橋本裕の日記
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2002年07月31日(水) アウトサイダー

 映画「インサイダー」の話の続きである。会社を解雇されたワイガンドはそれまで住んでいた豪邸を売って、もっと庶民的な家に引っ越しをする。そして、下町の高校の教師として、再出発する。

 こうした変化を受け入れることが出来ない妻に対して、ワイガンドは「これからは君たちと一緒にいられる。家庭を大切にしたい」とやさしく語りかける。大手たばこ産業で技術担当の副社長をしていたとき、彼は毎日が苦痛だったという。ただ収入のために、会社の利益のために意に添わない仕事をしなければならなかったからだ。

 それが、高校で「化学」を教えるようになって、自分の仕事に張りが感じられるようになった。収入ははるかに少なくなったが、教室で生徒達を教える彼は冗談を飛ばし、別人のように生き生きとしている。彼にとって、転職は悪くはなかった。「これが自分のサイズにあった生活だ」と考えて、この新しい境遇にささやかな希望を見出している。

 こうした夫の前向きな姿勢を、妻は受け入れることができない。妻はこれまでの生活と社会的成功という夢を捨てきれないのだ。この夫婦の葛藤はワイガンドが法廷でニコチンの害について証言しようとしたとき、極点に達した。妻は「もうあなたについていけない。あなたを支えきれない」と言って、離婚をほのめかす。

 映画を見ていて、私は「「何という愛情のない妻だろう」と思った。しかし、妻の立場に立てば、これももっともなことかもしれない。彼女にとって社会的ステータスのある高級住宅街に住んで、ボランティアに精を出し、二人の娘を私立の優秀な学校に通わせることは大切なことである。それは多くのアメリカ人が追求している人生の目標でもある。

 妻にすればこうして手中にした幸福をむざむざ手放してしまう夫こそ、身勝手で家庭を顧みない男かもしれない。優秀な科学者として、地位と収入を約束されながら、会社と対立し、解雇されてしまうのは、彼がまったく不器用な人間だからだ。なぜ、もっとうまく立ち回れないのかと、欲求不満が募ることだろう。

 ワイガンドはこれまで、この妻を代表する一般的な価値観の枠の中で生きてきた。たばこ産業に身を置くようになったのも、待遇と収入に魅力を覚えたからだ。そして実際に彼は理想的な生活を手に入れた。人もうらやむ地位と収入、妻と娘たちの満ち足りた笑顔につつまれた家庭がそうだ。

 しかし、ワイガンドはこうした世俗的成功に身を置きながら、幸福ではなかった。むしろそうした生活に耐え切れなかった。ストレスがたまり、気がつくとスーパーのがらくた商品を万引きしようとしていたりした。会社でも我を忘れて、怒りっぽくなった。

 彼は自分らしい生き方をしていなかった。社会的成功よりも、収入よりも大切なもの、それは自分らしく生きるということだろう。彼はそうした本来の自分の生き方を捨てることができない。彼が家庭の幸福を捨てて<内部告発者>となったのは、彼のこうした不器用さのせいかもしれない。

 彼と同様な不器用さと頑固さを、バーグマンもまた持っている。そして彼も又、<内部告発者>とならざるを得なかった。彼等は組織に身を置き、そしてその組織の事情に誰よりも通じていたインサイダーだった。しかし、彼等は組織の中で頑固に自分自身であり続けた。その結果、彼等はまた必然的にアウトサイダーとして生きることを余儀なくされた。

 言論の自由や社会的正義、人権の擁護を口にすることはたやすいが、それを守ることは容易なことではない。そのためには、彼等のように頑固で不器用で気骨のある人間が必要である。この不正と欺瞞の横行する社会にあっても、彼等のような人間がいやおうもなく存在することが、何よりもの救いである。

 たばこの煙の中には、4000種類の化学物質が含まれ、そのうち発ガン物質などの有毒化学物質は確認されているだけで200種類を超えている。たばこを一日10本数吸う人は、非喫煙者とくらべて、肺ガンで約2倍、喉頭癌では10倍もの死亡率になっている。

 1994年連邦議会下院健康環境小委員会において、たばこ会社7社の最高経営責任者は宣誓をした上で「ニコチンに依存性がない」と証言をした。ところがワイガンドの内部告発により、たばこの依存性を高める添加物(アルコール)を使用していたことを暴露した。こうして彼等が議会でニコチンの依存性があることを知りながら嘘の証言をしていたことが明らかにされた。

 これを機に、裁判で負け知らずだったたばこ会社は、1998年11月総額2060億ドル(約24兆円)と言う天文学的賠償金を46州に支払うことで和解に合意した。この敗訴によってアメリカの訴訟と関係のない日本のたばこ産業会社も高額の和解金を払っている。

 たばこが原因で発病した喘息や肺がんなどの治療費は米国では7兆3千億円を要しているという。日本の場合、たばこによる医療費等の支出の公式数字はないが、推計で年間3兆円から4兆5千億円と言われている。これに対してたばこによる税収は年間約2兆円である。たばこ産業は税収に寄与していると言われるが、医療費や失火などの社会的コストを考えれば、経済的に間尺があわないことは明らかである。

<今日の一句> 路地裏に 風鈴はなし 熱気くる  裕


2002年07月30日(火) 勇気ある人々

 映画「インサイダー」をビデオで見た。<内部告発>を正面から描いた社会派映画である。実話に基づき、個人および企業をすべて実名のままで登場させているところが凄い。監督はマイケル・マン、1999年のアメリカ映画である。

 巨大タバコ産業に身を置く科学者で、意に反してやむをえず内部告発となった孤独な男ジェフリー・ワイガンドを、ラッセル・クロウがしぶく演じている。そして彼を支援するジャーナリスト、ローウェル・バーグマンをアル・パチーノが熱演している。脚本は「フォレスト・ガンプ/一期一会」でアカデミー賞に輝いたエリック・ロスだ。

 アメリカ社会の企業社会の暗部が大胆に描かれている。しかし同時に、社会悪に対して戦いを挑む男達の心あたたまる友情と連帯感が描かれ、アメリカ社会のふところの大きさを思わせる。この映画には派手な銃撃戦もカー・チェイスもないが、心を凍らせる恐怖と熱い感動があった。以下に、そのあらすじを簡単に紹介する。

 大手たばこ会社ブラウン・アンド・ウィリアムソン(B&W)の研究部門副社長としてタバコのニコチンの害を少なくする研究していたワイガンドはある日突然解雇を言い渡される。この解雇を不服としたワイガンドは、おりから連絡してきたCBSテレビの人気報道番組「60ミニッツ」のプロデューサーのバーグマンに、彼のテレビ番組で内部告発者として発言するよう求められる。

 一方、ワイガンドは企業から行動を慎まなければ「守秘義務違反」で訴えると警告される。会社との守秘契約を破れば、退職金も医療保険も失う。さらに、犯罪者として監獄入りも覚悟しなければならない。巨大な資金をもち、優秀な法律事務所を多く抱えている巨大産業に太刀打ちするのは無謀なことである。しかし、ワイガンドはさんざん悩んだあげく、自分の良心にしたがって告発への道を選ぶ。バーグマンの番組の収録に応じ、さらに法廷で科学者としてニコチンの害について証言をする。

 しかし彼はその前後から、不審な闖入者や尾行者、無言電話におびえなければならなくなる。「一家を皆殺しにしてやる」というe−メールを見た妻は、「もうあなたにはついていけない」と二人の幼い娘を連れて、家を出る。バーグマンの助言でFBIに連絡するが、FBIの捜査官達は反対にワイガンドの拳銃所持に難癖をつけ、彼を侮辱したあげく、証拠の入ったパソコンを強制的に持ち去ってしまう。もはや国家権力そのものを敵に回した感のある不気味な現実がおもむろに姿を現し始める。

 やがて法廷での証言の信憑性を損なうために、彼の人格を誹謗するような卑劣なでっちあげの中傷記事が雑誌に出て、その話題がテレビでも放送される。離婚経験があり、訴訟沙汰をおこしてばかりいる性格が破綻したいかがわしい人物としてテレビに写された彼を、別居先の幼い二人の娘達までが目にする。やっと高校教師として職を得たワイガンドの社会的信用はこれによって完全に失墜した。

 すべては巨大タバコ産業の冷酷な仕返しであり、悪意に満ちたいやがらせだ。こうしてワイガンドは地位も名誉も、そして家族まで失い、絶望感と無力感にうちのめされる。

 一方、バーグマンも苦境に陥る。上層部からワイガンドを説得して作成した内部告発のインタビュー番組の放送中止を言い渡され、さらに現場から遠ざけるために強制的に休暇を取らされてしまう。バーグマンは「あなたたちはビジネスマンか、それとも報道人か」と会社の上層部を問い詰めるが、彼等は組織防衛と、自らの利益しか頭にはない。背後には企業買収の思惑と利害がある。

 このままではワイガンドを守り切れないと思ったバーグマンが取った最後の手段は、自らも<内部告発者>となる捨て身の作戦だった。ニューヨーク・タイムズの知人に、自分の手がけた番組がCBS上層部の意向でいかに抹殺されようとしているかを話し、朝刊の一面記事として掲載するように依頼する。バーグマンのこの告発をニューヨークタイムズは一面で華々しく取りあげた。

 これによって、ついに巨大たばこ産業のみならず、CBSという巨大報道機関の悪までが暴かれることになった。こうした世論の盛り上がりの中で、窮地に立ったCBSの上層部はバーグマンの番組を無修正で放送することしか道がないことをさとる。

 こうして遂にたばこ産業の内部告発番組はアメリカ全土に放送された。インタビューの中で静かにニコチンの害を述べるワイガンドの科学者らしい語りが印象的だ。空港で、家庭で、仕事場で、レストランで、アメリカ国民の目と耳が画面を凝視する。その中にはもちろん、孤独な戦いをしてきた、ワイガンドとバーグマンとその家族達の姿もあった。

 これによって、これまであらゆる裁判で常勝してきたアメリカの巨大タバコ産業も完全に社会的信用を失い、その後、健康被害に対して巨大な賠償責任を命じる判決が次々と下されることになった。

 二人の勇気ある<内部告発>が、アメリカ社会を変えたわけだ。久々に見た胸が熱くなる骨太の社会派ドラマだった。映画の最後の字幕によると、ワイガンドはその後も高校で化学を教えており、CBSを辞職したバーグマンもジャーナリストとして健在だという。

<今日の一句> 浜木綿に ふるさとの海 しのびつつ  裕


2002年07月29日(月) 結婚まで

10.友人たち

 市ノ瀬さんと話をしている間にも、二、三人の出入りがあった。いずれも私がこの3月まで籍を置いていた研究室の院生やオーバードクターだった。顔見知りの彼等は、「やあ、元気そうだね」などと声を掛けてくる。「まあ、ぼちぼちやっているよ」と私も相づちを打っておいた。

 私は就職してから、時間に追われるような忙しい生活をしていた。下宿先で本を読んだり音楽を聴いて寝ころんでいた院生のころと比べると、随分活動的な生活だった。おかげで体形や表情が引き締まった。元気そうに見えるのは、日に焼けたせいもある。

 色白の市ノ瀬さんは相変わらず静かで、ゆったりしていた。私の血色のよくなった顔を見て、
「外で運動でもしているの」 
「テニス部の顧問になってね、放課後はたいていテニスコートにいるからね」
「部員は何人くらいいるの?」
「女子は20人くらいかな。けっこう可愛い子がそろっているよ」
「それは、また、結構なことだね」

 市ノ瀬さんの話によると、やはり友人の一人が現在愛知県で高校の先生をしていて、彼は女子の体操部の顧問だという。
「稲山君の話だと、つい、指導に熱がはいるそうだね。授業よりも放課後の部活の方が楽しみだそうだよ。今度、橋本君に紹介するよ。それとも、もう面識があったかしら」
「この部屋で会ったことがあるような気がするな。たしか、市ノ瀬さんを訪ねてきたとき、一緒に夕食を誘われたようような・・・・・」

 もう、三年ほど前の話だった。まだ修士課程に身を置いていて、市ノ瀬さんともそれほど親しくなかったころだが、友人だと言って中肉中背の色の浅黒い青年を紹介された記憶があった。たしか農林高校で物理を教えているということだった。名前も稲山だったような気がした。あいにく家庭教師のアルバイトがあったので、一緒に食事はしなかった。

「君がいなくなってさびしいよ。渋谷君やM君とはいつも一緒に食事に行くんだけどね、やはり、君とはいろんな会話ができたからね。あちこち、ずいぶん旅行にも行ったし、たのしかったね」
「それは僕も同じですよ。市ノ瀬さんのおかげで、ずいぶん世間が広がった。友人に恵まれました」
「あとは肝心の人を見つけないとね・・・・」
「それは市ノ瀬さんの方こそ・・・」

 こうして市ノ瀬さんとよもやま話をしていると、きりがないようだった。博士号を持っている市ノ瀬さんは物理学では大先輩だったが、二人の間に物理や数学の話はほとんどなかった。むしろ文学や音楽、芝居などの趣味の話が中心だった。ときには哲学や人生の話を、しみじみとすることもあった。

