橋本裕の日記
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朱子の父親の朱松は1118年に22歳の時、科挙に合格した。多くの人は科挙に合格すると学問をしなくなる。しかし、朱松はそうではなかった。韋斎と号し、役人生活のかたわら学問に打ち込んだ。
また、また役人を辞してからも、野にあって「大学」「中庸」の研究をした。そして47歳で死ぬまでに「韋斎集」12巻を残した。後に朱子がこれを受け継いだ。とくに「大学」を重視したのは、父親の影響が大きかった。
朱子が父親を亡くしたのは14歳の時だったが、彼は父の死後も多くの師友に恵まれた。そのなかで、若い頃の朱子にもっとも影響を与え、彼自身が最高の師として尊んだ人物が李とう(人べんに同)だった。
朱子が李先生に最初に会ったのは、24歳の時だった。役人として任地の同安県に赴く途中のことだった。李先生は世間的に無名だったが、死んだ父親が高く評価していた。そうしたわけで、朱子は旅の途中に足を伸ばしたのだった。
若い頃の朱子は鼻っ柱が強く、何かと大言壮語するタイプだったらしい。とくにこのころ朱子は禅にかぶれていた。李先生を前にして、朱子は禅のすぐれているところを高唱した。これに対して李先生は「理は一つでも、その現れはいろいろだ」と言葉少なく語ったという。
朱子はこれが何を意味するのかよくわからなかった。しかし、役人生活をしていろいろと現実の壁にぶちあたるなかで、この李先生のことがなつかしくなり、ふたたび会いに出かけ、三度目の時、正式に弟子入りすることになった。そして二人の師弟関係は、李先生が71歳で死ぬまで、最初の出会いから約10年間続いた。
「論語」の「学而篇」に「子曰く、父いませばその志を観、父没すればその行いを観る。三年父の道を改めることなきは、孝というべし」とある。あるとき、朱子は「もし、父の道があきらかに間違っていても、父親の喪の期間である三年間はあらためるべきではないのでしょうか」と訊いた。これに対する李先生の答えは次のようなものだった。
「もし世のなかがひどく害されるのなら、即座に改めなければならない。孔子が三年改めずと言ったのは、だれでもが踏み行うことができる孝行の道のことだ。大切なのは何が本当の孝行かということだ。改めるべきか否かという皮相的な事柄に囚われていては、その言葉の奥にある聖人の真意はわからない」
李とうという人は、著作をひとつも残していない。政治家だったわけでもない。後世の私たちは朱子をとおして、彼の思想や行いを知り、その人物に近づくことができる。朱子はこう書いている。
<ふつうの人は、近所に出かけるときはゆっくりと歩き、遠くに出かけるときはかならず早足になる。ところが先生は、近所に出かけるときも、遠くに行くときも、まったく同じようにゆっくり歩かれた。
またふつうの人は、人を呼ぶとき、二、三回呼んでもやってこないと、かならず声が荒くなる。ところが、先生の場合は、前と少しも変わらなかった。
また、よその家へ行ったとき、客間の壁に掛け軸がかかっていると、私などはそちらのほうへ時々視線を走らせるが、先生は座っているときはきちんと坐ってわき見をせず、見たいときはかならず立ち上がって壁の前に行ってじっくり鑑賞した>
「中庸」には「誠は天の道なり」という言葉がある。李先生は道と一体化した境地を「洒落」(しゃらく)という言葉で表現したという。これはおしゃれという意味ではない。本来は、その人の心や態度が自然で、さっぱりしていて、何のわだかまりもないことを言うのだという。学問もここまでこなければ本物ではないのだろう。
まったく名のない一介の隠者に過ぎなかった彼が歴史に名を残すことになったのは、たまたま朱子というすぐれた弟子をもったことによる。しかし、このような人物に惚れ込み、生涯の師として仰いだ朱子もまた、ただ者でなかったことがよくわかる。
朝起きて、パソコンのスイッチを入れる。今日は寝坊をして、起きたらもう5時に近かった。水を一杯だけ飲み、まず自分のHPの「掲示板」を読んだ。そこに福井に住んでみえる46歳の女性からの「懐かしい公園」と題された投稿があった。
−−−−−−−−「懐かしい公園」−−−−−−−−−
はじめまして。
ふとみつけた「少年時代」を読んで驚きました。「乾公園」の名があったからです。
遠い記憶をたどると、多分、私は2歳から4歳くらいまでを、乾公園の前の2階建てのアパートで両親と共に暮らしていたはずなのです。そしておそらく昭和37年の暮れころに、今住んでいる近隣の町に引っ越したのだと思います。
私の人生の最初の思い出が、乾公園のブランコ、そして、公園で開かれたお祭りのわたがし…。ブランコに座った写真と、アパートの玄関で撮った写真がその記憶を裏付けるだけですが…。そこには、だっこちゃん人形と、隣の部屋のお友達と、そして今は亡き母の若い日の姿があります。
今、公園付近に行ってみても、勿論、そのアパートはありません。どんな名前のアパートだったのかさえ覚えていません。
ただ、自分というものの人生の始まりを思うとき、いつも「乾公園」の名がよみがえってくるのです。
私の小さな自我の芽生えを乗せてゆれていた公園のブランコは、多分橋本さんの「少年時代」のあのブランコなのでしょう。それはまた、別の人たちの大切な大切な思い出を沢山載せて、今もどこかでゆれ続けているのでしょうね。
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さっそく、私は返事を書いた。これも、日記に引用しておこう。
−−−−−−「Re:懐かしい公園」−−−−−−
しるくさん、投稿ありがとうございます。「少年時代」を読んで下さって、ありがとうございます。
4歳のころまで「乾公園」(いぬいこうえん)の近くに住んで見えたそうでうね。その頃、私は中学生でしたから、ひよっとしたら公園でお会いしていたかも知れませんね。
私はその頃よくブランコに坐って夜空を眺めていましたよ。SF小説に夢中の頃でした。そのブランコでしるくさんも今は亡きお母さまと遊んでいらしたわけですね。
<私の小さな自我の芽生えを乗せてゆれていた公園のブランコは、多分橋本さんの「少年時代」のあのブランコなのでしょう。それはまた、別の人たちの大切な大切な思い出を沢山載せて、今もどこかでゆれ続けているのでしょうね。>
小さな公園ですが、思い出のいっぱいつまった公園です。今も福井に行くと、必ず訪れます。そして懐かしい追想にふけります。思い出は人生の財産です。多くのひとびとが、この公園に同じ思いをよせているのかと思うと、心が温められます。
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「少年時代」 http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/syounen.htm
朱子が34歳の時、時の皇帝(孝帝)の前で上奏文を読み上げた。朱子が「大学」にある「格物致致」の学について読み上げると、皇帝はいちいち相槌をうって機嫌がよかったという。しかし、政治に対する苦言を読み始めると、黙り込んでしまったという。
ところで、朱子がいう「格物致知」とは何か。「格物」とは「物に至る」ということで、事物に即して、その事物の理を窮めることをいう。「致知」は「知を致す」ということで、知を中途半端なままにしておかないで、本質にまで深めることをいう。朱子は学問を研究する方法として、これが基本だと考えた。
ここで「格物」というのは、空理空論を排して、まず事物そのものにまっすぐ向かい合うことである。朱子はこうした厳格な客観主義を自分の学問のスタイルとして貫こうとしたわけだ。かって孔子も「述べて作らず」と言ったが、勝手な主観によって作為をしないというのが朱子学の根本的性格である。
また朱子は人が知を求めるのは、たんに立身出世のための道具としてではなく、知そのものを明らかにし、人が正しく生きる道を得るためだと考えた。だから、「致知」ということは、「人生において何が善か」ということを徹底的に明らかにするということでもある。
彼はこうした方法で「論語」や「孟子」に向かいあった。朱子はまずそれらの「原典」について研究し、さらに先人が残した厖大な文献を詳しく研究した。そして、その集大成として、それらの解説書を書いた。これは大変根気のいる仕事である。
さらに「中庸」と「大学」についても同様の研究をおこなったが、これらについては、文献の量が少なかったこともあり、朱子や朱子が学んだ師たちの研究成果を多く入れて解説を書く必要があった。とくに、朱子が力を入れたのは「大学」だった。
「大学」「中庸」はもともと「礼記」のなかの一遍である。後世になり、これを独立な書としてあつかうようになった。「中庸」は5世紀のころからこうした扱いを受けていたが、「大学」が書として独立した扱いをうけるようになったのは、宋の時代になってからだという。
朱子は教育上の見地から、なかでも「大学」を重視した。その理由は、これが儒学の理想である「自らを修め、人を治める」という道をもっともわかりやすく説いているからだ。たとえば「修身斉家治国平天下」という有名な言葉も「大学」のなかにある。朱子は儒学を学ぶにはまず「大学」から入り、「論語」「孟子」「中庸」へと進むべきだと考えた。
朱子は「大学」を儒教の表玄関、「中庸」を儒教の奥座敷とよんでいる。「中庸」は儒教の文献でありながら、仏教や老荘の思想に相当する深遠な哲理がのべられている。これを最初に読んでも理解できないし、むしろ人を惑わせることになりかねない。物事を学ぶにも順序があるわけだ。
「大学」「論語」「孟子」「中庸」を四書と呼ぶのも、朱子が始めたことである。儒教の経典には他に「五経」と呼ばれる「易」「詩経」「書」「春秋」「礼記」がある。朱子はこの五経の上に「四書」をおいた。なぜなら、「四書」こそが儒教の根本精神を明らかにしていると考えたからだ。これを読むことで、思想が形成され、人間が形成される。
意外に思うかも知れないが、科挙で重んじられていたのは「五経」の方だった。朱子はこれを本末転倒だと言って批判し、孔子や孟子の根本精神に帰ることを目差した。そしてその突破口を「大学」の学習においたわけだった。
朱子は「論語」については、「論語集義」「論語或問」「論語集注」を、「孟子」についても「孟子集義」「孟子或問」「孟子集注」を、「中庸」については「中庸章句」など3書を、そして「大学」については「大学或問」と「大学章句」を著している。これによって、儒教をいかに学ぶべきか道があきらかになった。
朱子は19歳の時に科挙に合格した。成績は330人中の278番目だった。朱子は科挙のための試験勉強はあまりしなかったのだろう。しかし、この成績では高位高官になるのはなかなかむつかしい。事実、朱子はあまり出世しなかった。
そもそも役職についている期間が短かった。24歳の時最初に彼が役人として赴任したのが福建省南部にある同安県で、彼はそこの出納帳にあたる主簿という役職だった。朱子はこれを4年間務めた。
朱子がもっとも力を入れたのは学校教育の改革だったという。とうじの官立の学校は、おおむね科挙受験のための予備校になっていた。科挙に合格するにはどんな答案を書いたらよいかといった本来の学問とはいえないような技術的な受験指導に墜ちていた。
教師も生徒を科挙に合格させることしか念頭になく、生徒達も科挙に合格して利禄が得られることしか念頭になかった。学問は栄達の手段にすぎず、これによって人格を陶冶しようとか、将来官僚になったとき、どういう姿勢で政治を行おうとかはどうでもよかった。こうした話題を持ち出すと、生徒達は教師を嘲笑したという。
そしていやいやする勉強なので身が入らない。午前中にだけ勉強して、午後はさっさと遊びに出かける。そんなまやかしの勉強をして、要領よく科挙に合格すると、それを鼻に掛けていばり散らすというふうで、朱子はこうした現状に危機感を持った。こんな手合いが役人になって、金持ちとぐるになり、農民をいじめるわけである。
こうした荒廃した県の教育の現状を変えるために、朱子は学校の図書館を充実したり、土地の名士に頼んで学問のほんとうの意義を講義して貰ったり、学生の父兄に諭告を出したりと、ずいぶん努力した。また貧しい学生のために奨学金をもらえるように州政府に働きかけたりしている。
しかし、州政府も資金不足にあえぎ、できれば県の官立学校は閉鎖したいのが本音だった。当然朱子と意見が合うはずがなく、衝突することになる。こうして悪戦苦闘の4年間を経て、朱子は職をしりぞき故郷の崇安に帰った。
朱子はこのあと50歳で南康軍の知事になるまで、約20年間、実際の公職についていない。母親と一緒に暮らし、学問研究にうちこむ生活だった。朱子がこうした学究生活ができたのは、政府から恩給が出たかららしい。そして形式的な役人の肩書きだけはあった。
朱子は故郷に身をひそめながら、学問研究に打ち込んだわけだが、在野の立場からさまざまな活動をしていた。その一つが昨日紹介した「社倉法」の実践である。地域の農民を救うために陳情し、中央政府にも何度も上申書を出した。
しかし、なんと言っても、朱子の真骨頂は学問・教育の研究にある。朱子は人々をほんとうにしあわせにし、国をやすらかにするものは教育だと考えていた。正しい教育によって、本物の学問をひとびとの間に普及することが自分の使命だと考えていた。これは同安県での4年間の役人体験が大きかったのだろう。
それでは朱子の学問研究はどのようなものだったのか。「朱子学」のあらましを、明日の日記で紹介しよう。
ヨーロッパでは私的利潤を求める企業組織ではなく、また政府の組織でもない、市民による市民のための生活協同組織が発達している。しかし、中国や日本でもそうしたものがなかったわけではない。たとえば朱子学で有名な朱子(朱熹)(1130〜1200)も、こうしたものを作っている。
朱子は南宋(1127〜1278)時代の人である。この頃、宋は東北の契丹,西北の西夏などの新興勢力に対抗するために軍事費に圧迫され、政治家達の権力争いもひどく、内政はなおざりにされていた。
社会は人民の1割り及ばない大富豪と、9割り以上の貧民の両極に分解していた。商人や地主は私益を追い、役人は腐敗し、賄賂などの悪事が横行していた。そのため社会秩序は乱れ、盗賊が国中にあふれていた。そのうえ、毎年のように飢饉が襲いかかり、多くの人々が餓死していた。
農民の多くはたとえ豊作の年でも、端境期になると豪農から数倍の高利をはらって米を借り、食料や種もみにしなければならなかった。これは端境期で農民の保有米が底をついたころを見計らって、悪徳地主が役人とぐるになり、米の売り惜しみをして米価をつりあげ、暴利を貪っていたからだ。こうした中で春から夏にかけて農民一揆が頻発した。
この惨状を何とかしたいと考えていた政治家がいなかったわけではない。たとえば北宋時代(960〜1127)の王安石(1021〜1086)はこうした腐敗した政治を何とか改めたいと考えた。皇帝の信任が厚かった彼は、宰相となって、政治改革の先頭に立った。
彼は次々と新政策を打ち出したが、そのなかでも注目すべきものに「青苗法」がある。これは農民を高利貸しの魔手の手から守るために、政府が常平倉に備蓄していた官米を低利で貸し出す制度である。彼はこれによって窮民を救い、あわせて政府の財政をも潤そうと考えたが、結局成功しなかった。
