橋本裕の日記
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13.八聖道
釈尊は人生はそのままでは苦しみでしかないが、これを克服するには修行して心身を整えなければならないと説いた。しかしその修行はただ肉体や精神を苦しめるだけではいけない。釈尊は安楽とともに苦行を斥け、そのいずれにも偏らない「中庸」こそが正しい修行であると考えた。そしてこれを八つの正しい道として人々に示した。 先ずは真理を正しく認識する必要がある。そのために必要なのは、「正見」と「正思」である。すなわち物事を正しく見て、正しく考えることだ。正しく見るというのは、先入観を捨ててありのままに観察することである。正しく考えるというのは、物事を筋道をたてて合理的に考えることである。たとえ事実をありのままに捉えても、そのあとの推論が間違っていては間違った結論に導かれる。だから正しく観察し、正しく思考しなければならない。
次に「正語」「正業」「正命」「正精進」という四つの実践が続く。これは正しい言葉を口にし、正しい行いをし、正しい生活をすること。そしてそのためにたゆまぬ努力をするこである。このように釈尊は正しく観察し、正しく思考するだけではだめで、これに身体的な実践がともなわなければならないと考えた。
そうすると私たちは、「正定」「正念」という最終的な修行段階に至る。「正念」とは雑念から自由になった正しい精神状態であり、「正定」とはこうした精神状態が身体と一体化した平和な心身統一の状態を言う。このような八つの道を実践すれば、私たちはだれでも苦しみの世界を脱してさとりの世界に入ることができる。釈尊の弟子達はこれを「八聖道」として尊んだ。
私たちの住む迷いの世界は「怒り(地獄)」「貪り(餓鬼)」「愚痴(畜生)」「争い(修羅)」という毒に満ちている。「平静(人間)」「歓喜(天上界)」という心の状態もあるが、それは束の間のことである。この迷いを出るためには、この聖なる八っの道を行じればよい。こうした釈尊の「四諦八聖道」の教えに耳を傾ける人を、「声聞」と呼ぶ。
声聞は「四諦」の理論を学び、「八聖道」の実践を行じることによって、いつか「縁起の法」を体得することができる。こうして「縁起の法」に精通し、悟りを開いた人を「縁覚」と呼ぶ。釈尊が当初目差したのは、このような人間救済のありかただった。しかし、仏教はこのあとさらに発展する。それが「六波羅蜜」を行じる「菩薩」と「仏」への道である。次回は「六波羅蜜」について書いてみよう。
今野信雄さんの「江戸を楽しむ」(朝日文庫)を読んでいて、あらためて日本の寺子屋教育のすばらしさに思いを致した。寺子屋については以前にも日記に書いているが、新たな発見もあったので、もう一度触れておこう。
戦国時代に来日したフランシスコ・ザビエルは「日本はヨーロッパ以上に教育が進んでいる」という手紙を本国に送っている。江戸時代に来日した多くの外国人も「日本の子育てこそ世界の理想である」と激賞している。たとえば長崎のオランダ商会に勤務していたフィッセルは「日本風俗備考」の中で、「私は親子の愛情の交流こそが、日本人の特質である」と書いた。ペリー提督も日本に上陸して、日本の幼児教育のすばらしさに驚いたという。
とくに外国人が絶賛したのは「寺子屋教育」だった。幕末のころにはこれが全国に普及し、1万5千から2万ほどもあったらしい。江戸に至っては一町に2,3軒はあったという。大方の子供は男女とも7,8歳になると近所の寺子屋に通い始める。授業は午前7時半ころから午後2時くらいまでだったが、とくに時間に制限はないので、もっと早く来たり遅く来たりする子もいたらしい。卒業するのは11,2歳だった。こうした寺子屋教育のおかげで、日本人の識字率は75パーセントを超えていたというから、イギリスでさえ20パーセントだった当時の世界の常識からすれば奇跡と言うしかない。
寺子屋では「よみ、かき、そろばん」の他、教訓、社会、地理、歴史、産業など、いろいろな教科書を使って、それぞれの子供にあった教育がなされていた。教科書の種類は7千種ほどあり、その中の1千種は女子専用の教科書だった。寺子屋は武士の子供も町人や農民の子供もおなじく席を並べたが、男女は別学で、女の子を教えるのは女のお師匠さんだったという。
寺子屋の師匠には武士や僧侶や神主がなったが、一番多いのは商家のご隠居さんだったという。かならずしも収入が目当てではなく、ボランティア精神も旺盛だったようだ。面白いのは授業風景で、生徒達は決してお行儀がいいわけではない。片隅でとっくみあいをしているのもいれば、墨でいたずら書きしている子供もいる。師匠さんはそんなことお構いなく、一人一人個人教授をする。現在残されている寺子屋の絵からはそんな自由な様子がうかがえる。
寺子屋を卒業した後、さらに学びたい者は「塾」に通う。緒方洪庵の「適塾」や吉田松陰の「松下村塾」、広瀬淡窓の「咸宜園」などが有名だが、そのほか本居宣長、中江藤樹、伊藤仁斎など有名な学者はほとんど塾を開いて、全国から俊英をあつめていた。これらは私塾だが、もちろん幕府や藩の正式な学校もあった。
<大体、適塾でも咸宜園でも、入塾のときの条件の「三奪」というのがあります。つまり、武士の子でも町人の子でもみな同じ、家柄を問題にしない。また年齢を問わない。そして従来の学歴は無視する。こうした家柄、年齢、学歴を奪うという意味で「三奪」なのです。吉田松陰の松下村塾などには、10歳に満たない子供や、土地のゴロツキまで通っていたそうで、要は学問をする姿勢と、試験による成績次第だったのです。
しかし、こんな環境でありながら、いや、むしろこうした残酷ともいえる環境だったからこそ、学生どうしの友情は厚く、塾をやめても一生のつきあいになるのです。また、師匠もそれを強く望んでいた>(江戸を楽しむ)
おなじ「塾」といっても受験競争にあけくれている現代の「学習塾」とはいささか趣が違っている。富国強兵をスローガンにした明治政府は寺子屋を排して、近代的学校制度を作り上げた。そこでは全国一律におなじ国定教科書をつかって一斉授業が行われた。そうしたなかで外国人を羨望させせた「寺子屋」も「塾」も亡びるしかなかったが、これはとても残念なことである。
| 2003年07月29日(火) |
民主主義は論理重視から |
一昨日の日記「数学軽視の日本社会」について、スピンさんが「数学軽視は論理軽視である」として、こんな書き込みをしてくれた。
<民主主義が機能不全に陥りがちなのも、「論理」軽視に由来すると私は思います。R.P.Feynmannが書いているように、ある行動の自由が正当化されるためには、厳密な論理ではどのように行動するべきかを決めようがないという条件が必要です。また、こうした自由を持つ国民が論理的には決定できない政策的判断を行うために、多数決が必要となります。そして、どこまでを論理的に判別できるかを明らかにするために言論と議論が必要になります。
ところが、論理が軽視される社会では、論理的には誤りとはっきりしているような犯罪や失政に対して、自由が主張され、他方では、論理的には正当化しようのない個人的な恣意によって自由が侵害されてしまいます。このように、自由の意味がはきちがえられているので、議会での議論、多数決も機能しなくなります>
本当の自由は論理的必然の上に築かれるというファインマンの指摘はその通りだと思う。ラッセルもどこかで同様の思想を述べていた。私も以前、この問題を考察したことがある。
<言語は論理と呼ばれる普遍的な構造によって、我々の精神にある客観性と合理性を与えます。この客観性と合理性こそ、真理と呼ばれるに値するものの土台であり根底なのです。人間を人間たらしめているものは言語であり、人間をその根底で支えているものは言語だと言えるのです> (「人間を守るもの」第二章精神と言語、言語の恩寵)
人類として初めて、論理的な言語の使用に目覚めたのがギリシャ人だ。彼らが発明した学問や民主主義という制度の根底には論理的な言語に支えられた「言論の自由」がある。
民主主義を論理的に考察し、三権分立にもとづく議会制民主主義を提唱したジョン・ロックは「自由を生み出すものは法である」と書いている。民主主義という制度はこうした論理的な言語とそれによって保障された言論の自由によって支えられているわけで、「論理軽視の社会」に民主主義が根付くわけはない。
ここで思い出すのが、映画「12人の怒れる男」だ。これは北さんに薦められて見たのだが、見事に民主主義社会における言論の大切さを描いている。北さんの解説を引用しよう。
<映画の主人公は、状況証拠として取り上げられていた証言の疑問点を、一つ一つ論理的に、根拠をあげて証明していきます。民主主義のルールとして確立された「判決は全員一致」と「疑わしきは罰せず」によって、一人の人間の「言語の論理性」が、少年の命を救うことになります。
12人の陪審員の中には「言語の論理性」が身についていない人物が登場します。その人物は「スラムで育った奴らは人間のクズばかりだ。やつらは嘘つきのろくでなしで絶対信用できない」という先入観に凝り固まった発言を繰り返すばかりで、まったく論理性がありません。有罪に固執する最後の3人の1人になりますが、彼の発言をみんな無視します。そして仲間であるはずの3人のうちの1人からも「あなたの話は金輪際聞きたくない」と言われてしまいます。
<民主主義の前提は言語の論理性>をこれほどみごとに描いた場面はありません。しかし、「民主主義」「本当の自由」が現実問題として実現されるためには、もう一つ重要な要素が必要になります。それは「勇気」です。「12人の怒れる男」は、1人の人間の勇気によって、命が救われる物語でもあります。
最初にただ1人無罪に挙手する人物がいなければ、民主主義のルールとして確立された「判決は全員一致」も生かされることがありません。11人を敵に回し、その嘲笑、罵倒にひるまずに対抗していくためには、そうとうの勇気が必要です。勇気がなければ「言語の論理性」を駆使すること自体が始まらないのです。
私は「12人の怒れる男」を少なくとも100回は観て、ヘンリー・フォンダ演じる主人公の「勇気」がどこから出てくるのかを考えました。そして、たどり着いたのは、彼の「教養」でした。彼が勇気をもてたのは、彼が真の大人の「教養」を身につけていたからだと思います。
その「教養」とは、人間に対する愛情を核として構築された<民主主義という人間を大切にする最高の理念>ということです。この理念がしっかり身についていたからこそ、どんな非難にも耐えられたのだ、ということが、この映画では実に自然に理解できるように作られているのです>
「12人の怒れる男」は民主主義の絶好の教材である。これを授業で生徒に見せ続けてきた北さんの努力に敬意を払いたい。ここに引用した北さんの文章は、この映画について私が読んだもっともすぐれた解説である。
1. 転校生
父が警察官をやめて、私達の一家が福井に帰ってきたのは、昭和三十七年の四月の末だった。さっそく私は母に連れられて、転校先の春山小学校に行った。担任の先生は「佐藤」という名前の若い先生だった。体育の授業の最中だったらしく、私達は初対面の挨拶だけ交わして別れた。
「F先生はいないのかなあ」 私は小学校一年生のときの担任の先生を思い出した。何しろこの学校の門を潜ったのは五年ぶりだ。職員室や廊下で顔を会わせた先生方に見覚えはない。F先生も転勤されたのかもしれない。
校門を出て、福井大学の屏沿いの道を歩いた。近道をするには大学の構内を抜ければいいのだが、あいにくそこの門がしまっていた。 「お友達ができるといいわね」 「さあね」 小学校一年生のときの同級生で思い浮かぶのは幼なじみの葉子くらいだった。他に親しい友達はいなかったが、転校はこれが三回目なので何とかなりそうだ。
心配なのは勉強だった。若狭の学校へ転校したときには、勉強面でかなり楽だった。学習のテンポが遅いのでのんびりできた。宿題もほとんど出ないので、遊んでばかりだったが、福井の小学校はそんなわけには行かない。もともと成績が優れていたわけではない。この四年間でさらに差をつけられたのではないか。
「最初のうちは大変だろうけど、何とか挽回するのよ」 「頑張るよ」 「通知票に5があったら、ヨーロッパ軒に行きましょう」 ヨーロッパ軒と聞いて、私は元気になった。そこの「ソースカツ丼」が私の好物だった。若狭の学校では算数と理科で5をとっていたから、ひとつくらいは5がとれるかも知れない。
