橋本裕の日記
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2004年10月31日(日) 人生を照らすもの

 医者が病気を治すのではなく、治すのは本人自身だ。医者はその環境を整えるだけである。このことは医療活動の根本だと思うが、病人にも医者も、ともするとこのことを忘れがちである。このことについて、野田俊作さんが昨日の日記「野田俊作の補正項」に「舞台の照明」と題して、次のように書いている。

<心身症や神経症の患者さんを診察して、お薬を出そうとすると、「薬で治るんですか?」と聞かれる。「薬は舞台の照明みたいなものです。今は照明が暗すぎて、どんな芝居をすればいいのかわからないので、もう少し明るくしてから、演出について話し合いましょう」と説明する。

 精神科・心療内科領域の病気だけではなくて、内科領域の病気でも原理は同じだと思っていて、薬が病気を治すわけではない。ただ、病気を治すための準備は整えてくれる。準備が整った時点で、生活の工夫について話し合わなければならない。

 神経症や心身症などの機能疾患は(ほんとうに機能疾患なのかどうか、若干の疑いはあるが)、生活が軌道に乗っていないことが原因だと思っていて、その人の「本来の」生活を見つけ出し、そこに戻るお手伝いをすれば治ると思い込んでいる。ゆっくりとその方向でお話ししている>

 医者や薬は人間が本来持っている生命力を快復させるお手伝いをする。そしてこのことは、教師と生徒の関係でも言えるのではなかろうか。人間は本来「学ぼうという力」を持っている。これが大樹のように枝を張り、葉を茂らせ、たくましく育っていくのを助けるのが教師や親の役割だろう。

 そのとき、生徒が進みやすいように照明を与えるのが、教師や親の役割である。照明は彼の周囲を照らすだけではない。時には彼の内部をも照らしだす。そして、彼に人間自身のもつ豊かな可能性と、その奥深さを自覚させる。本来の教育というのは、このように本人が成長していく上で必要な助言を与え、本人に充分な視力をあたえて、「人間と社会を照らし出すもの」でなければならないのだろう。

 生徒に国旗を礼拝させ、君が代を歌わせ、そのことを強制することが教育だと考える人たちがいて、そういう人たちが教育委員会の委員として我が物顔に教育行政を牛耳っていることに、多くの生徒をあずかっている一介の高校教師として、大いに憤りを感じている。


2004年10月30日(土) 森の文化を継承しよう

 1890年12月ウンデッド・ニーの虐殺により、白人によるインディアン戦争は終結したといわれている。北アメリカ大陸に推定で1000万人いたといわれるインディアンも、この年には25万人にまで減っていた。ナチスに虐殺されたユダヤ人600万人に劣らない数字である。

 こうしてアメリカを支配した人々は、森を切り開き、畑や牧草地にした。木材で教会や町を作り、あるいは商船や軍船をつくり世界に乗りだした。この数世紀で、広大なアメリカ合衆国はほとんど丸裸になってしまった。

 インディアンを滅ぼした白人は、こんどはアフリカから多量の奴隷を輸入した。アフリカでは奴隷商人による原住民狩りがおこなわた。この結果、アフリカの人口は激減している。明治大学の入江隆則教授は西欧の近代主義を批判して、次のように書いている。

「スペイン人が現れる前には、中央アメリカの推定人口は7千万人から9千万人はいたとされているが、私がすでに書いたようにスペイン人の侵入のわずか一世紀後には、350万人に激減している。またこれも推定であるが、3千万人から6千万人に及ぶ黒人奴隷がアフリカからアメリカ大陸に連れ去られ、その三分の二が航海途上で死亡して、大西洋に捨てられたといわれている」

 こうしたことは、人類史で繰り返されてきたことである。ヨーロッパを支配したローマは、同様にして森を滅ぼし、原住民であるケルト族をヨーロッパから消滅させた。そして後世の歴史家はこれを文明の勝利という。

 目を日本に向けてみると、この国でも先住民である縄文人と弥生人の対立や抗争はあった。しかし、日本では森の徹底した破壊はおこなれなかった。むしろ二つの文明は長い年月をかけて、ゆっくりと習合し、多様性を残しながら共生してきた。

 森を尊ぶ原住民の文化は、いまだに私たちの習俗の中にも、こころのなかにも残っている。これが日本文化のすぐれた点である。このゆたかさを継承し、将来に生かして行くことが、私たちに求められている。


2004年10月29日(金) 良識ある天皇の言葉

 赤坂御用地で開かれた園遊会で、将棋の元名人で、東京都の教育委員である米長邦雄氏と天皇の間に、次のような会話があったという。

「日本中の学校に国旗をあげて、国歌を斉唱させるのが私の仕事です」
「やはり強制になるというものではないからね」
「本当に素晴らしいお言葉をいただきありがとうございました」

 米長邦雄さんは、石原知事同様に、強固なナショナリストで、大量の都教職員の処分を出した国旗・国家問題では、常に強権的権力の行使を主張した最右翼の存在である。彼は天皇制こそ日本が誇る文化だと思っている。

 ところが、肝心の天皇から返ってきた言葉は、教育現場での「日の丸」の掲揚や「君が代」の斉唱について、「強制になるものではない」ということだった。これに、米長さんは驚いたに違いない。絶句するわけにもいかず、想定問答集の通り、「本当に素晴らしいお言葉」とその場をとりつくろったのだろう。

 もっとも、皮肉屋の米長さんだから、精一杯の皮肉だった可能性もあるが、いずれにせよ、天皇主義者の彼が、尊敬する天皇からこうはっきりと「ノー」と言われては、面白いはずはない。これでは面目まるつぶれである。

 米長さんの将棋は才気煥発で、以前はテレビでよく見ていた。しかし、解説など聞いていると、この人の唯我独尊的な人柄が鼻について、私はあまりその語り口が好きではなかった。だから、都の教育委員になって、「日本中の学校に国旗をあげて、国歌を斉唱させるのが私の仕事です」と言い始めても、この人ならやりかねないなと思ったものである。

 戦時中、美濃部達吉博士の「天皇機関説」が批判されたことがある。天皇を神聖な存在だとする軍部や右翼によって、美濃部は糾弾された。そのとき、昭和天皇は側近にこう語っている。

「(天皇が現人神だという説に対して)肉体的には何もかわることはない。したがって機関説を排除するために、自分をうごきのとれないものに(神格化)するのは、精神的にも肉体的にも迷惑なことだ」

 平成天皇は1933年生まれである。1945年の敗戦の時に12歳だった彼に、父親の昭和天皇が手紙を送っている。そこには、「我が国人があまりに皇国を信じ過ぎ」たことが敗戦の原因だとはっきり書いている。少しだけ引用してみよう。

「敗因について一言いはしてくれ。我が国人があまりに皇国を信じ過ぎて英米をあなどつたことである。…我が軍人は精神に重きをおきすぎて科学を忘れたことである。…軍人がバツコして大局を考へず進むを知つて退くことを知らなかつたからです」(「皇太子への手紙」)

http://www.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/
index7.html?now=20041028200257


2004年10月28日(木) 活用されない学校図書館

 昨日は一日、勤務先の高校へはいかず、愛知県図書館研究会に参加した。そこである分科会の世話人を任され、不慣れな体験をしたので、精神的に少し疲れた。分科会では、愛知県の3つの中学校の先生が図書館利用の現状を報告し、それを受けて活発な質疑応答が続いた。

 発表した3人の先生方は、30代の女性教諭で、パソコンを駆使し、なかなか歯切れがよかった。壁に写し出された液晶ビジョンの映像も明るく、室内灯をつけたままで鮮明に見える。一昔前のOHPとは雲泥の差である。

 私は世話人として、部屋の後ろで黙って聞いていただけで、発言はしなかった。質問が途絶えたら、一つ二つ質問したいことがあったので挙手しようと身構えていたが、結局、その機会はなかった。

 最初の打ち合わせでは、発表者の人たちも「そんなに時間がいりません」と控えめで、予定よりもかなり早く終わるかも知れないと思っていたが、結局予定時刻を延長し、他の会場が大方終わっても、しばらく発言が続いていた。

 学校図書館をどう活用したらいいのか、それぞれの中学校の現状が報告され、活用に向けた様々なアイデアが紹介されたが、私が驚いたのは、どこの中学校でも、開館時間は昼休みに限られているということだった。

 その時間は長くて20分、学校によってはわずか15分だけだという。放課後も開館しているものだと思っていたので、これはとても意外だった。せっかく立派な施設があり、大量の書籍が毎年購入されているというのに、これでは宝の持ち腐れではないかと思った。

 私が質問したかったのは、放課後の開館がなぜできないか、ということだった。会場にいる中学校の先生方や司書の人たちからは、こうした開館時間についての疑問や質問がなかったが、議論を聞いている中で、その理由はおおよそ見当がついた。

 それは放課後はすべて、部活の時間だという前提があるということだ。だから臨時の図書員会も放課後ではなく、昼休みに行っているらしい。図書委員もどこかの運動部に属しているので、放課後にはそちらに参加する。「部活最優先です」という発言が何度か聞かれた。

 当然、図書館担当の教諭もどこかの運動部の顧問をしているわけで、図書館は施錠されることになる。司書も常勤ではなく、週に数日のパートタイマーで、業後図書館を開館するだけのマン・パワーはないようだった。

 昼休みにせっかく図書を借りに来ても、予鈴のチャイムに追い立てられ、借りられないで帰っていく生徒もいるらしい。図書館をいかに活用するかというテーマで議論は続いたが、正直言って、これでは図書館の活性化は難しいのではないかと思った。

 年間に何冊本を読んだかというアンケートの結果が紹介されていたが、ほとんどの生徒が数冊以内で、図書館の本を一冊も借りたことがない生徒が多かった。こうした現状をどう打開したらいいのか、いろいろ工夫をされているようだったが、開館時間の延長や、人材の確保に向けて働きかけ、校内の教師たちの意識改革を進めることも必要だろう。

 私は中学時代、卓球部の部活に毎日参加していたが、ときには部活を遅刻してでも、学校の図書館に行って、本を読んだり借りたりしたものだ。部活最優先ということではなく、文武両道が可能だった。正直言って、今の中学校の不自由な雰囲気に、私はとても息苦しさを覚えた。


2004年10月27日(水) 伊藤博文と日露戦争

 明治の元勲のなかで、伊藤博文ほど仕事をした人間はいない。明治維新のとき倒幕の運動に寄与をしたこともそうだが、明治政府が出来てからの働きがすばらしい。なかでも憲法を作り、政党を作って、立憲政治を軌道に乗せた功績は評価していいだろう。

 伊藤は海外通でもあった。若いときに英国に留学したのを始め、何度もヨーロッパやアメリカを訪れている。西欧の実力を知っていた伊藤は、征韓論を歯切りにして、日本の対外戦争にはつねに慎重な立場だった。

 こうした伊藤の国際協調主義・平和主義は、軍部や国民には弱腰に見えた。どこの国でもそうだが、国民が熱狂的に支持するのは、勇ましい主戦論者である場合が多い。その点、伊藤はそうした英雄としての資質を徹底的に欠いていた。

 日露戦争のときも伊藤はこれに及び腰だった。それも当然なことで、日露両国の国力を比較すれば、ロシアの方が日本の10倍もあった。たとえば当時の国家収入は日本が2億5千万円、ロシアが20億円である。常備兵力は日本が20万人、ロシアが300万人である。この国力差は後に日本がアメリカと戦争したときの状況と似ている。

 ところが、政府や国民の中に主戦論が台頭し、もはや開戦しかない状況になった。1905年(明治34年)2月戦端が開かれると、伊藤はさっそく日本銀行副総裁高橋是清をイギリスとアメリカに派遣して、軍備調達に走らせている。

 高橋は苦労したあげく、最終的に7億円あまりの軍備を調達した。人々は新聞に報道される華々しい戦禍に目を奪われるが、実はこれだけの戦費が調達できたことが、日露戦争の大きな勝因であったことはあまり知られていない。

 伊藤は同時に、腹心の貴族院議員金子堅太郎をアメリカに派遣し、米国大統領ルーズベルトに停戦後の講和斡旋を依頼させている。戦争が長引けば、国力の差で日本は不利になる。戦況を見てロシアと講和し、戦争を終わらせる腹づもりだった。

 開戦後1年6ヶ月を経て、戦況は日本に大きく傾いた。しかし、この間に日本軍の戦死者は4万6千、負傷者16万に達した。費やした戦費は何と19億5千万というとほうもないものだった。もはや日本には、戦争を継続する国力は残されていなかった。

 伊藤はロシアと講和することにして、外相の小村寿太郎を全権大使としてアメリカに送り、かねてのシナリオのとおりルーズベルトの斡旋のもとで、ロシア全権ウィッテと交渉させた。この交渉は日米双方に戦争継続の強硬論があることで困難を極めた。

 こうした中で、明治38年9月、米国のポーツマスにおいて、小村はようやく講和条約をまとめた。韓国を日本の勢力圏と認めること、南満州鉄道の権益や関東州の租借権を日本がロシアから譲り受けること、南樺太を日本領とすることを内容とするものだ。

 ただ日本はロシアから賠償金をとることは出来なかった。そしてこれを不満とする報道が日本で流された。「閣臣元老の責任を問ふ」「遣る瀬なき悲憤・国民黙し得ず」という激烈な表現で、国民の一斉蜂起を暗に促す内容のものさえあった。戦争の実情を知らされておらず、ただ戦勝気分に酔っていた国民は、これを読んで一気に不満を募らせ、各地で爆発した。

 9月5日には講和条約を不服とする群集三万が日比谷公園に集結し、その後、内務大臣官邸を襲撃し、投石、乱入、放火等暴虐の限りを尽くした。このとき、東京市内の7つの警察署と239もの派出所が焼き払われ破壊されたという。

 このとき神戸では湊川神社境内の伊藤博文の銅像が引き倒された。そして、銅像の首、手足を叩き壊され、四、五百名の群集によって数町先まで引きずられたという。群衆の怒りが「軟弱外交」の伊藤に集中したわけだ。伊藤の不人気はこれによって決定的になった。そして、その後も修正されることなく、太平洋戦争を経て、今日まで来ているように思われる。

 どうしてこのようなことになったのか。それは国民の前に真実を明らかにしなかった政府の責任が大きい。日本が日中戦争に突入するのは、これよりわずかに25年後のことである。さらに15年後に、日本はアメリカに敗北している。司馬遼太郎も書いていたが、日比谷公園の暴動から40年間に起こったことを一繋がりの出来事だと考えてみると、歴史の真実がよくわかる。

(参考サイト)
http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist2_4_8.htm



2004年10月26日(火) 自己教育のすすめ

 子どもや他人にアドバイスをするのが下手な人は、結局、自分自身に対するアドバイスができない人であり、自分を伸ばすことの下手な人だということができる。他人の欠点をあげつらい、「ダメ」を連発する人は、自分自身に対しても同じことをしている。

 つまり、自分の長所をいかそうとしないで、短所ばかりに目がいき、またそれが気になって仕方がないので、何とかそれを矯めようとする。その試みはときには成功するだろうが、多くの場合、その成功も表面的なことが多い。

 人は誰でも、自分のなかに未熟で子どもらしい部分を持っている。あるいは、社会によって馴致されない野性的な部分をもっている。これを押さえつけ、圧殺するのが正しい生き方であり、文明的な方法であると考える人がいる。

 そういう人は、そうした抑圧的な方法で自分を教育し、他人をも教育しようとするだろう。私は現在、多くの学校で行われている教育もまた、こうした傾向を多分にもっているのではないかと考えている。

 そうした抑圧的な環境に身を置くことは、あまり望ましいことではないのだが、多くの子供たちにとって、これは避けられないことである。私自身も、そうした環境に長く身をおいてきた。そして、「ダメ」を連発する教師のもとで、ずいぶん萎縮した気分で、学校生活を送ってきた。

 幸いなことに、人間の中に潜んでいる生命力は、そうした抑圧的な環境でも、何とか生き延びるものだ。学校教育をとおして、多くの人々は知的好奇心を喪失し、自然や社会に対する興味や関心を喪失するが、しかし、完全に死に絶えることはない。

 少なくとも、子どもらしい好奇心や、初々しい子どもらしい感情は記憶として残っている。それを多くの人は悪しき記憶として圧殺しがちだが、もう少し寛容な目でながめてみると、その欠点とおもわれた子どもらしさこそ、貴重な生命の財産であることに気付くのではないかと思う。

 実のところ、多くの人の胸の奥にも、やはりそうした子ども心が息づいている。こうしたものはいくら抑圧され否定されても埋火のように生き残る。そして、それをもう一度蘇生させることで、また新しい人生を始めてみることもできるはずだ。

 学校や社会が与えてくれる教育には限界があるし、ときとしてそれは個人に対して暴力的な作用をおよぼす。すっかり自分を見失い、野性味を失って、馴致された文明人として生涯をまっとうすることしか念頭にないという人もいる。そうした人は、そうした人生を善良で貴いものだと考え、自分の人生を失敗だとは考えないだろう。

 私はそうした人を見ると、なんとなくゆさぶってやりたくなる。ファウストを悪の道に誘惑する悪魔のような気分を抑えきれなくなる。というより、その人の中にも住んでいるに違いない悪魔と、こっそり、楽しい会話をしてみたくなるのだ。


2004年10月25日(月) 心に届くアドバイス

 今年は台風や地震の当たり年である。その上に、熊が各地で出没している。なんでも食料の団栗が少ないので、餌を求めて人里まで降りてくるのだとか。もうすぐ紅葉の季節になるが、山に出かけるのが少し怖い。

 怖いと言えば、マムシもそうだ。以前、山道をいい気分で歩いていたところ、「ヘビ!」という妻の声に凍り付いたことがあった。見ると、道の真ん中にマムシがいた。もし一人で歩いていたら、マムシを踏んでいたかもしれない。

 マムシで思い出したことがある。妻が学校帰りらしい二人の小学生が道端で喧嘩をしているところに通りかかったことがある。罵りあいから、いまにも掴みかからんばかりの様子に、妻が「やめなさい」と声をかけようかと思ったとき、近所の老人が二人にさりげなく、「ヘビが出るぞ」と声をかけたのだという。

 二人の子どもは青ざめ、辺りを見回した。それから、こわごわ肩を寄せ合って、その場を去った。先ほどまで罵りあっていたのが嘘のような光景だったという。この話を聞きながら、その老人の機転に感心したものだ。

