に対しては、自ら考えるゆとりをあたえます。教師がそうした生徒達に問いかけることで、彼らの向学心を刺激し、彼らがさらなる段階に進むことを援助することができます。教師がその産婆役になるのです」
C「しかし、優秀な生徒が先に進もうとしたとき、教材が限定されていては、そこで足踏みせざるを得ないのではないでしょうか。たとえば、分数の割り算を理解する能力をもつ生徒にとって、共通分母の足し算しか扱わない授業は非常に退屈だと思います。教師のさらなる問いかけが彼らの向学心に灯をともしたとして、それならそれで、余計に学校が退屈な場所になりそうな気がします。優秀な生徒に対して、効率的だとは思えませんね」
B「ふつうの生徒にとっても、教材の簡易化は、学力の低下をまねくことになると思います。やはり、難しい問題を与えて、ときには挫折感も体験することがなければ、学習面においてもたくましさは得られないのではないでしょうか」
F「難問に挑戦することで、実践力が身につき、切磋琢磨するなかで達成感や自信が得られます。私は勉強することの意義は、そうした中で忍耐心や克己心を培うことではないかと思います。これは人生を生きていく上で、必要なものですからね。まさに、文部科学省のいう根源的な生きる力ですよ」
<今日の一句> 雲のかげ 山の緑を 深めたり 裕
| 2002年06月29日(土) |
日本の教育の問題点(15) |
B「私もFさんに賛成ですね。意味まで理解して計算をするというのは、たしかに理想でしょうが、多くの生徒にとって、それは事実上むつかしいのではないかと思います。まずは計算ができること。そのうえで、意味が分かるようになれば、それにこしたことはない。そんなふうに考えた方が現実的だし、生徒にとっても負担が少ないのではないでしょうか」
D「現実に、日本の教育はそのような形で行われているわけですね。私も高校で微分や積分を習いましたが、ただ計算の規則を暗記して、機械的に答えを出しただけでした。だから、試験が終われば、何も残っていない。こんなことでよいのかなと疑問がないわけではありません。貴重な時間とお金を使って、随分無駄なことをしているようにも思えますね」
G「基本的な計算力は小学生の時に修得するべきですね。九九や整数のかけ算や割り算、分数についても、橋本さんんが言われるように、基本的なものは取り扱う必要がありますね。これらの計算は実際生活で必要になりますし、またその意味もとりわけ難しいわけではありません。<足す><引く><掛ける><割る>ということの意味が分からない小学生はいないと思いますよ」
A「私は分数の足し算や引き算にてこずりました。分数の割り算にくわえて、たとえば、1/2+1/3といった計算は小学生に教えるべきでしょうか。これはけっこう難しいと思うのですが。1/2+1/3=2/6=1/3となって、あれえ、という驚きを経験したことがあるのですが・・・」
私「私は小学校で教える分数の足し算は、分母が共通のものに限定していいのではないかと思っています。たとえば 1/5+2/5=3/5 といった計算だけでよいのではないでしょうか」
F「どうして、分母が同じ分数に限定する必要があるのですか。<通分>ができないままでいいのですか」
私「Fさんが言われるように、分母が異なると、通分という操作が必要になります。このことの意味を理解することは、小学生の中にはむつかしい子もいるのではないでしょうか。また、現実問題として、このような異分母の分数の足し算は実生活で必要になることはありません。能力的に難があって、実際の用にならないものは、教えない方がいいのです」
F「橋本先生は分数の足し算まで不要だというのですか。驚きましたね。それでは、小学校でいったい何を教えればいいのですか。能力は努力して身につけるものだと思います。むつかしい問題に挑戦して、鎬を削るからこそ身に着くのではないでしょうか。ゆとりの教育だとか言って、甘やかしていてはだめだと思いますよ」
B「Fさんに賛成です。橋本さんの話を聞いていると、能力の低い、勉強嫌いの子に全体の水準をあわせることになります。これでは優秀な子供がかわいそうです。日本は世界からおいてきぼりをくらって、国際競争にも勝てません」
<今日の一句> 麦わらを かぶりて笑う 少女あり 裕
| 2002年06月28日(金) |
日本の教育の問題点(14) |
F「分数の割り算を小学校で教えないとして、それでは中学校で教えるときにはどう教えるべきでしょうか。私たちが習ったのは、いわいる<ひっくり返してかける>という方式ですが、こうしたやり方はたしかに機械的で意味がともなわない典型ですね。そこで、意味やイメージが明瞭な、これぞという合理的な教授法があるなら、ぜひ教えてほしいものですね」
私「以前にも言いましたが、分数の割り算について、何か意味のある例題を考えることは、ほんとうに難しいですね。ちなみに、 3÷(1/2)=6 を考えてみたいと思います。Aさん、どうですか」
A「さっぱりわかりません。何かヒントを下さい」
私「それでは、 6÷3=2 はどうですか」
A「6個のパンを3人で分けたら、ひとり何個ずつでしょう。こんな例が思うかびます。しかし、これだと応用がききませんね。3個のパンを1/2人で分けたら、とは言えませんからね」
私「そうですね。<で割る>ということを、<で分ける>というふうに考えると、分数の場合は困ってしまいますね。そこで、<で分ける>という発想を捨ててみます。6÷3=2 を<6は3の何倍か>もしくは<6の中に3がいくつあるか>という風に考えるのです。そうすると、3÷(1/2)は・・・」
A「わかりました。3の中に1/2は何個あるかと考えればいいわけですね。答えは6になります。なあんだ、分数の割り算は簡単ですね。これなら、小学生にでも分かるのではないでしょうか」
私「小学生にでも分かるような気がしますね。しかし、Aさんは、どうして6という答えを導き出したのですか」
A「さあ、それは、困りましたね。直観で6になりました。しかし、これでは教師失格ですね。先生ならどう教えますか」
私「1の中に1/2は2個あるので、それを3倍して6が得られます。式であらわせば、 3÷(1/2)=3×{1÷(1/2)}=3×2=6 ということになります。結果的に、ひっくりかえしてかければよいわけですが、なぜそうなるのかという説明がこれでつきます。しかし、これは小学生の段階では、やはりむつかしいのではないでしょうか。だから、これは、やはり中学生になってからでいいのではないかと思うのです」
G「<で割る>ということを、<で分ける>という初歩の思考の段階にとどめるわけですね。割り算はあくまで分けることだということで押し切れば、なるほど混乱はありませんね。そのかわり、分数の割り算には触れないでおく。そうすれば、たしかに混乱はないし、すっきりします」
私「分数の割り算を理解するには、もうすこし高度な思考が必要なのですが、その思考を伴わない段階で教えると、どうしても機械的な理解に終わってしまうのです。結局、計算だけができても、それに見合った高度な思考ができるわけではない。一生分からないままに、おわってしまうわけです」
G「まさに私がそうですね。日本の大学生のほとんども、分数の割り算の意味を知らないのではないでしょうか。ただ、機械的に計算しているだけで、それに見合った高度な思考をしているわけではありません。また、いくらこうした計算に習熟したとしても、高度な思考ができるようになるわけではありませんね」
F「なるほど、先生が分数の割り算に消極的な理由がよくわかりました。しかし、私は反対です。私は計算はすべて機械的でいいと思うのです。まずは計算ができることが必要で、そのあと、ゆっくりと意味を考えればよいのではないでしょうか」
<今日の一句> 紫陽花に いのちのふしぎ 見つけたり 裕
| 2002年06月27日(木) |
日本の教育の問題点(13) |
楽斗さんからいただいたメールに対する私の返信と、楽斗さんの二番目のメールを掲載する。なお、日本の教育の問題点(1)〜(11)をまとめて読みたい方は、「何でも研究室」「数学World」「対話編数学教育は如何にあるべきか」をご覧ください。
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楽斗さん、メール、ありがとうございました。ご意見、非常に参考になりました。ご指摘の点を今後の日記の中に反映させて行きたいと思っていますが、結論だけを言えば、楽斗さんの
<学校の教育は「詰め込み教育」であるべきなのです。つまり、少々言い方は悪いですが言い換えると「やれば( 覚えれば)馬鹿でもできる勉強」であるべきなのです。もっと柔らかく言うと「努力がむくわれる勉強」であるべきです。橋本さんが今回おっしゃられた形式だと逆に努力はむくわれないと思います>
という意見には賛成できません。試験は何のためにあるのでしょうか。理解度や達成度をチェックし、学生に勉学への動機付けをあたえるためだと思います。試験のためのの勉強ではなく、人生のための勉強が本筋だと思います。
こうした本末転倒の考え方がまかりとおっているのが日本の教育の現状だと思います。馬鹿でもできる試験を作ることは意味がありません。馬鹿を作るために、なぜ莫大な教育費をつかい、子供たちの自由をうばわなけれなならないのか。ところが日本ではこのような不合理がまかり通っています。 (勉強すればするほど馬鹿になるというおかしなシステム)
< 1/3÷1/2=2/3 を、文章にすると、「楽斗君は友達から西瓜を三分の一頂き、それを家に持って帰り食べようとしたところ、一人娘が食べたがったので娘にあげることにしました。娘は楽斗君がいつも食べる量の半分しか食べないので、楽斗君より食べた時の満腹感より、倍の満腹感を感じたのでした>
これはなかなかいい線ですね。私が文章にすると、こんな感じでしょうか。 「いま、大ジョッキにビールが1/3だけ残っています。これを容量が半分しかない小ジョッキに入れ替えたら、さて、このビールの見かけはどうなりますか。答え・・・・2/3」
なお、ひよっとしてメールの全文を日記に引用させていただくことになるかもしれません。もし、不都合であれば、お知らせくださいね。 今後とも、貴重なご意見をお待ちしています。
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どうも楽斗です。
<試験は何のためにあるのでしょうか。理解度や達成度をチェックし、学生に勉学への動機付けをあたえるためだと思います。試験のためのの勉強ではなく、人生のための勉強が本筋だと思います>
えぇ、私もそうだと思います。本当に。ただ、理解度と達成度のチェックというその目的故に言ってしまえば、学校内のテストは丸覚えすれば高得点をとれるようになってしまいます。無論それは言うほど簡単なことでもありませんが。
人生の為に勉強はすべきなのですが、社会がそうはさせてくないのが現状でしょうか。生徒も試験の為の勉強をしなくては上位の高校・大学には入れないし、教師も人生の為の勉強を教えたくてもなかなかできません。
