無責任賛歌
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記
| 2004年07月12日(月) |
「似て非なるもの」の休止 |
休日明け、いきなり世間は夏である。と言うのも、先週末までは鳴き声ひとつ聞こえなかったセミの野郎がいきなりワシャワシャ鳴き出したからだ。なんかねえ、セミは成虫になって2週間で死ぬってえからねえ、言ってみりゃ、毎年我々は「断末魔」の合唱を聞かされてることになるのだけれども、だからって涼しくなるどころか、ひたすら暑苦しく感じるだけなんだから、なんだかもう、サッサとくたばって欲しいって気になってくるのである。中にゃ、10月近くまで鳴いていて越冬するんじゃないかってくらいしぶといセミもいるからね。 岩波文庫の『イソップ寓話集』を読むと、巷間知られているところの『アリとキリギリス』の話は『蝉と蟻たち』となっている。『伊曽保物語』でもそうで、もともとは「セミ」が正しい。 原話の母国であるギリシアにはセミがいたのだが、これがフランス、ドイツに伝播した時に、コオロギやキリギリスに変更されたものだとか。(詳細は右サイトを参照のこと→http://www.geocities.co.jp/Bookend/9563/grasshopper/Grashopper.html ロシアじゃ「トンボ」だってえけど、トンボって鳴くのかよ。いやまあ、羽音なんだろうけど。日本とロシアとじゃ、トンボの種類も違うんだろうか。トンボならまだしも、蟻とセンチコガネ、蚊とミツバチ、雌鶏と狐になってる例もあるらしいが、センチコガネは働き者じゃないってことなのか。よく分からん感覚なのである。 日本にはコオロギもキリギリスもいるけれど、もともとセミだっているわけだから、「蝉と蟻」でもよかったような気がするが、「遊び人」のイメージはセミよりキリギリスだったんだろうかね。美しい音色を聞かせてくれるキリギリスより、クソやかましいセミが懲らしめられる方が日本人としては溜飲が下がる気がするのだが。
気がついたら、曽我さん家族が再会してて、選挙も終わっちゃってたけど、なんだか全く何の感慨も浮かばないのである。 「事件」には興味を引かれても、もともと「政治」にはとんと目が向かないタチではあったが、もう拉致云々については、何がどう動こうと政治屋さんたちの稼ぎのネタにしかならないんじゃないかとシラケちゃってるのである。 曽我さんとジェンキンスさんの熱烈キッスの写真がデカデカと載ってる新聞を、車の中で読んでそのままフロントにほったらかしにしてたのだが、しげがイラつくこと。 「運転してたら、ジェンキンスさんの顔が真正面にあるんだよ。どけてよ」 なんだか、新聞がジャマっていうより、曽我さんジェンキンスさん二人がジャマって言ってるように聞こえて、随分シツレイな話である。
さて、本日もまた会議だったのだが、トンガリさん、出勤自体しなかった。やっぱり連絡はナシの無断欠勤である。 前回に引き続き、トンガリさんの仕事の不始末をいかにして解消するか、というのが議題であったのだが、ひととおり資料はまとめて、トンガリさんにも事前に渡してある。トンガリさんがどれだけいい加減な仕事をしてきたのかという資料だから、それに目を通していれば確かにとても顔を出せた義理ではない、というのも当然なのだが、どうせ、目を通さないままただ逃げてるだけに違いないのである。仮に目を通していたとしても、ナカミはケロッと忘れてしまっているだろう。いや、これは私の憶測ではなく、これまでにも資料を渡すたびに説明をしているのだが、次にそのことについて問い質すと、何一つ覚えていなかったこともしばしばなのである。 なに一つ、自分のしでかしたことについては反省してはいないし、ただその場限りのウソをついてゴマカそうとするばかりなのだが、そうやっていつまで逃げ回っていれば気がすむのだろうか。いや、逃げているという意識すらないのか。 私も、疲れてるのを通りこして、いい加減イヤ気が差してきているのだが、上司はいつまでこのイカレたすっとこどっこいを放置しておくつもりなのだろうか。私はもうそろそろ手を引きたいんだけれど。
それでも今日は定時に帰れそうだったので、迎えに来てもらえるかどうか、しげに連絡を入れる。 どうしたものか、電話の向こうでは、しげが妙に上ずった、ラリった声をあげている。「きゃあ」とか「へへへ」とか、心ここにあらずみたいな感じなので、家でも外でも既知外に絡まれるのはちょっとカンベンだぞ、と思いながら、何があったのかと「いったいどうした?」と聞いてみると。 「なんでもないよ、カメにエサやろうとしたら、フタを中に落としただけ」 「……誰がお前にエサやっていいと言った!」 「だって、オレだって、エサやってみたかったんだもん」 「まさかお前な、『うりゃあ!』って思いっきりエサやって、水濁らせたりしてないだろうな」 「してないしてない」 「……ホントだな?」 「ホントホント♪」 帰宅して、溶けたエサですっかり濁った水の入れ替えに、私が苦労させられることになったことは言うまでもない。 帰宅してからはずっと、輸入版CDの『Monty Python Sings』と『Eric Idle Sings Monty Python』を聞く。今度の芝居に『Always Look on the Bright Side of Life』と『Sit on My Face』を使うことは決まっているのだが、本当はもう一曲、『Galaxy Song』も使いたかった。しげに「雰囲気合わないよ」と反対されて断念したのだが、私はどっちかというとラスト近くは『Galaxy Song』の気分で書いていたのだけれども。 CD三昧だったので、読んだ本は寺沢大介『ミスター味っ子�供截唄�だけ。もうアニメ化になることはないと思うけれども、もしなったら、大人になった陽一はやっぱり高山みなみが演じるんだろうか。それとも子供の陽太か?