 こうした機転の利く人は少ないのではないかと思う。私も新幹線で家族旅行をしたとき、下らないことを大声で話している娘たちを「うるさい、静かにしろ」」と叱りつけ、それでも話しやまない娘に腹を立てて、頭をゴツンとやったことがある。これで楽しい家族旅行の雰囲気は最悪になった。

 これなど、まったく芸のない話である。こうした場合、「旅行、たのしかった?」とか何とか私から話しかければいいのである。そして興奮している娘達を落ち着かせればすむことだった。私も若い父親だったから、それだけの知恵がまわらなかった。

 若い母親や父親もゆとりがないと、「ダメ」を連発しがちになる。しかし「静かにしなさい」と言っても、子どもはなかなか言うことを利かない。公衆の面前でヒステリックに叱り続ける若い母親を見ていると気の毒になる。と同時に、もうすこし知恵を使えばいいのにと思ったりする。

 子ども扱いの上手な母親は、「ダメ」とはいわずに、「○○ちゃん、何々しよう」と子どもの好きなことに積極的に誘導するだろう。そうすると、子どもは別のことに熱中し始める。一段落つたところで、「人前であまり騒々しくしてはいけないのよ」と注意すれば、子どもの心にいくらか届くだろう。

 子どもに限らず、人に注意したりアドバイスするのはなかなかむつかしい。こちらは友情のつもりで相手の欠点や改善すべき点をいろいろと忠告しても、忠告された相手は不快に思うのがふつうだ。下手をすると逆恨みされたり、反抗されたりすることもある。それも当然で、注意する方は、どうしても相手より優位に立つからだ。たとえ自分に非があっても、そのことを露骨に指摘され、人から見下されるのはいやなことだ。

 だから、人にアドバイスをするのも考えものである。そのやりかたによってはかえって逆効果になる。勉強を無理強いする教師や母親は、たいてい子どもを勉強嫌いにするものだ。だから、知恵のある教師や母親はもう少し洗練された方法に訴えるだろう。

 洗練された方法とは、相手の弱点を攻撃するのではなく、その長所を指摘する方法である。落ち着きのない子どもに、「静かにしなさい」と注意するのではなく、「とても活動的ね」と、その長所を認めてやり、「あとで、鬼ごっこしようか」と子どもを誘導する。相手を否定するのではなく、活路へと導くわけだ。

 子どもを教育する方法は、自らがそのよき模範となることだろう。子どもは親や教師の背中を見て育つわけで、周囲の大人達の生き方が、実は一番力のある教材なのだ。知恵のある人は、相手にアドバイスと気付かせない方法で、自然と相手にアドバイスをする。そしてそうしたアドバイスが、結局ほんとうにその人の心を動かすことになる。


2004年10月24日(日) 陸軍情報官・鈴木庫三の日記

 佐藤克己の近著「言論統制」(中公新書)は、「情報官・鈴木庫三と教育の国防国家」という副題を持っている。鈴木庫三は極貧の小作人出身でありながら刻苦勉励して陸軍士官学校や早稲田大学の夜間部、東京帝国大学を卒業し、インテリの教育・情報将校として、一世を風靡した。

 彼が書いた「国家総力戦の戦死に告ぐ」(1939年6月)という宣伝パンフレットは、新聞や雑誌が競ってこれを複製して読者に配布したこともあり、「結局1千万パンフレットとなり日本始まって以来の大出版」と本人が日記に書くほど人々に読まれた。そこにはたとえば、こんなことが書かれていた。

<社会の上流に在るもの、富裕にして恵まれたる者、或いは事変の為に多大の利益をあげている企業家及び其の従業員の如きは特に自粛自戒に務むると共に、他の羨望と之に基づく憎悪感を惹き起こさぬ様寧ろ進んで事変の大なる負担を引き受け、率先して実践運動に邁進すること>

 彼は陸軍にあって弁が立ち、著作もよくした。カント哲学を研究して「軍隊倫理学」という倫理学の専門書を書き、大学で教官として講義しただけではなく、陸軍情報官として、菊池寛、丹羽文雄、尾崎士郎、高見順、海音寺潮五郎、石川達三など多くの著名な文人と対等に交わり、雑誌・新聞・演劇を「指導」して、これを「国防国家」のスローガンの旗のもとに参集させた。

 戦時中これだけの活躍をしたので、戦後、彼は叩かれた。陸軍情報官として苛烈な「言論統制」にあたった人物として、石川達三の「風にそよぐ葦」にも佐々木少佐という仮名で登場している。職業柄鈴木少佐をよく知っていた中央公論編集部員・黒田秀俊は「風にそよぐ葦のモデル」でこう書いている。佐藤さんの「言論統制」から孫引きしよう。

<葦沢(中央公論社)社長を前にして、「君のような雑誌社は片端からぶっ潰すぞ」と怒鳴る佐々木少佐は、当時泣く子も黙るといわれた鈴木庫三少佐とみてさしつかえあるまい。「皮膚の浅黒い、頬骨の高い顔で、険悪な目つきをしていた」と書かれている鈴木少佐は、実際には、頬骨の高いというよりも顎の張った、ムッソリーニに似た顔立ちであった。・・・およそ非文化的な、憲兵の下士官あたりによくみうけられるような暗い、険しい感じの軍人であった>

 佐藤さんはこの文章を引いた後、<はたして黒田は「鈴木少佐」を正しく観察していただろうか>と疑問を呈している。実際に鈴木少佐はムッソリーニのような独裁者だったのか。佐藤さんは「言論統制」のなかで、彼の日記を縦横に引用し、これとはいささか違った、知性的で温厚、正義感の強い清潔な人物像を描き出している。

 鈴木庫三は日清戦争が起こった1894年(明治27年)に茨城県真壁郡の農家に6男として生まれている。生まれて3ケ月後、貧乏な農家に養子に出された。小学校の時は成績はクラスで一番、級長だったが、養家には借金しかなく、遠足に出かけるにも着物や小遣いがなく参加できなかったという。

 もちろん、中学進学など夢の世界である。高等小学校を卒業したあと、鈴木庫三は養父母のために小作人として必死で働く。地主と交渉して小作地を増やし、杉山を開墾した。さらに日雇いで土木作業もやり、借金を減らした。そのかたわら、日が暮れると小学校の先生を訪ねて、毎晩10時過ぎまで勉強した。

 彼には「陸軍士官学校」という夢があった。20歳まで必死に農夫として働き、養家の借金をかえしたら、後は養家の実子である弟や妹に家を任せて、そこを受験するつもりだった。そのために、当面の5年間のすべてのを労働と勉学に捧げなければならなかった。そうした彼に周囲がどう見えたか。彼の日記に書かれた回想を紹介しよう。

<彼等(農村の青年団の仲間)には学問など言ふ学の字も頭には宿しておらぬ。暇さえあれば婦女子を誘惑するとか、さもなくば料理店とか遊郭にでも行く考外ない。そうして死に金を使う。金の出所がなくなると、親の米俵でもなんでも無断でかつぎ出して花柳界に捨てる金をこしらへる、実に問題にならぬ奴が多かった。・・・僕は孤立しても志は捨てなかった。青年会に行っても真面目な話ばかりしていたから、堕落な連中にはあまり好かれなんだ>

 16歳の時、養父母に内緒で師範学校を受験した。腕試しのためだった。身体検査、体操試験、算術、国語すべてに合格した。10人に1人の競争率である。中学2,3年でもずいぶん落ちているなかでの健闘だった。口頭試問の段階で落ちたが、これで彼は自信を得た。

 そして、3年後の1913年2月、彼はふたたび養父母に内緒にして、砲兵工科学校に願書を出した。陸軍士官学校に合格するために、ここを経由するしか道がないことに気付いたためだった。彼はここを見事に合格。養家を弟にまかせて、12月1日、東京にある砲兵工学校の門をくぐった。こうして学校で内務班生活が始まった。

<その夜は初めて寝台に毛布を敷いて臥すことになったが、疲れて居ったから馴れぬ床でも直に眠れた。霜の朝は明けた。勇ましい喇叭がなる。・・・それから毎日習得することは何もかも新しい事ばかりで、練兵は毎日午前も午後もあったが、農業に勉励して身体を錬磨して置いた僕には少しも骨の折れる事はなかった>

 こうして彼は、砲兵工学校に学びながら、陸軍士官学校を目差した。しかし、これは想像を絶する大変なことだった。この頃、勤務外のことで、上官から屈辱的な制裁を受けた。そのうえ、「士官候補生願を取り消してしまえ」と言われた。

<軍籍に身を置いてから殴られたのは此の時が初めてである。其の夜、室に帰って見たが残念さは胸に充ちて居た。頭も顔も腫れ上がって居ったのであったが、之が後日僕の為には立派な宝となって酬われた。あのときの無念さが幸福に生まれ変わったのである。

・・憤慨も極度に達した。何ふしても此の暴行に対して復讐を興さねばならぬ。然し夫れには立派な方法がある。文明の方法がある。嗚呼! 士官候補生! 汝は復讐戦の援兵であるぞ。希わくば我を助けよ!>

 こうして、彼はついに陸軍士官学校に合格した。このあと、陸軍大学校受験をめざすが、これは年齢制限のため断念するしかなかった。しかし、彼は軍務のかたわら、早稲田大学に学び、ついで「陸軍員外学生制度」によって3年間東大に派遣された。そこで、「軍隊教育学」を学び、陸軍は始まって以来の本格的な教育将校として、軍隊の教育面の改革に乗り出すことになる。

 彼が特に重視したのは内務班の教育だった。軍隊の綱領には「自覚ナキ外形のノミノ服従ハ何等ノ価値ナキ」とうたわれている。しかし、実際はどうだろうか。私的制裁がおこなわれ、恐怖と不正が充満している。そうした現状をかえなければならないと、鈴木は自らの不条理な軍隊体験に基づいて真剣に考えていたようだ。

<ことに入隊当時の初年兵は、生活状態の一変と、従来地方(世間)に伝説せらる軍隊の悪説とによりて恐怖心を抱くこと甚だしきものなり。故にこれら入隊兵を軍隊生活に導くんには、なし得たる限り緩やかなる方法を取り、漸く軍隊の内容を知るに及んで、速やかなる教育の進歩を計るべきなり>

 これを彼は自ら中隊長として実践している。しかし、彼のこうした考え方は、上層部にはいれられなかった。陸軍大学を卒業していない叩き上げの彼にはどうしょうもない階級の壁がある。その壁をどううち破ればよいのか。そうした軍隊エリートである「天保銭組」への絶望と怒りと苦悩が彼の日記に読みとれる。

<成るべき会議などには出ない様にする。出ても己の意見は包んで吐かない。上官もまた斯様な将校を善良な将校と考える。そして陸軍大学の試験を受けよとか言って、三日も四日も遊ばして勉強させる。然るに正当な気色鮮明な意見でも吐く将校は、悪い将校になる。大学の試験を受けるにしても、便宜などは与えられない。教育や倫理の研究が軍隊教育者に必要などと分かる上官が何人あるであろうか>

<途中二等車の中は今回の演習に参加する将校で満員であったが、一として語るに足り聞くに足る話はない。現代の高等常識からうといのは、実に現代の将校だ。而も自負心が強いから、その己れを知ることが出来ぬ。余は汽車中、倫理哲学等の雑誌を読み続けた。一二の友人にもすすめた。中には熱心に読む人もあるが、多くは分からぬから興味が起こる筈はない>

<上長官にもなって居乍ら、随分人格低劣な人もある。軍人の道徳的覚醒は寧ろ一般国民にも劣る点が少なくない。これは階級的な点にある。食事教養までも階級的であるから、今日の思想に合わない。従って下級者から不平を起こすことになる>

<教養のない天保はかくて暴君振りを発揮して不忠を致すのかな。副官も下士官候補者隊長もあはれなものだ。変態的な頭で統御の道も知らぬものを、何とか閥でどしどし抜擢進級させて国家の為にならぬことをするのは実に困ったものだ>

<資本家の魔手は政治にも新聞にも及んで堕落させて居る。陸軍大将が収賄で法廷に引かれる。前文部大臣が収賄で法廷に引かれる。山梨も小橋も顔の皮を何枚張っているのだろう。国民が皆覚醒して道徳の世界が出現すれば同胞相和して善美の世界が現れることが明瞭なのに何うしてそれが出来ないのだろう>

<特別に財産のある人は別問題であるが、吾人は極度の緊縮生活をせねば生きて行かれぬ状態である。官吏になったが為に親を養ふことも出来ない。理髪すらも任官以来、理髪店でした事がない。冗費などは殆ど一銭もない生活をして居る。小学校の修身では老いたる親を養ふべく教へ、法律上子は親に対し扶養の義務がある。官吏になって十数年真面目に勤務しても、親を養ふ事が出来ない様な待遇をして居るのは政府の誤りだ>

<今日まで常に思案しつつ人生を送ってきた。此の私案がなかったら、生来不遇な余は恐らく今日あることが出来なかったであろう。各所の困難と戦って概ね目的を貫徹して来た。学業も一段落に達して今後特異の方面で陸軍に頭角を現し、国軍の重要なる精神的方面に活動する準備が出来た。然るに四十才といふ声を聞くと前途に一抹の暗雲がある>

 こうした日記から読みとれる鈴木庫三は、「およそ非文化的な、憲兵の下士官あたりによくみうけられるような暗い、険しい感じの軍人」とはかけ離れているのではないだろうか。佐藤さんが「言論統制」の中で、<はたして黒田は「鈴木少佐」を正しく観察していただろうか>と疑問を呈しているのも頷ける。

 少し意外なことだが、陸軍情報将校の彼が重視していたのは、国民を統制することではなく、国民の中に自主的な相互扶助の精神を育てることだった。それをどうして国民教育の中に実践していくか。これを科学的に合理的に、「倫理」という西洋流の思想を根底に据えておこなおうとした。外形的な強制ではだめで、「軍事教練」ではなく、倫理教育が大切だと考えた。このあたりが、彼の真骨頂だった。

 この考えは、日本が占領した地域の教育にも必要だと考えた。恐怖による支配ではなく、自由と公平に基づいた精神教育が重視されなければならない。これが早稲田や東大でカントを学んだ鈴木のバックボーンだった。彼はある雑誌の企画した座談会で「八紘一宇」についても、次のように発言している。

<八紘一宇の精神といふのは、此の大東亜共栄圏の国々の国々の民族に皆所を得させる、安定を与える事である。言葉を換えて言ふと、日本人の物質的な生活水準を上げないようにして、満人なり中国人のレベルをそこまで持って来なければならぬ>

 彼は自らの出自である小作階級に同情的である。そしてその分、富裕な資本家階級に批判的になる。彼が求めたのは、平等ということだった。アメリカや英国のような植民地支配を斥け、平等な社会を実現すること。その為に戦争に勝たねばならないというのが彼の基本的な心情だった。東大在学中の1928年4月24日の日記で、彼はこう書いていた。

<人間が将来の希望を絶たるることは、甚だ苦痛だ。明治初年の小作人は自作人にもなれると思って働いた。然るに経済界の急変は、之を許さぬ事になった。昭和の今日では明治初年からの勤勉なる農夫の経験が、青年壮年の人々に一代如何程働いても自作農にはなれない事を教える。之がため自暴自棄的飲食家が多くなった原因ではないか。近頃、一般社会は勿論、官私立の大学専門学校にまで共産党刈りをやった。毎日新聞は報じて居る。極端なる共産主義も悪いが、極端なる資本主義も悪いのではないか>

 こうした彼の言説を丁寧にたどっていくと、戦後彼にかぶせられた悪評の多くが、単なるフィクションではないかと疑われる。事実、石川達三は「風にそよぐ葦」の中で、彼を佐々木という仮名で登場させたが、その年齢を30歳代のエリート少佐として、十歳以上若く描いている。「風にそよぐ葦」から雑誌社の編集者の言葉を引用しよう。

「社長、口惜しいですね。あんなわからず屋どもが、雑誌文化を支配する気でいやがるんですから。文字通りの軍部独裁ですよ。・・・ある婦人雑誌の連中なんか佐々木少佐に毎月賄賂をおくったりご馳走したりして、原稿はそれこそ広告に至るまで一々あいつに聞きに行って、散々ご機嫌取りをやって紙の配給をふやしてもらっているんだそうです。どうです、一度佐々木少佐を招待してご馳走してやりましょうか。案外そんなやり方で行く方が近道かもしれませんよ」

 現実の鈴木庫三は講演や座談会には喜んで応じたが、饗宴の席には乞われても行かなかった。その最終軍歴が大佐にすぎなかった彼は、決してエリートではなく、エリートが支配する軍隊を批判し、その無教養と横暴を糾弾したために、上層部からにらまれたこともあった。

 彼の目から見れば、商業雑誌の社長も、その商業雑誌に駄文を書いて、暖衣飽食している戦時下の文化人たちも、<事変の為に多大の利益をあげている企業家及び其の従業員の如き>と、そうは変わらなかったのだろう。


2004年10月23日(土) 風にそよいだ葦たち

 松本清張と石川達三は、私が大学生の頃に人気だった社会派の作者の双璧だろう。私もこの二人の作家の作品はあらかた読んでいる。社会体験に乏しかった私は、彼らの作品を読むことで、社会というものの実態をおよそ掴んでいたようなところがあった。

 彼の作品そのものは私の好みではない。その理由は登場人物が類型的で、とくに深い文学的感動を与えられたというわけではないからだ。同様の印象は松本清張の小説にも感じられる。学生時代に読んだのは、やはり社会勉強の心づもりからだろう。

 石川達三の作品で記憶に残っているのは、「風にそよぐ葦」「人間の壁」「青春の蹉跌」など、そのほとんどは戦後に書かれた戦争や社会の不条理をあばきたて、告発する作品である。貧しいブラジル移民をテーマに戦前に書かれ、1935年の第一回芥川賞受賞作になった「蒼氓」は、読んだという淡い記憶があるだけだが、これにもこうした社会的弱者に視点を置いた作品だといえよう。

 石川達三は1937年12月の南京攻略作戦に中央公論社特派員として従軍している。そしてこのとき目撃した凄惨な戦場の様子を小説「生きている兵隊」で描いている。これが当局から「安寧秩序を紊すもの」とされ、有罪判決を受けた。

