橋本裕の日記
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2002年08月31日(土) 親鸞との対話

 高校時代にデカルトの「方法序説」やラッセルの著作とともに、「歎異抄」に出会えたことは、私にとって幸運なことだった。これは私が通っていた私立高校が浄土真宗系のミッションスクールだったこともある。

 亀井勝一郎は、「親鸞を語ることは私にとって、人生を語るに等しい。私のまず最初に言うべきことは、親鸞に出会ったという、その謝念でなければならぬ」と書いているが、この気持はよくわかる。

 私たちの世代は、まだ哲学や思想を尊敬し、人生の美や真理にあこがれる気持が残っていたのではないかと思う。三木清の「人生論ノート」なども必読書の一つだった。三木の言葉をいくつか引用しよう。

<親鸞の文章を読んで深い感銘を受けることは、人間的な情味の極めて豊かなことである。そこには人格的な体験が満ち溢れている。経典や論釈からの引用の一々に至るまで、ことごとく自己の体験によって裏打ちされているのである。親鸞は常に生の現実の上に立ち、体験を重んじた。そこには知的なものよりも、情的なものが深く湛えられている。彼の思想を人間的と言い得るのは、これによるであろう>

< 『教行信証』は思索と体験とが渾然として一体をなした稀有の書である。それは根底に深く抒情を湛えた芸術作品でさえある。実に親鸞の、どの著述に接しても、我々を先ず打つものは、その抒情の不思議な魅力であり、そしてこれは、彼の豊かな体験の深みから溢れ出たものに他ならない>

<最近の禅の流行にもかかわらず、私にはやはりこの平民的な浄土真宗がありがたい。おそらく私はその信仰によって死んでゆくのではないかと思う>

 日本の知識人には親鸞を敬愛する人が多い。夏目漱石も「親鸞聖人に初めから非常な思想があり、非常な力があり非常な強い根底のある思想を持たなければ、あれ程の大改革はできない」と述べている。しかし、親鸞といえばやはり倉田百三を落とすことは出来ない。

< 『歎異鈔』の「悪をも恐るべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきが故に」これは恐ろしい表現である。世界のどの経典にこんな恐ろしい、大胆な表現があるか。ニーチェでも、トルストイでも、ボードレールでも、これを読んだら驚くだろう。トルストイの如きは、八十二歳の家出後において死なずにこれを読んだら、更に転心して念仏に帰しはしなかったであろうか>

「歎異抄」は親鸞の自著ではない。弟子の唯円が師の言葉を思い出して書き残したものだ。だから、親鸞の本当のすごさは主著「教行信証」を読まなければ分からないという。というわけで、私も(現代語訳で)読んでみたが、歎異抄ほどの感激はなかった。

 私にとって親鸞といえば「歎異抄」である。これを読んでいると、プラトンの対話篇を思い出す。親鸞はどこかソクラテスに似ている。ソクラテスが弟子プラトンを持ったように、親鸞が唯円を持ったことを喜びたい。

<今日の一句> 木陰きて いのちなりけり 秋の風  裕


2002年08月30日(金) ガリレオの墓

 ガリレオが晩年を過ごしたアルチェトリの家はフィレンツェの真南の丘陵地帯にある。そこにはまた、彼の二人の娘が生涯を終えたサン・マッテーオ修道院があった。というか、ガリレオは娘達とこの世の最後を過ごすべく、この修道院の近くに住処を求めたのだった。

 1538年、アルチェトリで軟禁状態にあるガリレオのもとに、フィレンツェから一人の青年が到着した。ヴィンチェンツィオ・ヴィヴィアーニは数学に並外れた才能を持った16歳の若者だった。トスカーナ大公フェルデイナンド二世が、ガリレオの助手として推薦したのである。

 この助手の存在は宗教裁判の後、最愛の娘マリア・チェレステを奪われ、さらに視力まで奪われて失意の底に沈んでいたガリレオにとって、大きな慰安だったに違いない。ヴィヴィアーニはガリレオに代わって手紙を書き、また、ガリレオの科学研究を手伝った。

 ガリレオはこの信頼できる助手に、身内のような愛情を寄せ、心を許して多くを語った。まだ学生の頃、ピサの教会で天井のランプが揺れるのを見て、振り子の等時性の法則に気付いたこと、ピサの斜塔から砲丸を落下させて、多くの人たちの前で同時落下の実験をしたこと……。

 ヴィヴィアーニは後にこれらの話をもとにして、ガリレオの自伝を書いた。今日私たちがガリレオについてこんなにも多くの生き生きとしたエピソードを知っているのは、彼の功績が大きいと言わなければならない。

 1642年1月8日、ガリレオは腎臓が悪化して息を引き取った。ガリレオはサンタ・クローチェ教会の中央バジリカに父親や他の親戚と並んで埋葬されることを希望していた。しかしガリレオは礼拝堂から隔たった鐘楼の下の小部屋に葬られることになった。

 メデチ家のフェルデイナンド二世は若い頃、ガリレオに師事したことがあった。ガリレオを終生敬愛していた大公は、ガリレオの希望を叶えようと努力したが、教皇ウルバヌス八世がこれを許さなかったのである。フェルデイナンド二世と弟子ヴィヴィアーニはやむなく、ガリレオをバジリカの外に葬らなければならなかった。

 時は流れて、1703年にヴィヴィアーニは一人の甥に全財産を譲ってこの世を去った。このとき、彼は甥に「ガリレオの墓を移転すること」を遺言した。甥は遺言を実行できなかったが、この遺言を彼の遺産相続人であるフィレンツェの元老議員ネリに伝えた。

 そしてネリはついに1737年にこの計画を実行に移す機会を得た。フィレンツェ出身の教皇クレメンス二世が即位して、この計画を許したからである。こうして、ガリレオの墓は当初フェルデイナンド二世と弟子ヴィヴィアーニが計画したところに、ミケランジェロの祈念碑と向かい合って建てられることになった。

 ガリレオの遺体が安置してある小部屋には二つの棺台が並んでいた。一つはガリレオの棺台であり、もう一つは弟子ヴィヴィアーニの棺を収めたものである。まず、ヴィヴィアーニの棺が運び出された。そしてガリレオの棺を取りだそうとして煉瓦製の棺台を壊したところ、そこから出てきたのは二つの棺だった。

 一つはガリレオに違いなかった。しかし、もう一つの棺が誰のものかわからない。棺を開けると、女性の遺体が現れた。骨の状態からして、ガリレオよりはるかに若くして死んだ女性だということが分かった。

 やがて、謎が解かれた。もう一つの遺骸は、ガリレオの娘、マリア・チェレステのものだったのだ。たぶん残されたマリアの124通の手紙を読んで、彼女の父ガリレオに対する愛情に感動した弟子ヴィヴィアーニが、二人の愛情の記念にこんな粋な計らいをしたのではないだろうか。

「ブドウ園のブドウは雹を伴う二度の大嵐がやってきてブドウ園をめちゃめちゃにする前に、すでにものすごくまばらになっていました。わずかのブドウが7月の暑いさなかに採取されましたが、そのあと追い剥ぎがやってきて、ほかに盗るものがないのでリンゴをいくつかとっていきました。聖ロレンツォの祭日に、強力な風を伴う破壊的な嵐がこの地域一帯で猛威をふるい、父上の家にも被害をもたらし、チェリーニさんの地所に面する方の屋根のかなり大きな部分が吹き飛んでしまい……」(1633年8月13日)

 現在も彼女はガリレオの墓に一緒に眠っている。しかし、修道女マリア・チェレステの存在を知らせる碑文はない。彼女がこの世に存在した痕跡として残っているのは、124通の手紙と、彼女のものとおぼしき一枚の肖像画だけだという。

<今日の一句> 聖書読み 暑さ忘れて 昼寝かな 裕

(参考文献)
「ガリレオの娘」デーヴァ・ソベル著 DHC出版
「90分でわかるガリレオ」ポール・ストラザーン著 青山出版社
「広がる数と形の世界」秋葉繁夫著 新日本出版社
「無限に魅入られた天才数学者たち」 アミール・D・アクゼル著 早川書房


2002年08月29日(木) ガリレオと無限

 アリストテレスは「自然学」のなかで有名なゼノンの4つのパラドックスを紹介し、この矛盾を解決しようとしている。たとえば「カメを追い越せないアキレス」については、「有限な距離の無限分割」にたいして「無限な時間の無限分割」を対応させたことが誤りだと論証した。

 また、「飛ぶ矢は飛ばない」といった運動の矛盾については、長さをもった線分を無限分割しても、長さを持たない点になることはないと考え、「線が点からなる」という命題がそもそもあやまりであると主張した。

 アリストテレスの「自然学」の批判者だったガリレオも、「新科学対話」のなかで「無限と有限」について論じている。たとえばサルビアティの口を借りて、円は「無限に多くの辺」をもつ多角形であると述べる。そしてこの辺の数を限りなく多くすることによって、辺はただの点になるという。しかし、これはガリレオの独創ではない。アルキメデスやケプラーが実際にこの方法で面積や体積、惑星の運動法則を導き出しているからだ。


 しかし、ガリレオは無限を数えるという点で、実は後の集合論におけるカントールの仕事を先取りするような先駆的な考察をしている。たとえば再びサルビアティの口を借りて、自然数とその二乗数の間に1対1の対応があり、「二乗数は整数全体と同じだけあるものと結論しまければなりません」と主張している。

 自然数 1,2,3,4,5,・・・・
 二乗数 1,4,9,16,25,・・・・

 自然数の中には二乗数以外の数が無限にある。それにもかかわらず、二乗数の数は正確に自然数の数に等くなる。これは「部分は全体よりも小さい」というユークリッドの公理に反している。この事実を発見して、ガリレオは衝撃を受けた。

 このことからガリレオは有限の場合になりたつ規則を無限の場合に適用すれば不可解なことが生じると考えた。とにかく無限には日常的な常識を越える不可解な部分があるのである。ガリレオは無限についての本を書こうとしたようだが、結局その志をはたすことなく死んでいく。無限の神秘をきわめるのは、彼の人生はあまりに有限すぎたということだろうか。

 のちにカントールやデデキントは、ガリレオの「一対一対応の規則」を無限の場合にも成り立つと考えた。そして、デデキントは「無限とは、部分が全体に等しいもの」だと定義することになる。

 このようにガリレオはゼノンが提起し、アリストテレスが解決したと信じられていた厄介な「無限」の問題についても、これを再考すべき問題として俎上に載せた。そしてその後の数百年にも及ぶ数学や物理学の発展に計り知れない影響を与えることになった。

 なお、中国もゼノンに近い人物は存在した。それは荘子である。
「飛ぶ鳥の影はいまだかって動いたことはない」
「素早く飛ぶ矢は進みもせず、止まりもしない」
「一尺の鞭を半分ずつ切り取っていくと、何年かかっても取り尽くせない」

 しかし、荘子は「これらの弁者は口先で勝ちながら、相手を納得させることはできなかった」と記すのみで、対話や論争によって主題に踏み込み、論理的・実証的に真実をつきつめようという科学的精神を欠いていた。したがって、アリストテレスやユークリッド、アルキメデス、ガリレオが生まれることはなかった。

<今日の一句> しんとして 蝉ひとつだけ 道端に  裕


2002年08月28日(水) ガリレオと「新科学対話」

 1633年7月、裁判の余波が続く中で、ガリレオの身柄は検邪聖省の地下牢から、やがて大司教ピッコロミーニのもとに移された。しかし、このときも、ガリレオは数日間にわたって夜眠ることもせず、大声で叫んだり、意味不明のことをしゃべり続ける状態だったという。

 しかし、さいわいなことに、ピッコロミーニはガリレオの理解者だった。「天文対話」を優れた著作だと認め、その著者に対する尊敬を失わない大司教の庇護のもとで、ガリレオは少しずつ精神的に立ち直りをみせた。そして、次作「新科学対話」の草稿を書き始める。

 この新しい対話の登場人物も、また、シンプリーチョ、サルビアティ、サグレードの3人である。たとえば、サルビアティが砲撃砲から発射された砲丸の運度について述べると、サグレードがすかさず指摘する。

「この論法が今までになかったものであり、精妙で、決定的なものであることは疑う余地がありません。水平方向の運動は常に一様であり、垂直方向の運動は経過時間の二乗に比例して下向きに加速され続けること、そしてこのような運動と速度はお互いに他方を変化させることはないということです。その結果、運動はつねに一定の曲線を描くことになります」

「新科学対話」はこれまでガリレオが行ってきた科学に対する実験や理論の集大成である。そして舞台は何と、造船所である。大学の研究室や教会ではなく、ガリレオが職人のいる現場を舞台に選んだ意味はあきらかだろう。彼が始めた新しい科学は、数学と物理学を統合することであり、それにはこうした活気に満ちた生産現場がふさわしいのである。

