橋本裕の日記
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2002年09月30日(月) 結婚まで

19.有能な実習助手
 正直に告白すると、教師になってこの20数年間、自分の思ったような授業ができたことが滅多にない。しかし、例外を言えば、それはこの僻地の学校でのかけだしの2年間だろう。私は自分が理科の教師であることを大いに楽しむことができた。

 それはひとつには生徒がよかったからだ。というより、生徒や教師の置かれていた環境がよかったからだろう。進学する生徒はほとんどいなかったので、私は受験を気にしないで、自分の好きに授業をすることができた。小さな学校で、物理の教師は私しかいなかったので、何ら掣肘を受けなかった。

 しかし、新米の私がまがりなりにもそれらしい理科の授業ができたのは、助手の岩野さんの助力があったからだ。岩野さんは様々な実験装置を作ることにかけてプロ級の腕を持っていて、実に献身的に私の授業を助けてくれた。

 たとえば、波の回折と干渉について教えるとき、私は岩野さんから「これを使って下さい」と、底の広いプラスチックでできた四角い容器を渡された。その透明な容器に水を入れ、OHPの台の上に置くと、スクリーンに水の波紋が映し出される。黒板に絵を描くより、はるかに波の様子がダイナミックに観察された。

 そこにモーターに連動した震動球をセットすると、水面にきれいな同心円の波紋が広がるのが見えた。その先に障害物やスリットをおけば、波が回折するのが見える。同様に2個の球を同時に震動させることで、干渉現象もきれにに観察された。しかも振動数やスリットの幅を調節することで、その定量的な関係まで推測できる。

 こういう装置を使えば、波の現象が手に取るようにわかる。しかし、そうした装置を作るのは容易ではない。よほどの技量と時間がなければ無理だろう。しかし、そうした手作りの装置のおかげで、授業はずいぶん変化のある刺激的なものになった。私自身授業をしながら、そうした創意と工夫が出来るのが楽しくてならなかった。理科の授業はこうでなければならないと思った。

 理科の授業の他に、私は週2時間の選択物理の授業を持っていたが、私はこの授業でさらに自分の理想型を求めた。つまり、教科書は使わず、生徒達に自分たちでグループを作り、テーマを決めて、それに相応しい実験をさせ、レポートを書かせ、最後にはOHPを使って自分たちの研究結果を発表させた。

  これは少し大げさに言えば、私がアメリカの教育学から学んだ教育理念だった。デユーイの本には、教育とは本来自分で考え、そして考えたことを意見として発表する力を養うものだと書いてあった。こういう西欧的な基準から、私自身が受けた日本の教育を見てみると、随分時代遅れのように思えた。ただ知識を丸暗記するだけではコンピューターの記憶装置とかわらない。いや、その性能においてはるかに劣ると言わなければならない。

 物理という教科を通して教えるべきことは、論証と実証にもとずく真理探求の方法であり、それは具体的には、自分で実験し、推論し、その過程を論理的に言語によって表現することである。こうした実践的な能力をやしなうことこそが科学教育の目標ではないか。いかに多くの知識をため込むかではなく、その知識を活用して、いかに自分の意見を組み立て、客観的に表現することができるかで学力は評価されるべきではないか。

 こうした考えに基づいて、私は3年生の選択授業では筆記試験は行わず、評定はレポートとプレゼンテーションでつけることにした。生徒は私の意を汲んで、熱心に実験に取り組み、私自身が驚くような内容のレポートを書いてきた。そしてOHPを使って、楽しそうに発表した。まさにこれこそが私の理想とする授業実践だった。しかし、こんな型破りな授業が、最初の年からほぼ満足できる形でできたのは、岩野さんという有能な実習助手がいたからこそだった。

<今日の一句> 秋草に 耳を澄ませば 風の音  裕


2002年09月29日(日) 不幸な人間の嫉妬心

「文化大革命」で粛正された劉少奇は毛沢東をどう思っていたのだろう。おそらく、その死の間際まで、毛沢東を信頼していたのではないだろうか。そして自分をこの苦境から救ってくれる唯一の救世主として、毛沢東に一縷の望みを託していたのではないか。毛沢東がこの陰謀の張本人だとは思いもしなかっただろう。

 李志綏は「毛沢東の私生活」のなかで、1956年7月下旬、主席とともに河北省にある北戴河に保養に行ったときのエピソードを印象深く書いている。

<劉少奇は背が高くて華奢、白髪、こころもち猫背だったけれど、毛沢東が浜辺にいるとよくたずねてくる唯一の党最高幹部だった。たいてい午後三時か四時頃姿をあらわす。控えめで威厳があるうえすこぶる慎重な劉少奇は当時、毛主席の後継者に指名されていた。党内の序列は毛沢東についで第2位、内政問題の日常業務に責任があった。・・・

 劉少奇のいちばん新しい妻、王光美はたいてい夫に同行して北戴河にやってきた。党最高幹部の通例にもれず、妻たちは多くが夫よりもはるかに年若かった。王光美は当時、およそ30歳くらい(夫は58歳)、ふさふさとした黒髪に卵形の顔だち、いささかそっ歯の感があった。美人ではなかったが、魅力にあふれて人ずきあいもよく、次期主席夫人としての脚光を楽しんでいた。

 王光美は毛沢東の姿を見かけるとかならず主席にあたたかい言葉をかけ、ときには主席と一緒に筏まで泳いでいった。江青は劉夫人への不快感をあえて隠そうともしなかったが、これはあきらかに江青の嫉妬心だと思われた。

 王光美は江青よりかなり年下で、はりかに態度がくつろいでおり、社交性もゆたかだった。江青は浜辺でいつも落ち着きがないように見えた。決して泳ぎを習おうとしなかったし、右足指が6本あるのを気にやんでいた。浅瀬を歩きまわる際には両足にかならずゴム靴をはいていた。

 劉少奇はなんどかの結婚で子だくさん、その夏は何人かの子供を北戴河につれてきた。前妻・王前とのあいだにもうけた16歳か17歳の娘・劉濤もなかなかに活発で社交的、毛主席にも親しげに近づいた。娘もときたま主席とならんで筏まで泳いでいったり、週二回のダンス・パーティでは主席にしきりに相手をせがんだ。主席のほうも多くの若い娘なみにつけいるような真似は決してしなかった。にもかかわらず、江青は若い娘のあけっぴろげで馴れ馴れしいたちに腹を立てた。

 もっとも、江青はしょっちゅう怒りっぽかったし、そのつど私は彼女の立腹ぶりに自分を馴らそうとつとめたのであった。この牧歌的な魅力ある北戴河の地で、私は夢にも考えたことがなかった。十年後に江青のいじましい嫉妬心や不安感が彼女をかりたてて劉少奇一家をことごとく抹殺しようとする邪悪さと復讐心に導いていくことになるとは>

 毛沢東と劉少奇はその家庭的幸福という点で好対照をなしていた。陰惨な陰謀家で、不平不満の固まりのような江青、そして若い女にうつつを抜かし、家族を顧みない毛、これに対して劉少奇は快活でユーモアのある妻や娘に恵まれ、彼自身温厚で高潔な人柄だった。この高潔な人柄と家庭的幸福が、毛沢東と江青にどう映っていたか。おそるべきは人間の嫉妬心である。不幸な人間が権力者であるとき、人々がその災いから逃れることは難しい。

<今日の一句>  空の色 いよいよ深し 彼岸花  裕


2002年09月28日(土) 毛沢東の復讐

 フルシチョフのスターリン批判は中国共産党をもゆさぶった。その直後、1956年9月に召集された第8会党大会で、集団主義指導体制、個人崇拝の禁止などが確認され、中国はようやく近代国家としての歩みを始めるかに見えた。

 そして、この新しい中国を主導する星は、この大会で国家主席に選ばれた劉少奇と、党総書記に選ばれた��小平であった。この二人を両輪として、中国は近代化の道を歩もうとしていた。しかし、これをよく思っていなかったのが毛沢東だった。

<フルシチョフ演説にならった集団指導体制の賛美は、とりわけおだやかならざるものがあった。もし党が集団指導体制の原則に固執すれば、全党員は対等の関係になり、重要問題はすべて合議制で決定しなければならなくなる。そうなると、いきおい毛沢東の役割は縮小されていく。が、当の毛はあくまで最高指導者としてのポストにとどまりたかった。そのためには個人崇拝がどうしても不可欠だった>(李志綏「毛沢東の私生活」より。以下同じ)

 この決定に侮辱を感じた毛沢東は、これに反撃すべく行動を開始する。その手始めに考えたのが、「百花斉放・百家争鳴」運動だった。これは知識人を使って党を自由に批判させ、劉少奇と��小平が指導する党を解体しようという作戦である。

 多くの知識人はおそらく自分の意を汲んで、党の指導部を攻撃するにちがいないと毛沢東は読んでいた。ところが結果は思わぬことになった。知識人の攻撃は党の指導部だけではなく、党そのものの存在に向けられ、ついには毛沢東そのものに向けられ始めた。共産党は僧院のようなもので、毛沢東はその僧院長だというのである。知識人を使って政敵を打倒する作戦は完全に裏目に出た。

<毛沢東はむろん衝撃を受けた。批判が自分に向けられるようにした覚えが全然なかったからであった。また機関として党が攻撃されるようにし向けたつもりは毛頭なかった。会う人ごとからお追従をいわれるのになれていたし、真の敵は抹殺されるか投獄してあると確信していただけに、毛は知識人がいだく不満の深さに気付いていなかったのである>

<毛沢東は大変な計算違いをしたのだった。ベッドに伏せたきりふさぎこみ、どうやら行動の自由を失っているうえ風邪もひいていたし、外部の攻撃が激化しつつある最中に私が呼び戻されたのだ。毛沢東は戦略を練り直し、復讐の手だてを思いめぐらしつつあった。毛は憤懣やるかたなかった>

 1957年6月8日、人民日報は「これはどうしたことか」という毛沢東の文章を社説に掲げた。知識人に期待することが出来ないと気付いた毛沢東は、自分の作戦を遂行することができるのは、大衆のみだと気付いた。この社説で、ひとにぎりの分子が社会主義政権の転覆を計ろうとしていると非難した。そして、彼等に対する反撃を開始するようにと人民大衆に訴えた。

 知識人を使った作戦が失敗に終わったことを知った毛沢東が次に考えたことは、一般大衆を使うことであった。彼等の間に毛沢東にたいする個人崇拝を根付かせ、熱狂を呼び覚ますこと。この作戦はまんまと成功した。それが「文化大革命」だった。

<全土は毛沢東のバッジをつけて「毛沢東語録」をたずさえ、小冊子にある言葉を暗唱した。商店での単純極まりない買い物をするときでさえ毛沢東語録の暗唱を要した。毛の肖像画はいたるところにあった。全土の何千万という人々が肖像画の前で礼拝し、日々の支持を仰ぐことで一日をはじめた。・・・・

 毛沢東の「大躍進」政策は人類史上でも最悪の飢餓をもたらした。今日ではその期間中にすくなくとも2千5百万か3千万人、もしくは4千3百万人が死亡したといわれている。さらに毛沢東の「文化大革命」は中国を大混乱におとしいれ、生命も家族も友情も、そして中国社会の骨組みまでも破壊してしまったのである。

 国家主席の劉少奇は、毛沢東が第8回党大会の誤りとみなす責任をそっくりおしつけられ、1968年10月に追放されたばかりか、党を除名されwたうえ虐待の限りをつくされた。翌年4月の時点で、劉少奇の消息は一切わからなくなっていたし、知ろうにもこわくてだれにも聞けなかった。第9回党大会が終わってからずっとあとに彼が同年の10月、開封に送られて重病になり、治療も受けないまま11月に亡くなったと知った。

<��小平もまた追放されたのであった。党の中枢機関である政治局は壊滅状態にあった。各省の党の指導者の大半が職を失っていた。各省の行政はいまや人民解放軍が支配する「革命委員会」の手中にあった。第8回党大会で選出された中央委員は大多数が追放されていた。第9回党大会は毛沢東にとって、13年にわたる取り組みの総仕上げであった>

 こうして毛沢東は勝利した。もはや彼の前にたちふさがる目障りな人間はだれもいなかった。彼は彼を権力から遠ざけようとした大量の有能な人物をこうして完全に粛正したのである。後に残ったのは、身内の江青であり、彼の従順な召使いでしかない周恩来その人だった。

<人民大会堂の118号室で毛沢東に自分の考えを説明しようとしながら、周恩来は地図を取り出して床にひろげ、絨毯の上に膝をついて毛沢東に自動車行列の進むべき方向をしめした。毛沢東は突っ立って煙草をくゆらせながら、首相が床をはいまわるのを眺めやった。