役人達は成績を上げるために、農民たちに政府米を強制するようになり、しかも厳しく利息の返済を要求したので、かえって農民を苦しめることになった。王安石のもくろみとは反対に、「青苗法」は天下の悪法だといわれ、王安石の改革もついに挫折してしまった。
こうして地方はますます疲弊し、暴動が頻発した。朱子が住んでいた地方でも一揆が横行し、彼の身辺にまで及ぼうとしていた。そこで、朱子は県や府に申請して、官米6百石を貸与して貰い、それを農民達に配給した。朱子がこうしたことができたのは、彼の説得が真に迫っていたことにくわえて、彼がそのころ枢密院編修官という中央政府の肩書きをもっていたことも大きかったようだ。
その年の冬の収穫で朱子は借りた6百石を返却するかわりに、借用証書を提出し、6百石はそのまま備蓄米として「社倉」に保管した。そして翌年の夏、朱子はこれを10分の2という安い利息で希望する農民に貸し出した。このとき朱子はもし不作であれば無利子にするという条件をつけている。
これを14年間続けるつづけるうちに、最初に借りた官米を返してもなお「社倉」のなかには3千石以上の米が備蓄されることになった。そこでこれ以後は利息米をとることをやめて、1石につき二升ずつの損料をとるだけにした。それでもやがて備蓄米は5千石に達し、この地方はもはや飢饉の年でも農民が困ることはなくなったという。
朱子がはじめた「社倉」制度のすぐれているところは、その運営を朱子と村人の共同管理で行ったことだ。そして米を出し入れするときだけ監視役として役人を呼んだ。朱子の「社倉」については、これは「青苗法」をまねるものだという批判があったが、これはまちがいである。その管理を役人にまかせず、農民が主体になっている点で、まったく別の発想に立つものだというべきだろう。
朱子はこうした実践をふまえて、「社倉事目」という社倉の運営管理に関する条例を作って政府に上申している。どうじに朱子は「条例」だけではだめで、いかにそこに魂を入れるかが問題だと述べている。
そして魂とは「民を愛する心」だという。また、いくら心があっても「政」がともなわなけば、これも何の役にも立たないという。これは朱子が尊敬した孟子の思想だった。
<その心ありてその政なきを徒善といい、その政ありて心なきを徒法という>(孟子注)
朱子の「社倉法」は江戸時代に「朱子学」とともに日本にもたらされ、各地で実施されたという。それらの一部は現在も「文化財」として大切に保存されているようだ。民俗学者である柳田国男は「日本における産業組合の思想」という論文のなかでこれを取り上げ、社倉法を現在の信用組合制度の先駆けとして高く評価している。
朱子はのちに南康軍の県知事になった。このとき彼がまずしたことは教育に力を入れて、私学を再興することだった。さらに、彼の治める地方が飢饉に見舞われたときは、その救済事業として公共事業に力を入れた。
つまり食に困っている人たちを集めて、港に防波堤を築いた。これによって飢えた人に収入を与え、大風が吹くたびに難破していた舟も救われることになった。朱子はまた裕福な寺院に命じて、その修復工事をやらせた。こうした政策によって、彼の県では11万人あまりの大人と、9万人以上の小児が餓死を免れたと報告されている。
朱子学は江戸幕府の官学になったこともあり、批判も多いが、こうした朱子の実践をみればわかるように、実利的にすぐれていた面が多くある。また、思想家としても超一流であり、陽明学もここから出ている。朱子もまた現代の私たちが学ぶべき思想家の一人だろう。
(参考文献) 「中国の人と思想8・朱子」 佐藤仁著 集英社
数日前の新聞に、日本でもLLP(リミテッド・ライアビリティー・パートナーシップ=事業組合)がいよいよ解禁されるとあった。特定の人が資金を出し合って組合を作り、それらの人が直接日常の経営に当たるLLPは、投資家から多額の資金を調達することはできなないが、そのかわり買収されたりすることもない。
まさに組合員による組合員のための経営ができるわけだ。自分たちの経営理念にしたがって、自由に企業活動をしたい人々は、株式上場による利益は棄てても、こちらのほうがやりがいがあるし、メリットもある。とくに知的産業には向いているということで、英国などでは、こうした組合組織の数が、すでに1万件を越えているという。
これとよく似たものに生活協同組合がある。これもヨーロッパを中心に発展してきた。内橋克人さんは、「尊敬おく能わざる企業」(光文社)のなかで、こう述べている。
<率直にいって、企業はなくても地球は生きていける。人類は生きていける。いうまでもなく現代市民もまた平然と生きていける。後述するように、地球環境や市民社会に敵対する企業に対して、市民がもっとも厳しい対決姿勢をとり、企業を追いつめているのはヨーロッパ諸国である。
それはなぜか、といえば、ヨーロッパには長い生活協同組合の歴史があるからであり、人びとは少なくとも自分自身の生活についてのヘゲモニー(取捨選択の権利)は絶対に私企業に譲り渡してはいない、という確固たる信念とともに生活しているからである。
そこでは、私的利潤追求を行動の動機とする企業に代わって、構成員の「最大多数の最大幸福」追求を理念とすることのできる協同組合組織が厳として存在し、生活者の日常的ニーズに応え、真の意味で「地球にやさしく」ありうるゴーイング・コンサーン(渦巻きのように自力で存在し、存在するだけで意味を持ちうる集団)として活動しているからだ。
彼らヨーロッパの市民は、自主・自立・自律の精神を生活の場で堅持しつつ、時に応じて企業を、また時に応じて生活協同組合を主体的に選択して生活する。だから企業をして絶対不可欠の存在とみなすこともない>
日本にも生活協同組合はあるが、ヨーロッパほどの基盤を市民生活の中に築いているとはいえない。しかし、非営利組織や事業体は市民権を確立し、日本でもいまや多くの人々がこれに係わるようになってきている。
こうした地道な活動を通して、市民意識もヨーロッパなみに培われていけば、企業を絶対視し、これに依存しようという意識もかわっていく。企業が株主主権主義をふりかざし、その営利目的だけでつきすすめば、やがて市民はこれを見放すだろう。
企業を質の良い社会の公器にしていくためにも、内橋克人さんがいうように、「企業とは何か」ということを根本的に捕らえ直し、「企業は永遠なり」という命題そのものを、疑ってみることが必要かも知れない。
| 2005年07月25日(月) |
お金に支配された社会 |
<人間は自由な者として生まれた。だのに、いたるところで鉄鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているような者も、実はそれ以上に奴隷なのだ>(ルソー「社会契約論」)
どうして、自由なはずの人間がいたるところで目に見えない鎖につながれることになるのだろうか。その目に見えない鎖の正体は何だろう。私の答えをいおう。それは<お金>である。
お金というのはほんとうに便利なものだ。しかし、この便利なものに依存しすぎると、かえって災いの種になる。なぜならお金には人を支配する魔力があるからだ。
たとえばお金によって政治家を買収し、自分がさらに富と権力を得ようとする人たちがいる。政治献金などというものもこの一種だろう。
さらにお金を儲けるために、戦争を起こそうとするたちの悪い人たちもいる。たとえばロスチャイルドというユダヤの大財閥がいるが、この一家が財を築いたのはナポレオン戦争によってだと言われている。
アメリカが世界の覇権国家になれたのは、第二次世界大戦によってだし、日本が敗戦の大不況から立ち上がれたのも、朝鮮戦争があったからだ。そしてベトナム戦争や東西の冷戦が日本の高度経済成長におおきな寄与をした。
お金はお金を生む。そしてお金どうしはくっついて、できるだけ大きくなろうという傾向がある。これがお金の法則である。だから、お金は一部の人のところにあつまり、どんどん、他を吸収して大きくなる。
お金持ちはますますお金持ちになり、お金持ちの国はますますお金持ちになる傾向があるのだ。その反対にお金のない人はますます貧乏になる。これを放置するとどうなるだろうう。貧乏な人が怒りだして暴動が起きるかも知れない。
あるいは貧乏な国は恐ろしい兵器を開発してお金持ちの国を脅したり、こっそりお金持ちの国にしのびこんで爆弾をしかけたりする。
お金持ちの人たちはこうした恐怖を取り除くために、警察力や軍隊を強化する。国中に監視カメラをとりつけたり、電話の盗聴をしたりする。しかし、それでも不安だ。
そこでもう少し頭のいいお金持ちの人たちは、自分たちのお金を貧しい人たちに分け与える仕組みをつくった。お金持ちは収入に応じて大目の税金をはらい、ほんとうに貧しいひとは税金を免除するわけだ。
それから、お金持ちの人が死んだら、相続税としてその財産の一部を国に収める制度もつくった。こうしてお金持ちからあつめた税金を使って、貧しい人の生活を保護したり、補助したりする。つまり社会福祉を充実させるわけだ。こうすれば、貧しい人も生活できる。貧しさを追放すれば社会が安定して、お金持ちも安心して暮らせる。
しかし、お金の性質として、ひとつところにあつまり、大きくなろうとする傾向は消えない。しかもお金持ちはもっとお金持ちになりたいばかりだから、本音はあまりお金を出したくないのだ。だから、油断すると、知らないうちに貧富の差がひらく。
お金持ちはお金持ちどうしで競争している。だからよけいに、自分の財産を少なくするようなことはしたくない。そこで、貧乏なのは自己責任だから、自分でどうにかしろと言い出す。自分たちなのは能力もあり、努力もしたからだ。だからお金持ちであって当然だと威張りだすわけだ。
この理屈はおかしい。彼らがお金持ちなのは、多くの場合はたまたまお金持ちの家に生まれたからだ。ほんの少しだけ例外があるが、彼らはこの例外をあたかもほとんどだと思わせようとする。これはお金持ちや彼らのサーバントたちがよく使うトリックだ。
しかしトリックはよくできているので、おおくの人が信じ込んでしまう。これには学校教育の影響が大きい。学校ではしょっちゅうテストを行い、ほんのわずかの違いでも拡大して点数化する。そしてこどもたちを序列化するわけだ。
お金持ちはこの制度を利用して、できる子とできない子を選別し、できる子を優遇する。だから、勉強ができない子は学校を出てからも、いろいろと差別をうける。学校での差別が、社会に出てからの差別をあたりまえだと思わせるわけだ。だからお金持ちになりたかったら、努力しなさいという。そして努力がむくわれる社会にしないとだめだという。
この声に、お金持ちでないひとまで同調する。なぜなら、テレビや新聞でお金持ちを尊敬している知識人がそういいふらすからだ。知識人は自分たちは優秀なのにあまりむくわれていない。それはこの社会が能力のあるものに酬いようとしないからだと考えている。だから、基本的に金持ちの味方なのだ。
こうして、お金持ちも、そうでない人も、頭の中がお金のことでいっぱいになる。まるで世の中にはお金の問題以外に重大なことは何もないかのようだ。そして学校でもお金の儲け方を勉強させろという声まで出てくる。
アメリカの小学校では株の買い方まで教えるそうだ。とうぜんながら子供たちも自分もお金持ちになって、高級車を何台も買い、プールのある豪邸に住みたいと思うわけだ。
しかし、お金はそう甘いものではない。お金のせいで人は、神経衰弱になったり、過労になったり、自殺したりする。朝から晩まで、株価が気になってしかたがなかったり、人と争ったりする。そうしたことは学校ではあまり教えない。学校もまた、知恵や真実によってではなく、お金によって支配されているからだ。
お金は国同士をも争わせ、戦争を起こしたりもする。それでもほとんどの人はそれがお金のせいだとは思わない。えらい学者がいうとおり、人間の悪い本能だ、しかたがないと思っている。こうしてお金は子供から大人まで、すっかり人間をとりこにしてしまった。
多くの人々はこうして、自分がお金の奴隷であることも知らずに、一生をお金にあやつられて生きていくことになる。ルソーが現代に生きていたら、人間を縛り付けているこの見えない支配者を見抜いて、それは<お金>だというに違いない。
もう4,5年前だが、アメリカにホームステイしたある日本人女子大生のMLをたのしみに読んでいた。アメリカのどのあたりだったのか、詳しい記憶は定かではない。南部の地方都市ではなかったと思う。
他の日本人女子大生たちが裕福な白人の家庭に迎えられるなかで、彼女がホームステイした先は、ヒスパニック系移民のまずしい家庭だった。彼女は自分だけがとんでもない貧乏くじを引かされたようで腹が立った。
MLを始めたのもその不満をぶつけるためではないかと思われるくらい、欲求不満のかたまりのような内容である。たとえばその家には小さな子供がいて、夫婦は当然のようにその世話を彼女に押しつけてくる。これではベビーシッタ−と変わらない。労働の搾取ではないのか。
英語を勉強したいのに家の中では英語が話されるのを聞いたことがない。これでは何のためのホームステイかわからない。しかも食事の貧しいこと。子供と相部屋なので、プライバシーもない。お風呂さえ満足に入れない。こうして毎日どんどん心理的に追いつめられていく。
家族と外出しても、不快なことの連続。たとえばバスに乗って家族と一緒に坐っていると、あとから乗ってきた白人が、「おまえたちはあっちにいけ」と席を追い立てる。レストランへいってもひどい差別で、うっかりトイレも使えない。
一方、リッチな白人の家にホームステイした友人達は、どこへ行っても最高のサービスをうけ、「アメリカは最高!」と言っている。アメリカはひどいところだと言っても、「まあ、そんなひとたちもいるでしょうけど」でおしまい。
こうしていやでいやでたまらなかった、何ヶ月かのホームステイが終わり、ようやく地獄から解放される日がきた。ところがその日が来てみると、別れるのがとてもつらい。子供たちもみんな泣いて彼女をはなそうとしない。夫婦も泣いている。そのうち彼女まで泣けてきた。
結局、彼女はこの貧しい家庭にホームステイできたことをよかったと考えるようになった。自分が本当に何か貴重な体験をして、生まれかわったように感じたからだ。アメリカに来て、ほんとうの友人が出来たと思った。これは彼女自身にも、彼女のMLを読んでいた私にも意外な、しかしとても感動的な結末だった。
そして彼女は今はっきりと理解した。世の中の多くの人々が好きで貧乏をやっているわけではない。好きで差別されているわけでもない。そこには社会の矛盾があり、学ばなければならない「歴史」があることを。彼女はこうして語学よりももっと大切なことを、この家族から学んだわけだ。
私は今もアメリカ在住の高名な作家のMLを楽しみに読んでいるが、彼女のMLほど心に迫る実感はない。同じアメリカ社会に身を置いていても、やはりその境遇によって体験のレベルがずいぶん違う。人生の真実に通じるには、ときには底辺に身を置いてみることも必要なのだろう。
世の中は上から見るのと、下から見るのとではずいぶん違って見える。その意味で、彼女は貴重な体験をしたわけだ。彼女のMLを保存しておかなかったのが悔やまれる。これはこのまま一冊の本にして出版しても、上質のアメリカ体験記になるのではないかと思う。