 そして実は、サルビアティ、サグレードはガリレオの愛した友人と弟子の名前だった。彼はこの二人を彼の著作に登場させることで、その名前を人類史上に永遠に刻むことになった。

「新科学対話」はローマ法王庁の目を盗んで、1638年にオランダで出版された。これはガリレオ自身が自分の最大の著作だと認め、また後世からもそのように評価されている偉大な本である。しかし、ガリレオはこのときすでに失明していて、この本を読むことは出来なかった。4年後、ガリレオは、こんな言葉を残して、78歳の生涯を終えた。

「遠大で優れた科学に至る門と道が開かれるであろう。それを私より鋭い精神が突き抜けて、より深い奥底にまで到達するであろう」

 ガリレオの予言の通り、やがてニュートンの鋭い知性がガリレオの考えていたことを、次の三つの法則にまとめ上げた。
�� 慣性の法則(外力を受けない限り、物体は運動状態を変えない)
�� 運動の法則(加速度は物体に加えられた力に比例し、質量に反比例する)
�� 作用・反作用の法則

 自然界の現象を力学的に捉え、それを数学を用いて表現する方法は、アルキメデスに学んだガリレオが切り開いた、科学の新しい王道であった。ふたたび、サグレードの言葉を引用しよう。

「数学でしか見られない厳密な論証に接して、私は脅威の念と喜びでいっぱいです。砲手の説明から、私は砲弾が最も遠くまで飛ぶ角度は45度だということを知っていました。しかし、そのことがなぜ起きるのかを理解することは、たんなる知識よりはるかに勝っています」

 ガリレオは単に「すべてのものが同時に落ちる」ことを、実験であきらかにしただけではない。大切なのは、なぜそうなるのかを、厳密に論理的に証明したことである。彼はすべての砲弾や人間の手を離れた石つぶてが、放物線を描くことに気付いただけではない。それを数学的に論証して見せたのである。

 1971年、アポロ15号の船長スコットは、月面にハンマーとタカの羽を落とし、両者が同時に落下するのを見て、「これでガリレオが正しかったことが証明された」と語った。

  1992年、教皇ヨハネ・パウロ二世は、法王庁がおかした過去の誤りにはじめて言及し、ガリレオの思想を是認している。NASAの打ち上げたガリレオ探査機が木星に到達したのは、その3年後の1995年のことだった。

<今日の一句> 世の中を 愁うるごとし 冷酒のむ  裕


2002年08月27日(火) ガリレオと「天文対話」

 宇宙のことをユニバースというが、これはユニ・バース(一つの・回転するもの)という意味である。つまり、宇宙は地球を中心として、そのまわりを回転しているという天動説の世界観に根ざした言葉である。現代でもこの言葉が使われているということは、それだけこうした考え方が私たちの中にしみついているということだろう。ましてガリレオの生きていた時代、地動説は確固不動の真理としてゆるぎない地位を築いていた。

 こうしたなかで、ガリレオは自らの望遠鏡で天体を観測し、土星の輪や木星の衛星を発見した。さらに太陽が黒点をもち、自転をしているらしいことに気付いた。これは宇宙が回転する唯一の存在でないことを示していた。そして地動説を示唆する有力な証拠でもあった。ガリレオはさっそく1610年に「星界の報告」を出して、このことを世間に公にした。

 このときからガリレオはアリストテレス派の聖職者たちとの果てることにない論争の中に身を置くことになり、その執拗な攻撃にさらされて、心身の不調に悩まされることになる。1616年、ガリレオはベラルミーノ枢機卿に呼び出され、「地動説」を支持することを慎むように言い渡される。

 さらにコペルニクスの地動説を禁ずる布告が出された。しかし、ガリレオはそうしたなかで、彼はこれに対抗するようにコペルニクスの学説を擁護する本を書いて、1632年に出版した。「二大世界体系〜プトレマイオス説とコペルニクス説〜に関する対話」いわゆる「天文対話」がこれである。この本は出版されると同時に、ヨーロッパ中に「星界の報告」以上のセンセーションを巻き起こした。

 ガリレオはこの本を3人の人物の4日間にわたる対話形式で書いている。つまり、天動説をとるシンプリーチョ、地動説のサルビアティ、そして進行役を務める資産家のサグレードである。舞台はサグレードの広大な邸宅である。

 サルビアティはガリレオの分身と言ってよい。そして地動説の優れているところを、巧みな例をもちいて論証する。この本を読んだ人はだれでも、地動説の卓越していることを納得するだろう。それに比べて、天動説のサルビアティは頑固であり、さっそうとしたサルビアティの傍らで、滑稽な狂言回しのようにさえ見える。

 ガリレオはもちろん用心深く、サルビアティに最後に地動説が「きわめて愚かな妄想にして壮大な奇説であると、たやすく判明するかもしれません」と言わせている。また、シンプリーチョも、「神の力と英知を、ある人間が自分の特殊な気まぐれの範囲内に限定するということは不遜すぎるということです」と語らせている。

 ガリレオとしてはこう書くことでバランスをとり、「地動説を禁ずる」という布告に抵触しないように配慮したつもりかも知れない。しかし、ガリレオの本音が「地動説の擁護」にあるということは明らかだった。そもそもシンプリーチョという名前からしておかしい。だれしも、間抜けという意味のセンプリチョットを連想する。

 しかも、この間抜けなシンプリーチョのモデルは教皇だと告げ口する者がいた。教皇は激しい怒りを爆発させた。そして、「対話」を販売禁止にするとともに、彼を異端審問所に出頭させることにした。このとき、ガリレオは70歳にちかく、しかも病気がちだった。

 教皇ウルバヌス八世も枢機卿時代はガリレオの友人であり、そもそもガリレオにこの本を書くことを示唆したのは彼自身だった。その昔、教皇がまだ枢機卿だったころ、彼はこんな詩さえガリレオにプレゼントしているのである。

  天を見上げれば
  目に映りし
  土星とその耳
  天の川とその涙
  天のすべてを発見せしは
  汝のレンズなり
  汝、誉れ高きガリレオの業なり

 しかし、教皇として長年に渡り独裁的な権力を握った彼は、ガリレオに対する寛容な気持もうすらいでいた。自分をしのぐガリレオの人気や才能に対する嫉妬もあったのかもしれない。ガリレオにしてみれば、かっての友人であり、庇護者とも頼んでいた教皇の変心と怒りは思いがけないことだった。

 ガリレオは数ヶ月に渡って、ローマに拘束された。四月の検邪聖省での尋問から帰ってきたガリレオは「生きているというより死者にちかい」状態だったという。6月に実施された査問のあと、十人の審問官のうち7人がガリレオを有罪と認め、彼の罪が確定した。

「地球は世界の中心でなく動くものだという誤った見解を完全に放棄する」ことを誓うことで、極刑は免れたが、なおそれでも生涯に渡って軟禁されることになった。「天文対話」は販売禁止になり、その他の著作も版を改めることはできなくなった。

<今日の一句> 蚊をつぶす 夜叉のごとくに 月の夜  裕


2002年08月26日(月) 結婚まで

14.切られた花
 ドアを開けて、靴を脱ぎながら、手探りでキッチンの電灯をつけた。ドアの新聞受けを調べると、そこに合い鍵が入っていた。S子が部屋で待ちかまえているのではないかという不安とともに、合い鍵を持ち帰りはしないかという恐れがあった。とりあえず、その危惧は解消した。

 私はさらに居間と寝室をしらべ、異常がないことを確認して、ほっとしてソファに腰を下ろし、頬をなでた。無精髭がすこし伸びていて、掌がざらついた。私はふと、この同じ手がS子のやはらかな乳房を撫で、太ももを撫でたり、秘所に触れたりしたのだと思った。

 S子と別れようと思いながら、私はいつも毅然とした態度をとることができなかった。彼女のあたたかな呼吸を間近に感じ、そのからだの匂いをかぐと、自制心を失って彼女の中に溺れて行ってしまう。それはセックスだけの快感だったが、こうしたことを繰り返していれば、ますます深みに入って行くことは明らかだった。

「私のこと、好き?」
「うん」
「だったら、私を捨てないでね」
「………」
「捨てたりしたら、承知しないから」
 快楽の余韻を味わうゆとりはなかった。私はいつもS子の言葉で、寒々とした現実に引き戻された。

 教職を得て、これから私の前途が拓けようとしていた。冷静な私の理性は、S子が伴侶としても、また遊び友だちとしてもふさわしい女性ではないこと、そして一刻も早く手を切ることが人生の賢明な選択であることを、もう随分前から主張していた。しかし、私は肉体の奥底から湧いてくる盲目的な力の前で、いつも苦い敗北を味わっていた。

 上着を脱ぐと、風呂の準備をした。洗い場のタイルにS子の髪が張り付いているのを取り除き、それを屑籠に入れようとして、私は息を呑んだ。屑籠の底に、昨日K子から貰った誕生日の花束が、無惨に切り裂かれて捨てられていた。私の周囲で何かが音を立てて崩れたようだった。日常性という人生の守護神が、少しずつあとづさりをはじめていた。

 私は震える手でお湯を湧かし、キッチンのテーブルに坐って、インスタントのコーヒーを飲んだ。テーブルの端に包丁が置かれてあり、刃先が蛍光灯に照らされて光っていた。S子が花を切り刻んだ後、そこに置いていったのだろう。その無機質な光を見つめながら、私は自分がいま、底知れぬ虚無の中に落ちていこうとしているのを感じた。

<今日の一句> そよかぜに 父母のおもかげ 山中湖  裕

 富士山は雲の中だったが、宿のある山中湖の湖畔に立つと、さわやかな風に全身が包まれた。広々としたみずうみは所々薄日に照らされて光っていた。本栖湖にロマンチックな女の風情を求めた私が、この広々としたみずうみに感じたのは、慈しみに満ちた父母の面影だった。


2002年08月25日(日) 庶民の文学

 旅から帰って3日になるが、まだそのすがすがしい余韻の中にいる。俳句や短歌もいくつかできた。たとえば、富士山の清水でできたという忍野八海池を眺めていて、何となく口を出たのが、次の句だった。

  池澄みて淵に光を沈めたり  裕

 しかし、この俳句はどこかで見た記憶がある。旅から帰って本を探したら、石原八束さんの「現代句秀品批評」のなかに同じような句があった。上野章子さんの「桜草」という句集の句らしい。

  水澄みて光を底に沈めけり  上野章子

 上野章子さんは俳人高浜虚子の六女だという。これにちなんで、「六女」という句集も出している。その中から私の好きな一句。

  全身をのばし物取る炬燵から  上野章子

 炬燵に坐ったまま、全身を伸ばしている無精さかげんがユーモラスに詠まれている。ちょっと官能的な匂いを感じる。それでいて、さわやかだ。

「どんなところでもいい。上野さんが見えると、空気が違ってくる。すっとして爽やかになる。上野章子さんという方は、一個の作品、と私は思っている。作品たらしめているのは、上野さんの無邪気。その俳句は天衣無縫」

 これは川崎展宏氏の評である。もうひとつ、河盛良蔵氏の言葉も紹介しておこう。いずれも「現代句秀品批評」からの孫引きである。

「近頃は女性俳人が多くなって、まことに好い句を作っているのを見かける。自分も俳句が好きだったから機会をみては注意して読んでいるのだが、雑誌の主宰者などの専門俳人の句の方がよほどよくないね」

 俳誌を主宰している石原八束さんは、この言葉に赤面すると同時に、「俳句は専門家と素人も余り上下の差異のない庶民の文学だな」という思いをいよいよ深くしたいう。

 俳句は人の作品の方が面白いということがある。これを俳句の文学性の浅さだととらえる人がいるが、私はそうだとは思わない。文学の神様には作者名などどうでもよいのだろう。作品の心がゆたかで、その表現の「天衣無縫」であることを、こよなく愛するだけのことだ。

<今日の一句> みずうみに 淋しい女 さがしけり  裕

 本栖湖での作句である。海にくらべて、みずうみは女性を感じさせる。雲が多く、人が少なかったせいか、あるいはうらびれた私の心のせいか、しきりに淋しげな女性の影をさがしていた。「淋しき女」よりも「淋しい女」の方が現代の孤独を感じさせて語感が好いようである。


2002年08月24日(土) 数学教育の惨状

 数学を学ぶことの意義を、もっとも深く理解していたと思われる歴史上の人物の一人にプラトンがいる。彼は著作「法律」のなかで、こう述べている。

「数学には必要にして欠くべからざる何物かがあります。クレイニアスよ、もし私の間違いでなければ、数学は神の必要とするものなのです。・・・それを知り、それを用いないでは、人間が世界に対して神のごとく振る舞うことができないだけではなく、聖霊にも英雄にもなれない、いや、まじめに人間のことを考えたり、世話を焼いたりさえもできない、そうした知識なのですよ」