その点橋本さんも仰ってたように、米国の教育システムはいいと私も思います。勉強は所詮ただの「方法」であり決して「目的」なんかではないのですが、そんな当然すぎることが文部省にはわからないようです。大学合格の為に勉強は半ば目的と化しています。
でもまぁ、それは賢い子供が割り切ってすればいいだけの話で、別に全部が全部悪いとはそんなに思ってはいません。が。子供にとっては割り切るより他ないですからね。自分の生まれた国がそういうシステムな以上従うしか。嫌なら従わなければよいのですが、世間的にそれは恥ずかしいみたいな風潮が悲しいことにありますね。
勉強できるできないと頭がいいわるいは関係ないという言うのもどうかと思うぐらい当然すぎることがわかっていない人が多いのでため息がでます。しかし、あまりにも考える問題ばかりというのはやはりどうかと思うのですよ。やってできるからこそ楽しい(やる気がまだでる)やってできないならば楽しくない。(落ち込む)例えできなかろうが、やって、生徒が「面白い」と少しでも感じることはいいと思います。
ただ、僕が言うのはそれを全てにしては駄目だというだけで、まぁ「詰め込み教育にすべきだ」は多少大袈裟に言ったかもしれませんが、やはり基本は「頑張れば解ける」という問題だと、思います。
<馬鹿でもできる試験を作ることは意味がありません>
でも、実際そうなんですよね。馬鹿でも、努力すればできます。それが学校の問題です。と、いってもそんなに本当に馬鹿な子なんていません。馬鹿というと本当になにも理解できないように聞こえるかもしれませんが、ここでは普通の子と解釈して下さい。馬鹿が基本です、僕も馬鹿です。つまり努力する子はできてしない子はできない、と。賢い子は覚えるだけじゃ解けない問題を大学で専門的に学ぶことでしょう。
普通の子が解けない問題を前面に押し出す(必修にする)必要はなく、ただおまけ的要素として取り入れるといった形の方がよいのではないのでしょうか?というのが、結局の所の僕の意見です。
<馬鹿を作るために、なぜ莫大な教育費をつかい、子供たちの自由をうばわなけれなならないのか。ところが日本ではこのような不合理がまかり通っています。(勉強すればするほど馬鹿になるというおかしなシステム)>
そうですね、日本の文部省は本当どうかしてると思います。ただそうある以上子供は従わなければならないという悲しい現状です。「考える力」を養わせる為にという名目で将来実生活で使わないような計算をさせ、子供が無駄と感じ勉強意欲をそがれ数学嫌いになるようじゃ、本末転倒とか言う前になにがやりたいんだかわかりません。考える力を養わせたいのなら橋本さんの言うような形のものをもっと増やしていった方が効果的だと思います。
<いま、大ジョッキにビールが1/3だけ残っています。これを容量が半分しかない小ジョッキに入れ替えたら、さて、このビールの見かけはどうなりますか。答え・・・・2/3>
なるほど、こう言ってはなんですが、流石は現職の方ですね、見事な洗練です。私もかなりいい線いったと思いましたが、少し抽象的な表現に最後は頼らざるをえませんでしたからね、お腹の満腹度という非常に曖昧なものに(笑)。これだと量がはっきりしていてよいですね。
<今日の一句> 寝ころべば 吾も旅人 夏の雲 裕
| 2002年06月26日(水) |
日本の教育の問題点(12) |
6/16に日本の教育の問題点(11)書いて以来、10日ぶりの再開だが、今日と明日はスペシャル番外編である。実は、前回書いたことについて、ある方(楽斗さん)から長文のメールが送られてきた。許可をいただいたので、ほぼその全文をここに掲載しよう。なお、明日の日記に、私の返信と、楽斗さんの二番目のメールを掲載しようと思っている。
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はじめまして。楽斗ともうします。 本日(6/16)の学校数学の件に関し、私なりに思うところがあったので少々述べさせて頂きたいと思います。どうかご拝聴を。
なるほど、確かにもっともな意見だと私も思います。よく言われるのは、大学入試や模擬試験などで知識ではなく知恵を問われる問題、即ち「考える」問題を出された時その回答率は非常に低いというデータが出されています。
この話からもうかがえるように昨今の子供の考える力というのは全体的に見て低下していっているかもしれません。このデータだけでそう述べるのはいささか早計な気もしますが、他にも似たような事例や話はよく聞きますので、恐らくほぼ間違いのない事実でしょう。
それもこれも橋本さんも仰られるよう、今の学校の「詰め込み教育」に問題があるのかもしれません。ただ少し疑問があるとしたら、詰め込み教育云々の前に、まだそんな教育形式じゃなかった過去の学生はちゃんと「考える問題」を解けたのだろうか?という点でしょうか。もしそうじゃなかったら、ただ単に「本当に賢い子」が少ないだけというごく当たり前のデータかもしれません。昨今の教育に疑問を持つ現在社会の中だからこそ、このデータが目立ち、そういう風に受け止められしまったのかもしれません。
しかし、そんなことを言っても始まりませんし今回私が言いたいことはそういうことではありません。数学のお話、お見事でした。計算式からの文章問題作成という逆転の発想、本当に感心致しました。確かにこれは面白いですし、これならば意味を見い出せます。私を始め意外に誰も気付かなかったところだと思います。
数学を教えてらっしゃるという橋本さんですから、当然の如く様々な学生の生の意見をお聞きになっていることでしょう。その中の数学嫌いの子の言う大体の数学嫌いの理由は、「実際使う機会ないから無駄に感じる」というようなものだというのは、私にも推測をつけることができます。実際、私もそんな感じでしたので全くしませんでした。
この計算式からの逆の形式ならば、そんな私でも楽しめたと思います。同時に、考える力も養うことができ、文部省もゆとり教育だとか言う前に導入すべきかもしれません。
ただ、私はあくまでこの逆の形式は「おまけ」程度にしておくべきだと思います。むしろ、こういうのは大学等で学ぶべきことかと。いや、別に橋本さんは全ての数学問題をこういう形式にしろなどと言っているわけではないのですが。
何故かと言うとこの逆の問題形式は、本当に頭がよくないと解けないからです。無論簡単な問題ならば解けるでしょう。2+3や6ー5といった類のものであれば。しかし、橋本さんが例にあげたような1/2×1/3等と少しつっこむと、私は頭が悪いので少々答えに詰まってしまいます。恐らく中学生でもなかなか出しにくいでしょう。
それに、1+1等の簡単な数式では答えはいくらでもありますが、先に上げた1/2×1/3レベルの問題では、必然的に答えのパターンは決まってくると思います。要は置き換えです。
例えば「兄と弟はお父さんからヨウカンをお土産にもらいました。兄と弟はそれを半分こにして、兄はその場で食べましたが 弟はペットの犬三匹にそれを全部分け与えました さて、ペット一匹が食べたヨウカンは全体の何分の一で しょう?」といった具合に。
こういうパターンを、考えることを放棄した学生が行う可能性は十分にあると思います。それでも、初めてこの1/2×1/3の問題を出して回答例を出さないで宿題にすれば、十分効果はあるかもしれません。
本題に戻りまして、「おまけ」程度にするべきで、むしろこういうのは大学でやるべきだという私の意見の理由を再び述べさせて頂きますと、先程述べさせて頂いたように、こういう問題は本当に頭がよくないと解けない。というのは、大学受験なら数学は外すことができますが、高校受験ならほとんどの高校が5教科になります。その数学でこんな問題が1/3程でたらどうでしょう?
賢くない生徒は落ちないにしても、数学の点数はガタ落ちになってしまいます。学校の教育は「詰め込み教育」であるべきなのです。つまり、少々言い方は悪いですが、言い換えると「やれば(覚えれば)馬鹿でもできる勉強」であるべきなのです。もっと柔らかく言うと「努力がむくわれる勉強」であるべきです。橋本さんが今回おっしゃられた形式だと、逆に努力はむくわれないと思います。
こういう形式の問題はやってもできない子はできません。それだと問題なのではと思います。だからやるなら大学でするべきだ、と申したのです。それを証明しているのが国語が苦手だという子が多い、という事実です。いくらやり方があるとはいえ、性質が「考える問題」によっていると言えるからだと思います。
数学嫌いは基本的にはやらないからできないだけだと思いますので、国語嫌いとは性質が違うのではないかと思います。橋本さんも述べられたように「意味を見出せないからやる気もわかない、だからやらない、なのでわからない」というだけの話であって。
わかりやすい例で。私の学生時代の時にこういうクラスメイトがいました。範囲が決まっている期末テストでは全教科90点以上を出すのですが、いざ実力や模試となるとからっきしという子と、期末テスト等はさっぱりだが実力を問われるテストとなると高得点を出す子が。前者の子は、こういう「考える問題」ばかりになると、真面目に努力する子なのに、なにもむくわれず勉強する気がおこらなくなるでしょう。
反対に後者の子は、努力もなにもしないでいい点数がだせるので勉強は楽しくなるでしょう。だけど、当然のように後者の子の方が希なのは当然のことです。
やはり、これは少々大袈裟に言えば変な選民意識を育てる結果になるやもしれません。やればできるから平等なのであって、やってもできないのならこの国の教育に対する概念が根本から覆り、高校や大学にいくのが昔のように「特殊」になることでしょう。かといって別にそれが悪いことだとは言いませんが。
しかし、今気付きましたが、こういった形式の逆の問題も例に出した「置き換え」の要領でいけば、少々国語的な「答え方」ができますね。「この問題にはこういう答え方をせよ」というような「*の部分に問題の数字をあてはめればよい」みたいな感じで。「分数のかけ算ならこうだ」的な。
これは僕が上に述べた問題点は解消されますが、皮肉なことにこれを学生が丸覚えすれば、結局は考える力を養うことに繋がらず、問題は解決されていませんね。なにも変わらずです。やはりこの点からもおまけ程度にするべきかもしれません 。
以上、真に勝手ながらこんな長文・散文を送らせて頂きました。読んで頂けて幸いです。結果的に、なんだかケチをつけるような文章になってしまいましたが、基本的に私も橋本さんの意見には賛成ですし、考える力は育成すべきでただの機械的な仕事はどうかと思うのです。なので、もし気分を害されたらのでしたらすいませんでした。
それと、少し気になり分数の割り算の文章問題を私なりに考えてみたのですが、こういうことなのでしょうか? 1/3÷1/2=2/3 を文章にすると、
「楽斗君は友達から西瓜を三分の一頂き、それを家に持って帰り食べようとしたところ、一人娘が食べたがったので娘にあげることにしました。娘は楽斗君がいつも食べる量の半分しか食べないので、楽斗君より食べた時の満腹感より、倍の満腹感を感じたのでした」
こんな感じでしょうか?