 二人とも独身で、境遇も似ており、学問や文学が好きだという趣味や考え方も近かったので、おたがいにくつろいだ気分で、落ち着いて話をすることが出来た。市ノ瀬さんは二つ、三つ年下の私を対等に扱ってくれた。そんなところも、私は大いに気に入っていた。

 昼近くになって、渋谷さんが顔を出した。彼とも1カ月ぶりである。
「引っ越しの手伝い、どうもありがとう」
「いや、たいした荷物もなかったからね。それよりか、料理屋でうまいものを食べさせて貰ってありがたかったよ。それで、今日は我々貧乏人に何をおごってくれるんだね。給料たくさんもらったんだろう」
「しかたがないな、ビールを一本おごるよ」

 私たちは部屋を出ると、4階のMさんの部屋を覗いた。Mさんは博士論文を書いている最中で、少し寝不足の疲れた顔をしていた。それでも久しぶりに4人で、外で昼食を食べることになって、うれしそうだった。

<今日の一句> 蚊に食われ 犬になめられ 昼寝かな  裕


2002年07月28日(日) 現代日本語の誕生

 私たちが使っている現代文は「言文一致体」と言って、おおよそ明治時代に作られた。この言文一致体が作られるまで、日本語は「話し言葉」と「書き言葉」はまったく別の言語と言っていいほど違っていた。日本に来た宣教師で日本語にも堪能だった宣教師がこんなことを書いている。

「日本人は話すときの通俗な文体を用いて物を書くことは決してしない。話し言葉や日常の会話における文体と文書や書物や書状の文体とはまったく別であって、言い回しなり、動詞の語尾なり、その中に用いられる語群なりがたがいに甚だしく相違している」(ジョアン・ロドリゲス 1604年)

 杉田玄白、前野良沢ら開拓者のあとを受けて、蘭学研究のパイオニアだった大槻玄沢はオランダ語が言文一致であることの利点を次のように書いている。

「常話モ書籍ニ著スコトモ同様ニテ別ニ文章ノ辞と云フモノナシ。此如クナルモノ故ニ至リテ入リ易ク学ヒ易キ風ナリ」(蘭学階梯 1783年)

 文章は「和漢混淆体」で書かれることが多かった。しかし、武士から農民に至るまでそんな堅苦しい文体を使って会話していたわけではない。とうぜんそこに懸隔が生じてくる。文章はますます日常をはなれて格式張り、会話体はますます通俗で思想や論理から遠ざかる。

 明治時代になって、西洋から多くの物を学ぼうとしたとき、当時の漢語を主体とした文章体は窮地に陥った。文体が格式張っているうえに、英語を日本語に移そうにも、日本語にその対応物がみあたらないので、どうにもならないことが多かった。たとえば夏目漱石の覚え書きはこんな風に書かれている。

「俗人ハcausalityハindependentニexistシテ居ルト思フ。
「他ノismヲ排スルハlifeヲunifyセントスル知識欲ガblindナルpassionニモトヅク」
「彼等一派ノpsychologistノ云フ如クfeelingハconservativeデintellectガprogressiveノcaseノミナラズ」
「lowハnatureノworldニ於ル如クhuman workdヲgoyernシテ居ル」

 なぜ、このような珍妙な文体になったのか。その理由は「法」「自然」「世界」「人間」「支配」といった私たちが現在何不自由なく使っている日本語がまだ市民権を確立していなかったからだ。実際、この覚え書きを書いていた頃、漱石はこんなことを書いている。

「近頃の文章では未だ充分に思想があらわされぬやうだ。将来はもっとよくもっと容易く現はす事が出来るやうにならなくてはいかぬ。私の頭は半分西洋で、半分は日本だ。そこで西洋の思想で考えた事がどうしても充分の日本語では書き現されない」(将来の文章 1907)

 もう一つ、当代一流の哲学者で、私の憧れの人でもあった西田幾多郎の文章をおめにかけよう。その難解さを味わってもらいたい。
「時と空間との矛盾的自己同一的に自己自身を形成する世界の時間的自己限定として空間否定的に、判断作用的に云へば、主語と述語との矛盾的自己同一的に自己自身を表現する世界の主語的方向否定的に、述語面的自己限定として、我々の自己とい云ふものが成立するのである」(場所的論理と宗教的世界観)
 
 日本語では西洋の思想も科学も文学も翻訳できそうにないと考えて、英語を公用語にしたらどうか考える知識人もいた。その代表が当時の文部大臣の森有礼だった。これを「書生の考えることだ」と言って、反対したのが福沢諭吉だった。

「或は書生が日本の言語は不便にして文章も演説も出来ぬゆへ、英語を使ひ英文を用るなぞと、取るにも足らぬ馬鹿を云ふ者あり。按ずるに此書生は日本に生まれて未だ充分に日本語を用ひたることなき男ならん。国の言葉は其国に事物の繁多なる割合に従て次第に増加し、豪も不自由なき筈のものなり」(学問のすすめ)

 福沢諭吉の考えは、語彙が足らなければ作ればよい、文体が不自由なら改造すればよいという楽観主義の立場だった。実際彼のこうした考えにそって、明治時代には約1万語もの造語が日本語に付け加えられた。私たちが現在日本語として日常的に使っている単語はほとんどこのたぐいである。最後にそのほんの一例をあげておこう。

 人間、自然、世界、社会、国家、国民、政府、議会、選挙、法律、権力、自由、平等、権利、義務、哲学、科学、会社、社交、道徳、交際、仲間、組、演説、論理、言語、真理、真実、愛、善、主義、、原因、結果、存在、自己、時間、空間、生物、物体、物質、進化、精神、理性、感情、判断、記憶、生活・・・・・・

(参考文献) 「日本語は進化する」 加賀野井秀一 NHKブックス

<今日の一句> 遠花火 暑さ忘れて 夢のなか  裕 


2002年07月27日(土) 武器が支配する世界

 アメリカの株安、ドル安が世界経済を脅かしている。日本の場合と同じように、このままバブルが崩壊して、不況へと突入するのではないか。そうした懸念や観測が広がる中で、アメリカ政府はこの四半期のGDPがわずかながら増加傾向にあることをあげて、これを否定している。

 しかし新聞報道によると、このGDPの増加を支えているのは、どうやら軍需産業の業績回復らしい。今軍アメリカの需産業はかってないほどの活況を呈しているらしいのである。こうした現状から見て、来年早々にはアメリカはイラクに対して、大規模な軍事行動をとるのではないかと言われている。

 アメリカの場合、不況対策として公共事業に依存することはしない。そのかわり、これにかわる手段として戦争を用いる。不況は供給の過剰からもたらされるのが普通だが、戦争は最大の消費行動だからだ。これで経済が活性化し、不況を克服しようとする。

 武器輸出国は毎年「兵器見本市」を開催し、最新鋭の航空機、戦車、ミサイル、ヘリコプター、地雷、銃砲、その他の新兵器を競って売り込む。こうして大量の兵器が世界にばらまかれ、紛争や戦争を作り出している。武器が戦争を作り出し、また戦争が武器を作り出す。こうした悲劇の悪循環が世界を支配し続けている。

 アメリカの政治は産軍複合体によって事実上支配されているといわれている。政治家はいずれもこうした勢力によって育てられ、その庇護のもとに政治活動を行っている。これに逆らったりすれば、政治生命はおろか、ほんとうの生命さえ失いかねない。ケネディ兄弟の悲劇がこれを物語っている。

 ストックホルム国際平和研究所刊『軍備・軍縮・国際安全保障』2001年版によれば、武器輸出筆頭5カ国はアメリカ合衆国、ロシア、フランス、英国、ドイツである。上位4カ国が国連の常任理事国で占められている。

 ちなみにアメリカの武器輸出額は490億ドル、第9位の中国は15億ドル、46位の日本は1400万ドルだ。アメリカの突出ぶりがよくわかる。アメリカによって武器輸出を非難されたイランや北朝鮮の額ははるかに小さいものに過ぎない。

 世界の覇権国家アメリカがこうした戦争志向型の産業構造を持ち、政治がこの体制に依存しているということは、世界にとって大変不幸なことである。かって日本もこうした軍事的体質を持っていた。しかし、今は平和国家として生まれ変わり、軍需のかわりに公共事業に依存する利権体質が政治を支配している。

 おかげでむだな空港やダムや橋が次々と作られ、膨大な財政赤字を出しているわけだが、アメリカのように武器輸出をしたり、戦争を起こしたりしているわけではない。世界に迷惑をかけているわけではないので、まだ少しましかもしれない。

<今日の一句> 桃を食ふ 女の横顔 みてゐたり  裕


2002年07月26日(金) 学校の社会化

 デューイの考え方を要約すれば、「学校は社会生活の歴史的進歩を代表する小世界でなければならない。そのためには学校と社会との間に活発な相互作用が行われなければならない」ということである。

 民主的な社会が自由な市民の創造的で自発的な活動で成り立っているように、民主的な市民を育てる学校も、生徒と教師の自由で自発的な活動によっていとなまれる小社会でなければならない。この新しい教育理論は、二十世紀初頭の30年間でアメリカ全土に行き渡り、教室の風景を一変させた。その変化がどれほど大きかったか、それは当時書かれた文章を読めばわかる。

「こんにちでは、子どもたちの課業を見て、とんとわけのわからなくなっている親たちが無数にいる。教えかたも、教わっていることがらも、だいいいち机のかっこうや仕掛けからしても、二、三十年前とは万事様子がかわっている。多くの親たちは、腕白どもが何のことはない、のべつさわいで遊びほうけているように見えるので、内心これでようものだろうかと内心うたがいたくなるようである」(1929年 H.W.Schneider)

「こんにちアメリカ国内で、通りがかりに学校の教室の窓をのぞきこむ人は誰でも、かれらの父親や母親がかってのぞきこんだときとはまったく異なる光景を目にしているはずである。教室は作業場のように設営され、そこでは子どもたちは机の前に釘付けなどになっていないのだ。子どもたちは各自のグループの仕事に立ち働き、教室のなかを自由に動きまわっている。先生はすまして生徒の暗唱をきいていたりなどしないのだ。先生もまた自由に生徒のあいだを歩きまわり、かれらの仕事をはげましている。これは先生が目を光らせている、あの旧来の教室ではなく、大勢の子どもたちが幸福につどい遊んでいる家庭といったほうがよい。他のいかなる領域にもまして変化をもたらすことの困難な教室に、このような大きな変化がもたらされている」(1930年 E.C.Moore)

 ここに引用したのは、もう70年以上も前にアメリカで書かれた文章である。アメリカでは旧態依然の教育を打破すべく、このようにおおがかりな教育改革が短期間に国を挙げて行われた。そしてこの教育改革を支えたのはデューイのすぐれた教育理論と実践だった。

 ひるがえって、日本の場合はどうだろうか。日本の学校は、いま社会の流れから取り残されようとしている。IT化などによって社会の変化は加速されてきているが、学校制度やカリキュラムはほとんど昔のままで、教員の意識もほとんど変わらない。学校は社会の変化に対応する能力を欠いているように見える。

 そこで、日本の学校にも「評議委員制度」を作り、学校に外部からの声が届くようにしようという動きが出たきた。これまでは教育委員会が学校を監督・指導してきたが、その外にもうひとつあらたな窓をもうけて、学校と社会の風通しをよくしようというわけだ。私の勤務校でもこの動きが出てきている。

 社会が学校に求めているのは、新しい社会に適応し、その担い手になれるような人材である。それは急激に変化する社会に対応して、自分で考え、自分で状況を判断できる知性を持った人間である。これまでのように集団埋没型ではなく、個性的で創造的な人間の育成が求められている。

 こうした社会の声に押されて、かっての文部省もようやく重い腰を上げ、「教育改革」へと一歩を踏み出した。教育の規制をゆるめ、学校の裁量を認めようという動きがこれである。また、知識偏重の画一主義から脱却して、興味関心の重視、自ら考える力の養成を重視している。

 個性的で自由な人間を育てるには、知識注入型ではなく、生徒の興味関心を重視する内部啓発型がのぞましい。いわゆる「ゆとりの教育」や学校五日制への移行のねらいもこの点にある。しかし、こうした改革が今現場に混乱をもたらし、社会に不安を与えていることも事実だ。ここへきて科学教育省も腰がすわらなくなり、方針が揺らいでいる。

 日本の教育改革の行方は混沌として、行き先が見えにくなりつつある。その理由は日本の場合、教育改革に哲学や理念がないからである。したがって、だれもその到着点がわからず、少しの批判に右往左往してしまう。このことは教育改革のみならず、政治改革や経済改革にも言えよう。

 デューイは学校は単に社会の従属物ではないと考えていた。学校は社会の変化を先取りし、理想的な社会を実現するエンジンでさえあった。学校を変えることで社会を変えることができると考え、教育改革に情熱を燃やしたのである。日本にデューイのようなすぐれた思想家がいないばかりでなく、デューイのこの情熱と実践から学ぶことさえしない日本の現状が残念である。

(参考文献) 「学校と社会」 デューイ 宮原誠一訳 岩波文庫

<今日の一句> 暑き日に むすびはうまし 茶もうまし  裕 


2002年07月25日(木) 体験の経験化

 教育において大切なことは「モチベーション」をあたえることだと書いた。それではいかにして、生徒にこのモチベーションを与えることができるか。それは生徒の個人的な体験もしくは生活感情を重視し、これを尊重するということであろう。つまり教育は生活や体験から遊離したものでであってはならない。

