橋本裕の日記
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18.心の中のパルテノン
その年の夏、芳子は東京で実入りのよいアルバイトをして、その金で海外旅行をしているという話だった。私は墓参りに一日だけ福井に帰省したくらいで、朝夕刊の配達のかたわら、大学の図書館へ通って物理や数学の勉強をはじめた。
日曜日には大手堀の市立図書館へ行った。年代物の古い建物で、蔵書も古かった。私はそこでも脇目もふらずに勉強をした。やがて学問に対する自信が少しずつ回復してきた。私はもう自分を無気力な廃人だとは思わなかった。 その図書館で、弘子と顔を合わせた。四年生に進級した弘子は大学院に進級するつもりで勉強していた。
それから二人は時々図書館の机に並んで勉強した。 秋に金沢大学で大学院の試験があった。 弘子の他にかっての友人たちも受験したが、弘子をはじめほとんどが落ちていた。合格したのは名古屋大学からの来た学生たちだった。
私はそうした様子を脇で眺めながら、図書館に通い続け、頭の中に物理と数学の世界を少しずつ構築した。やがて全体像が見えてくると、問題の核心がいくらか明晰に心に浮かぶようになった。やがて私は物事をいくらかシンプルに深く考えられるようになってきた。ときには自分の頭の中に構築された世界の美しさに感動し、恍惚とした喜びに我を忘れることもあった。
そんなとき私は自分の心の中に、美と真実に満ちた女神の祭られたパルテノン神殿を建設することを夢想した。 (心の中に神殿を建てる) そんな観念がいつか私をとりこにしていた。
エリック・ホッファーは7歳のとき視力を失った。盲目生活は8年間続き、15歳のとき急に視力が回復した。しかし、いつまた視力をうしなうことになるかわからない。そうした不安に駆られて、ホッファーは手当たり次第に本を読みはじめた。盲目になる前に、できるだけ本を読み、知識を蓄え、この世界のことについて理解しておきたかったからだという。
読書の習慣は放浪生活者になってからも続き、彼は肉体労働の合間に図書館に通い、独力で大学の物理や数学の教科書をマスターした。彼にとって、本を読むことは精神の眼を開くことだった。それは心を無知の闇から解放し、魂を自由にすることだ。彼はなによりも心の自由をもとめた。そのための放浪生活であり、後に体験する港湾労働者としての生活だった。
ホッファーが植物学に目覚めたのは、トマトの農場で働いていた頃だという。トマトの苗木を移植しながら、ホッファーは「なぜ苗木の根は下に向かって伸び、茎は上に向かって伸びるのか」という疑問に捉えられた。そうすると、その理由が知りたくなり、すぐさま事務所に行きその日までの給料を精算してもらい、貨物列車に乗って、町の図書館に行った。
こうして彼の植物学との格闘の日々がはじまった。すでに物理学と数学をマスターしていた彼にとっても、植物学はさらにむつかしい専門用語に満ちた難物だった。しかし、彼は持ち前の闘志で植物学をマスターした。彼は図書館の近くの古本屋で見つけたドイツ語の植物辞典をナップザックに入れて、つねに持ち歩くようになったという。
そんな彼に自分の植物学の実力を試す機会が訪れた。バークレーのレストランで給仕のアルバイトをしているとき、カルフォルニア大学柑橘類研究所所長のスティルトン教授とであったのである。スティルトン教授はテーブルの上にドイツ語の文献をひろげ、なにやらぶつぶつ言っていた。
給仕の合間にホッファーが声をかけると、彼は当時カルフォルニア州で流行していたレモンの葉が白くなる病気を調査中だという。この病気のためにレモンの収穫量が激減していた。研究所所長として、彼は精力的に研究していたが、そのためには膨大なドイツ語の文献に目を通さなければならない。
「ドイツ語は、悪魔が発明した言葉ですよ。ページの頭から始まってページの最後に終わるたった一つの文章の意味が分からなくて、何時間も考えているのです。運が悪いことに、この怪物のような文章には重要不可欠な情報が含まれていて、正確な意味を理解しなければならないのです。辞書はあまり役にたちません」
途方に暮れている教授に、ホッファーは紙と鉛筆を要求し、その難解なドイツ語で書かれた文献を翻訳し始めた。教授は信じられないという顔でホッファーを見つめ、目の前の青年がドイツ語にも植物学にも通じていることを知ると、「研究所で働いてほしい」と持ちかけてきた。
こうして、ホッファーは大学の研究所の一員になり、レモンの白化現象の研究に取り組んだ。ホッファーはドイツ語の知識を利用して、白化現象についての膨大な文献を読みあさり、ついに原因を突き止めた。
<大喜びで教授の所に走り、自分の仮説を説明して、最後に冗談半分にこう付け加えた。「題の有情のレモン生産者に硝酸カルシウムを使ってみて結果を報告するように電報を打ってください」と。・・・結果が出るまで数日かかった。そして、ある日、スティトル教授が満面の笑みをたたえながら抱きついてきた。「成功だ!」彼は叫んだ。「白化に勝ったぞ」。教授は研究所の仕事を用意してくれていた。しかし、私は本能的にまだ落ち着くべきときではないと感じ、放浪生活にもどった>(エリック・ホッファー自伝)
後にホッファーは社会哲学の教授としてカルフォルニア大学で政治学を講義することになる。しかしその時も大学へ顔を出すのは週に一日だけで、サンフランシスコの波止場で暮らし、65歳まで港湾労働の仕事をやめなかった。大学の教授になることがホッファーの目的ではなく、あくまでも自由に生きることが彼の望みだったからだ。
ジョンソン大統領は彼をホワイトハウスのローズ・ガーデンに招いて歓談した。そして1983年にホッファーが80歳で死んだとき、ロナルド・レーガン大統領は「アメリカ大統領自由勲章」を送って彼の自由と勇気に満ちた人生を祝福した。
<世の中に神がいるわけでもなく、道徳や倫理や論理でさえも絶対的なものではないとすると、人生に意味はないことになる。こうした認識は人々をニヒリズムに導く。しかし、この問題を別の角度から眺めてみよう。そうすれば人生の意味や意義はそれぞれの人が自らの内部で作り上げるものだということに気づくはずである。人間だけがこの自由を手にしていて、創造的に生きることができるのである。人生に意味を与えるのは自分自身であり、大切なのは自分自身の決断や、生き方なのである。人間は自分を変える自由を持っている。自分で自分を自由にする勇気を持ちたいものである>(橋本裕「人生についての21章」より)
私はタバコは吸わない。酒も余り飲まないから、よほど安上がりにできている。父も弟も酒豪で愛煙家。なのに私だけ酒にも煙草の煙にも弱い。これはどうしたことだろう。突然変異だろうか。
実は酒は好きである。日本酒ならば、おちょこに3杯。ビールなら、グラスに一杯だけ。これは実にうまい。しかし、グラスに一杯のビールは天国だが、二杯目はそれほどでもない。三杯目は苦痛。四杯目は地獄だ。つまりアルコールの匂いだけでもうほろ酔い気分になれるのだから、これも実に安上がり。
タバコがおいしいと感じられたのは、3回しかない。一回目は、大学時代にデモに参加して、デモの合間に友人からもらった一本。これは実にうまかった。二回目は雨の中を富士山に登ったとき。途中の山小屋で吸った一本が実にうまかった。天国にいるような気分になれた。
3番目は、交通事故で死んだ教え子の現場まで長距離ドライブをして、そこでやはり友人からもらって吸ったときの一本。緊張していた心がすこしだけ融けて、元気が出た。花束を路肩において、死んだ教え子の冥福を祈って帰ってきたが、これはとても悲しい一本だった。
最後に煙草を吸ったのは、12年前の父の通夜の夜だった。親戚の人から一本貰って、外へ出た。父がいつも散歩に行っていた公園のベンチで、その一本をゆっくりすった。その最後の一本はうまくはなかった。それが私の最後の喫煙体験だった。
私は煙草を買ったことがない。理由は簡単で、本ばかり買っていたので、煙草を買うお金がなかったからだ。おかげで煙草中毒にはならなかったが、本は手放すことができなくなった。煙草は煙になって消えるが、本は私の部屋に蓄積する。東海地震がおこれば、下敷きになって死ぬかも知れない。肺ガンの確率よりもこちらの方が心配だ。
煙草の害が問題になっているが、アメリカの例などみると何か狂気じみていて恐ろしい。他人に迷惑をかけなければ喫煙は自由なはずである。煙草よりももっと大きな問題がある。それは大気汚染や地球温暖化の問題だ。嫌煙権をいう人は、関心のいくらかをこちらに向けて欲しい。
17.エウレイカ
昼下がりのことだった。畳に寝ころんで天井を眺めていた私は、習慣で枕元のラジオのスイッチを入れた。NHK教育ラジオで大阪大学教授の犬養孝氏が「万葉集」について毎日十五分ほどずつ話をしていた。私はそれをぼんやり聞いていた。
信濃なる千曲の川の細石も君し踏みてば玉と拾わん
犬養博士の朗らかな声に心が少し動いた。私は解説に耳を澄ませた。 「千曲川の岸辺にたたずんで恋人を見送った少女は、青年が踏んでいった小石を清流から拾いあげます。少女にとってその石は石であって、ただの石ではありませんね。恋人の心がそこについている石は、彼女にとって宝石よりも大切な形見なのです。万葉の人々は心はこうして物につくと考えていました。この歌にはそうした古代の人々の心の厚みが感じられます。人の心の頼もしさを身近に感じさせる歌ですね」
私の心がいつか波立っていた。起きあがると境内で遊んでいる子供たちの姿が見えた。うるさいとしか思えなかった子供たちの声が生き生きとよみがえり、あたたかく溢れるように迫ってきて、私はじっとしていられなかった。
サンダルを履くと、境内から山門に抜け、三味線や小太鼓の音が響く色街を通って、浅野川のほとりを歩いた。そして万葉集の歌を復唱した。 清流の中で鷺がこちらを見ていた。私は対岸の風景や、空の色を眺めた。河畔の松並木では蝉が啼いていて、日差しに川面が輝いていた。
私は自分がいま大地をしっかり踏みしめて歩いているのに気がついた。私の足取りは一歩ごとに確実になった。 「エウレイカ(見つけたぞ)」 私はその足で大学の生協を訪れ、折口信夫の現代語訳のついた河出書房の「万葉集」を購入した。