私も将来ホームステイしたいと思っているが、どんな家庭に迎えられることになるか不安だった。しかし、このMLを読んだおかげで、たとえどんな家庭に迎えられても、それもまた一つの貴重な体験であり、自分を成長させるためのチャンスではないかと考えられるようになった。
この夏も、JRの青春切符を買った。昨日はその第一回目の旅にでかけた。気の向くままにふらりと、まるで知らない未知の世界を旅してみたいと思いながら、たどりついたのは、やはり若狭小浜市だった。人口5万人あまりのこの小さな港のある城下町が私をひきつける。
7:44に木曽川駅を出て、大垣と米原と敦賀で乗りかえて、小浜駅についたのが11:44だった。ここまでのJRの運賃が1150円。往復でも2300円なのはありがたい。各駅停車ののんびりした旅も、風情があって悪くはない。
昼食は小浜市役所の食堂ときめていた。ここの安くておいしい「焼き鯖定職」をたべるのが目的だった。ところが、「すいません。まだ鯖が届いていないので、このメニューはできません」という。「どのくらい待てばいいの?」と聞いても、「さあ、まだ当分・・・」という。もう正午なのに、のんびりした話だ。しかたがないので、鯖寿司定職に切り替えた。
市役所を出て、私の足は港の方に向いた。10分も歩けば、港の桟橋である。イカ釣用のランプを吊した漁船がひしめいていた。対岸に並ぶ漆喰の倉庫や民家の屋根瓦に見覚えがある。私が小学生の頃、ここによく絵を描きにやってきたものだ。
私は小学生の自分が坐っていた舟を繋ぐ鉄製のブロックの上に腰をおろして、しばらく絵にしたいような美しい港の光景を眺めていた。部活帰りらしい中学生の男女が、自転車で傍らを抜けていく。子供たちの純朴そうな顔の表情が印象的だった。
今から45年ほど前に、昭和天皇がこの町にやってきた。私たちは日の丸を手にして、この桟橋に並んで、舟に乗って通り過ぎていく天皇を歓迎したものだった。天皇は帽子を脱いでそれを白髪の上に振りかざしながら、何度も私たちに微笑みかけられた。潮風に吹かれ、海鳥の声を聞いているうちに、そんなありし日の思い出が甦ってくる。
港をあとにして、街の中心の方にあるいた。古い家並みがまだ残っている。見覚えのある薬屋や骨董店、化粧品の店や金物屋がある。この町の郊外には大きな量販店がない。だから、町の商店街がまだ生きている。けっしてリッチではないが、鄙びた家々の軒先には花があふれ、人々の純朴ななかに厚みのある暮らしが、路地のうらからあたたかく匂ってくる。
小浜市は万葉集にも歌われているほど古い町で、歴史もあり寺も多いが、これという宣伝はしていない。しかし、私にはどんな観光都市よりもこの町の気取らない素朴さが好きだ。この街に来て、そこに質素に暮らしている人々の、ほのぼのとした豊かな表情をみているだけで、私は無上の幸福感を味わう。
街並みを20分ほども歩いていると、また海に出た。湾曲した海岸線はそのあたりだけが砂浜で、夏は海水浴場になっている。そこに海の家が立てられていた。砂浜にはビーチパラソルが開き、家族連れやカップルがねそべっている。
西洋人のカップルが泳いでいた。女性の方がハイレッグのビキニスタイルで、おもわず私の目が彼女の白い肌にひきつけられる。私の後ろでは、中学生が3人、自分たちの海水パンツの中を見せあって盛り上がっている。私にも記憶がある。無邪気なものだ。そうしてしばらく潮風にふかれていた。この時間が値千金だった。
(自伝「幼年時代」の後半に、私の小浜市での暮らしが描かれています) http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/younen.htm
| 2005年07月22日(金) |
ジャンボタニシの風景 |
青田で稲がよく育っている。その田んぼの畦や用水路に、赤い葡萄状のものがたくさんへばりついている。何だか気味が悪い。妻に訊くと、これがジャンボタニシの卵だという。
ジャンボタニシはタニシではない。正式名称スクミリンゴガイといい、もともとは南米原産の腹足類(巻き貝)である。貝なのに肺呼吸もできるらしい。人体に有害な寄生虫がいるので素手でさわってはいけない。その生命力たるや日本のタニシの比ではなく、雑食性でなんでも食べ、田んぼの稲も食べるので農業の障害になる。 もともと九州の業者が食用として輸入し、養殖していたが、そのご貝に寄生虫や毒がみつかり、業者が放棄したために野生化して全国にひろまった。とにかくとんでもないものを持ち込んでくれたものだ。
妻は散歩の途中、傘の先でこれをつぶして歩く。私は「気味がわるいからやめてくれ」とそっぽを向いて逃げ出す。 「どうして農家の人は駆逐しないのだろうね」 「どこも請負にまかせているのよ。自分で田んぼを管理していないのね」 そういえば、田んぼにあまり農家の人の姿を見かけない。
この時期、ところどころの田んぼで水を抜き出した。水を抜かないと、稲の根がしっかりと張らないらしい。妻の実家は農家だから、こうしたことにはとても詳しい。聞けば何でも答えてくれる。そのうえ、私よりも生きることにおいてはたくましい。わが家ではゴキブリ退治も、生け捕りにしたネズミの処置も、妻の役目になっている。
以前に隣の家で悲鳴がするので行ってみると、庭に蛇がいた。妻はそれを素手で捕まえて袋に入れ、自分の畑に逃がしたのだという。 「蛇がこわくないのか」 「隣の奥さんの悲鳴の方がよっぽどこわかったわ」 隣の奥さんは妻の行動を今でも話題にするらしい。私も妻の野性味のある行動に脱帽するしかない。
田んぼが干上がっても、ジャンボタニシは平気らしい。しかし、魚達は水がなくては生き延びることができない。田んぼの傍らの用水をみると、フナやドジョウがうようよいた。いずれここも水がなくなって、彼らは死滅することになる。
ある日、妻と私は網とバケツをもって散歩に出かけた。これで死滅寸前の魚達を掬い、木曽川に放してやろうというわけだ。妻の実家ではこれを毎年しているという。妻と二人で魚を入れたバケツをもって川に降りていき、逃がしてやった。
散歩から帰り道、妻の畑によって、スイカの実り具合をながめた。もう人の頭くらいありそうなのがいくつか育っていた。そろそろ食べ頃のようだ。近くの畑でスイカが盗まれたので、わが家のスイカも心配だ。
私は倫理とは「他者のいのちを愛おしむこと」だと考えている。自己を生かすとともに、他者を生かしながら、「共生的に生きること」だといってもよい。私は生きる上でこれが一番大切だと思っている。
倫理は個人を超えたレベルの集合体にも通用する。家族には家族の倫理があるし、会社や国家のレベルでも倫理は存在する。「他を生かす」という共生の精神は普遍性をもっている。そうした意味で、道徳ではなしに、あえて倫理という言葉をつかった。
この倫理の基底にあるのは、どういう世界観だろう。それはいうまでもなく、世界は本来的に共生的にできているという世界観である。私は儒教の倫理をたいへん評価しているが、しかし、こうした共生的な世界観をはっきりと打ち出しているのは、何と言っても仏教ではないかと思っている。この点について、昨日友人の北さんが掲示板にわかりやすく書いてくれたので引用させていただこう。
<私は、この「自分は生かされている」という発想こそが、日本人の最も自然な「倫理観」になるものだと思います。日本人の倫理観は、日本人の中に「古層の神」として潜在しているアニミズムの感覚を呼び起こし、「生かされている」という発想から再構築していくことしかないと思っています>
仏教はすべての存在がおたがいに関わり合い、お互いを支え合いながら他者依存的に存在していると説いている。この意味で「自我」というような独立した実体というものは存在しない。このことを認識し、他者に生かされていることを感謝しながら、自らも他者を生かし、そこに喜びを見いだして生きて行こうとするのが本来の仏教者のありかたである。
私はこうした仏教の共生的な世界観と倫理をとてもすばらしいものだと思う。そしてこうした思想を生身の生活の中で実践した親鸞や日蓮、道元、良寛という人々を大変すばらしい人たちだと考えている。私は現代の「安心立命」や「現世利益」に傾いた仏教からは離れつつあるが、こうした本来の仏教には惹かれる。
「他者を生かす」ということはどういうことか。もう少しこれをつきつめてみると、それは「他者の多様な生き方を尊重する」ということだ。深い森に行けば分かることだが、そこでは多様な生命が仲良く共存している。一部の強い植物や動物が力にまかせて他者を駆逐しているわけではない。こうした多様性こそが、森を美しく豊かな世界にしている。
これにたいして、森が切り開かれ、開発された土地、人間が強権的に支配し介入しているところでは、そうはいかない。セイダカアワダチソウなどの外来種が、他者を駆逐しながらわがものがおに勢力を張っている。ここに見られるのは、露骨な生存競争であって、お互いを生かし合いながら、みずからも生きようという共生の姿勢は稀薄である。
しかし、こうした弱肉強食の世界が自然の本来の姿ではない。それはこの地上にいまだに何百万種というじつに多様な生物が存在することからも明らかだろう。そのうちの一員である人間があまりに増えすぎ、しかも他者の存在をないがしろにするので、自然もまたこうした殺伐とした一面をみせているだけである。
仏教の世界観と倫理は、他者として人間だけではなく、この地上に存在するすべての生きとし生けるものにまでその射程がとどいている。私たちはこれを大切にしよう。私たち人類がしあわせに生き延びるためには、こうした万物を生かそうとする深みのある世界観と倫理に立脚するしかないのである。
人間が生きていく上で、一番大切なものは何か。私はそれは「倫理」だと思っている。倫理はその人の背骨であるだけではない。国家も又、倫理をもたなければならない。国家が国家としてどれだけ立派かということは、その国がどれだけ倫理を持っているかということである。
最近、孟子や陽明学の本を色々と読んでみて感じたことは、儒教の倫理のすばらしさである。とくに王陽明、中江藤樹、熊沢蕃山には感心した。こうした人物についてこの歳までほとんど知らなかったことが悔やまれる。
これまでの私は儒教よりも仏教に多くの興味と関心をいだいてきた。高校時代に親鸞にであって、「歎異抄」のすばらしさに感嘆したことがはじまりで、道元、日蓮、一遍、良寛に興味を覚え、その思想のすばらしさに、強くこころを奪われたものだ。
こうした先達を讃仰する思いはいまも変わりがない。しかし、今日の仏教には私はほとんど関心がもてなかった。仏教は世俗宗教になり、江戸時代にすっかり堕落してしまったというのが、私の基本的認識である。こうした認識は良寛も持っていたらしく、彼は漢詩の中でこの堕落をなげき、涙を流している。
一口でいえば、仏教は倫理を失ったのである。仏教の第一の戒は「殺すなかれ」である。釈迦は生命のはぐくまれる雨季に命を虐げてはならないという理由で、托鉢さえ慎むように言った。ここから雨安居という美しい言葉さえ生まれ、俳句の季語にもなった。
梅原猛さんも昨日の朝日新聞に、「道徳を忘れた仏教」(反時代的密語)と題して、仏教の倫理性の欠如を批判している。すこし引用してみよう。
<果たして仏教の復活は可能であるか。この問いに対して、私は残念ながら否と答えたい。現代の仏教は道徳を忘れているからである。・・・道徳をもっているがゆえに宗教はつい最近まで繁栄を続けたのである。道徳を失った宗教は滅びざるをえない>
<明治以来、仏教がすぐれた教えであることを説いた人は多いが、仏教道徳をしっかり己の身につけ、それを守ることの重要さを説いた人は少ない>
<今や仏教者はほとんど俗人と変わりのない生活をしていて、仏教者が俗人よりはるかに高い道徳を持っているとはなかなかいえない。このような状況の中で仏教者が自己の道徳に自信を持ち得ず、道徳を語らなくなったのは当然であろう>
<このことは特に十善戒の第一の不殺生戒においていちじるしい。・・・戦前の日本は軍国主義への道をひたすら走り、戦後の日本は自然を壊して日本列島を改造し、経済大国になった。明治以後の日本人はもっぱら不殺生戒に反して生きてきたのである>
<今、日本の道徳は衰え、このままでは日本は精神的に再び亡国への道を行かざるを得ないと憂えているのは私一人ではあるまい。仏教者は仏教がすぐれた教えであることを語る前に、まず自らの生活において十善戒を守り、六波羅蜜の徳を実践しているかを心に深く問うべきではないかと思う>
「安心立命」を説き、「現世利益」を説く仏教の本がよく売れている。しかし、そうした本を読んでみても、道徳や倫理は身に着かない。仏教さえもが「利」ばかりを説き、さらには葬式仏教となって金儲けの手段になっている現状をみるとき、私の心はますます仏教から離れていく。
昨日、近所の書店に行って、数冊の本を立ち読みした。そのなかの一冊に、「会社はだれのものか」(岩井克人著。平凡社)があった。岩井 克人 といえば東京大学で学部長をつとめた人で、これまでも「資本主義を語る」「貨幣論」など質の高い著作を書いている。
いまはやりの米国流「株主主権論」にたいする鋭利な批判はいつもながら胸のすく思いで読んだ。買おうかと思ったが、蔵書0冊を目差して整理中の私は、買うのは止めて、そのかわりその内容を頭の中に刻みつけた。いずれ図書館にでも行って、探してみよう。
会社は「株主」と「経営者」「従業員」「顧客」でできている。このなかから「株主」をとりだし、これに全権を与えるのは、これまでの長い労働運動の成果をも考慮しない暴論である。しかし民主主義が後退し、軍事的経済的帝国主義が台頭するアメリカで、こうした暴論がいつのまにかまかり通るようになり、しかもこれが国家戦略としてグローバル・スタンダードという名前で全世界に押しつけられようとしている。
「会社はだれのものか」という問いかけに、岩井克人さんは「会社は株主のものではない。社会のものである」と明解に答えている。少し前までは、これが世界の常識だった。しかもこの常識は、産業革命以来の労働運動の成果として勝ち取られてきたものである。
この歴史を捨象して、労働者の権利を否定し、資本の論理だけで構築されたのが「株主主権論」という屁理屈である。こんなものがグローバル・スタンダードとしてもてはやされるのは、もはやこの世界が正気をうしないつつある証拠だといえる。
ところで、今日の書きたいのは「会社とはだれのものか」ではなく、「国家はだれのものか」である。絶対君主制では「朕は国家なり」のことばのとおり、「国は王様のもの」だった。朱子学でも国家は君主のものだという説である。
これに対して、孟子は「民は貴し」という発想に立ち、「国は民のためにある」という姿勢を明確に打ち出した。江戸時代を通して、こうした思想が武士や庶民にまでひろがり、明治維新につながる背景となっていく。
勿論幕府はこれを弾圧した。とうじ学者としても経世家としてももっとも人望の高かった熊沢蕃山は捕らえられて、幽閉されたまま生涯をおえている。朱子学を官学とし、幕府の学問所や各藩の藩校ではこれ以外を教えることを禁じた。だから、高杉晋作などは藩校にかよいながら、吉田松陰の私塾に通い、孟子や陽明学の勉強をしたわけだ。
しかし、幕府を瓦解させた思想的背景として、じつは朱子学そのものも大きな役割を果たした。なぜなら、朱子学は主君に忠誠を尽くせと説いているが、それではその主君とはだれかといえば、藩主であり将軍であるが、実はその上に天皇がいる。
