橋本裕の日記
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2003年10月31日(金) こうもりの空

25.コウモリ

 明くる日も、私は体温計を逆さに振る方法で学校を休んだ。佐藤先生が家庭訪問に来たときは、屋根裏に逃れた。そのまま屋根裏で夕方まで過ごした。屋根裏で私は一つの慰めを見つけた。それはコウモリと仲良しになることだった。屋根裏にはたくさんのコウモリが住み着いていた。私がそのことに気付いたのはコウモリの巣を見つけたからだ。

 それは軒先に近い梁の下にあった。昼間彼らは屋根裏のうっすらとした暗がりのなかでひっそりと眠っている。私が近づいても無警戒で逃げようともしない。そうしたコウモリの巣があちこちにあることに気付いて、最初は気味が悪かったが、やがて彼らに愛着を覚えるようになった。

 懐中電灯で照らすと、その顔はネズミと猿の合いの子だった。大きな耳と小さな目を持ち、愛嬌のある利口そうな表情をしている。なるほど彼らが鳥類ではなく獣の仲間だということが分かった。彼らを眺めていると、私はしばらく自分の孤独を忘れることができた。

(君たちはいいね。学校に行かなくてもいいし、大人になってもあくせく働く必要はないんだものね。昼間はこうして静かに眠っていて、夜が来ると超音波のレーダーを使って自由に空を飛び回って好物の虫を食べるんだろう。夜だから外敵に襲われることもないだろうし、風邪を引いたり、ノイローゼになったりすることもないしね。おや、君は欠伸をしたのかい。睡眠妨害したりして悪かったね)

 夕方辺りが暗くなるのを待って、彼らは次々と空に飛び立っていく。一人とり残された私は、淋しくなった。彼らと一緒に飛んでいけないのが残念だった。

 その翌日も私は学校を休んた。私は家族と顔と合わせるのを避けて、終日コウモリ相手に暇をつぶした。ところがそうしているうちに、私の体に異変が起きた。頭痛と悪寒がしきりにした。喉がひりひりと痛み、額が燃えるように熱くなってきた。仮病を装っているうちに、私は本物の病気になったようだ。


2003年10月30日(木) エロスの匂う短歌

 これは私の独断だが、俳句はもともと男性的で、短歌は女性的な要素が多いのではないかと思っている。短歌にはロゴスよりもエロスが似合う。たとえば、結核病棟の医師をしていた上田三四二さんの短歌に、女体をうたったこんな作品がある。

 おとろえていく眼には乳暈のなかの乳嘴のうすくれなゐよ
 膝いだき背くぐまるときつぶされてつぶされがたき乳か溢れぬ
 脱衣をとめまぼろしに来てみづの湧くくごときさびしき胸を聴かしむ
 輪郭があいまいとなりあぶら身の溶けゆくものを女とぞいふ
 疾風を押しくるあゆみスカートを濡れたる布のごとくまとふ

 短歌を作る人は圧倒的に女性が多いのではないだろうか。和歌や短歌においては万葉の昔から男女同権、あるいは女性上位が確立されていたようにも思う。

 きっちりと膝をあわせて君へ向く熱い乳房を持たぬ顔して

 これは磯辺朋子さんの歌。河野裕子さんの次の二首もいいなあ。いのちのみずみずしさが匂っているようで。

 ブラウスの中まで明るき初夏の日にけぶれるごときわが乳房あり

 今刈りし朝草のやうな匂ひして寄り来しときに乳房とがりゐき

 最後に、エロスの匂う短歌・俳句つくりを目差している私の駄句をひとつつけくわえよう。

 墓洗う女の乳房ゆれにけり  裕


2003年10月29日(水) 紅葉の秋

 通勤に木曽川の土手を車で走っている。伊吹山や御嶽山も遠くに眺められる。畑や田圃の向こうに木立があり、土手の並木も四季折々の美しさ。春は桜、秋は紅葉。冬景色もいい。

 最近はちらほら紅葉が目立つようになった。秋もいよいよ深まってきた。そこでeichanの最近の短歌から、秋の風情を感じさせる秀歌を四首選んでみた。

 秋の風吹き抜け寒き蓮池に鴨戻り来る羽音嬉しき

 吾子の目が吾の目と合い微笑みぬ大人の闇を知らぬ清き目

 通勤はいつも寄り道して帰る心の寄り道して帰るなり

 鉄骨をボルトでつなぐ工事現場薄紅葉一本切られずにあり

 空を眺めていると、しきりに鳥が飛んでいく。鳥もあちこち寄り道して、羽を休めながら異国を渡っていくのだろう。私たちも「心の寄り道」が必要だ。私は毎朝、通勤途中で車をとめ、オカリナを吹いているが、今は「紅葉」や「里の秋」を好んで吹いている。

 秋の夕日に照る山紅葉
 濃いも薄いも数あるなかに
 松いろどる楓や蔦は
 山のふもとの裾模様

 渓の流れに散りゆく紅葉
 波にゆられて離れて寄って
 赤や黄色の色様々に
 水の上にも織る錦

 「紅葉」は明治44年にできた小学校唱歌だ。考えてみれば、僕の両親も、祖父母も、これを小学校で習い、オルガンやピアノに合わせてうたっていたのだろう。歌ばかりではなく、こうした日本の美しい景色を、いつまでも残したいものだと思う。

 形見とて何か残さむ春は花
 夏ほととぎす秋は紅葉葉    良寛


2003年10月28日(火) 彼岸花と女

 昨日、部屋の掃除をしていたら、くしゃくしゃの紙切れに文字らしいものが書き付けてあるのを発見した。自分の書いた文字でありながら、なかなか読めない。判読してみると、もう一ヶ月も前に書いた「彼岸花」の短歌である。

 墓地を歩いていて、墓参りをしている女性の後ろ姿に触発されて書いた短歌のようだ。そのころは彼岸花が咲いていた。いささか季節外れの短歌だが、捨てるのも惜しいので、ここに紹介しておこう。

 墓洗う女のうしろあはれなり彼岸花咲くふるさとの寺

 蝉のなくさびしき墓地にほのかなる明かりのごとし彼岸花咲く

 彼岸花土から生まれ燃えている人のいのちもかくあらましを

 彼岸花異国の匂いただよわせ君と別れたありし日のごと

 夕暮れに青き星見る彼岸花姿は消えて虫のなく声

 最近は短歌をさぼっている。去年は日記に「一日一句」を連載したが、私の場合短歌はふつう連作で出来るので、「一日一首」というのがむつかしい。せめて「一週一連作」を目標にしたいと思っている。火曜日は短歌の日にしようかな。


2003年10月27日(月) こうもりの空

24.惨めな体験

 家に心なしかわびしい明かりがともっていた。私は玄関口から足音を忍ばせて梯子段を上がり、屋根裏に辿り着いた。そこはまったくの闇の世界だった。心の慰めになるような事物の影も消えて、私の心はよりどころを失った。

 何時間もそうしてうずくまっていた。やがて生理的欲求が募ってきた。私は再びトイレに行くためにそこを降りた。居間を覗くと父と母が話し合っている。引き返そうか迷っているうちに欲求が切迫してきた。私は小走りに居間を横切ってトイレに駆け込んだ。きわどいタイミングで用を足すことができた。

 トイレを出たところで、父に捕まった。早速父から尋問された。数カ月前まで刑事をしていた父はさすがに迫力があった。
「お前は何を取ったんだ」
 父の言葉に、反発を覚えた。

「何も取っていない。貰って食べたんだ」
「貰って食べるような奴は、余計に情けない」
 父は福井署に顔なじみの警察官がいた。それだけに息子の不祥事は辛い体験だったのだろう。私は惨めな気持ちになってうな垂れた。

 父は厳しい目を母にも向けた、
「小浜から帰ってきたときに、田舎へ行っていればこんなことにならなかった。お前は一日家にいて何をしていたんだ」

 母も私の横で首をうな垂れている。祖母も座敷の隅に来て正座していた。家の中がお通夜のように静かになって、裏庭の虫の声だけが聞こえてきた。


2003年10月26日(日) 批判される日本の対外援助

 有人宇宙船「神舟5号」の打ち上げ成功を報じた英国エコノミスト誌が、「有人宇宙飛行の出来る国に、外国の経済援助は不要」という記事を掲載している。中国が今回の友人宇宙船打ち上げにかけた費用は20億ドル以上と推定されているが、これを可能にしたのは日本からの18億ドルの援助だという。

 有人飛行については、中国の科学者の間にさえ、「AIDSやSARSの対策など、他にやるべきことがあるはずだ」と声が上がっているという。中国の衛生インフラはかなりひどいレベルにあり、国民の健康被害の実態は恐るべきものがある。にもかかわらず、中国が宇宙開発にこだわるのは、そこに米露に対抗して世界の覇権争いに参加しようという軍事目的があるからだろう。

 日本の援助が、軍事独裁政権を支えているという批判は以前からあった。たとえば悪名高いイラクのフセイン独裁政権も日本の援助で維持されてきた面がある。イラクがクゥエートに侵攻した1990年当時、イラクが外国の政府・民間から受けている経済援助の73%は日本からであった。日本に対する累積債務は6千億ドルにも達していた。

 湾岸戦争が終わったとき、日本はアメリカに莫大な資金援助をしながら、結局は貢献が認められず、イラクと並んで「敗戦国」の筆頭にあげられたのはこうした実態が外国のメディアに分かっていたからだ。日本は間抜けで愚かな金持ちだと世界中から嘲笑されたわけだが、その状態は現在も改善されているわけではない。

 北朝鮮のミサイル問題にも同様な構図がみられる。北朝鮮へ不正送金を続け、北朝鮮の資金源となり破綻した朝銀信用組合に、日本政府は1兆3600億円もの公的資金をつぎ込んだが、現実にはさらに巨大な資金が民間レベルで不正送金されていたと思われる。これらが結果的には北朝鮮の軍事独裁政権を肥え太らせ、核開発に向かわせたのだろう。

 一方で、アメリカは極東の軍事的緊張を理由にして、日本に巨大な軍事基地を置いている。そして全国で105カ所、324平方キロにおよぶ在日米軍基地の年間8400億円になる地代は日本政府が肩代わりし、さらに数千億円に及ぶ駐留経費を日本は「おもいやり予算」として計上し、日本国民の税金で負担している。こうして日本はアメリカとその相手国という、対峙する両陣営の最大のスポークスマンになっている。こうした愚かしさを当事者である私たちがもっと認識する必要がある。

 


2003年10月25日(土) 「愛知」の由来

 愛知県に住み始めて30年近くになる。棲めば都というが、夏の暑いのには少し閉口している。それでも冬に雪が少ないのはありがたい。もっとも、最近は私の故郷・福井でも雪はめっきりすくなくなったようだ。

 ところで、気に入っているのは「愛知」という県名である。何となく哲学的でいいではないか。愛知県に棲んでいると哲学的な高尚な生き方ができるかもしれない。こんな立派な県名を持っている県は他にないのではないか。

 愛知県には、「知立」、「知多」、などと「知」のつく地名が多い。近くは「明智」や「那智」という地名もある。こうした土地の名前の由来は何か、とても興味がある。いずれ調べてみて、この日記で紹介したいと思っているが、とりあえず今日は「愛知」について、分かったことを書いておこう。

<古く、万葉集巻三にある高市黒人の「桜田へ、鶴(たず)鳴きわたる年魚市潟(あゆちがた)、潮干にけらし、鶴(たず)鳴き渡る」という歌に詠まれている『年魚市潟(あゆちがた)』に由来するといわれ、後年、「あゆち」が「あいち」に転じ愛智郡という郡名になりました。  明治に入り廃藩置県後、県庁が愛知郡の名古屋城内に置かれたところから県名に採用され、正式に今日の「愛知県」となりました。また、「あゆち」とは「泉の湧き出る地」という説もあります>

 これは「愛知、名前の由来」というキーワード検索で見つけたHPからの引用である。愛知県のHPにも同様の記述があった。「愛知」と表記される前は「愛智」と書かれていたようだ。尾張国の郡名として「愛智郡」は奈良時代からあり、愛智と書かれる前は「鮎市(あゆち)」「吾湯市(あゆち)」「年魚市(あゆち)」「阿伊知」だったらしい。なお、名古屋市瑞穂区師長町瑞穂グランド東の松林の小高い丘の一角に「あゆち水」の万葉歌碑があるそうだ。

 小治田(おはりだ)の年魚道(あゆち)の水を間(ひま)なくぞ人は汲むとふ時じくぞ人は飲むとふ汲む人の間なきがごと飲む人の時じきがごと吾妹子(わきもこ)にわが恋ふらくはやむ時もなし <万葉集 巻十三 3260 相聞>

(小治田の年魚道の水を絶え間なく人は汲むという時ならず人は飲むという。汲む人の絶え間のないように、飲む人の時ならぬように、彼女に対して私の恋こがれるのはやむ時もない)


2003年10月24日(金) こうもりの空

23.家なき子

 家を抜け出してみたものの、別に行くあてがあるわけではない。私はとりあえず少し離れた所に住んでいる叔母の家に行ってみた。叔母の一家は私たちが若狭から帰ってくると、しばらくは一緒に暮らしていたが、やがて近くに貸し家を見つけて出ていった。今はこの若い叔母しか頼るところがなかった。

