無責任賛歌
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連休明けで仕事が溜まりに溜まりまくっている。同僚はみんな休日返上で出勤して片付けてるんだよなあ。そもそも休日潰さないとこなせないような仕事を自ら増やしてるのはいったい何のためだと思うけど、まあ私の常識は職場の常識とも世間の常識とも全然違っているらしいので(自覚なしかよ)、まあ仕方がないのである。まあ、しげを駐車場で待たせる心配がなくなったので、残業できはするんだけどね。手当てつかねーけど。
帰り道、晩飯を物色しにローソンに寄る。 新発売で、これはもう当然九州限定商品だろうが、「九州味好み弁当」ってのを売っている。地元の味ったって、世代が違えば味覚も違うわけで、何をもって「九州味」と呼ぶかは決めつけられもしないが、逆に言えば、「これが九州味だ!」と誰かが言い出して、それが受け入れられればそれが九州人好みの味ってことになっちゃうのだ。わしゃまだラーメンの「とんこつ」を博多人好みと認めたくはないが。 中身を見ると、チキン南蛮・甘〜い玉子そぼろ・ごぼう天・明太子・焼き鯖・黒豚入りつくね・がめ煮・焼きラーメンと、確かに九州のスーパーの惣菜売り場によく並んでる品を一つところにぶちこんだ感じ。でもこの中で博多っ子好みの品ってったら、がめ煮くらいじゃないかな。甘くて糖尿には悪そうだが。
帰宅してネットを散策していると、1年ほど前まではよく出入りしていたあるサイトが閉鎖されていた。 ROMだけはしていたものの、そこの管理人さんとは、全く交流がなくなっていた。以前、メールでの言葉のやり取りの行き違いから仲がギクシャクしてきて、果ては妻がその人のことをとことん憎むようになったので(妻は、私が相手のことを本気で気にかけるようになると歯に衣着せぬモノイイになることを知ってるので、本気で嫉妬したのである)、これはもう絶縁するしかなかろうと諦めたものである。 興奮すると自分を律することのできない性格の方で、どうやら私以外の人とも随分トラブルを起こしてきたらしいことがほかのサイトでも話題になっていたのであるが、結果的に批判の嵐に耐え切れなくなったのが閉鎖の理由であるようだった。
その「批判」については、私も最近になって読んではいた。中にはたいした根拠のない、誹謗中傷に近いものもありはしたが、全てがそういうものばかりではない。真摯に管理人さんのためを思っての忠告もあった。恐らくは自らの心の弱さを糊塗するためであろうが、その方には相当に強い虚言癖があったのである。しかし、それをたしなめる言葉に限って、管理人さんは無視をし、自らを慰める言葉のみを受け入れていた。 苦笑するしかなかったのは、かつてその方が私に対して罵倒を浴びせていた言葉が、そのままその方に対して返されている例が数多くあったことだ。表の顔をきれいに取り繕うことの愚を私は指摘したのだが、そのときにはその方は激昂して反駁した。その言葉がそのままその人に対して投げかけられていたのである。二枚舌を使い分けてきたことを指摘された格好になったその方の心境は、果たしていかがなものであったろう。 そのサイトに集っていた定連の人たちは、懸命にその方を擁護していたが、実はそれは、私を擁護し、その管理人さん自身を責めたてる言葉になっていたのである。その方の内面を知らぬ人たちの無自覚な行為とは言え、随分とその方にとっては酷な仕打ちをしたものだ。
けれど、私はふと考える。 管理人さんを慰める取り巻きの人たちは、本当にその方の性格の破綻に気付いていなかったのだろうか。 ネット上のやりとりであろうが、しばらく会話をしてみれば、その方の感情の起伏の激しさに気がつかないはずはない。場合によってはその方の暴走をたしなめる必要も生じていたはずなのである。 なのに誰もがその方のことをさも聖人のように誉めそやしていたというのは、いったいどういう心理なのであろう? その表現はいささか気持ち悪いほどであったのだが。