朱子学の論理を徹底すれば、「日本国は天皇のものである」というところに行き着く。幕府が政治を行うのは、天皇からその統治権を将軍に委託されたからである。もし、幕府が統治能力を失えば、とうぜんこの権力は天皇に帰すべきだ。じつは朱子学そのものがこうしたラジカルな倒幕思想に変貌する可能性を秘めていたわけだ。
ペリーの黒船艦隊の二度にわたる襲来によって、幕府の統治能力が疑われると、この朱子学の倒幕思想が一気に牙を剥いて幕府に襲いかかった。こうして幕府は人民統治の手段として仕掛けたイデオロギーによって、皮肉にもトドメを刺されることになった。
こうした思想のダイナミズムを発見し、これをもっとも有効に「孟子」の民本思想と融合させたのが吉田松陰の「一君万民」思想だった。これは天皇だけを貴しとし、その他をおなじく万民とかんがえて平等視する思想である。こうした松陰の思想が、やがて彼の門下生によって実現される。それが現在にまでいたる「象徴天皇制」だと思えばよい。
| 2005年07月18日(月) |
蕃山にみる社会組織論 |
逆ピラミッド組織について書いたが、おなじ発想がもう2千年以上もまえに孟子によって語られている。このことを北さんに指摘されて気づいた。「孟子」にはこう書かれている。
「民を貴しとなす。社稷(しゃしょく)これに次ぎ、君を軽しとなす」 「諸侯の宝は三。土地・人民・政事なり」 「天下を得るに道あり。その民を得れば、ここに天下を得る」
これは君主を頂点にいただく武士階級の下に農民や商人などをおいた封建制のヒエラルキーを完全にくつがえすものだといえよう。孟子のこの思想を受け継いだのが王陽明だった。したがって中江藤樹や熊沢蕃山にもこの発想が濃厚である。
幕府が官学として朱子学は君主を頂点にした典型的なピラミッド組織論である。君主は武士を統率し、武士は農民を管理支配して、これから年貢をとりたてるのが役目である。つきつめればすべては君主のために、滅私奉公しなければならないという発想に立った考え方だ。
陽明学はこれを根底からくつがえした。国の富の源泉は農民の労働のたまものである。武士はこの農民を助けるのが本分である。そしてこの武士を根底で支えるのが君主でなければならない。これによって国は治まり、経済的にも豊かな安国となることができる。
もちろんこれは理想論であった。実際は、幕藩体制というピラミッド組織が厳然と存在し、君主や武士は農民からできるだけ多く年貢をしぼりとろうかと考えていた。そしてこの強権的な体制を維持するために、朱子学という洗脳装置だけではなく、過酷な法律と刑罰を用意していた。これについて荻生徂徠もこう書いている。
<王侯卿大夫の職にそなわりて、我が身の君主なることをしばししらず、賤しき昔の武士の名に拘り、学問を以て才智を広め、文を以て天下を治むることをばしらず、目を苛らげ、肘を張り、刑罰の威を以て人を脅し、世界をたたきつけて、是にて国を治むると思へるは、愚かなることの頂上なり>(太平策)
もちろん、中には学問好きの君主もいた。備前藩主の池田光政はその代表格だった。彼は熊沢蕃山から「民を貴し」とする孟子や陽明学を学び、そしてこれを実践させた。「百姓ばかりを大切につかまつり、さむらいどもをばありなしに仕候」という藩内からの不満が吹き出す中、新参者の蕃山が辣腕をふるえたのも、池田光政の全面的な支援があったからだ。蕃山は「集義和書」のなかでこう書いている。
<一国の中、何の用にもたたざる者、親のあととて知行をとり、家人をいかり、百姓をしいたげ、俗に催促人といへる者のごとくなる者多し>
<上奢り下苦しむ時は乱れ滅ぶ。損これより大なるはなし。上質素に下豊かなる時は国治まり、天下平かなり、益これより大なるはなし。上を損し下を益の政あり。上無欲にして物を蓄へあつめたまはざれば、財用をのづから下に散じて、下の心上にあつまり服するものなり。人心の帰服する益是より大なるはなし>
民に厚く武士に薄くという蕃山の方針は、最終的には大禄を食んでいる家老や重臣の家禄を1/3にするという献策にまでなった。光政はこの献策に賛成したようだが、これにはさすがに藩内の武士達も色を失った。藩内に不穏な動きが起こったので、光政は蕃山の身を案じて隠棲させたという説がある。
徳富蘇峰は蕃山を「幕府の中央集権制度を、根底より破壊せん」とした革新思想家と位置づけている。そして、「蕃山は其の思想を、直ちに実行せんとする改革家の気分、尤も濃厚」だった。これは「知行合一」を唱えた陽明学の思想の性格でもある。
しかし、蕃山よりももっと過激な行動主義者がいた。1651年に乱を起こした由比正雪である。蕃山はこの乱の首謀者の一人として名前があげられた。さらに幕府の猜疑の目は、池田光政や、蕃山から儒学を、そして正雪から軍学を学んでいた徳川御三家の紀伊藩主徳川頼宣にまで及んだ。蕃山が岡山藩を辞したのはこのためだという説もある。
| 2005年07月17日(日) |
逆ピラミッド組織の社会 |
5月16日の朝日新聞の「時流持論」のコーナーに、資生堂の社長で東京商工会議所の副会頭をつとめる池田守男さんが、「奉仕培う逆ピラミッド型」と題して、なかなかすばらしいことを書いている。これを読んで、私は池田さんと資生堂のファンになった。
池田さんは2000年に乞われて資生堂の副社長になった。そして翌年には社長になった。そのころの資生堂は業績が伸び悩み、会社に活力がなかった。資生堂は130年の歴史をほこる老舗である。その会社がいまや組織疲労を起こし、動脈硬化で末期的状況になっていた。
どうやってこの朽ちた組織を再生させたらよいのか。池田さんが考えたのは、これまでのピラミッド型の組織を、逆立ちさせて、「逆ピラミッド型」に変えることだった。頂点に最高権力者の社長がいて、その下に部長、課長、係長、ひら社員がいるのではない。
<組織の一番上にお客さまがあり、そのお客さまと出会う販売第一線の社員を現場の上司が支え、それをまた部門の長が支える。一番下の部分で社長が支えるというかたちだ。
私たちはお客さまや社会に奉仕するために存在するのだから、「逆ピラミッド」は当然のこと。これをあらゆる機会に社員の目や耳や脳裏に焼き付け、上司の意向に従うばかりで、お客さまとの接点である現場を軽視する意識を一掃したいと考えた>
いちばん上にいるのは「お客さま」である。そしてこのお客様と対応する現場の社員達がその下に来る。その社員達を底辺から支えるのが中間管理職であり、そして逆ピラミッドの最底辺で会社全体を支えるのが社長である。経営者が従来のように上から下へ指示、命令を一方的に与えるというスタイルはここでは通用しない。
<会社や従業員は、組織やその長に奉仕するのではなく、お客さまとその先にある社会のために奉仕するものだ。企業は公器として社会の中で生かされているという当たり前の現実が、このサーバント・リーダーシップの精神を意識することで鮮明になる>
池田さんは大切なのは、経営者がまずこの「逆ピラミッド」の発想をもち、サーバント・リーダーシップの精神を発揮することだという。そうすればやがてこの意識はしだいに社員のなかに浸透し、受け容れられていく。
<やがてすべての社員が、お客さまのために奉仕するという価値観をもって、自らの判断で行動できるようになるはずだ。現場を最重要視することは、変化と競争の激しい市場環境にもすばやく柔軟に対応できることにもつながる。
結果的に社員一人ひとりの人間性や個性を生かした組織運営が可能になり、多様性と魅力あふれた企業づくりに寄与するだろう。それは、社会全体が人間味あふれる活力を得ることへとつながってゆく>
ここに述べられている組織論は、私企業だけではなく、政治や行政組織にもあてはまる。むしろ行政こそパブリック・サーバントとして、この「逆ピラミッド」の精神をもたなければならない。
一番上に「民」があり、そのしたに「官」がある。その「官」の逆ピラミッド組織を最底辺で支えるのが「首長」でなければならない。こうした意識改革が国民一人ひとりに浸透していけば、そのときこそ民主的で活力のある社会が実現することだろう。
<効率性や利便性ばかりでなく、一人ひとりの人間の個性を尊重し、愛情深くお互いに支え合う組織や共同体をつくりあげようとする営為は、未来の幸せな社会への道標となると私は信じている。21世紀は心の時代、文化の時代となるにちがいない>
池田さんのような経営者が存在することはとても心強い。これまで日本の組織はともすると中央集権的なピラミッド型の権力構造になりがちだった。これを逆転することで、組織は新しく生き返り、社会は共生的な支え合いの場となり、人生もまた多くの人たちにとってほんとうに生きがいのあるものとなるに違いない。
江戸時代の「藩」はひと昔前までは「会社」にたとえられ、サラリーマン武士道などという本が出たりした。まさに忠臣蔵の登場人物のように、会社に忠誠を誓い、滅私奉公する社員がいたわけだ。
西洋社会はこうした会社人間は理解しがたい存在だったらしく、エコノミック・アニマルなどと呼んだりしていた。しかし、チップなどもらわなくても、サービスに手抜きをしないのは、日本人くらいだといわれた。収入だけではなく、愛社精神から働く人がかなりいた。
ところが、「痛みを伴う構造改革」とやらでリストラがはじまり、終身雇用制などの日本的システムもあやうくなって、この数年でずいぶんサラリーマンの意識もかわってきたようだ。会社は従業員のものではなく、「社員」とは「株主」のことだなどといわれ、帰属意識や忠誠心が弱まってきたように思われる。
たとえば朝日新聞が紹介している米ギャラップ社の世論調査によると、会社に対して帰属意識が大いにあると答えた日本人会社員は9パーセントで、これは調査した14ケ国で最低だそうだ。ちなみにアメリカは29パーセント、イギリスでも19パーセントある。
反対に、帰属意識がまったくないというのは、日本はフランスの31パーセントに続いて多く、24パーセントもある。ギャラップ社の分析によると、「米国は不満があれば転職する。日本は相当我慢をしているのではないか」ということだ。
日本の会社の強みは「和」や「忠誠心」にあった。世界の非常識といわれる「単身赴任」にも異を唱えず、「社畜」とか「会社人間」と呼ばれて、その行きすぎが批判されたこともあったが、いまは帰属意識も薄れて、たんに地位の喪失やリストラの不安から奴隷労働をがまんしているだけの人も多いのだろう。日本の企業もそこに働く社員の意識も、変わってきているようだ。
私は公立学校の職員だが、現在の職場に帰属意識があるかと聞かれれば「イエス」と答える。「じぶんは○○学校の教員である」という意識はあるし、職場をよくしたいという意識も持っている。これはもちろん、リストラの不安からではない。まっとうな職業意識からそう考えるのである。
しかし、これまで経験した学校には、職場の環境が自分の志とはあわず、帰属意識がもちにくい職場もあった。「自分はどうしてこんな職場で働いているのだろう」と真剣に悩み、教員をやめようと思ったこともある。そのあたりのことは、「何でも研究室」の「日の丸の好きな県立高校」にくわしく書いたとおりだ。
http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/koukou.htm
そうしたときにおなじ質問を受けたら、「帰属意識はありません」と答えていたに違いない。ただ公立高校の教員のいいところは、比較的容易に転勤ができることだ。自分にあわない職場は自分で見切りをつけて転職願いを出すことができる。
今の定時制の職場は14年振り、二度目になるが、とても満足している。自分の仕事にやりがいが持てれば、しぜんと職場や学校をよくするためにがんばろうという気持になる。
これは会社の場合でもおなじだろう。一つの会社でじっと我慢をしなくてすむような、転職の自由を保障する開かれた労働市場があれば、自分にあった会社に就職する可能性もふえる。資本の自由化が進むなかで、こうした労働の自由もまた同時に進行しなければ、フェアだとはいえない。
米国や英国では刑務所も完全民営化しているようだ。日本でも半分民営化された刑務所(PFI刑務所)が2007年4月の開設を目指して、山口県美祢市にいよいよ作られることになった。
この刑務所は官民の協同体制で運営され、手錠をかける、懲罰を命ずる等の公権力の行使に関しては官が担当し、それ以外の受付、巡回、教育、清掃、給食などのサポ−ト業務を民間が担当するという。
従事者は官員120名、民間130名で、全体で250名。家族も含めれば2000人近い人と、受刑者1000人がすむわけだから、町としては固定資産税が入り、刑務所関連産業も増加し、経済効果もかなりなものになる。刑務所招致合戦に50近い自治体が名乗りを上げたというのも頷ける。
日本の刑務所は110%を超えた過剰収容状況。今後、経済のアメリカ化が進む中で、経済格差は広がり、犯罪は増加するにちがいない。というわけで、PFI刑務所も増加する。そういえば二番目のPFI刑務所も激戦の末、島根県の旭町に決まったそうだ。
まだまだ刑務所の需用はふえそうなので、各自治体は三番手、四番手を目差して、囚人の奪い合いをすることになる。これからこうした官民連携の犯罪ビジネスが花盛りになるのだろうか。なんだか割り切れない世の中になってきた。
ジャック・ニコルソン主演の「恋愛小説家」を、8年ほど前に名古屋の映画館で観たとき、前の人の頭が邪魔になって、字幕がほとんど見えなかった。だから肝心のセリフがよくわからず、雰囲気だけで観たのだが、それでもそれなりに面白かった。
今回DVDをかりてきて、ふたたび見直した。主演男優賞をとったニコルソンの演技はなかなかのものだった。ニコルソンのアクのある演技にたいして、主演女優賞のヘレン・ハントのさわやかな自然体の演技もとてもよい。となりのゲイの青年が飼っているモップ犬の演技がこれまた秀逸と、いろいろ見所がある。
ニコルソンが演じるのは恋愛小説家。愛がどうのこうのとという歯の浮くようなラブ・ロマンスを書き、そこそこ収入もあって、若い女性に熱烈なファンもいるようだが、現実の作家は近所でも鼻つまみものの偏屈な独身男。
脅迫的な潔癖性で、レストランにも自分用のプラスチックのナイフとフォークを持参するような男。坐る席もきめている。そして毒舌でいつも周囲の人々を傷つけている。
こんな嫌みな男にもひそかに好きな女がいる。それは行きつけのレストランのウエイトレス。しかし、不器用な彼は失敗ばかりをしている。いろいろなエピソードがあって、ようやく二人は旅さきのレストランで食事をともにすることになる。
母親と喘息もちの子供をかかえた貧しいやもめ暮らしの中で、せいいっぱいよそ行きのドレスをしてあらわれた女に、彼は「このレストランは男は正装でなければならないのに、女は普段着で入れてもらえるのか」などと無神経な言葉を吐く。
食事を前にして怒って席を立つ女。あわてて引き留める彼に、女は「それなら、私をもっといい気分にさせて。どうして、私をがすきになったの。私を満足させるようなことを話してみて」とにらみつける。
このとき彼が口にする言葉がなかなかのものだ。これを聞いて、「私が今まで聞いた中でいちばんの誉め言葉」だと女の気分がなおる。さてそのセリフというのがこれだ。
You make me want to be a better man.