 かりそめにも周恩来ほどの人物、中国の宰相がそんあふうにふるまうのを前にして私は目のやりばに困った。毛沢東は周恩来が面前で這い回る姿を見て、こばかにしたような優越感を覚えているようだった。・・・

 毛沢東は周恩来に絶対的な忠誠を求め、もしそれが得られなかったとすれば、周は間違いなく失脚させられていただろう。ところが、周恩来があまりに猛獣的かつ忠実そのものであったため、毛沢東は首相を軽くみるところがあったようだ。

 周恩来は江青の前でも卑屈なくらいだった。・・・林彪と江青の権力闘争が表面化したとき、周恩来は江青とその一党と運命をともにしたのだった。江青が彼に向けたあらゆる攻撃にもかかわらずである。

 周恩来はぬけめのない政治家であり、毛沢東が江青を批判して不仲がすすんでいながらも、彼女はやはり毛沢東にとってもっとも気心の知れた配下だ、ということをほかのだれもまして見抜いていたのである。毛沢東に真の忠誠をつくそうとすれば、江青の側につくことも必要なのであった>

 こうして江青の野心と周恩来の服従を利用し、大衆の心を操作することで、毛沢東の野望は成し遂げられた。彼の絶対権力者としての地位は揺るぎないものとなり、個人崇拝はついに完成したのである。しかし、李志綏が書くように、それは何千万という人々を死の淵においやり、人々の友情と家族を崩壊させ、中国社会の骨組みまでも破壊することとひきかえであった。

<今日の一句> オカリナも いつしか秋の 音色かな  裕


2002年09月27日(金) 哀れな劉少奇

 毛沢東が江青と住んでいたのは、中南海といわれる地域である。そこは中海、南海というふたつの湖がある風光明媚な地で、紫禁城を取り巻いた同じ朱色の城壁に取り巻かれていて、非公開の機密の場所である。毛沢東の主治医で中南海診療所の所長だった李志綏(リ・チスイ)もこの地に住居をあてがわれていた。

 中南海には周恩来、朱徳、劉少奇、周恩来、彭徳懐、��小平などの要人達も住んでいた。周恩来が首相を務める内閣(国務院)もここにあった。外部からこの地域に入るには厳重に警備されたゲートを通らなければならない。また、域内の通行も制限され、許可証がなければならなかった。党中央警衛団の警備兵が各ゲートの検問当たり、治安に目を光らせていた。こうした中で、李志綏は毛沢東だけでなく、他の要人達や、その家族の健康についても責任のある立場にいた。

 林彪と江青が造反派を率いていた文化大革命の最中、中国は大混乱に陥った。党も政府機関も麻痺状態に陥った。中南海の秩序も万全ではなくなった。こうしたごたごたのなかで、毛沢東は中南海を留守にし、地方へ行く機会も多くなった。中南海の警備の責任者である警衛団長の汪東興も毛に随行して、中南海を離れることが多かった。そうすると中南海で江青一派の横暴を止めることが出来る者はだれもいなくなった。

 1967年7月13日、毛沢東は武漢へ旅だった。主治医の李志綏はこの旅の随行から何故か外された。こんなことははじめてだった。たぶんそれは江青が毛沢東にすすめたからに違いなかった。

 以前から李志綏は江青とそりが合わず、彼女に疎まれていた。警備隊長の汪東興は主席が首都をあければ、江青が指揮権を握り、李志綏はその一派によって拉致されるかもしれないと心配して、「ごたごたに巻き込まれたら、すぐ武漢のわれわれのところに飛んでこい」と忠告した。以下、どのようなことが起こったか、李志綏の文章を引用しよう。

<私は中南海にとどまったが、おかげで汪東興の案ずる最悪事態を目撃する羽目になってしまった。・・・数百人の学生デモ隊が主席が出発したあと西門の外に集まりだし、府右街を中南海の西方まで埋め尽くして、劉少奇打倒のスローガンを口々に叫ぶ。朱色の城壁には大文字の壁新聞がはられ、主席がかって後継者として宣言した人物を攻撃する。・・・

 人民共和国の歴史上、中南海が包囲されたことはなかった。汪東興の中央警護団が党幹部の居住区を警備する任にあたっており、デモ隊がふえつづけるのをしり目に警備兵は無表情で立哨する。汪東興がどんな思惑をいだいていようと、この時点ではさしたる重みはなかった。第一、汪は主席と武漢におもむいていたからである。

 7月18日、状況は険悪になった。執務室で新聞を読んでいたら警護官がとびこんできて、劉少奇が国務院小講堂の外で「批判闘争」にかけられているという。私はすぐさま現場にかけていった。

 人垣ができていた。ほとんどが党中央書記局の下級幹部である。党中央警護団の将校や兵士も見守っていた。劉少奇に少しでも救いの手をさしのべようとする者はいなかった。劉少奇と夫人の王光美は群衆の真ん中に立たされ、書記処のスタッフにこづかれたり、蹴られたりなぐられたりしていた。国家主席のシャツはひきさかれて肌がはだけ、ボタンがいくつかもぎとられている。人々は彼の頭髪をつかんで引きずり回した。

 よく見ようとちかづいたとき、劉少奇はつかまれた両の腕を背中にねじあげられ、腰から前かがみの「ジェット式」として知られる姿勢をとらされた。しまいに上半身をたおし、顔が地面にふれそうなところまでぐいぐいおしつけて蹴る、平手でなぐりつける。それでもなお、警護団の警備兵達は介入しようともしない。私はみるにしのびなくなった。劉少奇はすでに70に近く、しかもわれわれの国家主席ではないか。

 私は批判闘争の場を立ち去り、まっさきに��小平・卓琳夫妻の住まいに向かい、ついで陶鋳・曽志夫妻を訪ねた。両夫妻とも批判闘争にかけられていたが、劉少奇の場合ほどすさまじくはなかった。両夫妻は群衆におされ、こづかれ、やじをあびせられていたが、蹴られたりなぐられたりはなかった>

 李志綏は党中央警衛団の副団長にこの事態はどういうことかたずねたが、彼はこの事態を予測して昨日のうちに武漢に電話を入れたのだという。しかし団長の汪東興からはその後連絡はなかったという。じつは汪東興じしん、我が身の保身で手一杯だったのである。江青一派の狼藉に毛沢東は暗黙の了解を与えていた。というより、この事件の影の主役が毛沢東自身であることを、汪東興はよく知っていたからだ。
 
<今日の一句> すれちがう 少女の髪に 秋匂ふ  裕


2002年09月26日(木) 毛沢東の愛読書

 大学生の頃、私は一時日本共産党の党員だったが、組織の指導的立場にいるAさんの家を訪れたとき、彼の書架にマルクス・レーニン全集と並んで山岡荘八の「徳川家康」があったのに驚いた。聞いてみると、それが彼の愛読書だと言うことだった。

 私が学生時代に感じたのと同様の違和感を、李志綏もまた毛沢東の愛読書が歴代王朝の歴史を紀伝体でしるした「二十四史」だと知って感じている。驚くべきことに、毛沢東がもっとも賛嘆を惜しまなかったのは、悪名高い殷王朝の皇帝紂王(ちゅうおう)だったという。

「毛の歴史観は大多数の中国人とはなはだしく異なるものであった。彼の政治観には道徳など入りこむ余地はなかった。その毛沢東が中国の歴代皇帝におのれを擬すばかりか、最高の敬意を史上最悪の無慈悲残忍な暴君のためにとっておいたことを知って、私は非常な衝撃を受けた。目的を達するためならば、どんな冷酷かつ専制的な方法も辞さない気だった」(毛沢東の私生活)

 毛沢東の最大のお気に入りのもう一人の皇帝は、秦の始皇帝だった。ほかには則天武后や随の煬帝、西欧ではナポレオンが毛沢東のお気に入りだったという。いずれも多くの民衆に無慈悲な死をもたらした絶対権力者たちである。李志綏は著書の中で、次のように書いている。

「中国古代の宮廷における権謀術数は、マルクス・レーニン主義よりもはるかに強い影響を彼の思想におよぼしたのではないかと私は信じて疑わない。たしかに毛沢東は革命家であった。中国を作り替えてふたたび富国強兵の国家にするのが目的だった。ところが、どうやって統治すべきかの教えを、つまり最高指導部にはびこる謀議をどう操作したらよいかというガイダンスを過去に求めたわけである」

 こうした思想を持つ毛沢東だからこそ、「自分は3億の人民を失うことも辞さない」と演説することができたのだろう。じっさい、毛沢東が権力を握っていた時代、「反革命分子」として処刑されたのが、87万3000人余になることが中国共産党の公式記録路して残っている。

「後年の大躍進になってはじめて、つまり数百万の同胞が餓死しはじめたときになって、毛沢東が日ごろ賛嘆した無慈悲な皇帝たちにご当人がいかに酷似してきたかを、私はやっと思い知らされることになるのだ。主席は人民が数百万も餓死しつつあるのを知っていた。毛はそんなことを少しも意に介さなかったのである」

「文化大革命の絶頂期、天安門広場が熱狂的な大群衆であふれ、市街が混乱をきわめていたときでさえ、毛沢東は皇帝ばりの生活をむさぼりつづけ、大会堂のなかでも中南海の城壁の内側でも、女たちを相手に楽しんでいたのである」

 このように主治医としていつも身近に仕えていた李志綏は書いている。なお、もう少し統計を補足しておこう。「大躍進」での餓死者は2215万人、「文化大革命」では13万5000人が処刑、172万人が異常な死を遂げたという。

 異常な死を遂げた中には、国家主席であった劉少奇その人までが含まれている。明日の日記で、劉少奇が紅衛兵たちにどのようなひどい待遇を受け、なぶり者にされたか報告しよう。現場を目撃した李志綏の文章を読むと、その非道さが実感される。

<今日の一句> 秋なすも 食してみたし 雲流る  裕


2002年09月25日(水) 毛沢東の素顔

 毛沢東について書かれた本はあまたあるが、私が読んで一番面白く、また真実らしく感じたのは、毛沢東の主治医で後にアメリカに亡命した李志綏の書いた「毛沢東の私生活 上下」(文春文庫)である。

 文化大革命や江青など四人組の活動、周恩来をはじめ共産党幹部たちのすさまじい権力闘争が生々しく描かれ、そしてなによりも毛沢東その人についての科学者らしい犀利な観察が行き届いている。毛沢東に主治医として22年間仕え、常にその身近にいて彼の言動や性癖を知り、臨終を看取った人の文章だけに迫力がある。

<毛沢東に友がなく、通常の人間的接触から孤絶していたというのは事実である。江青とともにすごす時間はきわめて少なく、子供たちにいたってはほとんど顔をあわせなかった。私にいえるかぎりでは、最初の面談で親しみが忘れがたいにもかかわらず、毛沢東には人間的な感情が欠落しており、したがって愛することも、友情をいだき、思いやりをいだくこともできないのであった。

 いちど上海で私は主席のとなりにすわり、雑技を見物していたところ、まだ年端もいかない曲芸師が突然足をすべらせて重症を負った。観衆は息をのんで悲劇に立ちすくみ、子供の母親はいくら慰めてもたりなかった。ところが、毛沢東はまるで何事もなかったかのように気遣いさえ見せずに談笑つづけた。いや、私の知るかぎり、幼い曲芸師の運命について問い合わせることさえしなかった。
 
 私はしまいまで毛沢東の冷血漢ぶりが理解できなかった。多分あまりもの多くの死を見てきたために、人間の苦悩に無感覚になってしまったのではないだろうか。最初の妻・楊開慧は国民党政府に逮捕・銃殺されたが、ふたりの弟・毛沢民、毛沢蕈もそうであった。楊開慧とのあいだにもうけた長男の毛岸英は朝鮮戦争で戦死している。ほかの何人かの子供たちは1934,5年頃の長征中に行方不明になり、ついにその所在は発見されなかった。

 しかし、毛が子供たちを失しなったことで情のある言葉を口にしたのを私はいちども耳にしていない。多くの人たちが死んでいったなかを自分だけが生きながらえてきたという事実は、自分だけは間違いなく長生きするという毛の確信をまるで確認したにすぎないかのように思われるほどだ。死者については「革命のために人命は犠牲にされなければならない」ただそう言ってのけるだけだった>

 1954年10月、インドのネール首相と会談したとき、毛沢東は「帝国主義者との戦いで勝利をおさめるためならば、原子爆弾で数百万の人民を失ってもかまわない」と述べたという。「1千万か2千万の人間が死んだところで恐れるに足りない」という毛の言葉に、ネールは衝撃を受けたという。