寺に帰るとそれを読みふけった。その夜、私は空想の中で、弘子や芳子と激しく交わった。
8.凡夫のための宗教
親鸞がよりどころとした経典は「無量寿経」だった。そこには阿弥陀仏(無量寿仏)について、「かの仏如来は来って来るところなく、去って去るところなし。生なく滅なく、過・現・未来にあらず。ただ願に酬い、生を度するを以て、現に西方におわします」と書かれている。
法華経には「久遠実成の釈迦仏」が語られているが、「無量寿経」で語られているのは「久遠実成の阿弥陀仏」である。そして親鸞の立場に立てば、「久遠実成の阿弥陀仏」がすなわち「久遠実成の釈迦仏」ということになる。
法然、親鸞とくれば、道元にも触れておくべきだろう。道元は仏教の哲理としては天台本覚思想を基底にすえつつも、現実的実践面では、凡夫と仏をひとまず分けて、凡夫が仏となる道を、只管打座という実践によって示した。道元もまた「法華経」を評価していた。
いずれにせよ、これら鎌倉仏教の祖師達は、天台本覚思想という理想と乱世という現実との二元相対のありさまに直面し、たいへん苦しんだ。彼らが自己のまわりに見出したのは、むつかしい漢語で書かれた仏典や仏の悟りとは一生涯無縁で、救いもなく苦界に呻吟する衆生の姿だった。こうした迷える衆生が救われない限り、自らも救われない。しかし、もはや天台本覚思想などという小難しい哲理では衆生も自らも救われない。救われるなどというのは幻想に過ぎない。
それではどうしたらよいのか。こうした悩みから、、それぞれにその解決を目差して実践を工夫した。それは無知文盲の一般庶民にも実践可能なものでなければならなかった。こうして「念仏」や「座禅」が生まれ、日蓮のように「南無妙法連華経」という題目をとなえるという実践法が生まれた。貴族や僧侶といった特権階級のものではない、庶民のための「凡夫の宗教」がこうして誕生したのだった。
エリック・ホッファーは二十八歳のとき、死のうと思って多量のシュウ酸を飲んだ。ロサンジェルスの貧民街でのことだ。都市労働者の死んだような日常生活に耐えられなくなったからだという。
しかし、ホッファーは自殺に失敗し、あらたな人間として甦った。彼は、<労働者は死に、放浪者が誕生した>と書く。さらに、都会を離れて放浪へと旅立つ門立ちの様子を、「エリック・ホッファー自伝」ではこんな風に書いている。とても気持ちのよい、さわやかな文章である。
<1931年から第二次世界大戦が起こるまでの十年間、私は放浪者として過ごした。自殺に失敗し、小さな袋を肩にかけてロサンジェルスを離れたとき、気持は軽やかだったし、広々とした田舎に出たときには、故郷に戻ったような気がした。恐れるものもなければ、新たな生活を始めるための準備期間も必要ではなかった。ヒッチハイクもせず貨物列車にも乗らず、南に向かって歩き始めた。
・・・気持ちよく歩いていると、詩が浮かんできた。言葉を探す作業は、体を揺らしながら歩く動作とうまくかみ合った。最初の一節はこうだ。
一人で歩くとぞくぞくする 野原が広がり空に出会う そして山は夢のような青の中に浮かぶ 先を急ぐ風がささやいていく>
ホッファーは農場で働き、お金が出来ると図書館の近くに部屋を借りて、好きな本を読んだりしながら気儘に過ごした。そしてまた金がなくなると、仕事を見つけて働く。ひとつの場所に落ち着くことはなく、カルフォルニア州のあちこちの町や農場を渡り歩いた。そこでさまざまな人々と知り合い、ときには一生の思い出となる恋にもであった。
町の停車場で知り合ったヘレンはカルフォルニア大学の美しい女学生だった。彼女はホッファーの勤めていたレストランへやってきて、彼の話に耳を傾け、やがて二人は恋人になった。彼女はホッファーが独学で大学の物理や数学の教科書をマスターしているのを知って、大学の講義を受けるように促した。カルフォルニア大学にはノーベル物理学賞を受けた有名な学者もいた。彼女はホッファーのなかに天才の素質を見出した。
しかし、ホッファーは放浪生活をやめようとは思わなかった。そしてある日、彼女に別れも告げずに町を出た。ホッファーは勉強は好きだったが、大学に残り研究者になろうとは思わなかった。しかし、彼女との別れはつらかった。ホッファーは彼女の面影が忘れられず、彼女はとの恋はついに彼の一生の思い出になった。
農場主や経営者の中には彼の才能や気性を気に入り、友人のように話しかけてきた者もいた。グンゼという裕福な農場主は彼を家に招き、酒やタバコを勧めながら、彼にこんな忠告をした。
「なぜ君のような知性のある人間が人生を浪費しているのだ。知らぬ間に、不自由な一文無しになってしまうぞ。安定した生活なしに、どうやって生きて行くんだ。将来のことを考えたことはないのかい」
「信じられないでしょうが、私の将来はあなたの将来より、ずっと安全です。あなたは農場が安全な生活を保障してくれると考えています。でも、革命が起こったら農場はなくなりますよ。一方、私は季節労働者ですから、何も心配することはありません。通貨と社会体制に何が起ころうが、種まきと取り入れは続くでしょうから、私は必要とされます。絶対的な安全が欲しいなら道楽者となって、季節労働者となって生計を立てる方法を学ぶべきでしょうね」
二人はこうして笑いながら語り合った。ホッファーは十年後に新聞でグンゼの死亡記事を見た。グンゼは遺書を残し、奨学金として50万ドルの寄付を申し出ていた。グンゼは公に発表された遺書の中でこう語っていた。
<現在の経済体制の下では、人は安定した収入源を確保するために半生を費やさねばならない。そして、上部構造を作り上げる時間は後半生に残される。しかし、それに手をつける者は百万人に一人もいない。
・・・それゆえ、フレズノ郡の中高年者に絵筆と絵の具を持たせよう。フレズノの初夏の丘を彩る灰色がかったピンクや淡い金色の組み合わせをキャンパスに描いた者は、まだだれもいない。・・・音楽について。フレズノ郡の住民の心には、何千という新しいメロディが眠っているに違いない。そのメロディを陽光のもとに誘い出し、歌い演奏しよう。もし命に触れるものがあれば、それは賞を獲得すべきだ>(「エリック・ホッファー自伝」より引用)
グンゼは他にも浮浪者用の宿泊施設の建設・維持のために4万ドルの寄付を申し出ていた。ホッファーが出会った頃のグンゼは将来について病的な恐れを抱いていた。しかし、遺書の内容は立派だった。
「エリック・ホッファー自伝」を読んでいて、ゲーテにこんな詩があるのを教えられた。詩の題は「温順なクセーニエン」である。高橋健二さんの訳で紹介しよう。
財産を失ったのは、いくらか失ったことだ すぐ気をとりなおして、新しいものを手に入れよ 名誉を失ったのは、多くを失ったことだ 名声を獲得せよ。そうすれば人々は考えなおすだろう 勇気を失ったのは、すべてを失ったことだ そのくらいなら、生まれなかったほうがいいだろう
ホッファーはこの詩をたまたまヒッチハイクしたトラックの運転手から教えられた。ただ、そのとき、「希望を失ったのは、すべてを失ったことだ」と教えられて、もしそのようにゲーテが書いているとすれば、ゲーテは「小物だ」と思ったという。しかし、行った先の町の図書館で調べてみると、ゲーテの詩に書かれていた言葉は、「希望Hoffnung」ではなくて「勇気Mut」だった。
ホッファーにとってこの違いは決定的だった。そこでこの詩を教えてくれた運転手を酒場まで行って探し出すと、この場合は言葉を間違って引用するのは「犯罪的」だと忠告したという。ホッファーは酒場でその男に、「人生で必要なのは希望ではなく勇気だ」と熱心に説いたが、相手には通じなかったらしい。
<自己欺瞞なくして希望はないが、勇気は理性的で、あるがままにものを見る。希望は損なわれやすいが、勇気の寿命は長い。希望に胸を膨らませて困難なことにとりかかるのはたやすいが、それをやりとげるには勇気がいる。闘いを勝ち、大陸を耕し、国を建設するには、勇気が必要だ。絶望的な状況を勇気によって克服するとき、人間は最高の存在になるのである>
希望をもつことは誰にでもできる。しかし、その希望を実現することはそう容易ではない。希望は絵に描いた餅にすぎない。ほんとうの餅を手に入れるには努力がいる。そしてその努力はおおむね平凡で地道なものだ。しかしこの平凡な労働の苦役に耐える「勇気」がなければ、どんな些細なことも成就しない。ホッファーが「人生で必要なのは希望ではなく勇気だ」というのは、彼の実践的な人生哲学から得られた結論だったのだろう。
16.夜の山
カラスや鳶がしきりに鳴いている夕方、私はふらふらと立ち上がると、洗濯紐をポケットに入れた。卯辰山に登り、見納めに街の夕焼けを見ようと思った。
山の展望台に立ったとき日没は過ぎていたが、日本海の空にはまだ余韻が残っていた。その明かりも刻一刻と薄れて、街の灯りが浮かんできた。浅野川の橋を渡る車のライトも見えた。
耳を澄ませれば木立を渡る風の音に混じって、街の喧噪が聞こえてきた。雲が出ていたが、隙間に星明かりが見えた。ベンチに腰を下ろしていると、夜風が吹き抜けていった。
私は人の気配を感じて振り向いた。男女のカップルが少し離れたところに立っていた。彼等も警戒してこちらを窺っているようだった。私はベンチを立つと、反対側から展望台を降りた。 (ああした青春もあるんだな) 私は山を下りながら考えた。今頃二人はベンチに腰を下ろして、甘い言葉をささやき合っているのかも知れない。山にはカップルが他にも来ているのだろう。
登る途中に枝振りのよい松の木があった。そこまで引き返すのに十分もかからなかった。私はポケットから紐を取りだそうとして、二人の影に気付いた。 二つの影は私の前に来て立ち止まった。
巡回中の警察官だった。一人が懐中電灯を私の顔に向けた。 「ここで何をしているのかね」 「散歩です」 私は自分が痴漢だと疑われているのに気づいた。
たしかに夜の孤独な散歩は痴漢だと誤解されるのに十分だった。身分証明書の提示を求められたが、持ち合わせていなかった。一人がフラッシュを焚いて私の顔写真を取った。 警官が去った後、気を取り直して寺に帰ってきた。