「君はぼくにもっといい人間になりたいと思わせてくれる」
映画ではこのあと彼はまたドジを踏む。彼は最後まで「I love you.」を口にしない。しかし、その気持を伝えるために、必死に言葉をつむぐ。その言葉に彼の真心が入ったとき、彼女の気持ちが動く。
そうして必死で努力する彼の姿が、なかなかほほえましい。性格の悪い人間に見えた彼が、少しずつまともな人間に見えてくる。不器用だが、温かい心の持ち主だということもわかってくる。実は、彼女はそうした彼をいくらか理解し、受け容れていたのだ。そのことが、最後に彼女の言葉で明かされる。
DVDでじっくりみてみると、いろいろな細部がわかってきて面白い。夥しい毒舌にまじって、水晶のような美しい会話がところどころに光っている。私の好みの映画のひとつだ。最後に、サイトで見かけた映画評を紹介しよう。
<ヘレン・ハントはペイ・フォワードでもそうだったが、最初は「やつれたおばさん」で話が進むにつれてどんどんチャーミングになっていく役は本当にうまい!それとジャック・ニコルソンの毒舌で頑固者(?)なのに人にモノを頼まれると結局嫌と言えずに引き受けてしまうし、他人の心配して世話は焼くし、忠告されると以外に素直に受け入れてしまうという役柄が正に「人は見かけによらない」典型で面白かった。作品としては軽いコメディーだが、二人の見事な演技で退屈しない作品。ただジャックのラブシーンだけは御免被りたい。>
http://jtnews.pobox.ne.jp/movie/database/ treview/re407.html
恋愛小説家 原題[As Good As It Gets] 1997年【米】
監督 :ジェームズ・L・ブルックス 男優 :ジャック・ニコルソン :キューバ・グッディングJr. :スキート・ウーリッチ :グレッグ・キニア 女優 :ヘレン・ハント :シャリー・ナイト 音楽 :ハンス・ジマー 脚本 :ジェームズ・L・ブルックス
毎朝、散歩をしている。雨の日は傘を差してあるく。6時までに日記を書き終えて、それから歩くのだが、それでも最近はかなり温度が高い。家に帰る頃には少し汗ばんでいる。
最近困っていることは、道に生き物の姿が多くなったことだ。とくに小さなカエルがたくさん跳びはねている。歩いていると、踏みつぶしそうになる。じっさいに車や人の足で潰された死骸がいやでも目につく。これはいやな気持だ。
最近「解夏」という映画をDVDでみて、「雨安吾」という言葉を覚えた。インドの陰暦4月から7月は雨季であり、このころに、虫の卵や草の芽が生じる。この季節に外を出歩くといやがうえでもこれを踏みつけ殺生してしまう。
そこで僧たちはこの夏の90日間は托鉢に出ることをやめ、庵で共同生活をしながら、お互いに犯した罪を懺悔し、よりよい生をもとめて修行することにしたのだという。これが「雨安吾(あめあんご)」とよばれるものの始まりだそうだ。そして「雨安吾」であつまった僧たちの「庵」が、やがて「寺」になったのだという。
「雨安吾」のはじまりを 結夏(けつげ、陰暦4月16日、太陽暦5月27日)といい、その終わりを「解夏」(げげ、げか、陰暦7月15日、太陽暦の8月23日)という。「解夏」とは僧たちが再び托鉢を始める日である。映画では主人公の青年が完全に視力を失う日を、「解夏」にかさねている。ここから主人公の新しい人生が始まるわけだ。
映画の中に、「もし、自分が失明するとしたら、最後に見たいものはなんですか?」という問いかけがあった。主人公にとって、それは愛する人の笑顔だった。彼は彼女の顔を見るために、視力の衰えた不自由な体で、長崎から東京に出ていく。
そして彼女の笑顔をその眼底にやきつけて、視力を失うわけだ。主人公の青年がこの世で最後に見たものが、恋人の笑顔だったというのは救いである。
主人公が視力を失う原因なったベーチェット病は、いまだに原因不明の難病だという。病気の特徴として、全身のさまざまな臓器や組織に炎症を繰り返す。そして眼底に炎症を起こして視力を失う人も多い。日本では約20,000人の患者がいるらしいが、こうした難病が存在することを初めて知った。
視力を失うと、人間は暗黒の世界に身を置くのだろうか。じつはそうではなく、乳白色の霧のかかったような薄明の世界に生きることになるらしい。盲人の世界がただの闇ではないことも、私には救いのように思われた。
雨安吾 庭のカエルも ひとやすみ 裕
少し前から、私の座右に中江藤樹の「翁問答」と熊沢蕃山の「集義和書」がある。松田松陰や高杉晋作などもこれを読んでいたのだなと思いながら、感慨深く読んでいる。これを読み終えたら新井白石の文章もよんでみようかと思っている。
以前、吉田松陰の文章を読んでいて、いっぺんにこの人が好きになった記憶がある。「文は人なり」というが、やはり原文でよんでみると、その人の息づかいまでが届いてくるようで、迫力が違う。
陽明学は本家の中国ではすっかり廃れたが、日本でそのすぐれた後継者を得た。これがやがて幕藩体制をゆさぶる倒幕のエネルギーになって、日本の歴史を動かしていく。佐久間象山や吉田松陰がそうだし、高杉晋作も熊沢蕃山をだれよりも尊敬していた。
陽明学にとって不幸だったのは、これが軍国主義の時代に悪用されたことだ。しかし、昭和維新を叫んだ青年将校たちが、どれほど深く中国の古典を学び、江戸の古典を読んでいたのか疑問である。私は彼らを悪しき陽明学徒と呼んでいる。
王陽明は朱子学を批判するにあたり、孟子、孔子の原典に遡っている。朱子が手をくわえて編纂したものを、もう一度もとにもどし、あらたに「大学」などを編纂し直した。私たちも薄っぺらな解説書や歴史書で早合点するのではなしに、やはり原典をしっかり読むことが大切ではないだろうか。もちろんこれは陽明学だけにあてはまることではない。
中江藤樹や熊沢蕃山、吉田松陰を読んでいると、日本人として生まれたことが何だか誇らしくなってくる。戦後西洋の民主主義が輸入され、陽明学は進歩的学者からずいぶん批判されたりしたが、陽明学を批判する人たちの多くはただ借り物の衣をきているだけである。その衣を脱いだとき、いったいどれだけ充実した中身があるか問題である。
民主主義は何も西洋の専売特許ではない。封建的専制的といわれる中国や日本にも民を尊ぶ独自の思想の伝統があり、実践があった。陽明学はそのなかでもひときは美しく大きく輝いている。
東洋の思想にはある部分では、西洋の思想より進んでいる部分もある。国の将来を考えたとき、私たちはこれを誇りに思うだけではなく、これをさらに発展させて、借り物ではない血の通った思想哲学を構築し、将来への実践の足場にしていくことが大切である。
東洋にかぎらず、世界の古典に学ぶことはとても大切なことだ。私たちは古人との対話をとおして、古人の人生に対する志しの深さを知る。それによって自分の生きる姿勢を確立し、人生観・世界観を深めていくことができる。私はこれからもこうした志をもって、真摯に古典に学びたいと思っている。
(参考文献) 「日本思想体系29・中江藤樹」 岩波書店 「日本思想体系30・熊澤蕃山」 岩波書店
| 2005年07月11日(月) |
愚に入りて愚にあらず |
西郷隆盛が王陽明の「伝習録」を座右にし、「敬天愛人」をモットーにしていたことは有名である。西郷に限らず、大久保利通はじめ勤皇の志士の多くは陽明学を心の糧とし、行動の原理にしていた。
とくに蕃山は彼らのなかで人気があった。藤田東湖、吉田松陰、高杉晋作などが傾倒しただけでがなく、幕府の役人であった勝海舟も蕃山を評して「儒服を着た英雄」と述べている。また、吉田松陰の師で、洋学者であった佐久間象山も蕃山を「老師」と尊称で呼んでいた。
明治時代になっても蕃山の人気は衰えなかった。政治家や軍人ばかりでなく、経済界でも岩崎弥太郎などが彼を敬愛し、明治天皇は明治43年(1910年)江戸時代の学問を興隆させた功績により蕃山に正四位を与えている。こうしたことはかなり異例なことだ。
熊沢蕃山については、いろいな逸話が残されている。その名前や反骨の経歴から想像されるのは、かなりごつごつした武人のイメージだが、実際はそうでもなかったらしい。岡山の旧家に伝わる蕃山の肖像画は美女とみまがうほど臈長けたものがあるという。
蕃山をモデルにしたといわれている「朝顔日記」には「世にまれなる美丈夫にて、うまれつき眉清く目秀で、色は雪より白く、きりょう気骨あっぱれなるおとこぶり」とその人品が描かれている。
20歳のとき元服したばかりの蕃山は岡山藩主池田光政のもとを離れているが、これにも何か深いわけがあったのかも知れない。実際蕃山はかなりの美少年であったらしい。京で育ち、源氏物語を愛読し、源氏の女好きは「仁愛」の発露でもあるという大胆な解説を書いたくらいだから、なかなかの文学趣味の持ち主でもある。
<この物語において、第一に心つくべきは、上代の美風なり。礼の正しくしてゆるやかに、楽の和して憂なるてい、男女ともに上臈しく、常に雅楽をもてあそびていやしからぬ心もちなり。次には書中人情をいへる事ちまびらかなり。人情を知らざれば五倫の和を失う事多し。これにもとりては国治まらず、家ととのほらず>(源語外伝)
蕃山は色事を知り、下情に通じることも、政治を行うための大切な要件だと書いている。もっともこうした立場から道学者ふうに源氏物語を語ることは、本居宣長などにとって我慢がならないことだったようだ。しかし、儒学者で経世家の文章とは思えない柔軟さである。宣長のような色眼鏡さえ棄てれば、その行間からは「もののあはれ」もかすかにただよってくる。
蕃山は琵琶、笛、笙をよくし、音楽家として一家をなしていた。蕃山に私淑していた高杉晋作もよくしゃみせんを弾いて、小唄をうたっていた。彼は騎兵隊を指揮した重大な戦の前でも兵士たちの前で三味線を弾き、「愚」の大切さを説いていたという。
<余、少年時、熊沢氏の集義和書を読む。云うあり、学文を作す程なれば、世間の利発の人となるなかれ。世間の愚者となるべしとなん。余も世間の愚者とならんことを願い、ようやく苔穴に陥るまでに勉強致せし。故に、世間の利発者流の人は、吾が志を知らざるなり>(高杉晋作全集)
蕃山は幕府権力に楯突き、あたら3000石をも棄てた自分の生き方を、「名聞利害にかしこく習いたる巧者」ではなく、「今の世の愚なる人」と突き放して眺めていた。高杉晋作はこうした蕃山の生き方を、「愚に入りて不愚に帰す」と讃えている。
切腹を覚悟でペリーの軍艦に乗り込んだ吉田松陰も、愚なる人物の最右翼といえる。しかしこうした愚人たちがつぎつぎと輩出して、日本に新しい時代が開かれた。そのおおもとに、孔子や孟子の教えがあり、愚直を伝統とする陽明学の教えがあった。
(参考文献) 「反近代の精神、熊澤蕃山」 大橋健二、勉誠出版
王陽明学の精髄は「致良知」である。陽明は「良知」を孟子から学んでいるが、孟子とちがうところは、はるかにそのパワーが増大して、宗教色を帯びているところだろう。「伝習録」からひいてみよう。
<良知は天地万物の聖霊である。この聖霊は天地を生じ、鬼神を作り、天の最高神である上帝を作る。すべてのものは良知から生まれた。それは世界と一体であり、万物から離れて存在するものではない。
人がもし、この良知に服して少しの欠けるところもないものならば、おのずから喜びにみちて手足が舞い踊り出すだろう。天地のあいだに、これに代わる楽しみがほかにあるだろうか>
これはまさに宗教的境地に近いものだろう。この良知を西洋の言葉で表すとすれば、私は「ロゴス」ではないかと思っている。それもストア哲学でいう万物の根源としてのロゴスである。あるいは、ヨハネ伝の「はじめにロゴスありき」のロゴスである。
中江藤樹は「良知」を孟子から学んだが、王陽明の説を知るに及んで、その解釈を大きく変えている。晩年の藤樹の学問はこうしてその境地を深め、おおきく変貌する。それはまざに、植村正久のいうように、<人をして天にいたらしめんとす>というほどの変化である。
陽明学にはとくに禅の影響が大きいと言われるように、王陽明は仏教や道教に親しみ、これを排斥しなかった。中江藤樹は仏教には批判的だったが、晩年にはこれを許容するようになった。そして神道にも理解を示している。これもまた王陽明の感化が大きいのだろう。
人間と世界の善性を信じ、世界を創造したものは「良知」だと説く王陽明や中江藤樹の思想は底抜けに楽天的であり、その境地は明朗活発である。そこにはキリスト教の原罪の意識も、親鸞の説く悪人正機説の入り込む余地はない。
そうした湿っぽいものを呵々大笑する雄大さをそなえていて、清明であり意気軒昂である。浩然の気を養い、人生に積極的になろうと思うなら、ストア哲学か、もしくは陽明学を学ぶことをおすすめする。
林羅山は陽明学をキリスト教の一派だといって弾劾した。しかし、これは一概に荒唐無稽な説というわけではない。じつは陽明学とキリスト教はその本質がとても似ている。林羅山はこの点で、かなり目利きだった。
中江藤樹を「代表的日本人」として賞賛した内村鑑三は、キリスト教徒になる前は熱心な陽明学徒だった。同様のことは、内村と並ぶ指導的キリスト教徒であった植村正久にもあてはまる。彼は「王陽明の立志」のなかでこう書いている。
<儒学は人をして地を離れしめず。しかれども陽明学は人をして天にいたらしめんとす。儒学を知らんと欲する者は、朱子を措いて王陽明を繙くべし。山上垂訓の精神は、陽明洞の達人、すでに幾分その微光を観る>
陽明は人は誰もが心に中に<聖人>を生まれながらにもっているという。これを顕現できれば、だれしもが<聖人>になることができる。これが陽明が強調した<立志>ということだ。王陽明の<聖人学>はその高潔な倫理性といい、たしかにキリスト教に通じるものをもっている。
「武士道」を広く西洋社会に紹介した新渡戸稲造も、キリスト教徒になる前は熱心に陽明学を学んでいた。キリスト教に改宗してからも、彼は陽明学を高く評価して、「武士道」のなかで王陽明についてこう紹介している。