ヨーロッパ軒の創業者は明治時代にフランスに留学して、日本で初めて「かつ丼」を売り出したそうだ。店は東京の神田にあったが、関東大震災でつぶれたので、出身地の福井に戻って営業を始めたのだという。福井では洋食といえば「ヨーロッパ軒」で、少女時代の母もその店のカツ丼を食べるのが楽しみだったという。
もっとも、レストランで外食などというのは、盆か正月でもないかぎりできない贅沢だった。まして、今は父親が警察を辞めたばかりで失業中である。母も私の成績にかこつけて、「カツ丼」を食べたかったのかもしれない。 私たちは書店に寄って、理科と社会の参考書を買った。
| 2003年07月27日(日) |
「数学」軽視の日本社会 |
書店に行くと、算数の本がたくさん並んでいる。ゆとりの教育で計算力が落ちたという論を展開する人たちが増えて、これではいけないという危機感もあるのだろうか。分数計算ができない高校生や大学生が増えてきて、実際に学校の先生も困っているようだ。
しかし私が不思議に思うのは、これだけ「算数」や「数学」の学力低下が叫ばれ、高校までは数学の授業も重視され、大学受験でも特別扱いされ、生徒を塾に通わせたがる父兄がいるというのに、大学生になるととたんに数学の授業がなくなり、数学の影が薄くなることだ。
現に国立大学に通う私の二人の娘も、大学では数学の授業をただだ一時間も受けていない。医学部の看護科に席を置く長女は、推薦入学だったので数学の受験勉強とは無縁だったようだが、これは例外で、看護科の入試では数学がかなり重視される。にもかかわらず、入学後はまるで数学を教えないというのはどうしたことだろう。
数学をただ入試の選別装置として使っているとしか思えない。日本ではだれもが、入試に合格するために数学の勉強している。これは数学に限らないことかも知れないが、とくにこの傾向が数学に強いようである。こうしたことは外の先進国では考えられないことだ。日本の特異現象である。
たとえばアメリカには約2000校の大学があるが、そのなかの4分の3にあたる1500校が数学科をもっている。これに対して、日本は600校ほどある大学のなかで、数学科を持っているのはたった60校、全体の10分の1である。日本の大学でいかに数学が冷遇されているかわかる。
日本の大学生は大学でほとんど数学を履修しないが、西欧の大学では文化系の学生でも幅広い数学の授業を履修している。なぜかと言えば、西洋にはプラトン以来の学問の伝統があるからだ。数学とはそもそも人がまっとうに物を考えようとすれば避けて通れない論証の技術であり、人間の知性の偉大さを実感できるもっとも誇らしい教養である。
数学はなにも数学の専門家になるために勉強するのではない。それは私たちがこの社会で自由な市民として生きていくための大切な教養である。たとえばいまはやりのマニフェストひとつとっても、そこに求められるのは論理的な整合性であり、自己矛盾を持たない体系性である。政策を立案しなければならない日本の官僚や政治家に、こうした「数学的能力」があるのかどうか非常にあやしい。
じつのところ数学の専門的な素養がないものは一流の経済学者にも政治家にもなれない。日本で一流の経済学者や政治家が育たないのは、彼らが数学的能力に乏しいからだ。そしてここに日本の教育システムの最大の問題点があるのだが、数学「学者」も含めてこの認識はほとんど持っていない。
最後に、アメリカの大学院で政治学を専攻している人の最近の日記を一部引用しておこう。彼がいかに日本の大学で数学軽視の教育を受けてきたか、そのことがアメリカの大学院に進学し、政治学を研究しはじめてどんなに大きな壁になっているかがわかるだろう。
<今週も、講義中に使用される数学の程度が高く、いきなり初日からチンプンカンプンになってしまった。僕の微分の知識はまったくの独学で、本当に初歩のレベルしか分かってないことを改めて痛感した。しかし、講義中隣に座ってるD君は、「なんでこんな基礎に時間をかけるんだ」とブツブツ言ってるし…。 とりあえず、一つ一つの式の展開は分からなくても、先生が説明してることの大まかな内容だけは理解しようと思って聞いていたけど、分かったような分からないような…。ハァ。 昼休みにD君と話してて、学部時代に微分積分を勉強したことがないことを話したらビックリされた。僕は大学受験では数学は「数�機廚世韻世辰燭掘�筑波大学時代は数学は一切取らなくてもよかったので、大学院に入るまで長い間数学とは無縁だった。その頃は、政治学の研究で数学を使うなんて思いもしなかったなー。。 僕が筑波大学を志望した理由の1つは、「一般教養」課程がなく、専門科目に絞って勉強できることだったんだけど、今になると、そのやり方の欠点も見えてきた。アメリカの大学の学部課程では普通、どの専攻であろうと割と幅広い科目を履修しなければならない。学生には嬉しくない制度だろうけど、そういうことも必要なんだろうなー>(「大学院をミシガンで」6月23日の日記)
(参考サイト) http://www.msu.edu/~maedako/nikki/0306.html
これは「幼年時代」にも書いたエピソードだが、幼い頃に近所の少女と散髪屋さんゴッコをしたことがある。私が散髪屋で彼女がお客さんだった。その結果は散々で、彼女はやけに広くなったおでこで家に帰ることになった。その夜、彼女の母親が怖い顔をしてわが家に苦情を言いにきた。
これにこりて、私はあこがれの散髪屋になる道を断念したわけだが、今から10年ほど前に、名誉挽回とばかり、今度は小学生の長女をお客さんにして再び散髪屋に挑戦した。今度こそと意気込んで始めたが、結果は悪夢の再現だった。鏡を覗き込んだ長女は自分の広いオデコをみて泣き出した。
その後も名誉挽回とばかり、次女や妻を相手に散髪をやらせてくれと頼むのだが、長女の失敗の例を見ているので、「とんでもない」という顔をして逃げていく。妻に言わせると、私くらい不器用な人間はいないそうだ。その不器用な人間が、自分の不器用さを自覚しないで鋏を振り回すのだから、あぶなくて見ていられないと言う。
そこで、仕方なく今度は自分の頭で挑戦することにした。しかし、今度ばかりは失敗したら大変なことになる。学校へ行って生徒になにを言われるかわからない。授業どころではなくなるかもしれない。そこで先ずは道具を揃えることにした。昨日ホームセンターへ行って「ヘアカットセット」なるものを1980円で買った来た。カットはさみ、スキはさみ、コームの基本三点セットに15分間のレッスンビデオが付いている。
昨夜、夕食の後、さっそくビデオで学習した後、妻や次女の「止めた方がいいよ」の声を無視して洗面所で鏡を見ながら果敢に挑戦した。髪の毛の房がまたたくうちに洗面台の上につもっていく。何しろ後頭部は手探りで鋏を入れなければならないから予想した以上にむつかしい。途中から次女を呼び、手鏡を持たせた。あわせ鏡で鋏の位置をたしかめながら慎重に毛すきとカットを続けた。
およそ1時間後、すべてが終わった。風呂に入り、頭を洗ってさっぱりしたあと、丁寧に整髪した。前から見た感じはそれほど悪くはないのだが、後頭部がなにやらおかしい。「どうだ」と次女に聞くと、「お父さん、やっぱりヘンだよ」と気の毒そうにいう。刈り上げ過ぎて、襟足がやけに出ている。おかっぱのちびまる子ちゃんみたい。それに不揃いだ。
どうやら3度目の挑戦も失敗したようだ。居間に行くと、妻が私の頭を見て、吹きだした。「やっぱり、こうなるのはわかっていたわ」となかなか笑いが止まらない。「最初はこんなもんだ。上出来だよ。それに人間は見かけなんかどうでもいいんだ。大切なのは中身だからな」と私は負け惜しみを言った。こんなことでめげてはいられない。これからも自分の頭を実験台にして、自前の散髪に挑戦し続けるつもりだ。
| 2003年07月25日(金) |
「あかね雲」あとがき |
私の金沢での6年間の大学時代に取材した「あかね雲」の連載が終わった。これは小説なのでそのまま事実というわけではない。事実をそのまま書いてあるのは自伝「青年時代」なので、お暇があればこちらを読んでいただきたい。事実と小説の違いがわかると思う。
もっとも小説だからと言って、嘘八百を書いたわけではない。弘子も芳子も色街の少女も実在している。およそのシチュエーションは事実あったこととそれほどかわっていない。ただ細部にいくらかの潤色をほどこした。あるいはストーリーの展開そのものにいくらかの嘘を付け加えた。
たとえば私は芳子と内灘へ行ったことはない。だからもちろん彼女と接吻したり、胸に触るなどというイヤラシイことは金輪際していない。芳子や弘子の裸体を思い浮かべてマスターベーションに耽ったりしたこともない。これはただ小説を面白するためのフィクションである。しかし時にはこうしたフィクションを通して、より深い真実が語られる。
後日談を書こう。弘子からは翌年、「結婚した」との葉書を貰った。それから数年後、離婚したという話を友人からきいた。いまどうしていることかわからない。まだ、浅野川の色街ちかくの家に住んでいるのだろうか。
芳子ともその後、あったことがない。10年ほどして金沢に主張した折りに寄ってみたが、すでに専売所の建物がなくなっていた。つぶれたのかも知れない。家がなくなって平地になった場所に佇み、しばらく呆然としたのを覚えている。
人生で再び彼女たちに会うことはないだろうが、小説を書いているあいだ、彼女たちはいつも私の身近にいた。私は彼女たちの声を聴き、気配を感じた。連載を終わって彼女たちともお別れだと思うと淋しい。しかし幸いなことに、ここに作品が残っている。折に触れ私はこの小説を読み返し、彼女たちに出会うことができる。
さて、「あかね雲」に続いて、「こうもりの空」を連載することにした。これは私の小学校6年生の半年間に取材したものである。小学6年生のとき若狭小浜から福井市に転校してきた私は、思いがけない試練に直面した。デパートでの友人の万引き、それが発覚しての不登校、屋根裏暮らし、そしてジフテリアで隔離病棟に入るなど、この時期の私はついてなかった。
しかし、隔離病棟で、私は一編の英詩にであう。病室の壁に英詩とその訳が書いてあったが、それは「夜は千の目を持つ」という魅力的な言葉で始まっていた。もちろん英語の原文は読めなかったが、薄汚れた病室の壁に落書きされたその訳は、隔離病棟の恐ろしい幾夜を体験した私の心をしみじみと打った。
この英詩は夜空を彩る星星に「理性」を、昼を照らす太陽に「愛」を象徴させ、理性に対して愛の優位を歌っている。小学生の私にはその意味がよくわからなかったが、「夜は千の眼をもつ」というフレーズから、夜の世界、闇の世界の不思議にひかれたのを覚えている。千の眼を持つ夜の神秘は、どこか死の冷たさに似ているように思われた。これが私が死を考えた最初ではないだろうか。実際私はこの詩に出会う少し前に、屋根裏で首吊りのまねごとをしている。
こうしたことは自伝「少年時代」に赤裸々に書いたことだが、これを素材にして、もう少し別の角度から人生の真実に迫り、「小説」として仕上げてみたいと思った。「こうもりの空」という題は、ほの暗い屋根裏で蝙蝠と遊んだ淋しい記憶の記念である。少年時代のあまりに哀しい一こまも、50歳を過ぎて振り返るとなにやらユーモラスでなつかしい。
あまりに明るい光だけの世界は、魂にとってよくないのだろう。さんさんと降り注ぐ陽光だけの世界に私たちは生きられない。人生に喜びと悲しみがあるように、喜びだけの人生はどこか薄っぺらでいんちきくさい。夜の闇の中で、むしろ本当に深い喜びの芽が育っていく。
魂の成長のためには、昼の太陽ととともに千の眼をもつという神秘的な夜の闇が必要なのだ。夜を体験することで、昼のあたたかさや美しさを実感する。屋根裏の闇に孤独を知り、隔離病棟の夜に死の恐怖を想ったことも、魂の成長にとっては貴重な天の配剤だった。
12.苦しみの正体
釈尊は「この世は苦しみの世界である」(苦諦)という認識を根本においた。それではどうしたらこの苦しみが逃れられるのか。私たちは歓楽や気晴らしによってこの苦痛を忘れようとする。
しかし、釈尊はそれでは駄目だという。逃げていてはいけない。苦しみそのものの正体をつきとめ、これと向かい合う必要がある。これと対決して、これをうち砕く必要がある。歓楽や気晴らしが必要なときもあるだろうが、それは一時的な対症療法に過ぎない。こうしたものでいつまでも自分を騙していてはいけないという。
