無責任賛歌
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| 2002年09月26日(木) |
鮎川哲也、死去/『手塚治虫の奇妙な資料』(野口文雄)ほか |
エロメールがやたら送られてくるとこないだ慨嘆したばっかりだが、また来た。 「素敵な男性と朝まで二人・・・ 素敵な男性を今すぐ貴女の元へ向かわせます 全国ネットワークですぐに紹介 若い女性も遠慮しないで遊びまくろう! 1回限り、長期、何でもあり。」 オレは男だっ!凸(`△´+) ……って指立てちゃマズイな(-_-;)。
柳美里氏のデビュー小説『石に泳ぐ魚』の出版差し止め訴訟で、彼女の敗訴が確定した。これでこの作品の出版差し止めが決定、どうしても読みたいと思ったら、『新潮』1994年9月号を探してみるしかなくなった、ということになる。 「表現の自由か、個人のプライバシーか」という問題は、個々の作品の性格を考えてみなければ簡単に結論は出せないことである。 となれば、当該作を未読の私はそもそも何かを言える立場にはない。けれどことは在日韓国人の、しかも身体障碍者に関する問題である。私の職業をご存知の方なら、この件について私が何か語るべき立場にあることを首肯していただけると思う(まあ、この日記はその立場を捨てて書いてるわけだから、ちょっと今回は卑怯なんだけど)。 あえて憶測だけでものを言わせてもらうと、原告の女性の主張である「無断で小説化されてプライバシーや名誉を侵害され、精神的苦痛を受けた」という主張を全面的に信じるならば、「じゃあ、事前に『こういうの書くけどいい?』って作者が確認しとけばよかったんじゃん」でケリがついてしまう問題のような気がする。柳氏と原告は友人だったそうだから、この「無断で」というところで原告は「裏切られた」という思いを持ったのだろう。 では、どうして柳氏は無断で小説を書いたのか、というその理由が、新聞の記事だけでは判然としない。だからこれも憶測でものを言うしかないのだが、柳氏はもともと、小説を書く場合、そのモデルたる人物に了承を取る必要はない、という判断を持っていたのではないか、ということだ。 基本的にこの考え方は間違ってはいない。 相手が人間であれ、あるいは国、地域、施設の場合であっても、いちいち対象となるものに許可を得なければならないとすれば、小説を書くこと自体、できなくなってしまう。小説に「新宿は魔界と化していた」と書いたら、それだけで新宿区からのクレームを気にしなければならないのか。そんなことになったら菊地秀行も訴えられてしまうことになる(でも冗談でなくその可能性はあるんだよね)。 プライバシー、という問題に関して言うのならば、描かれた対象が著しく損害を与えられた、と証明されない限り、批判は受け入れられるべきだ。例えば、役者がその私生活をフォーカスされたことに対して訴えるのは是だが、演技についてボロクソに批評されて「おかげで次の仕事がなくなった、損害賠償しろ」というのは非である。そもそもそんなふうに批評される演技をした本人に責任がある問題ではないか。 しかし、今回の件では、原告は完全な私人である。その点を考えるならば、柳氏のほうが明らかに分が悪い。『仮面の国』で小林よしのりを「常識知らず」と罵った柳氏が、なぜ事前にモデルの件について当人に相談する、というごく当たり前な世間知を持ち得なかったのか。やはりなんだかこちらには分らない事情がありそうで、結論が出た問題にもかかわらず、なんだか釈然としない部分を残しているのである。 腑に落ちない、と言えば、原告も結局はわが身のことしか考えてなかったのではないか、という疑問が残る。小説の内容は、柳氏の主張を信じるならば、障碍を乗り越えて生きる女性の力強い姿を描いたものだそうだ。ならば、その出版は、同様の障碍を持つ人々に対して、勇気を与えるものとして、原告は喜んでもよかったのではないか。裁判に訴えたことで、「障碍者を題材に書くと、たとえ書き手の方は障碍者のためのつもりであっても、何かクレームをつけられることはままある。ならもう一切触れないでおこう」なんて意識が世間に植えつけられたら、結果的に「囲い込まれて」損をするのは自分のほうではないのか。 部落解放運動の過激な糾弾行動が、逆差別を生んだ実態を考えてみればいい。 何にせよ、現物を読んでいず、また、裁判の経過が不明瞭な状況で、私が想像できるのはここまでである。だから、こういう問題は、もっとオープンに語れるようにしないと、邪推が広がるばかりなんだってば。