<今日の一句> ひとむらの 浜昼顔や 海近し 裕
| 2002年06月25日(火) |
自己主張を尊ぶ教育を |
日本人は控えめだと言われる。あまり自己主張をしない。はっきりと自分の意見を表明することをしない。だから何を考えているのか解らないので、警戒されたりもする。
意見を言わないのは、島国で生きてきたので、「もの言えば唇寒し」ということもある。自己主張を嫌い、それをはしたないことのように考え、自己主張しないのが奥ゆかしく、大人びた振る舞いだという文化的風土もありそうだ。
このような雰囲気の中では、自己を表現し主張する能力は養われない。つまり、主張し表現すべき自己が育たない。自己がなくては、物事を論じようにも、自分なりの判断ができない。
日本では知識がある人を「知識人」と尊ぶが、しかしいくら知識があっても、それはものを考える土台でしかない。大切なのはその知識の上に立って、自分なりの意見や主張を組み立てる思考力と構想力である。
しかし、この力量が欠落している多くの日本人は、自分の頭で物を考え、自主的に判断することができない。そしてただ、社会的に通用する意見や、他の権威ある人物の意見にわけもなく追従する。つまり思考の自立ができていないのだから、民主主義もあったものではない。
どうしてこのようなことになるのか、それは日本の社会にまだ本当の意味で個人主義が根付いていないからだ。自分の頭でものを考え、自己主張を尊ぶ価値観が根付いていない。また、そのような価値観を根付かせるような教育が行われていないからだ。
自己を主張し、自己を表現すること、そのことを目標にして教育は行われるべきではないか。日本の教育はこの理想を見失しなっている。だから腰が定まらず、これという成果があがらない。そして、まるで見当違いなことを目標にして、とんでもない方向に暴走したりする。情けないことだが、これが我が国の教育の現状だろう。
<今日の一句> あめつちに ひととき咲ける 朝顔あはれ 裕
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5.花瓶の花 K子とお見合いらしいことをしたのが、1月の中旬だった。お見合いを勧めてくれたのは、石川橋の下宿の大家さんである。もう少し正確にいうと、下宿先の婆さんの次男で、彼の奥さんの姪がK子だった。
しかし、そのときすでに私はS子と肉体関係を持っていた。S子は読書会を通して知り合った女性で、私より一足早く29歳になっていた。S子のことはK子に言ってなかった。まるで私を聖人君主のように考えているK子に、自分の身上を打ち明ける気持になれなかった。
S子とはなるべく早く別れたかったが、S子の方には私と別れる気持はまるでなく、別れるそぶりを見せたりすると、S子は顔色を変えてますます私にしがみついてきた。S子と縁が切れない以上、K子との結婚話は断るしかない。しかし、K子の笑顔を見ていると、そんな決心もひるんだ。
そうして、ぐずぐずしているうちに、状況はさらに悪くなっていた。K子が私との結婚を望んでいることは花束の一件からもあきらかだった。さすが私はK子には指ひとつ触れてはいなかったが、この先、K子の薄着の肌を身近にしていると、手を伸ばしたい誘惑がわいてくるかもしれない。もちろん、そんな事態は避けなければならない。
誕生日の翌日の土曜日、私は途中のスーパで買い物を済ませて、珍しく4時過ぎにアパートに帰ってきた。階段を上り、ドアの前に立って、ズボンから鍵を取りだそうとすると、誰かが近づいてきた。振り返ると、S子だった。
「ご迷惑?」 「いや、別に。よくきたね」 「嘘ばっかし。あなたはすぐに顔に出るから、よくわかるのよ」 「そうかな、迷惑じゃないが、少し疲れているんだ」 「それが、久しぶりに合う恋人にたいする言葉なの」
こんな会話を隣近所に聞かれたくはない。私はドアを開け、S子をアパートのの中に入れた。玄関先がキッチンになっている。靴を脱いだS子の顔の表情がみるみる険しくなった。私は食卓の花瓶に花が活けてあるのに気付いた。S子の視線が、花瓶の百合の花に注がれていた。 花の匂いが狭いキッチンに充満していた。
「この花、どうしたの」 「買ったんだ。あんまり殺風景だから」
私はぶっきらぼうに応えると、隣の居間へ行って、背広を脱ぎ、ネクタイを外した。そして、カーテンを開けると、ベランダ越しに青い空を眺めて、ため息をついた。気がつくと、S子が私の散らかした背広やネクタイを拾い上げていた。
自伝を第5部を書き始めた。月曜日の連載にしたのは、日曜日に書く時間がもてると思ったからだ。さいわいこれまでのところ、支障もなく筆が運んでいる。
私は自伝に限らず、日記、小説、短歌や俳句、なんでも書く。書くのが好きなのは、あれこれと自分でものを考えるのが好きだからだろう。フランシス・ベーコンが「著述は正確な人間を作る」と書いているが、書くことによって自分の考えを明確に掴むことができる。 Reading makes a full man ; conference a ready man ; and writing an exact man.
科学的なテーマや哲学的な文章に限らず、文学的な文章や、詩や俳句などの韻文でも同じことだ。書くことで鍛えられるのは思考力や論理力ばかりではなく、感情や情緒も耕され、陶冶される。
自伝を書く場合、ともすると自己中心になりがちだ。過去の思い出に耽ったり、自己を正当化し美化したり、あるいはその反動で、自己卑下や露悪趣味に陥ったり、とにかく文章は清明さを失いやすい。
したがって自伝を書く場合には、とくに自己を他者の一人として捉える自己放下の精神が要求される。このことは難事業だが、成功したときは爽やかな風に吹かれているような快い気持になれる。感情教育のためにも自伝を書くことは役にたちそうだ。
自伝を書くことで、過去の知己に再会することができる。懐かしい人たちばかりではなく、不愉快な人物や不愉快な出来事と向かい合うことにならないとも限らないが、それも楽しみの一つである。嫌悪すべき人物や事件そのものが、振り返ってみて、恩寵のようにありがたく感じられることもある。
「自伝」に限らず、自分で文章を書くことの楽しみは多岐に渡っていて、とても言葉でいいつくせない。書くことで、私たちは思想や感情を成熟させる。こうした自己充足感は、いちど味わったら、やみつきになるものらしい。
<今日の一句> 紫陽花と 円空仏と ひとつ寺 裕
中学や高校の頃、よく近所の公園へ行って、星空を眺めた。星空を眺めていると不思議な気がしてくる。直径が10万光年もあるという私たちのこの銀河には、1000万個もの恒星があるという。しかも、そうした銀河が、この宇宙にはさらに1000万個以上あるというのだ。
1600年にジョルダーノ・ブルーノは、「宇宙は無限である」と考え、「太陽も星の一つに過ぎない」と主張したため、異端視されて裸のまま十字架に縛り付けられ、広場で火あぶりの刑をうけた。しかし、やがてガリレオは自作の望遠鏡を天の川に向けて、地球どころか太陽でさえも宇宙の中心ではなく、無数の星くずのひとつに過ぎないことを確信した。
現代の科学者は、聖書や教会が主張するように、人間は神に似せられて創造された唯一例外的な存在であることを信じていない。宇宙を支配する法則は普遍的なもので、宇宙には人間以外に、数多くの知的生命体が存在しているに違いないと思っている。
そうした知識を持って、その広大で悠久な宇宙という視点から人間の社会を見つめ、自己の人生を見つめてみると、そこにまた新たな感慨が起こってくる。宇宙に向かっていた視線が、いつか反転して、自分たちの住む現実世界を照らし出し、そこに新たな人生の意義や装いを与えていることに気付く。
私は詩人とはこうした「永遠」というもの認識を足場にして、現実の人生を見つめることのできる人ではないかと思う。芭蕉は俳句を詠むということは、「高く悟りて俗に還る」ことだと説いている。「行きて帰ること」が必要だとも述べているが、私は芭蕉のこの言葉がことのほか好きだ。
思考の翼は私たちを地上高く運んでくれる。それは自己という狭苦しい牢獄から解放し、宇宙の広大さと永遠さに触れあわせてくれる。そして、そうした永遠の視点に立って、ふたたび人生の万物を見つめるとき、そこに自ずから生まれてくる人生の発見がある。私はそれこそが「詩的なもの」の正体ではないかと思っている。
<今日の一句> 彦星を さがしてをれば 蛙なく 裕
山頭火と並んで、放浪の俳人として知られているのが尾崎放哉(1885〜1926)である。放哉も山頭火も荻原井泉水主宰の自由律俳句誌「層雲」に投句していたが、兄弟弟子であった二人が、生前会ったことはなかったようだ。
放哉は明治18年、鳥取県に生まれ、一高、東京帝大を経て、東洋生命保険会社や朝鮮火災海上保険株式会社に勤め、エリートとしての人生を歩む。しかし酒癖が悪く、挫折を繰り返し、やがて妻子とも別れ世俗を捨て、寺を転々とした。
大正14年、福井県小浜町の常高寺に寺男としてやってきたが、貧乏寺だった常高寺での生活もまたたく間に終わり、やがて小豆島南郷庵に住むこととなる。そこに隠棲して、句作三昧の生活を送るが、粗食から病を得て、翌15年4月7日に42歳で没した。
その3日後の4月10日に、45歳の山頭火が放哉の衣鉢を継ぐかのように、行乞流転の旅に出ている。そのきっかけは放哉の死の報せであったに違いない。実際、山頭火はのちに小豆島の放哉の墓に詣でている。そこで、放哉の名句「せきをしてもひとり」に和すようにして、次の句を墓前にたむけている。
鴉啼いてわたしも一人
放哉と山頭火はほとんど同年輩であり、同じ自由律の俳人としてお互いを意識していたようだが、作風はずいぶんちがっている。野生人の山頭火にくらべ、放哉には都会人の繊細さと孤独が感じられる。句のすがたも寡黙で端正に整っている。
あすは雨らしい青葉の中の堂を閉める 足のうら洗へば白くなる こんなよい月を一人で見て寝る 山に登れば淋しい村がみんな見える 入れものが無い両手で受ける せきをしてもひとり 墓のうらに廻る 春の山のうしろから烟がでだした
放哉は日記を書かなかったようだが、そのかわりたくさんの書簡を書いた。そのなかから、俳弟子の星城子に書いた一節を引用しよう。
「俳句は詩なのです。私をして云わしむればむしろ宗教なのです。宗教は詩であります。決して哲学ではありません。之を論じることになれば、すこぶる長くなりませう。私はただ結論をここにあげて、あとは賢明なあなたの解釈に任せませう」
かって小豆島の西光寺の放哉の墓を訪ねたことがある。それから、放哉が寺男として暮らした若狭小浜の常高寺も訪れた。小浜市は私が小学生の頃過ごした土地でもあり、放哉の足跡を辿るのが楽しかった。ちなみに放哉は小浜でこんな句を作っている。
あたまをそつて帰る青梅たくさん落ちてる 淋しいからだから爪がのび出す ころりと横になる今日が終つて居る
<今日の一句> ふるさとの 寺を下れば 夏の海 裕
種田山頭火(1882〜1940)という俳人がいた。山口県防府に地主の長男として生まれながら、彼はやがて妻子を捨て,世間を捨て,行乞の人生を送り,俳句一筋に生きた。詠んだ俳句は約八万四千句だという。
山頭火は幼い頃、井戸に身を投げた母親の白い死顔を目撃している。そして、さらに追い打ちをかけるような弟の首吊り自殺。山頭火はついに大正15年4月、45歳の時、「解くすべもない惑ひを背負うて」行乞流転の旅に出た。