 しかし、いまやこのプラトンの言葉は空しく響く。数学の教師はこのプラトンの言葉をほとんど理解しないだろう。なぜなら、彼等は数学を教えているのではなく、およそ数学と縁もゆかりもない、ただ間違って「数学」よばれているところの、さまざまな計算の規則や、雑多で、なんら人間の精神を啓発することのないがらくたを教えているだけだからだ。

 こうした状況はたとえば、次のようなふうにたとえられる。いま数学の壮麗な 宮殿があるとしよう。ところがその前に、若干の石段がある。生徒はその石段を登って、宮殿の入り口にたどり着かねばならない。ところが、ここに思いがけない障害物がある。

 その障害物とは何か。それが数学の教師である。彼等は宮殿に背を向けたまま、この石段の途中に立って、そこを勇んで登ってくる生徒に、さまざまないやがらせをする。たとえば、石段をウサギ飛びをして上れとか、登った後、もう一度下まで降りて、この反復練習を何十回となく、もうすっかりくたびれはてるまで繰り返せと強制するのである。

 もちろん教師は決して悪意を持ってこうしたことを強制しているのではない。彼等自身、彼が生徒であったときこのような訓練を受けたのである。そしてその結果、数学とはこの石段をだだ意味もなく上り下りする苦役であり、忍耐力をつけるために必要な訓練なのだと誤解してしまったわけだ。その石段がただ本当の数学の宮殿へと通じる通路に過ぎず、そこを無難に何事もなく通過させることが、まず彼等教師のさしあたっての役割であることに気付いていないだけだ。

 上に述べた、見事な比喩は私の発明ではない。イギリスの数学者で、私の敬愛するバートランド・ラッセル(1872〜1970)がもう一世紀も前に、「数学の研究」(1902年)という論文のなかで述べているからだ。実のところプラトンの引用も、ラッセルのこの論文からの孫引きである。それでは、最後にラッセル自身の言葉を引用しよう。

「彼等は神聖な扉に通じる階段の上で暮らしているのだが、背中を強情に殿堂の方に向けているので、殿堂のあること自体を忘れてしまうのである。熱心な若者は、殿堂のドームやアーチに入るために、押しのけて進もうとするが、彼等は若者たちに、回れ右をして階段の数でも数えていろ、と命令するのである」

「一般的なものを一般的なものとして処理する能力は、数学教育が与えるべき恩恵のひとつである。しかし概して数学の教師は、代数を算術から分かつ溝を説明する能力が何と僅かしかないことであろう。そしてまた学習者は、それを理解しようと暗中模索しているのに、何と僅かしか援助してもらえないことだろう」

「ふつうは算術で採られていた方法が続けられている。すなわち、何の理由も説明せずに、規則が並べられ、生徒はその規則を盲滅法に使うことを習い、やがてその生徒が先生の望む答えを出せるようになると、代数の難しさをマスターしたと思う、といった有様である。しかしその生徒が、用いられた計算方法をほんとうに理解しているかどうかといえば、おそらくほとんど何物をも得ていない、といってよかろう」


「数学を正しく教授する場合に、その主なる目的の一つは、学習者の理性に対する信念、証明されたことの真理性に対する自信、および証明の価値に対する自信を目覚ますことにある。この目的は今の教え方では達しえない」

「どうすればそれを達しうるかを理解することは容易である。算術について言えば、今のところ一組の規則を教え込まされはするが、その規則は、真実としてでも虚偽としてでもなく、ただ先生の意志として、何か分からない理由で先生がそれに従ってゲームをやりたがっているルールであるとして示される」

「算術のように明らかに実用性を目的とする学科の勉強では、こういう行き方はある程度避けがたい。しかしできるだけ早い機会に、どんな方法でもよいから、子どもの心に最も容易に訴えるような方法で、それらの規則の理由を説明してやるべきである」


「数学は真理を持っているばかりではなく、最高の美を持っている。それは彫刻の美のように冷たく厳しい美しさであって、我々の弱々しい天性に訴える何ものもなく、絵画や音楽のもつ絢爛たる飾りもなくて、しかも気高く純粋で、最大の芸術のみが示しうる厳格な完成に満ちている。最高の優雅さのしるしであるところの、真の喜び、精神の高揚、人間でありなが人間を超えた存在の一部であるという感じ、それらは詩の中と同じくらい確かに数学の中にも見出されうる」


「数学における最もよきものは、学業として学ぶに値するばかりではなく、日常の思惟の一部として同化し、常に新たな感激をもって繰返し繰返し心に思い浮かべるに値するものである」

「人間的情熱からかけ離れたところに、自然の憐れむべき諸事実からさえもかけ離れたところに、代々の人類は一つの秩序づけられた宇宙を段々と創造してきた。そこでは、純粋思惟がわが家に住まうように住まっており、われわれの高貴な諸衝動の少なくとも一つは、現実世界という恐ろしい幽閉から脱出することができるのである」

 ラッセルは「数学原理」の著者として20世紀最大の世界的数学者の一人であるばかりではない。同時に第一級の哲学者であり、ノーベル文学賞を受賞した名文家である。またラッセル=アインシュタイン宣言で核兵器廃絶を世界に訴えかけた社会運動家である。しかし、彼が教育者として学校を作り、なみなみならぬ実践活動をしていたことはあまり知られていない。

 上に引用した文章から、彼の教育についての情熱の一端をうかがい知ることが出来よう。しかし残念ながら私たちは、100年前のイギリスの数学教育の悲惨と滑稽を笑うわけにはいかない。日本ではラッセルが指摘した教育の悲喜劇が、いまも大まじめに演じられ続けているからだ。
 
(参考文献) 「神秘主義と論理」ラッセル著 江森巳之助訳 みすず書房

<今日の一句> ほとばしる 富士のわき水 白き手に

 富士山の伏流水がこんこんとわき出てくる忍野八海。その湧き水に手を浸けて、冷たさに驚いた。湧き水に女性の白い手が伸びていた。


2002年08月23日(金) 魂の産婆術

 ソクラテスがなぜ裁判にかけられたのか、弟子のプラトンが書いた「ソクラテスの弁明」によると、告訴の理由は「青年達を腐敗させ、かつ国家の認める神々ではなく別の新規なダイモニアを祭るがゆえに罪を犯している」ということである。

 これに対して、ソクラテスは自分ほど青年の教育に熱心だった者はいないといい、この点ではむしろ賞賛されるべきだと答えている。さらに、古来の神々に対しても常に礼拝を怠らなかったと述べている。実際、ソクラテスに具体的な涜神行為があったわけではなかった。

 告訴状の内容から、ソクラテスの裁判を宗教裁判だという人がいるが、ギリシャは多神教の国であり、宗教についてははるかに寛容である。新規なダイモニアや神を信仰したからと言って、これまで告訴さたことはないし、まして死刑判決まで受けることは考えられない。

 とすると、ソクラテスの第一の罪は、「青年達を腐敗させ」という、教育上の問題であった可能性がある。彼が青少年にたいする教育に熱心であったことが、かえって一般の「良識ある」アテネ市民の反感を買っていたのかもしれない。

 この点について、ソクラテスはどう反駁したか。「ソクラテスの弁明」から拾ってみよう。審議中にソクラテスは告発者のメレトスと対話を試み、彼にこう問いかけている。

○ソクラテス「君は、私が若者を腐敗させると訴えたが、それでは若者を善いものにするのはいったいだれだというのか」
○ メレトス「それは法律だ」

 この問答は、「ソクラテス裁判」の核心を示している。メレトス一派は「法律」や「習慣」とその背後に存在する「国家」に対する尊敬と服従こそが青年を正しく導く方法だと主張している。そしてこの主張は、大方のアテネ市民の常識でもあった。だからこそ、アテネ市民の中から籤で選ばれた500人の陪審員たちの過半数が、ソクラテスの有罪を認めたのである。

 教育の基本は「法律」であり、「規範」を教えることだというメレトスや一般市民の常識に対して、それではソクラテスの方法はいかなるものだったのか。それはたしかにかなり型破りで新奇なものには違いなかった。それは問答によって、眠っている若者の魂を、その暗黒の眠りから解放することだった。

 ソクラテスはいかなる場合でも決して解答を与えはしない。ただ、若者は彼と対話をしているうちに、これまで当然の如く思い信じていたあらゆる出来事や「規範」が、実はなんら根拠のないものだと、突然気付くのである。そして、この世にさまざまな「問い」が存在し、まさに人間はそのようにして、万物を「問う」ことのできる存在だと気付く。

 ソクラテスは若者を対話によって導く自分の方法を「産婆術」にたとえている。ソクラテスの言葉を触媒として眠りから覚めた若者は、まったく新たな精神の目で世界を見始める。そしてこのとき大切なのは、そこに何らかの強制された感覚がないことである。若者は自分自身で、この明るみの中に生まれ出たと感じる。つまり、これまでの自分はただ精神的に眠っていたのであり、いまようやく魂が目覚めたと感じるのである。

 そのとき、若者がどれほど大きな感激を味わい、ソクラテスを偉大な教師として敬愛したか。プラトンもまたこうして魂を覚醒され、人生に実にさまざまな問いが存在することの驚異を経験した一人だった。その感激が彼の文章にほとばしっている。たとえば「饗宴」の中で、ソクラテスを敬愛するアテネ随一の美青年アルキビアデスにこう語らせている。

「ソクラテスが話をするのを聞くとき、男であれ女であれ、若者であれ、だれもが強い衝撃を与えられ、神懸かりにされるのだ。・・・だれかソクラテスの内面を見た者はあるか。僕は昔見たことがあるのだ。そのときそれは神様のようで黄金のようで、全く美しく驚くべきものに見えたのだ」

 ソクラテスはこのようにして実に様々なこと、「美とは何か」「善とはなにか」、「徳とは何か」そして「国家の規範はどのようにして与えられるか」を人々に問いかけた。ソクラテス以前に人生についてこのような自由な問いかけをする者はいなかったし、少なくともソクラテスのように人々の魂の奥底に届く効果的なやりかたをする者はいなかった。このゆえに、若者たちは彼を師とあがめ、神とまであがめた。

 できあいの「規範」への服従を尊ぶ人々にとって、このような状況はゆるしがたいことだった。彼が提起したさまざまな問いは、神々とこれによって治められるべき国家に対する挑戦とも考えられ、決して容認されるべきものではなかった。ソクラテスを処刑することは、つまりこのような問いを圧殺することだった。これが「ソクラテス裁判」の真相だと言ってよい。

 ソクラテスは現代においても、おそらくは多くの人々には受け入れがたい存在かも知れない。しかし、彼の言葉に耳を傾けて魂の覚醒する感激を味わった人たちからは、偉大な教師として慕われ続けるだろう。「ソクラテス裁判」は遠い昔のギリシャの話ではない。それはわれわれ現代人の心の中に今も封印されている、生き生きとした魂の蘇生のドラマである。

<今日の一句> 思ひ出を 訪ねてみれば 草のなか  裕


2002年08月22日(木) 山中湖の旅

 かっての同僚達5人と、河口湖や山中糊、清里高原へ、1泊2日の旅に出かけた。同じメンバーで毎年宿泊旅行をしている。もう十五年ほど続いているが、今年はそのなかの一人で、最年長のTさんが定年退職したということで、長年のお勤めをねぎらう会でもあった。

  甲斐路きて ほうとう食べて 露天風呂

 あいにく雲の多い天気で、富士山の勇姿を見ることはできなかったが、山中湖の宿で温泉につかり、酒を飲んで、懐旧談や人生談義にふけったりして、たのしいひとときを過ごすことができた。

 今度の旅で、とくに印象に残ったのは、山中湖文学の森にある「三島由紀夫文学館」である。代表的な作品の原稿、手紙や創作手帖、少年時代の作文や通知票など、三島の文学の成り立ちを知るための第一級の資料がそろっていて見応えがあった。

「仮面の告白」と「金閣寺」はだれもが名作だと認めるだろうが、私が好きな作品に「美しい星」がある。もう20年も前に読んだきりなので、もう一度読み返してから、この作品の魅力について書いてみたいと思っている。

<今日の一句> 杉木立 まっすぐ伸びて 秋の空  裕 


2002年08月21日(水) 失読症と日本語

 8月16日の日記でアメリカには400万人もの失読症の人たちがいると書いた。ブッシュ大統領やトム・クルーズなど、有名人たちにも多い。エジソンもそうである。ヨーロッパにも多くて、アインシュタインやピカソなど名だたる大家がこの失読症だったらしい。

 これに比べて、日本人には失読症は少ないようだ。北さんはこれは言語表記(表音文字、表意文字)の違いによるのではないかと言う。私もそう思ったので、再びネット検索を使って調べてみた。

 結論から言えば、西洋人に失読症が多いのはアルファベット(表音文字)を使っていることと、そのスペリングが複雑であることが災いしているようだ。失読症でなくても、英語やフランス語で書かれた文章を読むことはかなり負担があるという。そのなかでイタリア語は発音とスペルが殆ど一致しており、イタリア人には失読症もそれほど多くはないという。