 こうした経歴があるので、私は漠然と、石川達三という作家は戦前・戦後を通じて、左翼に同情的な民衆派の反戦主義者だと思っていたが、最近、佐藤卓己さんの「言論統制」(中公新書)を読んで、必ずしもそうではない一面のあることを知った。

 たとえば「生きている兵隊」が有罪判決を受けた後、すぐに彼は「武漢作戦」を書き、ここで彼は一転して生き生きと躍動する帝国軍人の姿を描いている。そして彼はやがて日本文学報告会実践部長の要職についている。そしてこんな文章を書いた。

<極端に言ふならば私は、小説といふものがすべて国家の宣伝機関となり政府のお先棒をかつぐことになっても構わないと思ふ。さういふ小説は芸術ではないと言はれるかも知れない。しかし芸術は第二次的問題だ。先ず何を如何に書くかといふ問題であって、いかに巧みにいかにリアルに書くかといふ事はその次の考慮である。私たちが宣伝小説家になることに悲しみを感じる必要はないと思ふ。宣伝に徹すればいいのだ>(「実践の場合」文芸1943年12月号)

 戦時中にこうした戦争協力の強力な発言を公にしていた石川達三が、それでは敗戦後どのようにこの戦争を総括したのか。「風にそよぐ葦」の中で、彼はこう書いている。佐藤卓己さんの「言論統制」から孫引きさせていただこう。

<近衛が人望を失ったのは、開戦の決意をなし得なかったからである。十月、十一月、国民はすべて開戦論者であった。東亜共栄圏はかくして出来上がるであろう。美しい虹だった! 青年たち、少年たち、婦人に至るまで英米を打倒することの美しさにあこがれていた。

 葦沢、清原の冷徹な自由主義者が排斥される理由はそこにあった。事の正邪をわすれ正しい批判を忘れた国民の心の流れが、今では大きな勢いとなって進んでいた。かって国民を扇動した軍部自身、もはや民心の流れを防ぎ止める力をもたなかった。(略)

 勝った時にはみんなが軍国主義者になってしまう。もしも敗けたらみんな反戦主義者になるだろう。それが庶民というものだ>

 石川はこの小説を書いたのは、「戦時中の国家権力や軍部に対する私の小さな復讐であった」(経験的小説論)と告白している。たしかに、石川は「生きている兵隊」で当局から告発され、有罪判決を受けている。しかし、その後は、進んで戦争に協力し、宣伝部隊のなかで枢要な地位をしめていた。

 戦後の石川はこのことにほおかむりしている。そればかりか、悪いのは軍部であり、その宣伝に踊らされた庶民であるという。自由主義を奉じていた良心的な出版社や作家・知識人たちは、そうした巨大な流れに呑み込まれ、抵抗したものの、圧倒的な力の前に破れた犠牲者だという。しかし、これは少し虫の良い言いぐさではないだろうか。

 石川が「風にそよぐ葦」のなかで描く、陸軍の情報将校(鈴木情報官)の横暴や、「作家の受難時代」「出版の暗黒時代」は本当に存在したのだろうか。実はここに意外なデーターがある。主要78誌の総売上数統計を見ると、戦前の雑誌総売上のピークは何と1940年で、この年販売部数は前年度比で13.5パーセントも伸びていたのだという。佐藤卓己さんの「言論統制」から引用しよう。

<鈴木情報官の指導下で雑誌出版社はいずれも我が世の春を謳歌していた。雑誌に執筆する作家や文化人にとっても、それは「悪い時代」ではなかった。雑誌ジャーナリズムは、国策に棹さしていたわけで、そうした状況へのやましさから戦後になって自ら被害者を名乗るために「独裁者」を必要とした、とも考えられる。殉教者の聖痕をもった「言論の自由」の威光のためには、多数の「ユダ」よりもまず一人の「ピラト」が必要なのである>

 石川達三は「小さな復讐」から書いたという。しかし、そればかりではなく、国策に棹さしていたやましさから逃れるために、自ら被害者であると訴えずにはいられなかった心理が考えられる。彼の小説が世間に広く受け入れられた背景のひとつに、同様な心理傾向をもつ多くの人々が、この小説の中に良心のささやかな慰安を見出したこともあるのだろう。


2004年10月22日(金) 無能で愚かな日本軍

 日中戦争やそれに続く太平洋戦争を振り替えってみると、軍人や官僚達がいかに無能で愚かであったかが分かり、なんともやりきれない思いになることが多い。たとえば、大成功のように言われる真珠湾攻撃でも、石油基地には一切爆撃をしていない。

 軍船をいくら破壊しても、そのとなりが修理ドッグだから、米軍はこれをたちまち修理することができる。しかし、そのすぐ隣の石油施設を爆撃していたら、アメリカ海軍はたちまち活動不能に陥り、太平洋における制海権を失っていただろう。

 日本がアメリカとの戦争に踏み切った理由の一つが、石油の問題だった。昭和天皇は戦後、石油が戦争の原因だったとまで言い切っている。アメリカから石油が供給されなくなったら、日本が世界に誇る軍艦はたちまち巨大な鉄クズになる。石油の備蓄があるうちに、アメリカと一戦を交えなければ、永久の敗北しかないという悲壮感が、当時の軍部や政府を支配していた。

 満州国を樹立した日本軍が、そこにとどまらずひたすら南下したのも、戦略的に見れば、南方の資源を手に入れたかったからである。火薬を作るは硝石が必要だがこれは日本にはない。そして何よりも石油である。こうして日本は鉱物資源や石油を求めて南下した。大国としての体面を保ち、戦争に勝ち抜くために、これは必要な作戦だと言われた。

 ところがよく考えてみれば、石油は満州にあるのである。これを開発すればよかったのだ。ところが、軍部は満州に多くの軍人と農民を送り込んだが、石油開発のための技術者を送ろうとはしなかった。そして、これを遠くの南方に求めたのである。石油が大切だと言いながら、これを開発しようという技術的な発想がなかった。一部の軍人にとっては、ただ戦線を拡大し、戦功をあげて、出世すればよかったのだろう。

 日本は日露戦争の軍資金をアメリカのユダヤ財閥に仰いだ。戦後、1905年9月、鉄道王として知られたユニオン・パシフィック鉄道のエドワード・H・ハリマンが、財閥の代表として日本にやってきた。満州鉄道を共同経営し、満州を共同開発するためである。日本政府はこれを受け入れ、ハリマンに内諾を与えながら、彼が帰国した後、一片の電報でこれを反故にしている。

 俗に言う「ハリマン」事件だ。国際信義から言っても、これは許されないことだし、これまで親日的だったアメリカの支配者達は、これで日本に不信感を持っただろう。そしてこれを機に、アメリカの世論はみるみる反日的になっていく。そして、翌1906年には日本を潰そうというルーズベルトも関わった対日戦争戦略計画としての「オレンジ・プラン」が策定されている。このことについて、岡崎久彦が次のように書いている。

「あの時に日本がハリマンの提案を受けていたらば、二十世紀の歴史はまるで変わっていたでしょう。アメリカの極東外交は、単なる領土保全、機会均等というお経だけでなく、日本をパートナーとして共同で満州経営を行う形をとり、また日本では、伊藤(博文)が健在だった時でもあり、第一次大戦の国際情勢の中で、対露、対支政策について、日米英の協調路線ができていた可能性は小さくありません。」(2002年5月1日付産経新聞朝刊)

 たしかに、日本がハリマン提案を受け入れていたら、世界史の展開はずいぶん違ったものになっていたに違いない。それが中国の人々の幸せに結びついたかどうかは別にして、満州国はアメリカの最先端の技術で近代化され、日本にも多くの恵みをもたらしたことだろう。日米英の同盟は強固なものになり、ロシアの脅威はもはや一掃されたに違いない。

 しかし、そうはそうはならなかった。それはそうした世界戦略を日本の指導者達が持てなかったからだ。そして戦後になって、「石油がなかったから戦争になった」という。石油を開発するために他国と協調しようという姿勢を持たなかったことが間違いだとは考えない。このことを反省しない以上、日本は同じ過ちを繰り返すことになる。

 もちろん、ハリマンの提案を受け入れ、アメリカと協調することが日本にとってベストであったかどうか、私は疑問に思っている。それは日本がアメリカと共同で中国の植民地支配に乗り出すことを意味するからだ。この問題は、現代の日米同盟のあり方とも深くかかわってくる。

(参考サイト)
「萬晩報」 041021 ビッグ・リンカー達の宴2−最新日本政財界地図(17)園田 義明
http://www.yorozubp.com/ 


2004年10月21日(木) 共感的な生き方のすすめ

 人は競争的な環境に生きていると、そうした姿勢でしか人生を生きられなくなる。たとえば、競争的な人間が幸福を感じるのは、競争に勝ったときだけである。他者をうち負かし、自分が強者であることを実感するとき、そしてそのときに、彼は幸福の絶頂感を味わう。

 彼の念頭にあるのは、他者に勝つことだ。彼はそのために学校で勉強し、社会に出てからは、ありったけ頭脳を使い、努力して成功を勝ち取ろうとする。彼が学者になったとしても同じで、論争において勝利を勝ちとり、学説が正しいことを、全力で証明しようとするだろう。

 文学者になったとしたら、彼は自分の文学が世の中に評価され、自分の名声が上がることしか念頭にない。そして、そのためにのみ自己の文学的営為を続ける。たとえ彼が俳句を詠んだとしても、その俳句がよくできたかどうかが最大の関心事となる。俳句そのものをたのしむということではない。

 競争的な生き方をしている人間にとって、尺度はただひとつしかない。そしてその尺度を彼自身のみならず、他のすべての上にあてはめる。そして、もし彼が結婚して子どもを持てば、当然、自分の子どもにも同じ尺度を押しつけるだろう。人生は戦いの場であり、勝利を収めなければ生きる価値がないと信じ込ませる。

 こうした生き方は、人生に対する真実の認識から得られたものではなく、その見かけほど現実的でさえない。実のところ、そうした生き方は幸福に結びつかない。なぜなら、幸福とはそうした虚偽や虚栄の中にではなく、真実の中に存在するからだ。幸福は競争的で排他的な生き方の中にではなく、そうしたものとはまるでかけ離れた共生の世界、すなわち共感的な生き方の中に見出すことができる。

 もし彼が本当の学者なら、彼はこの世界の真実を追い求め、その真実に感動するだろう。そして自分の発見した真実を、他者と分かち合おうとするだろう。そのために彼は著作をしたり、講演会を開くかも知れない。その結果、名声を得るかも知れないが、彼にとって名声そのものが活動の目的ではない。

 現代のように競争的な価値観が支配的な社会で、こうした共感的な生き方をすることは、それほど容易なことではない。学校や家庭で教えられていることを疑い、そうした尺度に囚われない生き方をすれば、この社会で勝利者となることは難しいと考えられているからだ。

 したがって、多くの親たちや教師は、敗者になりたくなければ、そうした価値観を受け入れ、そうした尺度に基づいて行動した方がいいとアドバイスするだろう。しかし、そうした助言にもとづいて競争にあけくれても、彼の前途に待ちかまえているのは、多くの場合、挫折であり、苦い敗北であることの方が多い。

 これに対して、ともに生き、お互いに助け合い、喜びも悲しみも分かち合おうとする共感的な人生は、私たちに多くの実りをもたらしてくれる。その実りは、たとえば愛情に満ちた人生の安らぎであり、森羅万象にたいする感謝の心である。

 たのしみは朝おきいでて昨日まで
 無かりし花の咲けるを見るとき

 幕末の歌人、橘曙覧(たちばなあけみ)の歌である。こうした歌をよめば、共感的な人生の消息が、そこはかとなく感じられるのではないだろうか。「天上には星が、地上には花が、そして人間の心には愛がある」と歌ったのはゲーテだ。

 競争する心ではなく、共感する心を育てることを、これからの教育の柱にしたいものだ。共感的な人生を生きることによって、私たちの人生はゆたかに耕され、社会は明るい未来への夢をはぐくむ。実のところ、人生と世界の真実を求めるほんとうに誠実な知の営みもまた、ここから始まるのである。


2004年10月20日(水) 共生論の人生論的基礎

 世の中をホップスのように、「個と個の競争する場」として「競争的」に見るか、ロックのように「個と個が協同する場」として「共生的」に見るか、それによってずいぶんと人生の風景は違ってくるし、その人の生き方も違ってくる。

 ところで、そのどちらが正しいのかと問われたら、私の答えはひとまず「そのいずれも正しい」ということになる。シマウマとライオンは、「個体のレベル」で見れば被捕食者と捕食者だが、よりマクロな「自然界のレベル」で見れば、これによってお互いの種の保存がはかられ、自然界に豊かさがもたらされている。

 問題はこうした生命現象を「個体」というミクロな視点から競争的みるか、「種」や「自然界」というマクロな視点から共生的に見るかとということだろう。こうした視点の選択は、経済問題や社会問題を考えるときも重要になる。

 ともすれば私たちは個人の利害に囚われるが、ときには個人の利害を度外視して、社会の利益を考えることも必要になる。そうすれば、このことが長い目でみれば、個人の利益にもなるからだ。

 したがって、社会の利益を考えるということは、個をないがしろにしてよいということではない。ホップスの偉大なところは、社会は個人を基礎とし、その集団的な活動によりつくられるという「市民社会の原理」をはっきりさせたことだ。

 すべては「個人」から始まる。そしてこの「個人」の協同のうえに「社会」が成り立ち、その社会によって個人の生存が支えられ、個人的生活が保障される。これがホップスを受けて、ロックが考えた近代的な市民社会学の原理だ。

 この理論の弱点は、「自由な個人」という前提を建てたことだろう。というのは、私たちはもともと生物学的にも社会的にも自由ではなく、「個人」でも「市民」でもなからだ。私たちは「遺伝子」によって創られ、「社会」によって創造される。そして長い教育の過程を経て、しだいに自由らしいものを少しずつ手に入れる。

 ここで大切なのは、自由とは社会を離れて存在しないという認識だろう。私たちが何よりも自由であることを尊び、自由であることに価値をおくならば、そうした価値を尊ぶ共生的な社会を創らなければならない。そうしたマクロな視点に立ってものを考えることで、まずは自分の人生を変えていくことが大切なのだろう。


2004年10月19日(火) 巨樹は語る

 先日、たまたまテレビのスイッチを入れたら、NHK教育番組で「巨樹は語る」という魅力的な番組にであった。女優の大竹しのぶが、D・H・ロレンスの名作「チャタレイ夫人の恋人」のヒロインに扮して、イギリスのシャーウッドの森を訪れ、作品の紹介をしていた。

 シャーウッドの森といっても、今はほとんど巨樹がなくなっている。往時の1/100だそうである。それでも所々に、樹齢が500年を越えるオークの巨樹が残っている。番組の中でも、中世の英雄ロビン・フッドが恋人と愛を語り合ったという伝説の巨樹が紹介されていた。

 むかし、ヨーロッパの先住民族であったケルト人たちにとって、オークは神聖な存在だった。それはまさしく神そのものだった。しかし、現在ヨーロッパにはオークの原生林は残されていないという。

 イギリスも昔はオークの森林に覆われていた。ところが、人々は巨樹を次々と切り倒し、城や教会を建てた。あるいは船を建造した。一隻の軍船を作るために2000本ものオークが切られたという。こうしてイギリスからもオークの森がほぼ消滅した。

 貴族達は土地を囲い込み、そこを広大な牧草地とした。さらに、広壮な館を建て、庭園を作り、人工的な道や橋をつくった。ロレンスはそうした人工的な風景庭園を偽りの自然だと考え、小説の中で「現代は本質的に悲劇の時代である」と書いている。

 ヒロインのコンスタンスは炭坑を所有する貴族クリフォード卿と結婚したが、戦争で下半身不随となった夫との間には性の関係がなかった。彼女は夫との生活に恐ろしい空虚感を覚える。何もかもが、あたかも目の前の庭園のように、ただ整っていて美しいだけで、本物の手触りや温もりが感じられない。

 コンスタンスの心の中に、「お前は生きてはいない。自分をよく見て見ろ」という内心の声が響く。そうした空虚を満たそうと、彼女は本能的にシャーウッドの森を訪れ、そこで森番のメラーズと運命的な出合いをする。二人は恋に落ち、はげしく愛し合うことになる。

「彼女はすべてを放棄した。彼女のすべてをなすがままにさせた。そして、洪水の中に自己を失って、消え失せた。そして、生まれ変わった。女として、自然のままの人間として。・・・彼女は森のようなものだった。彼女はオークの森の、暗い茂みに似ていた」
 
 番組の中では、現代のシャーウッドの森番が、ロビン・フッドの衣装をして大竹しのぶを森に案内しながら、「オークは300年かけて成長し、300年かけて生き、300年かけて死ぬ」と語っていた。彼の語る言葉に味わいがあった。


2004年10月18日(月) 語源のたのしみ

 私たちが平生何気なく使っている言葉も、その語源をたずねてみると、意外な発見があったりして、考えさせられ、面白いものである。

 たとえば、「無茶苦茶」という言葉は、お茶を出さないか、出してもやたら苦いお茶をだすことだそうだ。したがって、「無茶苦茶」とはひどい待遇のことで、これが転じて、デタラメという意味になったらしい。

 ところで、このデタラメという言葉は、サイコロを振って、出た目で決めるということからできた言葉。こんなことをしていたら、人生を棒にふり、台なしにしてしまうが、ついでにこの「台なし」という言葉の語源に触れておくと、これは仏像を安置する台がないこと。台がなくては、仏像も威厳が保てず、御利益も期待できないというわけだ。

 人生は芝居に例えられる。「芝居」の語源は、江戸時代にあちこちの村で歌舞伎が催されたが、それを人々は芝生の上に座って眺めたところからきているようだ。ついでに、「大根役者」は、大根のようにどんなふうに料理しても「当たらない」役者という意味だそうだ。

「村八分」というのは、冠・婚・葬・建築・火事・水害・病気・旅行・出産・年忌の十のつき合いのうち、葬と火事を除いた八の付き合いを禁止すること。村の掟を破ると、こんな仕打ちを受けたわけだが、二つだけ残されているのが救いだといえる。

「未亡人」というのは、「未だ亡びぬ人」ということ。この言葉の背後には、「夫が死んだら妻は共に死ぬべきだ」という封建的社会通念がある。だから、もともとは、本人がへりくだって自称する言葉だった。それが今では、他人が平気で使っている。