すべてのものが生じるにはそれなりの原因がある。物事は原因があり、これが縁に触れて生じるものだ。たとえば火薬に火をつければ爆発が起こる。爆発の原因は火薬であり、火をつけるという行為が縁である。仏教では原因のことを本因、縁のことを助縁もしくは外縁という。そして本因に助縁が働いて結果が生じることを「縁起の法則」(因縁果の法則)と呼んでいる。
釈尊によればこの法則を認識さえすれば人はあらゆる苦しみから解放されるという。世の中の出来事は無秩序に起こっているわけではない。ちゃんとした法則に従って生じているわけだから、その法則を知ることで私たちはその苦しみの因ってくるところを明らかにすることができる。苦しみを取り除くことも可能だという。
これを逆に言えば、私たちが苦しみの世界から逃れられないのは、「縁起の法則」を知らないからだということになる。つまりこうした「無知」が原因だということである。釈尊はこの無知のことを「無明」と呼んだ。つまり心の闇である。この心の闇が根本原因になって、そこに様々な幻想が生じてくる。そして私たちはこの幻想の中に生きているあいだ、迷いの世界にとどまり続け、この世の苦しみから解放されない。
つまり、苦しみの正体は心の闇の中に生じる幻想であり、これに支配されることで私たちは自由を失い、さまざまな不幸をおびき寄せているわけである。この世の不幸の根本原因は、人間の心の奥深くに巣くっている闇であるということを釈尊がはじめて明らかにしたわけだ。この闇が原因となって、そこに様々な幻想が集まり生じてくる。このことを認識することが大切である。釈尊はこの認識を「集諦」と呼んだ。「諦」というのは「真理」とか「さとり」という意味である。
釈尊は無明の闇に浮かぶ幻想の中でもとくに人間を苦しめるものは、自我についての幻想だという。この幻想を中心にしてさまざまな我執がおこってくる。人はこの我執故に餓鬼のように貪り、人と争い、あるいは名誉や富貴を渇望して慌ただしく走り続け、心が安らぐことがない。これもまた無明のなせる業である。
「人生は苦しみである」という真理を「苦諦」、「苦しみの根本原因は人間の心の闇であり、そこに生じる幻想である」という真理を「集諦」と呼ぶ。釈尊はこのように苦しみの正体は実体のない幻想だという。こうした幻想から自由になるには、それらが生じてくる根本原因である「無明」を断つしかない。そうすればそこにはじめて魂の平安が得られる。この安らぎが「涅槃寂静」であり、この真理を「滅諦」と呼ぶ。
私たちはどうしたらこの無明を断ち、涅槃寂静の世界に入ることが出来るのだろうか。実はこれが容易でないことは想像がつく。我々は幻想に支配されながら、そのことを知らない。幻想が真実だと思い込んでいる。なぜなら「無明」ということは「無知」ということでもあるからだ。無知なる者が自らの無知を知ることは、その無知であるがゆえにむつかしい。「無知の壁」を崩して、「無知の知」に目覚めることはソクラテスだからできたことである。
釈尊の教えも「無知の知」と無縁ではない。しかし、彼はソクラテスのようには議論しなかった。彼は自我というものが幻想に過ぎないことを知っていた。それではどうしたらこのことがわかるのか。そのためには「縁起の法則」を知らねばならないが、それではどうしたらこの縁起の法則が無明の人々に理解されるのだろうか。
そのためにはただ学問をし、議論をしても無駄である。無明の上に築かれた学問や議論はむしろ無明を深め、我執を強めるだけに終わる。釈尊はこう考えて、無明にうち勝つにはただ思弁的であるだけではだめで、もっと身体に直接響く実践的な方法が有効であると考えた。こうした解脱へのあり方を「道諦」と呼び、具体的に八つの道(八聖道)が示された。
釈尊の教えはつまるところ、この「四諦八聖道」である。たいへん合理的でかつ実践的である。そこに何の神秘もなく、現代人の我々をも納得させる。なかでも「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」の「四諦」の論理展開は見事だ。これに加えて、釈尊の教えの真骨頂ともいうべきものが「八聖道」である。次はこの「八聖道」について述べてみよう。
先日書店へ行って、養老孟司さんの「バカの壁」を30分ほどかけて立ち読みした。刺激的な題名である。書店に山積みされていたから売れているのだろうが、とくに新しいことが書かれているわけではない。昔から言われていたことを、現代的なレトリックでうまく表現している。
養老さんは「話せばわかる」なんて大嘘だという。人間はだれも「バカの壁」を築いて、知りたくないことに耳を貸そうとしない。「バカの壁」とは自分と外界を遮断するひとりよがりな心の壁のことである。人はだれしもこういう壁を築いて自我を守っている。自分は学問があると自惚れている輩ほど、この「バカの壁」が高い。大学教授がそうだ。東大生もそうだという。
バカの壁が築かれるのは、もともと人間に脳というモノを考える機関があるからである。この脳が様々な幻想を作り出す。その幻想のなかでも最悪なのが、自分は真実を知っているという幻想である。「バカの壁」の正体は何かといえば、こういう思いこみである。
その昔、ソクラテスは「お前達は最悪のバカだ。なぜなら、自分がバカだということを知らないバカだからだ」と言った。ソクラテスのこうした態度は、「自分はカシコイ」と考えていた人たちには我慢がならなかった。バカは自分がバカだと言われると、プライドを守るためにますますバカの壁を高くするものだ。そして彼らはいちゃもんをつけて、とうとうソクラテスを処刑してしまった。
私たちもこのアテネの人々のバカさ加減を笑ってばかりはいられない。養老さんは現代において戦争やテロや紛争が絶えないのは、こうした「バカの壁」せいだという。「バカの壁」は民族や宗教上の対立を生み出す。民族も宗教も国家もすべて脳が生み出した観念でありフィクションなのだが、こういうものを金科玉条のように振り回すからあぶなくてしかたがない。
しかし「バカの壁」は容易に崩れない。なにしろ自分がバカだと気付かせないのが「バカの壁」の存在理由なのだから、バカがバカの壁に気付くことはほとんどありえないことだ。かくして人は一生、自分の脳が作り出した「バカの壁」のなかで、そこが幽閉された世界だとも知らずにみじめな囚人の人生を送ることになる。
それでは人間はどうしたらこの「バカの壁」から抜け出せるか。それは私たちが自分の牢獄生活の貧しさに気付いたときである。そして自分以外の世界にほんとうに関心を向けたときである。外界に対する本物の興味と関心、他者に対する尊敬や尊重、利己的でない愛情、単に競争的ではない共生的な生き方、そうした開放的な無私の心を自らのなかに育てることによって、私たちは堅牢なバカの壁を、透明な一陣の風に変えることができる。
アメリカ社会で「過労死」が増えているそうである。ホワイトカラーのなかには、朝8時から5時までの正規の勤務を終えて帰宅した後、また夜出社して仕事をする人もいるそうだ。「KAROUSI」という言葉がアメリカでも流行し始めたらしい。そのような題の本が出版され、売り上げを伸ばしているという。
<競争の哲学によって汚染されるのはひとり仕事のみではない。同じように余暇もまた毒される。静かな、神経を回復させるような種類の余暇は退屈なものと感じられるに至った。そこにいやでも現われざるを得ないのは、絶えざる速度の増進であり、その当然の結末は薬品の使用と気力喪失以外にはないだろう。均衡のとれた生活の理想として健全かつ静かな享楽を認めること、これ以外に治療法はない>
これは1930年にラッセルが書いた「The Conquest of Happiness」という本からの引用である。「薬品の使用と気力喪失」、そして「過労死」が、グローバリズムの進むアメリカや日本でこれからますます増えていくことだろう。
その一方で、閑暇に絶えられない若者や大人が増えている。とくに、「実りある退屈」(ラッセルの言葉)に耐えられない若者たちの群れがこれから大量生産されていくことだろう。以前北さんが書いてくれた文章を引用しよう。
<ゆっくりとしたメロディより激しいリズムを好み、陶酔させてくれるような音楽でないと聴きつづけられないような若者が多くなっているのではないか。ひっきりなしに携帯電話をいじり、状況が変化しないと退屈でいたたまれないような若者たちの増加>
道元は「正法眼蔵、有時の巻」で、「時は飛去するとのみ解会すべからず。飛去は時の能のみとは学すべからず。時もし飛去に一任せば、間隙あるぬべし」と書いている。時はただ変化するためにあるのではない。過去から未来へと過ぎ去っていくだけもののでもない。それだけのものだったら、「間隙(ひま)」などなくなってしまうだろう。
そうではなくて、「時には経歴(経験)という功徳がある。時は今日から明日へ流れるが、今日から昨日にもながれる。そして、今日から今日へも流れるのだ」と書いて、「一大事とは只今現在のことなり」と喝破している。今という時間が大切なのだ。
ビンスヴァガーによれば、分裂病の人の特徴は「諸事物のなかに静かに逗留できない」ということにあるそうだ。そして、現代人のほとんどは、分裂病に冒されているのではないかと書いている。分裂症の特徴は「ひま」を持つことが出来ないということだ。そして私たちもつねに消費社会の「騒音」のなかに身を置いている。しかしそうした生き方は本当に生産的なものを生み出さない。ピカートはた「沈黙の世界」のなかで、こう書いている。
<一人の人間の内部にある沈黙は、その人間の生涯を超える。そしてこの沈黙の中で、人間は過去及び未来の世代につながっている。……沈黙は、いわば太古のもののように、現代世界の騒音の中へと聳え立っている。死せるもののようにではなく、沈黙は一個の生きた太古の生物のようにそこに蟄居している。今なお沈黙の巨大な背はそこに見える。しかし、この太古の生物のすがた全体が、現代の満目騒音のみの藪林のなかで、刻々沈みゆきつつある。それはあたかも、この太古の生物が、次第に自己自身の沈黙の深みの中で姿を消し去ろうとしているかのようだ。
にもかかわらず、今日のあらゆる騒音も、しばしば、この太古の生物――他ならぬ沈黙の――巨大な背の上にとまっている昆虫の羽音にすぎないように見えることもまれではない。……太古の言葉は、つねに一つの中心から始まることによって、放射状にかたちづくられている。そして、この中心が他ならぬ沈黙である。古代の言葉は繰り返しこの沈黙という中心に帰り、あらためてこの中心から始まるように出来ていた>(沈黙の世界)
「沈黙」は仏教の「無」に通じている。「色即是空、空即是色」の「空」だと言ってもよい。それは「虚無」ではなく、ゆたかな創造の母胎としての「無」であり「空」である。古代の言葉が美しいのは、それが人間の魂の奥深いところから生み出された言葉だからだ。万葉集を読むたびにこのことが実感される。
ほんとうに豊かなものは時間に追われた生活の中にはない。幸福な生活は、そのアクティブな活動のさなかにあっても、閑雅な「しずけさ」を伴うものである。その静けさの中で、ほんとうに価値のあるものがゆっくりと成熟する。最後に吉田兼好の「徒然草」から引用しておこう。
<身死して財残ることは、智者のせざるなり。よからぬもの貯へおきたるも拙く、よきものは心をとめけんとはかなし。こちたく多かる、ましてくちをし。「我こそ得め」などといふものどもありて、後に争ひたる、いと様あし。後はたれにと志す者あらば、生けらんうちにぞ譲るべき。朝夕なくてかなはざらんものこそあらめ、そのほかは、何も持たでぞあらまほしき>(第40段)
<つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるるかたなく、ただ一人あるこそよけれ。世に従へば心の外の塵にうばはれまどひやすく、人に交はれば、言葉よその聞きに従ひて、さながら心にあらず。人にたはぶれ、ものにあらそひ、ひとたびは恨み、ひとたびは喜ぶ。その定まれることなし。分別みだりに起こりて、得失やむ時なし>(第74段)
<おほかたよろずのしわざはやめて、いとまあるこそ、めやすく、あらまほしけれ。世俗のことにたずさはりて生涯を暮らすは、下愚の人なり>(第151段)
<筆をとれば物書かれ、楽器をとれば音をたてんと思ふ。盃をとれば酒を思ひ、さいをとれば双六打たんことを思ふ。心はかならずことにふれてきたる。かりにも不善のたはぶれをなすべからず。あからさまに聖教の一句を見れば、何となく、前後の文もみゆ。卒爾にして多年の非を改むることもあり>(第157段)