 しかし、このことは学習の前提であっても、学習の目標ではない。教育はこの個人的体験から出発して、これを社会的な共有体験へと拡充するものでなければならない。つまり、個人的体験の社会化、もしくは経験化が必要である。

 デューイは「<経験>が正確な思考の基本概念であるなら,<体験>はきわめて感情を主体としている」と書いている。体験の経験化とは、感情の言語化、理論化、思考化だといってもよい。デューイの「民主主義と教育」(金丸弘幸訳玉川大学出版部 )から、もう少し引用しよう。
 
「子どもが自分の指を炎のなかにつっこむだけでは,それは経験ではない。その動作が,その動作の結果彼が受けた苦痛と結びつけられたとき,それは経験となる」

「<経験から学ぶ>ということは,我々が事物に対してなすことと,その結果として,我々が事物を楽しんだり,事物から苦しみを受けることとの間の前後の関連を明らかにすることである。このような状況のもとにあっては,なすことは試みることになる。すなわち,正解とはどんなものかを知るために,世界についての一つの実験をすることであり,受けることは,教訓つまり事物の関連を発見することになる」

 デューイは学校を実りある「生活」の場とするためには、子どもの体験から出発する必要があるが、それはまた、子どもの持っている次の4つの興味(学習本能)を重視することだと述べている。

�.灰潺縫絅院璽轡腑鵑陵澣瓠文生賈槐宗�
��知的な探求心(ものを発見する喜び)
��製作すること、構成することの欲求
�ど集修垢覺遒咫僻�的探求心)

 これらの欲求を育てることで、体験の経験化が可能になる。私たちは自分の体験を尊重すべきだが、これに固執して、狭隘な体験主義者になってはならない。私たちは自分の体験を思考によって経験化、社会化しなければならない。そのときはじめて私たちは他者の経験から、生きていく上で真に大切なことを多く学ぶことができるようになる。

 なおデューイは�,鉢�の根底にあるのは、表現欲求だとして、�し歃囘�表現のなかには、この両者が理想的な形で成就されていると書いている。

「芸術的本能は、これらの二つの本能の洗練・純化であり、完全な表現である。構成を適切ならしめ、じゅうぶんな、自由な、そして屈伸性のあるものとし、それに社会的な動機、つまり人に告げようとするなにものかをあたえてみよ。すなわちそこに芸術作品があらわれるであろう」(学校と社会)

<今日の一句> 夏やせは 見果てぬ夢か 水饅頭  裕


2002年07月24日(水) 学校と社会

 アメリカの哲学者で実践的な教育家でもあったデューイ(1859-1952)は「学校と社会」のなかで、学校とは暗記と試験にあけくれる受動的な学習の場ではなく、子供たちが自発的な社会生活を営む「小社会」でなければならないと書いている。こうしたデューイの思想と実践が大きく世界の教育を変えた。教育の問題を、その本質から考えようとするとき、デューイの著作はいまも生きた古典として、私たちの前にそびえ立っている。

「机がきちんとならべられてある伝統的な学校教室から暗示を受けるもう一つのことは、できるだけ多数の子どもたちをとりあつかうために、つまり、子どもたちを個々のものの集合体としてひとまとめにとりあつかうために、すべてがあんばいされていることである。ということはまたしても、子供たちが受動的にとりあつかわれることを意味する」

「子供たちは活動する瞬間、自らを個性化する。かれらは一群でなくなり、各自それぞれにはっきりした個性的な人間になる。校外で、家庭で、家族のあいだで、遊び場で、隣近所で、われわれが平素おなじみの、あのひとりひとりの子どもたちになるのである」

「同じことから、伝統的な学校におけるカリキュラムおよび教育方法の画一ということが説明できる。もしすべてが<聴講>という基礎に立っているならば、諸君は容易に教材と方法を画一化することができる。・・・様々な能力や要求に適応する機会はほとんどない。ある一定の大きさの、ある一定量の、レディメードの結果と仕上げがある。これまで小学校から大学まで展開されてきているカリキュラムは、この要求に応じるものである」

「旧教育は、これを要約すれば、重力の中心が子供たち以外にあるという一言につきる。重力の中心が、教師・教科書、その他どこであろうとよいが、とにかく子ども自身の直接の本能と活動以外のところにある」

「両親が聡明で、子どものために最善なものを見分け、必要なものをあたえる能力をもっているような理想的な家庭がここにあると仮定しょう。そこでは、おそらく子どもたちは家庭のあいだの世間話やその家庭のしきたりをとおして学んでいるにちがいない」

「家族の間で交わされる会話の中には、子どもにとって興味もあり価値もあるふしぶしがあるだろう。子どもはいろいろと発言し、質問がおこなわれ、さまざまな話題が語りあわれ、かくて子どもは不断に学習する。子どもは彼の経験を語り、その考え違いは訂正される」

「学校もまた子どもが実際に生活をする場所であり、子どもがそれを楽しみとし、またそれ自体のための意義を見出すような生活体験を与えるような場所であることが最も望ましいというべきであろう」

 デューイがこの本を書いたのは、1899年である。100年以上前に書かれた本でありながら、いまだに私たちは彼の本から多くのことを学ぶことができる。このことは、私たちの教育がいかに人間的な歩みから背を向け、個々人の個性を尊重するという現代的課題を先送りしてきたかということでもある。

 私は学校は基本的に、学習に対するモチベーションを与える場であればよいと思っている。モチベーションが与えられれば、子どもは自分で学習するだろう。そして学習は学校の中だけではなく、家庭や社会のいたるところで自発的に行われ、人生の時期を選ばず生涯に渡って続けられるだろう。

 学校の役割をただ一言で言うとすれば、子どもに「自ら学ぶことの幸せ、生きることの喜び自覚させる」ことだと言ってよい。そしてそれは決して、画一的で機械的な詰め込み教育からは得られない。そのためにはなによりも学校が、人格的なふれあいがあり、心と心が交流し対話とくつろぎと安らぎのある人間らしい生活の場でなければならない。そのことをデューイはもう100年も前に主張している。

<今日の一句> ルーズ穿く 少女は暑さ 知らぬげに  裕


2002年07月23日(火) 「テス」の魅力

 数日前からハーディの長編小説「テス」(岩波文庫全2巻)を読み始めた。大学時代に読んで以来、30年ぶりの再読である。毎日少しずつ、20日間ほどじっくり味わいながら読んでみたいと思っている。

 再読と言っても、これほど時間がたっていると、ほとんど細部は忘れているから、始めて読むのと変わらない。そして今更ながら、ハーディの文章のうまさに感心する。ともあれ、冒頭近くでテスを紹介した文章を写してみよう。

「この頃のテス・ダービフィールドは、経験の色に染まぬ、一個の感情の器にすぎなかった。村の学校は出ていたが、彼女の言葉にはいくぶん方言がまじっていた。この地方の方言の抑揚の特徴は、UR(アー)という音節でおおよそ表される発声で、おそらく、人間の言葉のなかで、これほど豊かなものはないであろう。

 こんな音節を自然に出すためには、深紅の唇を尖らさねばならないが、それはまだ一定の形に落ち着いていなかった。そして、一言いって唇が合わさった時には、下唇が上唇の真ん中を上へ突きあげるくせがあった。

 彼女の顔つきには、まだ幼い頃の面影が残っていた。今日も、歩いている彼女には、見るからに元気のいい美しい女らしさにもかかわらず、時としてその頬には十二歳の彼女が見られ、瞳からは九歳の彼女がきらめき、また、ときおり、その口の曲線に五歳の彼女さえちらちらするのであった。

 しかし、このことに気づく者はごく少なく、心にとめて考えてみる者に至ってはなお稀であった。わずかの者、それも主に他国者が、ほんの通りすがりに彼女を眺めて、そのみずみずしさにしばし心を奪われ、二度とふたたび会うことがあるだろうかと思うのだった。が、たいていの人にとっては、彼女は上品で絵のように美しい田舎娘、ただそれだけにすぎなかった」

 南イギリスの片田舎に生まれたハーディは、中学校を卒業した後、父親のあとをついで建築家の道を歩んだ。その一方で詩や小説を雑誌に発表し、長編「遙か群衆を離れて」の成功によって著述業に専念することになったが、その文章は、上の引用でもわかるように、建築技術にも似た精緻さと繊細さ、そして構成の美しさをもっている。

 とくに「テス」にはハーディの作家として円熟した技が冴えている。自然主義的リアリズムに立脚し、冷徹な人生哲学に貫かれながら、しかも古典建築風の優美さと典雅さをそなえている「テス」についていえば、当時から大方の批評家が名作だと認め、賛辞を惜しまなかった。とくに主人公「テス」のはかなくも美しい悲劇的な生涯は、多くの読者に深い人生的感銘と、消えることのない美的感動を与えた。

 このあと書かれたゴチック的グロテスクさと生硬な生真面目さの目立つ「日陰者ジュード」は、一転してさんざんの悪評に迎えられた。「テス」のかぐわしい成功に比べ、「ジュード」はあまりに暗く醜悪で、唾棄すべき失敗作と見なされた。たとえばある司教は「傲慢かつ卑猥」なこの小説にむかついて、これを焼き、その灰を作者に送りつけてきたという。またハーディ夫人エマはその内容を事前に知って驚愕し、その出版を阻止すべく有力者に手紙を出している。

 こうした世間や身内の敵意と悪意、無理解の中で、ハーディの精神は傷つけられ、以後死ぬまで30年以上小説の筆を折ってしまう。しかし、「テス」の作家として、ハーデイの名声はこれによって大きく損なわれることはなかった。1928年、彼の死にともない、遺骨は国葬の礼によって、ウエストミンスター寺院の「詩人の墳墓」に葬られている。

 今日、「テス」と「日陰者ジュード」のいずれをハーディの代表作とするか、意見が分かれている。私見を言えば、「テス」の成功が、ハーディにあえて「日陰者ジュード」の冒険をさせたのだろう。「テス」の芸術的な大成に甘んじることなく、「ジュード」の孤独で不安な荒野へと赴いたハーディに、私は美の破綻も恐れずあくなき真実を追究した作家魂のしたたかさをみる。この意味で、ハーディはきわめて現代的な、そしておそらく将来においてより高く評価される作家ではないだろうか。

 なお「テス」は1979年に映画化されている。監督はロマン・ポランスキー。テスを演じたのは、永遠の美女とうたわれるスターシャ・キンスキーだ。弱冠18歳の彼女はこの映画でゴールデン・グローブ賞新人映画女優賞を受賞し、同賞最優秀女優賞にノミネートされて、一躍国際的スターになった。

<今日の一句> 書のなかの 清しき少女に 暑を忘る  裕


2002年07月22日(月) 結婚まで

9.大学院の研究室
 地下鉄の本山駅で降りて、まっすぐ南に15分ほど歩くと、名古屋大学の敷地の中だった。5年前、私は大学院を受験するために金沢からやってきて、初めて大学の広大な敷地と、整然と並ぶ建物群を見て、興奮したものだった。

 あこがれの大学院だったが、そこで暮らしているうちに、いつか私はしだいに覇気を失い、進取の気分をなくしていた。そこは世間から隔絶した、何だか中世の封建時代を思わせるような古色蒼然とした世界のように思えた。

 理論物理学の研究といっても、先輩達の仕事を見ていると、誰かエライ学者の論文を読んで、それを理解した後、少し数式を変えて計算をすることくらいである。それで論文を書いて、でめでたく博士号を取得したとして、就職のあてがあるわけではなかった。

 私は4年間で自分の学究生活に見切りをつけ、1カ月ばかり前にその狭い世界を飛び出したわけだが、今こうして再び訪れてみると、大学の敷地や建物群自体が、何だかまた一回り小さく、貧乏くさく感じられた。大学を飛び出して、世間と交わるようになってまだ日が浅かったが、確実に私は生き生きとした世間の空気を呼吸し始めていた。

 物理学科の校舎の3階に市ノ瀬さんの研究室があった。かっては私の名前がオーバードクターの彼や助教授のN先生の名前と並んで扉に掲げられ、机や専用の本棚もその部屋の入り口近くに置かれていた。今は私のかわりに、別の院生の名前が掲げられてあった。

 ノックすると、市ノ瀬さんが顔を出した。
「よくきたね」
「お邪魔じゃないですか」
「論文も片づいたところだし、今日はとくに何もないんだ。幸い僕一人だから、どうぞ中へ」

 市ノ瀬さんの言葉に甘えて、私は研究室のソファに腰を下ろした。市ノ瀬さんは自分の肘掛け椅子に腰を下ろすと、
「高校はどう?楽しいかい。たしか、三河の山奥の高校だったね」
「一学年3クラスしかないんだ。小さな学校だよ。一年間非常勤講師の経験があるので、授業はまあ、なんとかね」
「高校では何を教えているの?」
「1年生の理科を12時間と、3年生に物理を2時間ほど」
「合計で14時間か。一日平均、2時間とちょっとだね。空き時間は何をしているの」
「実験の準備をしたり、いろいろ雑務もあるしね」
「研究は続けているのかい」
「いや、すっかりあきらめた」