 人生に不幸はつきものである。そして人の弱味につけ込み、足もとを見て、一儲けしようという悪い奴がいる。「足もと見る」という言葉は、船頭や駕籠屋、馬方などが、旅人の足もとを見て、疲れていると見ると、値段をつり上げていたことからきたらしい。あこぎな奴らである。

 ついでに、「あこぎ」は三重県津市の阿漕ヶ浦からきた。伊勢神宮の御領で禁漁区だったが、密漁者が絶えなかった。ここから、悪事を重ねることを「阿漕」というようになった。高利貸しの金貸し商人など、その最たる者だろう。

「銀行」はいうまでもなく英語のバンクのことだが、これは明治のはじめに福沢諭吉らが考えて作った訳語だ。「金行」という案もあったが、発音しにくいので、「銀行」になったのだという。訳語ではないが、「ぐっすり」というのは、「Good Sleeping」の略らしいから、「ぐっすり眠る」というのは、Sleepingの重複になる。

「ミーハー」 の語源は昭和初期に流行した「みいちゃん、はあちゃん」だとか。これは「みよちゃん」「はなちゃん」など、女子の名前の頭文字からきているという。今でも流行に流されやすい新しがりやの人を指して、ミーハーというが、昭和初期にも流行にかぶれ、結構飛んでいた女性達がいたのだろう。そんな女性達を、「みいはあ」と呼んだわけだ。

「キヨスクKiosk」はトルコ語で「あずまや」という意味だそうである。ここから「小型の店」という意味になった。鉄道弘済会で愛称を募集し、1897点の応募の中から選ばれた名称だそうだ。

「まとも」は、舟の艫(とも)から吹く風を「帆」が「まとも」に受けるのが語源で、「差し金」は文楽の人形や、歌舞伎で蝶や鳥を操るための仕掛け棒らしい。「元帥」は仏教の「明王」からきたという。だから「大元帥明王」などいう。

 雷がなると、「くわばら、くわばら」と呪文のように唱えるが、一説によると、この「くわばら」というのは菅原道真の所有地であった京都近郊の「桑原」という土地の名前だそうだ。雷を道真の怨霊に見立てて、「ここは、あなた様の領地の桑原です」と騙そうとしているわけだ。雷から転じて、怖いものに遭遇したとき、「くわばら、くわばら」というようになったという。

 正月にお供えする「かがみ餅」の「かがみ」は「蛇」の古語だという。岐阜県に各務原(かがみはら)という地名があるが、これは蛇の原ということだ。大小の餅を三段に重ねたところが、蛇のとくろを巻いたかたちをしている。奈良の三輪山も、蛇の形をしているので、こう名付けられた。そして、古代人の信仰のよりどころだった。

 田んぼに立つ「かかし」も、「へび」という意味だ。蛇はイタチなどから田んぼを守ってくれる大切な農耕の神様だった。だからこれを大切にして、神様として崇めたのである。日本に限らず、蛇を神として祭る風習は世界中にある。

 ところで「神」という漢字は、中国ではその昔は「申」と書いた。これは「稲妻」をあらわす象形文字である。「申」は雷に象徴される自然の恵みと威力をあらわす言葉だったが、やがて「申す」という意味でも使われるようになったので、神を祭る祭壇をあらわす「示」を添えて「神」と書くようになった。

 日本語でも「雷」は「神鳴り」であり、「雷光」は「いなずま」という。古代の日本人は、神の放つ稲光によって稲が受精し、ゆたかな秋の実りがもたらされると考えた。そうした古代人の信仰が、私たちが何気なく使っている「いなずま」つまり「稲の夫(つま)」という言葉の中に残っている。

(参考文献・サイト)
「常用漢字解」 白川静 平凡社
「語源由来辞典」
http://gogen-allguide.com/
「語源辞典」
http://www.geocities.jp/honmei00/zasugaku/gogen.html


2004年10月17日(日) アメリカ帝国主義の悲劇

 チャルマーズ・ジョンソンの「アメリカ帝国の悲劇」(文芸春秋)という本を読み始めた。著者はアメリカの国際政治学者で、CIA国家評議会の顧問を務めたこともある、日本・中国の政治・経済研究の権威である。本の構成はこうなっている。

プロローグ アメリカ帝国のベールを剥ぐ
第一章   新旧の帝国主義
第二章   アメリカ帝国主義の根源
第三章   新たなるローマに向かって
第四章   アメリカ帝国主義の各組織
第五章   代理戦争と私設傭兵たち
第六章   基地の帝国
第七章   戦利品
第八章   イラク戦争
第九章   グローバル化にいったいなにが起きたのか?
第十章   アメリカ帝国主義の悲劇

<アメリカ人は、2001年9月11日の世界貿易センタービルと国防総省に対するテロ攻撃のせいで世界は変わったといいたがる。より正確にいうなれば、テロ攻撃は一部の指導者たちの嗜好に危険な変化をもたらしたのである。

 彼らはわれわれの共和国を本物の帝国、新しいローマ帝国だと考え始めた。史上もっとも偉大な巨大国家で、もはや国際法や同盟国の懸念に縛られず、軍事力の使用にいかなる制約も受けないのだと。

 昔の帝国と同じように、われわれの帝国にも地方総督がいる。この場合、それは治外法権を認める「軍地位協定」をホスト国に守らせて、アメリカ兵が地元住民に対して犯した罪の責任をとらなくてもすむように目を光らせる軍の高官である>(本文より)

<本書は、軍国主義国アメリカの成り立ちと、全世界を包囲するその恐るべき現状を、詳細なデーターをもとにありありと描き出した好著である。われわれ日本人にとっては、同盟国の真の姿を知り、現在の同盟関係を問い直すために、ぜひ目を通しておくべき一冊といえるだろう>(訳者の村上和久さんの「あとがき」より)

 レーガン以後のアメリカはいかに世界から収奪するかを考えはじめた。これは帝国主義そのものである。つまりアメリカ国家が「はげたか」になったわけだ。そして、アフガンやイラクに目が向いているが、実はその一番のターゲットは日本である。 

 バブル崩壊以後、この失われた十数年間に、日本の資産がどんどん米国債に化けている。これはタヌキの化かして作った木の葉の偽札をどんどん買い溜めているようなものだ。国民の財産である大切なお金を、もっと有効に使えば、日本はすばらしい国造りができただろうに、それをさせなかったのが、アメリカであり、アメリカのこの帝国主義戦略に乗せられている日本の官僚や政治家だ。

 まずはこのことに気付き、アメリカという猛禽からいかに身を守るかを考えなければるまい。そのための必読書の一つが、2004年に発売された「アメリカ帝国の悲劇」である。この本を読むと、世界を収奪するなかで、自らも崩壊しつつあるアメリカ帝国主義の恐るべき実態がよくわかる。


2004年10月16日(土) 宇宙の話をしよう

 国立天文台の調査によると、小学生高学年の子供たちは約4割が「太陽が地球の周りを回ってる」と答えたそうだ。また、月の満ち欠けについて説明でない生徒も多かったという。

 文部省の御手洗康文部科学事務次官によれば、「地球の自転や公転についての学習は中学校で、きちんと体系的にすることになっている」とのことだ。文部省は「地動説は中学生から教えればよい」と考えているようだが、ほんとうにそれでよいのだろうか。

 太陽が宇宙の中心だという説はピタゴラス、プラトン、アルキメデスがすでに唱えている。しかし、これを「地動説」として、首尾一貫した論理的体系として示したのは、ポーランドの天文学者コペルニクス(1473〜1543)が最初だった。

 しかし、コペルニクスはこの説を学者である読者を対象にラテン語と数学的計算で示しただけで、一般大衆に知らせることは意図しなかった。「新奇で非常識な見解に浴びせられそうな嘲笑をおそれるあまり、私は着手した仕事をあやうく放棄するところだった」と述べているとおり、彼は自説が大衆に受け入れられるとは考えていなかった。「天球の回転について」が出版されたのも、彼の死後のことである。

 これに対して、ガリレオは望遠鏡を使って、天体を観測した。そうすると、木星に惑星が見つかった。これは太陽と地球の縮図ではないか。また、金星が満ち欠けしているのは、金星が太陽の回りを回転している証拠である。それだけではない、太陽に黒点があるではないか。しかも、黒点は位置をかえる。太陽も自転しているらしい。

 ガリレオはこうした観測をもとに、1610年に「星界の報告」という本を書いた。ラテン語でかかれたこの本は、やがてヨーロッパ中にセンセーションを巻き起こした。しかし、46歳のガリレオに思わぬ地位と名声をもたらしたこの成功は、アリストテレス派の聖職者たちの危機感を呼び覚ますことになった。6年後、ローマ法王庁は彼らの意見を容れて、コペルニクスの学説を禁止する布告を出す。

 しかし、今日ではガリレオの「地動説」は世界の常識になっている。太陽や星星が動いているように見える現象も、地球の方が自転しているためにそう見えるのだということを知っている。私はこうした常識を小学校の段階で教えるのがよいと思っている。その主な理由は次の二つである。

�|脇粟發�事実であると証明されているから
�△海里海箸鰺�解することがそれほど困難とは思えないから

 私は証明され、常識となっている事実については、これを証明抜きで教えてもよいのではないかと思っている。もしそうでないと、学校教育はほとんど成り立たなくなる。もちろん、成長のある段階で、その証明を与えることは必要だ。最初から厳密な証明は無理だとしても、知識を天下り式に与えるのではなく、「説明」を工夫し、生徒に理解させる努力が必要なことはいうまでもない。

「太陽や星が地球の周りを回っているように見えるけど、ほんとうは地球が自転しているから、そんなふうに見えるんだよ。僕たちだって、回転すれば、周囲の家や木が回って見えるだろう。それと同じ事なんだ。でも、昔の人は地球がじっとしていると思っていたんだ。だって、地球が丸いことだってしらなかったんだからね。大地は平で、海の果ては滝だと思っていたくらいだからね」

 私自身は小学生時代に、こんな話を先生に教えて貰った。ちょうど日食があって、世界が真っ暗になった年だから、まだ私が小学1年生のときだ。地球が太陽のまわりを回っていて、その地球の周りを月が回っている。ちょうど月が太陽を隠すので、日食が起こるのだという説明を聞いて、とても感動したものだ。

 だから、国立天文台の調査結果を知って、子どもというものは好奇心の固まりだと思っている私など、えっ、今の小学生はそんなことも知らないの驚いてしまう。むしろこうしたことは、学校で教えられる前に、家庭の会話や友人たちの会話のなかで啓発され、自得される知識ではないだろうか。だから「地動説」を教えるのは時期尚早という意見を聞くと、そんなことくらい、もったいぶっていないで、さっさとおしえてあげればいいのに思ってしまう。

 ちなみに、私が小学生の頃から愛読している「銀河鉄道の夜」の最初の一節はこんな具合だ。おそらく、宮沢賢治もこんな授業をしていたのだろう。

−−−−−−−−−−

一、午后の授業

「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」

先生は、黒板に吊した大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指しながら、みんなに問をかけました。

 カムパネルラが手をあげました。それから四五人手をあげました。ジョバンニも手をあげようとして、急いでそのままやめました。たしかにあれがみんな星だと、いつか雑誌で読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないという気持ちがするのでした。

 ところが先生は早くもそれを見附けたのでした。
「ジョバンニさん。あなたはわかっているのでしょう。」
 ジョバンニは勢よく立ちあがりましたが、立って見るともうはっきりとそれを答えることができないのでした。ザネリが前の席からふりかえって、ジョバンニを見てくすっとわらいました。ジョバンニはもうどぎまぎしてまっ赤になってしまいました。

先生がまた云いました。
「大きな望遠鏡で銀河をよっく調べると銀河は大体何でしょう。」
 やっぱり星だとジョバンニは思いましたがこんどもすぐに答えることができませんでした。 先生はしばらく困ったようすでしたが、眼をカムパネルラの方へ向けて、

「ではカムパネルラさん。」と名指しました。するとあんなに元気に手をあげたカムパネルラが、やはりもじもじ立ち上ったままやはり答えができませんでした。 先生は意外なようにしばらくじっとカムパネルラを見ていましたが、急いで「では。よし。」と云いながら、自分で星図を指しました。

「このぼんやりと白い銀河を大きないい望遠鏡で見ますと、もうたくさんの小さな星に見えるのです。ジョバンニさんそうでしょう。」

 ジョバンニはまっ赤になってうなずきました。けれどもいつかジョバンニの眼のなかには涙がいっぱいになりました。そうだ僕は知っていたのだ、勿論カムパネルラも知っている、それはいつかカムパネルラのお父さんの博士のうちでカムパネルラといっしょに読んだ雑誌のなかにあったのだ。

 それどこでなくカムパネルラは、その雑誌を読むと、すぐお父さんの書斎から巨きな本をもってきて、ぎんがというところをひろげ、まっ黒な頁いっぱいに白い点々のある美しい写真を二人でいつまでも見たのでした。

 それをカムパネルラが忘れる筈もなかったのに、すぐに返事をしなかったのは、このごろぼくが、朝にも午后にも仕事がつらく、学校に出てももうみんなともはきはき遊ばず、カムパネルラともあんまり物を云わないようになったので、カムパネルラがそれを知って気の毒がってわざと返事をしなかったのだ、そう考えるとたまらないほど、じぶんもカムパネルラもあわれなような気がするのでした。

 先生はまた云いました。
「ですからもしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを巨きな乳の流れと考えるならもっと天の川とよく似ています。

 つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油の球にもあたるのです。そんなら何がその川の水にあたるかと云いますと、それは真空という光をある速さで伝えるもので、太陽や地球もやっぱりそのなかに浮んでいるのです。

 つまりは私どもも天の川の水のなかに棲んでいるわけです。そしてその天の川の水のなかから四方を見ると、ちょうど水が深いほど青く見えるように、天の川の底の深く遠いところほど星がたくさん集って見えしたがって白くぼんやり見えるのです。この模型をごらんなさい。」

 先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズを指しました。

「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶがみんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。

 みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いのでわずかの光る粒即ち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒即ち星がたくさん見えその遠いのはぼうっと白く見えるというこれがつまり今日の銀河の説なのです。

 そんならこのレンズの大きさがどれ位あるかまたその中のさまざまの星についてはもう時間ですからこの次の理科の時間にお話します。では今日はその銀河のお祭なのですからみなさんは外へでてよくそらをごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。」

(参考サイト)
「国立ぐんま天文台」(地動説と天動説)地動説が優れていることが、ガリレオやその弟子が発見した木星の衛星や金星の満ち欠けから、わかりやすく説明されています。
http://www.astron.pref.gunma.jp/kyozai01/tendou/tendou_top.html



2004年10月15日(金) 「加藤の乱」と小泉政権

 野中広務はどこでまちがったのか。私はやはり、「自自公連立」ではないかと思う。とくに仇敵であった小沢一朗と妥協したことが大きな間違いだった。ここから、日本の政治は後ろ向きに進み始め、彼自身の転落が始まった。

 野中が小沢と手を組むことに反対したのは、加藤紘一だった。加藤は橋本政権を幹事長として支えるなかで、野中と密接な関係を築いていた。自民党の中でも穏健派として考え方や感性の近い加藤を、野中は「魂の触れ合う仲」といい、加藤も野中を評価していた。

 加藤が次期総理候補の最右翼と言われたのも、野中の信頼と後ろ盾があったからだ。また、宏池会という有力な派閥の会長であり、党幹事長である加藤との盟友関係は野中自身の権力の源泉でもあった。この二人が組めば、おそらくハト派路線のかなり強力な政権ができたはずである。ところがそうはならなかった。その理由は自自連立である。

 1998年の10月、帝国ホテルの一室で、野中が加藤に「自由党と連立したい」と切り出したとき、加藤は、「それはダメだよ。なぜなら衆院は過半数をこえているし、過半数に足りない参院の運営も、汗を流して政策ごとに野党と協議をしっかりやれば乗り切れるはずだ」と答えている。

 このあたりから、しっくりしていた二人の関係がずれていく。1999年の総裁選で、あえて総裁選に立候補し、野中が立てた小渕に破れている。2000年4月にその小渕が倒れ、森政権ができたが、それでも森の後は加藤総理、野中幹事長というのが、既定路線だった。

 ところが、加藤はその頃、朝日新聞とのインタビューに、「野中さんと私は感性が違う。十三歳上の人にそれを求めるのは無理だ。僕にとっての田中さんは山崎拓です」とはっきり答えている。これは野中への決別宣言だった。

 加藤は森政権とおなじように、自分の政権が談合で作られることに反発したのだった。そして、ついに11月9日、「このまま森政権を続けるのがいいのかどうか。不信任案が提出されたら欠席することも考えています」という爆弾発言が飛び出す。「加藤の乱」の始まりだった。

 このとき世論は加藤を「改革派」の旗手として圧倒的に支持したが、これを野中が全力で潰した。その有様を、当時渦中にいた渡辺喜美衆議院議員は「加藤の乱の顛末」にこう書いている。

<松浪議員の水かけ事件で議事が中断したお粗末極まりない11月21日未明の本会議で、森内閣に対する不信任案が否決された。本会議開会直前に加藤・山崎派が欠席を決めたあげくの結末だった。森政権護持に走る江藤・亀井派を離脱し、不信任案に賛成票を投じようと決めていた私にとっては梯子をはずされた思いだった。

 森擁護派の加藤派・山崎派や無派閥・無所属組への執拗な働きかけは想像を越えていた。ある者には金やポストによる利益供与の甘いささやき、他の者には党除名や対抗馬擁立などの恫喝が行われた。なんとも後味の悪い結果であった>

 加藤の乱で、森派の事務局長として森政権を守り通したのが、かってのYKKの一人だった小泉純一郎だった。「加藤の乱」で加藤は失脚したが、同様に野中も傷ついた。漁夫の利を得たのが小泉だったと言えるだろう。小泉政権は「加藤の乱」の遺産の上に成り立っているからだ。

 小泉首相は先日行われた人事で、意外な人を自民党の幹事長に抜擢した。山崎派の武部勤(たけべつとむ)である。彼は「加藤の乱」では、野党の内閣不信任案に賛成するため、山崎氏が加藤紘一元幹事長とともに本会議場に向かおうとした際、「加藤さん、あんた一人で行け。うちの大将は行かさない」と言い放った男だ。彼は小泉政権への流れを作った功労者の一人である。