24.あかね雲
新聞専売所に着くと、主人もおばさんも配達に出たあとで、ジーンズの芳子が夕刊を自転車に積んでいた。 「卒業、おめでとう」と、私が声をかけると、 「橋本さんはいつ金沢を発つの?」 「明日、荷物を送りだしてから」 「私も名古屋へ行こうかな」
芳子は私の顔を見てくすりと笑った。そして、私の方に手を差し出してきた。芳子の手は意外にあたたかだった。私は微笑もうとして顔がこわばった。 「明日、お見送りはしないわよ」 「うん」 私は別れの言葉も口に出せずに、彼女が自転車で遠ざかるのを見送った。
途中のスーパーで夕食用の焼き魚とおむすびを買うと寺に帰ってきた。山門の石段に近所の少女が腰を下ろしていた。そよ風の中でスカートの膝に頬杖をついて、夢見るように遠くを見ていた。
この四月に中学生になるらしい彼女は体つきもやわらかく変わっていた。樋口一葉の物語の中の少女を思い出して、女の徴があったのだろうかなどと想像した。私は傍らを通り、後ろの石段に立って、彼女の白いうなじと、彼女が眺めている街の景色を眺めた。 甍の波の上にはひとすじの茜雲がただよっていた。(完)
エリック・ホッファー「魂の錬金術」の中に、次のような言葉があることを、北さんが指摘してくれた。北さんが立ち止まり、しばし考え込んだ個所だという。
<やりたいことを自由にできるとき、人々はたいてい互いに模倣しあう。独創性は意識され、強制されて生まれるものであり、いくらか反抗的な性質を帯びる。個人に無限の自由を与える社会は、往々にして薄気味悪いほどの類似性を示す。・・・模倣が社会全体に普及するとき、穏健な専制政治のような画一性がもたらされる。だから、完全に標準化された社会は、おそらく独創性に挑戦する十分な脅迫性をもっている>
自由が画一性をもたらし、専制支配に終わるという逆説は、すでにプラトンが「国家」のなかで展開しているので目新しいことではない。そう考えて、私は読み流していたのだが、私も又、しばし立ち止まって考えることにしよう。
ここでホッファーは「無限の自由を与える社会」と書いている。私がここで考えてみたいことは、「自由とは与えられるものか」ということである。たしかに「与えられた自由」もあるだろうが、それは本物の自由ではないのではないかという疑問である。
本物の自由は与えられるものではない、「自由は自ら作り出すもの」というのが私の基本的な考えである。たとえば私が「自由に英語を話す」ためには、英語の勉強をしなければならない。人間は生まれながらにして自由であるというのはあたらない。自由は努力して獲得するものであり、それは創造され、達成されるべきものなのだ。
これが「自由」に関する私の基本的立場なのだが、ホッファーが書いている自由は、こうした創造されるべき自由のことではない。それは「与えられた自由」のことである。与えられた自由とは、「自由を創造する前提」に過ぎないばかりではなく、その過剰はしばしば「自由」の敵でさえある。
この意味で、<独創性は意識され、強制されて生まれるものであり、いくらか反抗的な性質を帯びる>というホッファーの言葉は正しいと言える。自由が模倣に終わるのは多く見られることだ。ただいささかの反抗的精神と、忍耐と勇気があれば、これを本物の自由へと変えることができる。
俵万智さんは私と同郷の福井県の生まれだ。そのせいもあって、彼女の短歌には親しみをもっている。たとえば、「チョコレート革命」の中のこんな歌。
水仙をふるさとの花と思うとき暗き海色の花瓶を選ぶ
水仙は福井県の花。そして私はこの花が大好き。この短歌もとても気に入っている。越前海岸の断崖で、寒い季節風のなかに咲いていた水仙がしのばれる。
越前海岸の越廼村には、こんな水仙伝説が残っている。二人の兄弟に言い寄られ、二人の仲が険悪になるのを恐れた娘が断崖から厳寒の日本海に身を投げた。その娘の姿が水仙に変身して海岸に打ち上げられたという。
この伝説の故に、私は水仙を見ると、ふるさとの可憐な少女を思い浮かべる。逆境の中でも明るさを失わない、野の香りのする凛とした少女。その姿はただ可憐なだけではなく、楚々として美しい。
この暑いとき、私は空想の中で「暗き海色の花瓶」に水仙を活けてみる。そうすると、季節はずれの水仙の花と、北国の海の群青が広がって、心の中が透明になり、涼しくなる。水仙の歌は納涼によい。私もいくつか詠んでみた。
ふるさとの冬はさびしく海は荒れされどなつかし雪中花あり
水仙は水辺に咲いて人誘うこの美しきもの何処より来し
身を投げし少女伝説ふるさとの海辺に楚々とかおる水仙
ふるさとの青き海ゆえ水仙のすがた美し北風のなか
水仙のかおりただようまぼろしの清き水辺で今日も君待つ
23.タンポポ
年が明けて何事もなく日が過ぎた。境内の杏が花を着けはじめた三月のある晴れた日、私は陽気に誘われて、内灘へ行った。いつものようにアカシア林の丘を越えて、砂浜の海岸へ出た。芳子と来たのはもう二年も前だった。その時とおなじく、紺碧の日本海から吹き寄せる風が冷たかった。そして白山連峰が白かった。 (白山がきれい) 芳子の言葉を思い出した。
じっと見ていると、白い連山の勇姿が翼を広げた鳥のようにも思えてきた。そこに漲っている力が清々しかった。私は再び紺碧の海を見つめ、波の音に耳を傾けた。それからアカシアの林を歩き続け、仰向けに倒れた。頭上に広がる空の青が心にしみてきた。
私はふと、自分が夢想した心の宮殿を思い浮かべた。それが今は小さくみすぼらしく感じられた。 (その装いこの花の一つにもしかざりき) 私はマタイ伝の一節を思い浮かべた。そして日溜まりの砂地に咲いているタンポポを少し淋しい気持で眺めた。
それから二日後、引っ越しの荷造りを終えた私は、散歩がてら新聞専売所まで歩いた。浅野川の橋を渡っていると、自転車が二台やってきた。一台は私と同じ年格好の青年で、その後を弘子が走っていた。
彼女は私に気付いて会釈したが、表情がぎこちなく固まっていた。そんなナイーブな彼女を見たのは初めてだった。 (新しい恋人ができたのかな) 一緒に名大の大学院に受かっていたら、自転車の二人は私と弘子かもしれなかった。私は卯辰山の方に去っていく二人を見送ったあと、あてもなく浅野川の畔を歩いた。
11.苦しみの世界
私たちはいかにしたら迷いの世界の輪廻から抜け出せるのか。釈尊はまず、この世界が苦しみの世界であるという自覚を持たなければならないという。私たちは苦しみの中に身を置きながら、このことに自覚がない場合が多い。だから、そこに平然と留まっていられる。
人生が苦しみに満ちていても、それを苦しみと感じないのは魂が麻痺しているからだ。たとえば人権蹂躙や差別、過労死が横行する社会に身を置いていても、その社会しか知らなければ、それがあたり前だと思い、苦しみに慣れてしまう。
釈尊は人生には「老」「病」「死」という免れることのできない苦しみがあると説いた。これらは誰に眼にもあきらかな苦しみである。しかし、釈尊の炯眼は、実は「生」そのものが苦しみだと喝破したことだ。人生に幾多の喜びや慰めがあろうとも、そうした歓楽も一皮剥いてみれば苦しみの仮面に過ぎない。
釈尊は名医にたとえられる。釈尊という名医の眼には人間は心の患いをもった病人のように見える。しかし、本人には病人だという自覚がない。自覚がなければこれを治そうという気も起こらない。お前は病人だと言えば、怒り出すかも知れない。
だから、名医にとってまず必要なのは、相手に自分が病人だと認めさせることだ。患者の立場から言えば、自らが病気だと自覚することだ。そうすれば治療を受けて、健康になろうと思う。すべてはこの自覚からはじまる。
よき人生を実現するために必要なことも同じだ。まずはこの人生がいかに空しいものであるかを自覚しなければならない。知者はその知が空しいことを、富者はその財力、権力者はその権力がいかに空しいものであるかを知らねばならない。この世の成功や栄華も、人を本当の幸福に導くことはなく、むしろより大きな苦しみと災いをもたらすだけである。
この世の楽しみでさえ苦しみの仮面でしかなく、生きることは根本において苦しみである。釈尊はこうした認識に人々を導こうとした。そしてこの根本的な認識を「苦諦」と呼んだ。
もし私たちがこの人生が苦しみでしかないという真実を自覚できれば、そのときこそ本気でこの苦界を逃れたいと願うだろう。この心を釈尊は「菩提心」と呼んだ。それではどうしたら私たちはこの苦しみの世界を逃れることができるのだろう。釈尊はそのためには苦しみが生まれてくる原因を尋ねなければなければならないという。そして私たちの前に「苦しみの正体」を明らかにしてみせたのである。
最近マニフェストという横文字をよくみかけるようになった。何でもその火付け役は前三重県知事の北川正恭さんだという。「選挙公約」とか「政策綱領」とか訳されるが、ただの公約とは違って、政策を期限や財源付きで具体的に示したものだという。
イギリスでは選挙の時、マニフェストを国民に示す。それはかなりボリュームのある冊子で書店で市販される。選挙に勝って、政権をとれば、このマニフェストを実行しなければならない。議員も政府もこれに縛られるから、政策本位の選挙が可能になる。
イギリスの場合、党首を首相とする各閣僚の名簿を選挙前に発表する。日本のように選挙が終わってから、国会で首相に任命された人が一部の腹心と官邸にたてこもって閣僚名簿をつくるということはしない。まして、政権党が党首以外の人物を首相にかつぐなどということはあり得ない。これはマニフェスト違反だからだ。
したがって同じ議員内閣制といっても、日本とはまるで中身が違っている。実質的には国民が首相を選ぶ訳だから「首相公選制」である。それだけではない。閣僚さえも選挙でチェックできるのだから、「首相・閣僚公選制」と呼ぶべきかも知れない。こうした民主主義の本来の姿に少しでも近づけたいという気持が、マニフェストという言葉を流行させているのだろう。
小泉首相もまた自民党総裁選で公約を掲げ、再選されれば、それが党の公約となるという考えを示した。これはマニフェストの精神を自民党総裁選に導入しようということで、私はまっとうなことだと思っている。
ところがこの小泉発言が、党内で猛反発を受けているという。野中広務元幹事長は「首相は独裁者だ」と批判しているというが、これは民主主義がどういうものかわかっていない人の言葉だ。選挙前に政策を発表し、それが支持されて党首になった以上、それを党の公約として実行するのは少しも「独裁的」なことではない。まさに「党内民主主義」にのっとった行為である。
自民党は郵政事業民営化などを政策の目玉に掲げる「改革派」の首相を党首選で選んでおきながら、その政策を党の公約として採用しないばかりか、これに抵抗している。こうしたことがまかりとおることで、政治がわかりにくくなり、ますます国民から遠いものになっている。
小泉首相の政策に私は必ずしも賛成している訳ではない。しかし、小泉首相の「政策中心」の政治姿勢には好感を持っている。小泉首相が国民の間で人気を保っているのもこうした新しい政治姿勢を有権者が支持し、共感しているからだろう。開かれた政策中心の政治を実現するために、あえて小泉さんに「独裁者」になってもらいたいものだ。
小学6年生のとき若狭小浜から福井市に転校してきた私は、思いがけない試練に直面した。デパートでの友人の万引き、それが発覚しての不登校、屋根裏暮らし、そしてジフテリアで隔離病棟にはいるなど、この時期の私はほんとについてなかった。しかし、隔離病棟で、私は一編の英詩にであう。
病室の壁に英詩とその訳が書いてあったが、それは「夜は千の目を持つ」という魅力的な言葉で始まっていた。もちろん英語の原文は読めなかったが、訳文が添えられてあった。薄汚れた病室の壁に落書きされたその訳は、隔離病棟の恐ろしい幾夜を体験した私の心を打った。
たまたま昨夜、大学で英文科を専攻している次女の「英詩読本」(荒牧鉄雄・岡地嶺著、開文社出版)という英語の教科書を覗いたら、そこにその懐かしい英詩が載っていた。そこで今日は原詩とともに日本語訳を引用し、あわせて教科書の著者による詩の鑑賞文も紹介しよう。
THE NIGHT HAS A THOUSAND EYES ーー Francis William Bourdillon The Night has a thousand eyes, And the day but one; Yet the light of a whole world dies With the setting sun.