「どうしたの。学校は終わったの」
 叔母は旅行鞄を提げている私を見て驚いた。
「ちょっと、旅に出ようと思って」
「どこへ行くの」  
「月の宇宙ステイションだよ。かぐや姫に会いに行くんだ」
「冗談ばっかし。ジュースでも飲む?」 
「ご飯をくれないかな。腹が減って死にそうなんだ」

 私は昼間の食事を抜いていた。叔母は不審なまなざしを私に向けた。
「何か隠しているでしょう」
 叔母に見つめられて、私は動揺した。何もかも打ち明けて、気楽になりたいと思う一方で、惨めな自分をさらしたくないという思いもあった。
「何でもないさ。ちょっと旅の気分を味わっているだけだよ」
 私はしらばっくれて、叔母の握ってくれたおむすびを食べた。そして叔母が一人息子を保育園に迎えに出かけるのを見計らって、一緒に私も家を出た。

 叔母の家から少し行った先が足羽川だった。私は堤の並木道を歩き、北陸本線の鉄橋が見えるところまで来て、ベンチに腰を下ろした。二年前に小浜で家出を試みたときは、東京に憧れての家出だった。ガード下で靴磨きをしながら、夢と冒険に満ちた生活をしてみたいと思ったものだ。今はそんな無邪気な気持にはなれない。

 私は世間が生やさしいものでないことを思い知らされた。この広い世界で、私が身を寄せるところは、あの埃っぽい屋根裏しかないようだ。私が再び家に帰ってきたのは、すっかり日が落ちてからだった。


2003年10月23日(木) こころの手足

 今日もまた「日蓮と一念三千論」をお休みして、そのかわりに「こころの手足」という本を書いた中村久子さんのことを紹介しよう。彼女は1899年、3歳のとき特発性脱疽にかかり、高山の病院で両手両足を切断。さらに7歳のとき父を失い、母と祖母と弟と一緒に貧乏のどん底に落とされる。なにしろ戦前の事だから、充分な生活保護もなく一家の生活は困窮を極めた。

 母はやむなく彼女を連れて再婚し、祖母は親戚へ、弟は施設へ引き取って貰う。こうして一家離散の中で新しい生活が始まったものの、彼女は義理の父親の家では余計者であり、母親ともども肩身の狭い思いをした。思い詰めて死を考える母を見て、彼女は1916年(大正5年)、20歳の時高山を離れ、無手足の身に裁縫・編み物・刺繍・口での糸結び・短冊書きを芸として、「だるま娘」の看板で見せ物小屋に出て、自活する道を選ぶ。

 やがて、弟、母、祖母が次々と死んでいく。そうした中で、彼女は見せ物小屋で知り合った男と結婚し、一児をもうけるが、やがて頼みの綱の夫が病死し、手足のない彼女は幼い娘と二人で残される。しかし、彼女はこの苦境にも耐えて、二度目の結婚をする。

 この二番目の夫との間に一女をもうけ、親子4人にようやくささやかな幸せが微笑むかと思ったのも束の間、関東大震災に見舞われ、さらに不幸なことに、バラックの中で二人目の夫までが病死してしまう。それでも彼女はめげないで、何と三人目の夫を見つけて結婚する。そして三番目の夫との間にも一女をもうけるが、この赤ん坊はすぐに死んでしまう。しかも三番目の夫は女を作って遊び回ってばかりで、やがて彼女は離婚を余儀なくされる。

 彼女はそれでもめげずに、二人の娘を女手一つで育て上げる。この間、身体障害者として国からの補助金は一銭も受け取らなかったという。そればかりではなく、リウマチで寝たきりになった友人の心配をして、生活費を送ったりまでしている。41歳の時東京日比谷公会堂でヘレンケラー女史と出遇い、口で作った日本人形を贈った。ヘレンケラー女史は「私より不幸な、そして偉大な人」と久子女史に言葉をおくったという。

 46歳の時、興行界より身を引き「歎異抄」をもとに求道生活に入り、執筆、講演、各施設慰問活動を始める。1950年、54歳の時、高山身障者福祉会が発足して初代会長に就任。1968年3月19日、高山市天満町の自宅において逝去。享年72歳だった。

 彼女は戦後、NHKの「人生読本」に出演して、「御縁」という題で話をしている。そのなかで彼女が大好きだと言って紹介したのが、甲斐和里子さんの歌だった。

 悲しみはみなとりすててうれしさの数のかぎりをかぞえてぞみん

 これだけの体験をしながら、その不幸に押しつぶされることもなく、「手足はなくても、目や耳や口がある。子供がいる。いのちさえあれば、うれしいことがたくさんある。ありがとう」と仏様に感謝しながら生きてきたという。山田無文という禅宗のお坊さんが、中村久子について、「嘘ばかりが多く、本物の少ない今の世の中に、久子さんの声を、言葉を聴いているだけで、この人は本物だと思う」と書いている。久子さんが死んで、30年余りになるが、彼女の人生はいまだに光りを放ち続け、私たち健常者にも生きる勇気と希望を与えてくれている。

<この自伝小説は、私に人間の本当の生き方を教えてくれた大切な方から貸していただきました。中村久子さんの講演テープも聞きました。昭和43年に亡くなっておられますから、だいぶ古いものです。でも、贅沢な今の時代にこそ、このような時代を生き抜いてこられた中村久子さんのことを知って欲しいと思います。きっとこれからの生きる糧となると思います。この本を読んでから、私はどんな困難がきても、こう思うようになりました。私には手も足もあるじゃないか。なんだってできるよ>

 上に引用したのは、たまたまあるHP(石山雅雄「ぴあの屋ドットコム」http://www.pianoya.com/)で発見した、「こころの手足」を読んだ人の感想の一部である。私が「こころの手足」を読んだのは十数年も前だったが、その頃、私もいろんな人にこの本をすすめたものだった。最後に、中村久子の歌を一首紹介しよう。

 手足なき身にはあれども生かされるいまのいのちはとうとかりけり


2003年10月22日(水) 中国に必要な衛生インフラ

 最近は朝晩めっきり寒くなり、いよいよ秋が深まりを見せてきた。そしてその先に、冬がある。今年の春に流行した新型肺炎(SARS)は、死者812人、感染者8439人にのぼった。これがまた冬に復活し、猛威を振るうのではないか心配である。SARSの他にもいろいろな感染症の流行が心配されている。

 過去の感染症の流行を調べてみると、中国が発祥地であることが多い。古くは1348年にヨーロッパで流行したペストがそうである。わずか3年間でヨーロッパの人口の三分の一の2000万人以上の人々が死亡した。このペストはシルクロードを通って、中国の南宋からやってきたのだという。

 当時モンゴル帝国はアジアからヨーロッパまで版図をひろげ、シルクロードを通して、東西の交通が盛んに行われていた。この交易ルートに乗って、ペスト菌を運ぶネズミも運ばれたのではないかという。中国でもペストは大流行し、1200年には1億3千万人だった中国大陸の人口は、1393年には半分以下の6千万人になった。モンゴル帝国が滅びた原因の一つがこのペストの流行だという。

 18世紀には日本にも上陸したコレラや、ペストの流行がある。1918年には「スペイン風邪」と呼ばれるインフルエンザが猛威をふるった。日本でも2300万人以上が感染し、39万人が死亡したが、世界で6億人が感染し、死者は2千万から4千万にのぼったと言われている。スペインの王室の一員がこの風邪にかかり、報道されたのでこの名前が付いたが、これも発祥地は中国・広東省だという。ときあたかも第一次大戦の最中で、西部戦線でにらみあっていた両軍の兵士の間に蔓延し、世界に広がった。

 このように世界を襲った感染症はほとんど中国からはじまり、世界に広がっている。その理由は、中国の風土と人口の過密に加えて、公衆衛生観念が乏しいことが上げられる。上下水の設備を中心とする公衆衛生インフラが欠如していることは現代の中国にも言える。B型ウィルス感染者は1億人を超え、肺結核感染者が4億人いると中国の衛生省が発表している。WHO(世界保険機構)は首都・北京でさえ、人口の5割は寄生虫保卵者であるとしている。HIV感染者・患者数は、02年上期ではすでに100万人を突破、2010年には1千万人に達するとの予測が発表された。

 中国はソ連、アメリカに続き、有人人工衛星「神舟」の打ち上げに成功し、宇宙開発大国の仲間入りをしたが、その内実をみるとお寒い限りで、国民の健康福祉の面ではるかに世界の後進国だといわなければならない。これが改善されない限り、世界はこれからも中国大陸発の感染症の恐怖にさらされ続ける。グローバリゼーションの格段に進んだ現代において、その脅威もそれだけ大きい。世界の安全のためにも、中国の衛生改善を要求し、またODAの最優先課題として支援して行くべきだろう。

(参考サイト) 「国際派日本人養成講座 、疫病が変えた地球史」伊勢雅臣
     http://www.melma.com/mag/56/m00000256/


2003年10月21日(火) 海洋国家・日本の生きる道

古来より国には海洋型と内陸型の二種類がある。たとえば、ギリシャが海洋型なら、ペルシャは内陸型だといえる。ロシアやドイツや中国が内陸型なら、イギリスやオランダ、台湾は海洋型だと言えよう。

一般に内陸型の国家は民族的・閉鎖的で、領土や土地に対する執着が強く、侵略的で専制的になりやすい。これは大陸内部で熾烈な生存競争を戦い抜いてきた歴史による。これに対して、海洋型は土地所有よりも通商を生存の基盤にもつので、自由な個人による相互依存性を重視し、合理的で民主的な思想や体制を志向することになる。

 もちろんこれはあくまでも相対的な色分けで、普通はこの両面を持っている。ひとつの国をとっても、その国の歴史の中で、海洋性の部分が強く出ている時代と、内陸性が強く出ている時代がある。日本の場合もこの両面があって、いちがいにどちらのタイプだとは言えない。また、海洋型だからと言って、平和的・民主的だと断定することはできないだろう。

 しかし、その国の置かれた地理的条件からして、おのずから海洋型か内陸型か性格があらわれてくる。日本の場合は、周囲を海で囲まれていて、この自然的条件を生かそうと思えば、海洋型の国家をめざすほうが有利だと言えよう。

 日本は海洋型国家として生きていく有利な条件に恵まれている。周囲を海に囲まれていることは単に通商上便利なだけではない。これによって200海里経済水域の広さは451万平方キロメートルに及び、これは世界6位である。しかもこの海は変化に富み、漁場としてもまだまだ開発が可能だし、資源とエネルギーの宝庫でもある。たとえば天然ガスの埋蔵量は100年分もあり、マンガンやコバルトなどの貴重な鉱物資源も豊富に存在している。ある意味で日本は潜在的な資源・エネルギー大国なのである。
 
 江戸時代は鎖国政策によりある意味で内陸型国家を志向した時代だと言えるが、しかしこの時代であっても国内的には海上交易は活発に行われており、海洋型の側面を持っていた。とくに西日本の各藩は活発に通商し、産業的基盤を築いて、実力をつけていった。薩摩・長州を代表とする西国大名の海洋国家としてのパワーが、内陸的であった東国の大名連合を圧倒するなかで明治維新という開明的な革命が起こったといえよう。

 その後、日本は中国に侵略し、満州国をつくるなど、内陸型国家としての性格を強めていった。そして敗戦により、平和憲法のもと、ふたたび海洋的な通商国家として甦った。今後も日本は海洋型国家として、生きて行くべきだろう。そうすれば、その未来はそれこそ前途洋々と言ってもよい。


2003年10月20日(月) こうもりの空

22.屋根裏

 ひとまず屋根裏という避難所を得て、私はほっとした。母も先生も私が屋根裏に潜んでいるとは考えないだろう。ここにいる限りは安全だった。梁の上に腰を下ろして、しばらくその自由な気分を味わった。

 節穴から覗いた外の世界は、異様に明るく感じられた。町のたたずまいも、山や空の印象も違っていた。私にはその明るい世界が、自分に近づいてきたようにも、またよそよそしく離れていったようにも思えた。いずれにせよ、私はこれまでとまるで違った世界に投げ込まれた自分を発見して興奮していた。

 私は目を閉じると、しばらくは空想に身をゆだねた。この地球は何かの理由で滅亡しょうとしている。しかし誰もそのことに気づかない。私は宇宙船でただ一人この地球を脱出するのだ。
(さようなら、みんな……)

 私は母や父や祖母、弟のことを思い浮かべた。それから、葉子や茂夫や、田舎の祖父のこと等を思い浮かべた。そうすると、急に悲しくなってきて、涙が頬を伝って落ちた。何だか本当にこのまま自分だけがこの地上から去っていくような淋しい心持ちがしたのだった。

 屋根裏は埃っぽく、ひんやりとしている。私は肌寒さで身をちぢめていた。布団を抜け出して、パジャマのまま天井裏に上がってから、もう二時間ほどすぎている。そろそろ生理的欲求も兆し始めていたので、様子を見るために降りることにした。

 二階の部屋には人気がなかった。私は梯子段を降りて、玄関先に先生の靴がないのを確かめて、さらに柱の陰から居間の方を窺った。ガラス戸越しに、母と祖母が肩を落として座っているのが見えた。トイレを使うには二人のいる居間を抜けていかねばならない。

 私はやむなく足音を忍ばせて二階に戻った。そして着替えると、ズックをはいて窓から屋根を伝って裏庭に降りた。裏庭の物陰で、私は生理的要求を果たした。足元にできた黄色い水たまりで、蟻が一匹溺れていた。


