無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年08月02日(金) 復讐正露丸/『快傑ズバット』第一話/『芥川龍之介 妖怪文学館』/『秘宝耳』(ナンシー関)


 朝、というより夜中の1時過ぎ。
 当然、私は安らかな眠りについていて、鳥の囀りのように軽やかなイビキをかいて(もちろん想像である。熟睡してるんだから自分でイビキをかいてるかどうかなんて分るわきゃない)いたのだが、けたたましく鳴り響く電話のコール音に
飛び起きた。
 仕事中であるはずのしげからである。
 「どしたん? 夜中やん」
 「……車上荒らしにあった」
 「はあ?」
 「窓ガラス割られてね、バッグ盗られたと」
 「ケガとかしとらん?」
 「うん。駐車場に停めてたら、お客さんが盗まれたって言ってたから、見に行ったら盗られとった」
 「おカネとかは?」
 「いや、お金は盗られてないけど、練習用のバッグだから、着替えとか、スケジュール書いてた手帳とか、全部盗られた」
 「うーん、まあ、そんなもんで済んでよかったと思わにゃ」
 「あれ、正露丸入れとったやろ」
 「だっけ」
 「うん。泥棒があのバッグ開いて、正露丸の匂い嗅いで『なんじゃこりゃあ!』って驚くのがせめてもの救い」
 「……そういうもんか?」
 「じゃ、警察行ってくる」
 電話を置いて、一息ついて思ったこと。
 確かにしげにとっては大変な災難ではあったろうが、なんでわざわざ私を叩き起こして電話してくる必要があったのか。朝になって報告すればよかったんじゃないのか。今日も朝もはよから、私、仕事があるんだけど。

 しげのロドリゲス(車にそういう名前をつけてた気がするが、もうしげ本人もそんな名前で呼んでない。薄情なやつである)、窓が割られたままなので、職場へはタクシーで行く。
 ところが、帰りはしっかり窓ガラスを入れて迎えに来たのでビックリ。
 「どうしたん? もう、保険が降りたの?」
 「計算してみたらこれから払う保険代のほうが高くつくから、2万円で入れてもらった」
 ほかに、バッグや手帳や着替えを買い直したら、結局5万円くらいはかかりそうとのこと。「もう出て来んよね」と繰り返すが、今頃はどこかのゴミ箱行きだろう。まかり間違って、犯人がヘンタイだったとしても、着替えの持ち主がしげのようなやつだと分かったら幻滅するのではないか。ジャージには正露丸の匂いが染み付いてるし、嗅いでも嬉しくないだろうな。
 「しーじゃっく」で寿司を食って、マルキョウでトイレットペーパーを買って帰宅。


 2004年から紙幣の肖像が切り替わるそうな。
 なんだかついこないだ夏目さんと新渡戸さんと福沢さんに切り替わったばっかりのような気がするのは気のせいか。20年くらい経ってんの? もう。
 1万円札の福沢諭吉は変更ナシだけれど、5千円札は樋口一葉、千円札は野口英世だって。どういう基準で選ばれてるのかは分らないけれど、なんでこの人? って違和感を感じるほどではない。女性文学者を誰か一人、ということになるとやっぱり一葉かなって気はするし。与謝野晶子や林芙美子がなぜダメなのかは触れないでおこう(^_^;)。
 テレビのニュースでは、野口英世の姉さんの孫って人が喜びのコメントしてたけど、そんなに嬉しいものなのかね。まあマイクを向けられたら喜びのコメントしか言えないだろうけど。
 今回のニュースを見て初めて知ったことだけど、この肖像選択に際しては、子孫とかに事前の連絡や許可を求めたりってこと、一切しないんだね。樋口一葉記念館の人が「そう言えば以前役所から写真くれって言ってきたのはこのことだったのかと」って言ってたのはちょっとマヌケだったな(^o^)。
 けどなー、まるで比較するように、新渡戸稲造の子孫や道後温泉の従業員にコメントを求めてたのは、ちょっとばかし失礼ではないの? んなこと聞かれたって、「淋しいです」以外に返事のしようがないやん。マスコミが失礼だってことは昔から分ってたけどさ、それ以前に視聴者は誰もそんなこと聞きたいと思ってないってこと、わかんないのかね。
 まあ、夏目房之介さんにコメント求めに行かなかっただけまだ理性があるのかな。もっとも、実はコメント求めてて断られたのかもしれないけど。「おじいさんがお札から消えてしまいますがどう思われますか?」なんて質問、返事のしようがないよなあ。