<西洋の読者は、王陽明の著述のなかに「新約聖書」との類似点が多いことを容易に見いだすであろう。特殊なる用語上の差異さえ認めれば、「まず神の国と神の義を求めよ、さらばすべてこれらの物は汝らに加えられるべし」という言は、王陽明のほとんどいずれのページにも見いだされる思想である>
王陽明は「伝習録」に「人の胸中には個々の聖人あり」と書いている。これはヨハネ伝の「父(神)は我にあり。我は父にあり」(第十章題38節)やルカ伝の「それ神の国はなんじらのうちにあり」(第十七章21節)に通じる。またパウロの有名な「神、わがうちにありて生きるなり」というロマ書の言葉にも通じる。
中江藤樹はこうした陽明の聖人思想に強いシンパシーを持っていた。彼は「世界のうちにあるすべての人々は、皆皇上帝・天地地祇の子孫である」(翁問答)とも述べている。天神を人格的に捕らえるなど、その高潔な個人中心の倫理観といい、藤樹の世界観・人生観はキリスト教の精神性に通じるものがある。
これは偶然だろうか。実はここに面白い資料がある。レオン・パジェスの「日本切支丹史」の1626年の項には次のように藤樹らしい人物が描かれているという。
<四国には一人の異教徒がいて、彼は支那哲学とイエズス・キリストの教えは同じだと信じ、ずいぶん前から支那の賢人の道を守って来たのであった。彼は一伝道師士に会って、己の誤りを知り、聖なる洗礼を受け、以来優れたキリシタンとして暮らした>
大洲の三穂神社の境内には、隠れキリシタンとして処刑された3人の祠があり、そのうちの一人、来島徳右衛門は藤樹の叔父だという説がある。そして藤樹の祖父の祠もまたすぐ近くに祀られているという。
こうしたことから、藤樹が隠れキリシタンであったという説が出てくるわけだ。私は藤樹はキリシタンだったとは考えないが、なにがしかの影響を受けたことはまちがいないと思っている。大洲藩士を止めた理由のひとつに、キリスト教とのかかわりがあったかも知れない。
なお、私は陽明学にもっとも近い西洋思想はキリスト教ではなく、ストア哲学ではないかと思っている。キリスト教はその最良の部分をストア哲学に負っている。とうぜん、陽明学とキリスト教もまたよく似ているわけだ。
王陽明も中江藤樹も主君には恵まれなかった。その点、熊沢蕃山は師にも主君にも恵まれた。彼が仕えた池田光政(1609〜1682)は水戸光圀にならぶ学問好きの名君として知られている。
この主君の庇護があったればこそ、蕃山は藩政に力をふるい、他藩や幕府からさえ経世家として評価されたわけだ。門閥をもたぬ蕃山に二千石、三千石を与え、学問の師としてだけではなく、藩政までも委ねたのは、よほど蕃山に惚れ込んだのだろう。
それは蕃山を通して知った中江藤樹にたいする尊敬であり、王陽明に対する尊崇でもある。朱子学が官学として公認されているなかで、藩主みずからが陽明学に理解ある態度を示すことは、勇気のあることだった。
池田光政は戦国武将の池田輝政を祖父に持っている。徳川家康の娘の督姫(とくひめ)を祖母に持ち、しかも天樹院(千姫)の娘の勝子と結婚している。祖父は輝政は姫路城を築き、姫路藩主であった父の池田利隆の死後、1632年に池田光政は岡山藩主になった。
学問を好み、家臣たちと一緒に書をよく読んだ。1641年には、上道郡花畠に学舎をつくり、藩の師弟の学問、武技練習場とした。そして1654年備前に大洪水が起こると、光政は、蕃山の補佐を得て、飢民の救済に力を尽くしている。1670年に閑谷(しずたに)学校を設け、岡山藩では学問がたいへん栄えた。
まだ蕃山が幕府の厳しい詮議の対象になっていないころから、彼をとくに目の敵にしたのは林羅山(1583〜1657)だった。由比正雪を弾劾した「草賊前記」(1651年)で、正雪一味の思想的黒幕は蕃山だと断定し、さらに島原の乱を起こしたキリスト教と陽明学が類似の思想であり、蕃山はその仲介者だという説を述べている。
<熊沢は備前羽林(池田光政)の小臣なり。妖術を以て聾盲を誣ふ。聞く者、迷いて悟らず。多く約して結び、漸く党を為すに至り、・・・この草賊等は、皆熊沢の妖言を聞く者なり>
羅山といえば、豊臣秀頼が鋳造させた方向寺の梵鐘の銘文「国家安泰、君臣豊楽」を家康を呪うためのものだといいがかりをつけ、大阪冬の陣の開戦の口実を作りだした知恵者である。
林羅山が儒者でありながら僧の極位たる法印に叙せられた直後、まだ24歳の大洲藩士だった中江藤樹は、「林氏剃髪受位弁」を著わして、御用学者・羅山の欺瞞性を糾弾した。後に藤樹は、「翁問答」において、四書五経、諸子百家の書をそらんじて「口耳をかざり利禄のもとめとのみ」する儒者は、「俗儒」であると断じている。
<儒道をおこなふ人は、天子・諸侯・卿大夫・士・庶人なり。此五等の人のよく至徳要道を保合するを真儒と云なり。しかるゆへに、天子・諸侯・卿大夫・士・庶任のしょさ(所作)が、すなわち真儒のすぎわひにて候。五等の所作のほかのすぎわひは、天命本然の生理にあらず>(翁問答)
藤樹にとって、学問とは天子から庶民までひとしく学ぶべき人生の指針である。いたずらに知識をひけらかし、難しい議論をして専門家ぶるためにあるのではない。またこれを「身のすぎわひ」にして録をむさぼるなど論外だった。
熊沢蕃山も師藤樹と同じ学問観をもっていた。彼は「集義和書」で、自己の生き方の原理として儒学を学び、これを行う者を「道者」とよび、学問を身すぎの道具とするものを、「史儒」といい、さらには「役者」「芸者」と呼んでいる。
蕃山にとって藤樹が道者の手本だとすれば、林羅山は史儒の代表だった。林羅山も「道者にあらず」と批判されては面白いはずはない。当時ご禁制であった切支丹と結びつけることで、世の覚えのめでたい蕃山を、朱子学の天敵である陽明学とともに、この世から葬り去ろうとしたのだろう。
5代将軍将軍綱吉(1646〜1709)は林家の朱子学に傾倒し、陽明学を嫌った。蕃山の幕府批判はさらに鋭くなり、綱吉の逆鱗にふれた蕃山は、ついに1686年の幕府令で下総国古河藩主松平忠之預かりの身になった。そして幽閉されたまま死を迎えた。
孔子は国を治めるには二通りのやりかたがあると考えた。上に立つものが武力と刑罰で民を従わせる「覇権」の方法と、徳の力で民を感化し、すすんで国造りに協力させる「王道」である。
孔子は「王道」によって国を治めるのがよいと考えた。王道を実現するために必要なのは「仁」「義」「礼」「智」「信」である。儒教ではこれを五徳と呼んでいる。為政者にとってとくに大切な徳は「仁」である。
白川静さんの「常用字解」には、「仁」という文字は人が絨毯のうえに腰を下ろして休んでいる姿だと書いてある。体をくつろがせて、あたたかく心が和んでいるというのが、「仁」のもとの意味らしい。孔子はこうして人々がくつろいでいる「仁政」を政治の理想の姿だと考えた。
現実の政治は覇道と王道の中間にあるものだが、為政者は覇権主義にかたむきがちな政治を、いかに王道に近づけるかに心を用いなければならない。こうした孔子の思想は儒教とよばれ、やがて中国の歴代の王朝の官学になった。
官吏を門閥ではなく、公平な試験によって登用する科挙の制度も孔子の思想である文治主義の産物である。官僚になるには、四書五経とその注釈書を頭に叩き込み、これを自在に引用するだけではなく、自らも民の上に立つ者として格調のある文章が書けなければならない。また面接試験では、その人物も吟味される。
王陽明もこの科挙に合格して官吏になった。そしてこの初心を地方の長官になり、軍司令官になってからも持ち続けた。彼は政治家としていかに有能であったかはあきらかである。彼が治めたいくつかの県は、今もそのままの名前で残っている。
また、彼は軍司令官として地方の反乱の鎮圧にあたった。そのときも彼は戦わずして多くの賊を投降させている。1517年、46歳の彼が江西省の賊を投降させるために布告した文章が残っているので引用しよう。
<理由もなく鶏や犬を殺すことですら忍びないのに、まして天につながる人の命はいうまでもない。もしも軽々しく殺すなら、見えない力によってかならずや応報があり、子孫に災いを及ぼすであろう。それなのに何を苦しんでこれを行なおうとするのか。・・・ああ、おまえたちはみなわが赤子であり、私はおまえたちを救うことができないで殺すことになるのか。痛ましいかな、痛ましいかな。ここまで言葉を述べて思わず涙がこぼれる>(全書巻16)
こうした情愛の籠もった布告文を見て、多くの賊が戦わずして投降した。陽明は投降した賊に対して寛容だった。ときには酒や食料を与えてもてなしたという。これを聞きつけて、さらに多くの賊が下ってきた。こうして陽明は賊を平定した。
陽明の政治家として優れているところは、なぜ賊がはびこるのか、その根源を問いつめて、結局それを悪政の結果であると考えたことだ。彼は産業を振興することによって民生を安定させ、人々の将来を考えて教育を充実させた。民衆は陽明を仁政を歓迎し、これによって犯罪や反乱も減った。
陽明は権威的な格法主義で精神の自由を圧迫する朱子学に批判的になっていた。それは朱子学を官学とする現在の体制に対する批判でもあった。科挙の制度を用い、一見文治主義を装っているが、その本質は孔子が嫌った覇権主義そのものではないか。
陽明の多くの弟子達も、このことに気づいていた。しかし、科挙の試験に合格する為には、朱子の説に逆らうわけにはいかない。このころ科挙の試験に「心学」という問題が出た。これは陽明の「聖人の学は心学である」という主張を批判させるためだった。門人のなかには答案を書かずに試験場を退出した者もいた。
朱子学から逸脱した陽明の思想は危険思想とみなされ、彼の経世家としてのすぐれた業績も中央では評価されることはなかった。帝位にあった武宗は自分に阿る8人の宦官たちを重用し、これを諫めた臣下は獄につながれたり、殺されたりした。こうして有能な閣臣たちの多くは閣外に去った。
武宗が死んで、あとを継いだ世宗も無能であることにはかわりなかった。それでも陽明は長年の功績が認められ、世襲貴族(伯爵)の地位を与えられたが、それ以上の評価は与えられなかった。陽明を大臣にして国政に当たらせるよう進言する声が上がっても、世宗はこれに耳を傾けなかった。そして当時実権を握っていた桂萼を中心とする陽明に敵対する勢力の掌の上で安逸をむさぼっていた。
そうしているうちに、こんどは広西省で反乱が起こり、国軍を破り、手に負えなくなった。陽明はこの頃、結核の症状があらわれはじめ、心身の衰弱を理由に辞職願いを出したが、世宗はこれを許さなかった。そればかりか、桂萼の進言を容れて陽明に賊を平定するため遠征するように命令した。1527年9月、56歳の陽明は数万の兵を伴って、いやおうなく長い遠征の旅にでた。
病をおして広東省を通り、広西省に着いた陽明は、さっそく現地を査察し、12月1日に上疏文をかいた。その中で彼は、乱が起こった原因を為政者の悪政だとし、賊として立ち上がった多くの民衆は失政の犠牲者だと断じている。そして首謀者の二人も許すべきだとして、次のように続けた。
<二人はもともと悪名があったわけではないから寛恕すべき者である。両省の財を使い尽くし、三省の兵を動かして、男は耕作ができず、女は織布ができず、数千里の内は騒然として、塗炭の苦しみに陥ること、もう二年になる。この二人の罪を許し、彼らが改心する道を開いてやるべきである>
投降の呼びかけに、首謀者の二人は自らを縄でしばって投降した。陽明は彼らを杖で打っただけで許した。そして今度は彼らを和平の使いにして、他の賊にあてらせた。こうして前任者が数万の兵を失い、厖大な戦費を使ってもやりとげなかったことを、ほとんど戦らしいこともなく成し遂げた。
賊を平定した陽明に、北京の桂萼から、さらにさらに軍をベトナムへと南下させよという命令が届いたが、陽明はこれを無視した。陽明が行ったことは、この地に学校を建てることだった。そして校長に自分の門下生をあてた。再び国が乱れないように、将来に渡って民心を安定させる布石を陽明は病体にむち打って行った。
世宗はこうした陽明の功績に対して、銀五十両などを与え、その功績を賞する詔勅を手ずから下そうとした。しかし、とりまきの桂萼たちがこれに口を揃えて異議をとなえ、「征伐も撫民も失敗である。陽明は功を誇大に述べている」とそしったので、世宗も思いとどまった。
その年の10月10日、陽明の病はいよいよ重くなった。陽明は辞職願いを提出すると、さっそく故郷を目差したが、その旅の途中、11月29日午前8時に、ついに力つきて舟の中で息を引き取った。最後の言葉は、「この心は光明、もはや何も言うことはない」だった。
陽明の死後、桂萼は陽明が許可を得ずに任地を離れたことを問題にした。世宗はこれを聞いて怒り、陽明に与えられていた恩恵を停止した。咎めは陽明の家族にも及び、伯爵の世襲も剥奪され、一家は家を失って離散した。
しかし、次第に陽明を賛美する声が、地方から湧き起こってきた。各地に書院とよばれる陽明学の私立学校が建てられ、陽明の著作が弟子達によって次々と刊行された。彼を聖人として賛美する声が澎湃とわき上がり、やがて国をおおうほどになった。
1556年世宗が没したあと、陽明の名誉が回復された。新帝によって文成というおくりなが与えられ、勅命で「弱冠より屹として宇宙の人豪たり」と陽明を力強く賞賛した。そして彼の息子に再び伯爵を世襲することが許された。
伯爵については、陽明は二度にわたりこれを辞退している。いまさら世襲されても冥界の彼は喜びはしなかっただろう。しかし、彼の学問が世に広く認められ、多くの民衆によって支持され、世を変えていく光明となり得たことには満足しているに違いない。
儒教の根本は忠・孝・礼・仁である。藤樹は母親の孝養のために、主君を棄てて脱藩した。これは「孝」のために「忠」を破ったことになる。「孝ならんと欲すれば忠ならず」という所だが、それでは「忠」と「孝」とどちらが上なのだろう。
「論語、子路第十三」にこんな逸話がのっている。ある人が孔子に、「私の村にはとても正直な人物がいて、父親が他人の羊を盗んだ時にそれを告発しました」と言った。孔子は、「その人物を正直とは思いません。父は子のために隠し、子は父のために隠す、これが本当の正直というものです」と答えた。