 武部は2001年4月の小泉内閣発足時に農相に就任し、BSE(牛海綿状脳症)問題では、「感染源の解明はそんなに大きな問題なのか」などと問題発言し、その行政手腕が疑われ、与野党から辞任を求められたが、小泉首相はこれに応じなかった。そして、今回は幹事長への大抜擢である。これも「加藤の乱」の武勲のたまものだろう。

「加藤の乱」がなくても、野中と決別した加藤に首相の目があったかどうかわからない。しかし、彼を「乱」にまで追いつめたのは野中を司令官とする森・橋本陣営のしめつけがあったからだろう。私は野中幹事長のもとで加藤政権ができていたら、今の日本はもう少し希望の持てたものになっていたのではないかと思っているが、どうだろうか。


2004年10月14日(木) 戦場の甘い誘惑

 クリス・ヘッジスの「戦争の甘い誘惑」(河出書房新社)を読んだ。ピューリツア賞や、人権を追求する著作としてアムネスティの国際賞など多くの賞を獲得した世界的ベストセラーで、去年発売されたとき、新聞などでさかんに紹介された筈だが、私は何故か見落としていた。

 最近、この本の存在に気付き、読みはじめた。著者のクリス・ヘッジスはハーバード大学神学部で修士号をとった後、記者になり、1990年からは「ニューヨーク・タイムズ」の従軍記者として、15年間世界の戦場を駆け回っている。

 彼が行くのは、湾岸戦争、パレスチナ紛争、ボスニア、コソボ、スーダン、イエメンなど、すべて生と死の隣りあった危険なところばかり。取材を終えるたびに、もう二度と行かないと決意するものの、やはり「戦場の魅力」にはまけてしまうという。戦争はドラッグのようなものだという著者の主張には、体験に裏付けられた真実味が感じられる。

 この本には著者自らが戦場で体験した数多くのエピソードが語られている。たとえば、著者はガザ地区の難民キャンプでこんな体験をした。フェンスを挟んだイスラエル側から、突然アラビア語で「出てこい、イヌやろう!オフクロのオマンコやろう! そら、ここへきな、カム、カム」と拡声器が子供たちをからかいはじめ、キャンプの子供たちが石を持ってかけつけると、サイレンサーを着けた銃でねらい打ちをする。

「数々の戦闘の中で、撃たれた子供たちをたくさん目撃してきた。エルサルバドルやグアテマラでは、軍の暗殺隊が子ども達を撃ち殺し、アルジェリアでは、赤ちゃんを抱いた母親が一列に並ばされ虐殺された。サラエボでは狙撃兵が子ども達に照準をあて、道にくずれていくのを冷静に見つめていた。だが、兵士達がネズミのように子ども達を罠にかけ、スポーツ気分で射殺するのを見たのは、今度が初めてだった」

 20世紀は戦争の世紀だといわれている。4000万人以上の兵士が殺され、これを上回る一般市民が殺戮された。その合計は1億数千万人及ぶといわれている。著者はこの現実を数十年間従軍記者として身近で見つめ続けてきた。それだけに戦争の非人間性を告発する著者の言葉には重みがあり、人類の文化や文明に対する深い洞察がうかがえる。そうした言葉のいくつかを、ここに引用しておこう。 

「戦争がもたらす恍惚感は、強力な感染力のある嗜癖である。戦争とは我々にとって、長年にわたって打ち続けてきたドラッグなのだ。戦争を神話に仕立て上げた者達、つまりドラッグの売人とは、歴史家、戦争特派員、映画製作者、小説家、それに国家であり、彼らはあげて戦争の効用を喧伝するのだ。それは、興奮、エロティシズム、権力、人生における上昇志向、それにグロテスクで暗く奇妙で幻想的な美の世界だ。戦争は文化を支配し、記憶を歪め、言語を堕落させ、戦争をとりまくすべてに感染する」

「戦闘のただなかにいると、日々の生活がいかに浅薄で空虚なものか実感する。日常の会話も放送もくだらないことばかりだ。それに引き替え、戦争こそは魅力の万能薬。決断とか大義とかを意識させてくれるものが戦争だ。日常に意味を見いだせないでいる者達、意欲の失せたガザ地区のパレスチナ難民、フランスで差別される北アフリカ移民、先進地域で安全をむさぼり、怠惰に生きる若者達、彼らは皆、戦争の誘惑には抵抗がない」

「戦争というものは一時的には、日常の頭痛の種や些細な雑事を忘れさせる。敵に対してスクラムを組むことで、孤立感・疎外感という日頃の鬱憤を忘れさせ、隣近所や共同体、国家との、思いがけず暖かい絆を強めた気にさせる。倦怠感に包まれ絶望感に陥っている時、戦争はまさに気晴らしに有効である」

「現代のナショナリズム紛争やナショナリストの蜂起というものは、セルビア人対イスラム教徒であれ、フツ族対ツチ族の戦いであれ、それは宗教戦争ではない。ましてや文化や文明の衝突などではない。さらには、昔から鬱積していた人種的憎悪が爆発したのでもない。それは捏造された戦争である。一般市民の堕落から生じ、恐怖と強欲、パラノイア、それらはもはや収拾がつかない状況である。戦争は、社会の底辺から這い上がったギャングどもによって仕組まれ、彼らが保護すべき身内まで巻き込んで、すべてを恐怖のどん底に突き落とす」

「戦争によって世界は一切が逆転してしまった。必死に働き、わずかずつでも預金し、なんとか年金か給料で生き延びてきた人達は、すべてを失ってしまった。その一方で大借金を抱え返済不能に陥っていた無節操者達が闇市や犯罪で懐を肥やし、欲しいものを奪うためには暴力を振るい、途方もない富と権力を手に入れていった。モラルも解体し、逆転の掟ができあがっていく」

「戦時体制に入ると、まず国家は自国の文化を破壊しようとする。それを破壊し終わってはじめて、敵の文化の抹殺に取りかかるのである。紛争に際しては、真の文化は有害だ。国家が推進する大義によって国家的アイデンテティが確立し、戦争という神話を煽ることで国民を栄光と犠牲とに駆り立てている時、大義の価値、神話の真偽に疑問をさしはさむような輩には、内なる敵というレッテルを貼らなければならない。・・・戦争にある国家は、本物でヒューマンな固有の文化を沈黙させる」

「戦いが正義に基づくと国家が宣言した暁には、国家がでっちあげた神話の正義に従っていればいい。やがてこの神話は崩壊する。その時こそ、国家が推進した行動や、その動機について、疑問を提起するチャンスなのだが、我々には、戦争体験をへて、一種の『真夏の夢』現象が起きてしまっており、一体何事が起きたのかまったく覚えていないという精神状態に陥る」

「戦争の後には、しばしば集団的健忘症に陥ることがある。コソボを失うやセルビア人がミロシェビッチに背を向けたように、人種主義的神話は弾け飛ぶ。しかしそれでは、ナショナリズムのウイルスを撲滅したことにはならない。人種主義の大義の名のもとに行われた狼藉行為が忘れられるか無視されている間も、ナショナリズム神話は社会に寄生して冬眠し、覚醒の時をうかがっている。国家に仕えた少年の冒険物語や、戦死者のために建立した忠魂碑を栄養にしながら力を蓄えていくのだ」

「民族の神話とは平和な時には穏やかで、娯楽産業、学校教育、小説、伝承風歴史小説の題材になったり、モスクでの説教に取りあげられたり、低級な歴史ドラマで扱われる程度で、実際の歴史研究の障害になることもないし、他民族に対して寛容さをひけらかしても構わない。だがいざ戦争となると、民族の神話は集団的健忘症を引き起こすのだ。神話は高貴で偉大な先祖を称え始めるが、そうした先祖など決して存在しなかったのだ。つまり意識的な健忘症である。殆どすべての集団、なかでも国家はこうした神話を持っており、ナショナリストはこれを発火剤として戦闘の火蓋を切る」

「戦犯罪を実際に遂行した者は陰口をたたかれるが、まず罰せられることはない。静かに引退していくだけである。実権を握る諸機関、国家保安機関、軍部、内務省などは、ある程度の証拠の提出は黙認しても、殺人行為を指示した現国家機関の責任にすることだけは断固拒否する。しかし、歴史の記憶を甦らせることは、戦争から立ち直るためには不可欠だ。『権力に対する人間の闘いとは、記憶が抹殺されることへの闘いである』と小説家ミラン・クンデラは述べている」


2004年10月13日(水) 政界引退

 野中広務は総裁選で小渕をふたたび総裁・首相にしたあと、2000年4月2日、小沢一朗の自由党との連立を解消した。しかし、この直後、小渕が脳梗塞で倒れた。

 野中は幹事長の森、政調会長の亀井、参議院会長の村上らと赤坂プリンスホテルで会合し、後継首相に森をすえることにした。そして森の後継として、自らが幹事長になった。しかし森内閣は女性スキャンダルや森自身の失言もあいついで、国民からあいそをつかされた。

 支持率が20パーセントを割り込んだ森内閣に、すかさず、民主党などの野党は「内閣不信任案」を出してきた。これに次期首相と目されていた加藤が同調する姿勢を見せたので、大騒ぎになった。いわゆる「加藤の乱」である。野中はこれを力で制圧したが、これでまた自民党・森政権に向ける国民の目は冷ややかになった。

 2001年1月にはKSD事件が表面化した。外務省の機密費流用があきらかになり、森の失言が続く中で、自民党や公明党内部から、森退陣をもとめる声が吹きだしてきた。総裁選が前倒しで実施されることになり、後継首相に野中を押す声がいちはやく公明党や保守党から上がった。

 党幹事長で、最大派閥の橋本派を握る野中が総裁選に出れば勝利が見込まれた。ところが、野中は「資質のない人間が首相の座についたら日本の不幸だ」とこれを固持した。代わりに派閥会長の橋本龍太郎を担ぎ出した。

 その背景には、被差別部落出身という野中の出自がからんでいた。元経企画庁長官で総裁戦に出馬した麻生太郎は河野グループの会合で、「あんな部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」と言ったという。そうした声は野中にも届いていた。

 2001年4月19日から21日にかけて地方の予備選が行われた。そこでまさかの逆転劇がおこった。地方票がなだれをうって小泉純一郎に流れたのだ。橋本は国会議員の本選挙を待たずに敗北宣言を出した。こうして小泉政権が誕生し、1972年(昭和47年)から続いた田中・竹下派主導の政治に終止符がうたれた。

 2003年9月の総裁選で野中は小泉打倒に執念を見せたが、派閥の有力者である青木幹雄や村岡兼三が離反して、これも不発におわった。総裁選の11日前に野中は政界からの引退を表明した。野中は日本外国特派員協会で次のように語り、会場を後にしたという。

「もう今の流れは止めようがありません。政治家としての退路を断つことで、せめて現在の政治の状況に警告を発するのが私に残された道だと思います。私はもう生々しく生き残ろうとは思いません。静かに消え去って行こうと思っております」

 振り返ってみると、野中の政治家としての原点は京都府にあった。彼は町議から町長、府議員、副知事と、その経歴の大半を地方政治家として歩んでいた。そして、1978年(昭和53年)3月、蜷川知事引退を前にして開かれた京都府議会で、自民党を代表してこんな送別の辞を送っている。

「この議場で時には、今から思うと、横綱に子どもが飛びかかるような光景のようにうつりますけれども、自分では毒舌のように食いかかったことが非常に懐かしい。あるいは時には議場が蜷川教授の教室ではないかと錯覚に陥るような知事の答弁に聞き惚れたこともございます。私は立場を異にはいたしましたけれども、偉大なる政治家の足跡を思い、振り返り、深い敬意を表するものであります」

 最後に登壇した蜷川は目を潤ませながら、「野中議員が申されたように、過去を振り替えってみると、すべて美しく、幸せに思うような感慨が胸にこみ上げてまいりました」と語り、野中に深々と頭を下げて本会議場を去ったという。

 野中という政治家をどう評価したらよいのだろう。57歳で国会議員になり、被差別部落民の出身でありながら、その弱点を武器にして、剛腕で人に恐れられ、権力の階段を上り詰めた男。しかし、彼は「影の総理」とよばれながら、総理大臣の地位を手にすることはできなかった。

 魚住昭さんは「野中広務、差別と権力」のなかで、野中は「『潮目を見る』政治家であって、潮目をつくり出す政治家ではない。利害や思想の異なる集団同士の調停では突出した能力を発揮するが、かっての田中角栄のように大きなスケールで国家の将来を創出する力はない」と述べている。

 野中は政策を実現する能力は高かったが、政策を作る能力はそれほどではなかった。政策よりも政略に秀でた人だったといえよう。その意味で彼は、田中角栄の「負の遺産」の相続者であった。

 彼が日本の政治をよくしたとは思えない。それでも私は敗北者として去っていく彼に、一抹の同情を覚える。「ごくろうさん」と声をかけたい気がする。それは彼が親の七光りを受けた世襲議員ではなく、私たちと同じ「民草」であり、「民草」のかなしみや苦しみを体と心で知っていた政治家だったからだろう。


2004年10月12日(火) 国家・国旗を法制化した男

 1999年(平成11年)2月28日、広島県立世羅高校の校長・石川敏浩が首を吊って死んだ。自宅には石川校長の、「何が正しいのかわからない」という走り書きの遺書が残されていた。

 石川校長が自殺したのは、卒業式の前日だった。卒業式で「日の丸」掲揚と「君が代」斉唱を求める文部省・県教育委員会と、これに反対する教職員組合や部落同盟との板挟みになって苦しんだあげくの自殺だったとみられた。

 しかし、校長はもとより、日の丸を掲載する気はなかったという。これをキャッチした県教委は、自殺当日の朝、指導主事を校長の自宅に派遣した。校長が納得しないので、次長を派遣することになって、主事がその出迎えに出たすきに、校長は家を抜け出して自殺したらしい。

 当時の新聞にはこうしたことは報じられなかった。校長の日記が公表されたが、「今日、学校へ教育次長がきた。苦しかった」といった県教委に対する不満を述べた部分だけは発表されなかった。そのため世論は県教委よりも、教職員組合や部落解放同盟の方に厳しかった。

 3日前の予算委委員会で、小渕首相は「日の丸、君が代は国旗、国歌であることの認識は確立している。現時点では、政府としては法制化は考えていない」と答弁していた。事件後、小渕は答弁を撤回し、法制化を言明した。

 小渕に答弁を撤回させ、法制化を強行したのは官房長官の野中広務だったという。野中は「老兵は死なず」にこう書いている。魚住昭さんの「野中広務」から孫引きしよう。

<このへんで、意見の対立はあるが、『日の丸』を国旗、『君が代』を国歌として正式に国として認めていいのではないかと私は考えた。そして不毛な政治抗争でこれ以上の犠牲者を出すことはやめようじゃないか、と考えた>

 校長が自殺したのは、県教委が校長の判断を尊重せず、むり強いをしたからである。これを批判しないで、法制化のほうにもっていくのは、論理のすりかえだろう。校長を自殺させないために政治家がすべきことは別にあったはずだ。

 野中広務は反戦・平和を口し、弱者や差別される者に対する同情を寄せてきた。ところが、ハト派とみられていた野中が、タカ派の小沢と協力して、ガイドライン関連3法案、盗聴法、住民基本台帳法案など、いわゆる有事にそなえて国家主権を強化する法案を次々と成立させた。このことについて、野中は後にこんな弁解をしている。

「僕が力を入れてやったのは、国旗・国歌法と男女共同参画社会基本法なんだ。この二つで頭が一杯だった。ガイドラインと住基ネットはもっと慎重にすべきだったと思っている。こちらが余裕がないときに、役所のペースで『ハイ、ハイ』とやられてしまった。それと、ガイドラインなどはあれですよ。小沢一朗と連立を組んでいたから、小沢の要求を呑んだ、という面が大きい。自自連立でしたからね」

 知日派のコロンビア大学教授、ジェラルド・L・カーチスはニューヨークでの講演で、「ここ十年の日本政治を分析すると、自自公連立が近代化の分かれ目で、それ以来、日本の政治は後退してしまった。あれほど残念なことはない」と述べている。

 自自連立を作ったのは野中である。たしかに、寝業師の野中と、立ち技の小沢が組むと大仕事ができる。しかしその仕事の手法や内容が問題だ。これで日本の政治はますます保守化した。そして、その先に、保守本流を自任する森派の躍進がある。将来、私たちは「国家主義」という「悪魔」にひれ伏すことにならなければよいのだが。


2004年10月11日(月) 「悪魔」にひれ伏した野中

 57歳の野中が京都の選挙区から代議士に立候補したとき、すでに田中派の若きプリンスであった小沢一朗は自民党の総務会長だった。そして野中の選挙を応援する実行部隊の中心だった。こうした経緯があるので、小沢にとって野中ははるか格下の新参の田舎議員にすぎない。

 しかし、みるみる永田町で頭角をあらわしてきた野中の実力にはあなどれないものがあった。「これからの小沢さんを支えるのは野中さんですね」と言われたとき、小沢は「なんで野中なんか!」と不愉快な顔をしたという。野中は著書「私は闘う」の中で、小沢についてこう書いている。魚住昭さんの「野中広務」から孫引きしよう。

<ちょっとしたことで小沢さんに注意したことが、お気に召さなかったようで随分前から『音信不通』状態になっていたが、年も私の方がはるかに上で『目くじら立ててもしゃあない』と思っていた>

 自民党の幹事長として京都にやってきた小沢が、連絡先も告げずに雲隠れして、夜の先斗町で遊んでいたことがあった。野中はそれを注意したらしい。小沢は「余計なお節介だ」といわぬばかりにプイと横を向き、それから口をきかなくなったという。

 年は上でも、国会議員のキャリアははるかに小沢が上である。保護者面をして私生活にまで介入してくる野中が、年次意識の強いエリート二世議員の小沢にはたまらなく不愉快だったのだろう。

 さらに、同じ田中派にいながら、小沢と野中は政治手法も違っていた。小沢は小選挙区制のもとでの二大政党制の実現を自分の政治目標にかかげていた。そうすれば与野党のなれあいや、党内の派閥政治はなくなり、政策を中心とした本来の政治が実現する。これで日本は劇的に変わると考えた。