深作欣二監督が、『バトル・ロワイアル2』の製作発表会で、骨がんに侵されていることを、25日の製作発表会見で告白。 手術はほぼ不可能で、放射線治療を続けているが、痛みも相当ひどく、モルヒネを打つこともあるという。 『バト1』のときも、「随分老けたなあ」と思っていたが、やっぱり病気だったのか。ご本人も今度の作品が最後の作品、と決意されてるようであるが、つまり、『怪人二十面相』の映画化は断念したわけだね。ついこの間、石原慎太郎に東京都庁の撮影許可を取りつけたばかりだったってのに、ついに幻の映画で終わるか。 深作監督の『二十面相』映画化は、以前も何度か頓挫している。 おそらくは製作費やロケ地の問題等があったのではないかと推察されるが、それでも深作さんは映画化をあきらめてはいなかったはずである。 映画評論家の故・田山力哉氏が、死ぬ寸前に、企画進行中の『二十面相』映画化について、「なぜ今更そんな古臭い企画を」と憤慨していたが、古い作品を現代に蘇えらせることなんて、いくらでもある。ある意味いいがかりに近いこの田山氏の批判に対して、深作さんは完成した作品をもって答える義務があったはずだ。『バト2』作るより、『二十面相』の企画を優先すべきではなかったか。 これは勝手なカングリなんだけれども、深作監督は、二十面相役にビートたけしを想定していたのではなかったか。どこでその話を聞きつけたか、TBSがテレビでやっちゃった。深作監督、さすがに二番煎じと謗られるのがイヤになっちゃったんじゃないかな。 巨匠なんて祭り上げられてるけれども、深作監督のよさは二流、三流に徹してるところだと思う。へたに「文芸大作」なんてものに取り組んじゃうと、『火宅の人』とか『華の乱』みたいにどうということもないものしか出来あがらない。まるで水に合っていないのだ。『二十面相』は深作監督にはぴったりの企画じゃなかったか。『バト2』作るなとは言わないが、岡田裕介社長は「いくら製作費を使ってもいい」とまで言ってくれてるのである。深作監督に『二十面相』を本気で作る気があったなら、取りかかれないはずはなかったと思うのに、いつどういうわけであきらめちゃったのかなあ。
推理作家・鮎川哲也氏が24日午後、多臓器不全のため死去。享年83。 その生年には、大正3、4、5、6、8(1914、15、16、17、19)年、昭和3年(1928)と諸説紛々であったが(本人が韜晦して明かさないのだからミステリ作家ってやつはもう)、『黒いトランク』(創元推理文庫)の解説鼎談で戸川安宣氏が「大正8(1919)年2月14日」と公表し、今回の享年もそれに準拠している。 遺作は、三番館シリーズの『モーツァルトの子守唄』だが、長編としては鬼貫警部ものの『死びとの座』が最後になる。くそ、買ってるけどまだ読んでねえや(いつもの如く、しげが読んだままどこかに放っぽったままで行方不明なのである)。噂されていた新作『白樺荘事件』(題名から判断するに『私だけが知っている』の小説化か)は未完のままで終わったようである。 デビューは1943年(昭18)頃、「佐々木淳子」名義で、『婦人画報』の朗読文学募集に一席入選した『ポロさん』。当時氏が住んでいた満州国を舞台に、支那長屋に引っ越してきたロシア人、ポローチコフ氏の、奥さんとの交情を描いたO・ヘンリーかつげ義春かって雰囲気の掌編で、ミステリーではない(現在は『鮎川哲也読本』で読める)。 