2003年10月19日(日) 人生に四時あり

 伊藤博文は69歳まで生きた。最後は暗殺で幕を閉じたが、その人生は充実していて、大河のようである。新国家建設という大業を、彼は多くの人の協力をとりつけながら率先して行った。明治天皇の威光がその背後にあったとはいえ、これはなかなか骨の折れる大業である。伊藤の偉いところはこれを嬉々として、上機嫌で行ったように見えることだ。

 栄耀栄華を極めた政治家・伊藤博文の幸福で堂々たる生涯にくらべると、思想に生き、思想に殉じた吉田松陰の29年間の生涯はほんとうに短い。もし伊藤博文が29歳で死んでいたら、彼は何ら歴史に名前も痕跡も残さなかっただろう。しかし、吉田松陰は29年の生涯ですでに揺るぎない名望をわが国の歴史に刻んでいる。その29年の生涯の放つ輝きは、伊藤博文の69年の生涯をはるかに凌いでいる。

 このことについて、吉田松陰自身がその遺書「留魂録」のなかで、「十歳にして死する者は十歳中自ら四時あり」と味のあることを言っている。人間はたとえ何歳で死んでも、その人生なかに春夏秋冬の四時をしっかり備えているというのだ。その部分を、「日本の思想19、吉田松陰」の現代語訳で紹介しよう。

<僕は年を数えて30歳になる。一事をなすことなくして死ぬのは、あたかも農事で稲のまだ成長もせず、実もつかず、という状態に似ているのだから、残念だと思わないではない。しかしいま義卿自身としていうなれば、これもまた秀実のときである。

 何故なれば、人間の寿命は定めなきものである。農業における収穫の必ず四季を経過しなければならないのとは違っている。十歳で死ぬる者にはおのずから十歳の中に四季がそなわっており、二十歳には二十歳の、三十歳には三十歳のおのずからなる四季があるのだ。

 十歳では短すぎるというのは、数日しか生きない夏蝉の運命をして、百年も千年も経過した椿の木の寿命にひきのばそうというものである。また百歳を以て長いというのは、その天寿の椿を、短命な夏蝉にしようとすることだ。どちらも天命に達しないというべきだろう。

 義卿は三十、四季はもう備わっている。成長もし、また実りもした。それがしいらであるか充分実の入った穂であるかは僕の知るところではない。もし同志の士に、僕の微衷を憐れんで、それを受け継いでやろうという人があるならば、そのときこそ、後に蒔くことのできる種子がまだ絶えなかったということで、おのずから収穫のあった年に恥じないということになろう>

 すべての人生に四時があるというこの言葉は、28歳で死んだ高杉晋作にもあてはまる。晋作は幕府との戦いを勝利に導いた長州藩の救世主であるばかりではない。じつは日本国を揺るがす革命の導火線に火をつけた英雄である。しかし、28歳の彼はまだ家督をさえ継いでいない一介の書生に過ぎなかった。藩主は高杉の胸の病が篤いと聞いて、いそいで彼に百石取りの碌を与えている。これを聞いた高杉は「百石あれば飲める」とよろこんだという。彼の臨終の様子を、司馬遼太郎の文章で紹介しよう。

<晋作は辞世の歌を書くつもりであった。ちょっと考え。やがてみみずが這うような力のない文字で、書き始めた。
 おもしろき こともなき世を おもしろく
 とまで書いたが、力が尽き、筆を落としてしまった。

 晋作にすれば本来おもしろからぬ世の中をずいぶん面白くすごしてきた。もはや何の悔いもない、というつもりであったろうが、望東尼は、晋作の句の尻切れとんぼの辞世に下の句をつけてやらねばとおもい、
「すみなすものは 心なりけり」
 と書き、晋作の顔の上にかざした。

 望東尼の下の句は道歌めいていて晋作の好みらしくはなかった。しかし晋作はいま一度目をひらいて、
「……面白いのう」
 と微笑し、ふたたび昏睡状態に入り、ほどなく脈が絶えた。ただその間、一度唇がうごき、みじかくつぶやいた声を聴いた者がある。
「……吉田へ」
 という言葉であった。> (「世に棲む日日」文春文庫)

 伊藤博文は日清戦争のあと下関にきて、酒席に芸者を呼んだことがあった。そのとき芸者が三味線にあわせてうたったのが、こんな歌だった。

 桜墨 活けた炬燵にうたたねすれば
 夢じゃ吉野の花盛り

 この歌は、高杉晋作が作り、自ら三味線を弾いてうたっていたのだという。その歌が下関の花街にいまだに唄われている。しかしだれもそれが晋作の歌だとは知らない。伊藤はこの歌を繰り返し唄わせ、聴きながら涙をうかべて往時をしのんでいたという。


2003年10月18日(土) 伊藤博文の業績

 明治維新(明治元年)のとき、伊藤博文は28歳だった。ちなみに明治天皇は17歳の若者である。西郷隆盛は42歳、大久保利通は39歳だった。吉田松陰が生きていれば大久保と同じ39歳だった。山県有朋31歳、井上馨34歳。こうしてみると、その若さが目立っている。なかでも二十代の伊藤は最年少の若輩である。

 新政府での伊藤の最初の役職は「外国事務係」だった。英国への留学体験があり、外国の事情に通じていて、英語ができることが伊藤の強みだった。伊藤は英国から金を貸りて、日本に鉄道を敷くことに着手する。鉄道は明治3年に起工され、二年後に開通した。

 鉄道の次は、通貨の改革をした。金融制度を調査するためアメリカに行き、帰国すると造幣局をつくった。それから彼は今の建設省を作ることを進言し、これが実現すると自らその初代の長官(工部大輔)になった。また、伊藤は「廃藩置県」を熱心に建議した。そしてこれが実現すると、初代の兵庫県知事になっている。こうして伊藤は着々と明治政府の基礎を築いていった。

 明治4年には、岩倉具視が全権大使となり、大久保利通、木戸光允、大久保利通などとともに伊藤は案内役として随行した。この旅行は10ヶ月という長いもので、アメリカやイギリス、ドイツなど欧米12カ国を訪問し、先進技術と西洋文明の調査、研究を行った。ドイツで伊藤と大久保はビスマルクにあっている。このとき大久保は心中ひそかに自分が日本のビスマルクになることを考えたようだ。

 ところが帰国すると征韓論がもりあがっていた。大久保や伊藤は反対したが、三条実美は陸軍大将・西郷の迫力にまけてこれを可決してしまう。大久保は怒り、参議を止めると言い出した。そこで伊藤は夜中に岩倉具視を訪れ、仮病をつかうことをほのめかした。岩倉はさっそく三条を訪れ、伊藤の秘策を打ち明ける。そして二人ともにわかに病になって、家に籠もったまま天皇の詔勅をもらおうとしなかった。これに今度は西郷隆盛が怒り、参議を辞して下野した。このあと西南の役が起こったが、大久保と伊藤は明治新政府最大の危機を「天皇の宸断」を使って乗り切った。

 その大久保が明治11年5月14日の白昼、西郷心酔者の兇刃に倒れ、49歳の生涯を終えた。伊藤は大久保の後をついで内務卿になった。明治15年、伊藤は憲法を作るためにヨーロッパに行く。一年半の出張ををえて帰国すると、華族制度をつくり、自らは伯爵になった。イギリスの上院にならい貴族院をつくるための布石だった。一方で文官試験の制度を作り、有能の士はだれでも官職につけるようにした。

 そのあとも、伊藤の精力的な活動が続く。太政官制度を廃止し、内閣制度を作り、44歳の時に(明治18年)自ら初代の内閣総理大臣になった。このとき山県有朋を内務大臣につけている。明治21年、枢密院をつくり、伊藤は首相をやめてその初代の議長になった。枢密院で明治天皇の臨席のもと憲法草案が討論された。この間、当時3歳だった皇太子(昭宮猷仁親王)が薨去されたが、明治天皇は席を外さなかったという。このころ、明治天皇と伊藤博文はほとんど一心同体になっていた。

 翌22年2月21日に念願の憲法が発布された。このとき伊藤博文は49歳だった。まだまだ脂がのりきった年齢である。このあと伊藤は3回も首相に任命され、枢密院の議長も務めた。政党をつくり党首にもなっている。こうして日本はまがりなりにも政党政治の時代を迎えた。明治38年、韓国統監就任。1909(明治42)年10月26日、ハルビン駅で韓国人・安重根の銃撃を受け死亡。享年70歳だった。伊藤の死後、武断派の山県有朋の主導のもと、韓国は日本に合併され、日本は大陸進出への道を歩むことになる。

 伊藤博文は明治維新後、一度も萩に帰っていないらしい。28歳から70歳まで、40年以上一度も故郷の地を訪れないというのはどうしたことか。だれしも故郷に錦を飾りたいものだ。それをしなかったのには色々と訳があるのだろうが、もっとも単純な理由は彼に余裕がなかったことだ。彼の一生は多忙を極め、ひたすら走り続けた一生だった。彼の死後、萩に豪邸が建てられた。現在そこは伊藤博文邸として、歴史資料館になっている。これを見るとさすが明治の権力者の家だと思うが、実際は彼は一度もこの豪邸で暮らしたことはなかったのだという。


2003年10月17日(金) 高杉晋作と伊藤博文

 吉田松陰は、1854年(嘉永7年)に密航に失敗し、萩藩の「野山獄」に投獄された。その9年後の1863年(文久3年)、伊藤博文たち4人が今度は藩主の内命でイギリスに密航している。伊藤が23歳のときである。師の松陰が命がけで行ったことを、伊藤は藩の庇護のもとに行うことが出来た。時代が急速に変わってきた。

 しかし伊藤がロンドンについて6カ月目に、長州藩が攘夷を実行し、下関を通過する外国船を砲撃したというロンドン・タイムスの記事に接して驚いた。英仏米蘭の四国連合艦隊が、この報復として下関を攻撃を準備しているという。伊藤の目には西洋列強の文明は圧倒的に進んでいるように思えた。これでは藩が滅亡する。何とか止めさせねばならない。そこで急遽、井上と二人で帰国することにした。

 イギリスの軍艦で長州に送り届けられた二人は必死に戦争の無謀なことを説くが、これに理解を示したのは高杉晋作くらいで、攘夷で暴走し始めた藩の方針を変えることが出来ない。井上は藩の刺客に襲われて瀕死の重症を負い、伊藤と高杉は刺客を逃れて身を隠さなければならなかった。そして長州は四国艦隊の砲火を浴びて、あえなく降参。藩はあわてて、伊藤を使って講和の交渉をさせた。このとき藩主の名代にさせられたのが高杉晋作だった。巨額の賠償金を要求されたが、高杉は「長州は幕府の命令にしたがったまでだ。幕府に要求したらよかろう」と言って譲らず、とうとう賠償金を幕府に押しつけてしまった。

 その後、藩は尊皇を旗印に京都に攻め上るという暴挙に出た。これが失敗して長州征伐がはじまった。会津、薩摩といった全国の雄藩が幕府の主力となって押し寄せてきたからたまらない。藩の保守派は主戦派の三家老の首を差し出して恭順の意をあらわした。高杉晋作や伊藤は主戦派ではなかったが、藩が保守派に主導権を握られたので、身の危険を感じて身を隠さなければならなかった。

 ところが突如、高杉晋作が亡命先の九州から帰ってきて、これから兵を挙げて、城に攻め上るのだといいだす。高杉は「奇兵隊」の創始者で初代総督だが、そのころすでに総督は赤根武人になっており、実践部隊の実権は山県有朋が握っていた。奇兵隊は藩の正規の軍隊ではなく、農民や部落民や他藩の流れ者などで構成されたゲリラのような武装組織で、その構成メンバーによっていくつかの小隊に別れていた。ちなみに伊藤は力士たちからなる「力士隊」の隊長だった。

 藩を牛耳っている保守派は奇兵隊をつぶす気でいる。このままじり貧に追い込まれ、解散させられてしまうのも口惜しいところだ。総督の赤根は保守派に取り入り、政治的に解決しようとしていたが、その前途は暗かった。高杉は山形有朋以下の諸隊の隊長を密かに集めて決起をうながすが、山形有朋はじめだれも同調しない。山形は醒めた目で高杉に向かい、最後まで首をたてに振らなかった。

 クーデターが成功する望みは万が一にもない。それにたとえ成功したとして、長州は幕府と戦えるのか。幕軍はすでに長州をとりまいていた。クーデターが起こったと知れば、雪崩を打って攻め込んでくるだろう。「高杉の狂気のために藩を滅ぼしていいのか」という思いが山形の胸中にあった。負けると分かっている戦をするわけにはいかない。

 伊藤も黙っていた。しかし皆が帰った後も、残っていた。その伊藤に、高杉は声をかけた。力士隊だけでも決起するというのだ。しかしその数は30名に満たない。これで何万という藩の正規の部隊を破り、萩城を奪回しようと言うのだから驚きである。ところが高杉はいまから下関に走り、10人でもよいから集めておけという。誰が見ても勝ち目がない戦いで、勝算はなく、死は確実なように思われた。しかし、伊藤はこのとき勝算を度外視して高杉についていこうと思った。