 しかし、地盤や看板の上にあぐらをかいている日本の政治家の多くは、こうした改革を臨んでいない。与野党とも中選挙区のまま、自らの既得権益を守ることに汲々としている。小沢から見れば野中もまたこうしたどうしょうもない旧い体質の「守旧派」の一味でしかない。

 一方、野中にすれば、小沢のいうような白黒をはっきりさせ、正邪を厳しく問う西洋型の政治は日本の風土にあわないのではないかという思いがある。他者を切り捨て、対立をあおりたてるような政治ではなく、国民の宥和をはかるような政治が望ましい。中選挙区であれば、さまざまな階層の立場を異にする多様な声が圧殺されることなく国会に反映される。

 政治をさまざまな利害の調整の場だと考える野中と、自らの政治理念を実現させる場だと考える二人は水と油ほど違っている。ちなみに「構造改革」を主導する小泉首相もまた、小沢タイプの理念型の政治家だといえよう。小沢が「守旧派」と呼んだものを、小泉首相は「抵抗勢力」と言い換えているだけである。

 小沢は緊張と決断力のある政治を目差した。何事も明確にすることが好きなのである。そして原理や原則を重視する。これもたしかに大切なことだが、野中からみれば人生を知らないひよっこの二世議員であり、青臭くてつきあいきれないということになる。実際、小沢はせっかく手中にした権力を、わずか2年で手放さなければならなかった。

 小沢の政治理念に共鳴した多くの同志が、彼から次々と離れた。そして、小沢が失墜すると、自民党や社会党の「守旧派」が息を吹き返した。その立て役者が野中だった。しかし、社会党と組んで政権を奪い返した自民党も盤石ではなかった。

 1996年(平成8年)10月の小選挙区比例代表並立制で行われた総選挙で自民党は28議席増の239議席を獲得したが、過半数に届かなかった。しかも連立相手の社会党は議席を半減させた。

 そして98年7月の参議委員選挙で、自民党は惨敗した。改選前の61議席から45議席まで後退した。これで橋本は政権を投げだし小渕が後をひきついだ。野中は官房長官として、これを支えることになったが、前途多難なことはいうまでもない。野中は公明党との連立をはかる。しかし、まだまだ公明党も連立では踏み切れない。

 そこで野中が考えたのが、小沢の「自由党」との連立だった。野中は官房長官に就任した記者会見で、「法案を通すためなら小沢さんにひれ伏してでも、国会審議にご協力いただきたいと頼むことが、内閣の要にあるものの責任だと思っている」と発言し、周囲を驚かせた。

 野中は小沢を「危険な独裁者」とも「悪魔」とも呼んでいた。「彼と手を結ぶくらいなら政治家を辞める」とまで言い切っていた。その野中が、「悪魔」と手を握り、その前にひれふすというのだから尋常なことではない。

 小沢は機嫌よく野中と会って握手し、これまでの経緯をわびた野中に、「そんなことはいいよ。それより国家が大事だ」と答えたという。こうして翌99年1月に自自連立政権が成立した。1月末からはじまった通常国会では、「ガイドライン関連三法案」をはじめとする政府提出の重要法案が、自自公三党の圧倒的多数で次々と成立した。


2004年10月10日(日) 池田大作の大望

 日本には西洋のような熾烈な宗教戦争はなかった。また、十字軍もなかった。それは仏教の根本の考え方が「空」であり、教義そのものも「空」であるとする立場だからだ。たとえば親鸞は「歎異抄」で弟子の唯円に、「義なきをもって義とす」と語っている。例外がないわけではないが、原理的には宗教戦争が起こり得ない。

 日本古来の宗教である「神道」もまたこれという教義をもたない。その昔は社さえもなく、ただ巨木や岩を「ご神体」としてあがめていた。森羅万象に命が宿り、神が宿ると考えられていた。それは理屈ではなく、生命の実感だった。

 こうした神道と「習合」した仏教は、日本で独特な思想を育んだ。それは「空」のなかにこそ命が宿るという思想である。自己を空しくすること、すなわち「無心」ということが、悟りに至る要諦であり、さとりそのものだとされた。

 しかし、日本の仏教者の中にも変わり種はいる。それが日蓮だった。日蓮は「義」を重んじる人だった。そしてその「義」を政治を通して実現しようとした。日蓮は国が乱れるのは、国に正しい思想が行われず、人々が「義」に背いているからだと考えた。「立正安国論」で次のように書いている。

「世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神は国を捨てて相去りし聖人は所を辞して帰りたまはず。是れを以て魔来たり鬼来たり災起こり難起る」

 池田大作が率いる創価学会もまたこの日蓮の思想を受け継いでいる。学会発行の「折状教典」には、「日蓮大聖人の仏法の実践は、王仏冥合の達成である」と書かれている。そして「王仏冥合」については、こう書かれている。

「正しい仏法によって、人間革命された政治家が、仏法の哲理を根本精神として、大慈悲を政治の上に反映させ具体化する時、はじめて理想的な政治が行われ、王仏冥合ととなるのである」

 王仏冥合の達成のために、池田大作は昭和39年に公明党を創った。そして結党宣言で、「公明党は王仏冥合・仏法民主主義を基本理念として、日本の政界を根本的に浄化し、大衆福祉の実現をはかるものである」と謳った。

 池田大作の宿願は、「日蓮正宗、創価学会を国教化すること」である。ローマ帝国がキリスト教を国教化したように、日本は日蓮正宗を国教化し、やがては世界の国々が日蓮正宗を国教として受け入れるなら、そのときこそ世界に究極の平和が訪れるに違いないと考える。

 これはなかなか気宇壮大で、魅力的な思想であり、実践であるが、その前途は険しいといわねばなるまい。国家予算で「本門の戒壇」を建立し、「日蓮正宗の国教化」を実現するには、国会で多数派とならなければならい。しかし、全国の学会票は約600万である。これを全国300の小選挙区で割れば、各選挙区に平均2万である。これだけの票で勝てるわけがない。

 600万票の学会票をもっと有効に使えないか。そこで考えられたのは、「公明党」を解体し、もっと大きな「国民政党」を創設し、そのなかに創価学会の影響を浸透させる作戦だった。池田大作のもとで、この公明党の国民党化戦略を強力に推し進めたのが市川雄一だった。

 彼は小沢一郎と「一・一コンビ」を組んで、「新進党」を立ち上げた。「新進党」が小沢の「守旧派攻撃」によって躍進し、細川の「日本新党」をとりこんで自民党から政権を争奪する勢いに乗って、市川は公明党の議員を次々と新進党の議員に衣替えさせた。

 公明党に所属していた議員が新進党を名乗ることは、大きなメリットがあった。「新進党」という看板を立てることで、創価学会に対する世間の反発を避け、保守層や労働者層にまでその支持の裾野を広げることができる。これに学会の基礎票が加われば、当選者の数を飛躍的に伸ばすことが予想された。当時衆議院事務局の委員部副部長だった平野貞夫と、元学会員・岡本の証言を、魚住昭さんの「野中広務、差別と権力」から孫引きしよう。

「そもそも新進党をなぜつくったかというと、これに公明党が協力したのは池田名誉会長の意思なんです。人を出してカネを使って政党を作って、これだけ悪く言われるのは合わないと。政治が信教の自由というのを理解したから、もう公明党は要らない。創価大を出た者が自民党からも新進党からも国会議員になる。それでいいんだという彼の判断があったんです。政党を持っていることが面倒くさいという部分もあったのでしょう」

「公明党時代は池田先生なんかしょっちゅう『わしは公明党があるから攻撃の標的にされる。宗教団体のままだったら立正構成会のようにちやほやされるのに』とぼやいていましたからね。そういう意味でもブランドは新進党、エネルギーは創価学会というのは都合がよかった。それで公明に残っている参議院議員11人も新進党に全面合流させる話が進んだんです」

 橋本政権がスタートして9ヶ月後の1996年(平成8年)10月に、小選挙区比例代表並立制で最初の総選挙が行われた。自民党は28議席増の239議席を獲得した。この選挙で野中広務は京都四区で、新進党と共産党の候補を破り、6回目の当選をはたした。意外なことに、このとき学会は上からの指示で、新進党の候補ではなく、野中を支援した。野中を敵にまわしたくなかったのだろう。

 創価学会のこうした消極姿勢もあって、新進党は4議席を減らして、156議席に後退した。旧公明党議員の議席も、52人から39人に減った。こうしたなかで、旧公明党議員の新進党離れが進んでいった。

 それでも4月後の1997年(平成9年)2月の党大会で、7月の都議会選挙後、11人全員を新進党に合流させる方針が決まった。そしてこの方針にしたがって、8月にはまず3人の参議院議員が新進党に移っている。ところが4月後、合流話はご破算になり、新進党が分裂した。

 その背景には公明党と野中広務の急速な接近があった。野中は旧公明党の議員達と頻繁に会い、「中選挙区にもどして当選しやすいようにするから、公明党を復活させないか」と甘い蜜言をささやく一方で、「公明党が消滅したら、池田大作先生の身辺が危うくなるかもしれない」という、議員たちにはもっとも恐ろしい指摘をしたらしい。

 学会の本部がある信濃町はとても静かである。その理由は「静穏保持法」という法律があるためだ。1988年に成立したこの法律で、国会周辺と外国公館、それに政党事務所周辺での拡声器使用が規制されている。

 もし、公明党の議員が全員新進党に合流したら、信濃町から「公明党」の事務所が消える。そうするとこの法律が適用されなくなり、おそらく右翼の宣伝カーが押し寄せるだろう。信濃町にある池田大作の住宅の周辺はとくにねらい打ちされないとも限らない。

 自民党がこの法案を通したのは、「消費税法案」を通すため、これに反対していた公明党を懐柔するためだった。公明党はその直後の選挙でこれを批判された。公明党がこれだけの犠牲を払ってまで成立させた法案が、役に立たなくなるというのだ。右翼が以前のように押し寄せてきても打つ手がなくなる。池田大作を守ることがむつかしくなる。

 野中はこれを京都市内の料亭で学会副会長の西口に告げたらしい。西口はこの情報に驚いて、合流にストップをかけた。小沢にも妙案はなく、「衆議院だけを新進党に残して、参院は公明党を復活させてはどうか」と提案したらしい。しかし、これでは公明党にメリットはない。これがひきがねになって、公明党は新進党との合流をあきらめた。

 その年の12月27日、小沢は新進党の解党を宣言した。解党宣言を境に、旧公明党のグループだけではなく、鹿野道彦のグループや旧民社党のグループも次々と離脱した。結党時に衆参両院で215議席を擁していた新進党は6つのグループに分裂し、小沢が新しく立ち上げた自由党には54人の議員しか残らなかった。こうして小沢は政界での発言力を一気に失った。

 しかし、小沢と市川が手を組んで実現した「小選挙区制」は、創価学会にとっておもわぬ遺産となった。自民党と民主党が拮抗する小選挙区で、創価学会が握る2万票は決定的な重みを持つことになる。学会票が来るか来ないかで、差し引き4万票の得失になる。つまり、日本のほとんどの選挙区では学会を敵に回しては選挙に勝てない。こうして与野党の議員は学会票欲しさに学会にすり寄っていく。

 元学会員の証言によると、学会には国会議員のブラックリストがあるという。議員達の発言は常にチェックされ、「反学会」の発言をした議員は「適性」というレッテルが張られる。そうすると、その議員は選挙で勝てない。こうして前回の総選挙では、島村宜伸、小杉隆、深谷隆司などの自民党議員が落選した。落とされた議員は二度と学会を批判しなくなる。こうして学会批判が政界のタブーとなっていく。 


2004年10月09日(土) 公明党を小沢から奪う

 小沢一郎が経世会の中で力を蓄え、やがて分裂して自らの派閥をつくることができた背景に、公明党書記長の市川雄一、ひいては池田大作創価学会会長との太いパイプがあった。93年夏に細川政権を誕生させた立て役者の一人は市川である。

 市川は池田会長の覚えがよかった。1976年に初当選し、86年に国対委員長に起用され、当時官房副長官だった小沢と意気投合した。細川内閣の組閣前日、池田は長野市で行われた学会本部幹部会で、こうスピーチした。

「スゴイ時代にはいりました、ね! そのうちデージンも何人か出るでしょう。まあ、明日あたりですから。みんな、皆さん方の部下だからそのつもりで。日本一の創価学会ですよ。明日の新聞楽しみに。まだ言うのは早いんですけどね。これからですよ本当の仕事は」

 翌年、市川は小沢と新進党を結成した。しかし、これを境に、自民党の創価学会攻撃が猛然とはじまる。そして、その先頭に立ったのは、いうまでもなく「政界の狙撃手」と恐れられた野中広務だった。

 野中はまず、学会発行の「聖教グラフ」に目を付けた。そこに池田が外国の要人と会見する写真がたびたび掲載されていた。問題は写真のバックに映っているルノワールとかマチスといった有名画家の絵だった。

 野中はその絵を創刊号からすべて調べあげ、学会が届けている資産リストと照合した。その結果、届けられていない資産がかなりあるらしいことがわかった。野中はこの事実を公然とは発表せず、それとなく漏らした。学会としてはこうした野中の行動が不気味だった。

 さらに、池田側近で「公明」代表の都会議員・藤井富雄が暴力団の組長と密会したところを撮られたビデオを自民党の亀井静が入手したという情報がもたらされた。情報の出所は野中広務だった。野中に脅されて、学会はふるえ上がった。

 村山内閣が発足し、非自民政権が崩壊すると、自民党の公明・創価学会攻撃はさらに熾烈になった。自治大臣となり国家公安委員長の地位に就いた野中は「オウム事件の捜査が宗教法人の壁に阻まれた。法改正の必要がある」と言い出した。

 そして95年秋の国会で、創価学会に拘わる宗教法人法改正が行われた。これに先立ち、創価学会会長の秋谷栄之介が国会に参考人として呼ばれた。「このまま野中と対立していたら何をされるかわからない」という恐怖心が学会に広がった。

 小沢と「一・一コンビ」を組んでいた市川書記長は更迭された。公明党は新進党から離脱し、小沢と距離を置くようになった。そして創価学会は野中に叩かれるたびに恐怖心を募らせ、野中に接近していった。こうして野中は公明党を小沢から奪い、「自公連立政権」を作りあげた。

 野中は自民党の他の議員が直接公明党と接触することを許さなかったという。公明党への窓口を自分だけにしぼることによって、野中はさらに自らの権力基盤を盤石なものにした。自民党のみならず、社会党と公明党を握った野中はいまや権力の頂点に立ち、「影の総理」とまでいわれるようになった。


2004年10月08日(金) 村山内閣の誕生まで

 政治に下克上はつきものである。佐藤首相は後継者に福田赳夫を考えていたが、田中角栄はこれを拒んで戦い首相になった。しかし、その田中も竹下登に寝首をかかれる。竹下が下克上を決意したのは、田中が不用意に口にした「おれがもういちど首相をやる。お前はその後だ」の一言だったという。

 田中はロッキード事件で逮捕され、公判中だった。竹下はとうぜん田中が自分に会長の職を禅譲してくれると期待していたのだが、それがかなわぬと見て、田中に反旗を翻した。田中はアルコール漬けになりやがて脳梗塞で倒れた。

 その竹下もやがて小沢一郎に足許を脅かされた。小沢の幹事長就任に反対したものの、派閥の会長である金丸が小沢を溺愛していたのでどうすることもできなかった。しかし約30億円におよぶ脱税容疑で金丸が議員辞職すると、風向きが変わった。

 金丸は自分の後継に小沢を指名しなかった。小沢が懇願しても、「それはあとの人間がきめることだ」ととりあわなかった。このころ、金丸が心を許していたのは野中だった。野中は失意の金丸を毎日のように訪れ、マージャンをしていたという。そして野中の背後にいたのが竹下だった。

 金丸の後、経世会の継総裁に選ばれたのは小沢ではなく竹下子飼の小渕恵三だった。争いに敗れた小沢は新派閥、改革フォーラム21を結成し、羽田孜を会長に据えた。こうして経世会は分裂した。小沢の番記者の回想を魚住昭さんの「野中広務」から引用しよう。

「一連の抗争で野中さんが果たした役割は大きかった。もし野中さんの小沢攻撃がなかったら、分裂まで進んだかどうか。梶山、小渕、橋本、小沢、羽田といった面々だけだったら和解できたかも知れません。何と言っても彼らには一緒に田中角栄から袂を分かった(経世会の)七奉行という一体感があって、小沢さんも『梶山は話がわかる』とか『ブッちゃん(小渕)は騙されている』とか言っていましたから」

 翌1993年6月に、政局が一気に動いた。社会党などの野党が提出した「宮沢内閣不信任案」に改革フォーラムの30人の衆議院議員が同調したため、これが可決された。宮沢は衆議院を解散したが、佐川急便事件や金丸脱税事件などで頂点に達していた政治不信は収まらず、7月18日に行われた総選挙で自民党は過半数を割り込んだ。

 小沢はここで一気に勝負をかけた。35人の当選者を出して政界に新風をまきおこした「日本新党」の細川護煕を首相候補に担ぎ出し、これに武村正義の「さきがけ」をとりこんで、非自民連立政権を樹立したのだ。こうして38年におよぶ自民党一党支配に終止符が打たれた。

 しかし、国民の期待をあつめた非自民連立政権も、細川首相のNTT株疑惑が持ち上がり、暗雲がたちこめてくる。清潔だと思われ、それを売り物にしていた細川首相が、熊本県知事時代に佐川急便から借金をしてNTT株を購入し、多額の利益を上げていたというのだ。

 この問題が公の場ではじめて明らかになったのは、1993年12月8日の予算委員会だった。質問に立ったのは、2年前に島NKH会長を辞任に追い込んだ「政界の射撃手」だった。野中は何食わぬ顔でこう質問した。

「ところで、これは仄聞ですが、総理もまたかってNTT株を手がけられているという話を聞いておりますけれども、そういうご経験はおありですか。・・・・総理自身の名義だけではなく、だれか他人の名義で株を取得されたという御記憶はございませんか」

 細川首相は「すべて事務所に任せておりましたので、定かな記憶はございません」と野中の質問を一蹴している。しかし、それから一週間後、毎日新聞が12月15日付の夕刊の一面トップで、大スクープをした。

