無責任賛歌
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記
| 2005年03月23日(水) |
心に残る余震/『新・吼えろペン』1巻(島本和彦) |
昨日あたりから降り続いていた雨、今日も名残のようにしとしとと。 新聞で「こんな地震が来ると思っていたか」「地震保険など、事前に対策を取っていたか」なんてアンケートを福岡市民に対して取っていたが、答えは80パーセント以上が「何も対策していなかった」というもの。 メディアの馬鹿さ加減がよく分かるのがこういう「アンケート」というやつで、意図としては恐らくは「天災に対する油断」を指摘したいのだろうけれど、残念ながら、こんな指摘は何の意味もない。一年経って、更にまた一年経ってと、繰り返し福岡市民に対して「何か地震対策を取っているか」と質問していけば結果は出ると思うのだが、来年は少しは「地震保険に入った」といった類の回答が増えるかもしれないが、それも年を重ねるにつれ、徐々に低下していくだろう。喉元過ぎれば何とやらであるが、掛け捨ての保険に入るなんてもったいない、「また地震が来るかも」と戦々恐々としながら日々を暮らすよりも、「もう地震は来ないだろう」という根拠のない思い込みに依存して、地震前と変わらない生活を送っていくことのほうが自然なのである。いや、地震後四日を経た今日、避難中の被災者を除けば、殆どの福岡市民が何事もなかったかのような顔をして普通の生活に戻っている。 それがいけないとか、被災者の気持ちを考えろと言いたいのではない。マスコミの不穏な「煽り」に乗せられてビクビクして暮らすより、地震なんかどこ吹く風と鼻歌歌いながら毎日を過ごしていくほうがよっぽど健全だろう。私が不快に感じるのは、実態として、たくさんの“無事だった”福岡市民が、この地震を言わば一つの“イベント”として「楽しんでいた」くせに、とんでもない目に遭ったとでも言いたげにいかにもな「被害者面」をしていることなのである。 私のうちの本の山を見たことのある人は、決まって「地震が来たらどうすると?」と聞いてくる。あんまり同じことを聞かれるもので、いい加減うんざりして、「地震なんてそうそう来ねえよ」と言い放ってしまうこともしばしばであったのだが、それを聞くと相手はこれも決まって、「いや、分からないよ」と答えるのであった。しかし、このとき、「地震なんて来ない」と言った私は実は地震保険に入っており(最近はやめた)、「油断するな」と言ってくれた御仁はまず保険には入っていなかったのである。 私は昨日から今日にかけて、職場で何人かの同僚にわざと「これだけでかい地震があれば,もう当分福岡には地震は来ないでしょうねえ」と“振って”みた。それに対する彼らの返事はどうであったか。みんながみんな、狙い済ましたように「いや、分かりませんよ」と答えたのである。彼らが本気で地震の心配をしているとはとても思えない。賭けてもいいが、彼らの中でこれから地震保険に入ろうとするものは誰もいないに違いないのだ。彼らが地震で味わったのは「恐怖」ではない。恐怖だったら、こんな「他人事」なモノイイができるはずがない。みんな、あの地震が「楽しかった」のである。 私は、あのとき、本当に「死ぬかも」と思った。自分が助かったと分かった後も、父が倒れた戸棚の下敷きになって血まみれになっているビジョンが脳裏に浮かんで離れなかった。電話がいくら掛けても通じなくて、父のマンションまで駆けつけようかとも思った。けれど父は休日にはたいてい外出していることを思い出して気持ちを落ち着け、もう一度電話を掛けてようやく通じた。実際に父は山口に旅行していて無事だった。 自分が死の恐怖を感じたから言うのではないが、「ちょっとびっくりした」程度の人間が、あるいは楽しい“イベント”に遭遇できて「今の地震すごかったね!」と友達にメール送りまくってたような人間が、改めて「地震はどうでしたか?」と聞かれたときに、どうして簡単に「いやもう、恐ろしくて震えがとまりませんでした!」などと「地震の恐怖」をまことしやかに語れるのか、ということなのだ。もちろん、そこには“世間”を想定した“常識”が介在しているのだろう。家を無くし、避難生活をしている“本当の”被災者たちに対する配慮である。そういう方々のことを思えば、軽々しく「今の地震楽しかったね」とはなかなか言えるものではない。 しかし、自分が死の恐怖を感じたからこそ言うのだが、「まさかこんな目に遭うとは」とか「福岡の安全神話が崩れた」とか、大仰に騒ぐ連中よりも、素直に「楽しかったね」と喜んでいる人間のほうが私はよっぽど“人間として”信頼できるのである。