無責任賛歌
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記
| 2005年05月02日(月) |
すれ違う言葉/『不死身探偵オルロック 完全版』(G=ヒコロウ) |
今朝も震度1の地震。慌てて飛び起きる。早起きできるのはいいけどねえ。
職場で、オタクなAさんと話していて、こないだのG2プロデュース公演の『Candies』に、Aさんも来られていたことを知った。オタクな趣味といい、映画や芝居が好きなところといい、ホモオタさんに関わった過去があるということも含めて(そんなことでは共通体験を持ちたくはなかったが)、妙に気が合っている。それはそれとして、話が弾むと仕事が進まなくなることもあって困りはするのだが、縁というものは確かに奇なものであるなあとしみじみ思う。なんだかいろんなところで偶然繋がる人はいるものである。 もっとも、手当たり次第に舞台や映画を見ていれば、こういう偶然は結構起きる。そして、「偶然」とはいっても、「地震」や「戦争」などといった、本人の意図に関わらず、その時代、その地域にいた人たちがみな巻き込まれてしまう「偶然」と、「同じ舞台を見ていた」という「偶然」とは、同じ偶然でも意味合いが違うものである。地震はそこにいさえすればしたくなくても勝手に体験するが、芝居を見に行く、というのは言うまでもなく自らの意志で取った行動である。より「同志」としての感覚は強くなる。オタク同士のつながりなんて、結局はそういうものだ。 若い人と会話をしていて楽しくならないのは、別に映画や舞台に限らず、音楽だろうがマンガであろうが、趣味の範囲がえらく狭くて、話題に事欠くことが多いからである。しかも、同じものを見ても、意見が違えば拗ねたり腹を立てたりと、コミュニケーションの基本がなってない場合も多い。最近も職場の若手連中とお喋りしていて、その頑なさに驚いたことが多かった。 「新しい『ドラえもん』は見る気がしない。つまらないから」 「『ガンダム』(このときは『THE ORIGIN』の話題であった)なんて見る気がしない。つまらないから」 「『PLUTO』なんて見る気がしない。つまらないから」 ニベもないとはこのことであるが、こういう人たちと会話を成立させることがいかに難しいか。しかも彼らは友人同士でも殆どマトモな会話をしているとはいい難いすれ違いを見せているのだが、信じがたいことに自分たちでは会話が成立していると思い込んでいるのである。 「○○って面白いぞ」 「ふーん、面白いと言えば××は面白いよな」 「ふーん。この映画に出てる△△ってキモくね?」 「さあ? オレは□□が好きだけど」 彼らは、こういう会話が楽しいのだろうか? Aさんと話していてつらくならないのは、意見が違っていも、互いが考えることの根拠、思考の立地点と着地点がどこにあるかを認めあえるからである。 しげとも最近話したことであるが、「痛いオタクとそうでないオタクのどこがどう違うか?」というのは、その「相手の立地点」を認めようとする人間かそうでないかで分かれると思う。なんかもう、自分のことだけ喋りまくる「痛すぎる」オタクがいかに多いかってことなんだけれどもね。
父に誘われて、女房ともども「万葉の湯」へ。 先日、父から電話がかかってきて、 「連休中の予定はどうや?」 「別にないよ」 「地震で部屋がずっと散らかったままやろう。予定がないならゆったりうちで過ごさんや?」 と誘われて、あっさり父のマンションに泊まることになったのだが、その前にひとっ風呂浴びようということになったのである。「万葉の湯」はウチの近所にあるのだが、今までに利用したことはない。理由は簡単で、料金が高いからである。大人1890円ってなあ、そのへんのスーパー銭湯に比べると、1.5倍くらい高いぞ。まあ、父の奢りだから、遠慮なしにゆったり浸かることにする。わざわざ大分・由布院と佐賀・武雄の湯を毎日タンクローリーで運んできているというのがウリなので、この値段なのだろう。本場の温泉ったって毎日浸かるんじゃなきゃ、たいして効能はないと思うがね。 