その後、那珂川透、薔薇小路刺麿、中川淳一、中川透(これは本名)、宇多川蘭子、Q・カムバア・グリーン(“cucumber green”のシャレ。キュウリは緑って、確か目の前のキュウリを見て思いついたとかそんなだったような)、藤巻一郎、猿丸二郎、畷(なわて)三郎、五反田四郎とペンネームを変え続け(不遇の時代が長かったのである)、昭和31年(1956年)、書下し長編探偵小説全集の新人募集懸賞である“13番目の椅子”に『黒いトランク』が当選、これが日本推理小説ベストワンに推される事も少なくない傑作として、今に至るも読み継がれているのである。このときペンネームを「鮎川哲也」とした。 この後、アリバイ崩しを中心とした鮎川哲也の本格ミステリの傑作群が次々と発表されていくのである。
およそ、推理小説ファン、ミステリファンを名乗るもので、鮎川哲也を読んだことがない、というのはまさしく恥であろう。赤川次郎や内田康夫や西村京太郎や山村美紗なんか一冊も読まなくてもいい。特に、『黒いトランク』を読んだこともないのに「私、ミステリが好きなんですぅ」なんて言おうものなら、簀巻きにして那珂川にたたっ込まれても文句は言えない。 創元推理に鮎川哲也賞が設けられ、乱歩賞ほど有名でないにもかかわらず、「本格推理作家」を標榜する人々が多数応募し、デビューしていっているのも、「鮎川哲也」の実力があったればこそなのである。 「鮎川哲也と土屋隆夫の本がベストセラーになるようでなければ、本当の意味で推理小説がブームになったとは言えない」とはミステリファンの中ではよく囁かれたものだったが、そのことを考えれば、日本には未だにミステリブームなんてものは起こったことはないのかもしれない。
二十年ほど前、今はなき探偵小説専門誌、『幻影城』に、鮎川氏は戦前の探偵作家たちの消息を博捜して、『幻の探偵作家を求めて』というシリーズを連載していた。これが当時の私にとってどれだけ楽しみだったことか。 林不忘の弟にして長谷川四郎の兄、ファンタジーの名手、地味井平造。名探偵青山喬介シリーズの本格派、大阪圭吉。江戸川乱歩の影武者として『蠢く触手』を書いた岡戸武平。ドジな弁護士、花堂琢磨シリーズの葛山二郎。せんとらる地球市の住民、星田三平、などなど……。それはまさしく「発掘」に近かったが、日本の探偵小説界がこれほどの鉱脈を持っていたことは、鮎川氏の存在がなければ、更に何十年、あるいは永久に埋もれたままであったろう。 当時刊行された『「新青年」傑作選』のオビには彼らの写真が載っているが、いやにトシヨリ顔のものが多いのは、このときの取材時に撮られたものが多いからである。
生真面目な本格派、と評されることが多いが、一種独特なユーモアもその作品には横溢していて、『死者を笞打て』では、知り合いの作家たちがパロディになって登場する。権田萬治は万田権治、星新一は星野新一、大藪春彦が大虻春彦。からかわれた本人たち、表面上はにこやかにしてたとは思うけれど、内心、ちょっとくらいはむかっ腹が立っていたのではないだろうか。 後に、鬼貫警部は、小林信彦の『オヨヨ大統領』シリーズや江口寿史のマンガ『名探偵はいつもスランプ』で、「鬼面警部」の名前でパロディにされたが(江口の、名前は「鬼面」なのに、顔は童顔、というキャラが秀逸)、鮎川さんがもしそれらを読んでいたら、結構楽しんだだろうと思う。もちろん、「鬼貫」の名前は、俳人上島鬼貫から拝借したもので、別に「鬼のような刑事」を意図して作った訳ではない。作者本人は「鬼」という言葉が好きで、揮毫までして額に飾っていたようだが。 鬼面と並ぶキザな探偵、ファイロ・ヴァンスもエラリー・クイーンもかくやというディレッタント、星影龍三は、戦前の帝国キネマ製作の『怪紳士星影』に登場する和製ルパン、星影龍三の名前をそのままいただいたものである。もとがルパンなら、多少ナルシスティックな面を見せるのもいたし方のないところか。