<伊藤は、馬で夜道を奔った。かれは普通の藩士階級の子とはちがい馬術を学ばなかったから、馬にはうまく乗れなかった。いそぐために一鞭あてると、馬が異様な早さで走り出した。伊藤はたてがみにしがみついた。馬にくらいつきながら、馬関(下関)での大仕事を思った。
(おれはもう死んでいるのだ。死霊が駈けているのだ)
 そう思え、と自分に言いきかせた。総督の赤根武人は伊藤を「才子」とあざけったが、たしかにこの若者は多少の軽薄さをもった才子であった。かれがもし、この時期、長府・下関のあいだを死霊になった気で奔ったという意外な一面がなかったならば、かれは生涯単に才子として終わったかもしれない>(「世に棲む日被」司馬遼太郎)

 奇跡は起こった。高杉決起の報を聞いて、山形の部隊200名が蜂起した。そればかりではない、農民が立ち上がり、正規の藩兵までがこれに同調した。山形有朋が立ち上がった背景には、土佐藩士長岡慎太郎の働きかけもあった。長岡が長州へ駆けつけてきたのには訳があった。長州藩が幕府に破れて没落すると、たちまち天下のあらゆる藩が幕府へとなびき、藩内の勤皇勢力をいっせいに弾圧し始めた。諸藩で投獄・斬首が相次いでいた。

 このままでは革命は夢物語になる。長岡はもしここで高杉が敗れれば、もはや日本の大事はならないと考え、「高杉と山形らの数百人がもはや天下の恃みである。この火が消えれば日本の大事は永遠に去るであろう」と、戦場にあっても山形を激励した。そしてその甲斐があって、奇兵隊の武力蜂起は成功し、長州は尊皇倒幕の藩となって、日本に革命の火だねが残った。

 なおこのとき蜂起した200名あまりの奇兵隊の中から、明治の顕官が綺羅星のように生まれている。公爵・元勲・総理大臣になった伊藤と山形の他に、伯爵・元帥の寺内正毅、子爵・中将の三浦梧楼、子爵・中将の三好軍太郎などがそうである。

 ところで、この動乱のさなか、吉田松陰の兄・杉民治が登城し、藩主毛利敬親に面会して、「いまにしてこの兵乱を終息させねば、人民の疲労、防長二州の衰退、はかるべからざるものがありましょう」と言上している。敬親は動乱がおさまったあと、「すべて自分の不徳不明よりおこったこと」と藩民に向けて異例の論告文を発した。

 こうして佐幕の保守派は政事堂より一掃され、かわりに倒幕派で高杉の同士が二人はいった。一人は松下村塾で一緒だった前原誠一であり、もう一人は井上聞多(薫)である。功労者の高杉は政事堂に入ることを嫌い、伊藤をともなって、下関で芸者あそびに興じた。そのあと長崎に飛んだ。そこでイギリス商人グラバーに会っている。このグラバーから購入した軍艦がきたるべき幕府との海戦で活躍することになった。
  
 その軍船を下関に運び、ついでにその艦長となって幕軍との戦争に参加したのが坂本竜馬だった。竜馬は自分の師匠の勝海舟が幕府の軍艦をひきいてきても、これと一戦を交えるつもりだったようだが、そういう事態にはならなかった。その前に幕府が退散してしまったからである。幕府が地方の一藩を相手に戦いをしかけ、兵力で圧倒的な優位にたちながら、しかもこれに完敗するなどということは思っても見ないことだった。幕府の威信は崩れ、死に体であった全国の勤皇党が息を吹き返した。幕府が崩壊するのはもはや時間の問題だった。


2003年10月16日(木) 平凡な偉人・伊藤博文

 伊藤博文は近代国家日本を建設した第一の功労者である。その功績が認められて、お札の顔にもなったが、どうも人気というといまひとつだ。彼は百姓の子として生まれ、のちに下級武士の養子になったが、身分制度の厳しい封建社会でずいぶんと肩身の狭い思いをしただろう。

 彼は身長160センチ、容貌もぱっとせず、外見上もこれという特徴はない。無類の女好きで、妻にした梅子は花柳界の女。若い頃は随分無茶をして、佐幕派の人間を暗殺したこともあるらしい。そんな男が総理大臣を4回も勤め、明治天皇の覚え愛でたく、枢密院議長、元勲、公爵という最高権力者になった。この破格の出世男に対して、世間のやっかみもあっただろう。

 幕末・明治に活躍した人たちの人気ベスト・テンをあげれば、坂本龍馬、西郷隆盛、木戸光允、高杉晋作、大村益次朗、勝海舟、山岡鉄太郎、近藤勇などがあがり、伊藤博文はおよそその圏外、というよりワースト・ベスト・テンのトップを占めるのではないか。童門冬二著「伊藤博文」の解説を書いた石井冨士弥さんはこう書いている。

<松下塾生の時点では、低い身分と持ち前の気軽な調子の良さから軽んじられ、ほとんどの他の同門生の人物伝で扱われるときには、端役・脇役でチョコマカ動き回る便利屋程度に描かれるぐらいしかためしのなかった伊藤利助こと博文が、後年、同塾の先輩・同盟者を遙かに越え、たとえ狡智な人心遊泳術・出世欲・女好きと三拍子そろった人格からふりまかれる悪評・非難・醜聞・中傷にまみれながらも、われわれの現在ある日本を世界的「列強」の一つに仕上げる礎を創ってみせた巨大な史上人物であることは、厳然たる事実なのである>

 青春とは人生の一時期をいうのではない
 心の様相をいうのだ
 年を重ねただけで人は老いない
 理想を失うときにはじめて老いがくる
 歳月は皮膚のシワを増すが
 情熱を失うときに精神はしぼむ

 童門さんは「伊藤博文」の「あとがき」にウルマンのこの「青春」という詩を引いたあと、「伊藤俊輔が、こんな理想に燃えた立派な人間だった、とは思わないが、青春児ぶりは死ぬまでつらぬいていたような気はする。特に彼の本能的な、「好奇心」「上昇志向心」「女好き」は、青春にとって欠くことのできない条件だ。そのすべてを伊藤博文はもっている」と書いている。そして、彼の成功の秘訣として、彼が人との「出合い」に恵まれていたことをあげている。

 すべての始まりは、彼が長州藩の吉田松陰の家のすぐ近くに生まれたことであろう。松陰の塾に通うことで、彼は久坂、高杉を知り、桂小五郎からも厚遇をうけた。山県有朋や井上馨とは同輩である。彼はさらに長州藩にとどまらず、大久保利通のような他藩の有力者からも眼をかけられ、腹心として可愛がられた。ふたたび童門さんの言葉を引こう。

<なぜ、かれを選んだか、といえば、かれほど幕末維新時の、多くの人材に遭遇した人間はいないからである。人間の一生は「人との出合い」によって貫かれる。会う人によって大きく変わることもあるが、会った人をどう消化するかによっても、大きく変わる。他動・自動の両面がある。人に遭う、ということは、自分の肥料を得るということだ。

 その点、伊藤博文は会う人をことごとく、自分の内部に消化して行った。文字通り、「人を食って」生きて行ったのである。青春、というのは、この飽くなき人との出合いに燃焼させる、自己の生命の輝きではなかろうか>

 伊藤利助が伊藤俊輔になり、そして伊藤博文になった。その過程で、彼は錚々たる大人物に出合い、彼らの影に身を置きながら、自らを大成させていった。大人物の多くは志し半ばに倒れたが、さいわいにして彼らは伊藤博文のなかに生き続けた。そして近代日本建設という偉業を伊藤博文の手に委ねたのである。伊藤博文はこの自分に委託された事業を成し遂げるために「しぶとく」生き延びなければならなかった。

 伊藤博文は温厚で人を退屈させない話術の持ち主だったが、ときには本気で怒るときもあったという。日露戦争の後、清国にいすわり続けて軍を引こうとしない軍部に対して、彼は西園寺首相をはじめ、要職にある者をあつめて、その席上、桂太郎陸軍大臣、児玉源太郎参謀総長など軍関係者に対して、窓ガラスがふるえるほどの大声でどなりつけたという。

 ハルピンで暗殺されたあと、遺言を見ると妻の梅子には10万円を送って欲しいと書かれてあった。しかし残された遺産はその半分もなかったという。金銭には無頓着で、清廉とはいえないまでも、地位を利用して財産を作ろうということは考えたことがなかったらしい。彼の死後、多くの人が彼の人柄をしのんで追悼文を書いている。その中から、犬養毅と尾崎行雄、それから盟友であった井上馨の文章を紹介しよう。

<伊藤公とはさほど親しい仲ではなかったが、立憲的政治家であったことは断言できる。明治25,6年ごろの政界といえばひどいもので、暴力、金銭が横行していたが、彼は賄賂を使わず、受け取りもしなかった。平和主義の政治家として世界的に有名で、日本の信用を高めていた。この点、その死は大きな損失である>(犬養毅)

<私が政治に関係したのは、明治14年。その時から16年ほど、伊藤公を正面の敵として戦った。なぜそうしたかというと、ただ、われわれの先輩がむやみと攻撃するから、それにくっついてやっていたのにすぎない。彼こそ専制政治の権化、民権や自由や立憲政治の敵とみた。そのうちに、ふしぎな気分になった。公は決して卑劣な手段で応戦しない。時たま詔勅を請うてことをおさめることはあったが。そして、しだいに敬服するようになり、公が政友会を作ると、私は自分の判断でそれに入り、彼の味方になった。なにごとも調和的な人。最大の欠点は女好きであるが、それも女に溺れることはなかった。天真らんまんで、子供のように無邪気な人だった>(尾崎行雄)

<維新の少し前、私は11人の刺客のため全身に重症をおった。さいわい命はとりとめた。伊藤はかけつけ、涙をぽろぽろ落とした。それが私の顔にかかったので、私もこらえきれず、涙が湧きだしてきた。口がきけなかったので、手真似で早く帰らぬとおまえもこんな目にあうぞとせかせたが、伊藤はなかなかそばをはなれなかった。思い出すと昨日のことのようで、胸を針でさされるような気持がする>(井上馨)

 伊藤博文は朝7時に起きて、朝食は梅干しひとつと日本茶だけ、食事はいつも質素だったという。家に人を集め、ばか話をして楽しんだ。よく語り、よく笑うひとだったようだ。彼自身の残した文章に、「世間、大礼服の我を知り、紋服の我を知る。いまだ浴衣がけの我を知るもの少なし」というのがある。ざっくばらんで庶民的、過激な理想に走らず平凡を愛し、現実的な中庸の政治を実践した。昭和17年に書かれた伝記「伊藤博文」の中で、著者の中村吉蔵は最後を、こんな風に結んでいる。

<もし明治日本がこの平凡な偉人に引率されずに、覇気満々の自信家の手にあったら、ずいぶん危険なせとぎわに引き込まれていたことだろう>

 引用した追悼文や中村の文章は、星新一著「明治の人物誌、伊藤博文」(新潮文庫)のなかで見つけたものだ。星新一は亡父との関わりで伊藤博文について調べ始めたが、最初は旧千円札の顔を見ながら、「こいつは薩長藩閥の元締めで、権力主義者で、大陸侵攻へと国の方針を押し進めたやつにちがいない。尊大な顔をしている。気が進まないな」と思っていたという。それが調べていくうちに、嫌悪感から愛着、そして尊敬へと見方が変わってきた。

<彼は大きな目標とか、主義主張とか、理想とかをかかげ、それを目差して進むという性格ではない。そのために挫折をすることもないかわり、国民的な人気もでない。冷静な情勢判断力を持った、現状改善の才に恵まれた実務的な人間なのだ。また、にくめない人柄でもあった。威圧感も与えないかわりに、大人物あつかいもされない。西郷隆盛とは好対照だ>

<明治期の日本という、どこへ暴走するかわからないしろものを、彼は巧みにハンドルをあやつり、ブレーキをかけ、安全運転をやった。みごとなものである。それにしても、こんなにも描きにくい人間はめったにいない。しかし、政治家はこうあるべきなのだろう。波瀾万丈の人物は書く方も読者も楽しいが、そんなのに政治をやられた場合、大衆はおおかた好ましい状態ではないのだ>

 伊藤博文は吉田松陰の弟子だが、ひとからそう言われるとこれを明確に否定したという。松陰はすぐれた思想家だが、すぐれた政治家になれたかどうかあやしい。松陰は伊藤博文を「周旋家」と読んだが、伊藤博文はこれを聞いて、さすが師匠だと、苦笑いをしたのではないかと思う。松陰は「敵を知り、自らを知れ」と門弟に教えた。伊藤博文は日本という国の立場や実力をよく知っていた。そして自らを知ることにおいてもぬかりはなかった。この意味で、彼も又松陰のよき弟子であったといえよう。


2003年10月15日(水) 権力は腐敗する

 自民党の小泉首相の人気が依然として高い。人気の秘密はいろいろあると思うが、彼のダンディな身のこなしや個性的な容貌も大きな要素だろう。「自民党をぶっつぶす」などと言動もはぎれがよい。同じタカ派でも「神の国発言」など正体不明の失言を繰り返した前任者の森善郎さんとは随分印象が違う。セルフコントロールもしっかりできているという印象を受ける。

 これに対抗する民主党の菅直人さんもダンディである。小泉さんと比べると切れ味に欠けるが、政策で勝負するというその言動は分かりやすいし、小泉さんとはまた違った個性が感じられて、好感度ではそう負けてはいない。性格的にも悪そうではない。一昔前までの悪人面のいわゆる談合を得意とするタイプの政治家と随分違う。