日本国憲法の草案はマッカーサーの指示の下、民政局の24人の委員たちによって、たった1週間でつくられた。職業軍人はひとりもおらず、委員の職歴は、弁護士、ウオール街の投資家、中国専門の歴史家、ジャーナリストなど、まちまちだった。女性も3人いた。
私が不思議だったのは、専門家がひとりもいないのに、よくもまあ寄せ集めのアメリカの市民たちが、それまでまったく未知の国であった他国にやってきて、憲法などという大それたものを、それも信じられないような短期間に見事につくりあげたことだった。
その謎が、「エリック・ホッファー自伝」(作品社)を読んでいて解けたような気がした。たとえば、ホッファーが貧民窟で暮らしていた頃のこんなエピソードを読むと、そのころのアメリカの市民社会の力がどれほど卓越していたかがはっきりわかる。
<その町に着いたのは夕方だった。翌朝、貧民街で目を覚ますと、大きなトラックが二台入ってきた。山の中に道路を造ろうとしていた建設会社が、職業紹介所で日雇い人夫を確保するかわりに貧民街にトラックを送り込んだのだった。トラックに乗れる者は誰でも、たとえ片足であっても雇われた>
山麓で下ろされてみると、会社の人間は一人しかいなかった。そこにある食料と装備品を使って、自分たちだけで道路をつくらなければならないという。ところがホッファーはここで途方もない奇跡が起こるのを目撃した。
<鉛筆とノートを持っていた一人の男が、集められた者たちの名前を書き留め、仕事を割り当て始める。すると、我々の中には大工も鍛冶屋もブルドーザー運転手もハンマー打ちも大勢いたし、コックや救急療法士、職工長までいることがわかった>
まず、テントと料理小屋、トイレとシャワー付きの浴槽を作り、次の日から道路建設にとりかかった。こうして仕事は順調に進み、出来上がった道路は「芸術品」なみで、州の検査官も何の欠陥も見つけられなかったという。これだけのことを、貧民街に住んでいた最底辺の人々が整然と、自分たちだけの力量で当たり前のようにやり遂げた。
<もし憲法を作れと言われれば、われわれの中には「〜の事実に徴して」とか「〜なるが故に」とかいう表現をすべて知っている者がいただろう。われわれは、貧民街の舗道からすくい上げられたシャベル一杯の土くれだったが、にもかかわらず、その気になりさえすれば山のふもとにアメリカ合衆国を建国することだってできたのだ>
民主主義社会においては一人一人の民衆が主役である。そうした自由な社会では、すべての人々の能力を個人的に高め、それぞれが自主的な判断でもの事を行う能力が養われる。すべての人がそれぞれの力を出し切ることができるわけだから、人的資源の活用という視点から考えても、もっとも無駄のない合理的で強力な体制だということができる。
かってのアメリカでは、社会の最底辺にいた「土くれ」のような人々でさえ、自主的に道路を造れるほどの多種多様な才能と技量をもちあわせていた。こんな進んだ国と戦争をして、日本には勝ち目はなかった。戦後、たまたま日本にやってきたシャベル一杯の「石ころ」たちが、マッカーサーの号令のもとでたちまち有能な憲法制定委員に変身し、日本の社会を根底から変えるようなすばらしい憲法草案を作ったのも、あながち奇跡とばかりは言えないのだろう。
| 2003年06月21日(土) |
現代という時代の気質 |
エリック・ホッファーによれば、われわれの時代の気質を特徴づける特性は何かというと、それは「気短さ」だという。そうして変化を求め先走りする風潮のなかで、個人の成長や社会の成熟がなおざりにされている。
<いたるところで、国々が一挙に躍進しているのが見られる。順を追って成熟する暇はない。新興国は芽を出すか出さぬうちに花を咲かせ実を結びたがり、多くは人工的な実や花でみずからを飾りたがる>(「現代という時代の気質」以下の引用も同じ)
すべてが変化し、うつろいゆき、情報が氾濫している。現代的な性急さや気短さで「新しさ」を追い求めているうちに私たちは流れにもてあそばれ、自らを失うことになる。何が真実であるかを見極めることは容易ではなく、人々は喧噪の中に生き、喧噪を活力だと誤解したまま、疲れ果てて死んで行く。
創造や発展、あるいは「変化すること」それ自身がこれほど尊重される時代はいまだかってなかった。しかし、ホッファーは気短な進歩や発展というものは一時的なものに過ぎないという。その多くは見かけ倒しにすぎない。これに対して、「維持するという平凡な仕事にはなにかしら荘厳な気が漂っているように思われる」という。
<維持するよりは築く方が容易なのだ。活気のない、衰弱した国民でさえ、なにか感動的なことを達成するためにしばらくのあいだ活気を帯びることがありうる。だが、二六時中物事を良好な状態にたもつために費やされるエネルギーは、真の活力をもったエネルギーである>
<外国生まれの沖仲仕や船乗りと話してみて、私は維持能力が西ヨーロッパ、スカンジナビア諸国、アングロ・サクソン世界、および日本の特異性である、という印象を得た>
植物は一年中花を咲かせ、実を結んでいる訳ではない。それは全体から言うと、ほんの一部の時期である。ときには葉さえ落として、あたかも枯れ木のような淋しい姿で生きているときもある。しかし、彼らはそうして生命を維持している。成長・発展を支えているのは、こうした日ごろの地味な活動である。
社会もまたこうした地道な活動によって支えられている。知識人や政治家、英雄などが華々しくもてはたされるなかで、「維持するという平凡な仕事」を続けている堅実な一般大衆の存在こそほんとうに偉大だといえるのだろう。そうした堅実な人々によって支えられた社会こそがほんとうにまともで、創造性を秘めた活力のある社会である。アメリカの新興都市サンフランシスコの沖仲仕として社会の下積みで長年働いていたホッファーの冷徹な目は、さすがにこの厳かな真実を見のがさない。
社会もまたこうした地道な活動によって支えられている。知識人や政治家、英雄などが華々しくもてはたされるなかで、「維持するという平凡な仕事」を続けている堅実な一般大衆の存在こそほんとうに偉大だといえるのだろう。そうした堅実な人々によって支えられた社会こそがほんとうにまともで、創造性を秘めた活力のある社会である。アメリカの新興都市サンフランシスコの沖仲仕として社会の下積みで長年働いていたホッファーの冷徹な目は、さすがにこの厳かな真実を見のがさない。
15.天国と地獄
二度目の留年をしたあとも、毎日が朝刊と夕刊を配るだけで過ぎていった。勉強はあいかわらず手につかなかった。大学に出かけていくのも億劫になった。 級友の中には、実社会へ出て働いている者もいた。私は二十三歳になってまだ卒業の見込みも立たない留年生だった。そして寺の部屋で寝ころびながら、首吊りや睡眠薬、絶食など、自殺の手段を思い浮かべていた。
その夏、芳子は東京から帰ってこなかった。私は毎日新聞を配り続けなければならなかったが苦痛ではなかった。私にとって新聞配達が生きる支えになっていた。 私は冷奴とみそ汁だけの昼食をすましたあと、あと片づけもしないまま、畳に寝ころんでいた。境内で遊んでいる子供たちの声が、障子越しに聞こえてきた。
そのなかに少女の声があった。その声を聴きながら、私は自分のズボンの前をはだけた。銭湯で見た少女の白い裸身を思い浮かべ、自分のものをしごいた。それからちゃぶ台の下の弘子の太ももや、内灘での芳子とのぎこちない接吻を思い浮かべた。しかし、私のものは萎えたままだった。 私は性欲さえ失っていた。淋しくなった。こんなありさまでは生きている甲斐がないように思えた。
私は高校時代に「歎異抄」を読んでいた。県立高校の受験に失敗した私は、浄土真宗系のミッションスクールに通うことになった。それは私にとって不本意なことだった。しかし、私はそこで釈迦や法然や親鸞にであった。そして「歎異抄」が私の高校時代の愛読書の一冊になった。
久しぶりに本棚からその文庫本を取りだした。開いたページで、弟子の唯円が親鸞にこんな質問をしていた。 「念仏まうしさふらへども、踊躍歓喜のこころ、をろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのさふらはぬは、いかに」 親鸞の答えはこうだった。
「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじ心にてありけり。よくよく案じ見れば、天におどり、地におどるほどに、よろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふべきなり。よろこぶべきこころををさえて、よろこばせざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」
親鸞の説く「阿弥陀仏の本願」を信じる気持ちにはなれなかった。地獄や極楽というのも現世利益を説く宗教家たちの商売の道具のような気がした。私は親鸞からも見放されたような淋しい心持ちを感じながらその書を閉じた。
明くる日、自転車のペダルを踏む足に力が入いらなかった。身内からわき上がる力が感じられないばかりか、感情さえ希薄になっていた。街にはミニスカートの女達が肌を露出させて歩いていたが、欲望を感じなかった。 山門を入ると、子供たちが遊んでいた。 (うるさいやつらだ) 私は険しい顔で、子供たちをにらみつけた。
7.親鸞の立場
この世界はあくまで穢土であり、この穢土を越えた世界に浄土がある。その浄土に生まれる手段(行)として「念仏」がある。こうした法然の「凡夫」の自覚の上に立った信仰では、仏凡一如を説く天台本覚思想は否定される。
これに対し、親鸞は法然の思想を受け継ぎながら、しかも天台本覚思想そのものも肯定的に受け継いだところがある。つまり、親鸞の思想では天台本覚思想の「煩悩即菩提」「娑婆即寂光土」の一元論がある意味で息を吹き返している。
「真実信心の行人は臨終をまつことなし。来迎をたのむことない。信心の定まるとき、往生またさだまるなり。来迎の儀式をまたず」(教行信証)
「久遠実成阿弥陀仏 五濁の凡愚をあわれみて 釈迦牟尼仏としめしてぞ 迦耶城にぞ応現する」(浄土和讃)