 1957年11月、毛沢東が政府代表団を率いて訪ソしたおりにはさらにエスカレートして、「自分は3億の人民を失なうことも辞さない」と演説した。当時中国の人口は6億人だったので、これは国民の半分にあたる。これが単なる政治的プロパガンダでなかったことを、李志綏はやがてつぶさに知ることになる。明日、この続きを書いてみよう。

<今日の一句> 秋桜や 風に揺られて あはれなる  裕


2002年09月24日(火) 蟋蟀は十色に鳴く

 22日の夕方、妻を誘って木曽川まで歩いた。十五夜の月を観ようと思ったのだ。あいにく月はみえなかったが、木曽川まで歩く途中に、美しい夕焼け雲を見た。木曽川の対岸の空にも、夕焼けの残照が残っていた。

 名古屋市からこちらに引っ越して来た頃、一家で木曽川まで散歩したものだった。二人の娘も小さかったし、飼い犬のリリオ君も若かった。散歩にみんな喜んでついてきたが、今は妻がお義理でついてくる位である。

 しばらく妻と並んで石段に腰を下ろし、河原の虫の声に耳を傾けた。以前にも書いたことだが、西洋には虫の声を愛でるという風はないようだ。日本人は脳の中で虫の声を「ことば」として聞くが、西洋人は「雑音」としてしか受け取らないらしい。たしかに西洋の小説を読んでいても、虫の声にしみじみ耳を傾ける主人公には滅多におめにかからない。それにくらべると、日本文学は虫の声や風の音に満ちている。

「私は、あの夜、早く休みました。電気を消して寝ていると、背筋の下で、こおろぎが懸命に鳴いていました。縁の下で鳴いているのですけれど、それが、ちょうど私の背筋の真下あたりで鳴いているので、なんだか私の背骨の中で小さなきりぎりすが鳴いているような気がするのでした。この小さい、幽かな声を一生忘れずに、背骨にしまって生きていこうと思いました」(「きりぎりす」太宰治)

 日本人は虫の声にいろいろな意味を感じ取る。同じ虫の声が、人によっては違った風に聞こえるし、また同じ人でもそのときの状況では違った風に聞こえる。仏教の修行僧が虫の声を聞いて、にわかに悟りを開いたという話も伝わっている。

 私の頭にもふと「蟋蟀は十色に鳴く」という文句が浮かんできた。そして俳句や短歌もこの蟋蟀の声のようにはかないものかも知れないと思った。聞く人の心によって、短歌や俳句も雑音としか聞こえないだろうし、玉のように響くこともあるだろう。そんなあたりまえのことを、大切な人生のヒントとして蟋蟀に教えられたような気がしたのである。

 夕月夜心もしのに白露の
 置くこの庭に蟋蟀鳴くも   (万葉集巻八−1552)
 
 庭草にむら雨降りて蟋蟀の
 鳴く声聞けば秋づきにけり  (万葉集巻八−2160)

 草深み蟋蟀さわに鳴く夜の
 萩見に君はいつか来まさむ (万葉集巻八−2271)

 帰り道、垣根こしに萩の咲いている家があった。夜目にも見事に映ったので、明くる日の午前中に再び妻を誘って、散歩に出た。萩の咲いている家は無住のようで、結構大きな庭が荒れ放題になっていた。満開かと思われた萩もかなり盛りは過ぎていた。垣根越しに庭を覗くと、あかるい秋の日ざしの中で、こおろぎが幽かに鳴いていた。

<今日の一句> あるじなき 宿の垣根に 萩の花  裕


2002年09月23日(月) 結婚まで

18.電子計算機の楽しみ
 舎監明けの午後、私は栄から伏見へ出て、アメ横の電気店に立ち寄って、計算機の電子部品などを眺めた。二年前の1977年にアメリカのアップル社がアップル�兇箸い�人気のパソコンを販売し始めていたが、もちろんそんなものは高嶺の花である。国産品の安いパソコンがあればよかったが、卓上計算機(電卓)を量産していた日本のメーカーでパソコンの完成品を販売している会社は当時まだなかった。

 シャープやNECがパソコンの完成品を販売し始めたのは、80年代にはいってからだ。キットや未完成品としては売られていたが、そうした部品から完成品を作るには余程の専門知識がないと無理である。大学で理論物理を専攻していた私には無論その能力はなかった。

 当時の小型計算機は、学校にもあり、私は一台を準備室に運んで自分の専用にしていた。アップル社のパソコンのように本格的なブラウン管のデスプレイを持っているわけではなく、表示部分は単なる数字とローマ字だけのLCDで、見かけは電卓とかわらない。しかし、一応パソコンのCPUを持ち、プログラムで動くところが電卓とは違っていた。こんな田舎の高校に、いちおうパソコンと呼べるような電子製品があり、しかもそれを独占できることは嬉しい誤算だった。

 電子計算機については私は大学の講義でフォートランを少しだけ囓ったことがあるくらいだったが、さっそくBASIC言語の教科書を買って、授業の合間に勉強を始めた。演習問題にある「月面着陸ゲーム」などを作って、計算機で動かしてみた。自分の作ったプログラムで、計算機が動くのを見るのは気分がよい。ひとかどのプログラマーになったような気分がした。

 BASIC言語を使えば、整数論の問題を解かせたり、音楽を演奏させたりもできる。そこで素数や円周率の計算をさせてみた。朝一番に電源を入れてプログラムを入力し、何時間もぶっ続けで計算させたが、円周率など20桁も計算できればよいところだった。これはプログラムがまずいというより、計算機の性能が悪いのだろう。ゲームをするにはもう少し計算速度が早いCPUが欲しい。

 アップル社のような本格的なパソコンはとうてい無理だが、プログラム内蔵型の小型計算機でもう少し性能のよいものを手に入れたかった。私の願望を満たしてくれそうな新しい製品はアメ横に並んでいた。とても手に入る価格ではなかったので、中古のものを探した歩いたが、それでも結構の値段である。

 財布の中身と相談しながら、買おうか買うまいか悩んだ。自宅に持って帰っても、計算機に触れている時間は限られている。そう考えて買わずに帰ったが、明くる日になると、また何か掘り出し物がないか気になってくる。

 ところがある日、新聞にNECパソコンキットの通信販売の広告が出ていた。インテル社のCPUがついていて、機械語を使って、音楽演奏もできると書いてあった。BASICに比べて機械語ははるかに難しいが、計算速度は格段に速くなる。この機会にパソコンについて徹底的に勉強してみるのも悪くはない。価格も3万円そこそこなので、これを購入することにした。

 数日後、郵便小包が届いた。そのまま学校に持ち込み、助手の岩野さんと二人で中身を点検した。インターフェースの基盤の他に、ICのチップ、LCDなどのこまごまとした部品が入っており、机の上に並べながら、胸がときめいた。少年時代に通信販売でラジオのキットを買ったときの興奮が甦ってきた。

 さっそく基盤に電子部品のはんだ付けをした。細かい部品なので、手先の不器用な私にはむつかしい作業だった。余計な熱を加えると電子部品が傷みそうで心配だが、軽く電気ごてを触れるだけでは接続不良になる。結局私の腕では歯が立たないことが分かり、組立のほとんどを岩野さんにお願いすることにした。

<今日の一句> 空高し 旅の心を おさえかね  裕 


2002年09月22日(日) 家族という人質

 3年ほど前に、友人の北さんに薦められて、新聞の投書欄に投稿をはじめた。これまでに30編以上の投書が掲載された。ほとんどは朝日新聞の「声」の欄への投書だが、たまに「岐阜新聞」や「毎日新聞」へも書いた。

 いずれもE−メールやHPのフォームからの、インターネットによる投稿である。不精者の私は葉書に文字を書いて投書ということが苦手で、地元紙である「中日新聞」へは書いていない。

 現在の日本や世界の情勢を見ていると、「怒り」がこみ上げてくる。その思いのたけを、こうしてHP日記に毎日吐き出しているわけだが、そのなかから適当なものを選ぶ。そして、HPの日記の文章では長すぎるので、一部を切り取ったりして、文章を整えてから投書する。

 高々5、60ヒットのHPと違って、社会の公器である新聞の文章は何十万、何百万という不特定多数の人々の目に触れるので、そのリスクも覚悟しなければならない。昨日の日記にも書いたが、脅迫電話を受けることもある。

 真夜中の1時にたたきおこされ、1時間以上も説教され、「ご説はわかりました。もう遅いのでお引き取り願えますか」と言ったとたん、相手は切れた。「教育委員会に電話してやる」「家族のことを考えろ」など一方的に怒鳴り散らす。

 明くる日も同じ男から電話が何回かあり、私が外出中で妻が出たときには、「そちらに行くから、じいさんにそういっておけ」と50歳そこそこの私を「じいさんよばわり」して妻を威嚇したそうだ。本人が来るかと待っていたが、その後、音沙汰がなくなった。

 もっとも、こんなにひどいことは一度だけだ。反対に昔の同僚や見も知らぬ遠国の人から、「あなたの投書にまったく同意します、よく書いて下さいました」と丁寧な激励や感謝の電話を受けたりする。こうしたことがあると、多少のリスクはあっても、続けて発言しようという気力が湧いてくる。

 たしかに実名での投稿はリスクが大きい。私の発言をよく思わない筋からどんな脅迫をうけるかわからない。脅迫だけならよいが、家族の身辺に実害が及ばないとも限らない。そこで私は投稿によって得た臨時収入は迷惑料として妻に全額差し出していた。朝日新聞の場合、「声」の欄に掲載されると、3000円の掲載料がもらえる。年間だと3万円ほどになるので、家族でレストランへ行ったりできる。

 しかし、去年、アメリカのアフガン爆撃を機に、NGOのペシャワールの会を知ってからは、こうした収入はそうしたNGOやユニセフに全額寄付することにした。投書に反対の妻も、最近は仕方がないとあきらめているようだ。私も家族を人質にとられている以上、「愛国心に富む善良な人々」を刺激するような投書や発言は、なるべく控えたいと思っている。

<今日の一句> 妻と吾 河原の名月 探しけり  裕

 昨夜は十五夜ということで、夕方、妻と二人で木曽川まで歩いた。対岸に見る真っ赤な夕焼け雲が美しかったが、日が落ちても月はついにみえなかった。「月はくまなきのみを見るものかは」とつぶやきながら、帰ってきた。


2002年09月21日(土) 迫害をやめよ

 在日朝鮮人の子どもたちが通う朝鮮学校への脅迫や嫌がらせが相次いでいるようだ。昨日、こんなメールが届いた。「転送可」と書いてあったので、引用する。発信元は「地球の木」というNGOの団体である。

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【転送可】

 一人でも多くの方に、この様な問題を知っていただきたいと思います。地球の木では、北朝鮮(朝鮮民主主義人共和国)の子どもたちへ人道的支援を行っています。今のところ電話などの抗議はないのですが、他のNGO事務所には、何度かかかってきています。この様な「暴力」は許しません。

 去る17日小泉首相の朝鮮民主主義人民共和国訪問以来朝鮮学校に対する嫌がらせ、脅迫が相次いでいます。

 私の娘が通う神奈川朝鮮初中高級学校にも昨日だけで少なくとも30件の嫌がらせ、脅迫の電話がかかってきたそうです。しばらくの間、女性とたちのチマチョゴリでの通学は禁止され学校の教師、関係者、同胞青年団体による見回り、集団下校などの措置がとられました。

 様々な思い、感情があるとは思いますが、何も罪のない生徒、児童に対する暴力は許される事ではありません。

 朝鮮で何か起きるたびこのような恐怖に晒され、このような事件が何度となく起きましたが、世間にはほとんど知られぬまま泣き寝入りをしてきました。

 切りつけられたチマチョゴリがどんなに深く私たちコリアンを傷つけて来たか多くの日本人は知らずに来たのはあまりにも不自然な事です。

報復に走っては行けないと言う報道は 一切されず、朝鮮学校に子供を通わせる父兄、児童、生徒らは恐怖にさらせれています。

 これ以上の悲しみや憎しみを生み出すことは誰も望みません。

 少しでもこのことを広く知らせこれ以上不幸な事が起こらないようにするためにはどうすれば良いのかみなさんの知恵をお借りしたいと思います。

* 地球の木事務所               
* 横浜市中区不老町1-3-3            
*   (JR・地下鉄 関内駅南口1分)      
* 電話 045−228−1575           
* FAX 045−228−1578           
* E-mail CZR10753@nifty.ne.jp         
* http://homepage1.nifty.com/EarthTree/  