 政治家は清廉な人格者であってほしい。私利私欲で動く人間は、権力を私物化し、政治の腐敗と堕落を生む。だから、支配欲の強い利己主義者は政治家としてあまりふさわしいとはいえない。私欲を肥やすことではなく、人間としての最低限のモラルを持っている人に政治を行って貰いたい。これは政治家だけでなく、権力の近くにいるエリート官僚にも切に望みたいことだ。人々のために働くことにを生き甲斐を感じられる人であればなおさらよい。

 しかし、「権力は腐敗する」という格言はやはり歴史の教訓であろう。権力は魔力である。人間を堕落させ、その人の性格さえかえてしまう。だから長く権力の座にいることは本人にとっても国民にとっても災いでしかない。だから民主的な国では任期制をもうけている。終身大統領などということは考えられない。

 このことは、個人だけではなく政党にも言える。同じ政党が長期に政権を独占することは、その政党そのものにとっても、国民にとってもしあわせなこととはいえない。どうしてもそこに堕落や腐敗が生じてくるからである。いわゆる政・官・業の癒着が進み、既得権益や圧力団体の利権で政治が動くようになる。この意味で政権交代が必要になってくる。

 日本の場合、自民党の長期政権が続いているが、さいわい派閥というものがあって、これが擬似的な政権交代の役割を果たしていた。だからまだ、腐敗・堕落はそこまで深刻にはならなかったが、政治が国民の意志ではなく、一部の利権によって動いているという現実はやはり否定できないだろう。民主党のマニフェストを読むと、あきらかに人気取りだとしか思えないものもあり、私は首を傾げざるを得ないが、しかし政権交代の重要性を考えると、今度の総選挙では大いにがんばってもらいたいと思っている。

 最後に大切なことを付け加えておこう。よき政治とは国民に自由と平和と豊かさをもたらす政治である。そのために必要なのは有能な政治家であるということだ。パホーマンスの能力ばかりに惑わされないで、よき政治をおこなう意志を持っているかどうかと並んで、政治を行うにあたって「有能」であるかどうか、このことをしっかり押さえておく必要がある。それでは「有能な政治家」とはどんな政治家か。明日の日記で、「伊藤博文」をとりあげてみたい。


2003年10月14日(火) ドル安を円高という人々

 このところ円高が話題になっている。円高になると自動車業界などの輸出産業が痛手をこうむる。そうすると景気がさらに悪くなる。株価も安くなる。やや小康状態を保っている日本経済に悪影響がでかねない。これでは困るというので政府・日銀はこの数ヶ月間、前代未聞と言えるほどの市場介入をおこなっている。

 市場介入というのは、つまり円を売ってドル(米国債)を買うのである。どのくらい買ったかというと、この9月間で、1350億ドル以上だという。日本円にして、14兆円以上の金を使って、政府・日銀はドルを買ったわけだ。これだけドルを買い占めても、まだまだ円高が続く。9月末には日本の外貨準備高は6000億ドル(66兆円)を越えた。これは日本政府のまる一年分の予算に等しい。ダントツの世界一だ。

 円高だというが、ほんとうはドル安である。ヨーロッパでは恐らくユーロ高とは言わないだろう。ところが日本ではドル安を円高という。そして円が高すぎるので、下げなければならないと誰もが考える。政府が円高是正のためにお金を湯水のように使っても、だれも目くじらを立てようとしない。こんなことは他の国では考えられないことだろう。

 何故なら世界の人々は、ドルが安いのはアメリカがドル札をたくさん刷って、世界にばらまくからだと知っているからだ。アメリカは2003会計年度(2002年10月〜2003年9月)の財政赤字が、過去最大の4550億ドル(約53兆円)に達し、今後数年間でその累積は1兆ドルを超えるだろうといわれながら、国防費は2001年の実績ですでに、世界の2位から11位までの10か国の合計にほぼ等しい水準にあるが、04年度の国防費は前年度に比べ4.2%増の3799億ドルが求められた。こうして世界一強力な軍隊を持ち、さかんに戦争をする。しかも大減税と称して、アメリカ国民に総額で総額3500億ドル(約41兆円)もの小切手をばらまいている。

 どうしてそんな無謀なことができるのか。それは日本がアメリカ政府が印刷したお札(米国債)を先回りして回収してくれるからである。そのおかげで、アメリカ国民は気前よくお金を使い、資源やエネルギーを大量に消費することができる。実に滑稽な国際分業だと言わなければならない。

 日本政府はドル札(米国債)を買うために、その資金を準備するためのお札(国債)を発行しなければならない。これを日本の機関投資家に買わせて、そのお金でアメリカが印刷したお札(国債)を買うのである。政府は公共事業や役人が天下りするための特殊法人のために大量の国債を発行してきたが、最近はそれよりも遙かに多くの借金をアメリカのドル買いのためにしている。この9カ月で14兆円あまりもである。

 もしこのお金の5分の1を教育に回したらどうだろう。文部科学省・生涯学習局によると、高等教育への公財政支出の対国内総生産比は日本0.5%,アメリカ合衆国1.1%,イギリス0.8%,フランス1.0%,ドイツ1.0%で,ほかのOECD諸国と比べても最も小さい。金額にすると3兆円と少しである。日本の高等教育にこれだけのお金しか使わず、アメリカの国債を買うために15兆円も使うのはどう考えてもまともな神経だとは思えない。

 アメリカの国債を買うために、日本の国債を買わせる。そうするとどういうことが起こるか。一つだけ例を上げておこう。厚生省は年金積み立て金147兆円のうち、112兆円を「財政投融資金」に、残りの35兆円を「年金資金運用基金」で運用している。こうした厚生省の傘下の特殊法人が国債や株に投資し、あるいは豪華な保養施設などを建てて赤字を垂れ流している。そのあげく、昨年度は何と3兆608億円もの欠損を出した。年金改革が叫ばれているが、こうした各種の財団に天下り、年金を食いつぶしながら甘い汁を吸ってきた官僚の責任は大きい。

 こうして、何兆、何十兆というお金が惜しげもなく垂れ流されている一方で、教育費はどんどん削られ、その負担が国民にしわ寄せされている。文部省・生涯学習局によると、大学在学者に占める私立大学在学者の比率は日本が77.5%であるのに対し,アメリカ合衆国は35.1%,フランスやドイツでは私立が極めて少ない。また,イギリスの高等教育機関は,中世以来,大学が伝統的に国王特許の形で設立されているため,形式面では私立に分類されるが,運営費の大半を公財政で負担しており,実質的に国立として機能しているとのこと。人を育てることこそが、最大の投資である。このことについて、私は以前に朝日新聞「声」の欄に拙文を投じた。これを最後に引いておこう。


    ------------- 教育への投資、政治は考えよ -------------

 少子化の影響で、児童生徒の人数が減りつつある。そうした中で、文部省は5月に協力者会議の報告をうけて、「30人以下学級の実現」を見送る方針を決めた。教員の新規採用が減り、ますます教員の高齢化が進む。これでは学校の活力が保たれない。

 明治の開国以来、日本がここまで発展したのは、政府が教育に金をかけたからだ。明治時代に日本を訪れた外国人が感心したのは、小学校の立派な建物だった。役所より学校の建物に金をかけて、それらは今も全国に文化財として残っている。さらに総理大臣以上の高給を払って外国人の教師を雇った。

 戦艦や戦闘機に金をかけるようになって、日本は傾いた。その傾向は戦後も続いている。日本の学校の何と殺風景なことだろう。建物だけ見たら、刑務所と変わらない。

 政治家は自分の選挙のことしか考えない。学校や教育に金をかけても票に結びつかないのである。空港やダムや道路を造れば身内や業界がもうかる。国民の血税でわけの分からないものをいっぱい造って、借金の山までつくって、それでも票さえ手に入れば涼しい顔である。

 こんな無責任な政治家たちと、その息のかかった役人たちに、この国の舵取りを任せておいてよいものだろうか。総選挙では、各党の教育に対する取り組みに注目したい。
  (朝日新聞「声」2000,6,16)


2003年10月13日(月) こうもりの空

21.逃亡者

 学校を休んでも、一時しのぎにしかならない。不審を抱いた先生は、いずれ家にやって来るだろう。私は外出用の手提げ鞄を押入から取り出して、衣服やズックなど、当面必要と思われる日常品を詰め込んた。準備を整えてから再び寝床に潜り込んだ。それから、寝床の中で耳を澄ませた。

 先生が来たのは、午後になってからだった。
「ごめん下さい」
 階下の玄関口の声を聞いて起きあがると、私は手荷物を抱えて隣の縁側に出た。窓ガラスを開け、隣家の屋根伝いに逃げ出すつもりだったが、運悪く裏庭で日向ぼっこをしている祖母と目が合った。

 私はとっさに部屋に引き返して、押入に逃げ込んた。天井板が外せることを知っていた私は、そこから天井裏に逃げることにした。押入から天井裏にはい上がると、屋根裏は真っ暗だった。目が慣れてくるにつれて、ぼんやりと様子が浮かび上がってきた。屋根の梁や腰板の隙間からわずかに明かりが差し込んでいた。

 私は天井板を直接踏まないように注意しながら、梁の上を移動し、その上に腰を下ろした。そして息を殺すようにして、足下の天井板越しに聞こえてくる音に耳を澄ませた。かなりしてから、母が呼ぶ声がした。

「裕ちゃん、裕ちゃん」
 声の感じから母がいっさいを了解したことを知った。母はさらに幾度か私を呼んたが、やがて諦めて階段を降りていった。私が窓から逃げ出したと思ったに違いない。

 私は梁の上を移動して、節穴の一つから外を眺めてみた。そこから通りの向かい側の布団屋さんの看板や、店先の様子が見える。屋根越しに足羽山がまるで望遠鏡を覗くように近くに見えた。しかしそんな眺めを楽しんでいる余裕はなかった。この先の身の振り方を考えなければならなかった。


2003年10月12日(日) ノー・ルッキング・バック

 1998年 アメリカ映画「ノー・ルッキング・バック」をビデオでみた。派手なアクションがあるわけでもなく、登場人物もどこでもいそうな「普通の人々」である。描かれているのは、陳腐な男女の三角関係。過激なセックスシーンがあるわけでもない。しかし、こうした欠伸がでそうになるほど静かな映画もたまにはいい。どちらかというと私好みの、人生をしみじみと感じさせる佳作だといえよう。

 舞台はニューヨーク州ロックアウェイ・ビーチ。時が止まったような静かな田舎町で、くすんだ色の通りには人気もあまりない。そんな町で生まれ育った主人公のクローディア(ローレン・ホリー)は、これという取り柄のない地味な町の青年マイケル(ジョン・ボン・ジョヴィ)と同棲しながら、町のさびれたレストイランでウエイトレスとして働いている。

 マイケルは働き者だが、それほど収入がありそうではない。二人の楽しみは町のパブで仲間と酒を飲んで人の噂話をすることくらい。クローディアはたまには町の外へ出てレストランで食事をと思うが、マイケルはそうした贅沢は自分たちにふさわしくないと考えている。

 そんな田舎町に、マイケルの親友で、クローディアのかっての恋人だったチャーリー(エドワード・バーンズ)が戻ってきた。チャーリーは4年前にクローディアを捨てて、一人でニューヨークに行ったま音信もなかった。マイケルはチャーリーに会い、現在自分がクローディアと同棲していること、もうすぐ結婚することを打ち明ける。チャーリーは驚くが、「そう長く町にいるつもりはない」言って、マイケルを安心させる。

 しかし、チャーリーは毎日のようにクローディアの働いているレストランに顔を出す。そして、「こんな田舎町にうもれていていいのか。いつか町を出たいと言っていた君の夢はどうした」と甘い誘惑の言葉を吐き続ける。マイケルとチャーリーは親友だが、性格も生き方もまるで違う。真面目で誠実なマイケルにたいして、チャーリーは甘いマスクをしていて、どこか自由な遊び人風で、物腰や言葉使いが都会風に崩れている。

 チャーリーは以前にもこうしてクローディアを誘惑し、妊娠させ、堕胎させている。そうした前科があるので、「もう二度と傷つけられるのはごめんだわ。私はもう夢ばかりみていた昔の小娘ではないのよ」とチャーリーを拒む。チャーリーから「こんな生活で良いのか」と言われて、「それでは、あなたの夢はどうなったのよ」とニューヨークから舞い戻った彼に逆襲する。

「君のことが恋しくなって戻ってきた。一緒に町を出よう。都会で僕たちの可能性を試そう」
「もう、そんな夢を見る気にはなれない」
「毎日そうしてマイケルのパンツばかり洗っているのか」
 女たらしのチャーリーは女を誘惑するツボをしっかり心得ている。クローディアの気持が少しずつチャーリーに傾く。

 クローディアは休日にマイケルの実家に行くたびに「いつ結婚するの」と彼の母親に訊かれる。彼の兄弟達はテレビでフットボールをみて時間を潰すだけ。人生に何一つ疑問を抱かず、真面目なだけが取り柄の視野の狭いマイケルにも不満が募ってくる。マイケルと結婚して、この小さな田舎町で主婦として退屈な色あせた人生を生きるのかと思うと息が詰まりそうになる。そして、その満たされぬ思いが、チャーリーの出現によって顕在化し、次第に心の中で増殖し始める。