晩年の親鸞は「阿弥陀仏は、自然ということを知らせようとする手だてであります」(自然法爾事)とまで手紙に書いている。仏に抱かれて、一切のはからいを去った自然法爾(自ずとあるがままで計らいのないこと)の境涯においては、もはや仏も我もなく、一切が仏の中に包摂されている。これが親鸞の理想とした絶対他力の信仰世界であった。
エリック・ホッファーは「現代という時代の気質」のなかで、「考えることと書く行為の間には千里の隔たりがある」と書いている。たしかに読んだり考えたりすることに比べて、書くという行為、もう少し正確に言えば、「書き続ける」ということのためには、主体的な精神の持続的な活動が必要になる。それはそれほど一般的な行為とはいえないかも知れない。
それではホッファーはいかにしてこの「千里の隔たり」を越えたのだろうか。盲目の少年時代を送り、学校へはほとんど行かず、成人してからの人生の半分は移動労働者として、あとの半分は沖仲仕として過ごしたホッファーに、こうした主体的な精神の目覚めはいかにして訪れたのだろう。それは彼によると、34歳の時たまたま手にしたモンテーニュの「エセー」との出合いから始まったのだという。「現代という時代の気質」から引用してみよう。
<1936年の終わり頃、私はネバダ・シティの近くに鉱床発掘をしに行くところだったが、その時雪に降りこめられるような予感がした。何か読むもの、何か長くかかりそうなものを手に入れる必要があった>
彼はサンフランシスコに立ち寄って、「分厚くて活字が小さく、絵の入っていない千ページくらいの本を買った。値段は1ドルだった。表紙に「ミシェル・ド・モンテーニュ随想録」とあったが、モンテーニュが何者かは知らなかったという。
<思ったとおり私は雪に閉じこめられた。私は例の本を三回読み、しまいにはほとんど暗記してしまった。サン・ホアキン・ヴァレーに帰ってからは、口を開けばきまってモンテーニュを引用するようになり、仲間はそれを気に入ってくれた。彼らは「モンテーニュはどう言っているのか」とたずねたものだ。私はやおら本を取りだし、ぴったりの文章を見つけるのだった。今でもサン・ホアキン・ヴァレーのあちこちに、モンテーニュを引用している移動労働者が大勢いるにちがいない、と私は確信している>
モンテーニュの「エセー」には人生で誰もが体験する茶飯事が語られていて、とても読みやすい。生活の場所から人生を語ること、高みからではなく、むしろひとりの平凡な生活者として、ありのままに飾らず平明に自らを語ること、この平静な語りのなかに、モンテーニュその人の快活で自由な精神のぬくもりが感じられて、しみじみと心に響いてくるものがある。
ホッファーはモンテーニュの文章を読み、「子供がキャンディをしゃぶるようにそれを味わう」ことで、「よい文章への鑑識眼を獲得」した。しかしホッファーがモンテーニュから学んだのは平明な文章術だけではなかった。文体と一体となったモンテーニュの自由な精神だった。そしてその精神の核にあるのは、「汝自身を知れ」という明るく透徹した理性の言葉である。
ホッファーがモンテーニュに発見したのは、「己とは何か、人間とは何か」という問だった。この問をモンテーニュと共有することで、ホッファーもまた市井の哲人となった。そして彼に現代文明をするどく照射する哲学的香気にあふれた文章を生涯にわたって書かせたのだった。
今から50年ほど前、サンフランシスコの波止場に、風変わりな日雇いの港湾労働者がいた。彼の名前はエリック・ホッファー(1902〜1983)で、仕事の合間にじっと思索にふけったり、本を読んだり、書き物をしていた。仲間達は彼を親しみと敬意をこめて、「プロフェッサー」と呼んだ。
彼は1902年にドイツ系移民の子供としてニューヨークに生まれている。7歳で母親と死別し、その年に視力を失った。盲目生活は15歳まで8年間も続いたという。当然、彼は正規の教育を受けずに育った。
18歳の時父親が死に、彼はひとりぼっちになった。彼はバスでロサンジェルスに行き、そこの貧民窟に棲みついた。そして職業紹介所でいろいろな職業を見つけ、そのその日暮らしの生活をしていたが、28歳の時そこを去った。きっかけは自殺に失敗したからだという。
その後、農業従事者としてカルフォルニアの農園を渡り歩いた。炭坑夫として働いたり、失業者を収容するキャンプで過ごしたこともあった。恐慌と戦争の時代でもあり、その暮らしは人間として最低の水準だった。
彼がモンテーニュの「エセー」を手にしたのは、1936年の冬だった。彼は砂金堀をしていて、冬の間は雪に閉ざされた生活を余儀なくされた。そこで、偶然書店で買い求めたこの本を三度読み返し、ほとんど暗記してしまったのだという。
モンテーニュとの出合いが彼の運命を変えた。彼は行く先々で図書館に出入りして本を読み、気に入った言葉があるとノートに写すようになった。そして自分の思索の結果をノートに書き写した。やがて1941年、彼が見つけたついの仕事がサンフランシスコの港湾荷役の仕事である。彼に言わせれば、自由と運動と閑暇と収入とがこれほど適度に調和した職業を他に見出すのは困難だった。
彼が1958年6月から翌年の5月にかけて書いた日記が、1963年に「波止場日記」と題して出版された。港湾労働者の日々の記録というにはあまりに高度な思索がそこには書き留められてあった。翌年、彼は認められてカルフォルニア大学バークレー校の政治学研究教授になった。1967年には彼の対談がCBCテレビで全米に流され、大きな反響を巻き起こした。
しかし、彼は大学へは週に一度顔を出すだけで、普段は港湾の日雇い労働者として生き続けた。「波止場日記」に<私がくつろげるのは波止場にいるときだけだ>と書いている。そして彼はその言葉の通り、60歳まで現役の波止場労働者として働き続けた。彼の言葉をいくつか「波止場日記」から拾ってみよう。
<たびたび感銘を受けるのだが、すぐれた人々、性格がやさしく内面的にも優雅さをもった人々が、波止場にたくさんいる。この前の仕事でアーニーとマックとしばらく一緒になったが、ふと気付くと、この二人はなんと立派な、寛大で、有能で、聡明な人間だろうと考えていた。じっと見ていると、彼らは賢明なばかりではなく驚くほど独創的なやり方で仕事にとりくんでいた。しかも、いつもまるで遊んでいるように仕事をするのである>
<労働者としても、また人間としても比類ないニグロがいく人か波止場にいるのを知っている。この人たちは柔和で、誠実で、非常に有能である>
<知識人は自己の有用性と価値とに自信がもてないために、とてもプライドなしには立っていけないのであり、普通は国家とか教会とか党とかいったある緊密なグループと自己を一体化してプライドの根拠としているのである>
<私の言う知識人とは、自分は教育のある少数派の一員であり世の中のできごとに方向と形を与える神授の権利を持っていると思っている人たちである。知識人であるためには、良い教育を受けているとか特に知的であるとかの必要はない。教育のあるエリートの一員だという感情こそが問題なのである>
<自分自身の幸福とか、将来にとって不可欠なものとかがまったく念頭にないことに気付くと、うれしくなる。いつも感じているのだが、自己にとらわれるのは不健全である>
<全般的に見て、教育のある人間より大衆の方が、人類についてよい見解をもっている。・・・教育はやさしい心を育みはしない>
<人は、充実した2,3分のあいだに、数ケ月にわたる努力以上のことをなしとげられるものだ>
<世間は私に対して何ら尽くす義務はない、という確信からかすかな喜びを得ている。私が満足するのに必要なものはごくわずかである。1日2回のおいしい食事、タバコ、私の関心をひく本、少々の著述を毎日。これが私にとっては生活のすべてである>
<湾の空はすばらしい才能を持ち感受性に富む抽象画家によって毎日描かれている>
<私は欠点や欠陥にみちた社会に生きている。しかし、この社会はすべての人に好きなことをさせる十分のゆとりをもった社会である。・・・干渉されることなく自己の能力と才能を発揮したい人にとっては、この国(アメリカ)は理想的な国である>
<必要なものにあくせくしているあいだは、人間はまだ動物なのである。不必要なものや途方もないものを求めるときに、人間は、人間という独自な存在になる>
<私の知るかぎりでは、人生は偶然の十字路であるゆえにすばらしい>
<人間のつくり出した実用的な諸道具は大部分非実用的なものの追求のなかから得た洞察や技術を応用したものである>
<二十世紀最大の犯罪は、金銭欲にかられた資本家たちによってではなく、献身的な理想主義者たちによって犯された。レーニン、スターリン、ヒトラーは、金銭を軽蔑した。十九世紀から二十世紀への移行は、金銭尊重から権力尊重への移行であった、金は諸悪の根源だというきまり文句のなんという単純さ>
<仕事に行く気がしなかった。ほとんど一日中買い物をしてすごした。エリックに大きなトラを、そしてリリーにはお盆。25ドルばかりかかった。昼、株価のひどい暴落を告げる新聞の見出しに気づいた。大変愉快になった。ずいぶん意地の悪い見方だが、私がほくそえむにはそれなりの理由があった。株価の上昇はしばしば物価一般の上昇を意味してきた。賃金や預金の実質価格の低下は数千人のギャンブラーたちの破産よりも影響が大きく、不幸な災難となるのである>
<自由に適さない人々、自由であってもたいしたことのできぬ人々、そうした人々が権力を渇望するということが重要な点である。・・・もしもヒトラーが才能と真の芸術家の気質を持っていたなら、もしもスターリンが一流の理論家になる能力を持っていたなら、もしもナポレオンが偉大な詩人あるいは哲学者の資質をもっていたなら、彼らは絶対的な権力にすべてを焼きつくすような欲望をいだかなかっただろう。・・・自由という大気の中にあって多くを達成する能力の欠けている人々は権力を渇望する>
彼は<隣人を愛するよりも人類全体を愛する方がいかにやさしいか>について語り、<教育があって自分の考えを表現できる人々、議論が達者な人々と過ごしていたとしても、どれだけ考えを発展させるのに役立っていたかわからない>と書いている。彼はあくまで社会の底辺から人生の真実を見続けた。人生は上から眺めていては分からないことがたくさんある。そして何よりも、彼の思想の何と自由で、その生き方の何と身軽なことだろう。