<細川護煕首相が佐川急便側から借りた一億円を購入資金に充てたとされる東京都港区のマンションなどを担保に、首相の義父が証券金融会社から総額約四億円の融資を受けてNTT株三百株を購入していたことが十五日、関係者の証言でわかった。首相が熊本県知事だった1986年、当時の秘書も協力し、うち百九十九株を売却して多額の利益を得ていた。佐川側からの融資に絡む疑惑が国会で取り上げられている中、首相ファミリーの名義による不透明な株取引が浮かんだ>

 疑惑は国会で執拗に取り上げられ、火だるまとなった細川首相は、翌年4月8日に辞意を表明した。25日に羽田が非自民連立政権の代表として細川の後を継いで首相になった。しかし、羽田政権もわずか2ヶ月しかもたなかった。

 非自民連立政権内部で、小沢一郎新生党代表幹事と村山富市社会党委員長との軋轢が激化し、社会党が連立政権を離脱し、こともあろうに自民と連立したからだ。この思っても見ない政変劇を実現させたのは、「社会党の村山を連立政権の首相にする」という戦略だった。

 この秘策を社会党とのパイプを活かして実行したのが野中広務だった。1994年(平成6年)6月30日、自社さ連立の村山内閣が誕生した。村山は衆議院本会議での所信表明演説で、「日米安保堅持」「自衛隊合憲」「日の丸・君が代容認」を打ち出した。

 歴史が大きく動いた瞬間だった。野中は村山の演説を聞きながら、深い感動に突き動かされたという。そして「これだけの大変な決断をした人を自分は一生支え、尽くしていかねばならん」と決意したという。

 事実、野中は村山を支えた。汎神大震災、地下鉄サリン事件と未曾有の事件が続発し、円高不況で経済が落ち込む中、政策決定に時間がかかる連立内閣に、自民党の内部から河野総裁を首相にしろという声があがった。森幹事長までもが記者会見でが「第一党の自民党が中心になって政権を作っていれば、こんなに政治はもたもたしなかった」と発言した。

 この森発言に野中は激怒し、「政治家としての資質に欠ける。怒り心頭に発している」と記者会見で森を批判した。こうして野中は自民党の不満を押さえ込み、村山政権の「守護神」と呼ばれるようになる。村山はこうした野中について、後年こう述べている。

「閣議の後に行われる閣僚懇談会でいろんな人の発言を聞いていて、僕が一番評価しとったのは野中さんだよ。言うことがきちっとしているしね。例えば『円高で厳しい中で中小企業が高金利を払わされている。借り換えできるような措置をとるべきじゃないか』と言ったりね。それに野中さんは誰よりも豊富な情報を持っているから決断も早い。できんことはできんと言い、やると言ったことは必ずやるから頼もしかったですよ」

 村山内閣の功績として挙げられるには、95年6月の「不戦決議」や8月15日の「総理談話」で過去の植民地支配と侵略に対する反省とおわびを明記したこと、「被爆者援護法の制定」「水俣病患者の救済」だが、こうした自民党が一番いやがることを実現するのに頼りがいがあったのが野中だったという。

 しかし、村山内閣の実現は社会党が社会党らしさを失い、やがては世論の支持を失って衰退する道への第一歩だった。いや、冷静に歴史を振り返るとき、それは日本の政治に大きなマイナスだったのではないか。野中の政治戦略は、政治の王道を破るものだった。そしてこれに踊らされ、自民党の復権をむざむざと許した村山も、罪の深い政治家だといわなければならない。


2004年10月07日(木) ピンチをチャンスに変えた男

 33歳で園部町の町長になった野中広務が最初にした仕事は、たまった料亭の飲食代の精算だった。幹部が料亭にいりびたっていたため、3軒の料亭に当時の町の予算の一割に匹敵する350万円もの借金がたまっていたのだという。

 実は借金はもっとあった。それを町民税と固定資産税で毎年棒引きしていたらしい。その分を差し引いても、350万円もの借金があったわけだ。町民の税金で町の幹部が好き放題飲み食いをしていたわけで、まさに腐りきっていた。

 野中は料亭に借金を250万にまけさせて、即金で支払った。そして、「今後は収入役の伝票を持っていかない分の請求については支払わない。自分も酒は飲まない」と宣言して、宴会政治に歯止めをかけた。

 町長になった野中は歴代の保守系町長とうってかわり、蜷川支持を打ち出した。その結果、府から配分される地方交付税や補助金が増えた。こうした事は蜷川支持によって可能になったわけだが、その一方で、野中は当時自民党の幹事長をしていた田中角栄にもよしみを通じていた。

 野中は「僕ぐらいでしょ。園部の野中です、と言って角さんの部屋に入って行けるのは」と自慢していたという。しかし、野中には田中に頼らなければならない切迫した事情があったことも事実だった。

 園部町は野中が町長になった翌年の1959年(昭和34年)8月に、集中豪雨で園部川が氾濫し、約700戸もの家屋が倒壊したり、浸水している。その一ケ月後にも再び洪水に見舞われ、刈り入れ前の稲に壊滅的な被害を及ぼした。二度の洪水の被害額は2億8千万円に上がったという。園部川は翌年も氾濫し、やはり2億5千万円もの被害額をだした。

 こうした中で町の財政は極度に窮乏した。野中は町の復旧のためなら蜷川も角栄も、利用できる者は何でも使わなけらばならなかった。蜷川の前では災害に悩む貧乏町の町長として国にたよらなければならない苦衷を述べ、角栄の前では蜷川に頼らなければならない苦衷を口にしていたのかも知れない。後年、野中は田中角栄についてこう語っている。魚住昭さんの本から孫引きする。

「角栄先生とは、三十年くらいまえ、京都府園部町長時代からの、おつきあいです。先生は、ご自身、なんのメリットもないのに、あれこれ親切に世話して下さいます。田舎の土の臭い、過疎地の感じをきちんとつかみ、理解してくれる人なんです。

 なにか頼むとするでしょう、だれでも『わかった』という。でも、あの人の場合、わかったというだけじゃない。すぐに処理してくれた上に、その結果を、自分で、自分でですよ、こちらに連絡してくれるんです。九年まえ、私の母が死んだとき、葬式に秘書をよこしてくれました。しかし、それだけじゃないんです。初盆のとき提灯を送っていただいた。こんなこと、できますか」

 野中は蜷川の懐刀でありながら、その仇敵である角栄とも親密な仲を築いていく。そんな野中を地元新聞のコラムは「このコウモリ、なかなかゲイがこまかくて、今もって鳥からは、鳥仲間だと親しまれ、獣からは獣仲間だと可愛がられて、少しもあやしまれていない。正に天性舌端の妙技だといえそうである」と書いた。

 度重なる園部川の氾濫は、莫大な損害を町に与えたが、悪いことばかりではなかった。野中町長の奔走で国と府の援助がこの町に洪水のように押し寄せてきたからだ。これによって老朽化した橋は付け替えられ、立派な堤防や道路が整備された。地元の土建業者がうるおい、これが後に野中の強力な選挙マシンになる。

 野中は逆境に強い。天災による援助金をうまく運用して人件費を浮かせることで、町の財政がかえって豊かになった。野中は町役場に最新式の事務機器を導入し、住民課を新設して、町民へのサービスの向上をはかった。

 新入学児童の教科書代も国に先駆けて無料化した。砂埃を立てていた町の道路もみるまに舗装された。下水道の整備も急ピッチで進んだ。就任時には1800万円もあった町の財政赤字も3年ですべて解消した。

 こうして野中町長のもとで園部町は生まれ変わり、4年後には「全国優良町」の表彰を受けた。園部町はモデル自治体として全国から視察団が訪れるまでになった。野中は行政手腕を評価され、辣腕の地方行政家としての名声を全国に鳴り響かせることに成功した。


2004年10月06日(水) 政治家・野中の誕生悲話

 野中広務のふるさとは京都府船井郡園部町大村である。野中は1925年(大正14年)10月20日、ここで農業を営む北郎・のぶ夫妻の長男として生まれている。当時、50戸ほどある農家のうち、自作農はわずか2,3戸で、あとはすべて小作農だったという。

 大村はもともと非差別部落民の村だった。江戸時代に村人たちは皮革生産をなりわいとする一方で、「警刑吏役」として藩内の治安維持にあたっていた。御用提灯や十手をもって犯罪取り締まりにあたり、刑の執行、牢死者の遺体の片づけなど、警察官や刑務官の役目を与えられていた。

 彼らは「役人」として藩からは見返りに給金を支給され、年貢も免除されていた。大村は役人村として周囲の住民からは恐れられ、彼らを支配・処罰する冷酷な人非人として蔑視されていた。こうした役人村の伝統は、江戸時代よりはるかにさかのぼるという。

 平安時代に京の治安を取り締まり、犯罪者や疫病死した遺体の処理をするのは検非違使の役目だった。そうした京の警察・衛生行政組織の手足として動いたのが非人といわれる人々で、京都には大村ほほかにこうした特殊な部落がいくつかあったという。

 明治時代になり、彼らは役職を解かれた。そうすると、彼らは住民に対する支配権や監督権を失い、もはや恐れられる怖い存在ではなくなった。しかも役人だった彼らは、生業とする田んぼや畑を持たなかっただけに、経済的にも窮乏した。こうして彼らには「蔑視」と「差別」だけが残った。

 ここで、1922年に駒井喜作が京都市の岡崎公会堂で読み上げた「水平社宣言」の一節を紹介しよう。野中広務が生まれる3年ほど前のことである。その頃の時代の雰囲気が分かる。魚住昭さんの「野中広務、差別と権力」からの孫引である。

「ケモノの皮剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎとられ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖かい人間の心臓を引き裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪われの夜の悪夢のうちにも、なお誇り得る人間の血は、涸れずにあった」

「吾々がエタであることを誇り得る時が来たのだ。吾人々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行為によって、祖先を辱め、人間を冒涜してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、どんなに冷たいか、いたわることが何であるかをよく知っている吾人々は、心から人生の熱と光りを願求し礼賛するものである。水平社は、かくして生まれた。人の世に熱あれ、人間に光りあれ」

 この水平社宣言は彼らの置かれた現実の厳しさを雄弁にかたっているが、こうした「差別」や「蔑視」が生まれた背後に存在した「支配」と「恐怖」の権力構造についてはほとんど語っていない。差別や蔑視を生み出す闇の力、そして闇の力を生みだす社会の歪み、こうしたものの存在を軽視すれば、歴史の本質を見失うことになる。

 それはともかく、話を戻そう。野中広務が旧制中学に学ぶことができたのは、彼の家が大村では珍しい自作農に属していたとが大きい。しかし、自作農といっても野中家には四反ばかりの田があるだけで、父親は郡役場で給仕として働きながら、広務をはじめ5人の子どもを育てなければならなかった。決して豊かな暮らしという訳ではない。

 広務が旧制中学に進学したのは教育熱心な母親のおかげだという。野中は「自由新報」のインタビューで、「父親は平々凡々な人でしたが、母は僕にとってすばらしい人でした。辛いときなど母の夢をみますよ」と語っている。彼は厳しくてやさしかった母について、こうも語っている。

「たとえば朝起きて、われわれが仏壇とか神棚に手を合わせて、いまだにしますけれども、食卓に坐ってはしを両手の真ん中に置いて、こうして拝んで『いただきます』と言わなければ絶対食べさせてもらえなかった。・・・親父はもう絶対そんなことは言わない。これは酒も飲まない。たばこも吸わない。肉類は一切食わない。ただ人の世話をしたという人だった」

 1943年(昭和18年)野中広務は府立園部中学を卒業すると、大阪鉄道局の職員に採用された。このころから戦況は悪化し、1945年1月に野中に「赤紙」が届いた。野中は四国の部隊に配属された。高知海軍航空隊の特攻基地の近くだったから、特攻隊員たちが飛び立つ光景もよく目にしたという。

 終戦を知った野中は自決するつもりだったらしい。そのとき小隊長に殴られ、「死ぬ勇気があるのなら、日本の再興のためにがんばれ」とさとされたのだという。野中は国鉄に復帰した。そしてしゃにむに働き、職場でも実力が認められるようになる。

 5年後には大阪大鉄局業務部審査課の主査になっていた。上司の覚えもめでたかったが、そのころ職場で、彼が「被差別部落民らしい」という噂が広がった。言いふらしたのは、彼が目をかけていたおなじ園部町出身の後輩だった。後に野中は京都府議会の本会議場でこう証言している。

「私は一週間、泣きに泣きました。私には目が三つあるわけではない。皮膚の色が違うわけではない、口が二つあるわけではない、耳が四つあるわけではない。何も変わらないのに、そして一生懸命がんばるのに、自分が手塩にかけたそういう人たちに、なぜそんなことを言われなくてはならないのだという、奈落の底に落ちた私の悲しみは一週間続きました」

 熟考したあげく野中がたどり着いたのは、「ここはおれのおるところではない。自分という人間を知っているところで、もう一度生きなおしてみよう」という決断だった。こうして彼は故郷に帰ってきた。そして、やがて「影の総理」とまで呼ばれることになる被部落民出身の政治家、野中広務が誕生するわけだ。


2004年10月05日(火) 政界の狙撃手

 野中広務の目はたいへんするどい。相手のウイークポンとを見破り、正確にねらいを付けて、効果的な攻撃をしかけている。そうした動物的な勘の良さと、行動力を持っている。彼に睨まれたら、もうどうすることもできない。

 彼はこの能力を大いに利用した。そしてその標的は、いつも大物である。たとえばNHKのドンだったシマゲジ(島圭次会長)も、野中から国会の委員会での「虚偽発言」を追求され、追いつめられたあげくに辞任している。

 1991年(平成3年)4月18日、米フロリダ州で打ち上げられたロケットが軌道を離れ、放送衛星の打ち上げに失敗した。シマゲジは自民党の族議員や郵政省の国産衛星をという声を握りつぶして、費用の安い外国産の衛星を採用しており、しかもこれが二度目の失敗だった。

 当然、国会でシマゲジ追求の火の手があがった。逓信委員会委員長としてその先頭に立ったのが野中広務だった。野中はこのとき、「シマゲジが衛星打ち上げの時どこにいたのか」を問題にした。

 逓信委員会でシマゲジは「GE(ゼネラル・エレトリック社)で打ち上げのモニターを監視していた」と答弁していた。最初の予定はそうだったが、じつはシマゲジはロサンゼルスのホテルに、ある女性と一緒にいた。しかもこの情報を野中はいちはやく掴んでいた。情報の出所はNHKだという。当時の郵政省の担当者の証言を、魚住昭さんの「野中広務、差別と権力」から孫引きしよう。

「野中さんの指示でNHKに事実確認を求めたが、郵政省が調べるまでもなく、野中さんはすでにNHK内部からの情報で(島の所在に関する)事実をつかんでいたのではないかという印象を受けた。野中さんのその後の動きを見ても、目のつけどころが鋭いし、行動が素早く、読みが深い。いろいろな政治家を見てきたが、突出してすごい人だなと思った」

 当時シマゲジはNHKのドンとして、そこらの代議士や官僚を上回る権力を持っていた。「シマゲジはチンピラを相手にしない」という噂通り、役人や政治家を馬鹿にし、決して頭を下げようとしない。予算を通すにしても、「郵政省の小役人なんかにいくら説明しても無駄だ」と言い放ち、族議員のもとへも局長を寄越すだけだった。この傲慢さに、だれもが腹が立っていた。

 だれがシマゲジの首をとるか。しかし、相手は国民の世論形成に圧倒的な影響を持つNHKのドンである。第4の権力のトップにある実力者を批判することは有力な政治家でもなかなかできることではない。ところが7月2日の朝日新聞朝刊が社会面トップで、「NHK島会長、国会答弁に疑問」という特ダネ記事を掲載した。

<今年四月の放送衛星「BS3H」の打ち上げ失敗に絡み。「GE(ゼネラル・エレトリック社)で打ち上げのモニターを監視していた」と衆議院逓信委員会で答弁した島圭次NHK会長が、実は当時ロサンジェルスに滞在していたとの疑いが一日、浮上した。この間の経緯についいて、島会長側は明らかにしていないが、同委員会側は、「国会軽視」と問題視しており、すでに一部の委員が調査を始めた>

 他紙も一斉に夕刊でこの記事を後追いした。数日後、「東京スポーツ」が「NHK島会長、愛人と海外出張」と書いた。これを契機に、「週刊新潮」「週刊文春」「週刊朝日」などの週刊誌各紙が「愛人疑惑」を書き立て始めた。

 島は記者会見し、「勘違いだった」と言い逃れをしたが、これに対して、野中は「NHKに役所も国会も立ち入れないということであれば、NHKについて定めた放送法の再検討も含めて考えざるを得ない」と語っている。NHKを政府の管理下に置くぞという強力な恫喝である。

 シマゲジはこうして追いつめられた。7月15日、島は緊急役員会を開いて会長職を辞任することを表明した。そしてその日の午後5時からNHKで記者会見に臨み、「このような事態を招いたことは、公共放送の重大な危機であり、責任者として誠に申し訳なく、辞任を決意した次第です」と語った。

 野中は「シマゲジの首を取った男」として脚光を浴び、郵政省やNHKに影響を持つ族議員としての地位を確立した。魚住昭さんはこう書いている。

<野中が島を辞任に追い込むことができたのは、ひとえにNHKの内部情報や郵政省の情報をリアルタイムで入手できたからだろう。豊富な情報をもとに相手に弱点を見極め、マスコミや世論の動向を敏感にかぎ分けながらズバリと切り込んでいく。後に「政界の狙撃手」と恐れ野中の政治スタイルはこのとき完成されたと言っていい>

 野中はマスコミを味方につけて、記者から情報をとるのが天才的にうまかったという。そして郵政省に多大な影響力を持つようになる。翌年、宮沢内閣で郵政大臣になった小泉純一郎が「郵政貯金制度の見直し」を主張したとき、郵政省の官僚たちの肩を持ち、野中はこれに反対した。小泉は出鼻を挫かれた。

 逓信委員会で小泉大臣は「ご迷惑をおかけしたことはまことに申し訳なく、おわびする」と陳謝したが、後に総裁選に立候補した小泉は野中を「抵抗勢力のボス」と決めつけ、野中を叩くことで支持率をあげて行った。「政界の狙撃手」も、世論に後押しされて飛ぶ鳥の勢いを持った小泉を狙い落とすことはできなかった。反対にねらい打ちにされてしまった。