 アメリカでは字幕入りの映画というのは受け入れられない。例外は「ダンス・ウィズ・ウルブズ」くらいで、これも予想ではネイティブ・アメリカンの言葉が出てきて字幕を付けざるを得なかったのでヒットしないといわれた。

 かな漢字交じり文の日本語は一目で意味がわかるが、英語はとても字幕では読み切れない。私はDVDを使い、英語字幕入りの映画を見ているが、読みとりが難しい。ネイティブでもそうだと聞いて安心した。

 同じ表音文字でも、日本の子供は「あいうえお」を覚えればどんな絵本だって読める。英米の子供はこれができない。pneumoniaとかpsychologyとかwreathという言葉を聞いて、意味を調べようと思ってもスペルがわからないので、辞書で調べることもできない。日本の子供は「はいえん」とか「しんりがく」「リース」で意味を調べることができる。日本語のかな漢字まじりの表記は、言語表記としてこうした利点を持っている。

 もっとも、日本人にも失読症が皆無ではないようだ。私も大学時代の友人で、「失読症」らしい病気にかかった人を知っている。彼は「本が読めなくなった」と言って、途中で学業を放棄し、最後は投身自殺をしてしまった。20年以上も前の話だが、当時はまだ「失読症」という病気そのものが認識されていなかったので、私もノイローゼだと思っていた。

 養老孟司さんの「考えるヒト」によれば、日本人には二種類の「失読症」があり、それは「カナ失読」と「漢字失読」で、それぞれカナか漢字が読めなくなるらしい。しかし、いずれも脳に損傷を受けた場合で、発症率はアメリカ人やイギリス人よりはるかに少ない。失読症の研究から、日本人の脳の構造も見えてくる。また、その治療法もあきらかになる。

<脳に基礎づけることで、われわれは必要なら、そうした現象に対する原因療法を発見できるはずである。もっとも私は、右のようなわけで、日本における漫画の流行や、日本人のいわゆる外国語下手を、病的現象だなどとは夢にも思っていない。国粋主義的に言うなら、言語については、外国人のほうがまさに「頭が足りない」のである>
 
 日本語は一見表記が複雑のように見えるが、実際には読みのスピードは英語はもちろん、中国語よりも速いらしい。漢字のみの中国語よりも、意味の中心を表す漢字に、意味と意味の関係を表す仮名を使った日本語はより視覚的にわかりやすく、一瞬にして、文章全体を目で捉えることが可能だからだ。黙読する限り、あらゆる外国語に比較して、日本語の方が圧倒的に速く読めるという。

 読むのがやさしいので、当然「失読症」も少ないわけだ。こうした日本語によって私たちの思考や文化が創られていく。日本で漫画が流行するのも、この日本語表記の特徴と無関係ではないらしい。こうした優秀な性格を持っている日本語は世界に誇る大切な文化財でもある。大切にして行きたいものだ。

<今日の一句> 汗ばめば 少女のからだ 浮かびたり  裕

 部活動の帰りだろう、炎天下、少女の汗ばんだ肌に着衣がはりついて、やはらかな女の体のかたちが透けるように浮かび上がっていた。そこで「少女のからだ」と書いたが、「女のからだ」「匂ふからだ」でもよい。

   汗ばめば 女のからだ 浮かびたり  
   汗ばめば 匂ふからだが 浮かびたり

 ただし、 「匂ふからだ」では、汗ばんでいるのがだれだか分からない。人によってはもう少し成熟した女性を想像するだろう。しかし、読者の想像を誘う空白もまた、文学の大切な要素である。これによって生まれる、読み手の想像の自由と、この自由をたのしむゆとりを大切にしたい。

 わずか17文字の俳句の場合、「空白」を生かすことが必要になる。そう考えると、やや意味の曖昧な「匂ふからだ」を選んでみたくなる。今日の一句は迷ったので、3句を書いて、蛇足を付すことになってしまった。

(今日から1日2泊で山梨県の中山湖へ旅行します。明日の日記の更新は、夜遅くになると思います)


2002年08月20日(火) 人生芝居

 あれはいつの頃だったろうか。たぶん、中学生の頃ではなかったかと思う。学校の帰り道、とつぜん、閃いたのだ。それこそ天啓のように、「人間はみんなお芝居をしている」という観念が。そして、その瞬間、いろいろな人生の謎が一気に解けたように思った。

 父も母も友人も、そして私自身も、みんなお芝居をしている。人が死ねば、悲しくなくても悲しいふりをするし、反対に人の成功を見れば、嬉しくもないのに嬉しい顔を装い、祝福の言葉を口にする。教師は教師の仮面をかぶり、父や母も親としての仮面をかぶってそれそれの役をそれなりに演じている。

 とくにこのお芝居がうまいのは少女達である。彼女たちは口する言葉と心の中がまるで違っていても平気である。私の前で口をあけてあくびをし、横柄でぶっきらぼうな物言いをする少女が、別の人も前ではそれこそ天使のような声音を使い、それこそほれぼれするような優美な笑い方をする。なんとみんなお芝居がうまいのだろう。

 これは私にとっては驚くべき発見だったが、ほとんどの人が成長の過程で、こうした人生の真実に目覚めるのではないだろうか。また、自分で考えなくても、こうした思想は昔から文学作品の中でくりかえし語られてきた。私自身、そうしたことが書かれた文章を読んでいて、それを思い出しただけだったのかもしれない。シェークスピアの作品から有名なセリフを引用しよう。

「世界は劇場、女も男もみんな役者。登場しては退場し、一生、さまざまな役で七幕を演じきる」 (お気に召すまま)

「人生はうつろう影絵芝居。あわれな役者風情がふんぞり返り、歯噛みする。ほんのいっとき舞台をつとめ、ばたっと音沙汰がなくなる。どんちやん騒ぎの、うつけのしやベるおとぎ話だ。意味などありはしない」 (マクベス)

 ところで、「人生は舞台だ」という考えをはっきり思想として持っていたのはギリシャ人である。古代ギリシャでは、ポリスの公の行事として演劇が行われていた。さらに演劇鑑賞は彼等にとって生活の一部であり、生活そのものだった。こうした中で、「人生そのものが劇場だ」という人生観がひろがっていた。プラトンの有名な文章を証言として引いておこう。

「真の詩人は悲劇的であると同時に喜劇的でなければならない。人間生活のすべては同時に悲劇として、また喜劇として演じられ、感じられるのでなければならない」 (饗宴)

 さすが哲学者だけあって、内容が高尚である。古代ギリシャ人の考えた人生観は、私が中学生の時目覚めた人生理論と似ているようで、実は本質的に違っている。プラトンは「人の一生は人生という舞台でのお芝居だ」というが、その観客は「神」だと言っているからだ。

 それは人に見せるための芝居ではなく、神々を喜ばせるために、神々に捧げられた神聖な芝居である。だから、「神々の照覧あれ」という箴言のあるところ、人々の演じる人生劇はいやがうえにも、勇気と尊厳に満ちた高尚なものにならざるをえない。

 こうした人生観を持っている人たちの人生は、現代人の偽りに満ちた人生芝居とまるで次元が違っていて当然かもしれない。しかし、その偽りと嘘に満ちた喜劇芝居こそが、真実人間らしい、哀切なドラマであることに違いはない。それは神々の賞賛を得るにはいたらないだろうが、ときとして人々の心を動かして、賞賛と同情と身も世もないほどの涙をさそう。

 とはいえプラトンのような高尚な人生観に触れることは、それなりの意味がある。芭蕉は「高くさとりて、俗にかえるべし」と言っているが、人生は所詮お芝居だと考えながら、これをたのしむゆとりと風格が生まれるからだ。高くさとった人の人生芝居は、人の心をなごませて、見ていて愉快である。

<今日の一句> 髪をすく 女の顔の かなしくて  裕 


2002年08月19日(月) 結婚まで

13.アパートの明かり
 名古屋駅前で時間つぶしのために映画を見て、地下街の食堂で夕食をすませた。西春の駅を降りたときは、8時を少し過ぎて暗かった。私は駅前の角の本屋で雑誌を一冊買って、それを片手に歩き出した。町の駅前通りは、その一軒の書店の他は、もうほとんどが店じまいをしていた。

 国道を渡った後、路地の角を曲がると、田圃の向こうにアパートが見えてきた。私は思わず二階の自分の部屋のある一角を眺めた。明かりが消えていた。S子がまだ私の部屋に居座っているのではないかという不安が遠のいた。

 私が恐れていることは、S子がおしかけてきて、私と同棲生活を始めることだった。そうしたとき、私は彼女を追い出そうとするだろうが、どれほど有効な手段があるのかわからなかった。あげくのはて、ずるずると同棲生活のぬかるみにはまっていきそうな不安があった。

 3階建てのアパートには、20人近くが住んでいた。そのほとんどは若い女性だったが、どうやら同棲しているらしいと思われるカップルもいくつかあった。アパートの窓明かりを眺めていうちに、私の頭の中には、そこで生活する人々のありさまがいろいろと浮かんできた。

 食事をして、テレビを見たり、読書をしたり、それから排泄をして、風呂に入って眠る。ときにはセックスもするだろう。自分の生活も、そこに住む一員として外から眺めてみると、さながら何物かにあやつられて行われる芝居のように思えた。それはなやら滑稽で哀しく、そして淋しかった。
 
<今日の一句> 風にのり 風にたわむれ アゲハ蝶  裕


2002年08月18日(日) 指輪の魔力

 一昨日、NHKの「指輪物語のルーツを求めて」をみた。女優の荻野目慶子さんが、伝説の魔力のリングを探しながらフランスやドイツ、北欧の神話世界を旅し、指輪をめぐるヨーロッパ文化の源流にスリリングに迫っていた。
 
 ヨーロッパの人々はなぜ指輪にこのような不可思議な魔力を感じるのか、その謎解きの旅でもあり、あまりテレビを見ない私が、不倫したい女優のNo1だという荻野目慶子の清楚で妖艶な魅力と、中世ヨーロッパにたちこめる何やら神秘的な歴史の香り、そして指輪の謎をめぐるサスペンスと知的好奇心に駆られて、思わず最後まで見てしまった。

 指輪は私たち日本人にはたんなる装飾品の一種だが、ヨーロッパの人々にとってはそれは身を守るための呪具でもある。指輪には聖なる力が宿ると信じられてきた。たとえばドイツのルートビッヒ二世は中世の指輪伝説に魅せられ謎の死を遂げた。ロシア最後の皇帝ニコライ二世は「神よ守りたまえ」と刻まれた指輪を、処刑数日前まではめていたという。

 そううした歴史上の人々のゆかりの指輪や伝説を荻野目慶子さんはヨーロッパ各地に尋ねながら、最後は北欧の小さな島(ゴッドアイランド)にたどりつく。バイキングの古い遺跡と伝統的な文化が残るその島で、彼女はついに一人の老婆の口からリングの正体を聞かされる。そしてそれは何かというと、「日輪」である。

 北欧の人々にとって、太陽は何よりも貴重な生命の源であり、恵みであった。黄金のリングはこの太陽の偉大な恵みの力の象徴である。そしてこれを身に着けることによって、人間はその聖なる力と合体することができた。

 もちろん、太陽崇拝は北欧ヨーロッパだけではなく、洋の東西を問わずにほとんどの民族が共有していた信仰である。こうした普遍的な信仰が、北欧ではリングという独特の象徴物を生みだし、やがて壮大な伝説を育てたわけだ。

 ところで、日本の場合、この指輪に相当する聖なる象徴物はなんだろうか。三種の神器のなかからさがしてみよう。いうまでもなくそれは「鏡」である。鏡は丸い形をしている。そしてその意味は「かがやくもの」という意味である。私たちの先祖は鏡を太陽の分身として崇めた。正月に飾る「かがみもち」もまた太陽の分身であるのかも知れない。

<今日の一句>  蟋蟀も 何やらたのし 月の夜  裕


2002年08月17日(土) 点と線の不思議

 ギリシャ人は一風変わったことを考えることが好きだった。たとえば、物質をどこまでもこまかく分けていくとどうなるのか、などということを考えた。デモクリトスという人は、こうして「アトム」という観念にたどりついた。物質はすべてアトムから成り立っているというのである。しかし、だれもアトムを見た人はなかった。

 どうように、「線分は点が集まって出来ている」という。私たちは学校でそう習い、これを当然の認識として受け入れているが、よく考えてみると、これもなかなかに謎をふくんだ文章だということがわかる。

 たとえば「点」とはなんだろう。ユークリッドによれば、それは位置のみを持ち、面積をもたない図形だそうだ。もちろんそんなものがこの世の中にあるわけがない。たしかにそれらしいものを私たちは紙の上に書くことはできるが、それでも面積を0にはできない。