14.春の海
二度目の留年が決まり、私はさすがにうちひしがれた。弘子や多くの友人も、今年は四年生に進級していた。私だけが三年生のまま取り残されることになった。
四月になったある日、朝刊を終えてぼんやりしていると、十時頃に芳子が寺にやってきた。 芳子はもうすぐ東京に帰ることになっていた。 「橋本さん、今日、お暇?」 「うん、暇だよ」 私は留年の話をした。芳子は感づいていたようだった。 「気分転換が必要ね。海を見に行きましょう」 芳子に誘われて、私はジャンバーを着た。
外は春の日が射していた。金沢駅前から北鉄電鉄に乗った。 電車は民家の軒先をかすめるようにして走り、終点の内灘まで三十分ほどだった。駅から海岸まで砂丘の道がアカシアの林の中を通っていた。 坂道を上ると、日本海が眼前に見えた。海岸には人気がなかった。砂浜に腰を下ろし、風に吹かれていると、すぐに体が冷えてきた。
芳子から体を寄せてきた。私は彼女の肩を抱き、そして成り行きで唇を合わせた。私にとって最初の接吻だったが、思ったほどの感動はなかった。 私たちはすぐに体を離した。芳子が立ち上がったので、私も立ち上がった。 「白山がきれいね」 芳子に言われて振り返ると、白山連峰の白い山並みが屏風を広げたように連なっていた。雪国らしい眺めだった。
私たちはそれから波打ち際を日本海の荒波が打ち寄せている防波堤まで歩き、再びアカシアの林の砂丘に入った。日溜まりの砂丘のなかで、私の方から体を寄せて芳子の唇を吸った。 私の手がはじめて彼女の胸に触れた。 私たちはそれから手を繋いでアカシアの林の中を歩いた。
アカシアの林がつきると、ひっそりとした新興住宅街の一角だった。商店街の外れにある広場から金沢行きのバスに乗った。 バスは三十分ほどで香林坊に着いた。
3月6日に新憲法の政府草案が天皇の名で国民に示されたわけだが、その際の天皇の勅語を引用しておく。
「朕、先ニポツダム宣言ヲ受諾セルニ伴イ、日本国政治ノ最終ノ形態ハ日本国民ノ自由ニ表明シタル意志ニ依リ決定セラルベキモノナルニ顧ミ、日本国民ガ正義ノ自覚ニ依リテ平和ノ生活ヲ享有シ文化ノ向上ヲ希求シ進ンデ戦争ヲ抛棄シテ誼ヲ万邦ニ修ムルノ決意ナルヲ念イ、乃チ国民ノ総意ヲ基調トシ人格ノ基本的権利ヲ尊重スルノ主義ニ則リ、憲法ニ根本的ノ改正ヲ加エ、以テ国家再建ノ礎ヲ定メムコトヲ庶幾ウ、政府当局其レ克ク朕ノ意ヲ体シ、必ズ其ノ目的ヲ達成セムコトヲ期セヨ」
こうしてわずか一ヶ月前に発表された「反動的な松本草案」はより急進的な政府草案によって完全に吹き飛ばされてしまった。ジョン・ダワーは「敗北を抱きしめて」で、こう書いている。
<老人ばかりの幣原内閣がみんなそろって回心したとは、だれも思わなかった。この二つの草案が、同じ書き手から生まれたなどとは想像もつかなかったのである。それ以上に、日本語の草案には、その原則の部分だけではなく、ぎこちない文体にも、外国人の介入があきらかであった。構文は歪み、奇妙な句法混入していた。
貴族院には学者も少なからずいたが、彼らに配布された公式の英語翻訳版を参照するものがでてきた。日本語の草案とその英語版が同時に公表されたということ自体、実情を明らかにしていた。貴族院議員の高柳賢三はハーバード大学で勉強した憲法専攻の法律学者だったが、後に「翻訳の方が日本語の原文より理解しやすい」と述べた>
「朝日新聞」は政府草案について、「何となくサイズのあわない、借りてきた洋服のよう」と形容したが、草案そのものには好意的だった。共産党を除くすべての政党がこれを支持した。松本草案に失望した多くの国民もこの新たな草案を歓迎した。提案された憲法には、敗北し戦火に破壊しつくされた国において、「希望と理想をしめす灯台の光」のような大きな魅力があった。
6月20日、天皇は既定の手続きに則って、臨時国会の開会を宣し、憲法草案を「調和のとれた精神」で審議するように希望すると述べた。こうして天皇によって「民主主義」が国民に上から与えられる形をとったことは、マッカーサーにとっても重要なことだった。これによって、天皇は戦争責任者としての追求をのがれられるだろうし、天皇を守ることはアメリカにとって、日本を効率的に民主化するという占領政策においても、ソ連との対立を深めつつある世界戦略の立場からも重要なことであった。
(こうした「上からの革命」によって民主主義が国民に与えられたことは、その後の日本の国作りにおいてさまざまなゆがみをもたらすことになった。たしかに日本社会の外観は憲法によって大きく変わったように見えるが、その土壌まで変えることはなかった。憲法は平和と民主主義の灯台であり象徴でありつづけたが、その灯台も今やかなり孤独でさびいし姿を留めているにすぎない。文字通り風前の灯火と言ってよいだろう)
1946年2月13日、ホイトニー准将は外務省公邸で松本丞治と吉田茂に面会した。松本たちは8日に提示した自分たちの案について話し合うためだと思っていたが、「先日あなたがたが提出した憲法修正案は最高司令官が受け容れることはまったく不可能である」と通告し、GHQ草案を提示した。そしてこう述べたという。
「最高司令官は、これが、多くの人から反動的とみられている保守的グループが権力に留まる最後の機会であると感じています。もしあなた方がこの憲法草案を受け容れるならば、最高司令官があなたがたの立場を支持することを確信されてもよいと思います」
「あなた方がご存じかどうか知りませんが、最高司令官は、あなたがたの天皇を戦犯として取り調べきだという、次第に強くなりつつある外圧から天皇を守ろうという決意を固く保持してきました。しかしみなさん、最高司令官は万能ではありません。とはいえ、最高司令官は、この憲法の諸規定が受け容れられるならば、天皇は事実上安泰になると感じています」
日本側に一瞬緊張感が漲り、愕然とした表情を示した。松本は国情にそぐわない憲法は、専制や悪政を招くことになると反発した。あまりに急進的な憲法は、過激な人々を刺激し、国内を大混乱に陥れるだろうと弁明した。ホイトニーはこうした「共産主義の脅威」を盾に改革を渋る保守的な支配層のいつものやり口ががまんできなかった。そこで、もし内閣がこの草案を真剣に取り上げないのなら、これを国民に直接発表すると警告した。
危機感を覚えた松本は、19日になって青ざめながら閣議にGHQの草案を提示した。天皇を至聖とみなす松本や幣原首相にとって、国民主権を明確に打ち出したGHQの草案は受け容れがたいものだった。しかし「天皇の安泰」というホイトニーの言葉は決定的だった。「内閣でも最も反動的な分子」と目された吉田茂もGHQ草案は無視することが出来ないと考えた。そこでGHQ草案は天皇に上奏されることになった。自己の戦犯としての処遇に危機感を覚えていた天皇は、閣僚ほどには躊躇することなく、ただちにこれを承認した。
松本たちはさっそくGHQ草案をもとに日本語の草案を書き上げた。そしてこれを日米双方の立ち会いのもとで英語に翻訳する作業が進められた。この席上、松本は天皇と内閣の扱いについて再びケーディスとぶつかった。松本は怒って席を蹴って出ていったこともあった。このときケーディスは一方の拳をもう一方の拳の上に載せて、内閣は天皇の上にあるべきことことを露骨に示したという。
こうしたケーディスの強硬な姿勢と脅しがあったので、松本たちの涙ぐましい抵抗にもかかわらず、新しい憲法草案のなかにGHQ草案の民主的な規定や精神ははほとんど受け容れざるを得なかった。幣原は閣議の席でこうして出来た草案を示して、次のように演説した。
「かかる憲法草案を受諾することは極めて重大の責任であり、恐らく子々孫々に至るまでの責任である。この案を発表すれば一部の者は喝采するであろうが、又一部の者は沈黙を守るであろうけれども心中深く我々の態度に対して憤慨するに違いない。しかし今日の場合、大局の上からこの外に行く途はない」
この演説に閣僚達は涙ぐみ、首相は涙を拭ったという。こうした愁嘆場のあと、3月6日、新憲法は天皇の格調の高い勅語とともに国民に示された。同日マッカーサー元帥は、「余が全面的に承認した新しき且つ啓蒙的なる憲法を日本国民に提示せんとする天皇並びに日本政府の決定に深き満足を表するものである」と賛辞を述べた。
幣原首相もまた勅語にふれ、「天皇はわが国民をして世界人類の理想に向かい同一歩調を進ましめるため非常なる御決断を以て、現憲法に根本的改正を加え、以て民主的平和的国家建設の基礎を定めんことを照示せられたのであります」と述べた。憲法は天皇の叡慮によって国民に与えられたものだという演出にぬかりはなかった。草案がGHQの民政局で書かれたということはタブーだった。GHQは厳しい検閲を設けてジャーナズムがこれに触れることを許さなかった。
(参考文献) 「敗北を抱きしめて」 ジョン・ダワー著 岩波書店
13.忘年会
夏休みが過ぎ、秋になり、金沢で四度目の冬を迎えた。 大晦日の夜、新聞配達が終わって、恒例の忘年会だった。私の他に、専従のDさんとNさんが招待されていた。芳子も一週間前に東京から帰省していた。
芳子が席を外したとき、専従のNさんが、 「橋本さん、芳子ちゃんと結婚したらどうや」 いきなり声をかけてきた。 「何を言っているの、橋本さんは大学を卒業して一流会社に就職するのよ」 奥さんがとりなした。
「会社に入っても会社の歯車になるだけや。ここの大将になれば一国一城のあるじやないかい」 「そうだそうだ、一国一城の主だ」 専従のDさんも相づちを打った。私はふと感傷的な気分になった。芳子と結婚してこのままこの専売所に腰を落ち着けてもよいような気がした。
私はその夜、皆に勧められるままビールを飲んだ。そして、十時過ぎに専売所を出ると、芳子や奥さんの止めるのもきかずに、酔っぱらったまま自転車に飛び乗り、雪の舞う夜道を寺に帰った。
正月も福井に帰らなかった。 そして、また学年末試験の季節がやってきた。去年以上に準備不足の私は、ふたたび主要教科をのきなみ落した。
6.法然の立場