 実はクローディアは4年前に堕胎した後、合併症を起こして、二度と子供を産めない体になっていた。しかしそのことは誰にも打ち明けていない。これがマイケルと同棲しながら、結婚に踏み切れない理由の一つでもある。このことをマイケルに話そうにも、なかなかその機会がない。事情を訊こうともせず結婚を焦るマイケルとクローディアの間に口論が起こり、二人の間の心理的な溝が深まっていく。

 そんなある日、クローディアの方からチャーリーに会いに行く。「きっと君は来ると思っていたよ」と優しい微笑を浮かべるチャーリー。そして彼は海の見えるテラスで真顔になって、「もう二度と君を傷つけない。一緒にこの町を出よう」とやさしくクローディアを抱き寄せる。数日後、クローディアはチャーリーの車に乗り、隣町のレストランへ。そしてそのあと、ホテルで二人は4年ぶりに結ばれる。

 その間、マイケルはクローディアを求めて夜の町を探し回り、一睡もせず、クローディアの帰りを待ちかまえる。そしてチャーリーに送られて朝帰りしてきたクローディアをみると、涙を浮かべたまま、「荷物をまとめて出ていってくれ」と言い渡す。家を出て、車の中でクローディアは嗚咽する。実は、まだマイケルと別れる決断ができていなかったのだ。マイケルから決定的な一言を言われて、途方に暮れている。しかし、おおくの人は彼女に同情できないのではないだろうか。

(やれやれ、女たらしのチャーリーの手管に乗せられて、とうとうマイケルを失ったじゃないか。マイケルが怒るのも無理はないよ。見ていられないね。クローディアが再びチャーリーに捨てられ、もっとヒドイ目にあうのはもう目に見えている。たしかにマイケルは夢のない男だが、誠実さだけはもっている、視野は狭いが、堅実な働き者じゃないか。マイケルとの平穏無事な生活のどこに不満があるというのだ。いつまでも人生を夢見る女学生気分の抜けない馬鹿な女だ。人生を甘く見すぎているよ)

 フローベルの「ボバリー夫人」を最大の傑作の一つに数えている私は、クローディアに同情しないわけでもない。しかし、このあとの展開に危惧をいだいた。マイケルを捨てて、チャーリーに走るのではつまらない。これではボバリー夫人やアンナ・カレニナの二の舞である。ここはやはり、クローディアにもっと別の、すばらしい人生の決断をしてもらいたい。

 映画は私の期待どおりになった。マイケルとわかれたクローディアは実家に帰り、母親から「自分を大切にしなさい」(Take care of yurself)と言葉をかけられる。黒のピーコートを着てじっと海辺に佇むクローディア。東海岸の空と海を背景に、彼女の物思いに沈みながら真剣に思索する姿が印象的だ。このあと、彼女はチャーリーに会い、自分が一人で旅に出ることを宣言する。

「これが僕に対する復讐なのかい」といぶかるチャーリーに、
「これはあなたともマックスとも関係がないの。私自身の人生の問題なのよ」
 と静かな笑顔で返すクローディア。
「君はこれから、ほんとうの自分を捜しに行くんだね」
 チャーリーの声に送られて一人で車に乗り込み、静かな田舎町の秋の風景の中を去っていくクローディアの表情はいかにも溌剌としていて美しい。

 最後まで見れば、彼女の行動に納得できる。それだけの説得力を、この映画持っていると思う。監督、脚本はエドワード・バーンズで、なんと女たらしのチャーリーを演じた男が監督ではないか。このエドワード・バーンズという男、若いのにたいした男である。シナリオもよくできていて、文才もありそうだ。今後の作品が楽しみである。


2003年10月11日(土) フィンランドの文化

 フィンランド人はフン族の末裔だという。フン族とは中央アジア・キルギス高原にいたアジア系遊牧騎馬民族で、中国では「匈奴」と呼ばれた。フン族は4世紀後半にカスピ海北方経由でドン川を越え、ゲルマン諸族中最東端の東ゴート族を征服(375年)。他のゲルマン諸族を触発し、「ゲルマン民族の大移動」を引き起こした。

 5世紀にはヨーロッパを席巻し、アッティラ大王(在位 433-453)の下、ドナウ川中流域のパンノニア地方(現ハンガリー)に大帝国を築いたが、大王の死後に内紛と疫病が原因で帝国は崩壊した。ちなみに、「ハンガリー」もまた「フン族の国」の意味だ。

 地図の上でみると、フィンランドと日本は東西に離れているが、地球儀を上から覗くと、これが意外に近い。北極海を挟んでほとんど「隣国」と言ってよい。もしフィンランド人がモンゴル人と兄弟なら、日本人とも兄弟だということになりそうだ。フィンランド人のお尻にも蒙古斑がるという話を聞いたが、これは俗説だろう。混血が進んで碧眼・金髪になった現代のフィンランド人はどこからみても北欧ヨーロッパ人である。フン族の痕跡をもっとも残しているのはフィンランド語ということになりそうだ。

 フィンランド語は「ウラル・アルタイ語」に属するが、日本語とも音が似ている。フィンランド語を発音するには、日本語式にローマ字読みすればよい。たとえば、「豚」のことをフィンランド語では「シカ」、「狼」のことを「スシ」、「鶏」のことを「カナ」と言うらしい。又、フィフィンランドで男性に多い名前は、「ミカ」「アキ」「アリ」などで、日本の女の子の名前に似ているのだという。

 先進国の中で一番森林率が高いのはフィンランド(68.5%)で、日本は第2位(66.4%)である。日本と同様、フィンランドの家は木造がほとんどで、多くのフィンランド人はこれを自分で建てる。家だけではなく、家具を作ったり、内装をしたりも家族や親戚でするらしい。何でも自前でするという手作りの文化を尊重する伝統があるようだ。そして、フィンランドの生活に欠かせないのが「サウナ」である。実は「サウナ」というのはフィンランド語らしい。フィンランドに留学している堀内都喜子さんの「フィンランドEメール日記」から引用しよう。

<さて、その家の中だが、日本との意外な共通点がある。それは、土足を玄関で脱ぐこと。スリッパなどは、はかない。こちらの家のいいところは、いわゆるセントラルヒーティングといわれる電気による暖房。トイレを含む全ての部屋に設置されており、温度の設定も自由で簡単、家全体が暖かい。最近は暖炉も人気で、多くの家の居間に見られる。そして、こちらの家にかかせないもの、それは、サウナ。最近はサウナも24時間風呂ならぬ24時間サウナというのがある。常に電気で暖められており、ヒーターの蓋を開けるだけで、すぐにサウナに入れる。光熱費もそれほどかからないとのことである。

 サウナはフィンランド人にとって、単に体を洗う場所ではない。とても神聖な場所であり、つい50年ほど前までは出産はサウナで行われていた。そして大事な政治会談や商談の場面でもサウナは使われ、家庭では家族全員が一緒にサウナに入る。サウナはまさに「裸の付き合い」をする、大切な社交場でもある。

 実は、日本にあるサウナも、フィンランド製であることが多い。だが、フィンランド式サウナの入り方は、日本のとは少し違う。まず、サウナに入る前はシャワーで体の垢を落とし、髪も濡らす。サウナに入ってからは、タオルのひいてない、木のベンチに座る。こちらのサウナの中は普通80度〜100度。時々バケツから水をひ杓で、ストーブの上のジリジリ熱くなっている石に勢いよくかける。すると、ジュワーッと一気に蒸気が上がり、顔や体がその熱い蒸気に襲われる。

 しかし、サウナは神聖な場所なので大騒ぎは禁物。じっと熱さに耐えるか、周りの人と静かに話しながら何度かこの作業を繰り返す。その時に「ヴィヒタ」で、体を叩くのもまた、良い。これは白樺の木の枝を束ねたもので、見た目とは別に、試してみると全く痛くなく、マッサージといった感じで気持ちいい。また、白樺の枝から何ともいえない新鮮な木の香りがして、気分を落ち着かせてくれる。

 やがて、熱さにがまんできなくなったらサウナの外に出る。その後は冷たいシャワーを浴びるもよし、外に出て涼んだり、湖や海が近くにあればそこで泳ぐもよし。冬だったら、雪の上で寝転んだり、勇気があれば、氷の張った湖で泳ぐのもいい。そして、体が冷えてきたらまた、サウナに入って温まる。これを好きなだけ(普通は2、3回)繰り返し、最後に体と髪を洗う。その後はビールを飲んだり、アイスを食べたりしてゆったり過ごす。これがフィンランド式サウナの入り方。ちなみに、男女混浴でない限り、サウナには裸で入る。

 最近では様々な装置の付いた豪華なサウナや、24時間いつでも入れるサウナというのもあるが、「湖沿いにあって、薪で暖める伝統的なサウナ」というのが、フィンランド人の理想のようである。

 フィンランド人は別荘に行っては湖で泳いだり、日光浴を楽しむ。別荘を持つのと同じように、多くの人が手漕ぎボート、モーターボートも所有しているので、釣りにもよくでかける。自分たちだけの静かなプライベートな時間を楽しみ、のんびりと過ごす。こんな風に書いていると別荘で休暇なんてうらやましいばかり!と思えてくるが、いいことばかりではない。

 まず、別荘に行ってすべきは掃除。さらに周りに自然があるのはいいが、夏はハエ、カ、アリが大発生。常に虫との追いかけごっこがつきものだ。そして水道が無い場合は水をたくさん持っていかなければならないし、たいてい店は近くにないので食料もたくさん買い込んでいかなければならない。維持にはお金も手間ひまもかかる、というのが現実。

 もちろん賃貸の別荘も最近増えているが、それでも自分の別荘を持つのはフィンランド人の夢。文明から離れて自然の中で休暇を過ごすのはフィンランド人にとってなによりも大切なことなのだ>

 フィンランドは社会制度が整っていて、日本ほど労働時間が長くなく、職場と家が近いので生活にゆとりがあるようだ。仕事の成功や昇進よりも家族の生活や自分の時間が大切だと考える人が多いという。子供の教育にはお金がかからず、老後は政府が面倒をみてくれるので、お金を貯めようという発想はなく、現在の生活を心ゆくまで楽しめるのだろう。個人金融資産を1400兆円も貯め込みながら、失業の恐怖におびえてあくせくと働き、あげくのはてに年金制度が崩壊しそうだというどこかの国とは随分事情が違っている。


2003年10月10日(金) こうもりの空

20.仮病

 朝方目を覚したとき、頭が重いようだった。それですぐには起きあがらずに、床の中でぐずぐずしていた。様子を見に来た祖母に、
「頭が痛いんだ。体温計を持ってきて」
 祖母は私の顔色を見て、うなづいた。本当に病気だと思ったようだ。

 私は祖母の持ってきた体温計をしばらく口にくわえた。しかし思うように体温は上がらない。むしろ平熱よりも低いくらいだった。私は祖母の目を盗んで、こっそり体温計を逆さに振った。そうすれば水銀柱を引き伸ばすことができる。三十八度を超えたところで、祖母に見せた。

 祖母が下に降りて、しばらくすると母が来た。
「寒気がするんだ」
 私はそう言って布団を頭から被った。母の手が私の額に伸びて来るのを未然に防ぐためだ。母はため息をつくと、
「学校に欠席連絡しないと。佐藤先生だったわね」
 佐藤先生と聞いて、私は布団から顔を出した。

「葉子ちゃんに学校を休むからって、言伝てして貰えばいいよ」
 私の家には電話はなかったが、近所の公衆電話からかけられると昨日のことが露見すると思った。
「だったら、あなた自分で行っていらっしゃい」
 勢いよく布団から顔を出した私を見て、母は私の病気が軽いと見たようだった。私も渋々起き出さないわけにはいかなかった。

 葉子を班長とする集団登校のメンバーははすでに集まっていた。葉子は大きな目でじっと私を見つめたが、何も言わずに黙ってうなずいた。私はほっとした。
 帰り道、振り返ると葉子たちの一団がゆっくり遠ざかるのが見えた。
(今ならまだ間に合う)
 私は後悔の念に襲われた。今日学校を休めば事態はさらに不利になるのは目に見えている。しかし学校へ行く気にはなれなかった。


2003年10月09日(木) フィンランドの学校

 フィンランドの小学校は6年間、中学校は3年間。日本と同じだが、違うのは2ヶ月以上の長い夏休みがあり、その間、宿題もほとんどないとのこと。ただフィンランドでは小学校3年から英語の授業が始まる。高学年になると選択授業として、第二外国語(主にドイツ語、フランス語)が週に1,2度、学べるようになっている。また、「宗教」の時間があり、自分の宗教や他の宗教について基本的なことを学ぶという。

 フィンランドとは「フン族の国」ということで、ハンガリー(ハン族の国)と同様、他のヨーロッパとは毛色が違っている。フィンランド語も発音は母音で終わるなど日本語に近く、文の構造もインド・ヨーロッパ語(英語)とはまったく違っている。しかし、フィンランド人は英語に堪能で、20代、30代の人で英語が話せない人はまずいない。この点、日本とはずいぶん違っている。

 日本でいう英検やTOEICといった英語のレベルをはかる試験はないが、これは高校を卒業すれば英語ができて当たり前と考えられているからだ。高校に入ると、英語やスエーデン語などに加えて、第3外国語が必修になり、さらに第4外国語も学べる。大学ではどんな言語でも、何カ国語でも勉強できる。だから、多くのフィンランド人は母国語を入れて英語、スウェーデン語、そしてもう1つ又は2つ、全部で4カ国語以上できる人が多いという。