 そもそももし面積が0であれば、私たちはそれを見ることが出来ず、目に見えないもの位置をどうやって調べるのかという疑問がわいてくる。また、面積ゼロの点をいくら集めても面積は0のままだから、直線も面積を持たないわけだが、面積をもたない直線も私たちには見ることが出来ないのではないのか。こうした疑問が次々とわいてくる。

 「線分は点のあつまりだ」という古代ギリシャ人の命題を認めたとして、それではその線分に含まれている点はどのくらいあるかといえば、彼等はそれは「無限個」あると答える。そうすると、ここに新たな疑問が湧いてくる。いま鉛筆で1センチメートルの線分を書く場合を考えよう。当然彼の鉛筆は、無限個の点をそこに並べなければならない。無限個の点を書くのに必要な時間がどうして有限で足りるのだろうか。

 こうした疑問はギリシャ人も感じていたようで、ゼノンやパルメニデスは「飛ぶ矢は止まっている」だとか、「アキレスは決して亀に追いつけない」といった逆説でこうした矛盾をたくみに表現している。実のところ、ギリシャ人はこうした矛盾をどう解決したらよいのか分からなかった。

 なぜならこの矛盾の本質を明らかにするためには、「無限小」「無限大」「連続」といったものの正体を突き止める必要があったからだ。数学者がこれに成功したのはようやく19世紀に入ってからである。ワイヤシュトラウスやデデキント、そして最終的にはカントールという天才的な数学者の出現がなければならなかった。

 もっともカントールにとってもこの仕事は大変な難事業だった。多くの数学者は彼の仕事の本質を理解することが出来ず、数学界では彼は異端者だと見なされた。彼はそうしたなかで自分の仕事をやりとげたわけだが、その過程で精神を病み、最後は自殺している。

 さて、カントールが明らかにした真理をいくつか紹介しよう。
「無限の長さをもつ直線と1センチメートの有限な線分の上にある点の総数はちょうど等しい」
「直線上にある点の総数は、平面上にある点の総数に等しい」
「自然数の総数は正の偶数の総数に等しく、また正の奇数の総数に等しい。またそれらの総数に正確に一致している」

 これらの命題は私たちの常識を越えている。しかし、カントールはこれがまったく論理的に正しいことを証明してしまった。彼は「無限とは部分が全体に等しいことだ」と述べている。彼はギリシャ人が提起した問題の謎を完全に解くことができたが、その結果明らかになった「無限」という怪物の正体は、実に驚くべきものだった。

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(付録) 「自然数の総数は正の偶数の総数に等しい」ことの証明

一般に二つの集合AとBがあり、それぞれの要素どうしに「1体1の対応」がつくとき、これら二つの集合の要素の総数は等しい。ところで、

 自然数は     1,2,3,4, 5,6, ・・・・・・   (A)
 正の偶数は    2,4,6,8,10,12,・・・・・・  (B)

これらの間には、1と2,2と4,3と6,...というように「1体1の対応」をつけることが可能である。よって、これら二つの集合の要素の総数は等しい。
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<今日の一句> にわか雨 白き下着が 濡れてをり  裕


2002年08月16日(金) 失読症の人々

 オリンピックの閉会式に続き、18日のシドニー・パラリンピック大会の開会式のセレモニーに、オーストラリアの人気歌手、バネッサ・アモロシさん(19)が参加するという。「どんな人にも神様がくれたパワーがある」という思いを込めて作曲した「THE POWER」を披露する。

 彼女自身、「失読症」という障害を抱えている。「失読症」の人は文字や文章の認識が苦手で、本を読んでもらえれば、内容をちゃんと理解できるのに、自分では読めないし、スペルを綴ることもすらすらできないという。音読も出来ないことが多い。

 アメリカにはこの障害を持つ人が400万人ほどいて、学校に適応できず、中退する人も多いようだ。結構ポピュラーな病気でありながら、私も実は最近までうかつにもこうした障害が存在することを知らなかった。バネッサさんはインタビューで、こう述べている。

「私自身、失読症という障害を持っていて、障害っていうことへの隔たりは感じられないの。今は専門学校で、健常児が障害を持つ人に教えられて障害というものを理解できるようにするプログラムを勉強しています。障害者は違ったタイプの普通の人なんだから、もっと障害者への認識を高めるように努めています」

 失読症の人は物事を視覚的に捉える傾向があるという。イメージで直感的に思考するために、文字や数字、記号、文章などを理解するのが難しいこともあるが、芸術表現や創造的な能力にすぐれた人が多い。たとえば、発明王トーマス・エジソンや物理学者アルベルト・アインシュタインらの偉人がそうで、彼等は学校教育には適応できなかったが、最高度の知能と創造性を持っていた。レオナルド・ダ・ビンチやピカソのような芸術の大家も失読症だったといわれている。

 アメリカの大統領ブッシュも失読症だそうだ。ブッシュ大統領のスピーチは小学生が本を棒読みしているようだと言われ、インタビューに答えたりするような即興のスピーチでは、「あー、あー、」と言葉に詰まってしまって、見ていて気の毒である。こうした醜態を日常的に演じるので、ブッシュは「知能が低い」などと雑誌などでたたかれている。

 スウェーデンでは、12日にビクトリア王女(25)が12日、子供時代に文章を声に出して読めない失読症でいじめられたことを公表した。王女は「学校は楽しかったが、生徒への要求が多かった。読み書きの難しい子供にとってつらい時もある」と読み書きの苦手な子供への思いやりを訴えたという。

 王女はカール16世グスタフ国王の長女で王位継承権第1位。98年から2年間、米国のエール大学で歴史学などを学び、現在は学校教育の向上に貢献する仕事を目指しているという。見事に「失読症」を克服して、社会の最前線で活躍している。

 失読症は遺伝性だと言われている。グスタフ国王や王女の弟のカール・フィリップ王子も「失読症」だった。ブッシュの家系にも弟のニール・ブッシュの他何人か失読症の人がいる。しかし、「失読症」は適切に治療すれば矯正が可能だという。有名人の中にはこれを克服して、活躍している人が多い。

 たとえば、カラーパープル、ゴーストに主演している黒人コメディアン、ウーピー・ゴールドバーグは、子どもの頃からまわりから馬鹿だと言われていたが、失読症であると本人が知ったのは大人になってからだそうである。トム・クルーズやウーピー・ゴールドバーグ、そしてテレビ・トークショーホスト、ジェイ・レノらも失読症で学校教育にはうまく適応できなかったが、社会では成功を収めている。

<今日の一句> 音のみを 楽しんでをり 花火祭  裕


2002年08月15日(木) 滅びゆく故郷

「ふるさと」を漢字一字で表すとしたら、何を選ぶか、住友生命がアンケート調査をした結果、「山」「海」「母」が一位から三位までを占めたという。まあ、妥当なところだろう。

 私の場合は以前なら「海」を選んだのではないかと思う。私の生まれたところは、とりわけ海が近いわけではない。しかし、小学校時代の数年間を若狭の海のほとりで暮らした。その頃は、海でよく遊んだものだ。

 福井市の私の家から、越前海岸まで、自転車で1時間半ほどかかったが、夏になるとかならず海水浴に出かけた。結婚してからは墓参りに帰省したおりに、家族で行く。昔自転車で通った道も、車で走れば30分ほどである。

 私は生まれは福井市だが、祖父の地は少し離れた山村である。菩提寺も山の中にあり、毎年参っている。中学、高校の頃は、父に連れられてよく山仕事に行った。私の場合、ふるさとのイメージとしてまず「山」が浮かんでもいいのだが、敬遠したくなるのは、辛かった山仕事の思い出があるからだろう。

「山」は私に苦しい「労働」を連想させる。反対に「海」は心が浮き立つ喜びの象徴であった。ところが、今年、少し異変が起きた。海でクラゲに顔面を刺されて、海のイメージが悪くなったのである。そして、「山」のイメージがよくなった。ふるさとの象徴として山を選びたい気持が強くなった。

「山」が好きになってきたのは、歳のせいもあるのだろう。父にしかられて、いやいや入った山の苦しい強制労働も、いまでは懐かしい思い出である。谷川のせせらぎや林道のしずかなたたずまいが浮かぶ。ヒトリシズカ、リンドウ、オミナエシ、ヤマブキといった野花の美しさに心がひかれる。

 毎年帰省するたびに思うのは、このなつかしい自然が少しずつ損なわれていることだ。すでに父と植林した山はすっかり荒れている。上流にダムが出来て、谷川の水は涸れ、鮎やイワナなどのすがたもめっきり少なくなった。そして、ふるさとの村からひとの姿までが消滅しつつある。 

 今日は終戦の日である。「国破れて山河あり」とむかしの詩人は歌ったが、国が破れても人々が絶望しなかったのは、そこに美しい山河が残されていたからだろう。その後、国は未曾有の経済発展を経験し、おおいに繁栄を謳歌したが、その結果ふるさとの自然が滅びようとしている。

 今、日本は世界的な経済戦争のさなかに身を置いている。この戦いに傷ついたとき、はたして私たちを抱擁してくれるやさしい山河が残されているかどうか、いささか心配である。「国破れ、山河も荒廃」ということにならなければ幸いである。
  
<今日の一句> ふるさとの 墓の近くに 女郎花  裕


2002年08月14日(水) 水没する国々

 朝日新聞によると、南太平洋の島国ツバルが、地球温暖化による海面上昇で水没の危機にあるらしい。海面上昇はIPCCの科学者の予想を上回るペースで続いており、タラケ首相の生まれたバイツ島は高潮に洗われて住めなくなったという。

 このままでは国民はいずれ椰子の木の上で生活するしかなくなる。そこでオーストラリアとニュージーランド政府に移住を申し入れたが、オーストラリアは拒否し、ニュージーランドもわずか年75人しか受け入れてくれない。クジであたった幸運な者以外は島と沈むしかない。

 そこで、タラケ首相は温暖化に関係する石油、自動車、武器、煙草などの大企業や、温暖化対策に消極的なアメリカ、オーストラリアなどの先進国を訴えて、損害賠償と対策を求めることにしたという。隣国キリバスやインド洋のモルディブと共同で提訴するようだ。

 温暖化による海面上昇で被害を受けるのは、何もこれら洋上の小国ばかりではない。国土の大半が海面下にあるオランダや日本をはじめほとんどの海洋国家が深刻な被害を受ける。

 またNHKの報道によると、アルプスの氷河が融けだして、イタリアにある湖が決壊しそうだという。同様な映像がヒマラヤの氷河でも報道された覚えがある。南極の棚氷が崩壊している映像も記憶に新しい。

 統計によるとこの100年間で全世界の氷河は1/5になったという。地上からすべての氷河が姿を消すのも、時間の問題のようだ。地球温暖化が生態系にもたらす破滅的な影響も科学者によって指摘されている。しかし、この警告も経済優先の声にすっかりかき消されてしまった。私たちはなんという恐ろしい時代に生きていることだろう。

<今日の一句>  夕暮れに 木槿やさしや 帰り道  裕


2002年08月13日(火) コレガ人間ナノデス

 広島原爆の被爆作家として知られる原民喜(1905〜1951)が世を去って、もう半世紀がたった。彼は妻に先立たれ、千葉から兄の住む広島市幟町へ疎開中に被爆した。そしてその被爆体験をとおして、人間の実存を問い続けた作家・詩人である。

 今度「青空文庫」に「原民喜プロジェクト」ができた。代表作「夏の花」、「心願の国」などをはじめ、今では書店で入手難の作品を含めた37作品を無料で読むことができるというので、さっそく覗いてみた。

  夏の野に幻の破片きらめけり
  炎の樹雷雨の空に舞ひ上る
  日の暑さ死臭に満てる百日紅
  重傷者来て飲む清水生温く
  梯子にゐる屍もあり雲の峰
  水をのみ死にゆく少女蝉の声
  人の肩に爪立てて死す夏の月
  魂呆けて川にかがめり月見草
  廃虚すぎて蜻蛉の群を眺めやる

「原子爆弾」からの引用である。「夏の花3部作」の一つ、「壊滅の序曲」は原爆投下の数日前の広島の生活を写している。その中で主人公が、「馬鹿馬鹿しいきはみだ。日本の軍隊はただ形式に陶酔してゐるだけだ」とつぶやく。