おちついて死ねそうな草萠ゆる 朝は澄みきっておだやかな流れひとすじ 夕焼うつくしく今日一日つつましく 食べることの真実みんな食べている 分け入っても分け入っても青い山 酔うてこほろぎと寝ていたよ いつのまにやら月は落ちてる闇がしみじみ 笠へ落ち葉の秋が来た ゆっくり歩こう萩がこぼれる 山のしづけさは白い花
彼の生きた時代は、関東大震災から世界恐慌、満州事変、太平洋戦争へと傾斜する殺伐とした動乱の時代だった。そうした厄介な時代を、俳句を生涯の友としてしぶとく生き抜いた山頭火は、生命力の旺盛な反骨の人だったようある。彼は俳句だけではなく、日記も残している。
「征服の世界であり、闘争の時代である。人間が自然を征服しようとする。人と人が血みどろになって掴み合うている。敵か味方か、勝つか敗けるか、殺すか殺されるか。……私は巷に立ってラッパを吹くほどの意力をもっていない。私は私に籠もる。時代錯誤的生活に沈潜する」
「道は非凡を求むるところにはなくて、平凡を行ずるところにある。句を磨くことは人を磨くことであり、人のかがやきは句のかがやきとなる。人を離れて道はなく、道を離れて人はない。道は前にある。まっすぐ行こう」
「生きることは味ふことだ。酒は酒を味ふことによって酒も生き、人も生きる。しみじみと飯を味ふことが飯をたべることだ。彼女を抱きしめて、女が解るというものだ」
「身心が燃えている。自分で自分をもてあます。どうしようもないから川に飛び込んで泳ぎまはった」
「昭和7年度の性欲整理は6回だった。内2回不能、外に夢精2回……」
「ある時は澄み、あるときは濁る。澄んだり濁ったりする私であるが、澄んでも濁っても、私にあって一句一句の身心脱落であることに間違ひはない」
「清貧に安んじて閑寂を楽しむ。さうなる外はない。昨日を思はず、明日を考えず、今日は今日を生きる。これがやっぱり、私の真の生活である」
天地を我家とし、旅を生涯の住処とした山頭火の足跡は、九州から東北まで全国至るところにしるされている。そして昭和15年10月11日未明、松山市御幸町の御幸寺境内の草庵で、山頭火は念願のころり往生を遂げた。享年59歳だった。
<今日の一句> 偲びつつ 歩けばさびし 白い花 裕
| 2002年06月19日(水) |
「あはれ」と「をかし」 |
私は俳句も短歌もともに親しんでいる。どちらが好きかときかれても、容易に答えることはできない。小説と短歌のどちらが好きだと問われて答えられないのと同じである。
プロの世界では、歌人と俳人の区別はある程度はっきりしている。斉藤茂吉は歌人であって、俳人ではない。茂吉の短歌は知っているが、茂吉の俳句は浮かばない。俵万智の俳句もあまり知らない。
しかし、正岡子規は短歌と俳句と両方の大家であった。良寛も漢詩を作る傍ら、歌を詠み、俳句を作っている。もともと俳句は連歌の発句が独立したものだから、両者に共通する部分があることはいうまでもない。
安積香山 影さえ見ゆる 山の井の 浅き心を 吾が念はなくに (万葉集 巻16−3807)
朝顔や 一輪深き 淵のいろ 蕪村
あえて言えば、短歌は俳句に比べて主情的だということができよう。和歌では、上の句で情景を述べ、下の句で作者の心が述べられる場合が多いが、俳句はこの下の句が省略されて、上の句だけ独立したと考えることができる。上の句の情景の客観描写のなかに作者の心情が託されるために、俳句の方がより感情の吐露が間接的で、理知的に感じられる。
和歌の境地が「もののあはれ」だとすると、俳句で言われる「軽み」は「をかし」の系譜だろう。紫式部に俳句は合わないが、清少納言ならしっくりするのではないか。本居宣長が歌人だったことも当然だし、漱石や芥川龍之介が俳句に親しんだことも、彼らの諧謔の嗜好や思想から考えてよくわかる。
朝寒や 生きたる骨を 動かさず 漱石 木枯らしや 目刺しに残る 海の色 龍之介
さて、私の俳句だが、実はもう30年前から親しんでいるので、年季だけは入っている。昔の日記をよむと、俳句が書き散らしてあってほほえましい。最近の日記はこれをいくらか復活させたわけだ。ある人と俳句の交換をはじめたことがきっかけになって、私の心に火が灯ったようで、この4カ月ほどで百五十句あまりを得ることができた。
<今日の一句> 句をひねる 灯のかたわらに 黄金虫 裕
「今日の一句」と題して日記に俳句を書き始めたのは5月5日からである。一ヶ月以上続いているわけだが、できればこの調子で続けてみたいと思っている。1年間続けると四季が一巡する。
自由律といって、575の定型や季語にこだわらない俳句もあるが、そうした俳句はかえって難しいので、私の場合はできるだけ定型に従い、さらに季語もとり入れて作りたいと思っている。
もとより俳句についての知識や素養があるわけではない。俳句と言うより、俳句らしいものをただ毎日ひとつづつひねりだし、並べているに過ぎないのだが、あまりむつかしく考えないのが私の流儀である。
もとより俳句のよいところは、むつかしい作法がないことである。それは俳句の生みの親である芭蕉自身が、「強いていわんとならば、ひびき、匂ひ、さび、しおり、この四つをもて四義といはんか。それも要らぬ事なるべし」と述べていることからもわかる。
こうした芭蕉の遺言が俳句を大衆文化として浸透させ、庶民にささやかな表現のよろこびを与え続けた。以来日本人はむつかしい理屈や知識などにとらわれずに、ただ自然や人生について、印象に残ったことや思ったことを、575のかたちに応じて気楽に書いてきた。
大切なのは、日々の生活の中で、自分が何を感じ、何を思うかということだろう。俳句を作り続けるなかで、こうした繊細な感覚が磨かれることになる。しかし、うまい俳句を作ろうと思って作っても、しょせんそれは作り物にすぎない。そうした作為を離れて、感じたことをそのまま素直に表現できればよい。しかし、その簡単で単純なことが、実は一番難しい。
<今日の一句> さつき晴れ 一句ひねりて 旅ごころ 裕
さつき晴れは辞書を引くと「五月の空の晴れ渡ること」とある。しかし、もともとは「梅雨の晴れ間」のことを言ったらしい。そうすると、六月のいまごろの季語として「さつき晴れ」を使うことは許されるだろう。ただ、「五月晴れ」という字面は避けた方がよさそうだ。
先週に続き、自伝第5部「結婚まで」(4)を書こう。前回までの分までをあわせてご覧になりたい方は、このページの上の表示をクリックしてください。今回の分と合わせて載せてあります。
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4.通勤のたのしみ 勤務先の加茂ケ丘高校へは電車とバスを乗り継いで、片道2時間以上かかった。だから、朝の6時前にはアパートを出なければならない。さいわい、私は朝には強い方だったので、早起きは苦にならなかった。5時頃起きだして、トーストとコーヒーの朝食を食べ、時には洗濯をすませた。
西春駅まで歩いて十数分。朝の6時でもプラットホームは通勤客であふれていた。電車も満員で、座席に坐ることはできない。電車が揺れる度に、周囲の乗客が私に胸や背中を押しつけてくる。若い女性と肩や背中が触れ合うこともあったりして、妙な気分になった。
夏が近づいてきて、女性が薄着になると、私の裸の腕に相手の体温まで感じられるときがあって、おもわずエキサイトした。こうした状況で痴漢行為が行われない方が不思議なくらいである。私自身、何気なく近くの女性の指に手を触れたことがあった。指先が触れ合ったとき、女性は怪訝な表情で私を見た。私はあわてて指を離したが、今考えると、これは立派な痴漢行為である。
名古屋で大半の乗客が降りるので、知立までは座ることができた。知立で豊田線に乗り換えて、豊田で降りる。そこで社会科の新任教員の古川さんと一緒になった。古川さんは相変わらず黒のダブルに、サングラスである。ちょっと見にはとても新任教員には見えない。というか、堅気のサラリーマンには見えないのである。
そこから30分ほどバスに揺られる訳だが、これも生徒で満員である。私と古川さんはいつも一番後部の座席に座った。そこが指定席になっていて、生徒もあけておいてくれた。吊革に手を伸ばしている女生徒たちの横顔を眺めながら、二人で雑談しているうちに、バスは町中を抜けて、山村の田舎道に入る。停留所ごとにさらに生徒を乗せて走るので、ますます混んでくる。バスは2時間に1本しか走っていないので、乗り遅れると大変だ。
帰りは古川さんと知立まで一緒だった。豊田駅前の喫茶店に入って飯を食べたこともあったが、古川さんは豊橋の実家から通勤していたので、食事をとる必要はない。私だけ食べるのも気が引けるので、たいていは知立の駅のプラットホームでたこ焼きを買って、ベンチで食べることになった。話すことはお互いの身の上話や、社会情勢、政治や軍事の話である。古川さんは社会科の先生なので、社会情勢に明るく、話題はつきなかった。
知立の駅で古川さんと別れた後、私は名古屋まできて、駅の地下の食堂で夕食を食べた。サラリーマンが出入りするような安食堂で、そこでみそ汁と焼き魚つきの定食を食べ、時にはビールを少し飲む。そうして、再び電車に乗って帰ってくると、帰宅時間はすでに9時を過ぎている。あくる朝が早いので、あとは風呂に入って寝るだけである。
もちろんこうした日常が破られることもある。そのころ私は二人の女性とつきあっていた。一人は23歳のK子で、保母をしている彼女とは一応結婚を前提で交際していた。ある日、名古屋駅の改札口を出たところで、白いワンピースの小柄な女性に「橋本さん」と呼び止められた。
振り向くと、そこに花束を持ったK子が立っていた。「お誕生日、おめでとうございます」そう言って、K子はにこりと笑うと私に花束を差し出した。そう言われるまで、私は自分の誕生日をすっかり忘れていた。それにしても、いつ着くか分からない改札口で、K子はよく待っていたものである。
これには驚いた。そして、K子から渡された花束と、彼女の愛嬌のある笑顔を眺めながら、これはちょっと困ったことになったと思った。私はあるよんどころのない理由で、すでにK子と別れる決心を固めていた。そして、彼女にいつ別れ話を切り出そうか、まよっていたところだった。花束をもらった日にそんな話ができるわけはなく、私はそのあとK子と喫茶店で軽くお茶を飲んで、すこし素っ気なく彼女を帰した。
| 2002年06月16日(日) |
日本の教育の問題点(11) |
E「計算を通して思考力をやしなうとか、将来に開かれた視点からの数学教育と言われても、私には話が抽象的でよくわかりません。もう少し具体例を出して、わかりやすく解説していただけませんか」
私「分数計算の例で考えてみます。たとえば (1/2)×(1/3)=1/6 という計算式があるとします。これに該当するような事例をあげてもらいましょうか。Aさん、どうでしょうか」
A「たとえば、2人の息子がいて、親が二人に土地を半分ずつ分け与える。さらにそのうちの一人の息子に3人の子供がいて、彼らに1/3ずつ土地を遺産相続させるとします。そうするとその孫の受け取る土地は、祖父の土地の1/6ということになります」
私「おみごとですね。それでは次にEさんに質問しましょう。1/5+2/5=3/5という計算式が成り立つような具体例を一つあげてくれませんか」
E「ケーキをA君とB君がそれぞれ全体の1/5と2/5だけ食べたとすると、二人に食べられたケーキは全体のどれほどの部分になるか。食いしん坊ですからこんな例しか浮かびません」