*******************************************

 私や妻も私が新聞に投稿した文章のことで、「お前の家の住所は知っている。家族のことも分かっている」と電話でしつこく脅迫を受けたことがある。そうした体験は実に不愉快なものだ。日本という平和な国で、こうした人権蹂躙の心ない行為が繰り返されていることに対して、かなしみと怒りを覚える。

 日本人拉致事件は北朝鮮が起こした犯罪だが、在日朝鮮人の子供たちに責任があるわけではない。そんなことは承知の上での迫害であり、嫌がらせなのだろうが、なんともやりきれないことである。昨日も書いたが、私たちはもう少し冷静な目を持つ必要がある。こうした脅迫行動の背後に、社会全体を覆う異様な雰囲気を感じずにはいられない。

<今日の一句> 真夜中に 虫の声聞く いつまでも  裕


2002年09月20日(金) 冷静な目で

 17日の日朝首脳会談の際、拉致被害者8人の死亡年月日が記されたリストを渡されていながら、外務省が家族への連絡を控えていたという。8人中4人は20代で死亡しており、二人が同時に死亡している例もあった。これを公表すれば、国内でさらに衝撃が走ったことだろう。外務省は一段落ついた19日になって家族への通知を始めた。

 同じ日に死亡したとされているのは有本恵子さんと石岡亨さんである。88年9月に石岡さんから実家に、「自分と有本さん、熊本市出身の松木薫さんの3人で平壌で暮らしている」と無事を伝える手紙と顔写真が同封されていた。この2月後、有本さんと石岡さんは死亡したことになる。それぞれ28歳と31歳での死である。

 二人が同時に死んだのは、偶然ではないだろう。また横田めぐみさんなどの死についても、両親が被拉致者解放運動にかかわっていたことへの報復かも知れない。もうしそうだとしたら、自分たちの運動が子供の死をもたらす一助になったわけで、親はわりきれないだろう。

 金正日総書記が日本人拉致を認めたため、韓国でも拉致問題解決を求める声が強まっているという。韓国では朝鮮戦争以降、486人が北朝鮮に拉致されたとみられている。野党ハンナラ党からは「北側に送還を強く要求すべき」という声が上がっている。

 こうした北朝鮮による非道な国家的犯罪は決して許されるべきではない。その責任をうやむやにする事は出来ないが、同時に日本も過去の植民地支配に対する反省をしっかり行い、その責任を果たしていく必要がある。そのためには時には冷静な第三者の目をもつことも必要だろう。

 北朝鮮が、戦前の日本と似た体質を持つ軍事的テロ国家であることはあきらかである。しかしそこにはそうならざるを得なかった歴史的過程がある。問題はいかにして、この独裁国を国際社会に復帰させ、平和で民主的な体制に変えていくかである。そのために日本に何が出来るか、私たち一人一人がそのことをもう少し真剣に考える必要がありそうだ。

<今日の一句> さわやかな 風とひかりに 野菊咲く  裕


2002年09月19日(木) 国家の犯罪

 17日の小泉純一郎首相と金正日総書記との会談で、日本人拉致事件が、北朝鮮の特殊機関の行為だったことがあきらかになった。拉致された13人のうち生存してしるのは5人で、すでに8人は死亡しているという。

 死亡している中には新潟から1977年に拉致された横田めぐみさんも入っていた。ある日突然、特殊機関の工作員に日本から連れ出されたとき、彼女は音楽が好きな13歳の中学生だった。その後結婚したらしく、娘さんが平壌にいるという。

 83年に欧州で確認されたのを最後に姿を消した有本恵子さんは、その後、生存を知らせる手紙を日本の家族のもとに届けていた。もっとも生存が期待された人だっただけに、その死亡の報せは意外であり、悲しい。拉致され死亡した人たちはまだ働き盛りの年である。そして、彼等の両親はほとんど健在である。病死や災害死だという説明らしいが、もうすこし正確な情報が欲しいものだ。

 金正日総書記はこのこについて小泉首相に、「遺憾であり、率直におわびしたい」と釈明したという。工作船についても「特殊部隊の活動を認め、今後は行わないと約束した。平壌宣言では「日朝の不正常な関係にある中で生じた遺憾な問題」という表現で触れられている。

 正常化交渉は再開で合意したが、拉致された家族は強く反対している。最初の事件から、政府が北朝鮮による拉致と認定した97年まで、20年もかかった。これまで1990年の自民党金丸訪朝、1999年に村山富市元首相を団長とする超党派の訪朝があったが、「拉致」「行方不明者」という言葉を口にすることさえできなかった。犠牲者の家族が「もっと早く、政府が救出に取り組んでいてくれたら」と悔やむ気持もわかる。

 しかし、一方では、韓併合以来36年間にわたった日本による植民地支配の問題がある。「国民動員計画」によって、強権的に日本に連行された朝鮮人の数は、政府統計で確認されたものだけでも、1939年から終戦までの合計で72万4787人に上っており、このほか軍人・軍属として各地に連行されたもので明白なもの36万4186人があり、また朝鮮内で動員されたものは400万人を越えていた。

 日本に強制連行された朝鮮人労働者のうち死亡または行方不明の数は6万400人、これに軍人・軍属の15万人を加えると20万人をこえている。首相が戦時中の日本の行為について、「痛切な反省と心からのおわび」を表明し、金銭的な償いは経済協力方式で行うことで合意したという。

 戦後半世紀を過ぎて、ようやく動き出した補償問題を、北朝鮮の人々はどんな気持で受け止めているのだろう。その生の声を一度聞いてみたいものだ。そしてできればこれからは民間レベルでの交流や援助ができるようになればよいと思う。

 経済協力も一部の支配者階級を富ませるものではなく、ほんとうに民衆の生活に益するものであって欲しい。北朝鮮では毎年数万から数十万人の単位で餓死者が出ているという。農業協力などを中心にして、食糧事情の改善を助けてはどうだろうか。

(参考サイト)日本労働年鑑(法政大学大原社会問題研究所) http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-027.html

<今日の一句> 戦なき 幸せ続け 稲穂波  裕


2002年09月18日(水) 学徒勤労動員

1944年(昭和19年)3月、中等学校3年以上の授業を中止し、男女の生徒を軍需工場に動員することが閣議決定された。全国に先駆けて、愛知県では4月の始業式からいっせいに、徹底的に実施された。

 佐藤明夫さんは、自著「戦争動員と抵抗」のなかで、「これは学校教育の否定であり、教師の任務の放棄であったが、もはや疑問を口にすることも許されなかった」と書いている。

 しかし、中には勇気のある教師もいた。たとえば豊橋松操高女の中村要教頭は、中島半田工場へ動員されていた170名の生徒の安否を気遣い、工場側と交渉して、生徒全員を東浦町の工場に配置転換させたという。ついでに宿舎も半田の女子寮から、豊浦の寺院などに分宿させるよう要求した。

「15,6の少女を犠牲にするわけにはいかない。だめならば豊橋に連れて帰る」とまで強硬に主張した結果、工場側もこれを受け入れた。半田製作所と女子寮が米軍に爆撃されたのはその3日後だった。多くの女生徒がこれによって死んだが、移転した松操高女の生徒は全員無事で終戦を迎えたという。

 原爆攻撃をのぞけば、全国最多の学徒の死者を出した愛知であるが、以上のような生徒の生命を守ろうとした教師の異議がなければ、さらに多くの若い生命が奪われたであろう。当時では非国民との非難を覚悟せねばならぬ言動であった。小数ではあっても、記録に残っていない勇気ある教師はまだまだいたと考えられる。・・・なお、生徒と共に空襲で生命を失った引率教員も少なくないが、その実数は未調査である」(「「戦争動員と抵抗」佐藤明夫著、同時代社)

 なお、戦後50数年を経た現在、学徒勤労動員によって生命を奪われた学徒の正確な数はわからないという。1952年の愛知県の調査では866人となっているが、これはかなりずさんな調査で、中村さんが約10年かけて再調査した結果では1020人を数えたという。全国でどのくらいの勤労学徒の命が奪われたか正確な統計はないが、4000名を越えていると考えられる。

<今日の一句> 庭蛙 やおら目を開く 秋の蝶  裕


2002年09月17日(火) 平和を創ろう

 昨日、長女の20歳の誕生祝いに、一家でディナーを食べに行った。食事を待ちながら、レストランにおいてあった「サンデー毎日9月15日号」を眺めていたら、辺見庸さんのコラム「反時代のパンセ」が目にとまった。

<15年戦争の最初の年である31年(昭和6年)の10月、米大リーグのゲーリック、グローヴら選手団32人が来日し、銀座を自動車でパレードしている。東京、大阪などで17試合も親善試合をやっている。

 お笑いとお色気を売り物にする浅草オペラ館と新宿ムーラン・ルージュが登場し、連日満員となったのはこの年。日本ダービーが始まり、NHKがこれを実況してわきかえったのは、満州国が建国され、犬養首相が殺された32年のことである>(メモと記憶で書いたので正確な引用ではない)

 辺見さんは国民がものも言えなかったほど暗かったという戦前の世相観が戦後に創られたものではなかったかという疑問を投げかけている。そして少なくとも30年代の初期において戦争を回避する運動の可能性はあったのではないかと述べている。私の主張とほぼ同じである。

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という。しかし、みんなで渡った結果、ひどい目にあったのが、先の15年戦争であり、80年代のバブルではないだろうか。しかしこれは何も日本だけのことではない。アメリカでもベトナム戦争に反対票を投じた議員はたった2人だけだった。先のアフガン爆撃に反対票を投じたのはたった一人である。

 日本の社会には民主主義がない、個性が確立されていないと言われるが、付和雷同し、世論が一色にそまることはアメリカでも他の国でもまま見られることである。スイスなど1990年代になってようやくすべての州で婦人参政権が認められている。カントやハイデガーなどの哲学を産み、カントールやガウス、アインシュタインなどの第一級の知性を産んだ知的文化先進国のドイツでさえ、ある時期、国民はヒトラーに熱狂した。

 フランスは大革命の後、ロベスピエールの恐怖政治を生み、やがてナポレオンの独裁を生んだ。ロシア共産党の粛正や中国の文化大革命のことはいうまでもないだろう。日本の知識人は日本人は個性が確立していない、民主主義が根付いていないと慨嘆するが、世界を見回してみて日本だけが劣っているわけではないようだ。

 むしろ日本くらい自由で民主的な国は珍しいのかもしれないのだ。民主主義が根付いておらず、個人主義が確立されていないのは、どこも同じだとすると、私たちももうそろそろこうした劣等意識から自由になってはどうだろう。できることなら、世界に民主主義と個人主義のお手本を示してみせるくらいの気概が持ちたいものだ。

 カントは「平和は創るものだ」と書いている。国の平和は一人一人の国民が自ら創るものだ。政治家や指導者に任せておけばよいというものではない。これからの時代、戦争の責任は私たち国民の一人一人が等しく負うのだという自覚と気概をもつことが必要だろう。

 さて、先週の土曜日に発表されたニューズウィーク誌の世論調査によれば、ブッシュ大統領は対イラク計画に関する最近のスピーチで、支持率を8月下旬の61%から70%へと上昇させた。アメリカの世論の暴走が心配である。

 アメリカを訪れた小泉首相は、日本のイラク攻撃の戦争協力について、「国民が反対しているので、協力は難しい」と伝えたという。一見民主的だが、一国の首相がこうした信念のないことでよいのだろうか。ブッシュが「私の国の国民は攻撃を支持している」と答えたかどうかは明らかでない。

(先日来、一週間にわたって掲示板で続けられた論争を、「何でも研究室」のコーナに「一般国民の戦争責任」と題して載せました。いつものように口火を切ってくれた北さんをはじめ、誠意あふれるご意見を寄せられた方々に感謝します。まとめて読みたい方はどうぞご覧下さい)

<今日の一句> たそがれは 淋しからずや 虫の声  裕


2002年09月16日(月) 結婚まで

17.足もとの石

 3年生を対象に選択物理の授業が週2時間ずつあった。1年生の理科の時間が週4時間で3クラスだから、私の週あたりの持ち時間数は14時間である。担任も持たずにこの時間は少ない方だろう。現在の私は担任を持って週16時間の授業を行っている。

 14時間を6日で割れば2時間とちょっとである。実際は多い日で3時間、少ない日は0時間だった。水曜日はまったく授業がなかった。だから年休をとろうと思えば、いくらでもとることができた。なんとも恵まれた境遇だった。