鮎川氏の作品には、裏切られるということがなかった。 本格もの、倒叙もの、ユーモアミステリー、ジュブナイル。 決して作品数は多くはないが、読めば何がミステリーであって何がミステリーではないか、それを判断する指針となっていた。 『名探偵コナン』なんかに飽きたらなくなってる人、鮎川哲也を読みなさい。損はさせません。
例の「私、あの人刺すかも」の同僚、今のところ殺人は犯していないが、職場での評判が頗る悪い。 日頃から不得要領な喋り方で、クドクドと論旨も定まらぬ愚痴を語りつづけ、対応する者はみな困っているのだが、ご本人は全く気付いていない。 いや、ウスウスは感じているだろうから、かえって被害妄想の度合いが強くなっているのである。 別の同僚から、ふいに「有久さん、延長コードは返って来ました?」と聞かれる。何のことかと思ったら、以前、例の同僚に貸していたのが、机の上においておいたらいつの間にかなくなっていて、「あなたが盗ったんでしょ!」と詰め寄られたと言うのである。 実際にはまた別の同僚が机の上に出しっぱなしじゃ危ない、と、ブツを机の中に入れてくれてただけだったんだが、机の近くをうろついてただけで疑われたものだからその人もたまったものではない、相手とちょっとした口ゲンカになってしまったというのだけれど、そりゃそうだろう。 そこにあったものが無くなったのだから、持って行かれたのではないか、と疑うところまではまあ、頷けなくもないが、いきなり盗人扱いはやはり常軌を逸している。相当精神的に追いつめられてる感じだが、仕事上、私はこの人といろいろ相談しなきゃならない立場にあるんだよなあ。他の同僚はできるだけ対話を避けてるんだが、私がまた一応、ソトヅラだけはよくて、形の上では親身になって聞くものだから(でも聞くしかないじゃん)、延々と愚痴を聞かされること。 ……いや、私は仕事の話がしたいんだけど(-_-;)。 いつの間にかその同僚のカウンセリングをする羽目に陥っているのだ。昔からこんな状況に追い込まれること多かったけれど、私ゃ何かそういう星の元にでも生まれてるのか。
しげがまた拗ねている。 しげの性格を先刻ご承知の方なら、ご想像がつくことと思うが、今度の東京行きについて、一人きりにさせられるのが歯痒いのだ。 「……アンタ、東京行くっちゃろ?」 「行くけど?」 「なんでオレに声かけんと」 「声かけんって……お前、仕事は?」 「あるよ?」 「あるなら初めから無理やろ。声かけられなくったって、しかたないやん」 「その根性が好かんと! 初めから決めつけとるやん!」 「じゃあ、行く?」 「……行ってもすることないし」 「ミステリー文学館覗くんだってば」 「会う人もいないし」 「こうたろうくんに会えるじゃん」 「……日帰りで行くと?」 「いや、一泊するよ」 「なら、行けんよ。次の日、練習やし」 「だったらやっぱり初めから無理なんじゃん!」 「……しかもほかの女と会うし」 「……ちょっと待て(・・;)」 「オレ以外の女と楽しく過ごすんやもん(T-T) 」 「おい」 「オレ、おいてきぶり(←「おいてきぼり」の意のしげ語)やん(TロT) 」 「だからオレが東京で何するってんだよ!」 まあ、覚悟してたことではあるがしんどい。 仮に連れてったら連れてったで、「人と話せん」とか言って、また泣いちゃうんだよな、こいつは。いや、出かける土壇場になって、「やっぱり行かん」とか言って拗ねることにもなりかねない。と言うか、実際に毎回そうなので、いい加減こっちも相手をしてやる気力が失せているのである。 いつまで経ってもオトナになる気がないから、こんな風に放り出されることになるのだ。自業自得、ちったあわが身を省みて、そのバカいい加減で治せ。