私「結構ですよ。そうした具体的なイメージをいろいろと思いうかべながら分数のかけ算や足し算の問題練習をしてみてはどうでしょうか。計算問題を機械的に解くのではなく、逆に計算式から、文章題を作ってみたり、その状況を考えてみるのです。そうすると計算式が単なる死んだ記号ではなく、ある具体的な意味を担った<ことば>であることが実感され、数式が身近な生命を帯びたイメージとして感じられるはずです。具体的計算を通して、この意味を帯びたことばとしての数式感覚を育て上げていくことが大切だと思います」
G「なるほど、数式に生き生きとしたイメージが伴わなければ、それは本当に数式を理解したことにはならないわけですね。そしてその本当の意味が分からなければ、それを使って現実の問題を解決していく実践力も生まれない。先生が分数の割り算を不必要と考える理由もそこにあるのですね。数式の背後にある具体的状況が浮かばないような計算ばかりしていてはこの大切な実践的な感覚が身に着きませんからね。」
私「その通りです。数学が分からないという子供のほとんどは、数式に意味を見出すことができない子供たちです。そしてなぜそうなるかと言うと、そうした教育がなされていないからです。意味やイメージを排除して、ただ機械的規則だけたたきこんで、結果だけあっていいればよいという<忍耐力一本槍>のやりかたが、いかに本筋を外したまちがいであるか、これでおわかりだと思います」
C「なるほど。そうした子供に一方的な忍耐力を強要する教育が、実は数学嫌いを作り出しているのかもしれませんね。最初はそれで通用していても、いつか限界にぶちあたり、先に進めなくなりますからね」
私「努力しても報われなければ、やがて一は努力することのむなしさを感じるのではないでしょうか。忍耐力を強要するまちがった教育理論の罪はここにあります。忍耐力を強要する教師が、実は忍耐力を子供たちから奪っているのですが、彼らはそのことを認識しようとしないのです」
D「数学嫌いを作り出しているのは、子供に忍耐力がないからではなく、子供から忍耐力をうばうような、あやまった教授法に原因があるというわけですね。これは私も教師として肝に銘じておきたいですね。数学だけではなく、読書指導などにもこのことはあてはまるかもしれませんね」
私「そうです。数学だけの問題ではありませんね。調査によると、国語が苦手だという子供が数学以上に多いようですからね。しかし、国語教育の問題についてはまた今度の機会にして、話を数学教育に戻しましょう。話がすこしずつ煮詰まってきて、本質論に近づいたようですから、これからの議論がたのしみです。どうぞ、Fさん、発言して下さい」
F「分数の割り算を小学校で教えないとして、それでは中学校で教えるときにはどう教えるべきでしょうか。私たちが習ったのは、いわいる<ひっくり返してかける>という方式ですが、こうしたやり方はたしかに機械的で意味がともなわない典型ですね。そこで、意味やイメージが明瞭な、これぞという合理的な教授法があるなら、ぜひ教えてほしいものですね」
<今日の一句> さわやかな 木立のみどり 日のひかり 裕
| 2002年06月15日(土) |
日本の教育の問題点(10) |
G「私たちが数学を学ぶのは日常的な実用性だけではないと思います。<考える力>を身につけることも大切です。先生の意見は算数教育におけるこうした知能的な側面を軽視しているように思えます」
私「私は<考える力>を身につけることが数学教育の大きな目標だと思っています。しかし、いきなり抽象的な思考力が身に着くわけではありません。児童の発達にあわせた教育が大切です。小学校ではもう少し実用性を配慮してはどうかと思います。そうした観点から、その象徴として、分数計算の簡素化を提案しているわけです」
B「私は反対ですね。分数計算はたしかに面倒だけど、計算力を養うための格好の教材だと思いますね。いまの子供は計算力がないようですが、こうした計算軽視の風潮が大きな原因ではないでしょうか」
E「そういえば、昔は珠算が盛んでしたね。私もこれはがんばりましたよ。算数や数学は苦手でしたが、珠算は得意でした。商売をやるうえで、珠算はいまも役立っています。実用性という意味で、珠算を復活させてはどうでしょうか」
私「今は計算機の時代ですから、珠算の実用性は昔ほどではないでしょうね。それにしても、数学が苦手だったEさんが珠算の名人だったとは知りませんでしたね。ちなみに私は珠算塾に通いましたが、落ちこぼれ組でした。どうしても機械的な計算が好きになれなかった。それにあの集団的な雰囲気が好きになれなかったようですね」
B「インドなどでは19×19の二桁九九を覚えさせるそうです。インドはソフトウエアプログラミングの分野で急成長を遂げていますが、そうした優秀なプログラマーが輩出しているのは、こうした高度な九九計算を小さいときにたたき込んでいるからではないでしょうか」
私「インドがソフトウエアの開発の面で優れていることは周知の事実ですが、それと19×19の二桁九九をと直接はむすびつかないと思います。それは珠算と数学が直接結びつかないのと同じです。むしろ、インドの数学教育の性格は論理的な方面の重視だといわれていますね。学校では徹底的に証明問題を解かせているようですよ。計算問題重視の日本の教育とは対照的です。私もプログラムを少しだけやりますが、そこで必要なのは論理力プラス構想力だということがよくわかります」
A「話を算数に戻しますが、数学教育の初期の段階では、児童の発達段階に応じて、実用性を重んじる必要があるというわけですね。そうすると、論理力はしばらくおいておいて、計算力を重視するということになりませんか」
私「そうではありません。論理力軽視ではなく、実用に役にたつ具体的な計算力を身につける中で、数学的に考える力をも養成していく必要があるということです。単に計算力重視ということではなく、もうすこし普遍的で発展性のある、将来に開かれた視点からの数学教育が必要でしょうね」
E「計算を通して思考力をやしなうとか、将来に開かれた視点からの数学教育と言われても、私には話が抽象的でよくわかりません。もう少し具体例を出して、わかりやすく解説していただけませんか」
<今日の一句> かみなりに 遠き神代を 想ひけり 裕
| 2002年06月14日(金) |
日本の教育の問題点(9) |
B「学校5日制が行われる中で、学力の崩壊をどう防いでいくか、何か有効な手だてがあるのでしょうか。話をもう一度、この点に戻していただけませんか」
私「私は学力は自然に崩壊していくものだと思います。だから、学力を維持しようと思ったら、たえず学び続ける必要があります。高校生や大学生が分数計算ができないのも、この意味であたりまえです。分数計算なんて、現実生活でほとんど使わないでしょう。そうした役にたたない知識は自然に淘汰されるわけですね」
F「そうすると、先生は分数計算など必要ないとお考えですか」
私「そうですね。小学校であまりむきになって教えるほどのものではないと考えています。実際、1/2+1/3などという計算が日常生活の場面で必要になることはまずありません。分数の割り算など、現実生活で使うことはまずないでしょうね。皆さんに質問しますが、1/2割る1/3という計算が必要になるのはどうした場面でしょうか」
G「それは、ちょっと具体例が思い浮かびませんが、純粋な数学理論として、これは学ぶ価値があるのではないですか。数の体系というようなものを合理的に理解しようとすれば、分数の割り算は避けて通れないと思います」
私「その通りです。分数の割り算が必要になるのは、数の体系といった、まさにそうした抽象的な次元においてなのです。だから、これはいずれ学ぶ必要があります。しかし、小学生に学ばせることではありません」
F「そうすると、分数計算は小学生の段階では必要がないとお考えですか」
私「分数は教えるべきです。また、2/4=1/2といった約分の関係や、分母が同じ分数どうしの足し算や引き算、1/4+2/4=3/4などは教えるべきでしょうね。あとは、2/3×1/2といった分数のかけ算、そのくらいで十分だと思います」
G「単に日常的な実用性から言えば、その通りかも知れません。しかし、私たちが数学を学ぶのは日常的な実用性だけではないと思います。<考える力>を身につけることも大切です。先生の意見は算数教育におけるこうした知能的な側面を軽視しているように思えます。この点は賛成できませんね」
<今日の一句> 初恋の 乙女のごとし 百合の花 裕
| 2002年06月13日(木) |
日本の教育の問題点(8) |
E「学校5日制に反対している人たちが多いと聞きましたが、それではまた、もとのようにもどしてはどうでしょうか」
私「それはもう、時代の流れとしてむつかしいでしょうね。家庭や社会のあり方を変えていくように努力すべきではないでしょうか。学校にすべてを押しつけるのではなしに、家庭と地域でそれぞれ分担し、おたがいに連携し合うことが大切だと思いますね。私の友人で高校生の息子さんをブラジルに留学させている先生が掲示板にこんなことを書いてくれました」
<次男は今、ブラジルの高校に行ってますが、授業は朝7:00から始まり昼の12:30に終わるそうですよ。午後はフリー。息子はホストブラザーの大学生の兄につれられていろいろと楽しく過ごしているようですが、彼は日本語も英語もぺらぺら。日本の学生より優秀です。
日本の高校生は「自分はダメな人間だと思うことがある」の割合が73%らしいですね。どうして自分に対して否定的になるのでしょうか。否定的にならざるを得ない環境にもっと目を向けないといけないのかもしれません。大人も子供も「夢」や「情熱」や「挑戦する気概」をもてない今の日本はどこか狂っていますね>
C「たしかに自立心や独立心を奪うような教育はおかしいですね。夢や希望がもてず、自分に否定的にならざるをえない環境が問題でしょうね」
G「とにかく学校5日制という枠を作ったわけです。これからこの制度をどう活用していくか、前向きに考えた方がいいですね。まだ、スタートしたばかりですが、やがてここから様々な活動生まれ、<夢>や<希望>が育っていくのではないでしょうか。当面はいろいろと紆余曲折がありそうですが、ながい目で見ればきっとそれなりの成果が生まれてくるかも知れませんね」
F「私にはそうは思えません。自由やゆとりを活用することができるのは、ほんの一部の子供たちだと思います。自立心や独立心のない今の子供たちが、自主的に何かに参加したり、学んだりするとはとても思えません。教育には強制も必要です。自由という名の下に教育の手抜きが行われてはならないと思いますよ。今の子供たちに必要なのは忍耐心ではないでしょうか」
C「やはり、放任はいけません。何かの手だては必要だと思いますね。補習や部活動もその一つでしょうが、できたらもっと社会性の身につく活動があればいいですね。たしかに忍耐心も大切ですが、私は日本の教育の欠点は社会性の軽視にあると思っています。このことが生徒達から学ぶことの意欲を奪っているのだと思っています」
D「アルバイトでもいいですね。ボランティアやNGOの活動に参加するのもいいし、大学の公開授業に参加してもよい。学校5日制が定着し、入試制度がすこしづつ変わっていけば、生徒たちの姿勢も変わって行くし、ひいては社会全体がかわっていくと思います」
私「学校5日制はそうした可能性を開くものだと思います。そうした未来の芽をこれから大切に育てて生きたいですね。後ろ向きの議論ばかりが目につきますが、ここはひとつ私たち大人が発想を変えて、これをひとつのチャンスととらえていきたいものだと思います」