 加茂ケ丘高校は山の中の僻地の高校である。近隣の村は人口の少ない過疎の村が多く、生徒はかなり遠くから通学してきた。バイクの通学も認められていた。白いヘルメットをかぶってバイクを走らせる高校生の姿を見ていると、私もバイクに乗りたいと思った。いずれ担任を持てば、家庭訪問もしなければならないだろう。バイクや車がなければ不便である。

 実際職員の中で、車を持っていないのは私と古川さんだけだった。同じく新任の山中さんは名古屋からマーク�兇鮠茲辰董�颯爽と通勤していた。車にはほとんど興味がなかった私だが、この夏休みには免許をとろうかなと考えた。通勤に使うには、バイクよりも車のほうがよい。

 西春から三河の山の中まで車で通うのは大変だが、それでも交通機関を使うよりは時間が短縮できそうだった。何よりも朝晩の混雑から逃れられるのは有り難いし、車があれば女性をデートに誘うことができる。若い女性を助手席に乗せて、山や海をドライブしたら楽しいだろう。これまで大学の研究室にこもって論文を読むばかりで、あまりそうした世界と縁がなかっただけに、考えていると胸がわくわくした。教員になって何と幸せなことかと思った。

 家が遠い生徒のために、学校には女子寮があった。そこに十数名の女生徒が泊まり込んでいた。その舎監が月に1、2度回ってきた。舎監をすると、一回1万円近くの臨時収入が得られる。夜、朝、昼の3食付きである。その上、翌日の午後は、半日の軽減がもらえるのでありがたかった。私は火曜日の夜の泊まりを希望した。そうすると翌日は授業のない日なので軽減がとりやすい。

 寮の食堂で生徒の作ってくれた昼食を食べた後、学校を出て、正門前のバス停まで歩く。日溜まりに立ってバスを待っていると、なんとも満ち足りた幸せな気分に包まれた。木の葉のそよぎや、小鳥の鳴き声が快かった。しかし、そうした中で、ふっと日が陰ったように私の心をひんやりさせるものがあった。それがS子の影だった。私は自分の幸福に水を差された気分になった。そして、足もとの小石を力任せに蹴った。

<今日の一句> 梅干しの 酸いを好めり  ひとり居て  裕  


2002年09月15日(日) 古新聞の旅

 東京へ最近行っていない。三年前に、Tさん、その前年にOさんを誘って行ったきりである。「旅は一人旅に限る。人生も又一人旅なのだから」などと、偉そうなことを書いている割りに、私はあまり一人旅をしない。

 どこかへ出かけるときは、たいてい人を誘う。一番手軽なのは女房だが、誘ってもあまり乗ってこない。「一人でどうぞ」と言われると、その瞬間に気持が冷えてしまう。何だか旅に出るのが面倒になるのである。

 とはいうものの、この夏はどうしても東京へ行きたかった。昼間は国会図書館で資料を読み、夜は浅草で食事をしたり落語を聞いたりする。夏には青春切符がつかえるので、名古屋から東京までの往復の交通費は6千円未満、カプセルホテル代が3000円、浅草の寄席には後半だけでいいので、入場料が半額になる。食事代を合わせても1万5千円ですむ。ゆとりがあれば、浅草のロック座で、若い女性のヌードを満喫するのもよい。

 これが私の東京旅行パターンだが、こんな貧乏を絵に描いたような融通のきかない旅に、妻や友人が付き合ってくれるわけがない。最初は「面白いぞ」とだませても、二度目はごめんだということになる。青春切符で東京へ行こうと思えば、半日はかかる。私は車中読書でつぶすので何ともないが、妻や友人達はまずこのことだけで後込みするのである。

 というわけで、今年は一人旅をと思っていたが、3年生の進路指導や補習、部活動など、時間的にも心理的にもその余裕がなかった。そこで、この9月の連休に行こうと思ったのだが、これも部活動の試合が続きそうで、どうも無理のようだ。

 以前は、公費の出張で旅行が出来た。行き先は迷わず「国会図書館」である。研修目的は「日本の数学の研究」である。和算の歴史や、日本における論理的思考の発達についての研究で、学校の雑誌に論文を書いたりしたが、国会図書館を選ぶのは他にいろいろな楽しみがあるからだ。

 他では読めない本や雑誌がすべてそろっているし、昔の新聞なども読める。全国の新聞がそろっているので、私の故郷の福井新聞の現物をじかに手にとって読むこともできる。私がうまれた昭和25年4月に何が映画館で上演されていたかや、ラジオの番組の内容や、押し入り強盗の話まで、なにから何までわかる。これはちょっとした感激だった。これに味を占めて、国会図書館を訪れるたびに、必ず昔の新聞を読む癖がついた。

 とくに今年の夏、国会図書館を訪れたかったのは、戦時中の新聞を集中的に読みたかったからだ。当時の世相を見るには、新聞を読むのがいちばんよい。当時の民衆の生活や感情が手に取るように匂ってくる。

<今日の一句> 古新聞 未知の世界へ ひとり旅  裕


2002年09月14日(土) 集団的狂気の世界

「飛蝗」という言葉があります。バッタは普段は単独でいますが、干ばつなどで環境が悪化すると幼虫が集まり、体から分泌物を出してお互いに刺激し合って体が黒ずんだ脂ぎった群生相のバッタになります。群生相のバッタはやがて群を作り新天地を求めて大移動を始めます。天をも暗くするこの凶悪なバッタの大群が「飛蝗」で、日本でも明治時代北海道に発生したことが記録に残っているそうです。ここでバッタの話をしたのはその振る舞いが危機に陥ったときの人間の集団と似ているからです。

 動物であれ人間であれその集団の生存が危機に瀕したとき、普段では考えられないような行動をするものです。町の善良な郵便配達夫や田舎の農夫が異国の戦場では銃を握り別人のように平気で人を殺します。そして戦争が終わるとまたもとの善良な市民に戻り、何食わぬ顔で郵便を配ったり畑を耕したりするのです。幸いにして戦後生まれの私たちはそうした体験をしないで済みましたが、私の父親の世代は歴史の成り行きでこうした集団的狂気の中に身を置かなければなりませんでした。私は自分の父親が異国で殺人者の一派であったことを残念に思いますが、だからといって父を非難できるかどうか疑問です。もし父の立場に置かれていたら同様なことをしたに違いない我々に、父の世代の残虐行為を非難する資格があるのでしょうか。

 ところで今かりに再び同じような状況になり、我々が又同じ過ちを繰り返すようであれば、その行為は非難されるべきでしょうか。我々はイナゴと違って過去の歴史から学ぶことができるはずだと考えれば、答えはイエスと言うことになります。しかし我々も危機的状況に陥れば、やはりイナゴと同じく特別な本能(DNA遺伝子の宿命的な配列)によって、再び「群生相」となって狂奔するのではないでしょうか。これは人間性に対するあまりに悲観的な見方かも知れません。しかし私はこの可能性を否定できないと思います。そして我々はこうした可能性を勘定に入たうえで、同じような悲劇を繰り返さないためにより慎重に社会の未来を考えるべきだと思います。

 イナゴと違って我々は理性を持っています。その理性が健全なうちにそれを最大限働かせることにしかこの危機を回避する道はないのです。つまり事態が悪化する前に、その予兆の段階で、その危機に至る可能性を排除するしかありません。我々は人間の理性に信頼を置きながら、しかもそれをあまりに過信しないことです。

(今日の日記は私が5年前に書いた「人間を守るもの」の「第一章自然と社会」からの引用です)

<今日の一句> 稲穂波 風を描いて 黄金色  裕 


2002年09月12日(木) 戦争を望む国民

 近代国家おいては、国民が戦争を望まなければ総力戦である戦争は遂行できない。そこで、戦争を欲する勢力は、国民を戦争へと駆り立てるために、さまざまな手だてを考えて実行する。つまり、国民を戦争へと誘導する演出がなされるわけだ。

 先の戦争ではたしかに、日本の政府、軍部やそれに追随するジャーナリズムの煽動者としての役割は大きかった。しかし、なぜエリートである筈の彼等はそのように愚かな戦争を主導するようになったのだろう。このことについて、私は以前に「人間を守るもの」の「第一章自然と社会、全体主義の悪夢」の中に、次のように書いた。

<ロシアの脅威が去った後、イギリスやアメリカは日本をこれまでのような友好国扱いする理由がなくなりました。むしろ日本はロシアに代わる脅威として軍縮会議に引き出されました。やがて日英同盟が撤廃され、国際社会で日本は孤立化を深めることになります。

 これまで様々な好意を示してくれたイギリスやアメリカが手のひらを返したように冷淡になったのに日本人は怒りました。国際舞台での政治的な駆け引きになれていない日本人は、その真意を正しく分析することが出来なかったのです。

 危機感を持った日本は、いよいよ軍国主義に傾斜します。朝鮮半島を支配下に治め、満州に傀儡政権を建てました。そして中国大陸はおろか東南アジアにまで軍靴を進めようとしたのです。しかしその地域にはすでにヨーロッパ列強の利権と支配が及んでいました。時あたかも欧州で第二次世界大戦が勃発しました。ここにいたって日本はドイツ、イタリーと結び、イギリス、アメリカ、フランスと対決する道を選んだのでした。

 こうして日本は無謀な戦争に突入していったのです。もっとも当時この戦争を無謀だと思ったものは少なかったに違いありません。戦争を歓迎する気持は国民の中に瀰漫していました。有力な新聞も名のある知識人もほとんど例外なく「鬼畜米英」を叫び戦争に賛成していました。戦争を遂行したのは軍部でしたが、軍部が威張っていられたのもこうした国民の圧倒的支持があったからです>

 日本の軍部も国民も、今になって考えてみると彼等アングロサクソン、すなわちイギリスとアメリカの指導者たちの世界戦略に踊らされ、その掌のなかで愚行と喜劇を演じただけなのかも知れない。戦争の問題を考えるには、こうした国際的歴史的視野と認識を持つことが必要だと思う。

 そうすれば、イスラエルとパレスチナ、パキスタンとインド、北朝鮮と韓国、アフガニスタンの悲劇、アフリカ諸国の窮乏と内戦、イラクとイラン戦争など、考えてみれば現在の地上を支配する悲惨の多くが、アングロサクソンの世界戦略に関わりを持っている事実がわかる。

 私たちはこのような世界情勢をふまえ、日本の政治状況をふまえて、主体的に生きる努力をしなければならない。それはなかなか容易なことではないだろう。しかし戦争の責任をこうした国際情勢や自国の指導者の専制支配に転嫁しようとすることだけはすべきではない。

 できることなら、あくまでも自由な意志を持った人間としての尊厳を守り、そうした責任転嫁の敗北主義にだけは陥りたくないものだ。それが歴史の教訓から学び、愚行をくりかえさないために必要な私たちの心構えだろう。侵略戦争は犯罪であり、あらゆる犯罪がそうであるように、犯罪者はその行為に対して、責任を問われるのである。

 私は5年前に「人間を守るもの」を書いて、そうした主体的な生き方の必要性を理論的に追求した。私たちはさまざまな歴史的、社会的な制約の中で生きている。人間としての自由や尊厳を守るためには、システムに依存して生きながら、システムに対峙して生きていく意志が大切になる。そのことがいかに素晴らしいかということとともに、その困難さについても筆を惜しまずに書くことができたと思っている。

<今日の一句> さわやかな 木の葉の呼吸 子は眠る  裕

 葉っぱは植物の呼吸器官である。動物が肺で呼吸するように、彼等は葉っぱで息をしている。夜、私たちが眠っている間に、彼等は二酸化炭素を吸収して、酸素を出す。この酸素が、私たちの生に恵みを与えてくれる。その無言のままに行われる行為のさわやかさを、句にしてみたいと思った。 


2002年09月11日(水) 世界秩序崩壊への序章

 1年前の今日、アメリカはテロ攻撃をうけて、思いもかけない辛酸をあじわった。おりしも経済に翳りが見え始めていたときで、このテロが後押しする形で、その後株価は暴落し、一気に不況のなかに転落した。国際貿易センタービルの崩壊とともに、アメリカ経済のバブルが崩壊しはじめたのである。

 こうしたなかで、エンロンやワールドコムの不正経理や粉飾決算があきらかになり、これにかかわった巨大会計事務所が倒産するなど、アメリカの有力企業があいついで崩壊した。いずれも経営者たちはこうした不正行為によって総計数100億ドルもの利益を得ていたことがあきらかになっている。

 たとえばエンロンの経営者は会社の利益を膨らます大規模な粉飾決算をして株価をつり上げ、巨大なボーナスを手に入れていた。そして社員に自社株を買わせる一方で、自らは高値のうちに株を売り逃げして、創業者のレイ氏などは1億2300万ドルもの利益を得ていた。ブッシュ大統領は7月に行った演説のなかでこう述べた。