 私は目の前の黒板を眺めた。そこには相変わらず物理学の数式が一面に書かれてあった。私は大学を出るとき、多量の論文をコピーしていた。しかし、それらの論文に再び目を通すことはもうなさそうだと思った。

<今日の一句> 朝顔に 素足の女 想ひたり  裕


2002年07月21日(日) 対話する精神

 アメリカから交換留学生を引率してみえたT先生との会話を、以前この日記で紹介したことがある。その補足をしよう。というのも、Tさんが「アメリカの小学校にはチャイムがないのですよ」と言ったのを思い出したからである。

 お昼休みや終業時のチャイムはあるらしい。授業は連続して行われ、休みは各クラスで随時とる。Tさんの話によると、小学校では決まった時間割があるわけではなく、担任の先生の裁量で自由な授業がおこなわれていて、その中身も、日本の教育とは随分違っているようだ。

 アメリカの初等教育では「対話力」が重視される。先生の話を一方的に聞くだけではなく、それを自分なりに受け止めて、自分の考えをまとめ、さらに発表する。そうした「対話力」や「自己表現力」を養成すべく、授業も「スピーチ」を主体にした対話形式でおこなわれる。

 日本的な知識注入方式の授業もないわけではないが、それは中等、高等教育においてであって、初等教育ではこうした一方通行の授業は一般的ではないようだ。教師よりも生徒を主体とした、参加型の自由な教育が行われているわけで、そのためにチャイムや時間割は邪魔になるわけだ。

 現在NHK教育テレビで毎週木曜日の朝に放送されているアメリカの大学の語学教育の授業風景でも、授業はすべて対話形式で行われている。ときには教師は生徒を連れて自由市場へ出かけ、そこに売られいる商品ついてじかに商人との会話を通して調査させ、その様子を写真に撮り、その写真を使って後日教室で各自にレポートさせたりしている。

 生徒同士に質問させ、教師が質問したりしながら、対話の中で知識を深め、日常的な思考の道具としての英語を鍛えようとしている。文法書やテキストなど活字中心の日本式語学教育とは随分違っている。そうした活字中心の学習は家庭で独習することができる。だから学校では生徒間や生徒と教師との生きた対話による教育的啓発を大切にしているようだ。

 日本の学校の場合、教師が声を張り上げ、一方的に講義をすることが多い。そこには「教え込む」という姿勢が濃厚である。話をしている教師はたいへん心地よいだろうが、聞かされている生徒は面白くないだろう。少し頭のよい生徒なら、こうした教師の長広舌をただ唯々諾々として聞くことが苦痛になるに違いない。学問の場にはもっと生きた精神と精神のぶつかり合いや、ときには生徒と教師の知的な真剣勝負があっていいのではないかと思う。

 プラトンは「考えるということは、心の中で対話することだ」と書いている。だから、「対話力」は「思考力」の基本だと考えてもよい。初等教育において「対話力」を重視するのは、学問の基本がこの「対話力」だという認識があるからだ。「対話力」は「問う力」でもある。だからこれによって、知識の習得だけでななく、問題を発見し、得られた知識を批判的に吟味検証する思考力が養われる。

 対話の技術を修得することは、つまり「如何に考えるか」という思考の技術を身につけることである。こうした考え方に立って、アメリカのみならずヨーロッパでも、生きた学力としての「対話力」を、まず最初に身につけるべく実践的な初等教育が行われている。この「対話力」が修得されれば、これを使って、知識の習得や理解、発見が自発的に行われる。だから、知識の習得よりも、まずは「対話力」の修得が優先される。

 残念ながら、日本の場合は、「対話重視」の考え方が希薄である。むしろこれと逆行するような一方的注入教育が行われている。日本人の多くは対話能力を欠いたまま、中学、高校、大学を卒業する。そして、学問の楽しさや有用性を体験することなく、他人と対話し、自ら考えることの喜びを知らずに一生を終わる。

 こうした日本人の対話能力の乏しさは、NHKや民放の討論番組をみてみるとよくわかる。そこには「対話する精神」の片鱗さえうかがえない。国民の選良として国会議員こそはこの能力が求められるのだが、彼らもこの能力を欠いている。対話によって鍛えられた経験を持たないから、自説も検証を欠いた憶説の域を出ることがない。事実に基づいた公正で客観性のある議論ができず、根拠のない自己主張をお互いにぶつけ合うだけである。私たちはこのような「対話のない社会」に生きている。

 実は今から100年以上も前に、福沢諭吉は「スピーチ」の重要性を自覚していた。諭吉は25歳の時咸臨丸の一行に加わってアメリカを視察している。そこで学校の弁論大会に招待された。異国の青年達が公衆の前に立ち、臆することなく自説を述べ、公衆の共感を得るために知能を振り絞っている姿を見て、言論の持つ威力に打たれたようだ。

「演説とは英語にてスピイチと言ひ、大勢の人を会して説をのべ、席上にて我思ふ所を人に伝ふるの法なり。我国にては古よりその法あるを聞かず。西洋諸国にては演説の法最も盛んにして、この法の大切なるはもとより論をまたず。たとえば今世間にて議院などの説あれども、たとひ院を開くも第一に説を述ぶるの法あらざれば、議院もその用をなさざるべし」(学問のすすめ)

 彼は慶應義塾のカリキュラムに弁論術を加え、やがて三田のキャンパスに演説館を建設した。しかし、そうした有能な先覚者を持ちながら、日本にはまだほんとうの言論が根付いていない。その主な理由は「対話する精神」の欠如である。自由な言説と対話こそが教育と学問の基本であり、民主主義社会の基盤であるということを、私たちはもういちど肝に銘じるべきだろう。

<今日の一句> 初蝉に 耳を澄ませば 風立ちぬ   裕


2002年07月20日(土) 熱狂する精神

 昔から、熱狂することが嫌いである。だから、おおかたのスポーツは嫌いである。なぜなら、スポーツには熱狂がつきものだからだ。とくに観客が示す集団的熱狂は大嫌い。生理的に受け付けない。

 そんな私が、先月のワールド・サッカーは結構テレビ観戦をした。日本の試合は大方見たのではないだろうか。そして結構楽しんだ。観客の熱狂もあまり気にならなかった。それどころか。私自身、日本チームを応援して、いくらか熱が入っていた。個人的にはドイツのカーン選手が好きだった。彼を見ていると、なんとなく男の中の男という感じがした。

 どうしてそういうことになったのか。それは、プレーする選手達に好感を持ったためである。ボールを追って、広い競技場を全力で駆けめぐり、体をぶつけ合い、必死でゴールを狙う。あるいは必死でゴールを守る。その単純で原始的とも言える活力ある姿にいささか感動した。選手達の個性的で野性的な表情もよかった。サポーターたちの必死な応援も、なんとなく見ていて、ほほえましかった。

 宴が終わった後、世界はまた重苦しい雰囲気に包まれている。イスラエルとパレスチナ、インドとパキスタン、南北朝鮮など、紛争は続いている。アメリカはイラクを本気で攻撃するつもりでいるらしい。スポーツの熱狂はまだ愛嬌があるが、戦争の熱狂はごめんである。

「熱狂─青年がかかりやすい病気で、経験という外用薬と後悔という内服薬を少量ずつ服用すればなおる」(A・ビアス)

<今日の一句> すれちがう 少女ほほえむ 百日紅  裕


2002年07月19日(金) アポロ的な生を求めて

 ギリシアの英雄テセウスはクレタ島クノッソスの迷宮に入り込み、そこで牛頭の怪物ミノタウロスを殺す。このとき王女アリアドネは糸玉を渡し、テセウスが迷宮を逃れる手だてを教えた。

 その後テセウスはアリアドネを連れてクレタ島を逃れナクソス島に着くが、ここでテセウスはアリアドネはに置き去りにして、ギリシャに帰ってしまう。そこにディオニュソスが現れ、アリアドネを花婿として連れ去る。

 こに対比されているのは、パルテノン神殿に象徴される、ギリシャ文化のアポロ的な晴朗さと、クノッソス宮殿に象徴されるディオニュソス的な生の惑乱と迷宮である。しかし、ニーチェに言わせれば、ギリシャ文化のアポロ的な晴朗さも、その水面下にはディオニュソス的な晦渋さと暗部を持つという。「悲劇の誕生」から引用しよう。

「太陽に照らされた,この上なく明るい湖水の中を覗きこむと,人はまるでその湖のそこに手で触ることができるかのように,湖のそこをまったくすぐ近くにあるものと思いこんでしまうものである。けれども,ギリシア芸術が私たちに教えたところによれば,恐ろしい深みなしには,真に美しい表面は存在しないのである。・・・・・アポロ的ギリシア人は,あらゆる美と節度を備えた彼の全存在が,苦悩と認識の覆われた基盤の上に立っている。」

「人間の最も内奥にひそむ深みから現れる至福の恍惚であり、人格感を消滅させる。すべての原始人や原始民族が賛歌の中でうたっている麻酔的な飲料の影響と力強い春の近づいたためか、あのディオニソス的興奮が目醒める。そしてそれが昂まるにつれて、主観的なものは完全な自己忘却へ向かって消滅していく」  

 理知的で、明るく、実践的で建設的な幸福、それをアポロ的というなら、陶酔的で、破滅的、幻想的な幸福をディオニソス的と言うことができる。ちなみにアポロはゼウスの息子で、太陽神。光、文芸、音楽の神様、ディオニソスは酒と演劇の神様だ。

 アポロが人生の光を象徴するなら、ディオニソスは闇を象徴している。しかし、いずれが先かと言えば、ニーチェが言うように、闇が先かも知れない。闇の中から、光が産まれる。アテネのパルテノン神殿が眩しいのは、それが血塗られて混沌とした人類の歴史の闇の中に立っているからだろう。それは怪物ミノタウロスを倒し、迷宮を征した者のみがうち立てることができた記念碑であり、人間性の勝利の象徴だといえる。

 私たちもまた人生という迷宮の中に置かれている。そこを支配するさまざまな怪物達と死闘を繰り広げ、勝利を収めなければならない。そしていつか人生に対する戦いに勝利して、心の中に明るくて清々しい神殿をひとつ建てたいものである。もちろんそこに祭られるのは、かってのギリシャ人がそうであったように、愛と真理の美しい女神像でありたいものだ。

<今日の一句> 人生の 迷宮たのし アリアドネ  裕


2002年07月18日(木) 異端者ハーディ

 ハーディは世界を意志の表徴としてとらえるショーペンハウエルの哲学に傾倒していたようである。その考え方は東洋的虚無主義に近く、キリスト教からすれば異端であり、むしろ無神論者とみなされても仕方がない。

 だからハーディの文学はどちらかというと、日本人にはよくわかるのではないだろうか。実際「痴人の愛」や「春琴抄」を書いた谷崎潤一郎は、ハーディに心酔し、日本人としてはじめて「グリーブ家のバーバラ」も邦訳している。愛の三昧境を追求する谷崎の作品に、ハーディの影響を色濃く認めることができる。

 さらにいえば、ハーディの作品と「源氏物語」との親和性を指摘することもできよう。「萎えた腕」などはまさに人間の怨念が生き霊となって活躍する「源氏物語」の世界そのもののすさまじさである。ハーディが日本の古典文学、とくに「源氏物語」や「万葉集」を読んでいたとは思えないが、もし読んでいたら最大限の賛辞を呈したのではないかと思う。

 ハーディの作品は悲劇的であり、その悲劇も宿命的であるだけによけいに暗い印象を与える。しかし、墓碑銘の言葉からも分かるように、ハーディはつねにユーモアと諧謔を失わなかった。だから読んでいて、楽しく、読み出すとやみつきになってしまうのである。

<今日の一句> はぐれ鳥 空の青さが 目にしみる  裕


2002年07月17日(水) 日蔭の二人

 映画「日蔭の二人」を見た。イギリスの小説家トーマス・ハーディの名作「日蔭者ジュード」を映画化したものである。原題は「Jude」で、1996年の英国映画。監督はマイケルウィンターボトムである。

 田舎に住むジュードは大学に入学するのを夢見る若者で、村の娘と結婚するが、性格の違いから生活はすぐに破綻する。ジュードは大学のある都市に移って石工として働き始め、聡明で快活な従妹スーに出会う。

 やがて二人は正式に結婚しないまま共同生活を始め、子供を育てるが、宗教に懐疑的で、因習を憎み、学問と自由にあこがれる二人に、世間の目は厳しくて住処や仕事もなかなか得られない。しかし、彼らはそうした世間と妥協することなく、貧しい逆境の中で、ときには奔放に、そしてけなげに生きていく。

 ところが悲劇が突然襲いかかる。ジュードが先妻とのあいだに儲けた子が、二人の間に産まれた二人の幼い子供たちを巻き添えにして、自殺してしまうのだ。自殺の直接の原因は、義理の母親であるスーに、「家族が多いのでアパートを追い出される」と言われたことだが、その前に、いろいろと人生の悲劇を体験していることが大きい。

 たとえばジュードはわざわざスーの出産シーンを息子に見せている。このとき見せられるスーの血塗られた股間の映像は子供でなくても目に焼き付いて刺激的だ。スーを演じるのは、「タイタニック」のケイト・ウィンスレットだが、彼女はこの映画でヘアーの見える全裸シーンも惜しげなく見せている。