The Mind has a thousand eyes, And the heart but one; Yet the light of a whole life dies When love is done.
夜は一千の眼(まなこ)
夜は一千の眼あれど 昼はただ一つの眼あるのみ しかも明るき世界の光りは 日暮れと共に絶ゆ
理性は一千の眼あれども 感情はただ一つの眼あるのみ しかも暖かき命の光りは 愛の終わりと共に消ゆ
<この詩は極めて簡単であるが、深い真実を語っている。夜は何千の星が煌めくが、寒くて暗い。それに反し昼はたった一つの太陽が輝くだけなのに暖かくて明るい。その太陽が沈んでしまうと、全世界の熱と光りは消え去ってしまう。
それと同じように、人間は理性によって過失や危険を避けるための無数の眼を持っているが、理性だけでは人間は冷たく不十分である。それに反し、感情は「愛」というただ一つの眼しか持たないが、暖かく希望に輝くのである。
だからもし愛情が消え失せてしまえば、全生涯の光りは亡びて、真っ暗な夜となってしまうのである。いくら理知の眼を輝かせても、光りと熱を発することはできない。愛は恰も太陽の如く人間に大切なものだという教えである>
このあと著者は「この詩は教科書にしばしば採用されるけれども、愛に目覚め、愛を見失って初めて理解できる詩だから、経験の少ない生徒に無理に分からせようとする努力は或いは無理かも知れぬ」と書いている。
私がこの詩に出会ったのは小学生の頃だが、実は高校の教科書で再会している。そして一昨年、インターネットの検索でこの詩を読み、日記にも書いたので、今回が4度目ということだ。不思議なのは幾たび出会っても、初対面の女性のようなミステリアスな香りと輝きをもっているということだ。まさにこの詩自身、千の眼を持っているようだ。
(一昨年の日記に引用した原詩といくらか違っている。なぜ異同があるのか私にはわからない)
22.わかれ道
翌朝、物理学部の玄関の前に、第一次の合格者が貼りだしてあった。二百人を越える受験者が三分の一に減っていた。私の番号があった。午前中に英語とドイツ語の試験があり、昼食のあとに第二次の合格発表があった。四十人ほどの中に私の番号が残っていた。
午後から二回の面接を受けた。五、六人の試験官を前に、黒板で問題を解いたり、実験の方法を説明したりした。 「光電効果の実験からプランク定数が求まります。光電効果というのは、光の量子性を示すもので……」 私は自分でも不思議なくらい落ち着いていた。
二回の面接試験を終えて、三回目の面接に進むメンバーの発表があった。意外なことに十数名ほどのなかに私の番号がなかった。悔しかった。物理学科の建物を出ると、もう秋の日差しが傾いていた。名古屋でさらに一泊することにして、来合わせたバスに乗った。
その夜、ビジネスホテルのベッドに横たわっていると、さすがに気が滅入り、不安が押し寄せてきた。この不況に二年も留年した学生を雇ってくれる企業はなかった。 (新聞専売所に就職するしかないのか) 両親は私が大学か高校の教師になるか、名前の通った企業に就職してくれることを望んでいるに違いない。いろいろ考えていると、眠れなくなった。
私は持参した万葉集を広げて読み始めた。そして犬養博士の朗らかな節回しを真似て、歌を朗読した。そうしているうちに心にまた活力が戻ってきた。新聞配達をしながら、もう一年大学に残って学問の道に挑戦しようという気力がいくらか甦ってきた。
翌朝、ホテルで朝食を済ませた後、大学に足を運んだ。掲示板に最終的な合格者が張り出されてあった。何気なくそれに目をやった。自分の番号があるのに驚いた。 (昨日は無かったはずだが、どうしたのだろう)
事務で確認すると、二回の面接で合格した者は三回目の面接が免除される仕組みになっているそうだ。私は事情が分からずに、不合格になったものと早合点したのだった。晴れやかな気持で大学の構内を歩き、バスに乗った。帰りの汽車の中で熟睡して、金沢で乗り越すところだった。
翌日、大学で弘子に会った。彼女は金沢大学の大学院も駄目だったという。もう一年大学に研究生として残るつもりのようだった。
7月1日、長崎市で4歳の幼児が誘拐され殺害された事件で、補導された中学生の少年は目立った問題行動もなく先生が気をつけなければならない存在ではなかったという。欠席ゼロ、成績もいいというから、むしろ優等生の部類だったのだろう。
少年ははさみを用意したうえで、家電量販店のゲーム売り場で駿ちゃんを誘拐して、「お父さんたちは先に行った」と言葉巧みに連れ出し、駐車場屋上に連れ込んだ。優しいお兄ちゃんを演じていた彼はそこで態度を一変させ、はさみで脅して服を脱がせ、V字形に素肌を傷つけた。駿ちゃんが騒いで暴れたため、パニックに陥り、横向きに抱きかかえ、投げ落としたとみられている。
こうした事件の様子が報道されるにしたがって、大人にも子供たちの間にも恐怖と不安が広がっている。少年が通っていた中学校では、「学校へ行きたくない」「夜眠れない」と訴える生徒もいて、1年生の半数が臨床心理士のカウンセリングを受けたという。
教師も「どう対応したらよいのかわからない」と不安をつのらせ、30人余が臨床心理士のカウンセリングを受けた。「学校を平穏に戻すには、まず先生たちのケアが必要」と臨床心理士らが申し出たのだという。今度の事件の特徴はその残忍さと、それが一見ごく普通の少年の手で行われたということだろう。
面接した弁護士によると、少年は殺害の動機や状況について、「自分が分からないようになった」と述べているという。弁護士は少年の父親とも面会したが、「眠れず食事も取れず、家に帰れないし、どこに泊まるかも決めていない」「うわさは飛んでいたが『まさか自分の子が』と思っていた」と話したという。
長崎市教育委員会学校教育課の松尾孝一課長も、「非行少年ではない。いたって普通。だから、いつ、どこで起きてもおかしくない。戸惑いは大きい」「分からないことが多すぎる。最後まで分からないかもしれない」などと述べているという。生徒を対象にしたアンケート調査の結果によると、気持ちがわからないでもないと答えた同年代の少年もいたらしい。
少年の行動や心理には、凶器を用意して幼児を探す計画性と警戒心の強い幼児を言葉巧みになつかせる冷静さが見られる一方で、制服姿のまま繁華街を連れ歩く無謀さや幼児の抵抗を予想せず混乱してしまう幼稚さが混在している。こうしたアンバランスや二面性は、少年の心の未成熟さを示している。そして「心の未成熟」ということは今日の社会においてかなり特徴的なことである。
エリック・ホッファーは「現代という時代の気質」のなかで、「成熟するには閑暇が必要なのだ。急いでいる人々は成長することも衰微することもできない、彼らは永遠の幼年期の状態にとどめられているのである」と書いている。現代社会の「変化のありよう」が、人間の心の成熟をむつかしているという指摘はまさに正鵠を得ている。
心が成長するには幼少年時代のゆたかな体験が必要だ。私たちは自然や人々と触れ合うなかで、命のはかなさや痛みや素晴らしさを学び、他者や自分自身と対話する能力を高めていく。こうした体験が栄養となって、ゆっくり心が育っていく。
文明が進むにつれて、自然はコンクリートで固められ、川や田圃から生き物の姿が失われた。自然の中で遊ぶ子供の姿も少なくなった。頭の中に知識を貯えることで、目まぐるしく変化する社会に適応する能力は獲得できても、心はその忙しさのなかで自らを見失い、闇の中に未熟で野蛮なまま取り残される。
頭を鍛えるだけではなく、心を育てる教育が大切だろう。そのためには、私たちも文明社会の排他的な競争に我を忘れることなく、ときにはボランティア活動や自然との共生的体験のなかに身を置いて、ともに生きる喜びを若い世代とわかちあう必要がある。こうした心のゆとりを、一人一人にもたらすことができる社会を早く実現したいものだと思う。
1946年6月20日、天皇は臨時国会の開会を宣言し、翌日、新憲法が国会に正式に提案された。新憲法採択についての国会審議は両院本会議や委員会で、合計114日を費やして行われた。国会審議の筆記録は最終的に3500ページを超えるものになった。
そのなかでも、国会議員の最大の関心を集めたのは「新憲法によって国体は変更されたのかどうか」という点だった。この問題に対する政府の当初の見解は「絶対に変更はない」というものだった。たとえば吉田茂首相はこう答弁した。
「天皇家と国民の間に区別は全くないのであります。天皇と臣民は一つの家族である。国体は新憲法によってほんのわずかの変更も被ることはない。日本古来の精神や思考が新憲法では異なる言葉を用いて表現されているに過ぎません」
こうした国会答弁に対して、GHQ民政局のケーディスは「憲法が人民主権を断固として守るものである」ことを明確にすることを要求した。その結果、新憲法の草案ではsovereigntyを「至高」と訳していたのが、正しく「主権」と表現されることになった。それでも日本側は国体の変更についてはこれにできるかぎり抵抗した。さらにpeopleの訳として「人民」ではなく「国民」をあてた。
「憲法改正の第一章は、万世一系の天皇が国民至高の総意に基づき、天壌と共に永劫より永劫のわたり国民を統合する君主としての地位を確保せらることを明記したものであります。かくて天皇は国民の中にありながら、自ら実際政治の外に立ち、しかも国民生活の中心、精神的指導力としての権威を保有せられたる厳然たる事実を確認し得たることは、委員の絶対多数が歓喜を持って迎えた所であります」(芦田均委員長による衆議院憲法改正小委員会最終報告)
こうした情況をGHQの民政局が座視していたわけではない。結局国会は政府の6月草案にたいしておよそ30の修正案を可決した。普通選挙法、総理大臣や内閣閣僚の半数以上が国会議員であることなどを含む立法府の優位、華族制度の廃止など、国民主権と民主主義の実現にとって重要な変更もいくつかなされた。さらに旧憲法とくらべて、民主主義にとって大切な変化、それも一番目に付きやすい改革が行われた。それは新憲法が口語体で書かれたことである。
<当時、憲法も含めた法令や文書は、一般国民にはおよそ近づきがたい文語体で書かれていた。四月半ば以降、政府が提出する文章が口語体で書かれることになったのである。これはたんに象徴的変化であっただけではなく、実際的な意味でも大きな変化であった。つまり法律も公文書全般も、特権的なエリートのものとは見なされなくなったということである>(ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」)
この言語改革は政府から出たのでも、GHQの指令でもなく、当時言語改革のためにロビー活動をしていた学者や知識人がイニシャティブを発揮した成果だという。こうして新憲法は衆議院では421対8で可決された。反対票のほとんどは共産党の議員によるものだった。