「アメリカのビジネス指導者の高潔さに対する信頼は、経営者の背信行為と権力の濫用によって地に落ちてしまった。・・・ビジネス社会に個人の責任に関する新たな倫理を導入する時がきた」

 しかし、ブッシュ大統領そのものにインサイダー取引の疑惑が浮上している。そしてチェイニー副大統領など政府高官の多くが産業界と癒着していたことなどが暴露さた。企業の機密情報を知る立場にあるのは経営者やこれに近い一部の特権階級である。粉飾決算で当座の株価を押し上げ、自分たちは売り逃げして巨万の富を手に入れる。その後、株価は暴落し、紙切れ同然となり、企業は倒産に追い込まれる。

 こうしたなかで、犠牲になるのは企業の従業員であり、一般の株主である。アメリカでは多くの人が株式で資産を運用している。従業員も自社株を多く持っている。株価が暴落することで、この半年間でアメリカ国民が失った資産の合計は、日本の1年間のGDP総額をも越えているという。経営者の不正が次々と明らかになると、株式市場の信頼が崩れ、これまでアメリカに集中していた資金が逃げ出してドルの価値も下がってきた。

 アフガン空爆によって、一気にあがったブッシュ大統領の支持率も、最近は低迷している。11月には中間選挙があり、次期大統領を確実にするためには、これに勝たなければならない。しかし、経済は低迷し、国民の不満は高まりつつある。このままでは選挙を乗り切ることができない。イラク攻撃はこうした国民の不満を外に向けさせるために必要なのだろう。これによって軍需産業が活性化すれば株安もおさまるかもしれない。11月の中間選挙を考えれば、10月には攻撃をはじめなければならない。

 アフガン空爆のときは、国民の92パーセントがこれに賛成する中で、議員達も与野党を問わず賛成に回った。反対したのはただ一人、バーバラ・リー議員だけだった。国民全体が熱狂する中で、ひとり反対の声をあげるのはなかなか勇気のいることである。

 今回もアメリカ国民の大半はイラク攻撃に賛成だそうである。さて、ブッシュは本当にイラクを攻撃するのだろうか。そのとき、連邦議会の議員達はどのような判断を下すのだろう。議員達の姿勢が気になるところである。

 ブッシュはイラク攻撃の必要な理由として、当初テロ組織アルカイダとの関係をあげていたが、結局「十分説得力のある証拠」が見つからなかった。そこでブッシュ大統領が12日に予定している国連総会での演説では、イラクが生物、化学、核の大量破壊兵器開発を進めている危険性を強調することになったという。しかしこれでは、「はじめに攻撃ありき」という印象をまぬがれがたい。

 イラク攻撃で、ブッシュ大統領の株は上がるだろう。アメリカ国民は勝利に酔い、景気も多少よくなるかも知れない。しかし、それはほんの一時的なことである。そのあと経済は奈落の底に沈み込み、深刻な悲劇がはじまるだろう。今ブッシュが行おうとしていることは、結局エンロンの経営者たちが行ったことと変わりがない。しかし戦争という不正な方法で株価をつり上げることだけはやってはならない。もしこれを許せば、世界秩序そのものが崩壊するだろう。

<今日の一句> よろこびと かなしみ深し 虫の声  裕


2002年09月10日(火) 国民が望んだ戦争

 現在の国際社会の状況は1930年代と酷似している。ロシア王朝の崩壊とソビエト連邦の崩壊、アメリカのバブル崩壊、株暴落、日本の株崩壊。失業率の上昇。そしてやがて、アメリカと日本の国債大暴落。こうした中で、日本の軍事化右傾化が心配される。いつかきた道を歩むことがなければと思う。

 司馬遼太郎が「この国のかたち」のなかで、「日本は日露戦争いらいおかしくなった」と書いている。日露戦争が終わって、ポーツマス条約が結ばれたが、戦果が少ないと言って、国民は納得しなかった。代々木公園にあつまった群衆が暴徒化して、交番を焼き討ちしたりしたようだ。戦勝気分に酔い、次第に舞い上がっていったのだろう。バブルの頃の人々の有様をみても、現在の状況を見ても、さもありなんと思われる。

 私は先の戦争について、それを望んだのは一人一人の国民ではなかったかと思っている。天皇や軍隊の横暴、ジャーナリズムの扇動のせいばかりにしていてはいけない。戦争に反対した人もいたことは事実だが、ほとんどの国民は戦争を望んでいた。朝日などの新聞も、この国民の熱気に迎合する形で、戦争遂行の片棒をかつぐ記事を出すようになった。

 国民の大多数の意志が開戦にあった。日清、日露戦争の勝利で舞い上がったものの、昭和恐慌のなか、不況と失業に苦しむなかで、国民の中に戦争待望論が遼原の火のように広がっていった。人々の心は乾燥した鉋屑のようなもので、容易に戦争へと発火して行く。

 軍隊がいばっていられたのも、天皇制が機能したのも、国民の圧倒的多数の応援があったからだ。こうした状況の中で、政府や議会や、天皇自身、戦争遂行へと傾いていった。結局戦争は「国民一人一人のの責任」だということができる。この認識がないと、歴史はいくたびでも繰り返す。

 What is Past is Prologue.
   過ぎ去ったことはプロローグ(序章)である。

 ワシントンの国立公文書館の入り口に石像が建っていて、その台座には、この箴言が刻み込まれているという。

<今日の一句> 虫の音も 涼しくなりぬ 月の夜  裕


2002年09月09日(月) 結婚まで

16.理科の授業

 私は数学科で採用試験を受け、数学の教師になる予定だった。しかし、採用されたとき、理科と物理を教えて下さいと校長に言われた。私にとってはこの方がありがたかった。非常勤講師で一年間勤めた高校では数学を教えていたが、もともと私の専門は物理学である。校長も教育委員会もこのことを知って、私を理科の教師として採用することにしたのだろう。

 1年生の3クラスに「理科」を教え、3年生の1クラス(選択クラス)に「物理」を教えることになった。「理科」というのは、物理の他に生物や化学、地学も入っている。化学や地学は物理の親戚のようなものだからよいが、生物は専門外である。しかし、そうした新しい分野の勉強もなかなか楽しいものだった。

 とくに面白いと思ったのは進化論で、さっそく何種類かの本を買ってきて勉強をした。なぜ生物にオスとメスがいるのか、キリンの首はどのようにして長くなったのか、恐竜はどうして絶滅したか、いろいろな説があって、素人の私でも空想をたくましくできる余地がありそうで楽しかった。

 机は職員室と物理準備室にあった。私は朝の職員朝礼が終わると、そのまま別棟の3階にある準備室に向かった。あとはほとんど一日を準備室で過ごすことになる。準備室には私の机の他に実習助手の岩野さんの机と、化学を教えている若杉先生の机があった。若杉先生は4階の化学準備室に机があったが、昼食時になると私たちのところへ来て一緒に食べた。私より数歳年下の、誠実で親切な、どちらかというと学究肌のおだやかな先生だった。

 助手の岩野さんは、30代後半の色の浅黒い気さくな性格の人で、私にとって一番頼りになりそうな人だった。実際に理科の知識があり、手先も器用なので、実験の道具や装置はほとんどこの人に作って貰った。

 授業はとなりの物理室で行った。生徒が時間になれば向こうから来てくれるわけだから、すこぶるらくちんである。一クラス45名ほどいた。いくらか女子の方が多い。新任と言っても、非常勤講師の経験があるから、授業の進め方はわかっている。私語をする生徒もなく、私の話を顔を上げて聞いてくれる。50分がなんの苦痛もなく過ぎていく。一段高いところからもっとも得意な話をするのは、自分がひとかどの人物になったようで、とても気持のよいものだった。

<今日の一句> 庭蛙 さがし疲れて 白い花  裕


2002年09月08日(日) 帝国議会と軍部

 無謀な戦争を起こして国民を惨禍にまきこみ、諸悪の根元のように言われる日本の軍部だが、その軍部に果敢に抵抗した人々がいる。今日紹介するのは、戦前の帝国憲法のもとで、言論の自由を擁護し、軍の独裁を批判して一歩も譲らなかった帝国議会の勇士たちである。

 大正2年、立憲政友会の尾崎萼堂は帝国議会で、桂小五郎内閣糾弾演説を行った。日露戦争を勝利に導き、絶大な権力を手中にしていた桂首相に、その増長を戒め、性格まで誹謗するような演説をした。

「君はつねに口を開けばただちに忠愛を唱え、あたかも忠君愛国は自分の一手販売のごとく唱えている。しかしその実態はどうか。天皇陛下の名の下に、ただ私利私欲を行っているに過ぎない」

 この尾崎の演説に、満場総立ちとなって議員達は拍手喝采を送ったという。もちろん桂を支える藩閥軍閥はこれに怒った。薩摩の樺山海軍大臣は「それほどまでに反薩摩的言辞を弄するのならば、議会に大砲をぶちこむぞ」と恫喝したという。しかし新聞はこぞってこれを批判し、結局この尾崎の発言が導火線になって、桂内閣が倒れた。桂はこのあと悶死したという。

 この尾崎の大演説の5年後に、藩閥出身ではない衆議院議員の原敬が総理大臣に選ばれ、平民宰相とよばれた。しかし、世界大恐慌がおこり、日本の経済もたちまち苦しくなる。日本をめぐる世界の情勢も厳しさをまし、軍部は国民の不満を背景に満州事変を起こすなどして着実に影響力を貯えていった。

 こうしたなか、昭和11年に2.26事件が起こった。翌12年1月の帝国議会で、浜田国松代議士は、寺内陸相を相手に、「最近の軍部をみるに、あなたがたは独裁の道を歩んでいるのではないか。軍人は政治に関わってはならないはずである。軍という立場で政治を行うところに危険がある」と指摘した。

 立ち上がった陸相は顔を紅潮させながら「軍部独裁など考えていない」と否定したあと、「軍人に対していささか侮辱するかのごとき言説があったのは遺憾である」と憤慨した。これに、浜田代議士が噛みついた。

「自分の言説のどこに軍隊を侮辱した箇所があるか。いやしくも国民を代表している私が、不当な喧嘩を吹っかけられては後へは引けぬ。どこが軍を侮辱したのか、事実を上げよ」(浜田代議士)

「侮辱したとは言っていない。ただ侮辱するかのような言辞は、軍民一致の精神を阻害すると言いたかっただけである」(寺内陸相)

「侮辱したと最初に言っておきながら、こんどは侮辱に当たるような疑いがあるとトボケてきた。武士は古来、名誉を重んじる。事実も根拠もなくして他人の名誉を傷つけるのは許しがたい。・・・速記録を調べて、小生の発言に軍を侮辱した言葉があるかどうか探してほしい。あったら割腹して君に謝罪する。なかったら君が割腹せよ」(浜田代議士)

 この発言で議場は混乱した。怒った陸軍は広田首相に議会を解散するか、浜田代議士を政友会から除名させるように詰め寄った。このとき、浜田国松は70歳、明治37年以来議員歴30年を超す政界の長老だった。2日間議会は停止し、そのまま広田弘毅内閣は総辞職してしまった。

 この頃の議会にはまだこのような言論の自由があり、これを守ろうという気概のある議員達がいた。それは軍人の横暴を憎む国民の声が残っていたからである。朝日などの大新聞も戦争賛美に傾いていなかった。この結果、浜田代議士は議会で何の譴責をうけるこはなかった。そしてこのあとの総選挙でも、与党は敗北し、林銃十郎内閣も続いて総辞職する。

 しかし、陸軍はこの年の7月7日、廬溝橋事件を起こし、ついに日中戦争へと突入する。そしてこの年の暮れには首都南京にせまるほどの破竹の勢いだった。これに国民は熱狂し、新聞も一転して戦争をあおり立て、軍部を賛美するようになる。昭和14年に浜田が死んだ。南京は陥落したものの、日中戦争は泥沼化しつつあった。

 昭和15年、今度は民政党から斎藤隆夫代議士が立って、当時の畑俊六陸相に、すでに10万を超える犠牲者を出したこの戦争にどんな意味があるのかと「聖戦の意義」を問う。畑陸相は彼の理路整然とした議論に感心し、「政治家というものは、なかなかうまいこと急所をついてくる」とため息をもらしたという。

 これが有名な斎藤の「反軍演説」と呼ばれるものだ。しかし、この斎藤の発言に対して、仲間の同僚議員たちが異議を申し立てた。なんと「聖戦目的を侮辱するものである」として斎藤代議士を除名し、発言そのものを議事録から削除してしまった。さらに「聖戦貫徹に関する決議案」まで可決した。