「凡夫がそのまま仏である」という天台本覚思想は、思想としては美しいが、現実はどうであろうか。たしかに仏法の建前は「一切衆生悉有仏性」だ。しかし、私たち凡夫が仏様のような円満具足した境地に達することは大変難しいのではないだろうか。そもそもそんなことが可能なのだろうか。
こうしたことを考えて、天台本覚思想に疑問を持ち、やがてこれを批判するようになって比叡山を降りたのが法然や親鸞だった。たとえば法然は、「凡夫は自ら力で救われることはむつかしい。仏願によって救われて初めて成仏できる」と考えた。
この世界はあくまで穢土であり、この穢土を越えた世界に浄土がある。その浄土に生まれる手段(行)として「念仏」がある。人はその知識に多寡によるのではなく、寺院にどれだけ布施をしたかというその額によるのでもなく、また断食等の荒行によるのでもなく、ただひたすら阿弥陀如来を信じて、念仏さえとなえておれば浄土に生まれ変わることができると説いた。
私たちはあくまで凡夫である。そして凡夫が凡夫のまま救われるためには阿弥陀仏の本願力に身を委ねるしか道はない。自力救済を説く聖道門によって救われると考えるのは凡夫の思い上がりであって、針の穴を通るよりむつかしいことだ。こうて法然はあくまで凡夫の自覚に立った他力による救済の道を説いた。そしてこれを易行道と名付けた。
念仏さえ称えればよいというのだから、シンプルなこと限りない。これなら場所や時間を選ばず、庶民も容易に行うことが出来る。この簡素さはどうだろう。法然の説く「浄土教」がまたたくうちに人々の心をとらえたのは不思議ではない。この世はあくまで穢土であって浄土ではないという二元論も、その当時の世相を見れば納得される。この地獄のような現実がそのまま天国であるなどということはとうてい信じることができない。
こうした法然の「阿弥陀仏による凡夫の救済」という浄土思想は、キリスト教の「神による人間の救済」と同じ構造をしている。キリスト教の天国は浄土に似ているし、自力ではなく他力であるという点も同じである。これは決して偶然ではない。キリスト教と阿弥陀信仰はヘレニズム思想と関係していると見られる。今は深入りしないが、この分野では増谷文雄著「仏教とキリスト教の比較研究」(筑摩叢書)が名著なので、興味がある方は読まれると面白いと思う。
先日の日曜日、妻を誘って木曽川へ夕日を眺めに行った。川の流れに沿って2Kmあまりの美しい散歩道がしつらえられてあり、所々に丸太造りのベンチがおいてあったりして、伊吹山や金華山、御嶽山や犬山城など、その時々の風景を楽しむことが出来る。そこから私がいつも通勤途中に車を止めてオカリナを吹いている堤防も見えた。
散歩道の真ん中あたりに「夕日の郷」という名前の付いた休憩所があって、そこから川面の向こうに落ちていくの夕日の眺めが一番よい。私たち夫婦の他に多くの市民がジョギングやそぞろ歩きを楽しんでいたが、遊歩道が広いので、ゆったりした気分で風景を味わうことが出来た。
小鳥の声に耳を傾け、川面に映る夕日をしみじみと眺めていると、こうした楽しみに勝る贅沢は何もないような気がして、すがすがしい気分になった。俳句や短歌を書き留めたり、最近「文芸春秋」で読んだ楊宣広という人の、こんな素敵な短歌を思い出したりして、しばらく幸せな気分にしたった。
岩の根にすみれの花が咲いている大きな岩がやさしく見える いつの日か言えるだろうか笠智衆「ああ」と応ふるのみに優しき
山中に高く辛夷の花が咲く会社の人事どうでもよいか
生まれたての木苺見たことありますか棘いっぱいの青い茎です
その日は6月には珍しいほどの真夏のように暑い日だったが、その頃は日差しも傾いて、川風が涼しかった。遊歩道は木陰になっているので、おそらく真夏でも涼しいかもしれない。胡桃の木が多く繁っていて、すでに青い実をたくさんつけていた。「九月中旬ころには食べられますのでご家族で取りに来て下さい」とライオンズクラブのなかなか楽しい木札が立っていた。
途中からすこし薄暗い木立の道にはいった。そこを抜けて、また湖畔の道を引き返してきた。往復で4kmあまり歩いた。帰り道、遊歩道に雀が降りて何か食べていた。見ると白い米粒だった。私は知らなかったが、来るとき妻がこっそり古々米をまいたのだという。
古々米を撒けば小雀食べにけり夕日の木陰川音涼し 裕
先日、大学の進学説明会に行って来た。そこで「小論文」の話が出た。最近多くの大学で小論文が課されるようになったが、その理由は大学に入ってもっとも要求されるのが「論文を書く力」だからだ。その基礎的な能力を高校生のうちから養成しておいてほしいということらしい。
しかし、高校生の多くはこれが苦手である。その原因の一つは、生徒達が高校で文章を書く技術の習得に向けてほとんど訓練を受けていないからだ。したがってテーマーを与えられても何をどう書いたらいいのか分からない。解答用紙の升目を埋めるのが苦痛な作業になっている。
しかも、大学で入試問題として出される小論文テーマをみると、教育、環境、、福祉、政治経済、情報、科学技術、人間科学などその内容は多岐に渡っている。こうした多彩なテーマについて論じることは、日ごろから世の中の動きに関心と問題意識をもち、自分の頭で考え、文章にまとめる習慣をつけておかなければならない。これは教える側の教師にとっても同じである。教師の力量も問われる。
1月15日付「朝日新聞」で、長岡裕子さんが、「『書く力』、高校で養成必須」と題した文章で、「その指導を、文章を書くのは国語の分野とばかりに国語教育に含めてしまうのは無謀である」と書き、次のように続けている。
<小論文を書くためには、問題意識を持って広く社会を観察し、自己を含めた人間分析をしながら、解決・改善への方向性のある独自の意見を示さなければならない。その意見には読み手を納得させる具体的で客観的な論証が要求される。論理的な文章構成力、表現力も不可欠である。
このような「小論文を書く力」は今日の若者にとって、従来の教科を学習する上でも、進路や生活について考える上でも大きな効果をもたらすだろうし、「読む力・書く力」の集大成としての意味も持つ。国際的な場で自分の意見を発表できる日本人に成長する、という期待さえ持てる。
私が見る限り、高校生たちは小論文を書くのが決してきらいではない。ただ、知識に裏付けられた考え方、論じ方、表現の仕方が未熟なのである。
入試の一形式として大学側から発信された小論文だが、今、高校教育における必須の教科としての認識を促したい。まずは総合学習の中に時間を確保し、年間のカリキュラムを組み立て、指導体制を整えていくことが求められている>
小論文を総合学習の中に位置づけるのは賛成である。しかし問題はいかにこれを実践するかだろう。「書く力」の根底には「読む力」がある。読書指導もあわせて行えば、効果的だろう。この場合、漫然と読書させていてはダメで、各分野ごとに課題図書を指定して読ませることも必要になる。また新聞の記事や社説を利用するのも有効だろう。そうした実践例があれば知りたいところである。
なお小論文の書き方については、「朝日新聞大学入試研究所」というすぐれたHPがあるので紹介しておこう。その中の「クマでもわかる小論文講座」はとくにお薦めである。小論文の基本的な考え方から文章をまとめるときのコツが、様々なテーマからなる例題と例文をとおして解説されている。
<よい小論文の条件は、次のものがあげられるクマ。キミが書く小論文は、これらの条件を満たしているかな? 1 設問のテーマ(要求)に正しく答えているか。 2 資料が提示された場合は、資料の内容を正しく理解できているか。 3 自分の考え(意見)がはっきり示されているか。 4 自分の考えの理由(論拠)が、しっかりと筋道を立てて述べられているか>
なお例題の一つに、私が「朝日新聞」に投稿した「分数の割り算は必要か」という文章が使われている。これは2002年の名古屋市立大の小論文入試に実際に出題されたものだが、小論文のテーマーとして手頃だったのだろう。「分数の割り算 数や論理の理解に不可欠」という戸瀬信之氏の反論もあわせて示してあり、両論についての解説や解答の作文例が参考になった。
(参考サイト) http://www.asahiguma.com/ http://www.asahiguma.com/syouron/syouron.php http://www.asahiguma.com/syouron/ron-020318-q.html
12.思わぬ入院
新聞配達から解放されて、私は午前中は境内の草取りをした後、午後は寺の庫裡で畳の上に体を転がしてぼんやりしていた。
夜は近くのスーパーで豚肉と野菜を買い、中華鍋で野菜炒めを作ったが、食欲が感じられなかった。夕食の後、風呂に出かけて、体の異変に気付いた。手足が赤く腫れてむずがゆかった。草取りでかぶれたのだろうか。疲れていたところに、脂っこいものを食べたのもいけなかったようだ。
夜中になって症状が悪化した。水疱が顔や下腹部の辺りに広がり、三十九度近い熱も出てきた。私は翌朝一番で近所の病院に駆け込んだ。医者は私を見るなり顔を顰めて、すぐに入院するように言った。
私は看護婦に薬を塗られて、ミイラのように包帯で巻かれた。膿んで腫れ上がった陰部に薬を塗られるのを恥ずかしがっている場合ではなかった。 それでも一週間ほどすると包帯もとれた。冷房が利いていて蒸し暑さを感じることはなく、三食付きで読書もできた。しかし、何を読む気力もわかなかった。
退院して専売所に行くと、芳子が店番をしていた。芳子は私が入院中に寺に草とりの手伝いにきたようだった。しかし、私がいないので福井に帰省したと思っていた。 その夏は福井に帰省しなかった。留年した負い目もあって、両親と顔を合わせるのが億劫だった。
| 2003年06月08日(日) |
年金は税金で運用すべし |
ソニーが大賀・元社長に、退職金16億円を支払うという。その巨額であることに驚いたが、それでも税金を食い物にしている天下り役人の退職金に比べれば、まだましかもしれない。
退職金は本来受け取るべき給料の一部(給料の後払い)である。それを退職後にまとめて受け取り、収入がなくなった老後の生活の保障にしようというわけだ。多くのサラリーマンは、退職金をあてこんでマイホームのローンをくむので、退職金でまとめて返済ということもある。実のところ私の場合もそうで、マイホームの返済に退職金は消えてしまいそうだ。