2004年10月04日(月) 差別を権力に変えた男

 以前、「田中角栄入門」を連載していた頃、ひとりの気になる政治家がいた。野中広務という男である。部落出身らしい彼が、57歳という年齢で国会議員になって、あっという間に権力の階段をかけ登った、その不思議に引かれたのである。

 最近、私のこの疑問を解決してくれる本にであった。魚住昭さんが書いた「野中広務、差別と権力」(講談社)がそれだ。これを読むと、田中角栄以後の政局がよくわかる。野中広務が小沢一朗と張り合って、どのように彼の野望を打ち砕いたか。そして野中自身が、いかに日本の政局で主導権を握り、ついには失脚して権力を小泉に渡す羽目になったか。

 そのなまなましい政治ドラマを読みながら、それでも不快感はなく、むしろある種の感動を覚えたのは、底辺からはい上がり、そして転落した彼に、もののあわれにも似た同情と共感を覚えたからだろう。田中角栄にも感じられるような、辛酸をなめ苦労した男が醸し出す体臭には、二世・三世のお坊ちゃん代議士にはない人間的な温かみが感じられる。

 もちろんこの温かみは一筋縄のものではない。自ら差別された者として、彼は弱者への愛をしばしば語ったが、これがくせもので、彼はこの差別を利用して、弱者の代表として権力の階段をゆっくり昇っていった。しかし権力を握った彼が実際に行った政治は、弱者に対してむしろ冷酷であり、犠牲を強いるものであることが多かった。

 彼が京都府園部町の町会議長になり、やがて町長におされたのは、彼が部落出身であることと無関係ではない。当時、部落解放運動の高まりの中で、町政は困難に直面していた。当時町議をしていた人が、こんな証言をしている。魚住さんの本から引用しよう。

「糾弾会の荒れようはすさまじく、灰皿やヤカンが飛んでくるのは当たり前でした。町会で『なぜ、彼らだけが固定資産税を免除されるのか』と質問した議員が自宅をぐるりと取り囲まれることもあった。そんな状態だったから、誰もあまり町長などなりたがらない。寿命を縮めるだけですからね。だけど野中さんなら解放同盟を抑えることができる。そういう事情もあって彼は若くして副議長、議長になれたのです」

 1958年(昭和33年)、町長が心労で倒れた。そのあとに野中をという声が出たが、「部落出身者を町長にはできん」という声もつよかった。しかし「荒れた議会を仕切れるのは野中さんしかいない」ことで、結局野中が町長にかつぎだされた。

 部落問題による対立を解消する調停者として、野中は町政に足がかりを築き、そして、ついには町長の地位を射止めたわけだ。町長になった彼は部落解放の運動については、「アメと鞭」で臨み、ときにはこれを抑えることに容赦しなかった。こうして彼は部落民からはわれらが代表として、一般市民からは「部落の要求に屈しない町長」として、絶大な支持を得た。

 彼はときに自らの被差別体験を語り、「差別のない社会の実現」を切々と訴えた。そしてまた、自らの戦争体験を語り、平和の貴さを口にする。しばしば沖縄に言及し、現地に足を運び、戦争の非人間性をしみじみと述懐した。

 しかし、彼が小渕内閣の官房長官となり、「影の総理」と呼ばれて権力の中枢にあった1998年からその翌年にかけて、一体どのような法案が国会を通過したか見てみれば、彼が決して一筋縄でいかない人物であることがわかる。

 先ず、99年5月22日の通常国会で、衆議院をガイドライン関連三法案が通っている。これは周辺有事の際に米軍の軍事行動に官民挙げて協力するという、これまでの日本の防衛政策の枠組みを変える重要な法案である。さらに、8月には、国歌・国旗法案、盗聴法案、住民基本台帳法案など、国民の基本的人権を制限する法案が次々と可決された。

 これら一連の法案によって、日本はその進路を右寄りに大きく変えた。その舵取りをしたのが野中だった。その進路変更はやがて時が経つに連れて大きくなる。こうして、去年はイラクへ自衛隊が派遣され、今年に入ってからは東京都で国旗に対して起立しなかった教員が処分を受けた。わずか数年を経て、こうしたことがほとんど何の抵抗もなく行われるようになったわけだ。

 もとより野中広務は小泉首相のような確信的な国家主義者ではない。野中にはそのようなイデオロギーはほとんどない。現に、園部町長時代の彼は共産党系の蜷川京都府知事を支持していた。それはそうすることが、彼にとって有利だったからだ。野中はいつも蜷川にぴったりと寄り添い、蜷川も野中をかわいがって、人前で彼の腕を掴むと、「この野中君は私の片腕です」とまで言っていた。

 しかし、その同じ頃、野中は目黒に直参し、田中角栄にもよしみを通じていた。そして、後年、田中派の圧倒的な支持を得て、府議会議員に当選することになる。そして府議会で今度は「知事、あなたは重大な差別者であります」と蜷川糾弾ののろしをあげる。

 当時の自民党にとって、蜷川長期府政を打倒することはほとんど悲願だった。そしてその切り札になれるのが野中だった。もしこれに成功すれば、報奨として国会議員への道が開けるに違いなかった。ことを野中はよく知っていた。野中は自ら捨て身になって拮抗する両陣営の狭間に身を置き、そして自分の野望を実現するためにはどんなことでもした。かっての恩人でさえも切り捨てた。

 実際、国会議員になった彼は、大恩人の田中をも裏切って、経世会の旗揚げに参加し、竹下のもとで頭角を現して行った。常に抗争の狭間に身を置き、自分を最大限売り込める相手につくというのが、野田広務の処世術であり、部落差別から身を起こし、影の総理と言われる権力者にまで上り詰めた出世の秘密だった。(つづく)


2004年10月03日(日) 奴隷根性を批判

 3年前の私の日記を再読した。平山さんの「福沢諭吉の真実」を読んで、かっての自分がどんな文章を書いていたのか、内容を検証してみようと思った。

−−−−「福沢諭吉と独立自尊」2001年5月6日日記−−−

 今年は福沢諭吉没後100年にあたる。諭吉の根本的考え方は「独立自尊」ということだ。これは個人に対してだけではなく、国家にも言えよう。そこで個人が先か国家が先かということだが、諭吉は「一身独立して国家独立する」(学問のすゝめ)という立場である。

 国家を契約的なものと見ていた諭吉は、明治8年の天皇についての「覚書」の中で、「君主はあたかも珍奇な頭」だと述べて、「天子など幾人あっても構わない。文明のためなら、君主でも共和でもよい」と書いている。

 ところが明治15年の「帝室論」で立場を変えた。「一国の帝王は一家の父母のようなものだ」と主張し始める。「帝室は人心収攬の中心となって、国民政治の束縛を緩和し、海陸軍人の精神をコントロールして、その方向を知らしめ、・・・その功徳のきわめて大きくきわめて重いことは数えあげることができないほどである」と書く。

 諭吉の考え方は劇的に変化した。この7年間に、西南の役、大久保利通の暗殺、参謀本部の天皇直属(統帥権の確立)、国会開設の上願書提出、1890年の国会開設の勅諭などがあった。そして、明治15年に朝鮮で兵士たちによる反日・反政府反乱「壬午軍乱」が起こっている。朝鮮半島を巡り、中国との主導権争いが熾烈になりつつあった。

 三度の洋行を経験した諭吉は、グローバルな視点から、西欧列強のアジア侵略の構図を見抜いていた。これに対抗するために、「富国強兵」を押し進め、強力な軍事国家を建設する必要を感じていた。さらにこうしたアジア情勢の緊迫が諭吉に国家戦略面での転向を促し、国家を統合する精神的支柱としての皇室を考えさせたのだろう。

 国家が亡びて個人の独立はありえない。諭吉は悲惨な奴隷状態を、列強の植民地になったアジアに見ていた。これらの人々のふがいなさに苛立ち、「韓国、国にして国にあらず」「皆殺しするに造作なきこと」など、過激なまでのアジア蔑視の姿勢を見せるようになった。(このことは安川寿之輔さんが、以前に朝日新聞に「福沢諭吉 アジア蔑視広めた思想家」という題で書いている)

 しかし、彼が根っからの国家主義者であったと考えるのはどうだろう。最晩年の「福翁自伝」の中で、「一国の独立は国民の独立心から湧いて出ることだ。国中をあげての奴隷根性ではとても国がもたない」と述べているし、明治30年の最後の演説の中でも、「議論をやかましくして、一度や二度では承伏しないようにこねくりまわして、そうして進歩の先人となって世の中をデングリ返す工夫をすることが、私の死ぬまでの道楽だ」と言っている。

 彼のアジア蔑視も、権力にへつらう奴隷根性にたいする嫌悪感がなさせたものであろう。しかし、彼の言動が狂気の侵略へと傾いていた日本軍国主義を後押しすることになったことは事実だ。列強の植民地支配という困難な状況の中であっても、先覚的な言論人の諭吉には、あくまで個人の独立と自由、尊厳を一貫して主張する英知の人であって欲しかった。

−−−−−−引用終わり−−−−−−−−

 これを読むと、福沢諭吉は「一身独立して国家独立する」(学問のすゝめ)という立場だとしながらも、「アジア情勢の緊迫が諭吉に国家戦略面での転向を促し、国家を統合する精神的支柱としての皇室を考えさせた」などと筆がぶれている。そして、「アジアを蔑視した福沢諭吉」という安川寿之輔さんの解釈を受け入れている。

 明治15年の「帝室論」で福沢が国家主義者に立場を変えたというのは、平山洋さんの研究によれば、「帝室論」は福沢諭吉の真筆とはいえないわけだから、これはあきらかに私の思い過ごしだった。

「彼のアジア蔑視も、権力にへつらう奴隷根性にたいする嫌悪感がなさせたものであろう」と書いているが、「蔑視」という言葉を「批判」という言葉に置き換えたい。福沢諭吉は奴隷根性を批判したのであって、蔑視したのではないからだ。

 3年前に安川寿之輔さんの説を鵜呑みにして福沢諭吉像を修正したが、平山さんの「福沢諭吉の真実」を読んで再びこれを修正できたことはとてもうれしい。先覚的な言論人の諭吉は、その後半生においても個人の独立と自由、尊厳を一貫して主張する英知の人であったといえるのだろう。

(追伸)
 ドラゴンズが優勝しました。星野ドラゴンズはあまり好きではなかったのですが、落合ドラゴンズは好きです。選手を大切にしているという印象をうけるからです。お金に物をいわせ、トレードでホームランバッターばかりそろえた巨人軍とは対照的なチームです。こうしたチームを応援したい。

 それから、イチローがやりましたね。80数年間も破られなかったという、歴史に残る年間最多安打大リーグ記録の達成、おめでとうございます。この数日は、イチローのことが気になっていましたが、これで落ち着きました。すごい奴です、イチロー大好きですが、野茂や松井秀も大好きです。彼らに心・技・体の充実を感じます。

 私も体力の充実を目差して、バットの素振りを朝晩することにしました。実際はバットがないので、別のもので代用していますが、これを見ていた妻に、「何だかテニスの素振りのよう」と言われてしまいました。イチローになった気分で素振りをしているのですが、どうもフォームがなっていないようです。

 みなさまもお体を大切にしてください。無理ができるのは50歳までです。50歳を過ぎたら「腹八分目」がいいようですね。これからは細く長くをモットーに、心・技・体の充実をはかりたいと思っています。


2004年10月02日(土) 福沢諭吉はアジア蔑視者か?

「福沢諭吉の真実」の著者の平山洋さんが、学校に貴重な資料を送ってくださった。早速、これを読んでみた。なかでも興味をひいたのは、「福沢諭吉のアジア認識」の著者である安川寿之輔さんとの往復書簡だ。

「福沢諭吉はアジア蔑視者か?」と題された往復書簡集には、安川さんの6編の手紙と、平山さんの4編の手紙が収められている。安川さんが「福沢諭吉はアジア蔑視を広めた思想家」であると主張し、その証拠を福沢全集から引用すると、平山さんは、「福沢全集の信憑性に疑いのあることを指摘する。

 ここに収められた両者の手紙のやりとりは、2001年4月21にはじまり、6月26日の平山さんの「なぜ安川寿之輔はかくも石河幹明を愛するのか?」で終わっている。今日はその最後の手紙から、一部を引用させて貰おう。

<井田進也氏の研究成果についてのお考えはよくわかりました。つまり、「社説の起筆が本人であろうと弟子であろうと存命中に時事新報に載った社説はすべて福沢の思想の枠組みにある」ということですね。ということは、安川さんの立場でも、少なくとも「漫言」はすべて省かなければならなくなります。漫言を校閲したとはどこにも書いてありませんから。

 その上で第一点について、重大な疑義があります。それは、福沢に掲載の最終決定権があったとすると、安川さん自身も指摘している「論説相互にみられる内容上の矛盾」がなぜあるのかを説明することができない、ということです。

 ごくまれに「支那人親しむ可し」(1898.3.22,安川引用379番)のようなまともな論説があり、(考証は省きますが真筆です)、それ以外は蔑視表現の海だとするならば、それこそ福沢自身と「時事新報」記者たる弟子たちが別ものである証左ではないでしょうか。

 福沢と弟子たちが一体であるならそんな矛盾は生じないはずです。合理的に解釈するなら、ともすれば対アジア進出とそこへの蔑視に走りがちな弟子たちを、彼らとは明確に立場の異なる福沢が「貿易のために中国人を蔑視してはいけない」と諫めていることになりましょう。前便での主張を繰り返しますが、安川さんも認められたように、井田氏の方法によって福沢と彼以外を文体と語彙によって識別することができるのです>

<安川さんの著作については引用そのものの恣意性を指摘しないわけにはいきません。「学問のすすめ」の冒頭が引用であることを示すことが著書の売りとなっているのなら、安川引用18番「パワ・イズ・ライト権力は正理の水源なり」(19巻546頁)だけを引くのではなく、その後の「と云ふ諺あり」まで記載すべきでした。

 また、無署名なのでどのみち使えない資料ですが、文中で中国人の卑屈を伝聞「と云ふ」と断っているのにそれを論者の主張とすりかえたり(引用126番・第9巻555頁)、「中国兵を皆殺しにすべきではない」という内容の漫言のうち「ではない」の部分を省略したり(引用244番・第14巻504頁)と、私も全集の当該部分をしらべてしばし唖然としてしまいました。原典にあたればすぐに分かってしまうことをなぜなさったのですか>

<5月21日の慶応日吉での抗議の資料の中で、安川さんは私の「福沢諭吉 アジアを蔑視していたか」(朝日新聞・5月12日付)をさして、「皆さんのために、お粗末な彼の批判がどう誤っているか具体的に書いておいた」と述べています。

 私は何でもかんでも「軽蔑された」とは考えない人間ですから、そうした発言も「真摯な批判」として受け入れました。そこで、「全集」21巻本のうち無署名論説は福沢のものとは確定できないこと、石河幹明の述懐には怪しいところが多いことを示して、安川さんが「福沢のアジア蔑視」の実例として用いている資料のほとんどが福沢の発言とは確認できないことを明らかにしたのです。「引用の中身」ではなく、「引用そのもの」が福沢の論ではないということです。

 安川さんはこの私の批判を受け入れるか、そうでなければ別の証拠を用いて反論する以外はないと思います。批判を受け入れてくださるなら、「福沢諭吉のアジア認識」というタイトルを変えるか、または福沢の署名論説だけを考察の対象にした改訂版を公にしたください>

 平山さんと安川さんが書簡のやりとりをはじめたのは、朝日新聞での論争がきっかけだが、この往復書簡でさらに論点があきらかになって、平山さんの問題作「福沢諭吉の真実」が生み出されて行ったわけだ。その生々しい現場の様子がうかがえる。

 残念なことに、この最後の平山さんの手紙に対する安川さんの反論がない。平山さんは資料に添えられた私への私信で、次のように書いている。

「資料をお送りします。ネット上でどのように引用されても構いません。3年前の論争では、安川さんが逃亡してしまったので、ネットで盛り上げていただければ、彼も論争の場に戻ってくるかも知れませんので、面白くなりそうです」

 私も3年間前の勉強会で安川さんから直接熱のこもった教えを受けたことがあるだけに、ここは是非、平山説に対する安川さんの反論を聞きたいところだ。


2004年10月01日(金) 心に風のしむ身かな

 一昨日から昨日にかけて台風21号が日本列島を縦断し、各地に被害が生じたようだ。長女が住んでいる津でも記録的な大雨だというので妻が心配して電話をかけたところ、やはり周囲の住宅に床下浸水があったということだった。

 長女は来年3月、大学の看護科を卒業し、看護婦になる予定だ。すでに三重大病院からは内定をもらっているが、できれば他の病院で修行をしたいようなことを言っている。いずれにせよ、来年からは経済的に自立してくれそうなので、これで半分、肩の荷が降りる。

 次女の方はまだ大学2年生なので、先が長い。はやく両肩の荷を降ろして、はれて「自由人」の身分になりたいというのが、現在の私の偽らざる心境だ。子どもさえ独立してしまえば、あとはどうなろうと構わないと思っている。

 できることなら、破れかぶれの生き方をして、最後はどこか異境の地で野垂れ死にをしたいと思っている。こういう考えがどこから起こってくるのかわからないが、やはり日本文学の古典に親しんだことも大きいのだろう。

 西行、芭蕉、良寛、さらには尾崎放哉や種田山頭火のような漂泊の旅をしてみたいという気持が昔からあった。一度きりの人生だから、好きなことをして死んでみたい。妻にはこうした生き方は理解できないようだ。自分勝手で我が儘だというが、こればかりは仕方がないことである。これまで欲望を抑えて、つつましい市民として生きてきたのだからね。

 もっとも、最近は体力の衰えがいちじるしい。その上に、血圧があいかわらず高いので要注意だ。毎朝飲んでいる血圧降下剤のせいか、車の運転を運転しながら著しい意識レベルの低下に見舞われる。危ないので、途中、景色の好い木曽川の堤防の路肩で一休みするのだが、昨日は英会話のテープを聴きながらいつのまにか意識がなくなっていた。

 気がついたときには40分ほどたっていて、それからあわてて勤務先の学校に駆けつけたが、もちろん完全な遅刻である。これから、こんなことが、たびたび起こってくるかもしれない。しかし、無理に運転して事故にあうよりもましだろう。何とかあと数年を生き延びて、あこがれの漂泊人生に旅立ちたいものだ。

 野ざらしを心に風のしむ身かな  芭蕉


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