<「何だと!」と教官の声だけが満場にききとれた。「一度も予習に出なかつたくせにして、今朝だけ出るつもりか」
 教官はじろじろ彼を眺めてゐたが、
「裸になれ!」と大喝した。さう云はれて、相手はおづおづと釦を外しだした。が、教官はいよいよ猛つて来た。
「裸になるとは、かうするのだ」と、相手をぐんぐん運動場の正面に引張つて来ると、くるりと後向きにさせて、パツと相手の襯衣を剥ぎとつた。すると青緑色の靄が立罩めた薄暗い光線の中に、瘡蓋だらけの醜い背中が露出された。
「これが絶対安静を要した躯なのか」と、教官は次の動作に移るため一寸間を置いた。
「不心得者!」この声と同時にピシリと鉄拳が閃いた。と、その時、校庭にあるサイレンが警戒警報の唸りを放ちだした。その、もの哀しげな太い響は、この光景にさらに凄惨な趣を加へるやうであつた。やがてサイレンが歇むと、教官は自分の演じた効果に大分満足したらしく、
「今から、この男を憲兵隊へ起訴してやる」と一同に宣言し、それから、はじめて出発を命じるのであつた。……一同が西練兵場へ差しかかると、雨がぽちぽち落ちだした。荒々しい歩調の音が堀に添つて進んだ。その堀の向が西部二部隊であつたが、仄暗い緑の堤にいま躑躅の花が血のやうに咲乱れてゐるのが、ふと正三の眼に留まつた>「壊滅の序曲」

<西練兵場寄りの空地に、見憶えのある、黄色の、半ずぼんの死体を、次兄はちらりと見つけた。そして彼は馬車を降りて行つた。嫂も私もつづいて馬車を離れ、そこへ集つた。見憶えのあるずぼんに、まぎれもないバンドを締めてゐる。死体は甥の文彦であつた。上着は無く、胸のあたりに拳大の腫れものがあり、そこから液体が流れてゐる。真黒くなつた顔に、白い歯が微かに見え、投出した両手の指は固く、内側に握り締め、爪が喰込んでゐた。その側に中学生の屍体が一つ、それから又離れたところに、若い女の死体が一つ、いづれも、ある姿勢のまま硬直してゐた。次兄は文彦の爪を剥ぎ、バンドを形見にとり、名札をつけて、そこを立去つた。涙も乾きはてた遭遇であつた>「夏の花」

 1951年3月13日午後11時30分ころ、東京の西荻窪を発車した電車が一人の男を巻き込み50メートルほど引きずって止まった。その男の身元はやがて原民喜だと分かった。こうして彼は自らを「原子爆弾の一撃からこの地上に新しく墜落してきた人間」と規定し、「夏の花」「廃墟から」「破滅の序曲」三部作をはじめ、「原爆以後」「美しき死の岸に」などの小説や詩などを残して、46歳の若さでこの世を去った。

 下宿には「心願の国」の原稿と、17通の遺書があった。その中の1通は、一人の少女にあてたものだった。
「とうとう僕は雲雀になって消えて行きます」
「私は歩み去らう 今こそ消え去って行きたいのだ 透明のなかに 永遠のなかに」
 自殺の原因は核兵器が支配する世界への深い絶望からだと言われている。彼は今、広島市中区東白島町・円光寺に静かに眠っている。

   原爆小景〜コレガ人間ナノデス

  コレガ人間ナノデス
  原子爆彈ニ依ル變化ヲゴラン下サイ
  肉體ガ恐ロシク膨張シ
  男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル
  オオ ソノ眞黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ
  爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ來ル聲ハ
  「助ケテ下サイ」
  ト カ細イ 靜カナ言葉
  コレガ コレガ人間ナノデス
  人間ノ顔ナノデス

 悪夢のような戦争は終わった。この戦争を終わらせたのがこれまた悪夢のような「原子爆弾」である。この数日間、原民喜の作品を読み返しながら、「もうこんな愚かしい、悲惨なことはやめにしたい」とつくづく思った。そのためにも、原民喜の体験した地獄から、目を背けてはならないと思う。人類に対する絶望を、希望へと変えていく努力を続けたいものだ。

(参考) 「原民喜プロジェクト」(青空文庫)
  http://www.sumomo.sakura.ne.jp/~aozora/tamiki/tamiki_index.html

<今日の一句> 夏の花 今年も咲けり 原爆忌   裕


2002年08月12日(月) 結婚まで

12.木洩れ日の中で
 ビールを飲み過ぎたせいで、頭がいたかった。市ノ瀬さんたち3人と別れた後、私は大学前から「金山橋」行きのバスに乗ったのだが、そのまままっすぐ西春のアパートに帰る気がしなくて、バスの車窓から、ぼんやり外を眺めていた。

 途中に「石川橋」のバス停がある。アパートに引っ越しをする前まで、そこから歩いて数分のところに下宿をしていた。引っ越しをしてまだ1ヶ月もたっていなかったが、何となく懐かしくなり、そこでバスを降りた。

 かっての下宿先の前まできたが、中に入るのはやめて、その前に佇んだだけで、山崎川の方へ歩いた。両側の堤が桜並木で、私の散歩道になっていた。晩春の午後の光が葉桜の若葉を輝かせていた。

 堤に沿って歩き、途中の橋を渡った。おきまりの散歩コースだったが、その頃から頭痛が消えて、頭の中まで風が吹いているようだった。その風がいくらかなま暖かかった。

  ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ

 そんな古今集の和歌が心に浮かんできた。すでに桜の花の季節は過ぎていたが、木洩れ日の中を歩いていると、のどかな春の名残が感じられ、また初夏の気配も感じられて、こころが浮き立つようだった。

 途中の電柱に、「結婚相談、受けたまわります」などのビラが貼られていた。3月のある日、私はK子とこの道を歩いていて、その同じビラを見ていた。「結婚」という文字が、そのとき、妙に生々しく私の頭に焼き付いた。

 結婚相談所の宣伝は、K子を見送った石川橋バス停のベンチにも書いてあった。その同じバス停に、S子を送ったことがあった。S子の場合は、下宿でお互いに体を求めあった後だった。その同じベンチに腰を下ろしながらバスを待っていると、頭がすこしぼんやりしてきた。まだ、ビールの酔いが残っているのかも知れなかった。

<今日の一句> たのしみは 家族そろって 冷や奴  裕


2002年08月11日(日) クラゲのまじない

 クラゲに刺された皮膚の炎症がひどいので心配になって「クラゲの毒」についてインターネットで調べてみた。日本の海岸にもっともなじみ深いのは、ミズクラゲやアカクラゲだが、日本海には無色透明の「キタカギノテクラゲ」がいる。

 体が透明で傘の直径が15〜25mmと小型なため目に付きにくい。海藻類の繁茂した磯回りを泳いでいて、特にクラゲらしきものも見当たらないのに、露出した皮膚にピリピリした痛みを感じたときは、このクラゲによる被害が考えられるという。

 私がこれまで受けた被害はほとんどこれらのクラゲのようだ。しかし、二日目になってもまだ私の顔は膨れ上がり、お岩さん状態が続いている。妻は私の顔を見て、赤く膨張した鼻に腫れ上がった唇が三角に突きだした案配が、「カラス天狗」にそっくりだと言う。

  たのしみはクラゲの毒で腫れた顔
  カラス天狗と皆で笑ふとき    

 こんなにひどい目にあったことははじめてだ。顔面ということもあるが、クラゲの種類も違っていたのかもしれない。そこで、もう少し調べてみた。そうしたら、アンドンクラゲの名前が浮かんだ。これは北海道以南の日本海および青森県以南の太平洋に棲息していて、遊泳力、刺胞毒ともに強いことで知られているという。刺されると激しく痛み、火傷に似た炎症を起こすらしい。まさに私の顔が火膨れのケロイド状態である。どうも、これの可能性がつよい。

 このクラゲは英語圏では「海のスズメバチ」(Sea Wasp)と呼ばれ恐れられているという。この仲間には毒の強いものが多く、国内では沖縄近海に時として死亡原因となるハブクラゲ(Chiropsalmus属)が、オーストラリア北部沿岸には最強の殺人クラゲ;キロネックス(Chironex属)が生息しているという。こんなおそろしいやからに刺されたのだとしたら、たしかにたまらない。

 クラゲに刺された場合は、いきなり拭い取ろうとすると、まだ発射していない刺胞を広範囲に広げてしまうため逆効果となる。タオルや手ぬぐい等(素手は不可)のきれいな部分で患部をつまむ様にして、皮膚に残った触手を取り除くのがコツらしい。

 その前にアルコールやアンモニア水を患部(触手)に振りかけて無害化しておけばより安全だという。そう言えば、私は小学校で蜂やクラゲにさされたら、ションベンを掛けろと教わったような気がする。トイレに駆け込んで、自分の小便を顔になすりつければよかったのかも知れない。

 浜茶屋の人に助けを求めたら、キンカンを貸してくれた。これを顔に塗ったらよけいに痛くなったので、あわてて水で流したが、あとで薬局の人に聞くと、キンカンは顔や局部に使ってはいけないとのこと。やはり、小便を塗るのが一番いいのかもしれないと思ったが、これはちょっと相手が妙齢の薬剤師だったので訊きそびれた。

 ただ面白かったのは、浜茶屋で顔を洗っていると、近所で漁をしているという老人がやってきて、「私なんかどれだけクラゲに刺されたかしれない。私の言うとおりするれば治るので安心しなさい」と言って、私を砂浜に坐らせ、ある治療をしてくれたことだ。

 その治療というのは、砂浜の上に指で○を書いて、その中に漢数字の九をひとつ書くというそれだけのことだった。ちょっと拍子抜けだったが、老人に言わせると、これが一番よくきく治療法で、彼等浜の漁師はこの流儀でなおしてきたそうだ。

 患部が広範囲にわたる場合や頭痛・嘔吐・発熱・呼吸困難などの全身症状がある場合には直ちに医師の処置を受ける必要があるそうだが、私の場合は、発熱や呼吸困難などの全身症状までは至らなかった。これはたしかに老人の「まじない」が利いたのかもしれない。

 インターネットで調べると、「クラゲに刺されたら、基本的にはただ痛みをこらえるしかない。治療法はなにもない」と書いてあった。そうすると案外この老人の治療法は合理的だったとも言える。

 キンカンを塗ったり、湿布をしたりと、余計なことをすれば症状を悪化させるばかりだが、しかし何もしないのでは、パニック状態に陥っている被害者に安心を与えられない。そこで「おまじない」が登場するわけだ。老人の教えてくれた「まじない」と言葉で、私は随分気持がらくになった。

(参考サイト) 「毒をもつ生物」 
         http://www1k.mesh.ne.jp/asamushi/doku2.htm

<今日の一句> ふるさとの クラゲに刺され 天狗顔  裕 


2002年08月10日(土) クラゲにご用心

 昨日は部活は急遽とりやめにして、家族休暇を取り、福井へ墓参りに行った。毎年この時期に家族で帰省していたが、今年は妻と私だけの淋しい墓参りになった。墓参りの後、食事をして、午後は越前海岸で恒例の海水浴をした。

  たのしみはふるさとの海に妻ときて
  水着になって砂に寝ること

「クラゲが心配」という妻に、「大丈夫」と安請け合いをした。そして海に入って、気持ちよくクロールで泳いだまではよかったが、てきめん、私がクラゲに刺された。しかも、刺された場所がいけなかった。顔面である。

 鼻、頬、唇に有刺鉄線にでも触れたような鋭い痛みが走り、あわてて陸に上がった。水で顔を洗い、薬局で買った薬を塗ったが、その後、顔全体がむくみを帯びてきた。一夜明けた現在も、顔の腫れは引いていない。鏡で見ると、目まで腫れ上がって、お岩さんのようなひどい形相をしている。そして、始終、何やらリンパ液のようなものが皮膚からしみ出してきて気持が悪い。

 そんな訳で、昨夜はろくに眠れなかった。そして、今朝はおきがけに、恐ろしい夢を見た。海で泳いでいて、気がつくとクラゲの大群にとりかこまれているではないか。ひえ〜っと悲鳴を上げたところで夢から覚めた。

 おりしも昨日は長崎の原爆記念日だった。被爆した人たちは、どんな苦しい思いを体験したことだろう。放射能の恐ろしさに比べれば、クラゲなどものの数ではない。自分のひどい顔を鏡で見ながら、そんなことを考えた。

<今日の一句> お墓から青い空が見える  裕


2002年08月09日(金) 利益優先主義の虚無

 資本主義は何によって成り立っているのか。利潤追求や経済効率だと答える人がいる。しかし、いくらか経済学を勉強したことがある人なら、そうした浅薄な答えはしないだろう。それでは本当の答えは何か。それは「信用」である。

 貨幣制度そのものが「信用」によって成り立っている。ただの印刷した紙切れが価値を持つのは、それを発行した国家を信用するからだ。もし、国家の信用がなくなれば、それはただの紙切れに戻る。国債もそうだし、企業の株券も同じだ。国家や企業の社会的信用が、資本主義という制度の根底にあり、これを支えている。

 国家、企業、個人にかかわらず、信用を築くのは大変である。しかし。これを失うのはいともたやすい。そうしたことを、私たちは何度も聞かされて育ってきた。勤勉であること、正直であること、親切であること、こうしたことが信用を築く上で大切な徳目になっている。しかし、最近の世相を見ていると、この大切な認識が失われているように思われて仕方がない。