この逸話は、「孝」の為には嘘をついてもよいといいう風にもよめる。孔子はそのくらい、孝は大切なものだと考えていた。日本人は「忠孝」と書くが、本来は「孝忠」と書くべきかも知れない。
このあたりのことを藤樹はどう考えていたのだろうか。大洲藩を脱藩し、武士を棄てたのは「孝」のためだと書くくらいだから、当然「孝」が上だと考えていたのだろうか。実は、そうでもない。藤樹は、「それは場合による」と考えていた。
つまり、その優先順位ははじめからどちらが上と決まっているわけではない。時と場合によるのである。いつも孝が上とは限らない。そうした硬直した教条主義ではなく、場合に応じて、柔軟に考えるべきだと藤樹は考えた。
たとえば、「論語」の「郷党篇10」には馬屋の火事の逸話がのっている。馬屋が火事になったとき、外出先から帰ってきた孔子は、家人の安否は聞いたが、馬のことは聞かなかった。これについて、朱子は馬よりは人が大切だからであると注釈している。
藤樹はこれについて、孔子は人より馬が上だからなどという分別で家人の安否を聞いたわけではないという。朱子がいうような上下関係からではなく、その場の自然な流れのなかで、家人の安否を聞いただけである。馬のことはすでに無事であると聞かされていたのかも知れない。
いずれにしても、ここで強調されるべきは、そうしたこざかしい優先順位ではなく、孔子の他者を思いやる「自然な心」の発露である。秩序を重んじこれにこだわる朱子学の硬直した議論を、藤樹はこのようにして斥けた。孝と忠についても、最初からどちらが上ときめつけることはおかしいと考えたわけである。
そうした決めつけからではなく、その状況に応じて機敏に働くのが王陽明のとく「良知」である。我々がよく生きるためには、良知にしたがい、「時・所・位」に従って、柔軟な判断を下すことが必要である。藤樹は「翁問答」に次のように書いている。
<礼儀作法は時により処により人によりかはるものなれば、一しなの礼法になづむをば、欣真落法とて大いにきらふ事なり。儒書にのする所の礼儀作法をすこしもちがへず、残る所なく取りおこなふを、儒道をおこなふとおもへるは大いなるあやまりなり>
ところで、そもそも「忠」とはなにか。その本来の意味についても、ふれておこう。「忠」というのは、「心を尽くす」というのがその意味である。白川静さんの「常用字解」にはこう書かれている。
<「論語」には忠信(まごころを尽くすこと)、忠恕(まことと、思いやり。自分の良心に忠実であること、他人に対して思いやりの深いこと)などの語があるが、忠君(主君のために尽くすこと)という語はなく、君のためにつくすというのはのちに生まれた意味である>
つまり、そのそも「忠」というのは、自分の心に正直であることだ。「孝」が他者との関係だとすると、「忠」は自己のありかたを問題にしている。藤樹の脱藩もこのような根源に遡れば、それは「忠」であり「孝」である。
この両者が矛盾すると考えるのは、「忠」を「忠君」とととりちがえるからで、「忠」の本質を見ないからだ。藤樹はこのことをよく知っていた。したがって脱藩に関しては、「孝ならんと欲すれば忠ならず」などという葛藤は、さいしょから存在しなかった。
藤樹、蕃山、王陽明の三人を比べてみると、その境遇に類似点があることに気づく。いずれも主君に仕える武士だった。そして、堅苦しい封建的体制の中に身を置きながら、自己を貫き、心ならずも時代の異端児として生きることになった。
王陽明の場合は、死ぬまで組織の中に身を置いて闘い続けたが、藤樹は27歳にとき、武士に見切りをつけて、伊予の大洲藩を脱藩し、近江の小川村に帰郷している。その理由は「母に孝養を尽くしたいから」というものだった。しかし、これはあくまで表向きの理由だ。
20歳の蕃山の退藩の理由が「文武の道を極めたいから」だったように、藤樹の志も学問にあった。「聖人の道を極めること」が彼の人生の目的だった。この理想を実現するために、大洲藩はあまりに器が小さかった。
こんな逸話がある。まだ藤樹が少年であった頃、家に大洲藩の筆頭家老大橋作右衛門が来た。藩随一の知恵者で、評判の高かかった人物だ。向学の志に燃えていた藤樹少年は、隣の部屋で襖越しに胸を躍らせて、祖父と家老の会話に耳を傾けた。しかし、二人の会話は少年をがっかりさせた。「大洲藩に人なし」という思いが少年の心を淋しくさせた。
また、こんな逸話も残っている。大洲藩に京都から儒者が来て、「論語」を講じてくれることになった。藤樹は喜んでこれに参加した。ところが、行ってみて驚いた。受講する人が少ないのである。そして最後にはとうとう、藤樹だけになった。
藤樹は師に恵まれず、独学で「四書」を学んだ。勤務を終えた後、遊びもせずにひたすら学問に打ち込む藤樹を、同輩はからかった。藤樹を見て「孔子様がいらした」などとはやし立てる同輩に、22歳の藤樹は色をなしたことがあった。
「学問をするのは武士の道である。お前のような学問を理解できない奴は、いやしい下男下女と同じである」
藤樹はこの言葉を同輩に投げつけてから、自らの言葉の品のなさに気づいたに違いない。後に藤樹は大洲藩にいたころの自分を顧みて、こんな回想を残している。
<大洲藩にいたころは、人のひそひそ話にも目が覚め、足音にも驚くというぐあいで、不眠症になやまされた。床についても身も心もやすまらず、いつも緊張していた>
藤樹と言えばその人格は円満で、聖人と仰がれたほどである。しかし、大洲藩に武士として仕えていた頃は、性格に角があり、過敏で神経質だった。このころ喘息を発症しているが、これも精神的なストレスからだった。
藩主の加藤泰興は槍の名手として知られている。武断的な性格で、しかも相当に自尊心が強く、ともすれば専横が目に余り、藩士の自尊心を傷つけることがあったという。藤樹とは肌のあいそうのない人物だった。
もっとも藤樹にも武勇伝がある。祖父が郡奉行をしていたころ、賊が襲撃してきたことがあった。13歳の藤樹は祖父とともに刀を抜いて闘い、みごとに賊を撃退した。しかしこの武勇伝の蔭にも、当時の百姓達の困窮した生活がかくされている。のちに藤樹も郡奉行として、年貢の取り立てなどにあたらねばならなくなる。
当時、逃散する百姓も多かった。また、キリスト教が弾圧され、大洲藩でも厳しい取り締まりがあった。殉教者もでている。こうした社会の現状を、藤樹は権力の側に身を置きながら、割り切れない気持だっただろう。このまま武士でありながら、聖人の道を極めることができるのかと、真剣に悩んだのではなかろうか。
そして藤樹は武士の身分を棄てることを決意する。しかし、退藩を申し出るが、藩主はこれを許さなかった。このため、藤樹は決死の覚悟で脱藩した。藩主の加藤泰興は盗みをした足軽を死罪にしただけではなく、これをさらし者にしたほどの人物である。しかし、藤樹には何故かおとがめはなかった。
故郷の小川村に帰ると、藤樹は刀を売り払い、その金をもとでに酒の販売をはじめた。そして私塾をはじめ、学問の研鑽に専心することになる。そんな藤樹のもとに、大洲藩のかっての同僚達が次々と訪れ、門人になった。その中には家老の息子もいたという。
中江藤樹は日本における陽明学の開祖だといわれている。たしかに藤樹によって陽明の思想は正しく受け止められた。しかし、蕃山がはっきりと「自分は陽明学者ではない」と書いているように、藤樹も自分が陽明学者と呼ばれることを喜ばなかっただろう。そしてそれが実は陽明自身の考え方でもあった。
アインシュタインは相対性理論を発見したが、しかし、アインシュタインがいなくても、いずれ誰かがこの理論を発明しただろう。どうように陽明が考えたことは、何も陽明の私有物ではない。実際、藤樹も陽明とほとんど同じ考えをもっていた。ただ、それがあまりに世の考え方と違っていたので、確信がもてなかったのだ。
しかし、陽明の文章に出合って、藤樹は自分の歩んできた道が正しいことを確信した。陽明の書を読んでいると、藤樹は彼こそが百年の知己であると思えた。たとえば、陽明は教育について、こう書いている。
<近世の児童教育は、本の読み方や受験作文を強い、鞭で打ち、縄で縛って、あたかも囚人を扱うようである。児童は学校を牢獄のように思ってはいろうとしないし、教師をかたきのように思って顔を見ようともしない。
そこで、隠れ遊びをし、うそをつき、卑しいことをかってに行い、心はすさみ、日に日に堕落していくばかりである。これでは悪いほうへと追い立てておいて、善をなせと求めているようなものである。
たいてい、児童の心は、遊びを好み、拘束をきらうものである。そこでまず、詩を歌わせるように導くのは、ただ、その情操を高めるだけではなく、跳びはねて叫びたい気持を詠歌に発現させ、その抑圧された気持を音節に発散させるためである。
礼を習わせるのは、ただ威儀を正させるためだけではなく、進退の動作でその血液の循環をよくし、礼拝で身を屈伸させ、その筋骨を強くするためである。書を読ませるのは、ただ、その知識を開発するためではなく、くり返し沈潜して心を落ち着かせ、抑揚をつけた音読によってその志を伸ばすためである>(伝習録)
王陽明(1472〜1528)は3年に一度行われる科挙の試験に二度落ちている。科挙に合格するには、四書五経を暗記し、その細かな注釈書である朱子の書に通じる必要があった。ところが陽明は「論語」を読めば、その意味について深く考え、朱子の解釈にもいちいち立ち止まって首をかしげていたから、なかなか進展しなかった。
ようやく28歳の時、三度目の挑戦で合格したが、官吏になってからも、腐敗した官僚政治に疑問を持ち、これを誅するような文章を皇帝に上奏したので、あるときは鞭で打たれ、あるときは刺客にねらわれることもたびたびだった。
こうした厳しい現実の中で、陽明は学問を続けた。彼が求め続けたのは、試験に合格するための学問でも、出世のための学問でもなかった。自己を治め、社会をよくするための学問だった。
こうしてたどり着いたのが、孔子や孟子の根本の教えは「人間は生まれながらに誰もが善なる心をもっている。これを磨き、人格形成や社会実践に役立てなければならない」という考え方だった。こうした思想が彼の教育実践にも生かされた。また、県知事として領民を治めたり、軍司令官として賊を討つときにも生かされた。
王陽明はこの思想を「致良知」という言葉にあらわした。そして学問は机上の空論であってはならず、社会に役立つものでならないという信念は「知行合一」という言葉のなかにこめられた。これに政治は民のために行わなければならないという「民本主義」を加えれば、およそ陽明学の主な三本柱がそろうことになる。
内面を重視する王陽明の思想は、当時の社会を支配していた朱子の格法主義の教えとは著しい対照を示していた。陽明はこのことに苦しみ、朱子もまた晩年においてこの立場に至ったという説を発表したが、これはたちまち他の学者によって覆された。
そこで、陽明はようやく公然と朱子に反旗をひるがえした。朱子はおろか、孟子や孔子の言葉さえ自らの心に深く尋ねて、あきらかに非であるなら、これを否定することがあってもよいと考えた。
<それ学はこれを心に得るを貴ぶ。これを心に求めて非なれば、その言の孔子に出ずといえども、あえてもって是となさざるなり>(伝習録)
陽明は「私は真に良知こそは人々が同じく所有しているものであるとわかった。ただ、学ぶ者がそれを悟らないだけである」と書いている。そして「六経はすでに我が心のなかに備わっている」とも述べている。朱子のように真理は外にあり、これに強制的に心を従わせるのはが学問だとは考えていない。学ぶことは、自分の心の声に耳を傾け、自己の心を大切に育てることなのだ。
こうした陽明の言葉は、藤樹には驚くべきことだった。まさに、自分が考えていたことが、はるかに雄弁に、しかも壮大なスケールで説かれていたからだ。これによって深い霧はたちまち晴れて、藤樹の前には広々とした人生の眺望がひろがった。
熊澤蕃山(1619〜1691)は京都の生まれである。父親は浪人をしていて、家は大変貧しかった。たまたま縁あって、16歳の時、備前岡山藩の藩主池田光政の小姓になった。蕃山は武術に励み、腕を上げた。
しかし、20歳の時、突然岡山藩を止めて、帰郷した。藩命にそむいて島原の乱に参戦しようとして咎めを受けたことがきっかけらしいが、ほんとうの理由は別にあったのだろう。蕃山は辞職の弁に次のように書いている。
<ご奉公に忙しく、文武の道を極める暇がない。このままでは、一生を無駄にしてしまいかねない>
帰郷してみたが、父親は浪人中で、家は相変わらず貧しかった。なるほど暇は出来たが、文武の道を極めようにも、先立つものがないので、師にもつけない。そんなとき、京都の宿の同宿者から近江の小川村で私塾を開いている中江藤樹のうわさをきいた。
同宿者というのは大名の公金を京に運ぶ加賀の飛脚だった。飛脚は旅の途中、二百両の入った財布をなくしてしまった。ところがその財布を、馬方が宿まで届けてくれた。飛脚がお礼をしようとしても馬方は受け取ろうとしない。
無理に小金を握らせると、馬方はそれで酒を買って、人々に振る舞った。馬方が自分は藤樹先生のもとで学んでいて、お金を返しに来たのも先生の教えに従ったまでだと話すのを聞いた蕃山は、翌日、藤樹のもとを訪れた。蕃山が23歳、藤樹が34歳の夏のことである。
しかし、藤樹は蕃山を門前払いした。蕃山はあきらめず門前で二夜を過ごし、みかねた藤樹の母親が蕃山を引き入れたが、藤樹はやはり「人の師たるに足らず」と、蕃山の入門を許さなかった。
蕃山はあきらめなかった。今度は冬に訪れ、やはり門前から去らなかった。寒い季節でもあり、母親のとりなしもあって、藤樹も根負けしてようやく入門を認めた。しかしこのときも、師としてではなく、ともに道を求める同志として蕃山を受け容れている。
なぜ、藤樹はこれほどまでに蕃山を拒んだのだろう。すでに藤樹は武士だけではなく近隣の農夫や町人にまで慕われ、彼らの入門を許していた。蕃山を拒む理由はなんだったのか。その謎を解く鍵が、藤樹が亡くなる年に池田与兵にあてた手紙のなかにある。