結果的に、私はその方が、取巻きの人たちの「誉め殺し」にあったと思うのである。 サイトを開けば、それは衆人に公開されることになる。誰にどう批判されることも覚悟しなければならない。それは、批判する相手が名乗りをあげようか匿名であろうが関係のないことだ。サイトを閉じることは、結果的に「誰からの批判も一切受け付けません」と宣言するのと同じことになる。それなら、もともとなんのためにサイトを開いたというのだろう? その方が誰の批判も受け容れる覚悟があったなら、こうしてサイトを閉じる必要もなかったのではないか? つまりはその方は本当は自分を慰める言葉、癒される言葉だけがほしかったのである。そして取巻きの人々はその管理人さんの心の弱みに付けこんだ。恐らく最後まで管理人さんは、自分が取り巻きの人々に「利用」されていたことに気がつかなかったことだろう。 管理人さんはサイト閉鎖の挨拶で、未だに「どんな批判でも受け付けます」と気丈なところを見せているが、これも恐らくは自らを守るためのうわべだけの言葉だろう。その方は自らの紡ぎ出す美しい言葉だけに浸る生き方を選んでしまった。それはそれで別に悪いことでもなんでもないのだが、もともとそうなることを望んでサイトを開いたわけではなかったはずだ。 そこまでその方を追い込んだのは、明らかに「取巻き」の人たちなのである。「批判者」たちの方ではない。 だから「取巻きさん」たちに問いたいのだ。あなた方は管理人さんに何をしたのか、「自覚」はあったのですか、と。
マンガ、鳥山明『ドラゴンボール 完全版』11・12巻。 ピッコロ大魔王の復活は、当時は随分盛り上がったものだったが(キャラデザインも画期的だった)、同時に『Dr.スランプ』以来の鳥山さんのトボケた味がほぼ完全に払拭されるきっかけになったアタリでもある。 ピッコロの上目遣いに相手を睨めつけるポーズが、リアル化していく孫悟空にまで伝播していくのだ。私はこのへんからもう、惰性でしか『ドラゴンボール』を読まなくなっていったのだが、実際にはこのあたりから人気の更なる高騰が始まっているのである。 しかも女の子に。 「やおい」という言葉を私が耳にするようになったのがいつごろからか、もうハッキリとは覚えていないが、80年代後半はまさにやおいの時代と括ってもいいようなくらい、私の感覚では付いて行けないアニメに女の子のファンが集中した。 それまでにも女の子が熱狂したアニメもないわけではなかった。しかしそれは同時に男の子たちにもエポックメーキングな作品として評価を受けていたのである。『海のトリトン』などはいい例だ。しかし、ドラマ的にも作画的にもオソマツの一言に尽きるのに、女の子だけが熱狂するアニメやマンガが、この時期からドッと増えていくのだ。 世の30代、40代の男性諸君、あのころ、『聖闘士聖矢』や『鎧伝サムライトルーパー』や『天空戦記シュラト』のネタを女の子から振られて、どうしていいのかわからなくなった経験、ありませんか。 当時は「なんでやねん」と思っていたものだったが、今にして思えば、それはやはり抑圧された女の子たちが、自分語りを始めた一つの例なのだろう。自分を語るのに予めキッチリと作られたドラマは想像の幅を広げるのにジャマなのである(だからドラマが劇的な展開を迎えると、「こんなの私の○○じゃない!」と泣き騒ぐ)。 最近流行ってるらしい「ドリーム小説」もそうだが、ドラマを楽しむのではなくて、自分の物語にキャラクターや設定を利用しているのである。まあ、一見、女の子たちが自立し始めたようにも見えて、悪くないのかもしれないけれど、そうやって新しく作られた物語が果たして他人の共感を得るものになるかって問題が残ってるんだよね(^_^;)。 私も自分を主人公にしてアニメの設定の中に入りこんで一発、小説書いてみようか。……でも特に「この世界に入りたい」ってのないしなあ。『ドラゴンヘッド』とか、絶対いやだもんな(^o^)。
2002年05月06日(月) やっぱり類友(^_^;)/DVD『シティボーイズライブ』/DVD『ブギーポップは笑わない』ほか 2001年05月06日(日) 襟足に寒気/『仮面ライダーSPIRITS』1巻(村枝賢一)
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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