 それはともかく、一気に3人の子供を奪われて、ジュードとスーは絶望のどん底にたたき落とされる。そして、スーは罪悪感に打ちのめされ、これまでの生活態度やジュードを捨てて、キリスト教の救いの中に逃げ込む。正気に戻ったジュードは、スーを必死で自分の世界に取り戻そうとする。

 最後まで望みを捨てないジュードに、私はニーチェのいう新しい人間の誕生を感じた。原作者のハーディもまたこうした逆説的な形で、自由意志に生きる人間の美しさと厳しさを描いている。映画でもこの点はうまく描かれていたと思う。とくにジュード役のクリストファー・エクルストンがなかなかしぶい演技を見せてくれた。

 私が、トーマス・ハーディ(1840〜1928)を知ったのは、大学の英語の授業の読本が彼の短編集だったからだ。「呪われた腕」など、原文を辞書をひきながらどきどきして読んだものだ。それから「日蔭者ジュード」や「ナナ」などを訳本で読んで、いよいよ夢中になった。以来この30余年、ハーディのファンである。

 ハーディは南イングランドのドーチェスターという町の近郊の小さな美しい村で生まれた。彼の小説はみな、この辺りの村や町を舞台にして書かれている。自然の美しさや野生の香りのようなものが、文章に満ちていて、独特な味わいのある文体が魅力的である。

 しかし、彼の小説の登場人物の多くは、人間の止みがたい情熱を通して現れてくる盲目的意志のようなものに翻弄され、おおかたはその宿命的な力に押しつぶされる。結末は陰鬱でペシミスティツクに違いないが、一途に意志を貫いて、そのあげくに滅びていく人間の情熱の美しさや純粋さには心が揺さぶられる。

 ハーディは、「分別のある恋は、本物の恋ではない」という言葉を残している。文明に対して批判的で、より原始的で野性的な本能の声に忠実に生きることを尊ぶ思想家だった。しかし、そのような生は、この世には受け入れられず、受難に満ちている。こうした人生の認識が彼を厭世家にしたのだろう。情熱故の受難であり、理想故の厭世である。

「日陰の二人」を見て思ったのは、ジュードはおそらく作者ハーディその人の分身であり、かなり忠実な自画像ではないかということだ。昔、岩波文庫で読んだ「日陰者ジュード」をもう一度読み返してみたくなった。なお、ハーディの墓碑銘には次のような言葉が刻まれているらしい。

「生まれたくなかったこの世に生まれ、取り出されて体を抑えられ、しかめ面して足をばたばた、熱いレンガの上のネコのように、床から飛び上がって奇妙なダンス、ぶっ倒れて息がとまるまで」

<今日の一句> あかね雲 淋しき空に 火を点す  裕


2002年07月16日(火) 脱学校のススメ

 私たちは知らず知らずに、さまざまな固定観念を持ち、これに無意識に呪縛されて生きている。確固不動の真理だと思っていることも、ときには疑ってみることが必要だ。ひょっとして、それも、私たちの固定観念の作り出した幻想のひとつにすぎないかもしれないからだ。

 心理学の専門家で、鋭い社会批評家としても知られている岸田秀さんは、私たちを支配するこうした固定観念や、それが作り出す幻想について、深い分析をしている。最近では朝日新聞の「私の視点」で、学校教育におけるさまざまな固定観念について論じ、大胆な提案をしていた。(6月16日)

 岸田さんによると、おもに次の5つの間違った固定観念によって日本の教育界は呪縛されており、これが教育の崩壊を招いている元凶だという。その5つの固定観念とはなにか。

�,澆弊�在的に同じ能力を持っている。
�△�まんして勉強すればそのうちに役にたつ
��正しい教育が実践されれば、生徒の能力が伸び、個性が開発される。
�こ惺散軌蕕歪垢な�がよい。
�コ惺擦膨未┐弌�能力や教養が身につく。

 これらを私たち教師や親はほとんど異論なく認めている。しかし、岸田さんによれば、いずれも固定観念にすぎない。正しいと思い込んでいるだけで、ほんとうはまちがいである。このまちがった考えの上に、日本の学校教育が行われているのだから、うまくいくわけがない。学力崩壊が起こって当然だということになる。

 それではどうしたら、教育の正常化が可能か。岸田さんは学校教育の呪縛から自由になることをすすめる。固定観念に縛られた学校こそが諸悪の根元であるから、子供たちを学校からなるべく早期に解放したほうがよいというわけだ。具体的に言えば、義務教育は4年間で十分だという。

 岸田さんのこうした主張は、私が日頃から主張している「脱学校化のすすめ」もしくは「学校解体論」とほとんど同じである。そして� 銑イ�間違った固定観念であることは、これまでこの日記でたびたび触れてきた。これからも折に触れて、これらが幻想であるゆえんを主張していきたいと思っている。

<今日の一句> 台風が きそうで来ない 一休み  裕


2002年07月15日(月) 結婚まで

8.電車の女
 7時過ぎに、私はアパートを出た。S子は体調がすぐれないというので、合い鍵を渡してアパートに残した。
「帰りは遅くなるので、待っていないで、早く帰るのだよ」
 私は玄関口でS子に声を掛けたが、このままS子が居座るのではないかという不安が残った。

 それでも朝日を浴びながら、駅の方に歩いていると、自由な風にふかれて野を行くような快活な気持ちが戻ってきた。せっかくの休日である。S子のことは忘れて、この日を楽しみたいと思った。

 電車がいつもより空いていた。私は座席に腰を下ろし、周囲を観察した。行楽に出かけるらしい家族連れが向かいの座席を占領していた。幼い男の子が少し年長の女の子二人に挟まれて、何かのコマーシャルソングを歌っていた。父親と母親はリュックを膝に置いて、ときどき子供たちに声を掛けていた。

 10年後、私もこんな風に家族をもつのだろうか。いや、そんなことはないだろう。S子に言ったように、私はたぶん最後はだれにも看取られことなくモンゴルの草原で死んでいく。自分がこの世に存在した痕跡など、一切残さずにこの世界とおさらばしたい。

 こんなことを考えているうちに、電車は途中から満席になり、私の前に若い女が立った。その女性からかすかに香水が匂ってきた。年の頃二十三、四で、ほっそりした腰をしていたが、胸の膨らみがほどよく目立っている。これからデートかもしれない。涼しげな目をした美人だ。私は何となし、昨夜K子から貰った百合の花を思い出した。

 目の前の女性は、年頃はK子とおなじくらいだろうが、保母をしているK子より都会的な印象で、あか抜けていた。満員電車の中で、こんな魅力的な女と体が触れ合ったりしたら、妙な気がするだろう。こうした女性の手を握り、キスをしたり、体の関係を結べば、夢中になれるかもしれない。

 S子にとって、私がそのような男なのだろう。私は修士号を持っていて、文学や哲学にも強く、教員という社会的に信用のある職業についている。一見して人柄も穏和で真面目だ。29歳のS子にとって、私は結婚相手としては、かなり条件のよい男に違いない。K子やその親たちが私との結婚に乗り気なのも、私にそれだけの価値を認めたからだろう。

 しかし、私は一人の女性だけではなく、たくさん女性を知りたいと思っている。哲学や文学に楽しみを見出したように、異性との心のこもった交際から、なにがしかの人生の喜びが得られれれば、それでよい。結婚して束縛されたくはないが、自分の人生を華やかに明るくするために女性との交渉は持ちたいという、かなり勝手な男なのだ。

 私は目の前の女をもう一度見た。彼女をS子やK子と比較して、理想化していたような気がしたからだ。よく眺めてみると、目の下に小さな黒子がある。いわゆる泣きぼくろというやつだ。顔の表情も、左右で少し均衡が破れている。高嶺の花というほどの眩しい存在ではなさそうだ。たしかにおしとやかに澄ましているが、私のアパートの女子大生達とそれほど違いはなさそうだ。

 ふと、私の心の中に、目の前の女性を誘惑したい気持が動いた。私はもはや貧乏な大学院の学生ではない。身につけているものも、そう安物ではなかった。私はもうすこし自分に自信を持ってもいいのではないか。

 私は彼女のスカートの下のふとももや、その奥に隠された女の徴、そして清々しく息づいているゆたかな胸とそのつぼみを想像した。
(自分がなくなりそうよ。あなた、それでいいの)
(すっかり、自分でなくなってごらんよ)
 彼女は私の胸の中で髪を乱し、なまめいた媚態を見せながら、やがてすっかり正気をうしなっていく……。

 こんな妄想に耽っているうちに、電車は名古屋駅に着いた。プラットホームに降りて、私はしばらく女性の後を歩いた。しかし私の歩みは次第に遅くなり、やがて群衆の中に彼女の姿が消えた。それを見届けるようにして、私はおもむろに改札口を出て、地下鉄乗り場の方へ歩いた。

<今日の一句> 夜が更けて デネブアルタイ なつかしき  裕


2002年07月14日(日) 一兵われの死なざりし

 私が好きな俳人の一人に、安住敦(あずみあつし1907−1988)がいる。昭和20年8月15日終戦の日に詠まれた俳句の中で、印象に残る一句を上げるとすれば彼の句だろう。

  てんとむし一兵われの死なざりし

 彼は逓信省に十数年勤めたあと、そこをやめてから軍隊に召集され、終戦を迎える。彼の「随筆歳時記」には、句ができたときのことが次のように書かれている。

「所詮、助からないと思っていた命が、これで助かったと思ったとたん涙がふり落ちた。一ぴきの天道虫がとんできて、私のかかえ持った銃の銃身にとまった」

 さらに彼が自ら主宰していた「春燈」に掲載された「二等兵の手帖」という随筆があるので、一部引用しておこう。

 「わたくしたちは幸い外地に派遣されることなく、千葉県上総湊の仮兵舎に配属された。一応内地勤務というわけだが、そこの部隊の任務は米軍の上陸に備えての沿岸防備で、名称も対戦車特別攻撃隊、敵が上陸したら兵たちは一人々々十キロの爆弾を(我々は中国では破甲爆雷と呼んでいたが、現物は見た事はない)背負って敵戦車の下に飛込むのだ。兵たちは明けても暮れても、汗みどろ泥塗れになってその訓練をやらされていた。

 兵隊に自由時間はないが、訓練学校兵舎に戻るとわたくしは、ポケットから手帖を取出し簡単な日記をつけた。それも軍の批判や厭戦的なことは書けず、 例えば「午後匍匐前進訓練、膝小僧血を噴く。あと軍歌演習」といった程度で、余白に俳句一、二句。それだけのものである。それだけのものだが、それはわたくしにとってその日々を一兵として生きた証拠だった。

 虫ケラのような儚い命だが、少なくともそれを記す瞬間わたくしは確かに生きていた。やがて、怖るべき敵前上陸もなく敗戦となり、兵たちは敵戦車の下に飛込むこともなく、唯一つの武器九九式小銃を現地に放棄して召集解除となった」

 安住敦には数々のすぐれた句がある。そのなかから私が好きな句をいくつか紹介しよう。いずれも、妻子を抱え、職を転々としながら、戦中戦後の貧乏暮らしの中でしみじみと歌われた句である。  

 よこがほがさびしく足袋をはいてゐる

 ゆふぐれは一ぴきの魚買ってくる

 妻がゐて子がゐて孤独いわし雲

 兄いもとひとつの凧をあげにけり

 銀杏ちる兄が駈ければ妹も

 春惜しむ食卓をもて机とし

 雁啼くやひとつ机に兄いもと

 世にも暑にも寡黙をもって抗しけり

 こでまりの愁ふる雨となりにけり

 しぐるるや駅に西口東口

 鑑賞するのに特別の知識や説明は必要なかろう。平明で淡々とした味わいのある句ばかりである。実際、安住自身自らの作句態度について、次のように書いている。

「私の人生において、いかに己が感傷を大切に生きたかが私にとっては問題である。私はつねに市井の一隅で、しずかに、思い耐え、しみじみと、おのが人生の哀歓を詠っていればいい」(現代俳句全集)

 (参考文献) 「日本の詩歌 30 俳句集」 中公文庫

<今日の一句> にわか雨 こでまり濡れる よふけかな  裕


2002年07月13日(土) 心の中での朗読

 二十数年前に、小説を書き始めた頃、その道の先輩から、「できた文章を口の出して読むといいよ。聞いてわからない文章は悪文だからね」とアドバイスされた。それから、私は自分の書いた小説をテープに吹き込んで、繰り返し聞いて、文章を練り直した。これを10年間ほど続けて、ようやくまがりなりに小説の文章らしいものが書けるようになった。

 その後、文章を朗読してテープに吹き込んだり、実際に声に出して読んだりすることはなくなった。そのかわり、心の中で登場人物の声を聞きながら読んでいる。この日記の文章も、心の中で何度も声に出して読んで、書き直しをしながら書いている。

 思うに、言葉というのは本来「口で語り、耳で聞く」ことが基本である。しかし、現代の日本語はこの原則からかなり逸脱してしまった。それは漢字尊重、文字尊重の歴史がしからしめたものだと思う。同音異義語の氾濫する現代文はますます「耳で聞いて分かる言葉」という理想から離れつつある。