春休み恒例の『ドラえもん』劇場版が、「充電」のため来年は休止とか。ちょっと気になるのは、その発表を行ったのが配給元の小学館と東宝で、実際に制作に携わっているシンエイ動画ではないことである。「今春の25本目を節目に1回休み、製作スタッフも入れ替えたい。平成18年には、さらに内容の濃いものを届けたい」と小学館は説明しているそうだが、まさか、他のプロダクションに作らせる、という意味じゃあるまいな。 確かに、藤子アニメはシンエイ動画の専売特許というわけではない。これまでにもスタジオぎゃろっぷやマジックバスが『キテレツ大百科』や『SF短編シアター』をアニメ化している。『ドラえもん』のアニメ自体、旧版は「日本テレビ動画」の制作である(覚えてる? 富田耕生や丸山裕子の声の「ドラえもん」)。東宝と小学館が他のプロダクションに制作を発注する可能性がゼロだとは言えないのだ。 ……オトナになったことの何がイヤかってね、「休養」とか「充電」とか聞くと、「裏に何かがあるんじゃないか」って、すぐ勘繰りたくなるとこなんだよねえ。で、実際にそーゆーことがあったりするし。シンエイ動画と東宝とがトラブったんじゃないかとかね。 まあ、テレビアニメはこれまで通り放送されるということだから、多分それは私の妄想なのだろうけれども、毎年『ドラえもん』と『クレヨンしんちゃん』の連続2本の映画興行がどれだけタイトなスケジュールでなされているかは聞き及んでいるので、それでいてあれだけ上質の映画を作り続けているのは驚異であると同時に「息切れ」も止む無しか、とも納得してしまうのである。正直な話、もう「ネタ切れ」だろうと思う。ドラえもんとのび太たちは、宇宙も、空も、海も、地底も、密林も、魔界も、過去も、未来も、ありとあらゆる時空を冒険し尽くしてしまった。これから先、どこへ行こうと大同小異だ。映画上映は旧作のリバイバルでいいから、そろそろドラえもんを「原作通りに」未来に返してあげて、のび太を本当に「成長」させてあげてもいいのではないだろうか。マンガ家を変え、スタッフを変え、声優も変え、アメコミじゃあるまいし、『ドラえもん』がそうやって延々と受け継がれていくマンガであっていいのだろうか。 もちろんこんな感慨は『ドラえもん』を「昭和の遺産」と見る(それどころか私は、劇場版シリーズ自体、もともと「余燼」としか見ていない)いち読者のタワゴトに過ぎない。これからも『ドラえもん』は21世紀のマンガとして描き継がれていくのだろう。オトナの事情も介在させながら。……けれどねえ、『ドラえもん』の短編を膨らまして長編に仕立てたり、他の藤子作品を「翻案」したり、そういう小手先の「水増し」が続いている状況を悲しんで見ている観客だって結構いると思うんだよなあ。言ったって仕方ないとわかっちゃいるけど、あえて言いたい。 「藤子さんが生きてたらなあ」 ……終わりどころを間違えて、老残を晒しているアニメの例を、我々は腐るほど知ってるはずなんだけれど。
2003年07月12日(土) AIQ(オタク・アミーゴス・in・九州)始末/DVD『ノストラダムスの大予言』 2002年07月12日(金) ある事件の記憶/DVD『アベノ橋魔法☆商店街』vol.1/『奇妙な論理�機Ν供戞複諭Ε�ードナー)ほか 2001年07月12日(木) 怨念がおんねん(古)/『平成十三年度版 九州怨念地図』ほか
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記
☆劇団メンバー日記リンク☆
藤原敬之(ふじわら・けいし)
|