 唐沢俊一さんのWeb現代『裏モノ見聞録』番外編に、品田冬樹さんが、戦前の瀬尾光世(男性ですよ)のアニメ『くもとちゅうりっぷ』に登場するてんとう虫ちゃんのフィギュアを制作したとの記事。
 『くも』は、戦前の日本のアニメ技術がディズニーにひけを取るものではなかつたことを示す好例だけれど、特にこのてんとう虫のキャラの可憐さと色気を同時に体現した滑らかなフォルムと動きは、未だに誰もまねできない高みを築き上げている。
 そんな最高のキャラクターをフィギュア化しようってんだから、こりゃちょっと無謀な試みではある。実際、写真を見る限りでは、出来はやはりイマイチと言わざるを得ない。品田さんご本人が、「ノスタルジーでやるというのではなく、今の子どもが違和感なく遊べるように、少し顔などは現代風にしました。」と仰ってるが、そんな改変をするなら初めから作る意味がないのである。出来上がったものはごく普通の、キューピーかペコちゃんもどきの人形。買う人どれだけいるのかなあ。


 昨日から、CSファミリー劇場で、『快傑ズバット』が放送されている。録画しといたのをしげと二人で見た。しげもこれを見たくて見たくて見たくて見たくてたまらなかったのだ。なんだか一緒に同じドラマを見るのって久しぶりだなあ。
 本放送時は、東京ローカル(12チャンだよ)だったせいで、福岡じゃ一度も見られなかったのだが、ようやく見られた。全く、長生きはするものである。
 しかし凄いね(@。@;)。オープニングからトバしまくりっつーか、なんで私立探偵がセスナに乗って飛んで来て、しかも降りてきたらギター抱えたカウボーイスタイルで投げキッスにウインクするんだよ。聞きしに勝るというのはまさしくこのこと。宮内洋氏が自ら代表作と言うのも分るよ。長坂秀佳のどうしようもないバカ脚本を、ここまでヒロイックに演じ切れているのはまさしく宮内洋あってこそだろう。
 いや、脚本がヒドイってのは、結局ズバットのやってることって、悪人相手とは言え、リンチで犯罪だからな。『必殺』シリーズみたいな闇の稼業ならともかく、堂々と警察が後ろ盾についてるってのはマズイっしょ(^_^;)。『仮面ライダー』だって、一応は密かに戦ってたって設定だったのに(後半どーでもよくなってったけどな)。
 でも、見てる間それが気にならないのは、やっぱりヒーローが宮内洋だから(^o^)。うん、宮内洋なら何をやっても許せる。飛んでるピストルの弾丸に更に弾丸を当てる、なんて芸当が宮内洋と片岡千恵蔵以外の誰にできると言うのか。親友の死に夕日に向かって泣きながら歌を歌おうが、誰もいない草原でポーズ決めてようが、「正義のシーロー」ってセリフがナマってようが、宮内洋ならオッケーである。
 これは全話録画しそこなわないようにしないとなあ。


 東雅夫編『伝奇ノ匣3 芥川龍之介 妖怪文学館』(学研M文庫・1575円)。
 巻頭に芥川自筆の妖怪画帖も付いてて、彼の怪奇文学を概観するにはお得な一冊。
 と言っても、国語の教科書で『羅生門』しか読んだことのない人には、芥川が怪奇文学に興味を示し、相当数の実作をものしていたことは意外に思えるかも。
 まあ、コッチコチのブンガク馬鹿じゃなくて、実際に芥川の作品に触れてる人なら、芥川が怪奇・ホラー小説もユーモア小説もものしていた(というより自らの創作の主としていた)エンタテインメント作家だってこと、分ると思うんだけどな。
 ウソじゃないぞ、『羅生門』だって本人がちゃんと「明るい小説を書いた」って述懐してるのに、後世の評論家が勝手にエゴイズムだのなんだのとコリクツこねてブンガクに仕立て上げちゃったんだから。

 芥川の怪奇小説の分析能力に関しては、解説の東さんも力説してるけれども、まさしく慧眼、当時の第一人者と言ってもよかったのではないか。メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』も、ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』も芥川は読んでいたし、しかも「怪奇小説としては駄作」と切って捨てている。このことについては、原典を読んだことがある人には理解できると思うけれど、ゴシック・ロマンとして面白くはあっても、怪奇小説としてはクドイばかりでちっとも恐くないのだ。この二作は映画化作品があまりに有名になっちゃっために原作まで過大評価されてるところがある。
 芥川が第1級の怪奇作家と誉めているのは、エドガー・ポーや、アンブローズ・ビアス、M.R.ジェイムズ、アルジャーノン・ブラックウッドあたり。『新青年傑作選』あたりを読まないと今ではなかなか読むことの出来ない作家もいるが、当時でもこのあたりの作家に食指を伸ばしていたというのは珍しい。この「なんでも読む」姿勢は師の夏目漱石に通じるものがある。こうなると、ラブクラフトも読ませてみたかったなあ。
 果たして、当時のブンガク作家たちでこれだけ怪奇小説に造詣の深い人間がどれだけいたことか。芥川以外は怪奇小説のアンソロジーを編んだ岡本綺堂くらいのもんじゃないのかね。師匠の夏目漱石が49歳の若さで死なず、昭和の世まで生きていたら、芥川もキチンと評価してもらえて自殺しなかったかもしれないな。