 これに対して、やまとことばが主体の古文は耳で聞いてわかりやすい。ただわかりやすいだけではなく、いかにも響きがよい。とくに短歌や俳句を読んでいると、古文の美しさを実感する。口語体の短歌や俳句もあるが、やはり文語体は引き締まっていてうつくしい。私が俳句や短歌が好きな理由の一つに、この文語体の美しさが味わえるということがある。俳句や短歌の中では、今も文語体が現役で生きて働いているからだ。

 たとえば聖書の翻訳も、私は現代語訳と文語訳の二種類を持っているが、「文語訳」のほうに惹かれる。

「野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめたときのソロモンでさえ、この花のひとつほどにも着飾ってはいなかった」(マタイ伝6−28)

「野の百合はいかにして育つかを思へ。労ぜず、紡がざるなり。されど我なんじらに告ぐ。栄華をきわめたるソロモンだに、そのよそほひこの花の一つにもしかざりき」

 文語体はなぜこのように簡潔で美しいのだろうか。その理由は、古文が基本的に口承によって鍛えられた、長い歴史の中で洗練された伝統のある言葉だということだ。またこの言葉によって、私たちの感受性が養われ、思想や感情が形作られてきた。古文の美しさに出会うことで、私たちは日本の伝統の美しさを実感することができる。

 私の場合、古典との本当の出会いは「万葉集」だったような気がする。大学時代にNHKラジオで犬養孝さんが「万葉集」のうたを朗読するのを聞いて万葉集の熱烈なファンになった。それからしばらくしたころ、やはり同じNHKの番組で女性アナウンサーの朗読で井原西鶴の「日本永代蔵」を聞き、古文の美しさに改めて感激したのを覚えている。

 古文は朗読で聞くのがいい。それはもともと古文が発声を想定して書かれたものだからだ。だから古文は声に出して読んでみると、いっそう美しさが引き立つ。俳句や短歌など、実際に声を出さないでも、心の中で静かに味わいながら読み返してみるとよい。その響きの良さが実感されるに違いない。

 錯雑した現代文明の担い手として、実用上の重圧にあえいでいる現代文に、このような美しさを要求するのは少し酷かも知れない。まずは聞いて分かる文章が書けるように心がけるべきだろう。そのうえで、いくらかゆとりがあれば、すぐれた古典の文章に学んで、文章を美的に洗練させることがあってもよい。しかし、このことは何も文章を美しく飾り立てることではない。

 文章の基本はあくまで意味が通じることである。文章はなるべく透明で、静かに澄んでいるのがよい。そのほうが物の本質がよく見えるからだ。読む人を陶酔させるような語り口のよい文章は、その時は面白く聞こえても、後に何も残らず、ときとして悪酔を覚えたりする。こうした文章は、美的に洗練とされた文章とは言いがたい。

<今日の一句> ひまわりが 少しうつむき 子らを見る   裕


2002年07月12日(金) 存命のよろこび

 歌人の上田三四二さんが、「短歌一生」(講談社学術文庫)の中で、こんなことを書いている。

「生活や風景をくっきりと掬いあげて、生きていることの実感を貯え、味わわせてくれるもの、それが短歌である」

「歌はその人の人柄の出たものがよい。人柄は生活を歌ったものにでやすい道理だが、鈍くうたっていてはただの報告に終わってしまう。細やかに心を澄まして、生活の中の哀感を、感動のよすがとなる事物に寄せて、端的に歌いあげるのである」

「怨念ということが言われるが、私は、歌は浄念でなければならないと思う。・・・歌人は、残酷のむき出しになった今のような時代であればあるほど、いっそう心を澄ませ、うちに悪念なく、世の清らかさを求めて祝福の言葉を唇にしなければならない」

「詩歌は存命のよろこびを歌うものだ。せつに、そうおもう」

 これらの言葉を残した上田さんが好きだというのが、茂吉の次のうただそうだ。私も大好きである。

  くさぐさの実こそこぼゆれ岡のへの
  秋の日ざしはしづかになりて      茂吉

 最後に上田三四二さんの歌を一首引いておこう。彼が40代で結腸癌を病んだときの歌である。蛇足になるが、彼はお医者さんである。一日は「ひとひ」と読む。

 死はそこに抗ひがたく立つゆゑに
 生きてゐる一日一日はいずみ    三四二

 一日一日が泉だというのは、抗いがたいものとして死を意識した三四二さんの実感だったのだろう。三四二さんが好んで口にする「存命のよろこび」は徒然草の中の言葉である。
「されば、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや」)
  (第93段)

(参考文献)
「短歌一生」 上田三四二著 講談社学術文庫
「眩暈を鎮めるもの」 上田三四二著 講談社学術文庫
「徒然草を読む」 上田三四二著 講談社学術文庫
「この世 この生」 上田三四二著 新潮社

<今日の一句> うつむきて 何を夢見る 百合の花  裕


2002年07月11日(木) 司法への市民参加を

 昨年11月に司法制度改革推進法が成立した。改革の基本方針は次の3点である。
(1)裁判の迅速化
(2)法曹人口の増加
(3)国民の司法参加
 いまは小泉首相を本部長とする推進本部が中心となり、法律案を検討している。3年以内の改革実現を目指すのだという。

 ここで、とくに目玉と言われたのが、「国民の司法参加」である。民主主義の条件の一つとして、国民の司法参加は避けられない。なぜなら、「社会の規範となる倫理を市民が作る」といことは、市民の政治参加と並んで、民主政治の大きな柱だからだ。例えばアメリカではこの理念のもとに「陪審制」が行われている。

 わが国の場合、導入が検討されているのは、「「裁判員制(参審制)」のようだ。これは国民から選ばれた裁判員が、裁判官とともに裁判に参加して、事実認定や量刑判断をする制度である。国民だけで有罪、無罪を決める「陪審制」とは違い、国民と裁判官が対等な立場で評決を下すというものだ。

 陪審制にくらべて、裁判員制(参審制)はより穏健である。裁判員がプロの裁判官に混じって、独自の主張を展開できるのか、疑問なしとはしない。しかし、たとえ裁判員制でも、これが実現すれば、日本の閉ざされた司法制度に、大きな風穴があくことになるだろう。

 裁判官は、とかく市民感覚や常識に欠けると批判されている。市民が参加すれば、より血の通った判決が可能だろうし、また裁判に参加することで国民の司法意識も高まるだろう。プロの観点とは違った市民感覚で法律を眺めることも大切である。ひいてはそれが法律の改革にもつながる。とかく保守的で時代にマッチしない司法制度を革新する力にもなるだろう。

 一刻も早い実現がまたれるところだが、ここへきて雲行きがあやしくなってきた。目玉であった「司法への市民参加」が見送られる公算が大きくなってきた。小泉首相のかかげた「司法改革」もまた、が「政治改革」どうように、たんなるかけ声だけに終わりそうなのである。

「司法参加」が外されるのは、時期尚早ということらしい。委員の中からは、「日本の民主主義はまだそこまで成熟していない」「自分の意見をもたず、自己表現も十分にできない多くの市民に裁判はむりだ」という声があいついだという。こうした市民蔑視の考え方が根底にあるかぎり、いつまでたっても改革はすすまない。水泳が出来ないからと言って、水を恐れていては、いつまでも泳ぐことはできない。ときには水に飛び込む勇気が必要だ。

<今日の一句> あさぼらけ 台風過ぎて 青い空  裕


2002年07月10日(水) 議員抽選制のすすめ

 長野県議会は5日、賛成44、反対5で田中知事の不信任案を可決した。反対したのは共産党だけである。ところが長野県世論調査協会(社団法人)のアンケート調査のよると、有権者の61・6%が知事の不信任決議に反対し、賛成は27・9%にとどまっている。田中知事のダム建設中止方針についても、「賛成」(58・8%)が「反対」(23・8%)を大きく上回っている。

 調査から、県民の多くは知事の政策を支持していることがわかる。おなじく選挙で選ばれながら、議員たちの意識と知事や県民の意識とはずいぶんかけ離れている。どうして議会と有権者とのあいだにこうした乖離現象が起こるのだろう。これは長野県の特殊事情だろうか。

 私は有権者と議員の意識の乖離現象は今日の日本ではむしろ恒常的なものだと考えている。国政の場合は議院内閣制のもと、最大党派から首相がえらばれるので、議会との軋轢や対立は表面化しない。地方でも首長公選制だとはいえ、実態は議会の派閥政治の力学のなかで首長が選ばれている。議会と首長が国政以上に癒着している。

 だから、知事は県民よりも議会の意向を汲んで政策を実行するのだが、田中知事の場合はその手法が違っていた。公約通りみずからの信念を貫き、ときには議会の頭越しに県民に信を問うた。いわば直接民主主義の手法を使ったわけで、議会はこれに反発した。

 田中知事の手法に若干の問題があったとはいえ、利権に支配された国政や県政を改革するには、首長がこのくらいの指導力を持つ必要があるのだろう。とくに地方の場合、建設関係者が県会議員や市会議員の中に占める割合が異常に高く、彼らが議会の主導権を握っている。彼らが自らの利権にしがみつき、いわゆる「抵抗勢力」となって、「脱公共事業政策」に反対することは目に見えている。

 それではどうしたら利権政治を打破し、議会に有権者の意志を正しく反映させることができるのだろうか。そのためには、私が以前から主張している「議員抽選制」が有効だと考える。つまり地方議会の全議席、国会の半分の議席を有権者のなかから抽選で選ぶのである。議会と有権者の意識の乖離がなくなれば、公選制で選ばれた首長が気持ちよく仕事ができる環境が整う。

 ギリシャの民主政治はペリクレスによって大胆に改革され、市民全員が議決権を持ち、執政官をはじめ政府の役職者はすべて抽選で選ばれることになった。ちなみにこの改革を主導したペリクレス自身は結局執政官にはなれなかったという。首長レベルまでくじ引きにするのはどうかと思うが、私はこれが民主政治の究極の姿かも知れないと思っている。

 議員抽選制は擬似的な直接民主制であり、この制度のもとでは、人口比に応じて、さまざまな職業を持つ人が政治にかかわりを持つことができる。そうすれば土建業者に議会を支配されることはないし、極端な男性優位や高年齢化も解消される。業者との癒着や賄賂もなくなる。

 公選制で選ばれた首長との軋轢もなくなり、議員の知的レベルや品性もずいぶん改善されるに違いない。参政権とはたんなる選挙権ではない。有権者自らがさまざまなレベルの政治に直接関わることで、成熟した政治意識が生まれる。意識が変われば、政治も変わる。

 議員抽選制の考え方は、あまり一般的とは言えないが、アメリカの有力な政治学者が提唱していたことを、トフラーの名著「第三の波」で知った。トフラー自身も「議員抽選制」に反対ではないようである。とはいえ、日本の政治学者でこれを主張している人は知らない。日本の場合は裁判の陪審員制度でさえ、「民主主義が成熟していない」という理由で、退けられている。

「議員抽選制」は私の夢だが、その前に、せめて「首相公選制」くらいは実現させたいものだ。自分たちのリーダーを自らの手で直接選ぶというのは、誰が考えてもあたりまえのことであり、民主主義の基本だからだ。

<今日の一句> さわやかな ほほえみ涼し 夏日かな  裕


2002年07月09日(火) ダム・空港建設で財政・自然が破壊

 4月の徳島県知事選挙で公共事業の見直しを公約に掲げて当選した大田正知事は、6月28日に徳島空港の拡張工事の再開を表明した。ダムの費用は結局約80%が国の負担となるようになっている。だから、ダムを造ると補助金がたくさんもらえる。

「国がタダ同然で作ってくれるのに断るバカはいない」と県議会の最大会派の幹事長が言っている。(2002,6,17,朝日)。ほんとうに呆れた感覚だが、こういうことがもう何十年もまかり通ってきた。

 そのあげく国は600兆円もの累積赤字をため込み、国債のランクはとうとう発展途上国並になった。この先、国が破産しそうだというのに、こんなばかな政策を変えようとはしない。

 徳島空港の拡張工事は、中止した場合の費用は約230億円もかかり、継続した場合の費用は約151億円だから、中止すると約80億円多くかかるという。しかし、これは本当だろうか。公共事業が予定の予算で収まったことがない。ひどいときには2倍以上かかっている。

 さらにもっと本質的な錯誤がある。施設を作れば、維持管理しなければならない。運用や補修にたいへんな費用がかかる。だから、中・長期的なスパンで考えれば、費用的にどちらが安いかは完全に逆転する。

 推進派はダムを造らないと、洪水の時住民が危険にさらされると主張するが、この点について、田中知事は県議会で、「50年に1度くらいの大雨の場合に対しては、河川改修で対処する。100年の1度くらいの大雨の場合に対しては、その上に森林整備と遊水池と貯留施設等を加えて対処する」と述べている。これが最良の政策であることは専門家がひとしく認めている。

 そもそもダム開発は森林を破壊する。そして緑のダムといわれる森林を破壊するから洪水が起きやすくなる。ダム建設はかえって、洪水の危険性を増すことになるわけだ。だからダムを造って洪水から住民を守ろうという発想はそもそも近視眼的で、本末転倒した政策だ。こんなことも常識だと思うが、何が何でもダムを造りたい人が大勢いる。困ったことだ。