……いや、しげの場合はちょっと楽しみすぎだが。 楽しんでるんなら楽しんでるって素直に言えや。バレバレの演技なんかされたって、こちとら嬉しくもなんともねえんだよ。 地震や台風といった天災に限らない、人生の苦悩だの不安だの、病気や重症だのをことさらに訴えて他人の同情を図ろうとする類の人間は、ちょっと“つついて”やれば、実は自分の悲惨な境遇を「楽しんで」いることを露呈してしまう。本当に苦しんでいる人間は、自分の苦しみなどおくびにも出さないで笑っている。「苦しんでなどいられない」現実を否が応にも実感せざるを得ないからだ。 あー、それでですね、私が病気のこととか地震のせいで不安神経症になってるとか書くのはですね、これ、皆さんに同情を求めているわけではなくて、単なる露悪趣味です。かえって心配をかけるから書くなとお叱りを受けそうですが、だからと言って日記に現在の心情を書かないで「隠しておく」なんてのは、それはそれでただのカッコつけだなと思うので、思ったことは何でもまんま書くようにしてるんです。いやもう、「全然心配なんかしてませんでした」と言ってくださるほうが私も気がラクですし、お見舞いなどもお返しとかがめんどくさいので要りません。私の書く文章をあまり真面目に受け取らないようにお願いいたします。
地震関連のニュースで言えばもう一つ、「マリノアシティ福岡」に隣接し、世界第二位の高さを誇る「エバーグリーンマリノア」の大観覧車(高さ120メートル、直径112メートル)のゴンドラ2基(あるいはもっと)が、地震当時に誤作動して、乗客を乗せたままの状態で自動扉が開いちゃったそうだ。観覧車は数分間停止した後で動きだし、地上に着くまで約20分ほどかかったが、その間、乗客が非常連絡用のボタンで係員を呼び出し、「手動で扉が閉まらないのか」と聞いたところ、係員は「閉まりません。すいません」と言うばかりだったとか。何とも暢気な対応であるが、確かに手動で動かすことが不可能なら、「降りるまでがんばって落ちないように」としか言いようはないわな。アニメとかだとこういうぎりぎりの瀬戸際になった場合はたいてい「機械よりも人間の力」を優位に置く展開になるものだが、現実にはもう、機械は人間の力を拒む存在として確立してしまっているのである。つか、これだけ機械にかかわらずにはいられない時代、人間の力だけで出来ることって、なにがあるんだろうか? で、この乗客さんたちは地震保険に入るようになるだろうかね。
しげの体調すぐれず、迎えには来れない。 バスで帰ったので、定時に退出しても帰宅は七時過ぎ。転勤になれば、交通機関を使っても六時台には帰れるだろう。四月からは少しは自分の時間が増えそうである。 しげは最近、睡眠薬の量が増えていて、ちょっと危険な状態である。眠れないのは要するに心のバランスが崩れているからなんだが、結局は規定以上の量を飲んで眠りこけてしまっているので、眠れていないわけではない。それなら精神安定剤か抗鬱剤だけ飲んでりゃ、落ち着いて寝られそうなものなのだが、もうしげは「睡眠薬がないと眠れない」という思い込みに支配されてしまっている。でも神経科に通う以前から「眠れん眠れん」とうるさかったしげは、いったん眠ると12時間以上も眠りこけていた。だ・か・ら、後で眠れなくなるのであるのであって、睡眠を普通に六、七時間にとどめておれば、早く眠れるようになるのだ。 今日の日記に、しげは「怒られた」と書いていたが、これは医者から「薬の飲みすぎ」を注意されたのである。つか、これでもう二度目か三度目。そりゃ、一週間分の薬を三日か四日で飲みきってしまえば叱られるのは当たり前だ。服用し始める前とその後とで、トータルな睡眠時間が結局は変わってないのなら、もう飲むだけ無駄なのは歴然としているから、睡眠薬はもう必要ないと思うんだけれど、注意したって私の目をかすめて飲まれちゃもう、どうしようもないのである。何でここまで意志が弱いかね。
テレビで『愛のエプロン』、『相棒』最終回など。高橋由美子が二役を演じるが、片方は「元男」の役。性転換のことを今どきゃ「トランスジェンダー」って言うのな。意味は分かるが「性転換」って言葉をわざわざ英語にしなきゃならない必然性ってあるんだろうか。