B「方向性としてはそれでいいのかもしれませんが、それでは当面深刻化している学力崩壊はどうしたらいいのでしょうか。学校5日制が行われる中で、学力の崩壊をどう防いでいくか、何か有効な手だてがあるのでしょうか。話をもう一度、この点に戻してくれませんか」
<今日の一句> 紫陽花も ほのかに匂ふ 雨上がり 裕
| 2002年06月12日(水) |
日本の教育の問題点(7) |
D「今年度から学校の週休二日制が完全実施されているわけですが、たしかにあまり評判がよくないようですね。ますます学力崩壊に拍車がかかるのではないかという懸念がひろがっています」
A「私立では完全実施を見送るところが半数以上あると聞きます。これでは公立学校との格差が広がるのではないでしょうか。公立学校でも何か手だては考えているのですか」
D「学校によっては土曜日に補習を実施しています。あと、課題を出したり、部活動をしたり、いろいろと対策を考えているようですね。しかし、これは本来の趣旨からいうと、おかしいのではないかと思います」
私「そうですね。週休2日制のねらいは、子供を学校から解放して、家庭や地域に返し、そこでいろいろな体験をさせるということでした。そしてそうした豊かな体験を通して、いわゆる<生きる力>に結びついた本物の学力を身につけさせようということではなかったかと思います」
B「しかし、家庭や地域にそれだけの包容力がない現状で、子供を学校から解放するのはどうかと思います。結局、子供たちは暇を持て余して、自堕落になるだけではないでしょうか。外国の場合は、週休2日制があたりまえだと思うのですが、どんな暮らしをしているのでしょうね」
私「外国の場合は先進国、後進国を問わず、週休2日制があたりまえです。たとえばアメリカの場合、子供たちが学校に行くのは180日そこそこですが、日本の場合、去年までは220日以上ありました。1月以上も多く出校していたわけですね。日本で今年から週休2日制が完全実施されて、その差は20日ほどちじまりましたが、それでも外国では夏休みが2ヶ月以上ありますから、まだまだ日本の子供の方が20日近く多いわけですね」
D「外国の場合は家庭や地域が教育を分担していのではないでしょうか。アルバイトやスポーツ、ボランティア活動なども盛んだと聞いています。さらに、決定的な違いは、外国には日本のような入試制度がないことですね。大学進学のために塾に通ったり、学校で補習をうけたりしなくてもいいわけです」
G「週休2日制度は外国ではあたりまえですね。子供だけではなく、大人もそうですから、違和感がないのではないでしょうか。日本の場合は、残念ながらそうなってはいませんね。何しろ働き盛りの50代の自殺率が異常に高い国ですからね」
私「人口10万人あたりの自殺率は、年間27人で、これはアメリカの2倍以上、イギリスの3倍以上だそうです。日本は世界で最も自殺者の多い国らしいですね。残念なことですが」
A「先日新聞を読んでいたら、自分を人並み以上だと思っているかという質問に対して、イエスと答えた日本の子供は3割りそこそこしかいない。アメリカや中国では、これが7割から8割り以上になっていました。日本の子供たちは自分に自信を持っていないようですね。これは大人も同じかもしれません」
私「週休2日制の是非を論じているうちに、思いがけない方向に議論が発展してきましたね。ますます収拾がつかなくなりましたが、この際、疑問点や問題点をどんどん出しましょう」
<今日の一句> 父の日と 家人いつわり ケーキ食う 裕
「万葉集」とのつき合いは、もう30年近くになる。十数年前に、これをもっと本格的に研究したいと思い、大学の通信教育を受けたりしたが、結局雑事に紛れて思いが果たせなかった。
しかし、今も、ときおり万葉集や、それに関連した書物を広げて、あれこれと瞑想に耽る。このひとときが、またとりわけ楽しい。万葉集は原生林の茂る大きな山のようでもあり、森と泉に囲まれた大地のようでもあるが、何よりも人間の心のふるさとである。人間の心の美しさ、情愛の豊かさを知りたければ、万葉集を読むのが一番である。
万葉集に「稲鬘」(いなかずら)という言葉が出てくる。上野誠さんの「万葉人の生活空間」によると、鬘(かずら)とは植物で作った髪飾りで、青柳やアヤメクサ、ユリ、橘などで作るものらしい。輪にして頭に載せるか、髪に挿したりした。
万葉集の中に、坂上大嬢(さかのうえのおおいつらめ)が大伴家持に稲鬘を送った歌があるので紹介しよう。ちなみにこのとき坂上大嬢は18歳、家持は21歳である。時は天平11年(739年)9月で、二人は少し前に結ばれていたが、当時のしきたりに従って、別々に暮らしていたと思われる。
我が蒔ける早稲田の穂立て作りたる 鬘そ見つつ偲ばせ我が背 (坂上大嬢 巻8−1624)
坂上大嬢は耳成山のふもとにある竹田の庄(橿原市東竹田町)に母親の坂上郎女と一緒にいたらしい。家持のいた大伴家の邸宅は平城京の近くの佐保(奈良市法連町)にあって、竹田の庄までの距離は約20キロメートルで、馬を走らせれば数時間の距離である。この歌に、家持はこう返している。
我妹子が業(なり)と作れる秋の田の 早稲田の鬘見れど飽かぬかも (大伴家持 巻8−1625) 大伴家は由緒正しい貴族である。家持はその御曹司だし、いとこの坂上大嬢も深窓の令嬢であってもおかしくない。その令嬢が稲作りを生業としている訳はないが、田に出て、農作業のまねごとくらいはしたのかもしれない。家持の歌にある諧謔は、そうした妻への愛情でもある。
驚いたことに、坂上大嬢はこのあとさらに、身につけていた下着を家持に送っている。家持の「身に着る衣を脱ぎて家持に贈りしに報ふる歌」を次に引いておこう。
秋風の 寒きこのころ 下に着む 妹が形見と かつも偲はむ (大伴家持 巻8−1626)
古代では恋人同士や夫婦が下着を交換して、それをお互い身につけることで愛情を表現したようだ。形見というのは現代では死んだ人の名残を言うが、昔はそうではなかった。生きているうちから、おたがいに形見を交換し、それを見たり、身につけたりして相手を思っていた。
<今日の一句> 青葉打つ 雨音さやか 障子越し 裕
先週に続き、自伝第5部「結婚まで」(3)を書こう。前回までの分までをあわせてご覧になりたい方は、このページの上の表示をクリックしてください。今回の分と合わせて載せてあります。
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3.女子寮のようなアパート アパートは国道63号線沿いの、西之保青野というところにあった。アパートのベランダから、駐車場や田圃の向こうに西春中学校の体育館が見えた。日曜日にはブラスバンドの音が聞こえてきた。
三階建てのアパートで、私は二階に住んでいたが、私の他はほとんど名古屋芸術大学の女子学生ばかりだった。いってみれば、大学の女子寮のような雰囲気だ。紹介してくれた不動産やさんが、「まあ、学校の先生ならいいか」と言った意味がやっとわかった。
ベランダの下の駐車場や、道路沿いは彼女たちや彼女達の彼氏たちの車が停めてある。私もいずれ、車の免許を取り、車を買って、恋人を助手席に乗せて走らせてみたいものだと思った。
こうした発想は、大学院生だったころ暮らしていた陰気な八畳間の下宿では思いつかなかった。やはりあかるく開放的なアパート暮らしを始めて、私の精神がしだいに周囲の雰囲気に慣れてきたためだろう。
生ゴミを出しに行って、同じアパートの住人の若い女性と階段ですれ違ったりすると、おもわずその素肌を露出した服装の大胆さに驚く。しかし、彼女たちはほとんど私を意に介しない。傍若無人といえばいえるが、これも不審な眼差しでじろじろ見られるよりは何倍もありがたい。
引っ越してきた明くる日、私は一応両隣には挨拶に行った。両隣とも芸大の女学生で、私の差し出したバウムクーヘンを、「どうもありがとう」と言って受け取った。私はわざわざ、「高校の教員をしています」と付け加えたが、「そうですか、ごくろうさまです」と、二人とも気のない返事だった。
すぐに分かったことだが、二人にはすでに恋人がいた。スポーツウエアを着た若い彼氏が車でやってきて、しばしば泊まっていった。壁越しに恋人同士の会話が聞こえてくる。会話だけならよいが、やがてセックスの声が届いてくる。ときにはこれが両隣から聞こえてきたりして、とても落ち着いて本を読んだり、音楽を聴いたりしていられなくなる。
夏になって、ベランダを空けて寝るようになると、この声の公害はもっとすさまじいことになった。両隣だけでなく、アパートのあらゆる部屋からの興奮した声が、私の耳に届いてきた。どうしたそんなことになるのか、その理由はすぐに分かった。田圃の向こうの中学校の体育館の壁が反響板になっているのだ。
それにしても、なんという大胆で裸そのものの声だろう。そして、なんと哀しくてあわれで愛しげな声だろう。私は時にはベランダに出て、星を眺め、汗ばんだ肌を風に当てながら、それらの声に耳を傾け、何となく切ないような人生の感慨に耽ったりしたものだった。
<今日の一句> 少女らの 膝がしらにも 日焼けあと 裕
| 2002年06月09日(日) |
日本の教育の問題点(6) |
A「日本の官僚は、秀才揃いのエリートでしょう。少なくとも過酷な受験戦争に勝ち残った東大出が大勢いるわけですね。文部省にも優秀な人材がいないわけはないと思うのですが、彼らは現在の日本の教育の現状をどう見ているのでしょうか」
F「これまでの知識偏重をあらためて、生きる力をつけるために、ゆとりが大切だという主張は、文部省が言い出したのではないでしょうか。創造性や個性を伸ばすために、受験一辺倒の偏差値教育からの離脱も必要だと主張していましたね」
D「それは正論かもしれませんが、問題はいかにその理想を実現するかですね。きれいごとを言っているだけでは教育改革が進むとは思えません。教育行政をあずかる官僚はほとんど現場を知らないし、現代的な教育理論に習熟しているようにも思えません。もう少し現場を知り、さらに広く深い見識を養って欲しいものだと思います。そして現場を信頼して、私たちが働きやすい教育環境を整備することに専念して欲しいですね」
私「東京大学総長の蓮實重彦氏が雑誌のインタビューで、<日本の官僚には学歴がない>と述べていましたね。外国の官僚の場合、名刺交換するとたいてい、ph.D(博士号)と書いてある。これは民間企業のエリートの場合も同じだといいます。しかし、日本の官僚にはこうした専門性や見識がないという指摘だったように記憶しています」
G「たしかにキャリアと言われる高級官僚のほとんどは専門家として研鑽を積んでいるとは思えませんね。マージャンやカラオケの腕をあげて、派閥や徒党を組んで身内だけの出世競争にあけくれている人が多いのではないでしょうか。この点は大学教授も威張れませんけどね。日本の大学の博士号がどれだけ世界で通用するか、疑問ですね。私でさえ一応文学博士なんですから」
D「Gさんは文学博士の値打ちがありますよ。著書も精力的に出していますし、それを読めば学識があるのが分かりますからね。それはともかくとして、私の同僚の国語科の先生がこんな文章を書いているので、紹介します」
<私は、基礎学力というのは要するに言語能力だと思っているので、小学校段階で、読み、書き、計算力の基礎をしっかりとたたき込んで、あとはそれを「釣り竿」として使えるように導くような教育法がいいと思っています。