 フィンランドの学校はすべて公立で、授業料はいらない。また入学試験もない。高校はだれでも入れるが、しかし卒業はむつかしい。卒業するときには、全国共通の卒業試験があり、この難関を突破しないと卒業できない。だから高校には本当に勉強が好きで、大学に進学したい人が通い、他の人は職業訓練校に進むようだ。大学入試には高校卒業試験の成績が使われる。大学の人気のある学科に進学しようと思えば、この試験で好成績をマークしなければならない。

 フィンランドの大学はまったく学年がなく、学部や大学院の垣根もない。日本の大学とシステムがかなり違う。1年のうちに取るべき単位数、科目は特に決められておらず、自分の勉強したいことが自由にできるようになっている。そして入学して160単位をとると、修士がもらえる。そして更に研究を続けたければ博士課程に進むことができる。

 学部の垣根もなく、他の学部の授業もとれる。授業料は無料なので、中には10年以上かけてゆっくり修士をとる人もいる。授業は基本的にはフィンランド語で行われるが、英語で行われる授業も100以上あるという。留学生にとってはありがたいようだ。

 この国では学生はとくに優遇されている。一人暮らしの学生であれば、毎月約5万円の生活援助が誰でも受けられる。返済義務もないので、ほとんどの学生が利用している。学生証を見せれば、公共交通機関の運賃や学内での食事が半額になる。したがって、フィンランドの学生は金銭面で親に全く頼っていない。18歳になったら親とは別居するのがふつうだという。しっかり自立できるシステムが社会的にできているわけだ。またフィンランド人は早いうちからこうした自立心を養う社会環境に身を置いている。

 たとえば、フィンランドの小中高の学生は2カ月半、大学生は3カ月の休みがあるが、小学生を除けばたいていだれもがアルバイトに精を出す。中学生や高校生は畑で果物や野菜の収穫を手伝ったり、市が斡旋する街の清掃や公園整備の仕事に精を出し、こうして自分で稼いだお金で旅行したり、欲しいものを買う。

 大学生に人気なのは企業でのアルバイトだという。フィンランドの企業は社員には1カ月の夏休みが義務付けられている。その穴埋めとして、大学生が雇われるわけだ。企業は労働力不足をこれによって補うばかりではなく、将来の人材を育成することにもなる。学生にとっても企業での仕事体験は将来の方向を決める上で役に立つ。フィンランドではこうして日本では考えられないほど、夏にアルバイトをする学生が多いし、それを雇う企業や公共機関も多い。こうして早いうちから労働を体験し、社会性を身につけて自立する準備をしているわけだ。こうした労働を通した人生体験が学校での「勉強」の動機付けともなり、ほんとうの「学力」を身につける培地にもなっているわけだ。

 (参考サイト)「フィンランドEメール日記」http://www.shinshu.co.jp/lensai/finland/index.html


2003年10月08日(水) フィンランドに学ぶ

 最近ヨーロッパで「フィンランドに学ぼう」という機運が高まっている。OECDが毎年発表している「競争力の世界ランク」は2001年にはアメリカを抜いて堂々第1位だし、2002年もアメリカに次いで第2位である。ちなみに日本は23位に低迷している。

 フィンランドは人口500万あまりの小国だが、ノキアなどの世界的企業を持つている。冬季オリンピックでは金メダルを7個もとるし、インターネットホスト数の割合ではアメリカ、アイスランドについで世界第3位だ。インターネットによる情報収支の面では、アメリカをも凌駕しているといわれている。つまり自分の国から外国にアクセスする量よりも、外国からアクセスされる量の方が圧倒的に多いわけだ。

 インターネットは巨大なデーターベースである。そして世界に通用する有用な情報はほとんどアメリカのサイトに集中している。小国のフィンランドにそれほど人を惹きつけるようなデーターベースが完備しているとは思えない。にもかかわらず、外国からのアクセスが多いのは、フィンランドにアクセスすると、そこから有益なリアクションが得られるためである。

 フィンランド人の多くはインターネットの標準語ともいうべき英語を自由に使い、個性的で示唆に富む意見を述べることが出来る。そうした内容のある対話や会話を求めて、外国から多くの人がフィンランドのサイトを訪れる。こうしたことから分かることは、インターネット時代に大切なのは一人一人の個人の人間的魅力だということだ。

 アメリカのような競争至上主義をとらない福祉型国家であるフィンランドがなぜこのように経済をはじめ様々な面で国際的な競争力を発揮しているのか。その秘密は教育にある。この点について報告している「ドイツ・ギムナジウム教師連盟機関誌、2002年11月号」からフィンランドの教育の特徴について引用しよう。

�� 学校あたりのの生徒数が少ない---- フィンランドでは40%の学校が生徒数50人以下である。生徒数500人以上の学校はわずか3%にすぎない。

��多様な職員構成---- 校長、教員、専門科目教員の他に、看護婦、学校心理学士(個々の生徒の心理的問題を適時に認知し、助言、援助を行う)、特殊教員(授業中の生徒を観察し、教員に助言したり、自分が別個に授業についていけない生徒やグループの面倒をみる)、学校アシスタント(生徒数が大きい学級にアシスタントを入れる)。

��十分な補充教員数----学校設立母体が十分な補充教員をもち、教員が病欠した場合にはすぐに代理授業が出来るため、授業の欠落が大幅に減少。

 こうした教育改革がこの10年間にわたりフィンランドで実施されてきた。その結果、経済協力開発機構(OECD)が世界32カ国の15歳の生徒の総合的な学力を測る学習到達度調査(PISA)でもフィンランドはトップに立っている。たとえば学力の中心に位置する「読解力」の順位を紹介しておこう。

(1)フィンランド  546点
(2)カナダ     534点
(3)ニュージーランド529点
(4)オーストラリア 528点
(5)アイルランド  527点
(6)韓国      525点
(7)イギリス    523点
(8)日本      522点
(9)スウェーデン  516点
(10)オーストリア  507点

 日本は中位より少し上の生徒が多かったため8位にランクされているが、他国に比べて記述式の問題に「無回答」が多かったという。たとえば「落書き」について書いた文章を読ませ、内容を問う問題では、無回答は29%で最多だった。「分からないものには手を出さない傾向。意欲のなさの表れともとれる」(文部省)ということらしい。

 フィンランドのような国民一人一人に行き届いた教育をするにはお金がかかる。そこで次ぎにOECDが発表した教育機関への公的支出対GDP比(1997年)をみてみよう。

(1)スウェーデン(6.8%) 
(2)ノルウエー(6.6%)
(3)デンマーク(6.5%)
(4)フィンランド(6.3%)
(5)ニュージーランド(6.1%)

 ちなみに日本は28国中の27位(3.6%)にランクされている。国家100年の計は人を育てることだという。教育への投資こそ国家が繁栄する要件だと思うが、この点で日本は決定的におくれをとっている。これもまた政治の貧困だというしかない。

 フィンランドに在住する日本人のHPをみると、フィンランドにもパソコンやインターネットに熱中するいわゆる「おたく族」はいるという。しかし、日本のような「ひきこもり」は少ないという。これを最後に引用しておこう。

<彼らが、日本でいうひきこもりに当てはまるのかはわからないが、それでも日本と比べれば、ここは「ひきこもり」が少ない国である。その理由はいろいろあるが、まず、18歳を過ぎて親と同居する若者がほとんどいないこと。経済的にも精神的にも自立するように早くから求められているので、若者は家を出て、一人暮らしを始める。親も親で、子供が出て行くのは当たり前と割り切っているので、18歳以上で親と同居するのは恥ずかしいこと、と考えられている。

 もちろん一人暮らしをはじめたら、ひきこもってばかりはいられなくなる。そしてこの国にはあまり競争がない。高校受験はないし、大学受験に関しても日本とシステムが違う。大学に入るのは厳しいが、大学間の優劣の差が全くなく、大学以外にも勉強できる場所はたくさんある。18歳を過ぎたら皆、進む方向はバラバラ。すぐ大学に入る人もいれば、しばらくいろいろな経験をして何年後かに大学に入る人もいる。就職も10代でする人もいるし、30歳を過ぎて初めて職につく人もいる。>

(参考サイト) http://web.hhs.se/personal/Suzuki/o-Japanese/Finland.html


2003年10月07日(火) わたしのケチケチ人生

 来年から大学が法人化され、国立大学の授業料が20万円ほど値上がりしそうだという。わが家にが該当者が二人いるので、あわせて40万円ほどの値上げだ。給料のベースアップは期待できそうもないから、これはかなり苦しいことになる。

 家計を切りつめると言っても、そもそもわが家の場合はかなり質素な暮らしをしているから、これがなかなか難しい。ちなみに私の場合をあげれば、眼鏡もネクタイも100円ショップで買ったものを愛用している。散髪は自前でする。酒も飲まなければ煙草もすわない。

 日曜日の外出は木曽川河畔のような歩いていけるところ。最大の楽しみは公立図書館へ行って本を読むこと。滅多に本や雑誌は買わず、ほとんど図書館で借りることにしている。旅行も青春18切符の旅で2泊3日の費用は1万5千円。使っているパソコンは8年前に買ったものだし、通勤に使っているカリーナはもう15万キロほど走っている。これをあと二年は乗るつもり。まあ、こんな具合だ。

 私は人生を楽しみむためにお金はいらないと思っている。これはやせ我慢で言っているのではなく、本心でそう思っている。消費よりも生産的な活動の方が楽しい。こうして文章を書いているのもその一つだ。あと人と会って会話をたのしむ。散歩しながら風景を眺め、あれこれ人生の問題を考える。そして俳句や短歌をつくる。こうした活動にはほとんどお金はかからない。

 しかし、やはり生活するのにお金は必要だ。とくに家のローンがあるのがつらい。次ぎに厳しいのが子供の教育費だろう。これで私の収入の大半が消えて行ってしまう。なんとも馬鹿らしいことである。家を一軒持ち、子供を育てるのにこれほどコストがかかるのはおかしい。こうしたことは恐らく日本という国の政治の貧困に由来するのだと思っている。

 小泉首相は国と地方との関係を見直すと行っている。いわゆる「三位一体の改革」と呼ばれている。「地方自治の重視」と言えば聞こえはよいが、実態は教育や福祉は地方に任せてに国はもうお金を出しませんということだ。その象徴が「義務教育国庫負担制度の解体」だろう。

「三位一体の改革」では、地方へ財源移譲をうたっているいるが、問題はその額が充分でないことである。ほんとうに地方住民の福祉の向上のためになされる改革ではなく、その動機が国の財政再建ということだからこんなことになる。「改革」は必要だと思うが、その方向性が問題である。「小泉改革」のまやかしに騙されないで、私たちは生活優先の立場から、ほんとうの改革を要求していかなければならない。


2003年10月05日(日) どこかの街角で

 秋らしい好天気が続いている。昨日は昼頃、妻を誘って木曽川の堤を歩いた。河原にところどころ曼珠沙華が深紅の彩りを添えていて、じっと見つめていると、何か異境に来たような錯覚に捉えられた。

 地面からまっすぐ立った赤い異形の花々が、地から生えた無数の人の手のようにも見えた。その手が苦悶の形をして何かを訴えている。

  曼珠沙華むらがり生えて何さけぶ異界風吹くすすきの河原

 河原を歩いているうちに、やがてその光景にも慣れて、秋の日差しで汗ばんだ肌にふきつける風が快い。せせらぎの音、風になびく草や木々小鳥の囀りが私たちを爽やかに包み、足下からはバッタが飛び立ち、赤トンボがすすきの上をすいすいと流れて行く。青空が心にしみてきた。

 河原を歩いた後、街に戻ると、どこからか金木犀の甘い匂いがしてきた。

  街角を曲がれば匂う金木犀信号待ちの少女がひとり  

 平和な日本に暮らしていると、この平和のありがたさが分からなくなる。豊かな日本に暮らしていると、この豊かさのありがたさに鈍感になる。世界には大勢の飢えた人々がいて、今も戦争で家族を失ったり傷ついた人たちがいる。1億人以上の子供たちが学校に行けないでいる。そんなことを考えているうちに、「どこかの街角で」という詩ができた。

  どこかの街角で
  木犀が薫っている

  どこかの街角で
  少女が信号待ちをしている

  どこかの街角で
  少年がひもじい腹をかかえて
  父親の帰りを待っている

  どこかの街角で
  母親が飢えた赤ん坊をあやしている

  どこかの街角で
  足のない男が死んでいて
  蟻が一匹
  蝶々の羽を運んでいる

  どこかの街角で
  ピアノが閑かに鳴っている


2003年10月04日(土) 俳句で綴る旅日記(19年前の日記)

 1984年7月26日(木)朝5時、瑞陵高校前に集合。M先生の車で出発。名四国道、名阪国道を抜けて大阪に入る。さらに神戸、岡山を経て吉備路に着いた時には夕方6時に近かった。茶店のおばさんにシャッターを押して貰って、吉備津彦神社の前で、M先生と二人、写真に収まった。さらに、吉備津神社に行った。

  吉備路来て古き社でみそぎかな

 その夜は、倉敷の石山花壇という宿に投宿。翌朝7時半、宿を出て、倉敷の美観地区を見学。大原美術l館の前で写真撮影.郷土玩具館を見て、倉敷アイビースクェアに足を伸ばす。