 4年前に浜田代議士の演説を支持した代議士達が、今度斎藤弾劾に動いたのは、戦争に熱狂した国民の声が軍部の側にあったからである。軍部にさからっては自分たちが当選できないと判断したからだ。この日、議会は自らの手でその生命を終わらせた。そして「反軍演説」から5年たって、日本は二発の原子爆弾を落とされて敗戦を迎える。

 意外に思うかも知れないが、帝国憲法下においても議員の言論の自由は保障されていた。(大日本国憲法第52条)。しかも議会は予算を決定すべき権利を握っている。いくら軍部が戦争をしようと思っても、軍費がなければこれを遂行することはできない。だから力関係から言えば、議会が上である。ただ代議士が怖いのは、選挙民である。国民の多数の声が戦争に傾いたとき、議員はこれに抵抗することはできない。このことは今も昔も、未来も変わりない現実である。

<今日の一句> いわし雲 どこまで続く 秋の空  裕 


2002年09月07日(土) アメリカの光と影

 戦争中、日本人は鬼畜米英を叫んだ。しかし、敗戦後、日本人はハリウッドの映画に象徴される開放的で自由なアメリカが大好きになった。なにを隠そう私もアメリカが大好きだった。中学生のころは地球儀でアメリカを見ただけで、何だか胸が切なくなるような思いを抱いたものだ。

 大学に入って、社会主義に共感を持ち学生運動にもかかわった。アメリカ主導のベトナム戦争に反対し、反米に傾いた時代もあるが、それでもアメリカの自由主義、民主主義に憧れる気持はあった。フランクリンやジェファーソン、エディソン、リンカーン、ケネディ、キング牧師など、多くの偉人を輩出し、ヘミングウエイやマークトゥエンなどの作家を生んだこの魅力に満ちた国をそう簡単には否定できなかった。

 現在、私はアメリカを手放しで賛美しようとは思わない。貧富の差がはげしく、犯罪率も高い。必ずしも全面的に日本がお手本にすべき国ではない。しかし、世界でもっとも魅力的な国はどこかと聞かれたら、たぶんアメリカを上げるのではないだろうか。ヨーロッパの国々、たとえばオランダやスエーデン、フランスなども充分魅力的だが、やはり多民族国家アメリカのスケール大きさと懐の深さには及ばない。

 20世紀はまさにアメリカの世紀だったといえる。ドイツや日本のファシズムを粉砕し、ソビエト共産党の全体主義をうち砕いた。そして世界の平和と繁栄のために、アメリカはそれなりの寄与をした。私たちが国際社会のリーダーとして民主主義の旗手であるアメリカを持ったことは幸せなことだった。日本人はこのことを深く実感しているのではないだろうか。

 しかしそれはそれとして、最近のアメリカの国際社会における姿勢にはがっかりさせられることが多い。自国の経済活動を優先させて、いま国際的な緊急の課題になっている地球温暖化や環境問題をないがしろにしたり、9.11事件に対する過剰なほどの軍事行動など、批判すべき点は多い。今後アメリカが覇権国家として暴走しないように、私たちはつねにその行動に対して批判の目を向けていく必要がある。

<今日の一句> 朝涼に 虫の声きく しみじみと  裕


2002年09月06日(金) 市民社会と民主主義

 民主主義の歴史は、古代ギリシャから始まる。王制、貴族制、潜主政治などをへて、紀元前5世紀ごろ、ギリシャの都市国家で成立した。その代表はアテネである。

 古代ギリシャにおける最も偉大な人物の一人に、政治家ペリクレス(BC495〜BC429)をあげることができるだろう。なぜならアテネの民主主義を完成させたのが彼だからである。彼は国政の最高意志決定機関として「民会」を位置づけ、すべての市民に民会に出席して意志表示できる権利を与えた。

 さらに、すべての政府の役職を市民の抽選で決めることにした。そしてこれまで無償だった役職者に手当を支払う制度をもうけた。これは貧しい市民が生活の維持のために役職を辞退しないですむための配慮である。

 抽選で決められる役職の中には、最高位の「執政官」も含まれる。いわば首相や知事をくじ引きで決めようというわけだから、アテネの民主主義がどれほど徹底していたかわかるだろう。首相公選制さえ実現していない日本は、古代アテネの足下にも及ばない。

 こうしたペリクレスが主導した民主政治は、アテネに成熟した「市民社会」をもたらし、未曾有の文化的・政治的繁栄をもたらした。今日私たちがギリシャの栄光としてたたえるもの、例えばパルテノン神殿やギリシャを代表する数々の芸術品、ソクラテス、プラトンの哲学など、ほとんどすべてのものがこの黄金時代の産物である。言論、政治、経済活動の自由のもと、アテネには周囲の国々から有能な人々と富が集まってきた。

 ところでペリクレスはどうしてこれだけの改革が断行できたのだろう。彼自身は一度も「執政官」になったことはなかった。ただ一介の市民でしかなかった彼がまるで独裁者のようにアテネの政治を自由に動かすことができたのは、なによりも彼の言論の力がすぐれていたからである。

 民会で彼が立ち上がり、意見を述べ始めると、政敵でさえ彼の意見を無視することができなかった。なぜなら、そこに道理がとおっていたからである。ペリクレスの演説がどのようなものであったか、「私の好きな言葉」に収めてあるので、ごらんいただきたい。

 こうしたアテネの民主主義は、ペリクレスが死んで、アテネがスパルタの軍事力に蹂躙されてもまだ、その遺産として存続した。しかし、さすがにこれを手放して賛美することはなくなった。その代表はプラトンだろう。彼は民主主義はやがて衆愚政治に堕落し、そのはてには独裁政治が起こってくると予言している。そしてこれはその後の人類の歴史のなかで何度も実証された。

 アテネ民主政治に対する、もっとも有力な反論はたとえばアウグスティヌスの「神の国」の中に見出されるという。

「アウグスティヌスによれば、人間は独力で道徳的価値を生み出すにはあまりに堕落しており、真・善・美・意味といった恒久的尺度はどれも、聖霊の神秘的なはたらきに由来する。歴史は人間事象に神が現前したことの記録であり、その意味は人間精神の所産ではなく全キリストの啓示に見出されるものなのである」(「市民社会論〜歴史的・批判的考察」)ジョン・エーレンベルク著 青木書店)

「ギリシャ人やローマ人たちは、政治的に組織された市民社会の中での言説・討議・活動が人間的幸福の基礎を気付くと考えたが、いままさにアウグスティヌスは、信仰・聖書・教会をとりあげ、キリスト教原理だけが政治的活動や市民社会編成のための基礎を築くことができるとした」(同上) 

 アウグスティヌスは宗教的見地から民主主義を批判した。このほかに、ホッブスのような政治主義からの批判がある。こうした批判は現代でもそのまま衣装を変えて存在している。これにたいして民主主義の側から民主主義擁護論の代表はジョン・ロック(1632〜1704)の「市民政府論」だろう。民主主義と近代市民社会論の原典ともいうべきこの書については、いずれじっくり書いてみたいと思っている。

 なお、民主主義と言えば選挙制度を上げる人がいるが、これは間違いである。直接民主主義のギリシャには選挙はなかった。民会の構成員を選挙で選んだのはローマである。候補者をキャンディデイトというのはラテン語で「白い布をかぶった人」という意味らしい。ローマの候補者は目印に白い服をきたのだろう。日本でも選挙の時白いたすきをかけていたが、これはこの名残だったのかもしれない。

<今日の一句> いつまでも 暑さ続きぬ 玉の汗  裕 


2002年09月05日(木) 人民の、人民による政治

 私は首長は公選で選び、議員は抽選で選んではどうかと思っている。これは国政レベルでも、地方レベルでもそうで、国政レベルでいえば、「首相公選、国会議員抽選制」ということになる。

 国民のリーダーである首相を国民の直接選挙で選ぶことは賛成できても、議員を抽選で選ぶことにはかなり抵抗を感じるかもしれない。しかし、民意を議会に反映させるにはこれがよい。

 これによって、男女の比は等しくなり、あらゆる世代の、あらゆる職業の人が平等に議員として選ばれる。老害や利権とも無縁の政治が実現できる。国民にとって政治がうんと身近なものになるだろう。

 議会のもっとも大切な役割は、政府の出してきた予算案をチェックし、その政策の説明や執行状況をチェックすることである。国民からまんべんなく抽選で選ばれた人々が、それぞれの立場から行政府の仕事ぶりを監視し、批判するすることで、偏りのない公明な政治が実現できるだろう。

 これまでの日本の議会には党派政治が横行し、そこで行われているのは国民不在の権力闘争でしかなかった。とくに国会議員の多数決によって首相が選ばれるために、この弊害が大きい。議会と行政府が癒着し、チェック機能が働かないばかりか大政翼賛組織にさえなっている。

 ときには長野県のように、公選首長と議会が対立することも起こるが、こうしたねじれがおこってくる原因の一つには議会が民意を反映していないことがあげられる。首長の公選制を優先させ、議会の方を抽選制にすれば、このねじれ現象は解消するだろう。

 また、議会は立法権をもっている。ところが日本では法律は政府や官僚がつくっている。議員立法がほとんどないのである。これでは三権分立とはいえない。なぜこうしたことになるかといえば、議員に新しい法案を作ろうという欲求も発想もないからである。国会をそれぞれの生活の現場で苦労している庶民の代表にすることで、もっと切実な議論や討論が可能になり、必要な法案の提出も増えるのではないかと思う。

 議員立法をむつかしくしているのは、議員に専門知識がないからだともいわれている。抽選制にすればさらに専門知識のない議員がふえるのではないかという危惧が生じるかもしれない。しかし、法律の条文はそれを仕事にしているプロにつくらせればよいのである。そのために国会には法制局がある。「これこれのことを実現したいので、そのために必要な法律案を作成しなさい」という要求を出すことが大切である。

 議員立法を一番多く成立させたのは田中角栄だった。彼が「これこれの法案を作りたい」と言うと、官僚はたいてい既存の枠の中でしか考えずに、「それはむつかしいです。これまでの法律と矛盾しますから」と答えたらしい。それに対する田中氏の答えは「それなら、いまの法律を変えればいいじゃないか。現行法を改廃して、新しい法律を作ろう」だったという。

「田中が現在までに提出して成立させた議員立法の数は33件だが、この3年間に21件と集中している。その内容は住宅、道路、国土開発などの国民生活の整備や、社会的な弱者に対する救済立法であった。昭和20年代の田中は議員立法に政治生命をかけたのである」(「政治家田中角栄」早坂茂三著、集英社文庫)

 アメリカの場合、提出された法案がさまざまな不首尾をもっていても、それはあまり問題にされないという。なぜなら新しい法案に優先権があるからである。古い法案と矛盾するなら、以前のものをかえればよいという、ごくあたりまえのことが、慣例を重んじ既得権益を重んじる日本の官僚や法律家には、なかなか理解できないらしい。

 私は議員抽選制によって、民意を直接議会に反映させることが必要だと考えているが、これに反対する人もいるだろう。民意がかならずしも最良のものとは限らない。たしかに「人民の、人民による」政治が、「人民のためになる」とは限らない。しかし、このリスクを負うことによってしか、民主主義は実現できないのである。このリスクを負おうとしないあいだ、日本は永久に民主国家となることはできない。

 首長は議会をバックにして、その多数派工作に依存して政治を行うのではなく、国民の代表である議会を尊重しながら、ときにはこれに対決する見識を示して、緊張感のある施策を打ち出していく必要がある。知事に再選された田中康夫氏が、来年度に実施される長野県議会選挙について、「私は議会に自分の与党を持とうとは考えていません」と述べていた。こうした新しい感覚をもつ首長がふえていけば、日本の政治は確実にかわっていくに違いない。

<今日の一句> 日焼肌 少女笑へば 歯は白し  裕


2002年09月04日(水) 政党政治をやめよう

1日投開票された長野県知事選は、県議会から不信任を突きつけられて失職した前知事の田中康夫氏が圧勝した。共産党以外のあらゆる政党の支持を受けた長谷川敬子候補は田中氏の知事としての資質や議会との対決姿勢を批判したが、有権者は田中氏の「県政改革」の手腕に多くを期待したようだ。

 朝日新聞の出口調査によると、前回の知事選と比較して、田中氏の得票は「男性優位」が「女性優位」へと逆転し、郡部の高齢層が「反田中」から「親田中」に大きく変化したという。あらゆる地域のあらゆる世代が性別を問わず彼の改革姿勢を圧倒的に支持した。こうして次点の長谷川氏に2倍以上の差をつけて80万票をこえる大量得票になった。