マンガ、島本和彦『新・吼えろペン』1巻。 なんかもう、島本和彦のライフワークになりつつある「炎尾燃(ホノオ・モユル)」シリーズ。いやあまさか「新」まで続くとは思ってなかった。一見、熱血、でも結構卑怯で軟弱なとこもあるという島本ヒーローを作者自身が演じているわけだから、これが面白くならないわけはない。作者がたとえどんなに「炎尾燃と島本和彦は別人です」と主張しても、読者は両者をイコールとして見て面白がっているのである。イコールじゃなきゃつまらないじゃないか(笑)。 今回は殆どが『逆境ナイン』(作品中では『逆上ナイン』)映画化のエピソードなんだけれど、いったいどこからどこまでが本当で、どこから先が脚色なのかが気になって仕方がない。島本さんのホームページを見る限りでは、マンガに描かれているほどまで撮影現場に入り浸っていたわけではなさそうだが。映画の演出を変えたくて、原作マンガの結末自体を描き換えてしまうとか、エキストラ出演することになって「自分はヒーローの演技しか出来ん!」とゴネたりとか、こういうのはかな誇張が入っていると思うが、「藤岡弘、はアドリブで燃える台詞を言う」というのは一切誇張がないかもしれない。 気になるのはサカキバラ・ゴウ役のココリコ田中直樹だけれども、日記では誉めているのに、マンガのほうには全く出番がない。もしかしたらこれがやっぱり映画のネックになってしまうのかも……。って、ロードショー、福岡まで来るんかいな。
愛知万博(愛・地球博)がいよいよ3月25日に開幕。 1970年の大阪万博が精神形成の根っこにある世代としては、こりゃぜひともいっぺんは行っときたい、できれば最低三日は滞在して隅々まで見て回りたいと思うんだけれど、大阪万博の大混雑も体験している身としては、土・日に行くのはイヤだなあ、といささか気後れもしてしまうのである。かと言って平日に休みを取るのはムチャクチャ難しい。比較的休みが取りやすいのは夏場の盆あたりだろうが、炎天下に広い会場を歩き回りゃあ死ぬ目に遭うだろうことも容易に予測が付く。気候的には秋口、閉会間際が一番いいように思うんだが、そんなに都合よく行くわきゃないのである。ああ、押井守総合演出の『めざめの方舟(はこぶね)』、ムチャクチャ興味があるんだが。 しかし今回の愛知万博、大阪万博に比べるとどうもイマイチ盛り上がってないように思えてならない。分かりやすい例で言えば、万博のメインテーマだ。これが殆どと言っていいくらい、世間に浸透してないんじゃなかろうか。我々の世代で大阪万博のメインテーマ「人類の進歩と調和」を答えられない人間はまずいないのだが、愛知万博のテーマは? と質問されて、すぐに答えが出てくる人は、今現在で日本人の何パーセントいるだろう。正解は「自然の叡智」。若い人だって、答えられない人、多いんじゃないか。つか、愛知万博自体に興味がないのかもしれない。 愛知県は、開会前から「“自然の叡智”を謳う万博が自然を切り開いて会場設営するのは矛盾ではないか」という批判を浴びて、会場の規模を縮小せざるを得なかったというとんだ不手際を晒してしまっている。実際に客が目当てにしているのは「自然」でも「環境」でもなく、ロボットやらスタジオジブリの出店やら、自然とは何の関係もないものばかり(アニメーションという自然と最もかけ離れた技術によって表現される「環境保全」とやらがいかに偽善的であるか、ジブリ信者はもちっと自覚したらいかがか)。世界各国のメディアも、注目しているのは科学技術や未来を表現したパビリオンやイベントの煌びやかさなどで、「自然との共存」なんて見向きもしていない。表の顔と内実との乖離が激しすぎるのである。 だいたいやねえ、企業宣伝と地域振興が目的の癖に、そこにむりやり「自然に優しい印」のふりかけをまぶして誤魔化して客に食わせてやろうというのは、場末の食堂のチキンライスと称したケチャップライスのようで、なんとも姑息でお寒いとは思わないかね? 愛知県は観客動員数に自信を持っているようだけれども、当てた褌が向こうから外れる危険性は充分あると思う。 それでもこれだけのイベントならば、たとえ予測を下回ったとしてもかなりの客がウンカのごとく押しかけることは間違いなかろうから、できるだけ暇な時期を選んで行ってみたいのである。
2004年03月23日(火) だからって私はホモじゃないから。 2003年03月23日(日) メモ日記�� 2001年03月23日(金) ストレス解消!/映画『サトラレ』/『犬夜叉』20巻(高橋留美子)ほか
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記
☆劇団メンバー日記リンク☆
藤原敬之(ふじわら・けいし)
|