 本書の巻頭に載っている『妖婆』、これ、佐藤春夫からケチョンケチョンに貶されて芥川はすっかり落ちこんじゃったやつである。佐藤さんもロマンチシズムの作家のように見られてるけれども、実際には結構理詰めで作品書いてる人なんで、『妖婆』が作品としてどうこう、というより、同じ理知派の代表と見なしていた芥川が、得体の知れない妙ちきりんなものを書いたってこと自体、気に入らなかったらしい。
 でも、実際に読んで見れば分るけれども、書き出しなど、「都会の恐怖」の本質をつかんでいる名文である。残念ながら結末の付け方があっさりしていてあまり恐くないけれども、駄作とまで断じるのは早計だろう。
 何より、『河童』は芥川のユーモアとホラーの両面が融合した集大成だろう。ラストなどは、東宝映画の『マタンゴ』にも影響を与えていると思しい。本書は、ブンガクなんてツマンナイんじゃない? って思ってる人にはその思い込みを転換できるきっかけになる一冊であると思う。

 巻末収録の怪談会・座談会もレアもの。芥川全集にも未収録のやつじゃないかな。メンツの豪華さと言ったら、泉鏡花・久保田万太郎・白井喬二・長谷川伸・平山蘆江・菊地寛・柳田國男……といった人々が、それぞれの持ちネタを披露してくれてるのである。こんなのが今まで日の眼を見てなかったってのは、ブンガク研究者がどれだけ不勉強かってのを露呈してるよな。大学でブンガクブに進もうなんて考えてるやつは、須らく明治から文学史を全部読み変えてく必要があるだろうな。

 
 ナンシー関『秘宝耳』(朝日文庫・546円)。
 『小耳にはさもう』文庫化第5弾。
 出版予定は生前からあったはずだが、結果的にこれが追悼出版の形になった。
 解説を「ナンシー関」の名付け親、いとうせいこう氏が担当しているが、あまりにも悲しい名文。そして、第1級のナンシー関論である。
 「もしも本当に彼女がいなくなってしまったとするなら、我々は社会から正論を失ったということになる」
 これは既に怒りだ。事故で死んだわけでも、誰かから殺されたわけでもない。けれど、なぜナンシーさんが死なねばならなかったか、その事実を認めたくない思いは怒りという形でしか発露しえなくなっている。

 本書の内容は、1999年から2000年にかけてのものが多い。
 よくもまあ、これだけヒトの言葉の揚げ足取りが出来るものだ、と鼻白む思いをしていた人は多いのかもしれない。いや、確実にいたはずである。でなければナンシーさんの言質を単純に「毒舌」というコトバで括れはしなかったはずだと思う。
 ナンシーさんの眼はテレビの中の芸能人だけに向いていたわけではない。サッチー・ミッチー騒動時に、「人間の欲望が際限なくふくらんでいくものであるなら、商品もまたどんどん増える」と、彼女たちの醜態もまた、視聴者たちの需要のもとに成立していたことを喝破した。
 ナンシーさんを毒舌家と呼んでいた人たちは自らを省みることなくテレビの「毒」に身を任せていた人々であろう。
 ……もう一月が過ぎようとしている。
 芸能界は相変わらずクダラナイ、卑俗な、どうでもいい事件とも言えない瑣末な出来事を垂れ流し続けている。しかし、ツッコミを入れてくれるナンシーさんの文章を今は読めない。これでは、それらの出来事が本当にクダラナイ、卑俗などうでもいいことになってしまう。
 ナンシーさんはどこかで、やはりツッコミを入れているはずだ。そうでも思っていないことにはどうにもやりきれない。


 疲れ果てて寝たので、日記更新できず。さあ、どんどんたまるぞ、大丈夫か、私。

2001年08月02日(木) 『題未定』ってタイトルのエッセイ集があったな/『キノの旅�検戞併�雨沢恵一)ほか



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