CSファミリー劇場『快傑ズバット』第9話「涙の河を振り返れ」。 今度の用心棒は釣師十兵衛。殺し屋釣師ってのもムチャな設定だが、今回も早川健、「お前さん、釣りの腕は日本じゃ二番目だ」と嘯く。釣道まで極めてたってのか早川健。 その殺しの釣りの技術ってのが、要するに爆弾を釣りで遠くまで飛ばすってんだけど、確か、爆弾を使った漁業の仕方がホントにあったな。もしかしてそれから発想したのか。 けれど、これくらい書くのに楽な脚本もないよなあ。ワク組は全部同じだし、あとは変なキャラを登場させるだけでいいんだもの。ファンがこういうのを楽しむのはまあいいとして、作り手の立場になると、やっぱり「ラクしてんじゃねーよ、世間にウケてるのはこれを宮内洋が演じてくれてるからだろーが」とヒトコト言ってやりたい気分になって当然と思うんだが。
野口文雄『手塚治虫の奇妙な資料』(実業之日本社・1785円)。 手塚治虫に改稿癖があったことは有名である。 雑誌収録時の作品がいったいどういう理由があったのか、コマが切り張りされ、絵が改められ、ときにはストーリーそのものが変更された。 そんな首を傾げる事態が、その生涯において休むことなく繰り返されていたのだ。もちろんそれは水木しげる評するところの、手塚さんの「一番病」ゆえであろう。ともかく自分の作品が読者に「古い」と断ぜられるのが怖くて仕方がなかったのだ。 作者の野口さんは熱狂的な手塚フリークらしく、「どうして変えちゃったんですか!」と愚痴は言っても、そういった明確な批判はしない。妙に手塚さんに摺り寄るような文章になってるのが、読んでいて気持ちの悪さすら感じるところだ。「結局どちらがいいかは読者の好み」って、それなら批評本を出す意味だってないじゃん(^_^;)。それはその通りなんだけれども、何かを批評するのなら、ある視点に立てばこう考えるしかないってこと、自分がなぜその立場を取ったかを明確にした上で語らなきゃ、何もか語ってないのと同じなんである。 そういうフラフラした見方なもんだから、もう文章はときには妄想の域にまで達していると言わざるを得ないところまで来てしまう。 『ハトよ天まで』で、新聞連載時にはあったが単行本で削除されたページについて、手塚さん自身は「代筆部分を削った」と語っているのだが、野口さんはなんの根拠もなく「どう見ても代筆というようなヒドイ代物には見えない」と断定する。「もし当時これほどうまい代筆者がいたら、手塚マンガにあれほど歴然たる代筆場面が散在するはずがない」とか書いてるんだけど、手塚さんが毎回代筆者変えまくってたのは有名なんだから、その中には手塚さんの絵にソックリなの描ける人もそうでない人も混じってて当然じゃないのかね。第一、テレビアニメスタッフはできるだけ手塚さんの絵そっくりに描くことを鍛錬されてたじゃないの。「うまい代筆者」なんて、昔から今に至るまで、吐いて捨てるほどいたよ。出崎統なんか、実際に『少年』に特別編として『鉄腕アトム』を本物そっくりに描いてたし。 じゃあどうして毎回アニメーターに代筆させなかったのかって反論されるかもしれないけれど、あのね、アニメーターってそんなにヒマじゃないの。アニメーターにとってはアニメは仕事だけれど、手塚さんにとっては(本人の意志はどうあれ)余技だからね、たまにならともかく、そんなにしょっちゅう代筆なんてしてやらないってば。 それに、言っちゃあなんだが、野口さんの「代筆に見えない」って主張自体が私には根本的に間違ってるように思えてならないんだけどね。キャラクターのポーズやアングルが単調で、しかもヒョウタンツギばかり出して線の違いがバレるのを隠してるあたり、私には代筆にしか見えないんだが。 だから手塚さんの代作を少しでも減らしたいって心理は分るんだけどさ、批評にもならない駄文を書き連ねられても読者は頷けやしないよ。まあ、絵自体は豊富に掲載されてるんで、手塚ファンなら、文章を読まなくても買って損はないです。
2001年09月26日(水) 彼岸の人/ドラマ『ブラック・ジャック�掘戞拭悒疋鵐�ホーテのロンドン』(鴻上尚史)ほか 2000年09月26日(火) 泊まりの仕事で本も読めねえ
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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