 政党別に見てみよう。田中氏支援を鮮明に打ち出した共産党の支持者は9割以上が田中氏に投票したのは当然だが、自民支持層は田中氏に47%、長谷川氏に49%でほぼ互角だった。民主支持層は田中氏66%、長谷川氏29%、公明党は県議が長谷川氏を支援したが、公明支持層の55%は田中氏に投票した。無党派層は田中氏76%、長谷川氏20%と、圧倒的に田中氏優位だった。

 こうしてみると、今回の選挙でまた一段と有権者の政党離れが進んだことがわかる。無党派層の増加に加え、政党支持者でさえもはや政党の政策に背を向け始めていることがわかる。そして有権者の政党離れというより、むしろ政党が有権者の意識から離れていることが問題だと思う。このことは地方選挙だけでなく、国政選挙でも明らかになりつつある。

 これを議会制民主主義の危機だという人がいる。民主主義とは政党政治だという考え方からすればそういうことになる。しかし、私はこの政治学の定理を疑っている。政党政治が民主主義として機能していた時代が日本にもなかったわけではないが、いまや、政党政治が民主政治の対立物になっている。そろそろ政党政治が民主主義だという幻想から自由になってはどうだろうか。

 政党の呪縛をのがれることで、私たちは自らをほんとうに幸福にする政治を創造できるのではないだろうか。長野県知事選の顛末をみて、私が思ったことはこのことである。いずれ、「政治学入門」で、このことをもうすこし分かりやすく書いてみたいと思っている。

<今日の一句> しみじみと 蟋蟀鳴けり 草匂う  裕


2002年09月03日(火) 社会性を破壊する教育

 古代ギリシャの初等教育は体操と音楽が中心だった。ここで音楽というのは言語(会話術)やホメロスの詩の暗唱が中心である。市民として必要な健康な肉体と共同体精神を養うことが目的とされた。このあと、本格的に三学(哲学、修辞、論理)と四科(数論、幾何、音楽、天文)を習うことになる。

 欧米の教育にはこの伝統が生きている。たとえばアメリカの初等教育で重視されるのは何よりも相互理解のためのコミニュケーションの能力である。これによってまず社会性をやしない、社会の一員としての連帯感を養う。

 アメリカ人としての誇りを持たせ、国への忠誠心や、よき市民として自立心、個人としての独立心を持たせること、これが初等教育の中心的課題だという。そのためには自分と違った意見を持つ人間を理解し、自分の意見を伝えること、会話や討論ができることが重要になる。

 この教育のために、ほとんどの時間が費やされるために、具体的な教科の学習はあまりすすまない。たとえば、分数のかけ算や割り算のできない子供が大勢いる。だから、アメリカの大学には英語と数学の初等コースが用意されていたりする。

 アメリカ人が高校までの教育に期待するのはまともな市民(アメリカ人)になることであって、必ずしも数学や理科の勉強ができることではない。それでは勉強はいつ、どこでするのか。それは大学に入ってから、研究をするのは大学院にはいってからすればよいと考えられている。

 こうした社会性重視の教育観は、日本とまるで違っている。日本では小学校から教科の勉強が中心である。そしてテスト勉強や受験競争に精励して、これの勝者になることが社会へのパスポートだと教えられる。こうした競争中心の教育制度が何をもたらすか、だれの目にもあきらかだろう。

 一言で言えば、社会人としての連帯感の喪失である。利己主義と虚無主義をはびこらせ、モラルを喪失させる。日本でおこなわれている教育はあきらかに、人間性破壊以外の何者でもない。今日本に充満しているのはそうして心のよりどころをうしなった、自分と身内のことにしか関心のない反社会的人間である。

 日本の学校教育がそうした人間を大量生産している。そしてその反動として、古くさい道徳や奉仕精神の高圧的強制が、教育正常化の美名のもとに行われようとしている。この愚かしさに一刻も早く気付いて欲しい。

<今日の一句> 廃業の 工場敷地に 虫がなく  裕


2002年09月02日(月) 結婚まで

15.少女たち

 私たちの世代の男性は、ほとんどがサユリストではないだろうか。「愛と死をみつめて」や「キューポラのある街」「美しい暦」「いつでも夢を」などの吉永小百合はほんとうに清純で、青春のシンボルとして輝いていた。

 私が教員になった1970年代の終わりは、山口百恵が人気で、青春映画の輝けるスターだった。小百合といい百恵といい、セーラー服がよく似合う。映画を見ながら、こんなに可愛い少女達に出会えるのなら、高校教師も悪くはないななどと思ったものだ。

 現実はいささか映画とは違っていた。たしかに少女達は野の花々のように美しく、私の心をそそったが、それは禁断の花である。うっかり手を出したりしたら取り返しのつかないことになる。

 結婚をして、かなり年輪を重ねた現在の私は、美しい存在を美しいままに観賞用として眺めることができる。それだけ落ち着いて、傍観者でいられるのだが、若い頃はそうでもなかった。声を掛けられたり、体を寄せられたりすると、ついつい平常心を失って、あらぬ妄想に駆り立てられたりもする。すべては若さゆえの煩悩であり、欲望の渇きだった。

 放課後、テニスコートでしばらく汗を流す。少女達のスコート姿はそれだけで私の血を騒がせる。とくに副部長の西野小百合は色白の美しい少女で目が離せなかった。無意識のうちに私の視線が彼女を追っていた。

 軟式テニスは大学の授業で半年ほど経験しただけで、ほとんど初心者とかわりがなかった。だから、生徒と球を打ち合っても勝負にならない。本を買ってきて読んでみたが、実践となるとそう思うように体がうごかなかった。

「先生、がんばって」
「しっかり、球を見て」
「もっと、足を使って」

 生徒に励まされて、コートを駆け回るが、最後は足がもつれて転倒する。しかし、この瞬間が、なんとも爽快だった。

<今日の一句> 桜貝 拾へばたのし 浜の秋  裕


2002年09月01日(日) 月光の夏

 神山征二郎監督の映画「月光の夏」を観た。この映画は実話をもとに製作されたのだという。観ていて何度も涙を誘われた。特攻隊員のかなしみがよく表現されている。そして特攻という非人間的なシステムの実態がよくわかる映画だった。とりあえず、あらすじを紹介しよう。

 太平洋戦争末期の昭和20年5月。佐賀県鳥栖市の小学校に、二人の若い特攻隊員が来校し、ピアノを弾かせてくれと申し出る。二人は実は親友で、元音楽学校の生徒だった。今生の別れに、グランドピアノが弾きたくて、外出許可をとってやってきたというのだ。さいわいその小学校にはドイツ製のすばらしいグランドピアノがあった。

 校長、教頭、音楽教師の吉岡公子(若村)や児童の見守る中で、一人の青年がベートーベンのピアノ・ソナタ「月光の曲」を、見事に演奏する。それから、もう一人の青年の演奏で「海ゆかば」の合唱。このあと23歳の二人は、知覧飛行場から沖縄沖の米軍艦船めがけて特攻出撃する。

 音楽教師の公子の耳に、青年の弾いた月光の曲が記憶され、教員や児童に見送られ、何度も振り返りながら手を振って帰って行った二人の姿が目に焼き付いた。しかし、名前もわからず、戦争が終わっても二人の消息はようとして知れない。                    
             
 戦後40年以上経過したある日、教職を退職した公子は、久しぶりに小学校に行き、老朽化したグランドピアノが破棄処分される事を知る。そのピアノを引き取りたいと思った公子が、校長に事情を話すと、是非その話を全校児童に話してほしいと言われる。こうしてグランドピアノをめぐる戦争秘話が明らかになり、テレビや新聞でも紹介された。 

 ピアノを修復して、その美しい音色を甦らせようという運動とともに、二人の特攻隊員のその後の消息をさがそうという機運が盛り上がる。しかし、生き残った特攻隊員の多くは口が重く、なかなか取材に応じようとしない。やがて二人の青年のうちの一人が生存していて、熊本に住んでいることがわかったが、彼(仲代達矢)もまたマスコミの取材に、「そんな記憶はない」と答え、公子の話はピアノを保存する為のつくり話だという疑いがマスコミで報道される。

 エンジントラブルで特攻に失敗した彼は、福岡の特攻指揮本部に送られ、そこで卑怯者として上官から侮辱され、そうした隊員たちを集めた寮に軟禁状態に置かれた。再度特攻を志願しても許されず、彼は名誉回復されないまま終戦を迎えていた。ピアノを一緒に弾いた親友や他の若い特攻隊員の死に負い目を感じ、そうしたいまわしい過去を、だれにも語らず、寡黙に生きてきたのだ。

 そうした事情にうすうす気付いた公子は、彼に手紙を出す。公子は「私はただ、子供たちに戦争の真実を伝えたかっただけなのです」と述べ、その事が彼に迷惑を及ぼしたことをわびた。その公子からの手紙が彼の心を揺さぶり、彼に特攻隊の真実を語る決心をさせる。そして、再びグランドピアノと対面し、彼女や児童達の前で、今はない親友が弾いた「月光の曲」を演奏する。

 いま、そのピアノは知覧の戦争記念館に展示されているという。ネット検索で調べたところ、佐賀県鳥栖商業高校の弥永裕香さんの「戦争と私」という文章があったので、その一部を引用しよう。

<「戦争」それは、もはや大昔の出来事として、忘れ去られようとしています。 「戦争を知っていますか。」と、問われれば、誰もが知っていると答えるでしょう。しかし実際には、戦争とは何か、全くに近いほど知らないのです。私自身も、何も知らないのです。いえ、知らないということ自体に気が付いていなかったのです。

 私がそのことに気がついたのは、中学三年生の時、修学旅行で知覧を訪れてからでした。館内に所せましと貼られた若い特攻隊員の、やさしく微笑んだ顔、きりりと引き締まつた顔、遺品や、涙をさそう遺書、そしてフッペルのピアノが置いてありました。このピアノは、私の母校、鳥栖小学校にあったものでした。

 それは、私が小学生の頃には、誰も振り向かず、誰も手入れをせず、やがて朽ちていくはずのピアノでした。ましてや、そのピアノに秘められた歴史のことなど誰も、知るはずもありませんでした。そのピアノが、映画「月光の夏」で再び命を持ったとき、悲しい思い出もよみがえることになりました。そのピアノこそ、私に戦争という歴史の存在を教えてくれたのでした>

 同じく、ネットで検索した文章からの引用である。
<映画に登場する特攻隊長は出撃したパイロット中最年長の25歳。音楽の道に進むことを戦争で阻まれ、出撃前日にどうしてもと小学校のピアノを借りるふたりの隊員は23歳。以下18歳と17歳の隊員が続く。

 終戦間際の日本は、こうした少年たちまで飛行機に押し込み、敵艦に体当たりすることを強要した。しかし多くの特攻機は待ち受ける敵の戦闘機や艦船の機銃掃射に会い、目的を遂げる前に撃墜される。

 映画にはアメリカ軍が撮影した特攻機の映像が挿入されているが、敵艦の前で海に墜落したり、ばらばらに解体しながらきりもみ状態で墜落して行く飛行機の一機一機全てに日本人の若者が乗っていたことを思うと、僕は胸を押し潰されるような気がする>

 「いま特攻隊の死を考える」 (白井厚編、岩波ブックレット、2002年7月)のなかに、次のようなインタビューが収録されている。特攻で兄を失った女性と白井さんの対話である。

「兄は特攻隊員で、沖縄で突入して死んだのです」
「アメリカの軍艦に命中したのですか?」
「いえ、海の中に落ちたそうです」
「それは残念でしたね」
「でも誰も殺さないで兄だけ死んだのだから、それでよかったと思います」

 神風特攻隊の生みの親、大西滝治郎中将は特攻隊のことを「統制の外道」と自嘲的に呼んだという。特攻隊は統帥権を持つ天皇の裁可を得た正式な部隊ではなかった。責任が皇軍統率の最高責任者である天皇に及ばないようにとの思いもあったらしい。

 こうした非常命令によって、自らの命をすて国家のために散った有意な特攻青少年の数は、ゆうに1000名を超えている。私は彼等の死に憤りとかなしみを覚える。しかし彼等の愛国心を賛美する気にはなれない。本当の愛国心はもっと広い心で、人類の平和と繁栄のために捧げられるものでなければならない。

<今日の一句> 特攻の 少年あはれ 夏に逝く  裕


橋本裕 |MAIL |HomePage

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