かつて小渕さんの時、教育審議会で河合隼雄さんたちが出していた義務教育週4日制の提唱は、特に基礎学力をたたき込むという観点が素晴らしかったと思います。
雑多な「魚」(知識)を与えることが多すぎる現状をあらためて、「釣り竿」(知恵)の基礎となることだけをしっかり(本当にしっかり!)たたき込み、後はそれを使える機会と場所を十分に提供する、そういう発想で日本の教育体制を組みかえるのがいいと思っています>
E「なるほど。<釣り竿教育>ですか。これならよくわかりますね。うまい表現ですね」
私「それにしても、週休3日制とはね。週休2日制でさえこれだけ批判が起きているのですから、今から考えると、随分大胆な提案をしたものですね。ところで今年から実施されている週休2日制について、皆さんはどうお考えでしょうか」
<今日の一句> 空梅雨に 私の顔も テニス焼け 裕
| 2002年06月08日(土) |
日本の教育の問題点(5) |
F「分数計算ができない大学生がふえているというのは、小学校でしっかり計算練習をしていないせいだと思います。やはり、からだで覚えたことは忘れませんからね」
B「ゆとりの教育の悪い面がでてきたのでしょうかね。詰め込みはいけない、考える力や、生きる力をつけることが大切だと言っているうちに、基礎学力が崩壊してしまったわけですね」
F「基礎知識は覚えるしかないですね。まず知識があって、それを活用する中で、考える力がついていくのでしょうね。何もないところから、さあ、考えろ、創造しろといわれても無理だね」
D「国語教育でいうと、文章を声に出して暗唱させたり、書取をしたり、そうした地道な努力が大切でしょうね。分からないところでも、何度も読んでいるうちに、次第にわかってくる。論語読みの論語知らずなんて悪口をいう人もいますが、やはりそうした伝統的な教育法も見直していいのではないかと思います。覚えなければならないことは、やはり苦労して覚えなければならない」
A「今の教育はそうした基礎訓練をないがしろにしている。だから、いくら勉強しても砂上の楼閣を築くようなもので、ものにならないのでしょうか。やはり学力の基盤ができていないことが、学力崩壊の原因だといえそうですね」
F「分数計算や九九ができない中学生に二次方程式がわかるはずがないし、二次方程式や因数分解がわからない生徒に微分・積分が分かるはずがない。ところが、現実に中学の学力さえない生徒が高校生になり、大学生になっているわけですからね。学校の先生も大変だと思いますよ」
私「たしかに、大変です」
E「どうしてこんなおかしなことがまかり通っているのか、皆さんの話を聞いていて、私はまたわけがわからなくなりましたよ。日本の教育行政に責任のある文部科学省は何と考えているのでしょうかね」
<今日の一句> 扇風機 取り出さむとして 今日も過ぐ 裕
| 2002年06月07日(金) |
日本の教育の問題点(4) |
私「社会のありかた、家庭のあり方、学校のありかた、それぞれに問題が鬱積しているようです。どう整理していいのか分からなくなりました。Eさん、何かご意見はありませんか」
E「皆さんの話に耳を傾けるだけで精一杯でした。正直言って、私にはむつかしい話はわかりません。そこで一つ質問ですが、いわゆる学力崩壊というのは、<読み、書き、計算>ができないということなのですか」
D「その通りです。本を読むことが苦手で、もちろんろくな文章も書けず、計算もできない、そんな高校生や大学生が大量発生しているわけです。理科系の大学生でさえ、ろくに分数計算ができないという信じられない事態が起こっているわけです」
E「分数計算は私もできません。私も学力崩壊の口ですね。文章なんて書いたこともないし、そういえば、本も余りよまないな・・・」
A「でも、Eさんは会社を経営してみえるわけでしょう。業績もいいと聞いていますよ。何でも中国にまで進出したそうではありませんか。中国語をはじめ、英語や韓国語も話せるそうですね」
E「商売上外国へ行き、彼らと交際しています。だから、まあ簡単な会話ぐらいはできますが、話せるというほどではありません。向こうの役人と話すときには、通訳をつれていきますよ。商売が成功したのは、有能な従業員に恵まれたことと、地道に信用を築いてきたからだと思います。バブルの時も本業一筋でしたからね。まあ、馬鹿がいくつもつくほど正直にやってきましたよ」
A「Eさんの話を聞いていると、学力とは何かと、いまさらながら考えさせられますね。学校で通用する学力と、社会が求めている学力とは、少し違っているのではないでしょうか」
E「たしかに私は学力はありませんが、しかし、やはり私の会社の従業員には学力があって欲しいですね。すくなくとも、<読み、書き、計算>くらいはできないと、雇いたくありませんね。自分のことを棚に上げて言うわけですが」
A「日本の学校ではずいぶん高度な知識を教えていますね。塾や予備校に通っている子供も大勢いる。にも拘わらず、<読み、書き、計算>もろくにできない大学生や大人が大半だというのが不思議です」
G「そこですよ。私などもう中学生の息子の勉強相手ができなくなっている。理科にしろ社会にしろ、歯が立ちません。外国との比較でも、日本の中学生の学力はトップクラスだという。にもかかわらず、大学生になると最下位に近い。小学生のときできた分数計算もできなくなっているという。これは一体どうしたことでしょうか」
A「Gさんは大学の先生だと聞きましたが、そのGさんが中学の問題が分からないと言うのは不思議ですね。Gさんのような知性人にしてこの現状だとすると、これは大きな問題ではないでしょうか」
私「私もかねがねこの点を疑問に思っていました。案外ここに日本の教育問題を考える重要な糸口があるかもしれません。少しこのテーマを深めてみたいと思うのですが、いかがでしょうか」
<今日の一句> 石を割り たくましきかな 夏の草 裕
| 2002年06月06日(木) |
日本の教育の問題点(3) |
私「社会のモラルの崩壊と学校の教育の荒廃、学力崩壊などは、どこか深いところでつながっているのかもしれませんね。他にご意見があれば、この際、何でも言って下さい」
B「地域や家庭の教育力が減退していることも大きいと思います。先ほど、学校が託児所になっているという話が出ましたが、これは本末転倒ですね。あくまでも教育の主体は家庭だと思います。基本的なしつけなどは、家庭で責任を持つべきでしょうね」
C「たしかにBさんお言うとおりですが、同時に教育には社会的側面も大きいと思います。社会や学校が家庭をサポートすべき点もあるのではないではないでしょうか」
F「もう少し具体的に言ってもらえますか」
C「たとえば教育費の問題があります。現在、子供を育てて大学を卒業させるのにかかる費用は1000万をこえると言われています。2人の子供がいれば2000万円です。これだけの費用を親が負担しなければならない。とてもたいへんなことですよ」
D「教育費が高すぎますね。しかも、これを親が負担するとなると大変ですね。外国の場合は、高校を出るとあとは、自立して、大学の学費などは自分で稼ぐと聞きましたが、日本とは違いますね。奨学金制度も充実しているようです。日本の場合は親の収入で制限している」
F「たしかに、これはおかしい。親が援助すべきものだという前提だものね」
A「外国の場合は、もう高校生の内からバイトやボランティア活動をして、社会的経験を積んでいるようですね。日本の場合は、高校生にバイトを禁止している学校がおおいようです。もっと社会的経験を積ませた方がいいのではないでしょうか。そのほうが自立心が養われます。
D「独立心や自立心を養うことが学問の一番の目的ではないかと思うのですが、日本は反対ですね。だから目標もなく、中にはただ社交目的で学校に来る生徒もいる」
G「結局日本の学校は、託児施設か遊技場のようになってしまっている。社会から生徒を隔離して、しかも社会的経験がほとんどない教員が、彼らを管理し、何やらわけのわからない、浮き世離れのした知識をとくとくと教えている。これではますます学校は社会から遊離するばかりです。学校の社会的役割が託児施設であってよいわけがない」
私「どうも、すごいことになってきましたね。教員のはしくれとして、私も耳が痛いですよ。社会のありかた、家庭のあり方、学校のありかた、それぞれに問題が鬱積しているようです。どう整理していいのか分からなくなりました。Eさん、何かご意見はありませんか」
<今日の一句> 琵琶の実を 娘に送り 妻と食ふ 裕
| 2002年06月05日(水) |
日本の教育の問題点(2) |
私「学力崩壊がどこから起こってきたかということを、もうすこし考えてみたいと思います。皆さんはゆとりの教育が原因だという見方が強いようですが、他にご意見はありませんか」
A「社会的な要因も大きいと思います。1980年代のバブルの頃から、日本社会がおおきく変質したのではないでしょうか。まじめにこつこつ働くよりも、楽をしてスマートに儲けることが上等の生き方だというような安易な風潮がはびこりはじめました。社会のモラルが崩壊したことと学生の学力崩壊は無縁でないような気がします」
D「たしかにそうですね。教室の生徒の様子を見ていても、ほんとうに自己本位な行動が目に付くようになった。漫画や携帯が机の上に置かれたままになっている。ジュースを飲んだり、おしゃべりをしたり、ひどいものです。少し前は居眠りをしている生徒を叱っていましたが、今はそれどころではない。居眠りをしていてくれた方がありがたい生徒が何人かいます」
B「それはひどいですね。先生は注意しないのですか」
D「注意をすると、父兄から抗議の電話がかかってきます。以前、漫画を読むなと注意したら、母親から電話があって、<叱らないで下さい。学校にいかなくなったら困りますから>というんです。学校を託児所とまちがえている」
B「ほんとうに困りますね。以前、学校の校則が厳しすぎるという批判を受けました。あるいは詰め込み主義はいけないと言われました。私は漠然と生徒達に同情していたのですが、どうやら今はそんな状況ではないようですね。これでは学力崩壊が起こってあたりまえじゃないでしょうか」
私「社会のモラルの崩壊と学校の教育の荒廃、学力崩壊などは、どこか深いところでつながっているのかもしれませんね。他にご意見があれば、この際、何でも言って下さい」
<今日の一句> 紫陽花に 何やら淋し 人のかげ 裕
| 2002年06月04日(火) |
日本の教育の問題点(1) |
私「お茶も頂いたことだし、議論を再開しましょう。後半は趣向を変えて、教育問題について考えてみましょう。数学教育に限らず、幅広く日本の教育の問題点について考えてみたいと思います」
D「実は私、現役の高校教師です。国語科ですけどね。数学は大の苦手で、方程式の話も実はあまり分からなかった。それで小さくなっていました。あてられたらどうしょうかと、どきどきしていました」
私「そんな風にみえなかったですよ。ちゃんと、方程式も書いてみえましたしね。しかし、Dさんのように、数学を苦手だと思っている人は多いと思います。Dさんお場合はどうして苦手になったのでしょうかね」
D「中学校時代に、一度悲惨な点数をとったのです。そのとき、ああ、おれは数学はダメなんだなって思いましたね。自分は数学に向いていないと思いました。叔父さんがそのころ高校の数教の先生だったので、相談に行くと、お前は文科系の頭だと言われましてね。ますます、数学はだめだと思ったものでした」
