30歳までの Count Down
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2009年01月16日(金) その後

一昨日、東京に戻ってきた。

葬儀に掛かった費用の支払い、香典の集計、
香典返しの申し込み、親父名義の諸々の解約、
年金、保険の手続き等々、向こうにいる間に
できることは殆どやってきた。
あとは母親が一人でもなんとかなるだろう。


こっちでは通夜・葬儀・火葬・納骨らしいけれど、
うちの実家では通夜がなく火葬・納骨・葬儀の順。

その間、何度か泣いた。
でも、相変わらず親父が死んだことに対しての実感がない。
東京に出てきてから、ずっと離れて暮らしていたからだろうか。


向こうに着いてから、ようやく状況が分かった。
この前も書いたけれど、原因は心筋梗塞。
でも、おそらく、親父の体は相当病んでいたと思う。
変死だからか、母親は何度も警察から事情を聞かれて
同じことを繰り返し説明したようだ。
何度も泣いていたけれど、母親は基本的にタフだと思う。

そういえば、火葬の日の9日、彼女が東京から来てくれた。
なんて説明したのかは知らないけれど、病院から休みをもらって。
おれより一足先に帰ってしまったけれど、来てくれて感謝。
まさか結婚する人を親父の葬儀で親戚等に紹介するとは
思っていなかった。
まあ、変な話、披露宴はやる気がないので、これが良い機会
だったのかも知れない。


火葬が終わって、親父が骨になっても実感が沸かなかった。
目と鼻の辺りの骨が綺麗に残っていた。
斎場の人に聞いたら、綺麗に残るのは珍しいらしい。
ただのお世辞?なのかも知れないが。

親父の骨を少し分けてもらった。
全くと言っていいほど親孝行らしいことを
しなかったことの罪悪感からか。
でも、東京でも親父の供養をしなきゃと思った。

寺の都合とかで、葬儀は11日の日曜日になった。
前の日が友引だったからというのもある。
ちなみに喪主は母親ではなく兄だ。

5年前にじいちゃんが亡くなったとき、
院号を付けて送ったことを自負していた親父だが、
自分にも当然院号が付いた。
国鉄時代から長い間JRに勤めていたからか、
「鉄」と「運」の文字が入った。
院号のことはよく分からないけれど、中々良いものを
付けてもらったと思った。
まあ、その分寺へのお布施は高くついたけれど。

弔辞はIさんが読んでくれた。
Iさん夫婦とうちの両親は相当古い付き合いで、
うちの母親とIさんの奥さんは高校の同級生。
小さい頃は旅行に連れて行ってもらったし、
大人になってから、うちの実家でよく飲んだ。
先に親父が死んだときはIさんが弔辞を読み、
逆にIさんが亡くなったときは親父が弔辞を読む
といったように昔から約束していたらしい。
自分にもそんな友達がいたら良いなと思った。

葬儀後、遠くの親戚やらおれの彼女やらが
どんどん帰っていき、初七日である12日の月曜の夜から
ようやくおれと兄と母親の家族3人のみになった。
親父が死んだことのショックもあったけれど、
火葬や葬儀の調整、連夜遅くまで供養酒を飲んでいる
親戚の相手などで、3人ともかなり疲れていたので、
この日から気分的に少し楽になったと思う。
ちなみに、1月12日は親父の誕生日だった。

次の日からは最初に書いた通り、諸々の手続き。

東京へ戻る日、空港に着く直前で吹雪になり、
飛行機が2時間遅れた。
勝手に親父が帰るなと言っているのかと思った。
ちなみに兄が帰る予定だった昨日は更に大荒れの天気で
兄は明日まで向こうにいることにしたらしい。


帰ってきて普段散らかっている箪笥の上を綺麗にして
そこに親父の骨が入った袋と写真を置いている。
彼女には一応「置いても良い?」と聞いて
『うん、良いよ。』と返事を貰ってから置いたけれど、
本当はあまり良く思っていないと思う。
でも、少なくとも四十九日まではそのままにさせて欲しい。


1976日後に40歳。


azza |MAIL

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