  倉敷や水辺の楊白き壁

 9時頃に宿に帰り、出発。2号線を走り、高梁川を渡り、円通寺に来る。ここは良寛が21歳から20年間修行した寺だという。

  良寛のゆかりの寺の蝉の声
  石仏は野草のなかにひっそりと
  身を捨てて仏に抱かれし座禅かな

 11時頃、円通寺を出る。スカイラインを通り、鷲羽山展望台へ。眼前に瀬戸内海の島々、船船の姿がある。建設中の瀬戸大橋も見える。鷲羽山を降り、岡山港からフェリーで小豆島の土庄港へ。3時5分着。銀波園でおそい昼食をとる。そこを出て、寒霞渓に4時30分に着いた。馬や猿がいて、そこからの展望もなかなかいい。

  岩肌に波音刻む島の夏
  オリーブの緑も燃ゆる山路かな

 さらに車を走らせて、小説「二十四の瞳」の舞台として有名な岬の分教場に来たときには5時半になっていた。分教場を見学。小さな机と椅子、オルガン。掲示板には廃校になった当時の子供たちの絵が貼ってある。教室の黒板は古かった。かってそこに子供たちのつぶらな瞳が集まっていたことだろう。教壇に立った若い女教師の姿もしのばれる。隣の教室には、松竹映画「二十四の瞳」のスチール写真や、原作者壺井栄の生い立ちを紹介したパネルがある。壺井栄はこの分教場の近くの平手の出身だそうである。

  二十四の瞳集めし古き黒板(いた)
  潮騒の磯の香やさし分教場

 土庄の宿、たか根荘に着いたのは6時半だった。ビーチホテルというだけあって直ぐ前の海岸が海水浴場になっている。一泳ぎしたかったが、その時間はない。
 もっともM先生はカナヅチだそうである。そこで5分間で泳げる秘訣を伝授することにした。

「ただ、水に身を任せて、仰向けに寝ればいいのです」
「それで沈まないの」
「必ず浮きます。あとは手足を動かせば、前に進みます」
「ほんとうかな」
「大切なのは信じきって水に身を委ねるということですよ」
 M先生は永平寺で修行したという曹洞宗のお坊さんである。水泳も禅も極意は一つであろう。
「一法は万法に通じ、万法は一法に通じる、というでしょう。たしか道元の……」
 私が言うと、すかさず、
「正法眼蔵の現成公案にある」
 さすがお坊さんである。宿の大浴場に行って、さっそく実践してみた。中学生らしい四、五人の少年達が見守る中で、
「あっ、浮いた」
 二、三回失敗してから、M先生の体は見事に浮いた。このときの一句。

  坊主一人湯に仰向けに身を任せ

 二人でしばらく水泳に興じた後、部屋に戻り、夕食のご馳走に舌鼓みを打ち、ビールを飲み、プロ野球(中日・巨人戦)を観戦した。それが終わり、卓球場へ行った。

  浴衣着てピンポンを打つ坊主かな

 遊び終わって、また一杯飲み、床に身を横たえて、しばし清談。人間の無明についてのやや高尚な話。映画や良寛和尚の話。浮き世離れした清談は深更に及んだ。

  枕二つ唯仏与仏の禅問答

 翌朝は8時に宿を出て、小豆島の東の端にある福田港へと海岸沿いの道を小一時間。途中の景色が鮮やかだった。小豆島の夏もなかなかのものである。

  オリーブの緑も濡らせ島の夏

 福田港からフェリーに乗り込む。一時間半の船旅である。瀬戸内海は地図でみるのと違ってかなり広い。遠く四国の山脈や本州の山の稜線がかすんでいる。客室は冷房が利いていたが、デッキに出て、二人ともタオルを首に垂らして風景に見とれた。船の旅はそこはかとない旅情をそそるものである。航路に沿って、廃船らしい船がところどころに碇を降ろしていた。

  廃船の姿さびしい海の路

 フェリーが着いたのは姫路港だ。正午過ぎに姫路城に着いた。さっそく城の正面で記念撮影。天守閣の高く典雅な姿が夏の光りに映えている。心を洗うようなその美しさ。順路に沿って見学する。そして天守閣に登った。

  天守閣登ってみれば風の中
  天守閣旅の終わりの白さかな

 修学旅行下見の旅は3日間好天に恵まれたが、帰路、東名阪国道で思わぬ豪雨に逢着した。それでも他の車は高速で走る。闇の中、ハンドルに必死でしがみついているM先生を助手席で眺めながら生きた心地がしなかった。

  ハンドルに預けた命闇の中

 天理インター近くのパークでたこ焼きを食べる。夜10時半ごろ、随陵高校前に無事帰還。ついに修学旅行下見という重責を果たした。これという事故もなく、心楽しい三日間の夏の旅であった。合掌。


2003年10月03日(金) こうもりの空

18.白い紙

 私と茂夫が連れて行かれたのは、四畳半程の日当たりのよい和室で、たぶんそこは宿直室だった。部屋の真中にテーブルが置かれてあった。
 私たちはそこでまた待たされた。

「ごめんな」
 茂夫が小さな声で言った。そして、上目遣いに私を見て、
「僕が悪いんだ。先生に言うよ。君に迷惑をかけないよ」
 私は首を振った。
「僕も食べたんだから、同じだよ。それに、あれから君はやっていないんだろう」
「勿論だよ。今度捕まったらおしまいだと思ったからさ」

 私は茂夫の返事を聞いて、安心した。それとともに、怒りが湧いてきた。
〈こんなことが学校や近所の人に知られてごらん。君たちの一家は夜逃げしなければならなくなるんだよ〉
 デパートの取調室で、男から言われた言葉を私は覚えている。男は続けて、
〈今回だけだよ。もうこんな事はしないと約束できるね〉
 とたしかに言った。

 この男の言葉によって、私は両親にも先生にも今度のことを打ち明けることができなかった。一体この四月間の苦しい葛藤は何だっただろう。
 いずれ学校に通報するくらいなら、なぜそんな思わせぶりな言い方をしたのか。私はそこに大人の狡猾な悪意を感じた。
(先生や両親に話しておけばよかった)
 私は唇を噛んたが、後の祭りだった。

 やがて佐藤先生がスーツを着た上品な感じの紳士を連れて戻ってきた。この人は家庭裁判所から派遣された指導員のようだった。言葉遣いは柔らかだったが、物腰に威厳が感じられた。

「ここに真っ白な紙があるね。今日から君たちは生まれ変わって、この紙のような心に戻って、正直に生きて行くんだよ」
 私たちはしばらく首をうなだれてその白い紙を見つめた。そしてその部屋を出ると、水飲み場で涙の跡を流してから教室に戻った。


2003年10月02日(木) 小豆島の思い出

 小豆島へは3回行った。修学旅行の下見に2回と本番である。もう20年ほど前のことで、私が定時制の夜間高校にいたころだ。その頃、私の勤務する夜間高校は4年生が2クラスだった。下見に行ったのは、この二クラスの担任で、私とM先生である。

 この頃、修学旅行の行き先は小豆島と決まっていたので、あえて下見に行く必要はなかった。予算も降りなかったので、行くとすればすべて実費である。しかし、M先生と私はやはり下見は必要だと思い、自腹を切って、5月の連休中に行くことにした。

 なるべく安くということで、M先生のジェミニで行くことにした。高速道路も使わないことにして、一般道路でのんびり行った。M先生は曹洞宗のお坊さんで、永平寺で1年間修行をしたことがある。やがて教員を止めて寺の住職になるるつもりだという。寺では幼稚園も経営しているらしい。いがぐり頭の感じが、なんとなくジャガイモに似ている。

「僕は高速道路は走ったことがないんだ。こうして信号がたくさんある道路がすきだな。信号のたびに一休みできるだろう。ひとやすみ、ひとやすみ」

 こんな調子だから、早朝に名古屋を出て、大阪を抜け、岡山の吉備路についたのはもう夕方だった。国分寺の五重塔がもう夕闇に包まれていた。その夜は倉敷のホテルに泊まった。翌日は倉敷を見学し、それから玉島の円通寺に行った。円通寺は修学旅行のコースではなかったが、この寺が良寛和尚のゆかりの寺だということで、M先生が是非訪れてみたいと言ったからだ。

 その頃私は良寛が何者か知らなかった。しかし、M先生と円通寺を訪れ、良寛のことをいろいろと聞いているうちに、私は江戸時代末期に越後の庄屋のあととりとして生まれながら突然出家し、やがて寺をも捨てて生涯を行乞に生き、和歌や漢詩やすぐれた書を残したというこの人物に心を惹かれた。これが私と良寛の出合いだった。

 円通寺を出て、フェリーで小豆島に渡り、そこのホテルでさらに一泊した。風呂に浸かり、酒を飲み、ピンポンをしたりしたあと、夜更けまでM先生と語り合った。やはり宗教のこと、良寛のことが中心だった。M先生は寺で道元の「正法眼蔵」の読書会を開いているという。良寛が大好きで、越後の国上山の五合庵にも行ったことがあるという。そんな話を聞いているうちに、ますます良寛への興味が掻き立てられた。

 下見の旅から帰ってしばらくすると、教頭から、「今年から下見に行く金が下りるようになったので、行って来て下さい」と、今度は正式な要請があった。そして私たちは事務で3万円余りのお金をもらった。さらに旅行代理店から新幹線の指定席券がとどいた。「手当が3万円もあるのだから」と、途中の移動はぜいたくにタクシーを使った。前回の自腹の旅とは比べものにならないほど優雅な旅だった。

「こんなに一杯お小遣いをもらって恐縮だね。みんなに豪勢なおみやげを買って帰ろう」ということで、校長や事務にまでおみやげを買い込んだ。ところが旅から帰り、何ヶ月かした頃、旅行代理店から「すみませんが、まだ旅費を頂いていないのですが」と2万円あまりの請求書がまわったきた。私たちが「お小遣い」だと思ったのは、旅行社に払い込むべき「旅費」だったことがわかった。「君たちは本当にお人好しの世間知らずだね」とまわりの同僚に笑われて、私とM先生は面目を失い、頭を掻くしかなかった。

(なお、この下見の旅の思い出は、「俳句で綴る旅日記」として残っている。これを明後日の日記で紹介したいと思っている。今日も「日蓮と一念三千論」はお休みしました)


2003年10月01日(水) 四十にして迷う

<吾十有五にして学に志し(志学)、三十にして立ち(而立)、四十にして惑わず(不惑)、五十にして天命を知る(知命)。六十にして耳したがい(耳順)、七十にして心の欲する所に従いて矩をこえず(従心)>

 言うまでもなく、「論語」のなかの孔子の言葉である。15歳で学に志し、30歳で社会人として自立して一人前になるというのは、現代人の私たちの人生を考えてもそのままあてはまりそうだ。私自身の場合も高校に入学して学問らしいものに目覚めたのが15歳の頃で、教員になったのは28歳の時だから、およそあてはまる。

 問題はこのあとである。三十で自立して、四十ともなれば仕事にも脂がのり、社会人として押し出しや貫禄もついてくる。四十にして迷わずとはよく言ったものだが、しかしこれは表向きで、四十にして私たちは内心様々な迷いを生じるのではないだろうか。

 社会人になってひたむきに走ってきた自分を振り返り、このままでいいのか、もっと別の生き方があるのではかなどと、立ち止まって人生を考える。社会に適応するだけではなしに、そうした社会のあり方そのものを疑ったり、自分の生き方や価値観を再点検する必要に迫られる。四十歳の頃、そうした転機が訪れて、いろいろと迷うようなことが起こってくる。いわゆる「中年クライシス」という現象である。

 だから、私は「四十にして迷わず」ではなくて、「四十にして迷う」と言うべきだと考えている。じつはこの時期、自分の人生について真剣に考え、徹底的に迷うことが、人間として成長し、あらたな自分を発見し、自己実現するために必要なことなのである。人生を「起承転結」にたとえれば、四十は私たちの魂の目覚めにとって重要な時期だと言える。まさに人生の転機であり、岐路なのだ。

 そしてこの「人生の迷いの時期」があって、五十にして天命を知るという、より高い人生への飛翔が可能になる。孔子のいうように四十にして迷わない人生では、まず「天命を知る」という人生の大事は起こりようがない。「天命」とは自分が本当にやりたいこと、自分を本当に活かす道のことであろう。そうした道を知ることが、すなわち「天命を知る」ということだ。それは打算と我欲の生存競争の世界のあり方を自分の中で否定し、もう一段上の精神世界への旅立ちを意味する。

 天命を知り、その天命に従って生きる道は必ずしも平坦ではない。知ることと、実践することは別のことだからだ。しかし、その苦難の道を進むことで、人生はしだいにその人にとって独自なものとなり、本当に生きるに値するものになる。そして魂の奥深くから泉のように喜びが溢れてくる。そこに生きることの充実した無心な楽しさが伴ってくる。

 六十にして耳従うとは、こうした無心の境地へ一歩近づくことであり、その完成された姿が、「心の欲する所に従いて矩をこえず」ということだろう。ここにおいて、私たちは道を行いながら、道を楽しむという、真に自由な理想の境地を手に入れることができる。こうした人生をほとんど理想的に歩いたのが、良寛だろう。彼の74年間の生涯を思うとき、私は何だかとても厳粛で、それでいて底抜けにほがらかで自由な気分になる。


橋本裕 |MAIL |HomePage

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