しかし、退職金が家のローンに使われるというのは国の住宅制度が貧困なためである。退職金が年金のように老後の生活保障に使われるのも、国の年金制度が不備なためだろう。
退職金制度は従業員を会社に縛り付けることになる。終身雇用制とともにこれは社会の会社化(従業員の社畜化)の一翼を担ってきたわけで、のぞましい社会制度とはいえない。
年金に関して言えば、今のような複雑な制度ではいけない。年金は税金によって運用すべきだ。一定の年齢に達したら、国が国民に一律に払えばよい。それほど巨額である必要はない。憲法で保障された文化的で健康な生活ができればよい。
ところで、5月の日銀金融調節の内訳によると、政府は5月中に4兆円もの資金を使ってドルを支えるために円売り介入をしていたそうだ。これは我が国の月間経常黒字の4倍、アメリカの月間経常赤字に相当する額だという。
ドルが下がるのは簡単に言えばアメリカがドルを印刷して世界にばらまくからである。日本はこうした過剰なドルを買ってその値下がりをくいとめている。年間5千億ドルもの経常赤字を調達しなければならないアメリカは、日本がこうしてドルを買い支えてくれるおかげでなんとかもっている。
こうしたドル買い支えの資金として年金の掛け金や郵貯が大量に使われている。値下がりする株価を支えるためにもこうした国民の資金が湯水のように使われる。その結果、年金の運用が困難になり、このままでは破綻するしかないという。政府の都合で年金を食い物させないためにも、不透明な年金の積立制度を廃止して、これを税金でまかなう方がよい。こうした方向で、年金制度の早急な改革を要望したい。
昨日の毎日新聞「記者の目」で小島正美さんが、「ダイオキシン毒性は神話か」と題して、渡辺正・東京大学教授と林俊郎・目白大学教授が著した「ダイオキシン神話の終焉」や、これを好意的に紹介した書評について、かなり批判的な文章を書いていた。
<ダイオキシンが危ないという神話は終わった、焼却炉のダイオキシン排出量を減らす「ダイオキシン類対策特別措置法」は見直すべきだ、そんな主張の本が関心を集めている。渡辺正・東京大学教授と林俊郎・目白大学教授が著した「ダイオキシン 神話の終焉」だ。いくつかの新聞の書評でも取り上げられ、好意的に評価された。最初は、評者の個人的な見方と受け止めていたが、本を読んで「もはやダイオキシンは問題ではない」という知り合いが私の周囲に出てきて、ちょっと待てという心境になった。このままだと逆にダイオキシン軽視の風潮が生じかねない。いま一度ダイオキシンの何が問題かを考えてみたい>
私もこの問題について、「ダイオキシン法は悪法か」という題で、日記(5月21日)に詳しく書いた。その論旨は、「ダイオキシン問題は軽視すべきではないが、渡辺正・東京大学教授らが主張するように徒に危機意識だけ先行していてはだめである。業界を儲けさせるだけのダイオキシン法は何ら根本的な解決に結びつかないばかりではなく、事態を悪化させるだけだ」ということであった。小島さんの文章も基本的には同じ論点で書かれているので、私はおおむね同感である。小島さんの文章をさらに引いておこう。
<これまでの米国やオランダなどの動物実験や人の疫学調査によると、通常の人の体内に存在するダイオキシンの10倍前後の少量でも、脳神経系や生殖への影響があるとの報告が出ている。独立行政法人の国立環境研究所(茨城県)の研究者たちがラットやマウスで行った最新の研究でも、知能の発達などにかかわる甲状腺の働きが阻害されることが分かった>
<著者たちは「猛毒のダイオキシン」「強力な発がん物質」「たき火からも発生」などの言い方が不安をあおったと指摘する。確かにその一面はあったと思うが、ダイオキシンを軽く見ていい理由にはならない。水俣病など過去の教訓から、被害が出てからでは遅い。動物実験や疫学調査の知見にもっと謙虚になってもよいのではないか>
<こういう知見があれば、たとえ現時点で被害が出ていなくても、対策が必要かどうかを検討するのが普通だ。今度の本にはこうした慢性毒性に関する最新情報がほとんどない。99年にダイオキシン類対策特別措置法が成立した背景には、慢性毒性の知見を基に国際的に規制してゆく動きがあった>
<とはいえ、焼却炉からの排出量を減らすためにごみを広域的に集め高温で燃やす現在の方式は、業界を潤すだけといった著者たちの主張には納得できる点もある。貴重な税金を無駄遣いしないためにも、減らし方の議論はもっとしていい>
渡辺正・東京大学教授は「ダイオキシンは恐竜時代から存在する」と書いているが、これは放射能は恐竜時代からあると主張するのと同じである。問題はその存在のありようである。放射能は昔からあるから怖くはない。原子炉はつくりつづけてもかまわないということではないだろう。
私は以前の日記に「大切なことは、性能の良い大型焼却炉をつくることではなく、ゴミの発生そのものをなくすことだろう。環境に優しい省資源型の社会をめざす発想に立った法律の制定こそが求められている」と書いた。ダイオキシンを減らすために、ただ大規模な焼却炉をつくればいいというのは業界を利するだけの、産業優先の発想に立ったあまりに姑息な解決策である。それはかえってエネルギーと資源の浪費でしかない。
私は渡辺正・東京大学教授のように「ダイオキシン恐れるに足らず」というのは方向性として間違っていると考える。大切なのは放射能やダイオキシンをこれ以上人工的に増やさないような社会をいかに実現していくかという社会変革である。ダイオキシン問題はこうしたもう少し大局的な視点で考えた方がよい。
大切なのは巨大な焼却炉を作ることではなく、私たちの生き方を考え直すことだ。私たちにもうすこし自然を大切にした簡素で美しい生き方ができないものだろうか。ダイオキシンの毒性は決して神話ではない。それは現実に存在する問題である。批判され、うち破られるべき神話は、もっと他にあるのではないだろうか。
(参考サイト) http://www.mainichi.co.jp/eye/kishanome/200306/06.html
11.専売所の娘
私が専売所で夕刊を受け取って出かけようとすると、奥さんが二階に声をかけた。 「芳子、橋本さんが見えたわよ。降りていらっしゃい」 やがて梯子段を、素足の娘が降りてきた。流行のミニスカートを穿いていたので、私の目に娘の白い太股が見えた。
東京の大学に行っている専売所の一人娘だった。目の大きな、顎の張った勝ち気そうな娘だった。夏休みに私が帰省している間、彼女が肩代わりをして新聞を配ってくれることになっていた。 芳子はサンダルを履くと、 「橋本さんですか。よろしくお願いします」 「こちらこそ、よろしく」
私達は自転車を連ねて出発した。自転車に乗るとすれ違う男たちが、彼女のミニスカートの太ももに視線を向けてきたが、彼女は気にしていなかった。一時間半ほどで配り終えて店に戻ると、芳子が冷えた麦茶を運んできた。
「帰省されるそうですね」 「寺の草取りがあるのでまだ少し先になりそうです」 「大きなお寺なのですか」 「小さな、無住のお寺です」 「お邪魔しようかしら」 「草取りの手伝いなら、歓迎です」 私は芳子なら来るかも知れないと思った。
5.天台本覚思想
日蓮と言えば「法華経」だが、もちろん法華経は日蓮の専売特許ではない。法華経は日蓮以前から比叡山で研究されており、それは天台本覚思想としてすでに成熟・完成していた。日蓮のみならず、先輩格の法然や親鸞、道元も比叡山でこれを学んでいる。
そこで天台本格思想に至る流れを振り返っておこう。天台智�擇砲呂犬泙訶径羯彖曚亘_攘个鮟�経の王とすることで仏典の統一をはかろうとしている。そしてこの法華経にとかれている世界観を「一念三千論」として展開した。最澄はこれを日本に移して、法華経の「一乗妙法」を根幹にして日本の仏教の諸思想を総合統一しようとした。
最澄没後、比叡山の天台思想はさらに思想的に発展し、ついには天台本覚思想に至って哲理として完成した。日蓮もこれを熱心に学んだ。たとえば、「守護国家論」には「本地久成の円仏は此の世界に在せり」と書かれているが、これなどはまさしく「仏凡一如」を説いた天台本覚思想の真骨頂を示した文言だといえよう。
法華経の寿量品には、「娑婆即寂光土」「衆生劫尽きて大火に焼かれると見る時も、我が此の土は安穏にして天人常に充満す」などという有名な言葉があるが、これをつきつめれば「凡夫のふるまいを離れて仏はなく、また穢土のただなかに浄土がある」という考え方にいたる。これが天台本覚思想で、一口で言えば、現実のただなかに真理が活現しているという考え方である。
新憲法の草案は松本を委員長とする政府の憲法調査委員会、近衛の憲法改正プロジェクトの他、共産党や社会党のものや弁護士会のもの、その他の個人や団体のものなど十指を越えていた。その中でも最も早く示されて注目されたのは憲法研究会から出された草案である。
憲法研究会のメンバーには戦時中に東京帝国大学から追放された大内兵衛と森戸辰男がふくまれている。彼らの草案には、人民主権、貴族制度の廃止、「出生、身分、性、人種および国籍による差別」の禁止、労働権の保障といった民主主義の基本が踏まえられていて、GHQの民政局はこの草案を評価していた。
憲法改正のイニシャティブが松本委員会からGHQの民政局に移され、結局アメリカ人の手で草案が出来上がるわけだが、その過程で、憲法研究会の民主的な草案も多少は勘案されたようである。こうして戦後数ヶ月間の様々な曲折を経て、1946年2月4日、マッカーサーの指示の下にGHQの「憲法制定会議」が発足し、約一週間たらずの強行軍で憲法草案が新たにつくられることになった。
起草委員は16人の軍人と8人の民間人で構成されていた。軍人といっても職業軍人は一人もおらず、責任者のホイトニー准将も作業チームの実質上のリーダーシップを担ったケーディス大佐も弁護士の出身だった。他にはウオール街の投資家や民間諜報機関の専門家、中国専門の歴史家、ジャーナリストなど雑多な経歴の持ち主たちの寄せ集めで、憲法の専門家はいなかった。政治的立場もホイトニーが忠実な共和党の支持者なら、ケーディスが民主党のニューディール派といった具合に多彩だった。