 書いているうちに、ますます腹が立ってきた。田中知事よ、信念を貫いて、日本の政治家によきお手本を示してやってください。蔭ながら、応援します。

<今日の一句> 枯れつつも 紫陽花立ちぬ 稟として  裕


2002年07月08日(月) 結婚まで(7)

7,危ない女
 翌朝、私は6時頃目を覚ました。セミダブルのベッドに、S子が一緒に寝ていた。裸のまま、顔をこちらに向けて寝ていた。夢でも見ているのか、苦しそうな寝顔だった。S子はとりたてて美人ではない。それでも、ときおり可愛いなと思うときがあった。しかし、最近はS子は滅多に笑わない女になっていた。そして多くの場合、思い詰めたような、悲しい顔をしていた。

 たぶん、責任は私にあるのだろう。私はS子にほとんど恋心を感じたことがなかった。正月にS子から「会いたい」と書かれた年賀状をもらった私は、彼女を電話で名古屋駅前に呼びだして、その日のうちにラブホテルに連れていった。

 別に強引に迫ったわけではない。体を合わせて、最後の姿勢に入ったとき、彼女は「私、どうにかなる。私が私でなくなるわ。あなた、それでもいいの」と訊いてきた。このときの彼女の真剣な表情に、私は思わず腰が引けそうになった。私の行為が、私が予想していた以上の深刻な事態をもたらすかもしれないと、ふと思ったからだ。

 それでも、私はかまわず進んだ。彼女の顔の表情が変わり、それまでの控えめでおしとやかな女が姿を消して、まったく印象の違う女になっていたが、私はそれが女だというものだと思った。そして、私自身、人格が変わったように、彼女の中に溺れて行った。

 初めての行為が終わって、私はやがて平常な自分に戻ったが、S子はその後、以前の彼女ではなくなった。彼女とはすでに読書会で2年ほど会っており、その仲間で宿泊を伴う旅行もしている。そのときの内気な印象とはまるで違った、どこまでも命がけで追いすがってくるといった、衝動的で危ない女になっていた。

 一晩で、彼女がここまで変わるのは私には誤算だった。29歳の彼女は恋愛体験もあり、異性との行為も初めてでないと聞いて、そのうえで私は彼女をホテルに誘ったのだが、これではまるでうぶな処女とかわらなかった。どうやら女性体験に乏しかった私はとんでもない厄介な女性と関わり合いになってしまったようだ。S子の寝顔を見ながら、私は憂鬱な気分に捉えられていた。にも拘わらず、私の下半身はすでに彼女の白い肩や胸のふくらみに反応していた。

 もちろん、私はその誘惑を押し殺して、ベッドから抜け出した。そして、衣服を着ると、キッチンへ行き、朝食の用意をした。二人分のコーヒーとトーストと目玉焼きが二十分ほどで出来上がった。

 食事を告げに寝室へ行くと、S子はまだ目を閉じていた。声を掛けると、目を開けたが、物憂そうな表情で、
「もう少し寝ていては駄目かしら。睡眠薬がまだ切れていないみたい」
「僕は7時にでかけたいんだ。それまでに、支度をしてくれないか」
 S子は一日、私と一緒にいるつもりだったのだろう。怪訝そうに見た。
「日曜日に学校があるの」
「いいや、大学で市ノ瀬さんと会う約束なんだ」

 約束はしてなかった。S子から自由になりたいばかりに、私はそんな嘘をついたのだった。
 S子は押し黙ったまま、蒼白い顔でベッドから抜け出した。私はベッドの下に落ちていた下着を取りあげると、彼女に渡した。そして、彼女の視線をはぐらかすと、あわててキッチンへ行った。

<今日の一句> 七夕も 何やらわびし ひとり酒  裕


2002年07月07日(日) アメリカの学校

 今、私の高校にアメリカから十数名の交換留学生がきている。たまたま私の数学の授業に出席していたので、|−3|=?を黒板に書いて答えさせた。すぐにわかったようで、「3です」と答えた。そこで、|3+4i|=?と訊いたら、これには答えられなかった。

 私のクラスの生徒も答えられない。|3+4i|=5 が成り立つことを理解することが授業の目的である。私は最初に目的地を示すことにしている。その枕として、こうした問題を出す。そのあと複素数が平面上の点で表されることを学習して、生徒たちは|3−2i|=√13 などの問題が解けるようになり、学習の達成感を味わう。私も自分の授業の達成感を味わう。

 さて、そのあと職員室で留学生たちを引率してきたT先生と話す機会があった。以下にその会話を再現してみよう。

私「アメリカの高校は夏休みが3ケ月もあるそうですね」
T「そのとおりです。冬休みと春休みが1週間ずつあり、その外にも休日があるので、結構休みが多いですね」

私「休みの間、生徒は何をしていますか」
T「スポーツ施設に通ったり、アルバイト、ボランティア活動、いろいろですね。夏休みにはサマースクールに通う生徒も多いですよ。アメリカの高校は単位制なので、そこで単位を取ることができるのです」

私「授業後、部活のようなことはあるのですか」
T「授業が終われば学校はおしまいです。先生方も帰りは早いですよ。3:30にはみなさんいなくなります」

私「お休みを取られる先生もいますか」
T「年休は繰り越しができないので、みなさん完全に消化します」
私「休んだとき、誰がクラスの面倒をみるのですか」
T「最初からそのための代理の先生が控えています。その先生が給料を貰うためにも、しっかり年休を消化する必要があるのです」

 日本の場合も年休はほとんど繰り越しができない。それでも年休を消化せずに残してしまうのは、クラスの生徒や同僚の教師の負担を考えて自粛しているからだろう。アメリカの場合は代休制度が確立していて、とらざるをえないようなシステムになっている。年休を取らなければ、代理の先生の給料が減り、最悪の場合、彼らが職を失うことになるからだ。

 教師に限らずアメリカの場合は、ワークシェアリングの感覚で年休を取り、人生の余暇を他人に気兼ねしないで楽しむことができるようだ。Tさんとは外にも色々な話題で会話をしたが、とくに日本の労働環境の水準の低さをおおいに実感されられた。

(T先生は今はアメリカで働いているが、日本生まれの日本人女性である。私との会話が日本語でおこなわれたことは言うまでもない)

<今日の一句> かたつむり 手にのせてみる 雨匂ふ  裕


2002年07月06日(土) 弥生の蓮

 先日、妻と二人で、岐阜県羽島町へ大賀蓮を見に行った。大賀蓮というのは、1951年に、古代ハスの研究者、大賀一郎さんが、千葉市の2000千年前の地層から発見した蓮の実を発芽、開花させたもので、やがてこれが全国に広まった。この感動的な話を、小学校の教科書で読んだ覚えがある。

  縄文の 蓮のすがしさ たまゆらの
  いのちたまはり 我れ汝に逢ふ    裕

 妻と二人で蓮を眺めながら、こんな歌を詠んだ。私はかってに縄文時代の蓮だと思い込んでいたが、2000年前の地層だから「弥生の蓮」である。だからこの歌は作り替えなければならない。こんなところだろうか。

  さわやけき 弥生の蓮よ たまゆらの
  いのちたまはり われ汝に逢ふ       裕

「われ汝に逢う」と詠んだとき、汝というのは「蓮」のことだったが、その後、読み返しているうちに、「妻」もふくめて、森羅万象のことだと考えるようになった。悠久な歳月の中で、私たちはほんのひとときこの地上に生をうけ、そして、おたがいに一期一会の出会いをもつ。不思議なえにしである。
 
  久方の 雨も降らぬか 蓮葉(はちすば)に
  たまれる水の 玉に似たる見む  (新田部皇子 16巻−3837)

 蓮の葉は中央がくぼんでいて、そこに水たまりができる。私たちが行ったときも雨上がりで、一枚一枚の葉に水玉が置かれていた。花も美しいが、水玉を載せたみどりの葉のたたずまいも風情がある。

 万葉集の歌は、宴会のときに食事が蓮の葉に盛って出されたのを見て作ったものらしい。「雨が降って欲しいですね、蓮の葉にたまった玉水が見たいものです」という意味である。

 蓮はインドが原産だという。いつ、だれが日本に持ち込んだのだろう。仏教伝来の時かと思ったが、少なくとも弥生時代には咲いていた。そして、万葉人もこの花や葉を身近に愛していたようだ。

<今日の一句> 妻と見る 弥生の蓮よ いのち燃ゆ   裕


2002年07月05日(金) 啄木のうたの魅力

 啄木の短歌や詩は、ある頃を境にして、別物のようにやさしくなった。ある頃というのは、明治41年、啄木23歳の頃である。それまで、明星派の歌人・詩人として、芸術至上主義の華麗で巧緻な作風を誇っていた。それが一転して、装飾を捨て、簡素で真率なものに変わった。

 進境が著しかったのは明治41年6月23日である。この夜、啄木は突然歌興が湧いて、一晩で120首ばかり作った。歌興は明くる日も続き、啄木は6月25日の日記にこう書いている。「頭がすっかり歌になっている。何を見ても何を聞いても皆歌だ。この日の2時までに141首つくった。父母を歌うの歌約40首。泣きながら」

  君に問ふ我らかくある一瞬に幾人生まれ幾人か死ぬ
  われ人に問はれし時にふと母の歳を忘れて涙ぐみにき
  我が母は今日も我より送るべき為替を待ちて門に立つらむ
 
 こうしてできた歌を啄木はさっそく鉄幹に送り、「石破集」114首はこうして、「明星」7月号の巻頭を飾ることになった。しかし、それらの歌には鉄幹の手が入っていた。「鉄幹氏の直した予の歌は、皆原作より悪い。感情が虚偽になっている。所詮標準が違うのであろうから仕方がないが、気持が悪い」(7月10日)

 ともあれ啄木は自分の道をさぐりあてた。啄木はこれまで短歌を芸術作品として作ってきた。しかし彼は短歌を自分自身の慰めのために、ただ自らの「自己表現のたのしみ」のために書き始めた。啄木自身、このことについて「日記」に次のように書いている。

「僕の今作る歌はきわめて存在理由の少ないものである。僕はそのことをよく知っている。いわば作っても作らなくても同じことなのだ」

「僕の今の歌はほとんど日記を書く心持ちで作るのだ。日記も人によって上手下手はあろう。しかし日記は上手下手によって価値が違うものではない」

「詩はいわゆる詩であってはいけない。人間の感情生活の変化の厳密な報告、正直な日記でなければならぬ。従って断片的でなければならぬ」

「古今集を読み終えた。悪技巧にとらえられた歌が多くて、あっと思うようなのが少ない。よいと思うのは、たいてい万葉古今の過渡時代の歌だ」

 伊藤整は「日本の詩歌、石川啄木」(中央公論社)の解説の中で、啄木の短歌の魅力の秘密についてこう書いている。

「啄木の詩から受ける感銘は、生活そのものの中でわれわれの心を去来するところの、瞬間的な人間くさい感銘であって、白秋や茂吉のように、和歌や詩の精神そのものの神聖視による、完璧な作品への願望が動機ではない。

 そういう意味で短歌のことを、啄木は<悲しい玩具>と呼んでいた。短歌なる形式にいたずらをして、無理に自分の気の向くがままの遊び道具にしている間に、啄木の人間の痛切な心が、この形式の中にはまり込んだのである。

 そしてそれが、万人の胸に真なるものとして訴えることとなった。彼の歌がことごとく、どこか投げやりに見え、しかも同時に真実の鏡のように見えるのは、以上のような独自の思想によるものである。

 正岡子規は啄木より20年前に、歌を写生という真実に結びつけることで甦らせた。啄木は、歌をその時その人の短いつぶやきたらしめることによって、もっと大きな生命を与えたのである」

  ふるさとの
  かの路傍のすて石よ
  今年も草に埋もれしらむ

  マチ擦れば
  二尺ばかりの明るさの
  中をよぎれる白き蛾のあり

  その膝に枕しつつも
  我がこころ
  思ひしはみな我のことなり
         (一握の砂より)

 啄木は芸術のための詩を作ることを止め、自分のために歌い始めた。そしてそこに現れてきたのは、非芸術的な生活の歌、人生そのものを対象にしたやさしい歌である。しかし、およそ芸術的といえないこの平明さの中に、私たちの心をひきつけてやまない魅力がこもっている。それは啄木の詩が、詩にあらざるところの「人生の詩」だからだろう。

<今日の一句> 啄木の かなしき歌よ 我が手見る  裕


2002年07月04日(木) 啄木とその妻節子

 啄木(1886-1913) が節子(1886-1914) と恋に落ちたのは、盛岡中学校の学生で14歳のころらしい。節子も同い年の14歳。士族の娘で、盛岡女学校に通い、バイオリンを弾くお嬢様である。その頃すでに啄木は、雑誌「明星」を愛読し、与謝野晶子の歌集「みだれ髪」に心酔して、芸術至上主義の少壮歌人を気取っていた。