(「何でも研究室」のなかに、「『敗北を抱きしめて』を読む」をUPしました。これまで日記に連載した文章がまとめてあります。なお、戦後のGHQの検閲についてあと数回ほど書いて、この連載を終わらせたいと思っています)
21.大学院受験
九月中旬のある日、私は特急しらさぎ号で名古屋に向かった。地下鉄の本山駅で降りて、二十分ほど歩くと大学の構内で、両側の丘陵に白いコンクリートのビルが並び、秋の日差しを浴びていた。巨大企業の研究所のように見えた。
丘の上に講堂が建っていた。その脇に薄茶の煉瓦張りの物理学科の建物が数学科や生物学科の校舎と並んでいた。名大の理論物理は坂田昌一教授の素粒子理論で国際的に有名だった。その現場を前にして私の胸は高鳴った。是非合格したいという思いがこみ上げてきた。
下見を終えると、大学の前からバスに乗って、テレビ塔のある街の中心に来た。表通りから入ったところに、「CBCホテル」という看板を見つけた。「ご休憩」いくらと書いてあるのが不審だったが、料金が安いので泊まることにした。 「お一人様ですか」 係りの女性が怪訝な顔で私を見た。
案内された部屋には、ダブルベッドに枕や浴衣が二つ置いてあった。私がこのホテルが男女の特別な用途の施設だということに気付いたのは、深夜になってからだった。和風の造りの旅館だから、周囲の部屋の声が届いてきた。その声が想像を絶していた。翌朝は寝不足の赤い眼をして、大学へ行った。
受験場で弘子と合った。金沢から来たのは彼女と私だけだった。弘子にはラブホテルに泊まったことは言えなかった。彼女は近くの東山ユースに泊まったようである。
数学の試験のあと、弘子を昼食に誘ったが、彼女は金沢に帰ると言い残して私の傍らを離れた。彼女は明日から始まる金沢大の大学院に二股を掛けていた。私は名大しか出願していないので、背水の陣で頑張るしかない。彼女と別れると、大学の食堂でランチを食べた。午後から物理の試験があり、一日目が終了した。
私は表通りにあるビジネスホテルに宿を変えた。夜中に暴走族がやってきたが、前夜に比べればましだった。どうにかその夜は眠ることができた。
10.六道輪廻の世界
仏教は人間の心の状態を十に分類して、これを十界とよぶ。つまり、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六道と、声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖と呼ばれる状態だ。六道は無信仰のものが住む迷いの世界で、四聖は信仰者の住む叡智の世界だと言える。
私たちはたいてい六道の世界に身を置いている。欲望や感情のおもむくまま、情況に一喜一憂して、まことに浮き草のようなはかない生活をしている。仏教ではこれを六道輪廻と呼んでいる。
欲望や感情に支配され、つまらない計算をして、ときには人と争い、ときには幸運を手にして天にも昇るほど幸せを感じていたかと思うと、絶望し、地獄に突き落とされて死を思い詰めたりする。こうして私たちは毎日、希望や絶望を感じ、渇望したり、地位や権力に愛着し、不安におびえたり、ときには幸運に恵まれて有頂天になったりしながら日々をあくせくと暮らしているわけだ。
しかし、こうした生活が本当に幸福な生活だと言えるのだろうか。この世にはもっと別の、清々しくて美しい生き方があるのではないだろうか。不安や絶望のない、魂に落着と安らぎが感じられる光明に満ちた生き方はできないものだろうか。ときにはこうした問いに目覚める人もいた。
その一人が釈尊だった。釈尊は王族だったが、家族や身分を捨てて出家し、様々な修行をしながら、このことをひたすら考え続けた。そして、とうとう「さとり」を開いた。どうすればわれわれ凡夫はこうした迷いの世界を「解脱」することができるのか。釈尊はさっそくこのことを分かりやすく説いた。これが「四諦八聖道」と呼ばれている教えである。
妻や娘とよく夕食がわりにラーメンを食べに行く。屋台をしていたというおじさんがつくるラーメンがうまくて、私たち一家はこの店をひいきにしている。とくに「味噌ラーメン」がうまい。口の中でとろけるような豚肉やフライパンで炒めた豊富な野菜がこうばしい。高血圧で塩分を気にしている私は、これまた最高にうまいつゆが飲めないのが残念だが、夕食はいつもこれ一杯で満足する。
店の主人は私よりかなり年輩だと思うが、妻によると、私の父に様子がそっくりだという。「とくに目のあたりが似ているわね」と言われて、私もそう思い、ますますこのおやじの店に足が向くようになった。カウンターに坐り、おやじの元気な姿を見ながら、妻や娘達とラーメンをすすっているとなんだか幸せである。
先日、このおやじが「イラクは盗人の国だ」と言い出したので、私も妻も驚いた。「どうしてまた」と私も妻も疑問に思って問いただしたが、「とにかく昔からそうなのだ。みんな盗人ばかりだ」となかなか頑固である。こういうところも死んだ父に似ている。
このたびのアメリカのイラク侵攻のときは、美術館や病院まで襲われて略奪された。まさに目に余る光景がテレビに写し出されたので、イラクというのは大変なところだとは思ったが、それもフセインの独裁体制で国民が押さえられていた反動かもしれないなどと考えた。イラク国民のだれもが盗人であり、しかも大昔からそうした国民だったと断じるのは行きすぎだろう。
にもかかわらず、ラーメンを食べ終え、家に帰ってからも、このラーメン屋のおやじの言葉はいろいろな想念を私の頭に浮かび上がらせ、その余燼はいまもくすぶり続けている。そこで、この数日考えたことを、ひとまずこの日記に書いておこうと思ったわけだ。
それは簡単に整理すると、「イラク人がほんとうにみんな盗人だった」という仮定の上で、そのときどうやってそうした人々からなる国を治めていけばよいのか、という問題である。ホップスならすぐに「強力な王権が必要」だというだろう。フセインのような独裁政権がなければとうてい持ちこたえられないという主張がここでは優位に立たざるをえない。
そうするとフセインの専制支配が崩れた今、これにかわる独裁的政権が必要だという理屈になる。イラクが民主的で平和な国になって欲しいという私たちの願いは、所詮幻想に過ぎないのだろうか。そうした努力は不可能なのだろうか。モンテーニュならば「しかり」と言うかも知れない。
<彼らは運命からどんなに変革の機会を与えられても、また、非常な困難の後に支配者の束縛を脱しえたときでも、すぐにまた、同じ苦労をして別の支配者を立てる。彼らは支配者を憎むことに踏み切れないのである>
モンテーニュが「彼ら」と呼ぶのは、未開の野蛮人のことではない。そこここにいる普通の人々のことをさしている。イラク人だけではなく、実は私自身のこともさしている。そもそも民主主義などというものも、皮を一枚向けば、そこにあるのは「多数者の暴力」ではないのか。例えば福沢諭吉はこう書いて、ずばり、民主主義の実相と本質に迫っている。
<合衆政治は人民合衆して暴を行うべし、その暴の寛厳は、立君独裁の暴行に異ならずといえども、ただ一人の意に出るものと、衆人の手に成るものと、その趣を異にするのみ>(文明論之概略)
モンテーニュは「理論からではなく、実際から言って、各国民にとって最も優れた良い政体とは、国家を維持してきた政体である」とも言っている。こんなことを書くから、彼は近代的民主主義者からは「保守反動」などとレッテルを貼られて敬遠されたりするのだが、この問題はそう安易にすませてよいものではなさそうだ。
折しも、私はロバート・ケーガンの話題作「ネオコンの論理」を読んだばかりだった。ここに展開されている論理は、まさに「イラク人はみな盗人だ」というラーメン屋のオヤジの論理とそっくりである。こうして考えてみると、「民主主義とは何か」という命題はいろいろな謎を含んでいる。この謎を解くためには、もう一度腰を落ち着けて福沢諭吉を読み、あるいはモンテーニュを尋ねながら、いろいろと根本的なところから考え直してみる必要がありそうだ。
十数日前に、家の前の路上で、羽を痛めて倒れていたヒヨドリを拾った。さっそく鳥かごで飼うことにした。ピー子という名前を付けて、妻と娘と3人で可愛がった。
ピー子はわが家の琵琶の実が一番の好物。それからミカンやトウモロコシ、パンも食べる。妻が市販の野鳥の餌も飼ってきたが、こちらはあまり好きではないようだった。
先日、元気を回復したので、逃がしてやった。ビワの実はもうすっかりなくなっていたので、妻がピー子のためにミカンやトウモロコシ、パンを琵琶の木の葉陰に置いてやった。
ときどき、ピー子がやってきた。先日も雨の中、枝に差したミカンを食べていた。しかし、やがて姿がなくなった。親鳥が探し出して、連れて行ったのかもしれない。そんなことを考え、ピー子の無事を祈りながら、こんな短歌を詠んだ。
うずくまるヒヨドリの子は羽痛め空の青さを見つめていたり
わが庭の琵琶の実を好くヒヨドリは籠の中でも食べてさえずる
傷も癒え庭に放せば籠の鳥初夏の光りにつばさ広げる
鳥籠も淋しくなって妻とわれ琵琶の木を見る青葉がそよぐ
琵琶の木にいつか実はなし木洩れ日の小枝のちかくミカン置きたり
雨の日に梢を見れば濡れそぼち鳴くはヒヨドリピー子が来たり
ピーちゃんが来れば楽しいそよ風にミカンとパンも木陰でゆれる
ヒヨドリを見ればピー子を思い出す琵琶の木を見てひとり口笛
友人のeichanの家の庭ではヒヨドリが巣を作るらしい。5月には巣離れをするが、柿の実が好物で、秋になると群でやってくるという。わが家に柿の木がないのが残念だが、私の口笛を聞いて、いつかまた元気な姿を見せてくれるかもしれない。eichanから素敵な短歌を頂いたので、紹介しよう。
金木犀ヒヨドリの巣を守る親鋭き視線を吾に浴びせぬ
五月晴れヒヨドリのヒナ巣離れす親は付き添い並びて飛びぬ
さ庭にはヒヨドリピーピー群れ来たり熟しの柿を突っつき食べる
(去年の「一日一句」につづき、今年は「一日一首」に挑戦しようと思ったが、忙しさにかまけて果たせなかった。しかし、これからも折に触れて短歌を詠み、この日記帳や「短歌らくがき帳」で紹介したいと思っている)
20.玲瓏とした世界
七十四年(昭和四十九年)の春に、私は二年遅れで四年生に進級した。そして夕刊の配達も止めて、学問に集中することにした。研究室に自分の机があったが、私は今まで通り大学の図書館で過ごし、ゼミの時間になると図書館を抜け出した。
物理学科の場合、四年生に進級すると楽になった。とくに理論物理を専攻すると、卒業論文もなく、ゼミに出席さえしていれば卒業の単位が認められた。 大学院への進学を目差さない学生にとって、暇な一年間だった。私はそんな彼らとテニスやマージャンの話をしようとは思わなかった。
私は名古屋大学の大学院に進学したいと思った。金沢大学の物理学科の定員は二十五人だったが、名大は百二十人もいる。これだけの大軍団と競争をして、敵の本拠地で勝つのは容易なことではなかった。