そこにはユダヤ系のペアテ・シロタをはじめとする4人の女性もふくまれていた。ペアテ・シロタはウイーンで生まれで、ピアニストだった父親が日本の東京音楽学校に職を得た関係で、子供の頃に両親と来日し、12歳になるまで日本に滞在していた。その後、アメリカのカレッジを卒業し、戦時中は米軍の日本向けプロパガンダ放送用の日本語台本を書いたりしていた。ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」から引用しよう。 <ペテア・シロタは、GHQの行動が「傲慢であった」とする主張に対しては、いっそう断固として拒絶している。彼女は、憲法の草案作りによって日本人に何か大層なことを教えようとしていると思ったことは、一度もないと回想している。むしろ、彼女も周囲のアメリカ人も、より抑圧の少ない社会ーーそれは、大多数の日本人が望んでいたにもかかわらず、日本の指導者からは得られなかったものであるーーを創造する手助けをしているのだと、強く信じていたのである。シロタの場合、自分の個人的な体験から、日本人女性が法律上も結婚生活においても抑圧されていることを良く知っていたので、日本人女性にたいして並々ならぬ共感をもっていた。
・・・この重要な一週間の間、マッカーサーの皇帝のような手法は、最も巧妙な形をとってあらわれた。彼は部下たちの日々の起草作業から完全に距離をおきつつも、常に彼らの作業の様子に関心を払った。そして自分が絶対に譲ることのできないと宣言した基本的なガイドラインの解釈と具体化について、部下たちに自由裁量権を与えた。こうすることで、マッカーサーの三大原則は再考され、洗練された。
・・・政治に理想をもち、聡明な(そして多くはまだ若い)人々にとって、これ以上高揚させられる任務は想像できなかった。GHQ草案の作成者たちに与えられていた石板は、すでに皇室の菊の紋章が浮き彫りにされていたとはいえ、基本的には何も書かれていない真新しい石板だった。
そして日々の議論を記録した秘密議事録には、彼らが強烈な目的意識を共有していただけではなく、高度な技術的能力を持ち、専門的な意見のやりとりがあったことがはっきり示されている。起草委員会の弁護士のなかには憲法の専門家は一人もいなかったが、松本が商法の専門家でありながら憲法にとりくんだのと同じように、アメリカ人たちが任務を回避することはなかった>
天皇は国家および国民の統合の「象徴」である、という憲法の心臓とも言える表現を思いついたのは二人の若手将校だった。戦争放棄の条項を考えたり、主権は完全に国民の下に存するという考えを明確に打ち出したのはケーディスのチームだった。またシロタの尽力でアメリカ憲法にもない「両性の本質的平等」を保障する規定が入った。こうしてたまたま敗戦後の日本で同じ職場にあった24人のアメリカ市民たちの自由な発想と白熱した議論の中から、日本の将来を決める世界にも例がないほど理想主義的で画期的な憲法の草案ができあがった。
松本を委員長とする政府の憲法調査委員会の草稿は、そのあまりに保守的な内容のためにGHQの受け容れるところとならなかったが、国民もまたこれに失望した。そのころ実施された世論調査によると、天皇の地位の変更を希望しない者は、わずかに16パーセントに過ぎなかった。松本委員会の草案は、こうした国民の期待を裏切るものでもあったわけだ。
しかしこのころ、松本委員会の他に、多くの団体や個人が新たな憲法の草案を発表していた。そしてそれらの多くは松本委員会の作成したものよりもはるかに民主的な内容だった。ジョン・ダワーは「敗北を抱きしめて」のなかで次のように書いている。
<明治憲法下で人権と主権を否定された民衆は、自分たちの状況が改善される機会を歓迎した。このことはGHQの高官が注意深く指摘しているように、次の二点において明らかであった。まず第一に、私的機関や個人が提案していた憲法改正案の多くが、自由主義的で進歩的なものだったこと。第二に、松本委員会の改正案が派手なスクープによって公になった時、メディアはこれを反動的であると批判し、民衆の強力な支持を得たことであった>
数ある憲法改正プロジェクトの中でも、異彩を放っていたのは近衛文麿のものだろう。マッカーサーは10月4日に近衛公爵に、憲法改正についての調査研究を個人的に依頼した。近衛はさっそく小数の憲法専門家からなるグループを組織し、これを皇室の庇護の下においた。そして箱根の旅館の3階を借り切って憲法改正の作業にとりかかった。
近衛は11月22日には、「帝国憲法改正要綱」をまとめあげて、天皇に上奏した。その第一の要点は、「天皇統治権ヲ行ナウハ万民ノ翼賛ニ依ル旨ヲ特ニ明ニス」という点におかれていた。つまり天皇の権限を明確にして、これに制限を与えるべきだと主張している。さらに非常事態において国民の権利を制限する非常大権の条項の削除や貴族院の廃止も提案している。幣原や吉田、松本が考えていたものよりもはるかに進んでいた。
しかし、近衛のこのプロジェクトは結局実を結ぶことはなかった。12月6日に彼の名前が他の8人と一緒にA級戦犯の公式リストに載り、その10日後、逮捕予定の日に、近衛が服毒自殺をしたからである。もっとも、マッカーサーはすでにこの事態を予測して、11月1日に近衛プロジェクトとの絶縁を公然と宣言していた。
<日本が中国を相手に「殲滅戦」を開始した1937年に首相だったのは近衛である。1938年に日本が「東亜新秩序」を宣した時も首相だったし、1940年に日本がナチス・ドイツ、ファシスト・イタリアと枢軸同盟を締結した時も近衛政権であった。したがって驚くべきは、1945年のうちに近衛が戦犯容疑者に指定されたことではなく、マッカーサーとアチソンという、アメリカの軍部と文民を代表する二人がともに、憲法の民主化を推進するのに近衛が最適の人間と考えたことであった>(ジョン・ダワーは「敗北を抱きしめて」)
これは近衛一流の保身術にマッカーサーやアチソンが幻惑されたためであろう。近衛は、戦後すぐにマッカーサーに接近し、「軍閥政治」についての自説をおおいに吹聴した。彼によると戦争の責任は軍部の独裁にあり、その中心人物は東条英機だということになる。そして彼自身は天皇に早期和平を進言した平和主義者だということであった。彼は彼が天皇に謁見した時の様子をマッカーサーの前で再演までしてみせたという。
近衛は東条とならんで、近衛内閣で外務大臣としてドイツとイタリアの同盟を推進した松岡洋右も戦犯として追及すべきだと進言した。さらに天皇の側近だった木戸幸一についても、軍国主義者に同調して主君に誤った進言をした重大責任を負っていると断言した。そして天皇と自分はこうした陰謀家の策略に騙されたわけで責任はないと主張した。
マッカーサーは近衛のこの論理に魅力を覚えたに違いない。しかし、天皇とともに近衛まで無罪放免とするほどのお人好しではなかった。近衛は自分がマッカーサーの信頼を得ていると思いこみ、派手に立ち回りすぎて、日本の新旧の支配層のみならず、マッカーサーの顰蹙を買っていることに気付かなかった。近衛に比べれば天皇ははるかに控え目で謙虚だった。そして何よりも賢明だった。
10.沖縄返還
七二年五月十五日に、沖縄が日本に返還された。日本共産党をはじめとする左翼勢力は「沖縄返還協定断固粉砕」を叫んで運動を展開してきた。このまま米軍基地を満載した沖縄が返還されると、「本土の沖縄化」が促進され、再び軍国主義の台頭につながると考えられた。そのころ配布されたビラには「軍靴の足音が忍び寄ってきた」などという文句が並んでいた。
私も沖縄の米軍基地には反対だった。基地のない平和で安全な沖縄を返して欲しかった。しかし自民党はアメリカ帝国主義の傀儡であり、その政権の進めることはすべて反対だというのはどうかと思った。
街頭の署名活動に参加したが、人を説得できる確信があるわけでもなく、 「全体主義は嫌いだ。右向け右も左向け左もいやだね」 こんな言葉を漏らしたので、 「橋本は日和っているらしい」 「警察のスパイかも知れない」 そんな風評が立っていた。
やがてだれかが尾行しているような気配を感じるようになった。寺の前に見知らぬ男が立っていたり、大学の図書館で、私の鞄がなくなった。鞄の中の教科書やノートもかえってこなかった。いつか私は猜疑心をもって周囲をながめるようになった。
赤旗を配らなくなって、私は組織からも、友人からも評価されなくなっていた。疎外感を抱いた私はほとんど一人でいることが多くなった。たまに弘子が寺に来て、世間話をしていった。それが私の生活にひとときの潤いを与えてくれた。弘子まで党の回し者だとは疑いたくなかった。
妻が近所のお宅に咲いている釣鐘草を貰ってきて、玄関の花瓶に活けた。帰ってきた私を、この白い花がいつもやさしく迎えてくれる。釣鐘草はその形から来た名前だろう。蛍袋とも風鈴草ともいうと歳時記に書いてある。
玄関のともしび白し釣鐘草 裕
玄関でお辞儀して咲く釣鐘草 英一
たまたまeichanのHPの「一日一句」にお邪魔したら、釣鐘草の俳句にお目にかかった。 eichanの他の句も紹介しよう。
そよ風と若葉があればそれでいい 妻作る娘の弁当柿若葉 野菜苗伸び行く朝のうれしけれ ベランダに赤いバラ咲き子の笑顔 陽が落ちて蝙蝠の飛ぶ池の上 仏壇にさ庭で摘みし釣鐘草 玄関にひょいと顔出す釣鐘草 蓮華草咲いている丘風さやか
<釣鐘草、今年はとりわけ繁茂してたくさんの花を楽しませてくれています。花は筒状になっていて、お辞儀しているように見えました。・・・短歌や俳句を詠むおかげか、今まで見えてなかったものが見えてきたのかもしれません。私の住んでいる街がこんなに美しいとは思っていませんでした。花や鳥。自然に溶け込み、自然と対話するのはとても楽しいものです。人は自然の中に生かされているのだと思えてきます>
eichanの句、ほのぼのと温かく、清々しい。こうした日常の小さな幸せがほんとうの幸せなんだなと実感させてくれる。この温かくて爽やか感性を大切にしたいものだと思う。
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