 たとえば国の国産牛肉買い上げ事業にからんで、食肉最大大手の日本ハムが雪印食品と同様な、牛肉偽装工作をしていたことが、内部告発によって明らかになった。日本ハム(本社・大阪市中央区)は買い上げを申請した後、1.3トンの牛肉を農水省に無断で焼却したが、このなかに輸入牛肉が含まれていたという。輸入肉を国産と偽装したうえ、同省の検査で偽装が発覚するのを恐れ、証拠隠滅を図った疑いまでかけられている。

 日本ハムの大社啓二社長によると、問題の肉は子会社の日本フード関西(現日本フード関西カンパニー)の姫路事業所が日本ハムを通じて買い上げ申請した11.1トンのうちの0.52トンで、内部告発があり、調査した結果、子会社の偽装が判明したのだという。

 1月に雪印食品が買い上げ対象外の輸入肉を国産と偽装していたことが発覚したあと、農水省は申請されたすべての牛肉について、対象外の肉が混じっていないかどうか箱を開けて調べることにしていた。とうぜんこの肉についても、検査を受けることになっていた。

 ところが、肉を保管する義務がある業界団体の日本ハム・ソーセージ工業協同組合(理事長=大社義規・日本ハム会長)は品質保持期限が切れるなどして補助対象にならないことが自主検査で分かったとして、7月12日、農水省に無断で日本ハムに返還した。23日になって農水省が返還を取り消すよう指導したが、日本ハムはすでに19日に返還された1.3トンを焼却していた。

 どうみてもこれは、発覚を恐れて証拠隠滅を謀ったとしか思えない。日本フード姫路営業部田中俊二・営業部長は「指示したのは昨年10月。在庫が増えたためやってしまった」「偽装は私の指示で独断でやった。上層部からの指示はなかった」と語っているが、状況からして、本社の上層部がこの事実を知らなかったとも思えない。証拠隠滅そのものに、かかわっていた疑いさえ濃厚である。

 大手コンビニエンスストア・チェーンのファミリーマートはさっそく8日、全国約5900店の店舗から、牛肉偽装が問題になっている日本ハムの全商品を撤去した。この動きは今後他の大型店や小売店にも広がるだろう。その損失は巨大なものだろう。雪印に続いて、日本ハムのブランドが大きく傷ついたことも間違いない。食品の安全性に対する消費者の信頼も揺らいでいる。

 それにしても、どうしてこんなお粗末な不祥事が繰り返されるのだろう。アメリカにおける経理不正事件といい、洋の東西を問わず、世界はいま深いところで病んでいるようだ。目先の利益を追うあまり、巨大な損失を抱えることになったのは、利益至上主義という妖怪にあやつられて、「信用」という人生の根本を見失ったせいだろう。

「信用」のかわりに「利潤追求」を根本原理と考える経済人や経済学者がほとんどを占めるに至った現在、こうした不祥事はこれからますます猖獗をきわめることになりそうだ。私たちの世界はいま、利潤追求というニヒリズムの上に、摩天楼のように高くそびえ立っている。それがいかに異様で、醜悪で、虚無的なものか、一刻も早く気付くべきである。

<今日の一句> 小川消え 暗渠の道の 日照りかな  裕 


2002年08月08日(木) 「平和宣言」より

 57回目の「原爆の日」の6日、広島市中区の平和記念公園で同市主催の平和記念式典があり、被爆者や遺族、市民ら約4万5000人が、犠牲者の冥福と恒久平和を祈った。

 小泉首相も参加したが、何と言ってもこの日の主役は秋葉忠利広島市長である。彼はアメリカの姿勢を名指しで批判し、「報復」ではなく、「和解」を訴えた。さらに日本政府に憲法に基づいた行動を要請するなど、今年の「平和宣言」はなかなか手応えを感じた。さっそく、その一部を引用しておこう。

<ケネディ大統領は、地球の未来のためには、全(すべ)ての人がお互いを愛する必要はない、必要なのはお互いの違いに寛容であることだと述べました。その枠組みの中で、人類共通の明るい未来を創(つく)るために、どんなに小さくても良いから協力を始めることが「和解」の意味なのです。

 また「和解」の心は過去を「裁く」ことにはありません。人類の過ちを素直に受け止め、その過ちを繰り返さずに、未来を創(つく)ることにあります。そのためにも、誠実に過去の事実を知り理解することが大切です。だからこそ私たちは、世界の大学で「広島・長崎講座」を開設しようとしているのです。

 広島が目指す「万人のための故郷(ふるさと)」には豊かな記憶の森があり、その森から流れ出る和解と人道の川には理性と良心そして共感の船が行き交い、やがて希望と未来の海に到達します。

 その森と川に触れて貰(もら)うためにも、ブッシュ大統領に広島・長崎を訪れること、人類としての記憶を呼び覚まし、核兵器が人類に何をもたらすのかを自らの目で確認することを強く求めます。

 アメリカ政府は、「パックス・アメリカーナ」を押し付けたり世界の運命を決定する権利を与えられている訳ではありません。「人類を絶滅させる権限をあなたに与えてはいない」と主張する権利を私たち世界の市民が持っているからです。

 日本国憲法第99条は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と規定しています。この規定に従うべき日本国政府の役割は、まず我が国を「他(ほか)の全(すべ)ての国と同じように」戦争のできる、「普通の国」にしないことです。すなわち、核兵器の絶対否定と戦争の放棄です。その上で、政府は広島・長崎の記憶と声そして祈りを世界、特にアメリカ合衆国に伝え、明日の子どもたちのために戦争を未然に防ぐ責任を有します。

 その第一歩は、謙虚に世界の被爆者の声に耳を傾けることから始まります。特に海外に住む被爆者が、安心して平和のメッセージを世界に伝え続けられるよう、全(すべ)ての被爆者援護のための施策をさらに充実すべきです。

 本日、私たち広島市民は改めて57年前を想(おも)い起し、人類共有の記憶を貴び「平和と人道の世紀」を創造するため、あらん限り努力することを誓い、全(すべ)ての原爆犠牲者の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げます>

<今日の一句> 戦争を 語りし父も 墓のなか  裕


2002年08月07日(水) 原爆手記より

 今日も又、「戦争を語り継ごうリンク集」のなかの「原爆」のページから手記の一部を紹介しよう。作者は広島原爆で被爆した今は亡き歌人の満田廣志(当時42歳)。「山河慟哭」には自らの被爆体験と、犠牲になった愛娘への痛恨の思いが和歌と文で綴られている。

<人々は生きながら焼かれて、どんなに水が欲しかっただろうか? 磧(かわら)には焼け焦げた少年少女たちが、折り重なるようにして死んでいた。水を求めて川に下りてゆき、力尽きたのであろうか。

  磧には焼け焦げし子ら重なりて死にゐきいかに水や欲りけむ

 材木町と思われるあたりで、私は学校の名と娘の名を連呼して行ったが、返事は返ってこない。あの娘はもう生きていないのだろう。

 「第二国民学校の者は居らんか?」と、声を限りに叫びながら、屍体の間を縫うようにして行くうちに「第二国民学校いまァす。先生助けて」という声をたしかに聴いた。学校から救いに来たと思ったのだろう。それは幻聴ではなかった。その子は川の畔の石に腰かけていた。私は自分の目を疑った。被爆後六時間も経っているのにこの子はまだ生きていた。

 顔は黒いゴムまりのように腫れ膨れており、ブラウスももんぺも焼けて半裸の姿で、毛髪は焦げて坊主頭に近かった。

 久美子のことを尋ねると「満田さんとは点呼の時まで一緒でしたが、そのあとは分かりません」と答えてくれた。水を乞われたのに死を早めることを恐れて、拒んだ私は、あとで自分の性(さが)を憎んだ。そしてこの瀕死の子に、自分勝手な質問をしたことを恥じた。

 この付近には、同じ学校の生徒と思われる娘たちが、十人くらいまだ生きていた。
 私は久美子の生存を信ずる気持を全くなくしてた。せめて亡骸(なきがら)だけでも見付けたいと思い、沢山の焼け死んだ少女たちの顔を見て廻った。うつ伏せになって死んでいる子はひっくり返して見ていったが、この作業はなかなか辛い仕事であった。

 学校の名を呼びつぐにいらへありかぼそかれどもまだに級友の声
 生きながら哀れ真処女焼かれたり玉の肌はや黒髪もはや
 吾娘が級友十人がほどは行きゐしが空しかりけりその翌日は
 現世に地獄の相(すがた)今ぞ見ぬ無惨と言ふも愚かなるかな
 原子野にわれ呼びつかれ泣きつかれ子をし恋ふれど吾子はあらなく
 探しぬれど吾子のあらねばほとほとに神も仏もなしと思ひぬ
 鬼さへや哭かむ地獄の原子野を神仏たち如何思召すらむ
 いとけなきあまた人の子失ひしかかる無惨は何の業ぞも
 
 久美子が生きていないということはもう確定的である。どの顔もゴム風船のように一様にはれ膨れていて、人相の特徴など識別はほとんど不可能に近い。私は久美子の遺体を発見する努力も、所詮は空しいと思って一つの決心をした。
 それはさっき、僅かではあるが語り合った彼女を、久美子の代りと思い助けようとのもくろみであった。そうすることが久美子の供養にもなると思った。

 私が彼女のそばに行ったら、まだ生きていてくれた。救急袋から背負帯をとり出して、彼女をおんぶしようとしたら、指の先まで垂れ下がっている皮肉も千切れそうだし、からだ中がずるむけてしまいそうで戸惑った。それに考えてみると、あの線路が中に浮いている鉄橋を、どうして渡るかも問題であった。

 この娘は可哀想であるが、他にも十人近くの生徒が生きている。これはどうしても可也の数の人手が要る作業だと判断した。日の暮れないうちに、一刻も早く学校に報告することが肝心だと考え直した。

 この日は終日、広島の空は煙や埃に覆われて、漸く西に傾いた太陽は、濁った空気のスクリーンを通して、気味の悪いくらい嫌な血の色だった>

<今日の一句> いとけなき 被爆少女よ 骨もなく  裕


2002年08月06日(火) 非核三原則の法制化を

 57年前の1945年8月6日に、広島に原爆が落とされた。3日後の9日には惨禍が再び長崎を襲った。その生々しい体験記を、「戦争を語り継ごうリンク集」のなかの「原爆」のページから読むことができる。たとえば、これは広島の原爆で姉を失った男性(井守能成、当時15歳)の体験記の一部である。

<淑子姉さんは「夜勤明けの帰途、紙屋町あたりの電車の中で被爆した。火の無い所を求めて逃げて歩いた。苦しかったので持ち物は全部捨てた。ごめんなさい」などと母に話していた。15分か20分たった頃、「水が欲しい」というので、タオルを水に濡らしてあげると、美味しそうに「チューチュー」と吸った後、喋らなくなった。

 間もなく我が家に着くという頃、母が「もうすぐ家に着くよ」と話し掛けたが、もう応答がなかった。我が家の隣は段原中学で、その体育館が臨時野戦病院になっていた。そこへ運び込んで、軍医さんが注射をうってくれたが、喉をピクピクと2度ほど動かしたきりで、あの世に旅立った。思えば、濡れたタオルを「チューチュー」と吸ったのが「末期の水」であったようだ>

 原爆の惨禍を身をもって体験した我が国は、その教訓から、核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」の「非核三原則」を国是としてきた。ところが、福田長官は、「憲法改正を言う時代だから、非核三原則だって、国際緊張が高まれば、国民が(核を)持つべきではないか、となるかもしれない」と記者団に語っている。

 小泉首相は国会答弁で、「わが内閣は非核三原則を堅持する」と表明したものの、将来の内閣については「堅持してもらいたい」という希望にとどめた。「将来にわたって堅持すべきである」としてきた歴代の内閣とはあきらかに対応が違ってきている。小泉首相は昨年の原爆忌に、被爆者の声を聞く機会を持ったが、今年は公務多忙を理由に見送るという。

 こうした政府の動向は気がかりである。被爆体験が風化する中で、「非核三原則」もなし崩しに反故にされるのではないだろうか。危機感を持った広島市長は非核三原則の法制化を小泉首相に求め、長崎市議会も法制化を求める決議をした。この運動を全国に波及させ、国会での法制化を実現したいものだ。手遅れにならないうちに。

<今日の一句> 原爆忌 炎暑のなかに 夾竹桃  裕


2002年08月05日(月) 結婚まで

11.猪勝庵で
 大学から歩いて20分のところに、「猪勝庵」(いかつあん)という馴染みの大衆食堂があった。私たちはそこの座敷に腰を落ち着けた。いつも食べていた好物の「豚鍋」を注文し、ビールを飲みながら、よもやま話に花が咲いた。すこし顔を染めた市ノ瀬さんが、