<私は深く朱子学を信じ、長年の間工夫をしてきましたが、入徳の効もおぼつかない有様で、学問に疑いを生じ、何の感激もなく、学問の意欲を失いがちでした。丁度そのような時に天道の恵みでしょうか、「陽明全集」という書物が手に入り、熟読しましたところが、私が疑いをいだいていた丁度そのことについて、いろいろ論じられていたので、ふるいたち、少しは入徳の手がかりが得られたようにおもわれました。これこそわが人生最大の幸福であり、このよろこびは何ともことばにいいあらわせません。この一助がなかったならば、私の一生は空しく終わってしまうところだったのにと、有り難く思っています>
藤樹が「陽明全集」を手にしたのは、37歳の時である。陽明との出会いがいかに大きなものだったかがこの手紙で分かる。しかし、藤樹はこのときはじめて真理に目覚めたのでははなかった。すでに藤樹は自己流の思想をもっていた。彼はそれを「心学」と名付けて弟子達に教えていた。
しかし、藤樹は自分の学問に核心がもてなかった。なぜなら、それはあまりにも世の中に行われているものと違っていたからだ。当時、儒教と言えば朱子学しかない時代である。朱子学の権威を批判するのは容易ではない。といって、自分の心を押し殺して、朱子学に従っていても面白いはずがない。この板挟みの中で、藤樹は苦しみ、ノイローゼになり、持病の喘息を悪化させていた。
そうしたただなかに、蕃山が飛び込んできた。「人の師たるに足らず」という藤樹の言葉は彼の苦しい心中の奥深くから発せられた言葉だった。藤樹はこのとき、「一生を空しく終わってしまう」絶望の中に呻吟していたのだ。
入門した蕃山は、そうした藤樹の葛藤をまじかで見ることになる。そしてこれは蕃山にとってもかけがいのない体験だったはずだ。蕃山が藤樹のもとにいたのは、わずか8ヶ月である。しかし、この8ヶ月が彼の一生にとって決定的なものになった。別れに臨んで、藤樹は蕃山にこんな言葉と詩を送っている。
<詩経に、広大な天は父母とある。だから世界中の人間は皆兄弟である。だがその交わりをみると、人格的な深い交わりを結ぶ者もあり、うわべだけの利害得失で交わる者もあり、お互いに縁のない人もある。
しかし、私と熊澤君とは真に人格的、人間的な交わりを結んだといえよう。自分には、「論語」の「徳は孤ならず」といううような徳はないにもかかわらず、寛永18年の秋、何の間違いか有能な熊澤君の来訪を受け、そのまま相識る仲となった。
これも、気心の相通じ合うべき運命の下に二人がいたということであろう。であるから、学習し討論し合い、心と心がとけあって、うれしいことには友として、お互いに人間としての完成をめざして励まし、意気投合して助け合うことができたのである。今、「中庸」も購読が終わって熊澤君は帰省することになった。そこで、「中庸」の要旨を詩に賦してはなむけのことばとしよう。
淵は流れていながら動いているようには見えない。 動いていないようでも静止していることはない。 人間もおなじだ。 偏るこのない円満な本心が いつも内に生き生きと動いていなければならない。 こうして、人は宇宙の営みと自ずと一体となる。>
二人は別れた後も文通を交わした。このあと藤樹は陽明全集に出会い、自分のと瓜二つの思想家を中国に見出すことになる。陽明もまた朱子学を批判していた。真理は朱子が強調するように客観的に人間の外側に存在するものではなく、人間の心こそ真理がやどる聖域だという問題意識は、そっくり藤樹とおなじだった。
<聖人の道というものは、吾が本性(人間がだれでももっている人間らしい心、良知)そのものを自覚するだけで十分実現できる。いままでそういう内なる道理を外にある事物のなかに探し求めていたのは誤りであった>(王陽明)
<そもそも、道というものは天下の公道であり、学は天下の公学であり、朱子が私有できるものではもなく、孔子が私有できるものでもない。・・・私の今日の論はあるいは朱子と異なるところがあるにしても、朱子もそれを喜ばないとは限らない。小人の過ちはかならずこれを飾って認めまいとする。私は不肖ながら、もとより小人の心で朱子に仕えようとは思わない>(王陽明)
陽明は学問の本質は「至良知」だとしていた。人は誰でも「良知」の心を持っている。これを磨き、人格を高めることこそが万人にとっての人生の目標でなければならない。これはまったく自分の考えていたことと同じではないか。
藤樹はもはや自分の思想を語ることに躊躇はしなかった。やはり自分は正しかったのだという確信がこうして生まれた。藤樹はさっそくこれを蕃山に伝え、蕃山も又これを感激して受け容れた。
こうして、蕃山と藤樹はさらに深い真理の絆で結ばれることになった。二人の師弟関係を、吉田松陰は理想的なものと見て、こう書いている。
<みだりに人の師となってはいけない。またみだりに人を師としてはいけない。必ず真に教えるべき事があってこそ師となり、真に学ぶべき事があってこそ師とすべきである。熊澤蕃山が中江藤樹を師とした例は、師弟ともどもにそれぞれの道理を得ているということができる>
蕃山は藤樹の下を去った後、母と二人の弟と三人の妹をかかえて定職もなく、窮乏した。ぬかみそを采にしてゆりこぞうすいを食べる毎日だったが、学問は怠らなかった。そして27歳の時、池田光政に乞われて、ふたたび岡山藩に戻る。蕃山はただちに頭角をあらわし、やがて2000石の扶持を与えられて藩政に参加するようになる。
蕃山から藤樹のうわさを聞いた池田光政は、藤樹にも仕官を求めたが、藤樹はこれを固持した。藤樹が41歳で死んだときには、池田光政は蕃山に命じてその死を弔った。そして城内に藤樹の位牌を祀り、藤樹の息子や門人を多く仕官させたという。
(参考文献) 「中江藤樹」 渡辺武、清水書院 「中江藤樹、異形の聖人」 大橋健二、現代書館 「反近代の精神、熊澤蕃山」 大橋健二、勉誠出版 「中国の人と思想��王陽明」 山下龍二、集英社
江戸時代に出版された「学者角力勝負付評判記」に、当時の学者の人気番付が書いてある。それによると、番付の最高位(大関)は、東に熊澤蕃山、西に新井白石だ。ちなみに、東の関脇は荻生徂徠、西の関脇は伊藤仁斎、中江藤樹が前頭に位置している。
熊澤蕃山と新井白石の二人の勝負はどちらに軍配があがったのか。勝海舟は「勝舟談話」で「蕃山は奥底の知れぬものがある。どうも新井白石よりは上だよ」と書いている。江戸時代を通じて、庶民にも武士にももっとも人気の高かった学者が熊澤蕃山らしい。
関脇の荻生徂徠も、「人才はすなわち熊澤、学問はすなわち仁斎、余子は碌々未だ数ふるに足らざるなり」と書き、幕末の開明思想家横井小楠も、「事を成す体の人熊澤蕃山この一人なり。この人国を治むる規模、甚だ遠大なり」と手放しの礼賛である。
とにかく熊澤蕃山の人気は他を圧倒している。明治に入っても南方熊楠が手紙に引用しているくらいだから、人気は衰えていなかったのだろう。哲学者の西田幾多郎も親友を励ます手紙に「憂きことのなほこの上に積もれかし限りある身の力ためさん」という蕃山の歌を記している。
それでは、「この人国を治むる規模、甚だ遠大なり」というのはどういうことだろうか。それを象徴する明治時代の逸話が残っている。明治15年、土木技師の服部長七は農務省に請われて岡山の新田堤防築造の指導に赴いた。そのとき、壮大な石の樋門に目を留めた。
その作りがあまりに精巧なので感心して築造者の名前を訊いたところ、熊澤蕃山だと教えられた。「自分がわざわざ来なくてもよかった。是非一度お目にかかって教えを乞いたいものだ」と役人に頼んだところ、「もう百年以上前になくなった人だ」と笑われたという。
<蕃山の手掛けた工事は、いずれもその場しのぎの安直な工事はひとつももなく、明治時代、服部長七が感嘆したように百年後、二百年後を見据えた永久的な造りであった。同時に、その労務管理においても、公役の人夫として集めた百姓の負担と疲労を最小限に抑えるべくきめこまかい配慮を示している>(「反近代の精神、熊澤蕃山」大橋健二)
蕃山は堤防を築くときには、東で掘った土をわざと西側に運ばせ、西で掘った土をわざわざ東側にはこばせた。一見非能率のように見えるが、じつはこのように手間をかけることで、土が踏み固められ、長年の使用に耐える強固な堤防が出来上がった。「この人国を治むる規模、甚だ遠大なり」というのは、つまりこういうことだ。
熊澤蕃山が十数年間、岡山藩をとりしきっていたあいだ、彼は新田開発をほとんど手掛けなかった。石高を増し、国を富ますには山野を開墾して新田を開発するのが一番だ。岡山藩にもこれを求める声が高かった。しかし、蕃山は山の木を斬ることを許さなかった。南方熊楠が触れている蕃山の著書「集義外書」から引用しよう。
<山川は天下の源なり。山又川の本なり。古人も心ありてたて置きし山沢をきりあらし、一旦の利を貪るものは子孫亡るといへり。諸国ともにかくのごとくなれば、天下の本源すでに絶つに近し>(集義外書)
蕃山が新田開発に反対したのは、自然破壊だけではない。藩の財政を潤すために、民衆を困窮させてはならないということがあった。目先の経済的利益に目を奪われて、民衆の生活・生命が損なわれてはならないということを蕃山は強調した。
彼は新田を開発するかわりに、貯水池や治水事業に力を入れて、民衆の犠牲を最小限にして従来の田畑の生産力の向上に努めた。さらに蕃山は武士の家禄を減らし、年貢の取り立てをゆるくすることまでしている。
こうした一連の政策によって、蕃山の経世家としての名声は全国にとどろいた。蕃山が岡山で山林保護の法律をつくった18年後の1666年、幕府は「諸国山川掟」を発令し、山林の過剰開発を禁じ、植林を奨励した。
この法令は、時の幕政をとりしきっていた4人の老中の名前で出されたが、その筆頭に署名している久世大和守は熱烈な蕃山崇拝者だった。蕃山の熱心な「山林保護思想」が幕府を動かし、日本の森林を守ったわけだ。
蕃山はこのように各地の大名や幕閣にさえ熱烈な支持者をもっていた。その筆頭は何と行っても岡山藩主の池田光政だろう。しかし、蕃山には敵も多かった。中でも林羅山の蕃山攻撃はすさまじかった。とくに彼らが攻撃の対象にしたのは、蕃山の「参勤交代廃止論」だった。
林羅山は幕府のおかかえ学者である。彼は蕃山の名声が疎ましくてしかたがなかったのだろう。やがて林一派の巻き返しが成功し、蕃山は危険人物として幕府から謹慎を命じられる。それでも蕃山は幕府の監視下におかれながら、その精神は自由そのもので、悠々自適の生活のなかで、友人たちと手紙を交わし著作を楽しんだ。
<予を方々よりそしりこめて、遠方より尋る人にも、近里の同志にも、道徳の物語することもならざる様にし、他出も不自由なる躰に成候は、外より見ては困厄のやうにあるべく候へども、予が心には、天のあたふる幸とおぼえ候。・・・たとひ外には罪のとなへあるとも、我心に恥る事なくば、心は広大高明の本然を失うべからず>
ダンテやガリレオはその著作をイタリア語で書き、デカルトもまた、フランス語を使った。彼らが文章語であるラテン語を使わなかったのは、愚かだったからではない。彼らは民衆の心に届く言葉を使おうとした。
同様に、熊澤蕃山は当代一流の学者でありながら、その著作に漢文体を用いなかった。彼の文章は当時のやさしい口語体で書かれている。むつかしい思想もやわらかい大和言葉でかいて、庶民にもわからせた。
蕃山は源氏物語を愛し、その解説まで書いている。そして道教や仏教にも親しんだ。常に民衆本位の立場から幕府を批判した。儒学者には珍しくスケールが大きく、学者らしくない学者だった。どうりで人気があるはずだ。
私は日本という国の最大の宝物は、この豊かな自然だと思っている。世界第二位の経済大国である日本で、これだけの森林が残されているのは、世界の奇跡だといってよいだろう。しかし、実は日本の森林は何度もあぶない目にあっている。
江戸幕府が倒れ、明治の文明開化が始まったときがそうだった。明治政府は神社合祀令を出して、多くの神社をつぶした。これによって、神社がもっていた鎮守の森が次々と破壊されていった。役人と結託して材木を売り、一儲けする商人があらわれた。
これを鋭く批判したのが、生物学者の南方熊楠(1867〜1941)だった。彼は白井光太郎に宛てて書いた1912年3月9日の手紙のなかで、こう述べている。
<千百年を経てようやく長ぜし神林巨樹は、一度伐らば億万金を費やすもたちまち再生せず。熊澤蕃山の集義和書に、神林伐られ水涸れて神威尽く、人心乱離して騒動絶えず、数百年して乱世中人が木を伐るひまなきゆえ、また林木成長して神威も暢るころ世は太平となる、といえり。
やむを得ぬことといわばそれまでなれど、今何のやむを得なきこともなきに、求めて神林を濫伐せしめ、さて神林再び長じ神威人心の復帰するまで、たとい乱世とならずとも数百年を待たねばならぬとあっては、当局者の再考を要する場合ならずや>
こうした南方熊楠の熱意が、柳田国男などの知識人や国会を動かし、明治政府は神社合祀令を廃し、一転して森林保護の政策を江戸幕府から引き継ぐようになった。そのくわしい経緯は日記に連載し、「何でも研究室」の「南方熊楠入門」としてまとめた。
http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/minakatsa.htm
南方熊楠は日本で最初に「エコロジー」という言葉を使った生物学者だ。しかし、彼のエコロジーに思想の背景には、東洋的な自然崇拝が濃厚である。それは、彼がこの手紙の中で熊澤蕃山の文章を引用していることでもわかる。
実は南方熊楠の前に、森林を守れと叫んだエコロジーの先覚者がいる。それが熊澤蕃山だった。山を愛した蕃山の農本思想とその実践が、江戸幕府の森林保護政策に大きな影響を与えたことが分かっている。
熊澤蕃山といえば、中江藤樹のあとを継いだ陽明学者として有名だが、彼は備前岡山藩の3000石取りの執政でもあった。岡山藩主の池田光政は彼を重用したが、幕閣にも彼の崇拝者がいた。あしたの日記で、日本の森林を守った経世家としての熊澤蕃山を紹介しよう。
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