私にはそれができそうな気がしていた。頭の中にはすでに美しい玲瓏とした世界が姿を見せ始めていた。私はその世界がさらに豊かに発展し、やがて私を目もくらむ崇高な場所へと導いてくれるだろうことを疑わなかった。
八月のある夕方、新聞専売所の前を通りかかると、奥さんに呼び止められた。 「ちっとも顔を見せないのね。勉強が忙しいの」 「もう気が狂いそうです」 「試験はいつ?」 「あと一ヶ月後です」 大学院の入試は物理や数学の他に語学の試験がある。英語はともかくドイツ語は四年前に教養部で習ったきりだから大変だった。
奥さんの入れてくれたコーヒーを飲んでいると、夕刊の配達から帰ってきた主人が真面目な口調で、 「大学院が駄目なときは、うちにこいよ」 「そのときはお願いします。留年していますから、会社へ就職するのは無理です。その上、この不況ですから」 私も殊勝な顔で答えた。 「会社に勤めても、出世競争にあくせくするだけで、夢があるわけじゃない。鶏口となるも牛後となるなかれと言うからな」
しばらくして芳子が夕刊の配達から帰ってきた。来年は東京の大学を卒業して、金沢に帰ってくるつもりだと言う。 「橋本さんは勉強一筋なのね」 「うん、今が正念場なんだ」 「がんばってね」
芳子はそれだけ言うと、おとなしく梯子段を上がって行った。私は二年前に初めてこの梯子段を降りてきたときの勝ち気そうな彼女を思い出した。
ホッファーを読んでいて、またモンテーニュ(1533〜1592)の「エセー」が読みたくなった。彼が生きた時代はカトリックとプロテスタント(ユグノー)が殺戮を繰り返す宗教戦争の時代だった。モンテーニュはカトリックだったが、彼の弟と妹は共にユグノー教徒だ。しかし、彼においては宗教上の違いが個人的な対立にいたるようなことはなかった。
彼の友人にはカトリックの正統主義者の他に、プロテスタント教徒、カトリックの過激主義者もいた。しかし、宗派やイデオロギーの違いによって彼は友情に差を付けることはなかった。かれにとって大切なのは「人間がしあわせに生きること」であって、そのために人がどのような宗教を選ぼうとそれは本人の自由だと思われたからだ。
<要するに、神の諸性質を打ち立てるのも、取り壊すのも、すべて人間が自分との関係に基づいてでっちあげることである。何というひな型、何というお手本であろう>
<世間の規則や教訓の大半は、社会全体の奉仕のために、我々を我々から外に押し出し、公共の場に追いやるのである。我々は生れつき我々自身に執着しすぎるものときめてかかるから、我々を我々自身からそらすことは立派な行為と考えたのである。そしてそのために有らん限りのことを言ってきた。実際、賢者にとって、物事をありのままにではなく、役に立つように説くことは珍しいことではない>
<人間は必然的に間違うように自らに命じている。自分の義務を自分以外の人の寸法に合わせて裁断することはあまり賢いことではない。誰にもできないと思うことを、いったい誰のために規定するのか。不可能なことをしないのは、その人にとって不正と言えるだろうか。われわれを不可能に縛る法律自身が、われわれを不能なるが故に告発するのである>
<結局、我々の経験から、人間の社会は、どんな犠牲を払っても、互いに結び合い、縫い合わされるものであることを知った。人間はどんな状態に積まれても、揺すぶり合いと押し合いを続けているうちに、きちんと並んで積み重なる。ちょうど袋の中にごちゃごちゃに入れた不均な物体が、ひとりでにくっつき合い組み合わさる方法を見いだし、時には人為でできるよりもうまくできるのに似ている>
<理論からではなく、実際から言って、各国民にとって最も優れた良い政体とは、国家を維持してきた政体である>
<人一倍能力があると公言し、学問の仕事や書物に関係のある職務にたずさわる人々には、他のいかなる種類の人々にも劣らず、判断の空虚さと無力さが見られる。これは彼らが人一倍期待をかけられて、普通の過失を許されないからか、それとも、学識があるという自負からかいっそう大胆になり、人前に自己を誇示するあまり、自滅して馬脚を現すからであろうか>
彼がこうした現実的で醒めた思想をもっていたのは、彼がラテン語の達人で、ギリシャ・ローマの歴史や古典文学に造詣が深い第一級の教養人だったからだが、それ以上に大切なのは、彼は同時に地方や中央の政界に人脈を持つ実務家であり、世俗的な実践の人だったということがあげられよう。
彼はボルドーの高等法院の参議(治安判事)の職を13年間務め、さらにはボルドーの市長も2期つとめている。しかも、ボルドーの属していたギエンヌ州はフランスにおけるプロテスタンティズムの拠点だった。
モンテーニュはその経験や立場上、イデオロギーというものの厄介な性格をだれよりもよく熟知していた。そしてその毒を抜くために彼が注目したのが、人生をその本質において考えること、すなわち「死を通して生を考えること」だった。彼の人生哲学の中心テーマがまさにこれである。「エセー」から引き続き文章をいくつか引用しよう。
<我々は事情が許すかぎり、いつでも靴をはいて出かける用意をしていなければならない。特にその時には、自分のこと以外には何も用事がないようにしておかねばならない。なぜなら、死ぬときになれば余計なことを考えなくても、なすべきことが充分にあるだろうから。ある者は死によって輝かしい勝利が途中で中断されることを嘆き、ある者は娘を嫁がせないうちに、あるいは子供の教育を見てやれないうちに死ぬことを嘆く。
私はありがたいことに、いつでも何も哀惜せずに、死ねるような気持になっている。もっとも命だけは別で、それを失うことが私の心を重くするのはなんとも仕方がない。私は全ての絆から解放されている。私自身を除いて、皆に半はお別れしている>
<ローマの貴族ユリウスは、カリグラ帝に死刑の宣告を受け、いよいよ獄卒の手にかかろうという時、友人に心の状態を尋ねられ、「私は今、気持ちを整え、全力を緊張させてあっという間に過ぎる死の瞬間に、果して精神の引越しをいくらかでも少しでも認めることが出来るかどうか、見届けようとしている。そしてそれについて何かを知ったら、出来れば戻ってきて、知らせてやりたいと考えているところだ」と答えた。この人は死ぬときまで哲学したばかりではなく、死そのもののなかで哲学している>
<もしも、生まれた土地以外の場所で死ぬことを恐れるなら、また、家族の者から離れては安心して死ねないと考えるなら、フランス国外へは出ていかれないだろう。だが、私は人と違っている。死はどこにおいても、私には同じである。だが、もし選べるものなら、床の中よりも馬の上で、家の外で、家族の者たちから離れたところで死にたい>
<神様から少しずつ生命を取り上げられてもらえる人々は、恩恵に浴している人々である。これこそ老齢の唯一の恩恵である。この最後に来る死はそれだけ無害なものであろう。この死は、その人間の半分か4分の1しか殺さないからである。今も私の歯が1本、痛みも苦労もなく抜け落ちたところである。これがその歯の自然の寿命だったのだ。私の存在のこの部分もその他の多くの部分もすでに死んでいる。また、私の盛りの頃に技も活発で第1位を占めていたあの部分も半分死にかけている。私はこうして溶けて、私から抜け出て行くのである>
モンテーニュの「エセー」は宗教をかなり便宜的に捉えている。彼は宗教は人間が幸福に生きるための一つの手段でしかないと考えているからだ。現代におけるモンテーニュ研究の第一人者であるG.C.ホーマンズは「モンテーニュと現代社会」という講演の中で、「エセーが出てから1676年まで、なぜカトリック教会の禁書に挙げられなかったか分かりません。生存中モンテーニュが無事であった原因は、彼がその外面において信仰を順守し告白して誠実にカトリック教会に連なっていたことにあるのかもしれません」と述べている。
20世紀はまさにイデオロギー対立の時代だった。共産主義陣営が崩壊し、冷戦が終了したが、まだざまざまな対立の中で私たちは生きている。こうした時代の中で、モンテーニュの叡智から私たちはまだまだ多くを学ぶことができる。
(参考文献) 「エセ−」 原二郎訳 岩波文庫(全6巻)
エリック・ホッファーはプライドや信仰心は恥辱や弱さから生まれるものだという。また、絶対的権力や服従といったものも、人間の卑小さや弱さから生まれる。情熱や熱狂の根底に潜んでいるのは、「自己からの逃避」だという。
<人間とは、まったく魅力的な被造物である。そして、恥辱や弱さをプライドや信仰に転化する。打ちひしがれた魂の錬金術ほど魅力的なものはない>(「魂の錬金術」以下の引用も同じ)
人はしばしば自己への軽蔑をプライドに、自身の欠如を信仰心に、そして罪悪感を独善にかえる。ホッファーはこれを「信念の錬金術」だと言っている。価値のない忌むべきものから、黄金がうまれる。しかし、この黄金はじつのところ、まがいものである。うわべだけ金に似ているが、それは中身まで純金というわけではない。
<自尊心に支えられているときだけ、個人は精神の均衡をたもちうる。・・・何かの理由で自尊心が得られないとき、自立的な人間は爆発性の高い存在となる。彼は将来性のない自分に背を向け、プライド、つまり自尊心の爆発性代替物の追求に乗り出す>
<自尊心が自身の潜在能力と業績から引き出されるのに対して、プライドはもともと彼らの一部でないものから引き出される。架空の自己、指導者、聖なる大義、集団的な組織や財産に自分自身を一体化させるとき、われわれはプライドを感じる。プライドは不安と不寛容によって特徴づけられ、敏感で妥協を許さない>
<ナショナリストがもつプライドは、他のさまざまなプライドと同様、自尊心の代用品になりうる。ファシズムや共産主義体制下にある民衆が盲目的愛国心を示すのは、彼らが個々の人間として自尊心を得ることができないからである>
<信仰と恐怖はともに、人間の自尊心を一掃するための手段である。恐怖は自尊心の自立性を破壊し、信仰は多かれ少なかれ自発的な幸福を勝ち取る。両者がもたらす結果は、人間の自立性の除去、すなわち自動機械化である。信仰と恐怖は、人間の実存を意のままに操作できるひとつの定式にしてしまう>
<実りある成果をあげたければ、情熱を薬味として限定的に使うことだ。自分の母国や人種に対するプライド、正義や自由、そして人類などへの献身を、人生の主要部分にしてはならない。せいぜい伴奏か、付属品にとどめるべきである>
<真に「持てる者」とは自由や自信、そして富さえも、他人から奪わずに獲得できる人たちのことである。彼らは自らの潜在能力を開発し適用することで、これらすべてを獲得する。これに対して、真の「持たざる者」とは、他人から奪わなければ何も得ることができない人たちである。彼らは他人から自由を奪うことによって自由を感じ、他人に恐怖心と依存心を植えつけることによって自信を深め、他人を貧しくすることによって裕福になる>
<ある国の政府や生活様式を判断する唯一の指標は、そうした活動の基盤をなす国民の質である。政府の掲げる目標がいかに高貴であろうと、それが国民の品位や親切心をくもらせ、人間生活を安っぽいものにし、悪意や猜疑心を育むなら、その政府は悪である>