「この連休に、どこか遊びにいかないか。橋本君、どこか面白そうなところはないかい」
「山登りはどうだい。若狭の方に、青葉山というきれいな山があるんだ」
「高さはどのくらいあるの」
「700メートルくらいだよ。その頂上に立つと、若狭の海が一望できるよ。一度登ってみたいと思っていたんだ。朝早く出かければ、日帰りで行ける。今は若葉がきれいだろうな」

 私は小学生時代に住んでいた若狭を、この連休中に訪れたいと思っていた。青葉山は若狭富士という異名をもつ富士山のようなきれいな山で、私はその山の麓の村で2年ほど暮らしたことがあった。私はそんな話を、S子やK子にもしたことがあった。K子をこの連休中に誘おうかと思っていたが、S子のことがあって、K子に対する気持が少し引けていた。

「そのくらいに山なら、登ってもいいな」
「運動不足の解消になるかもしれない」
 市ノ瀬さんと渋谷さんは乗り気だった。Mさんは「いきたいな」と言ったきり、ただ笑って、私たちの話を聞いていた。やはり執筆中の博士論文が頭から離れないのだろう。

 私も連休中はテニス部の公式試合があり、付き添いで、少なくとも二日は休日が潰れそうだった。雨が降ったり、勝ち進んだりすると、ときには連休がさらに潰れることも起こってくる。遊びに行こうにも、スケジュールが立たないのがつらいところだった。私が職員手帖を取り出して、首を捻っていると、

「その時はいっそ、橋本君のテニス部の応援に行くことにするか。テニスウエアの似合う可愛い女高生もたくさんいるんだろう」
 渋谷さんが、浮き浮きした調子で話を向けてきた。
「それはいるよ。もう、ほれぼれするくらい、美人で肌のきれいな子がいてね、渋谷さんなら、すぐに鼻血を出すだろうな」

 私の脳裏に、一人の少女のやさしい微笑が浮かんだ。テニス部の副部長をしている3年生の早百合という生徒だった。そう言えば歌手の「石川さゆり」に似て、声もきれいな少女だった。私はその少女にテニスを習っていた。私のテニスの腕は、彼女の指導で、いくらか上達していた。

 三人はその少女のことを、もっと聞きたがった。ビールが入っていた私は、いくらか口が軽くなり、
「彼女がコートに立つと、何だかあたりが明るくなるんだ。はっと花が咲いたようにね。白いスコートから伸びた脚がきれいでね、もうほれぼれするよ」

 私は気持が高揚して、うわずっていた。もう、このくらいで止めなければと思いながら、いつになく多弁で、声の調子も高くなっていた。ビールを飲み過ぎたのがいけなかったようだ。

<今日の一句>  ルーズ脱ぐ 白い素足の 涼しさよ  裕


2002年08月04日(日) 花にあらずといふ事なし

 芭蕉(1644年〜1694年)と言えば、たとえば「古池や・・・」の句が思い浮かぶが、芭蕉といえども最初からこんな名句を詠んでいたわけではない。芭蕉が若い頃は、京都の松永貞徳が、全国の俳諧の中心人物として、平易通俗を主題とした俳諧の普及につとめていた。芭蕉は彼のグループ「貞門」の一人だった。

 やがて、大阪で西山宗因が、思い切った卑俗性、滑稽味を売り物にした「談林」風を開いた。貞門俳諧の平易通俗に飽きたらない人々は、この新奇な談林俳諧を受け入れ、たちまち全国に流行した。

 江戸に出て、俳諧師になることを目差していた芭蕉も、たちまちこの風に染まって、たとえばこんな句を詠んでいる。

  女夫(めおと)鹿や毛に毛が揃うて毛むつかし

 滑稽な言葉遊びだけの、どちらかというと野卑な句である。こういうつまらない俳諧はやがて飽きられる。実際談林風は10年もしないうちに下火になってしまった。そして俳諧そのものの人気が急速に凋落しようとしていた。

 芭蕉が俳諧に新風を開いたのは、そんなときである。それは談林の俳諧とはまるで違ったいた。日常のなんでもない出来事を平易な言葉で詠みながら、そのなかにそこはかとない人生の哀歓をとらえていた。

  山路来て何やらゆかしすみれ草
  閑さや岩にしみ入る蝉の声
  秋深き隣は何をする人ぞ
 
 芭蕉はなんでもない庶民の日常生活の中に風雅の道を見いだした。そして卑近で身近な言葉を用いながらも、その精神性において、伝統的な和歌に匹敵する香り高い詩境を、俳諧にもたらすことに成功した。

 ことさら奇をてらうわけでもなく、滑稽な言葉遊びや、ひねくれた約束事に興じるという見せかけの高踏さもない。低俗に流されていた俳諧を高度の芸術にまで高め、日常生活の中の詩情を具体的詠む彼の作風は、庶民の共感を呼び、またたくうちに全国に浸透した。

 蕉風の人気はその後400年以上衰えることなく、現代の日本人にも受け継がれている。それは彼の創造した世界が、変わることのない人間の心の真実にふれていて、普遍性をもったほんものの芸術だったからだろう。

「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫通する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ処月にあらずといふ事なし」(笈の小文)

 芭蕉にとっての人生の理想は、生活を芸術と一体化させることだった。芭蕉にとって俳諧はこの理想を現実化するてだてだった。人生の芸術化、芭蕉はその理想をあの貧しい時代に敢行した。私たちははるかに豊かな物質文明のなかに生きている。それでいて、私たちの人生がより深く精神的で、より豊かに芸術的かといえば、疑いなしとはしない。

<今日の一句> 晴着きて 笑ふがごとし 芙蓉咲く  裕


2002年08月03日(土) 人の知的好奇心を奪う方法

 幼い頃は、だれしも好奇心のかたまりである。母親や父親を質問責めにした記憶がだれしもあるのではないだろうか。しかし、歳をとるにつれて、好奇心が薄れてくる。最近では、小学生でもまるで好奇心を持たない、若年寄のようなのがふえた。

 学問とは「問う」ことから始まる。「問い」があって、「答え」がある。そしてこの両者の間にはかなり長い試行錯誤や、悪戦苦闘がある。そして、実はこの悪戦苦闘や、試行錯誤が学問の醍醐味である。

 思うに、最近の学問は、この醍醐味を忘れたのではないだろうか。少なくとも「勉強」と称するものにこの楽しみがあるようには見受けられない。そこにあるのは、ただ与えられた「問い」に対する「答え」をただ、ひたすら受容し、暗記する努力があるだけである。

 人から知的好奇心を奪うもっとも効果的な方法は、人が「問う」のを待たずに、「問い」を与え、人が試行錯誤するのを待たずに「答え」を与えることである。たしかにこれは物事を修得するには効果的な方法かもしれないが、その禍根ははかりしれない。なぜなら、彼は自ら時間をかけて「答え」を発見するという、人生至上の楽しみを奪われ、やがては知的好奇心を喪失するからだ。

 たとえ能率が悪くても、自分で考え、自分で試行錯誤して発見したことは確実に身に着く。そしてそれはその人に自信を与え、さらなる「問い」へと彼を歩み出させる。そうした一歩一歩の歩みの中から、本当に個性的なものがおもむろに熟成され、その人らしい味のある自立した世界が創られていくのである。

 今の教育にはこうした余裕がなく、ただ「答え」のみをヒステリックに与え続け続けることで、人から自己教育の機会と自立する能力を奪っている。それはやがて、学習意欲の喪失を引き起こさずにはいられない。教師や親はすべからく「教えすぎ」に注意すべきだろう。

<今日の一句> たのしみは 庭のカエルと 水遊び  裕


2002年08月02日(金) 人を勉強嫌いにする方法

 人を勉強嫌いにする一番効果的な方法は、顔を見たら「勉強しなさい」と言い続けることである。そうすれば、まずまちがいなく、そう言われた人は勉強嫌いになる。

 人間とは天の邪鬼なもので、人に言われたことの反対をやりたがる。右へ行けと言われたら、左へ行きたくなるし、下を見ろと命令されたら、上をみたくなる。そして、独立心や自尊心が強い人間ほど、この傾向が顕著になってくる。強制されることを嫌うからだ。

 いいなりになるのは、その人間に独立心が足りないか、仕返しが怖いからだろう。「勉強しないと損だよ。たいへんなことになるよ」と脅され続けて、逆らうことができないとあきらめてしまう。世の中の優等生の多くは、こうしたあきらめの早かった人間だ。そして、脅迫観念から、必死で机に向かう。

 しかし、優等生もその必要がなくなったら、勉強しなくなる。世の中に出てからも勉強を続ける人もいるかもしれないが、「勉強しないと、詰まらない人生しか遅れないよ」という教師や親の声が潜在意識にしみついて、その呪縛から逃れられないか、優越感を持続したいだけという場合が多い。

 さいわい、私は親から「勉強しなさい」と言われたたことがない。強制されていたら、私のような天の邪鬼は勉強しなかっただろうし、勉強大嫌いになっていただろう。ちなみに私が父から強制された山仕事は、今も蕁麻疹が出そうで、やる気がしない。

 私はこのことを心得ているので、娘たちに「勉強しなさい」と言ったことはない。私が言うのは、ただひとつ、「我家にあるのはローンだけで、親はあてにできないよ」ということだけだ。親があてにならないとすると、自立して、自分で世の中を生きて行くしかない。そのために何が必要か、それは娘達が自分で考えることだと思っている。

<今日の一句> 夕暮れに 蜻蛉さがして 青田ゆく  裕  


2002年08月01日(木) スピーチ事始め

 日本人は人前で自分の意見をの述べるのが苦手だ。かく言う私が、まず、その代表だが、とくに多くの相手になにか述べよと言われると、後込みしてしまう。何を述べればいいのか、どう述べたらいいのか、まるで見当がつかない。実際に、述べようとすると、緊張して冷や汗が流れ、言葉がつかえてしまう。

 こうしたことは、日本人以外の場合、あまりおこらないのではないか。アメリカ人など、結構楽しんで、言いたいことを臆せず述べる。ユーモアを交えたりして、聞き手も楽しませてくれる。本人がいやいやするのと、楽しみながらするのとでは、聞き手の満足度もまるでちがうだろう。

 こうしたことは、国民性の違いで説明されることが多いが、私は教育のありかたの違いも大きいと思う。日本人の場合、あまりスピーチの訓練を受けていない。これに対して、アメリカ人の場合は幼い頃から、学校で、家庭で、折に触れてそうした機会を与えられ、そのノウハウも身についている。

 そもそも教育を受けた人間とは、自分の意見をもち、それを人前で述べることができる人間だというのが、アメリカをはじめとする西欧流の考え方だ。また、西欧のような個人主義の社会で生きていくために、こうした自己主張できる能力はもっとも基本的な社会的能力だということになる。

 また、教育理論の観点からも、スピーチ力はもっとも高度で総合的な言語表現力である。その裾野には知識力、情報収集力、情報活用力、構想的な思考力、対人対応力など、さまざなま知的感性的能力がひろがり、これらを組織的に展開する強靱でしなやかな思考力が必要である。

 しかし、教育の目標がスピーチ力にあるというコンセンサスが、日本にはない。日本の学校では、教師が教壇に立ち、一方的に講義をしている。生徒はそれを聞き、ノートに写し、そして覚えるだけである。ときに質問を受けるが、それはどれだけ知識が身についているか、チェックされるためである。小テストや定期テストも同じで、ただ知識の定着度をみるだけである。これでは生徒が自分の考えを持ち、発表する技術など身につくはずがない。

 この点、福沢諭吉が偉かったのは、これからの教育とはスピーチ力をつけることだと、はっきり理解していたところだ。スピーチの大切さを「学問のすすめ」の中で、はっきり述べている。スピーチに「演説」という訳語を考えたのも彼である。

 彼はこうした自分の考え方を広めるべく啓蒙活動を始めたが、当時の日本語の事情もあって、西周、加藤弘之、森有礼など、西洋に留学体験を持つ先進的知識人たちはむしろ冷淡だった。彼等の考えは日本語は談話には適しているが、西洋的なスピーチには適さないというものである。だから、教育も西洋語で行うのが一番だと言うことになる。

 そこで、福沢は一計を案じて、彼等先進知識人10人ほどを木挽町の「西洋軒」に招待して、「今日は諸君におりいってお話申すことがあるから聞いてくれぬか」と、おもむろにテーブルの端に立った。そして「台湾征伐」について1時間ほどしゃべったあと、一息ついて、「さて、ただ今のぼくの話はよく聞き取ってもらえただろうか」と尋ねた。

 皆そろって首を縦に振ったのを見た福沢は、「ソリャ見たことか、日本語で演説がかなわぬとは無稽の盲信に非ざれば臆病者の遁辞なり」と、歌舞伎の一場のように見得を切ったという。つまり、日本語で立派に演説が出来ることを、彼自身が実証して見せたわけだ。さしずめ、これが日本語におけるスピーチの事始めということだろうか。

<今日の一句> 炎天下 木陰に憩ふ 人と犬  裕


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