 節子の両親はもちろん二人の関係を認めるわけがない。しかし、そうしたなかで二人は長文の恋文をやりとりし、ますます恋心を募らせてゆく。節子も啄木に刺激されて、文学が好きになり、啄木を才能を信じるようになる。そのころ、啄木はどんな歌を作っていたのか。明治35年(1902年)10月の「明星」の短歌欄には、啄木のこんな歌が載っている。

  夢はかくて 恋はかくして はかなげに
  過ぎなむ世とも 人の云はば云へ

  雨の香を 鳩の羽に見る 秋の堂 
  紫苑さびしく 壁たそがるる

 やがて啄木は成績不振に陥る。とくに苦手なのは数学で、どうにも点数が取れない。そこでカンニングをしたらしい。これが発覚して、啄木は譴責処分を受ける。落第必死となった啄木は、中学校を退学し、あこがれの東京に旅立つ。明治35年10月31日、16歳のときだ。

「この秋、流転の水流に従って校を辞し、友とわかれ、双親とはなれ、故山を去り、恋ふ子の美しき面影とさへわかれて、孤影飄然(こえいひょうぜん)東都に出づ。嵯乎(さあ)、何人がよく遊子胸奥の天絃に知音たる者ぞ」
(日記、10月30日)

「午前。湧くなる我血汐も かくては遂に溢れなん。別れなればの涙に、わが恋しの君訪れ玉ひぬ。まこと今日のみならじ。わかれなればとて、永き宇宙の飄泛(ひょうはん)に、永遠を友とすてふ愛の世に、何の時か今日のみと云ふことおらむや。二つ並べる小笹舟、運命の波にせかれて、暫しは分るゝも、又の逢ふ瀬は、深き深き愛の淵の上に、波なき安けさぞ尊からむ。東都の春の楽の音に、共に目さめむも、こゝ六ケ月のうち。あゝさらば胸の轟きしづめて、蘋の身の、世の大波に暫らくはひとり南せんか。さは云へど、胸掩ふ愁ひの聖なるぞ 哀しや。うす紫に、わが好む装ひして、あたゝかき涙にくれ玉ふ、恋の心のたゞずまひ」
(日記、10月31日)
 
「せつ子君の美しきみ玉章来る、表紙には百合子と認められたるも、先づ、心ゆく想出也。かくて我は、また強き思郷の翼にぞかられぬる。わかれてよりの長き長き思ひ、いとしき美の筆に上りて、吾には、たとしへもなき尊さの絵巻物なり。胸に溢るめる感懐、あゝ吾恋しの白百合の一花よ。・・・夜深ふして、目白台の森地洩るゝ燈の先もあはし。想のみ走らせて、北なる星にさめぬるとこしえの瞳に、吾は落ちゆく弦月の影を拝したり」
(日記、11月8日)

「朝めさむれば、枕頭に匂ふ白百合のみ姿あり、せつ子の君、杜陵より新らしき写真たまひぬ。午砲の頃またその美しきみ文来る。み手づから編ませしてふ美しの枝折、歌さへ添えて。・・・今日にて吾はこの地にきてより正に三十夜の夢結ばんとす、飄々として遊子孤袖寒し、前途を想ひ恋人を忍びでは万感胸に溢れて懐泣の時を重ぬること三時までに及びぬ、あゝそれ何地にか天籟の響を風骨にたゞよはさん者ぞ」
(日記、11月30日)

「日記の筆を断つこと茲に十六日、その間殆んど回顧の涙と俗事の繁忙とにてすぐしたり」(日記、12月19日)

 窮乏生活の果てに病に倒れ、東京で出世するという夢に破れた啄木は、明治36年2月27日、4ヶ月の東京滞在を一旦うち切り、迎えに来た父に伴われて帰郷した。よれよれの紋付きさえもなく、意気消沈し、あの端正な顔が、栄養失調に歪んでいたという。

 しかし、この4ケ月の東京滞在は無駄ではなかった。与謝野鉄幹、晶子の知遇を得たからである。鉄幹は「君の歌は何の創意もない、失礼ながら歌をやめて、他の詩体を選ぶがよかろう。そうしたら君に、新しい世界が開かれるかも知れない」とアドバイスしてくれた。病の癒えた啄木は、新体詩に新たな活路を見出し、明治37年10月31日、処女詩集「あこがれ」の原稿を持って、再度上京する。

  混沌霧なす夢より、闇を土に、
  光を天にも割かちしその曙
  五天の大御座高うもかへらすとて、
  七宝花咲く紫雲の時の車・・・・

 明治37年、節子は女学校を卒業した。そして小学校の代用教員をしながら、東京の啄木のもとに嫁ぐ日を夢見ていた。しかしそのためには啄木との結婚を父に了解させなければならない。泣いて嘆願する娘の思い詰めた様子に、父もようやくしぶしぶ許可を与える。こうしてようやく二人の恋は実り、二人は結婚することになった。

 38年5月、処女詩集「あこがれ」の出版を果たした啄木だが、東京で生活するだけの経済的基盤は得られなかった。そこで節子との結婚のために東京をたち、故郷盛岡を目差す。ところが、啄木は結婚式に現れなかった。途中仙台で降りて、道草をしていたらしい。哀れなのはこんな頼りにならぬ新郎を夫に迎えた新婦だ。

 この時、啄木と節子は20歳。二人はやがて故郷を離れ、北海道に渡った後、最後に東京で節子と所帯を持つが、啄木は小説家としても、詩人としてもほとんど世に認めれらなかった。

  友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
  花を買ひきて
  妻としたしむ

  猫を飼はば
  その猫がまた争ひの種となるらむ
  かなしきわが家

 啄木は窮乏のなかで肺結核を患い、明治45年4月13日、27歳の若さで死ぬ。翌年の大正2年5月5日、妻節子も同じく肺結核でこの世を去った。さらに数年のうちに、残された二人の遺児も次々と肺結核で死んで、とうとう啄木の一家は死に絶えることになった。

 しかし、大正8年、友人達の奔走の結果、啄木全集が刊行されると、彼の存在が世に知られるようになり、その人気はとみに高くなっていった。今日の日本人で啄木の歌を知らない者はいないだろう。啄木も節子もこれほどの名声は想像さえしなかっただろう。

  啄木は死の床で妻に日記を燃やせと言い残したようだ。そこには妻にとって読むに耐えない内容が書かれてある。啄木のせめてもの思いやりかも知れない。しかし、節子がそれを後世に残したのは、啄木の才能を信じ、後世の研究家に評価を委ねる気持ちがあったからだろう。

 一方、啄木が節子に送った数々の恋文は処分されて残っていない。節子はなぜ啄木の愛の形見を処分したのか。これはひとつのミステリーである。ともあれ、現在二人は函館の郊外の海の見える岬で静かに眠っている。

  汽車の窓
  はるかに北に故郷の
  山見えくれば襟を正すも  啄木

  光淡く
  こほろぎ啼きし夕より
  秋の入り来とこの胸抱きぬ  節子 ...

<今日の一句> あはれなる 詩人の妻よ 日陰の百合  裕


2002年07月03日(水) 母の思い出ノート

 私の手元に、赤茶けた一冊のノートがある。表紙に「社會帳」と書かれ、「4年青山照子」と書いてある。私の母の女学校時代のノートだから、もう随分前のものだ。中を開くと青いペン字で、啄木の詩や短歌が写されていて、「啄木について」という文章が綴ってある。23年6月27日夜11時という日付が最後に書いてある。

 このノートを母から見せられたのはいつのことだかもう覚えていない。恐らく私が高校時代の頃ではないだろうか。以来、30年以上このノートは母の手を離れ、私の手元にあったわけだ。

 二十歳前の母の文字は、流れるよに美しく、書き直しは一字もなく、見事な達筆である。50歳を過ぎた私でさえ及ばない。啄木の詩や歌も好きだが、私は母のこの文字が好きで、ときどき取り出して読んでいる。母の大学ノートから、啄木の短歌を三首引いておこう。

  いのちなき砂のかなしさよ
  さらさらと
  握れば指のあひだより落つ

  ふるさとの訛なつかし
  停車場の人ごみの中に
  そを聴きにゆく

  ふるさとの山に向ひて
  言ふことなし
  ふるさとの山はありがたきかな

 ところで、昭和23年6月27日という日付に興味を持って、ちょっと調べてみた。6月13日に太宰治が玉川に入水自殺している。そして、もっと驚くべきことは、翌日の6月28日の夕方、福井大震災が起こっていた。

 つまり、母がこの日付を書き終えた翌日、大惨事が起こり、福井市内にあった母の家は丸焼けになったわけだ。4千人近い人命が失われたなかで、母も倒壊した家屋の下敷きになり、迫り来る炎の中で九死に一生を得ている。こうした惨事の中で、よくこのノートが残ったものだ。 

<今日の一句>  母の手の 啄木の歌 うら若し  裕


2002年07月02日(火) 時計草の思い出

 前に住んでいた名古屋市名東区西里町の家に、時計草が咲いていた。妻が近所のNさんの庭に咲いているのを見つけて、もらってきたものだ。蔓で伸びる植物で、名前の通り花が時計の文字盤と針のように見える。

 ブラジル原産で、南アメリカを旅行中のスペインの宣教師たちが発見して、世界に広めたらしい。英名はパッション・フラワー(キリストの受難)という。雄しべの花柱がキリストで,副花冠が後光だという。がくと花弁が10人の使徒、巻きひげと葉が迫害者のむちだそうだ。これでは何だか重苦しくてかなわない。私は時計草という和名の方が好きだ。

 妻は3本もらってきて差した。その中の1本が根付いて、みるまにブロックの垣を覆うほどになった。野生の植物なので、生命力が旺盛なのだろう。毎年今頃から咲き始め、8月の半ば過ぎまで次々と花を着けていた。面白い花なので、人に会うときには切り花を持っていって、自慢したものだ。

 一宮市の家に移ったのは、平成2年の3月末日のことだった。引っ越しの忙しさにかまけて、時計草を持ってこなかった。私たちが十年間ほど過ごした西里町の借家は今も残っているが、時計草は新しい住人によってきれいに取り払われてしまったらしい。

 時計草を貰ったNさん夫婦も今は亡き人になった。Nさんの家は私たちがよく娘を連れて出かけた公園のそばにあり、私も立ち寄って、池の鯉や庭の花々を見せて貰ったものだ。主のいなくなった家の庭では、今も時計草がひっそりと咲いているのだろうか。

<今日の一句> 小雨降る 池をめぐれば 蓮の花   裕


2002年07月01日(月) 結婚まで

6.モンゴル草原の夢

 私はS子と別れたいと思って、それらしいことを口にしたことがあった。
「僕は誰とも結婚しないよ。一生独身でいたいんだ」
 S子を牽制する言葉だったが、口にしているうちに、そんな生き方もいいなと思うようになった。そのころはまだ大学院生の身分だったので、「自由人」に憧れるアナーキーな気分が抜けなかったこともあった。

 教員になるのは、ただ食べるためで、20年ほど勤めて、そのあいだに多少の貯蓄ができたら、あとはさっさと引退して、自由な生活を謳歌する。文学や哲学の本を読んだり、実際に詩や小説を書いて、悠々自適な暮らしをするのもいいと思った。

「世界を一人で放浪してもいいね。ギリシャにディオゲネスという哲学者がいたんだ。彼は一生独身で樽の中で生活していたんだぜ。アレキサンダー大王が会いにやってきて、何か欲しいものがないかと訊いたら、なんと答えたと思う、そこをどいて、私に日光をくださいだってさ。痛快だね。僕は彼のような生き方にあこがれるな。そして、最後は、モンゴルの草原で星を眺めながら死にたいな。風葬というらしいんだけどね、そうして大地に帰っていくんだ」

 S子は黙って私の夢物語を聞いていた。私の言葉を頭から疑っているわけではないようだった。すでに私は同人誌に小説や随筆を発表していたし、S子もいささか私の文学的才能は買っていた。

 K子とお見合いをしたとき、「結婚」という言葉がはじめて現実的な関心として私の頭に浮かんだ。しかし、私にとって人生は序の口で、これから世間に出ていろいろな女性と付き合ってみたいと思っていた。S子やK子と別れても、この先、いくらもいい女性が現れそうな気がした。

 その夜は、夕食を食べた後、S子と風呂に入った。別れたいと思っていても、体はべつだった。性欲を満たす対象として、S子は今のところただ一人の女だった。ベッドの中でS子は私に従順だった。そしてS子自身、からだの奥底から私を求めているのがよくわかった。

「こんなこと言うと、あなたすぐに自惚れるから、言いたくはないんだけど、でも、わたし、あなたが世界で一番素敵に見えるの。あなたと別々にいるのが、苦しくてならないのよ。だから、もしあなたが私を捨てたりしたら、たぶん私生きてはいけないと思うの。そのときは、私は死ぬつもりよ」
「どうやって?」
「首を吊るか、それとも頭からガソリンをかぶって……」

 S子の言葉は私を不安にした。もしK子のことを知ったら、S子はどんな反応を示すだろう。S子の言葉を聞きながら、私は真っ暗なトンネルの中にいるような憂鬱と恐怖に襲われた。この後始末をどうしたらいいのか、トンネルの出口が見えなかった。モンゴルの自由な草原がとてつもなく遠く感じられた。

<今日の一句> 思い出の 小道たどれば 時計草  裕


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