ホッファーが思索を始めたきっかけは、彼の両親の出身地であるドイツがナチスを受け入れたことへの疑問からだという。さらに彼の関心は共産主義の全体主義に向けられる。何がナチスを生み出し、共産主義の恐怖政治を生み出すのか。この問題を人間の魂の次元から解明しようとしたところに、彼の政治哲学の独創性がある。哲学者バートランド・ラッセルをうならせ、社会学者ハンナ・アレントをホッファーに走らせたのはこのためだった。
ホッファーが達した結論は、人間に必要なのは服従やプライドではなく、自由と自尊心であるということだった。そして高貴な美徳ではなく、より身近な「おもいやり」こそが「魂の唯一の解毒剤」であり、「高邁な理想に身を捧げた無慈悲な人よりも、玩具に夢中になっているが、同情心をもちうる人に世界をまかせたほうがよい」と書いている。
19.雪のつばさ
この年の十月六日、イスラエルとエジプト・シリアの間で第四次中東戦争が勃発した。石油や灯油の価格はみるみる値上がりし、いわゆる第一次石油危機が始まった。全国各地のスパーマーケットでトイレットペーパーや洗剤が品切れになり、殺到した主婦等が売場で将棋倒しになると言う騒ぎまで起こった。
買いだめは砂糖や塩にまで及び、日本中がパニックになった。国際収支も六年ぶりに赤字になるなど、世の中は一転して不況ムードに覆われた。そして小松左京の「日本沈没」という本がベストセラーになった。
人手不足の専売所にも、新人が採用された。謡のお師匠さんだという中年の男性で、本人は朝の運動のためだと言っていた。こうした中で、私は朝刊の配達をその年で止めることにした。来年の春には四年生に進級しなければならない。そして是非大学院へ進学したいと思った。
十二月に入って、雪になった。雪の晴れた午後、図書館からの帰り、大手堀から兼六園へいく辻にある広場まで来た私は、その中央に置かれた白鳥のブロンズ像に目を留めた。翼の上に雪を置いたまま、白鳥は今にも空に飛び立とうとしていた。
この道を毎日歩きながら、はじめて私は白鳥の荒々しい美しさに心を奪われた。たしかにそれは単なる美しさではなかった。白鳥の目が見つめているのは、この世とは全く別の、何か得体の知れない不気味な世界のように見えた。 (美しきもの見し人は……) 私は心の高揚を覚え、思わず口ずさんだ。その猛々しい白鳥のように、私も強靱な想像力の翼を広げて、果てしなく荒涼とした世界をどこまでも飛翔したいと思った。
大晦日の夕方、最後の朝刊を配り終えた後、専売所の忘年会に出た。私の他に謡の師匠や専従のDさんとNさんがいつものように招待されていた。芳子も二日前に帰省していて、一緒に食卓を囲んだ。
私は時々芳子と目を合わせた。内灘の砂丘を一緒に歩いて以来、私たちは二人きりで会ったことがなかった。 芳子は私に熱燗の日本酒を勧めながら、 「お正月は福井に帰られるのですか」 「ええ、これから帰ります」
その夜、私は去年のように泥酔しないで、早めに店を出た。そしてその足で、金沢駅まで一時間近く歩いた。寒い道を私は闇雲に歩いてみたかった。
9.日蓮と法華経
法然、親鸞、道元についてはまた折に触れて書くことにする。日蓮を理解する上にも、彼らと対比させて考えるのが分かりやすいと思うからだ。さて、それでは日蓮は天台本覚思想や法華経をどのように理解していたのか。彼の代表的著作の一つである「開目抄」をのぞいてみよう。
<この経に二箇の大事あり。一念三千の法門はただ法華経の本門・寿量品の文の底に沈めたり>
<ここに予、愚見をもって前四十年と後八年との相違をかんがみるに、その相違多しといえども、先ず世間の学者もゆるし、我が身にもさもやとうちおぼうる事は、二乗作仏・久遠実成なるべし>
<華厳ないし般若、大日経などは二乗作仏を隠すのみならず、久遠実成を説きかくせ給へり。これ等の経々に二つの失あり。一は行布を存するがゆえになおいまだ権を開かずとて、迹門の一念三千をかくせり。二には始成を言うがゆえに、なお未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり。これら二つの大法は一代の綱骨、一切経の神髄なり。迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて、爾前二種の失を脱れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず。二乗作仏も定まらず。水中の月を見るがごとし>
<本門にいたりて始成正覚をやぶれば、爾前迹門の十界互具の因果を解き顕す。これすなわち、本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備りて、真の十界互具、百界千如、一念三千なるべし>
迹門の方便品で二乗作仏・十界互具があきらかにされ、凡夫も仏性を具しているから成仏できることが明らかになる。これを受けて本門の寿量品では仏が実は永遠常住不滅であり、入滅は方便であったことが明らかにされる。つまり、われわれもまた永遠なる仏の命を持っていることがわかる。これはどんなSF小説より奇抜であり、驚くべきことだ。
日蓮は法華経の一大事は本門の一念三千だという。本門とはなにか。それは法華経の寿量品であり、そこに説かれている久遠実成の一念三千である。このあたりは難解だ。そこで、もう少し仏教の基本のところから分かりやすく解説してみよう。そうすればこの思想がどんなに壮大なものであり、恐ろしいものであるか分かると思う。
北さんの娘さんが、岐阜県の中学校で教育実習を体験した。その様子が北さんのHPに書いてあるので、引用させていただく。
<昨日、中学で教育実習をしている娘は10時半に帰ってきた。担当教官に「ご指導」を受けていたのである。このところ、連日8時過ぎ。聞くと、7時ごろから毎日のように会議があって、それが終わってからしか「ご指導」がされないようだ。先生方は多忙で、1日中走り回っているらしい。
実習生は7時ごろに教頭から「帰りなさい」と言われるらしいけれど、先生方で帰る人はほとんどいないという。放課後は部活指導をして、6時に生徒の帰宅指導をしてから自分のクラスや教科の仕事をするらしい。
「11時にはみなさん帰宅してください」と教頭が朝礼で言ったりするらしいから、11時すぎまでかなりの教員が仕事していると思われる。中学というのは、一体、勤務時間というのはどうなっているのだろうか。資格を取ったとしても、娘には中学の教員にはなってもらいたくない、と思う>
私が以前に勤務した三河の新設県立高校でも同様な状況があった。教頭が毎朝、職員朝礼で「○○さん、昨日は11時までごくろうさんでした」と必ず得意顔で報告する。それを聞いていて、当時まだ駆け出しの教員(31歳)だった私は、なんと熱心な教員がいるものだろうと感心した。
ただ感心してばかりもられなかった。5時の勤務時間を過ぎてから、「今から指導部会を始めます。先生方集合して下さい」と放送が入る。指導部の私はいそいで会議室に駆けつけた。勤務時間などあってないようなもので、サービス残業の毎日だった。朝は早朝があり、部活動が終われば会議である。私は結婚したばかりで、まだ若かったが、この忙しさにはまいった。
不思議なことに、多くの教員がこの忙しさを何とも思っていなかった。話を聞いてみると、学校から帰っても何もすることはないという。休日は競馬かパチンコくらい。読書の習慣もないようだ。そして半分の教員は独身だ。学校で寝泊まりしても平気だという。彼らは視野があまり広くなくて、社会問題にも人生問題にも関心が薄い。
ただ、目の前の与えられた仕事をしゃにむにがんばる。だから、この高校の進学実績は抜群だった。東大、京大、名大、早稲田、慶応など名前の知れた大学に大量に合格者をだし、愛知県の新設高校の記録をぬりかえた。校長は古巣の県教委へ帰り、部長にまで栄進した。最後は時習館高校の校長になり、その前任者とおなじく教育長への最短距離についていたが、結局なれないまま退職して数年後、車にひかれて死んだ。
校長の頭の中には立身出世と権力への渇望しかないようだった。そしてそのためにしゃにむに突き進み、私たちにも滅私奉公を要求する。上昇志向があり、滅私奉公が好きな人はいいが、私のような「自由人」にはたまらないことだった。私は最初の年から転勤希望を出し、二年間在職しただけで早々と夜間高校へ転勤した。
世の中には「自由」よりも、お金や地位や名誉、権力を欲しがる人がいる。そうした人たちは、お金や権力をどうやったら手に入れられるか始終頭にあり、、そうした手段や技術、心構えを教えるところが学校だと思っている。私は「自由に適する人間」を育てることが教育だと考えていて、自分自身も「自由に適する人間」になりたいと思っている。
(近々、この時代の日記をこの日記帳に連載するつもりです)
日本では夫が妻に先立たれる確立は15パーセントで、妻が夫に先立たれる確立は85パーセントだという。この差は女性の平均寿命が長い上に、夫の方が年上という場合が多いせいだろう。妻を看取るよりも、妻に看取られて天国へ旅立つ夫が5倍以上なわけだから、夫としてはありがたい。
ところで不運にも妻に先立たれたときはどうなるか。この場合の夫の平均余命は5年だという。夫に先立たれた妻の平均余命は22年もあるというから、ずいぶんのちがいである。
妻に先立たれると、食事、洗濯、掃除などの家事は普段からやりつけていない夫には大変である。妻に依存して生きてきた人ほど自立心が少ないから厄介である。妻に先立たれた後の5年間は、こうした夫にとって淋しい余生であり、不自由の日々となる。妻を失った精神的打撃に加えて、生活面での不便も生きる意欲の減退に結びつく。
私の知人の老人がやはり妻を先立たせた後、3年後になくなった。とても丈夫なひとで、乗馬やスキーをたのしみ、油絵を描き、私たちがお邪魔するとハーモニカを吹いてくれたりした。生きる意欲に満ちた強い人だったが、あっという間だった。これにくらべて私の母など、父を亡くして12年になるが、先日も13回忌を取り仕切り、まるで老いを感じさせない。
日ごろ強がりを言っていても、男は一人で生きて行くには弱すぎるのだろうか。この点、女性はたくましいのだろう。夫の死後の22年間は、未亡人の妻にとってさしたる不便も淋しさもない、自由と安楽の余生のようだ。ぬれ落ち葉のような夫がいなくなって、せいせいしたという女性もいることだろう。
妻にとって理想の夫とは、定年まで働いて、あとはさっさと天国へ行って、財産と自由を残してくれる夫かもしれない。男は余り長生きして、妻や子供に疎まれたり煙たがられないことが肝要だ。私のように世界放浪の旅に出るのも一計かもしれない。いずれにせよ、妻を先立たせるという愁嘆場は経験したくないものだ。おとこやもめの一人旅は、なんだか少し淋しい。
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