A「私もDさんと同じですね。ちがうのは、もう小学生の時から、落ちこぼれていたことでしょうか。実は私、中学を卒業した後、就職しました。働く傍ら、夜間高校に通いましたが、やはり数学は苦手でしたね。何のために二次関数とか三角関数とか勉強しなければならないのか分かりませんでした。今も分かりませんけどね」
私「そうすると、中学や高校で数学を勉強したことは無駄だったと思いますか」
A「いや、無駄だったとは思いません。今ふりかえってみると、何だか懐かしいですね。やはり分からないなりに一生懸命努力したことはよかったと思っています。だから、自分の子供にも、もっと努力してもらいたいと思っています。最近、ゆとりの教育だとかいって、教える内容を減らしたりするようですが、正直言って反対ですね」
D「私もゆとりの教育には反対ですね。何でも、先進国で日本の学生が一番勉強しないいうではありませんか。自宅でまったく勉強しない子が、大半だということですが、こんなことでは日本という国の未来はあやういですね」
F「新学習指導要領では、円周率に3を用いるそうではありませんか。二次方程式の解の公式も中学の数学の教科書から姿を消すらしい。一方で、分数計算のできない大学生が急増中だといいます。日本の学生の学力はまさに崩壊している。先生はこうしたことについて、どうお考えですか」
私「私も現状を憂える一人です。たしかに学力崩壊はあると思います。このままでいいわけはない。そこで、この学力崩壊がどこから起こってきたかということを、もうすこし考えてみたいと思います。皆さんはゆとりの教育が原因だという見方が強いようですが、他にご意見はありませんか」
<一日一句> 衣替え ふるき思ひも 脱ぎ捨てて 裕
先週に続き、自伝第5部「結婚まで」(2)を書こう。前回までの分までをあわせてご覧になりたい方は、このページの上の表示をクリックしてください。今回の分と合わせて載せてあります。
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2.新しい生活
就職が決まって、最初にしたのは引っ越しだった。引っ越し先は西春町のアパートである。勤務先が三河の山の中だから、まるで見当違いの引っ越しになった。こんなことになったのは、私が非常勤講師をしていた高校が犬山線沿線の西春にあったからである。
そこの校長から、「君をうちの高校で採用したいので、近くにアパートをさがしなさい」と言われたのを真に受けて、すでに敷金や礼金、4月分の家賃が払ってあった。とりあえず、交通には不便だが、そこに入るしかなかった。
大学院時代の友人の市ノ瀬さんと渋谷さんが引っ越しを手伝ってくれた。引っ越しの後、近所の料理屋に二人を招待して、そこでささやかな宴会をした。料理を運んできた少女に、「先生」と声を掛けられた。料理屋の娘だったが、私が非常勤講師として1年間教えた生徒だった。
近くに住むことになったというと、「日曜日に勉強教えてもらいにいこうかな」と言う。ちょっと可愛い娘だったので、「いいよ」と答えておいたが、結局、その後、来なかった。そのかわり、他の女性がしばしばやってきた。大学院時代から交際していたS子だが、彼女のことについては、おいおい書いていこう。
アパート暮らしははじめてである。初任給が手取りで16万円ほどもらえそうなので、これまで5万円の奨学金と4万円ほどの非常勤講師の収入しかなかった私には少しゆとりができた。もっとも、アパート代がこれまでの下宿代の2倍以上するので、そんなに楽な暮らしというわけではない。
それでも、この先の収入をあてこみ、ローンを組んで、ベッドやソファ、ステレオなどを買った。部屋の間取りは2Kでバス・トイレ付きである。こんなに広いところに一人で住むのははじめてで、これまでの貧乏暮らしが嘘のようだった。ベッドで寝ることも、少年時代からの夢だっただけに、なんだか嬉しくて,最初の夜はなかなな眠れなかったのを覚えている。
<今日の一句> 寝ころべば 草のみどりに 風薫る 裕
| 2002年06月02日(日) |
「二次方程式と因数分解」(6) |
B「二次方程式は平方完成すれば解けるということですが、それはどんな二次方程式でも解けるのですか」
私「解を実数の範囲に限ると、解けないものがでてきます。たとえば、
x<2>−2x+2=0 ・・・・・・・・(1) x<2>−2x+1+1=0 (x−1)<2>=−1 ・・・・・・・(2)
このように、右辺がマイナスの数になります。実数は2乗してマイナスになることはありません。そこで、2乗したら−1になる数を考えて、これを虚数単位と呼ぶことにします。記号で i と書きます。
i(虚数単位)=√−1、 i<2>=(√−1)<2>=−1
そうすると、(2)は次のように計算ができます。
x−1=±√−1、 x=1±√−1 (答)
一般に z=a+bi の形をした数を複素数といいます。実数はb=0の場合ですね。複素数まで数を拡張すれば、二次方程式は完璧に解けます。
B「二次方程式を解くために複素数が考え出されたわけですね。でも、二乗してマイナスになる数なんて、本当に存在するのですか」
私「存在するかどうかと訊かれても、困りますね。前にも述べたように、数学者は複素数をイマジナリナンバー(想像上の数)と呼んでいます。まあ、この問題はむつかしくなりそうなので、このくらいにしましよう。さて、最後に、もうひとつ、大切なことを付け加えておきましょう。 いま、二次方程式 ax<2>+bx+c=0 の二つの解を α、β とすると、
ax<2>+bx+c=a(x−α)(x−β)
と、因数分解できます。たとえば、(1)の右辺は次のようになります。
x<2>−2x+2=(x−1−√−1)(x−1+√−1)
B「つまり複素数を考えると、二次方程式は必ず解を持ち、二次式はその解を使って因数分解ができるわけですね。因数分解ができれば二次方程式が解けるし、また二次方程式が解ければ因数分解ができるわけだ」
私「その通りです。そしてこのことは、三次方程式、四次方程式など、高次方程式にも同様に言えます。たとえば、
x<3>−6x<2>+11x−6=(x−1)(x−2)(x−3)
になります。一般にn次方程式はn個の解を持ち、n個の一次式の積に分解されます。どうですか、ここまで上り詰めると、数学の世界は整然としていて、なかなか美しい眺めでしょうでしょう」
G「たしかに美しい眺めだと思いますが、そのすばらしい眺望を手に入れるまでが大変ですね。ときには山崩れがおこったりして、一人ではとても登り切れない」
私「数学にはこうした山がたくさんあります。登っているうちに足腰がしっかりしてきて、山登りが楽しくなりますよ。まずは手近なところから登ってみることですね。<二次方程式と因数分解>はそうした手頃な山のひとつだと言えます。これをベースキャンプにして、さらに高い峰に挑戦して見て下さい。さらにすばらしい、驚くべき眺望が拓けてくるはずです」
G「ただ公式を暗記していてはいけないことがよくわかりました。解の公式にこだわっていては、こうした見事な眺望は得られないですからね。先生が言われた、プロセスを楽しむ心のゆとりが大切ですね。そうした心の姿勢から、ほんとうに独自な、豊かな、発展的なものが生まれてくるのだということがよくわかりました」
F「しかし、学校で行われている教育はちょっと様子が違っていますね。そこで、数学教育の問題点について、いささか質問したいのですが、よろしいでしょうか」
私「結構ですが、ここらで一息入れましょう。皆さんもお疲れでしょう。お茶でも頂いてから、<数学教育はいかにあるべきか>とでも題して、皆さんと一緒に考えてみたいと思います」
<今日の一句> 色づけば 小鳥も人も 琵琶に来る 裕
| 2002年06月01日(土) |
「二次方程式と因数分解」(5) |
私「他に質問はありませんか。おや、たくさん手があがりましたね。Cさん、どうぞ」
C「二次方程式を解くのに、因数分解を使うということでしたが、他にどんな方法があるのでしょうか。二次方程式がいつも因数分解できるとは限らないように思うのですが」
私「Cさん、因数分解ができない例をひとつあげてください」
C「たとえば、 x<2>−4x+1=0 がそうです。掛けて1、足して−4という数字が思い浮かびません」
私「そうですね。この式を因数分解するのはそう簡単ではなさそうですね。そこで、因数分解以外の方法を考えてみましよう。誰か、名案はありませんか」
F「解の公式というのがありましたね。これを使うと、すべての二次方程式が解けるので、万能だと教わりました」
私「解の公式がありましたね。他にはありませんか」
G「やりかたは忘れましたが、平方式をつくって解く方法がありました」
私「そうですね。いわゆる<平方完成>という方法があります。実は解の公式もここから出てくるのです。それではこの方法でまず、最初の問題を解いてみましよう。
x<2>+2x−35=0 ・・・・・・・・・・(1) (x<2>+2x+1)−36=0 (x+1)<2>=36 ・・・・・・・・・・(2) x+1=±6 x=±6−1 よって、x=−7,5
どうですか。(2)式に誘導することで、すべての二次方程式は解けてしまします。Fさん流に言えば、これは万能ですね。Cさん、この方法で、さっきの問題を解いてみて下さい。
C「わあ、これは大変だ。まず、 x<2>−4x+2=0 ・・・・・・・・・(1) このあとどうしたらいいのか、正直言ってわかりません。先生、助けて下さい」
私「まず次のような式に変形します。
(x<2>−4x+○)−○+1=0
ここで、 (x<2>−4x+○) を平方式にするには、○にどんな数字を入れたらいいか考えて下さい。そうですね、4がいいですね。形式的に言うと、xの係数を2で割ってから2乗すると○に入れるべき数が得られます。そうすると、
(x<2>−4x+4)−4+1=0 (x−2)<2>=3 x−2=±√3、 x=2±√3 (答え)
ここで √3 は<2乗すると3になる正の数>を表します。 ±√3 のように2乗して3になる数のことを、3の平方根と呼んでいます。式で書くと、
(±√3)<2>=3
さて、 2−√3 と 2+√3 の和が2になることはすぐにわかりますが、この積が1になっていることを確かめてみましよう。Cさん、黒板でお願いします。
C「わかりました。 (2+√3)(2−√3)=2<2>−(√3)<2>=4−3=1 たしかに、1になります。
私「補足になりますが、一般の二次方程式は係数a、b、c、を用いて、次のように書けます。
ax<2>+bx+c=0
この式を同じように平方完成してやると、解の公式が得られます。
x={−b±√(b<2>−4ac)}/2a C「そうする二次方程式の解法としては、
�^�数分解の方法 �∧進�完成の方法 �2鬚慮�式を使う方法
があるというわけですね。とくに��の公式を暗記しておけば、二次方程式の解はすべて求まるわけですね」
私「まあ、そういうことです。しかし、公式を暗記して、ただ数値を代入するというだけでは、あまり面白くありませんね。これでは数学はたんなる暗記科目とかわらないですからね。やはりプロセスを大事にしたいですね。そしてそうしたプロセスを楽しめる心のゆとりが欲しいですね。そうした心の姿勢から、ほんとうに独自な、豊かな、発展的なものが生まれてくるのだと思います」
<今日の一句> 木洩れ日に こころものどか 風光る 裕
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