その後は食堂でしげはステーキ定食、父は玄海定食(刺身)、私は天ぷら定食。これに華味鶏のから揚げをつけて三人でつまむ。父は焼酎を注文するが(糖尿病のことなんて考えていないのである)、私は「こどもびいる」というのがメニューにあったので頼んでみる。その正体は美野島の「下町屋」という店が開発した、「ビールのような泡が出るソーダ(アップルタイザー)」であるが、子供が大人っぽい雰囲気に浸って飲むのにちょうどいい、ということらしい。 「これ、東京土産にいいかな?」と私が言うと、「どうせ東京にも出店があるよ」としげが言う。後でネットで調べてみたらその通りで、新宿あたりで飲める店があるそうだ。全く、これだから地方土産の選定には苦慮させられる(いや、それほど悩んじゃいないけど)。
父から「どうして今年は東京に行かんとや?」と聞かれたので、いつも行ってるシティボーイズの公演が、今年は北九州であるから、と説明する。 「その代わりじゃないけど、6月には別の芝居見に東京に行くよ」 「いつや?」 「6月の24日から26日まで」 「芝居はいつ見るとや?」 「25日の昼」 「なら、26日は空いとるとやな?」 「そうだけど、何か?」 「ディズニーランドのチケットがあるばってん、お前たち、行かんや?」 「何でそんなもん持っとるん?」 どうして父がそんなものを持っているのかはよく分からなかったが、ともかく東京の予定はこれでだいたい決定である。オフ会をいつやるかは未定だったが、こうなると6月25日(土)の夕方以降しか時間がない。 徹夜カラオケはまず無理なので、三、四時間くらいの会食だけになるかとは思いますが、ご都合のよろしい方はご連絡くださいませ。
父のマンションに着いたら、DVDが増えていた。 『釣りバカ日誌』のボックスを買ってたのには驚いたが、まだ一本も見ていないという。いや、私もテレビで流れていてもチャンネルを合わせたことはない。興味がなかったわけではないが、まあ、デート向きの映画じゃないし、後回しにされるのは仕方がないとこである。せっかくだから、ということで、第一作をまず三人で見始める。 今からもう17年も前の作品だから、出演者たちもやはり若い。そのころから既におじいちゃんであったスーさん役の三国連太郎ですら若い。しかもシリーズ化を考えていない単発映画のつもりで作られているから、物語もきっちりまとまっている。原作マンガの初期、ハマちゃんがスーさんを自社の社長と知らずに釣りに誘い、スーさんもハマちゃんを自社の平社員と知らず釣りに興じる、という「勘違いの喜劇」を、テンポよく見せている。三国連太郎も、これが初めてのコメディ演技とは思えないくらいに、頑固だがちょっと寂しい老人を“軽快に”演じている。この「軽さ」が重要なのだ。 スーさんを孤独な老人と信じているハマちゃんみち子さんの夫妻は、スーさんに仕事を斡旋さえする。感動して涙ぐむスーさん。けれど、ハマちゃんを騙している罪の意識にも責められる。スーさん、基本的に小心者なのだ。会社で偶然スーさんを見かけたみち子さんは、真相を知る。悲しむみち子さんを前にオタオタするスーさん。気がついてない人もいるようだが、スーさんはみち子さんに恋もしているのだ。もちろんこれは三角関係というほどに明確なものではないが、三人の間にある種の緊張感は確かにある。これを重く演じてしまっては、ドラマはドロドロになる。屈託のないみち子さんを演じる石田えりの可愛らしさと、青年のころに戻ったような三国連太郎の純情さが、ドラマを明るく収束させる。 ラストでハマちゃんとみち子さんは故郷の土佐に帰っていくが、これはまさしくこの映画を単発として美しく完結させるため必要な手段であった。これまで見ずにいたことが悔やまれる佳作。 でもなんで親父は買っといて全然見ないでいたのか、不思議に思って聞いたのだが、「DVDノ操作の仕方が分からない」ト答えた。……DVD入れて再生ボタン押すだけだよっ!
『キネマ旬報』5月上旬号、岡本喜八監督追悼特集がなんと30ページ。 全39本のスチールに加えて、仲代達矢、佐藤允、小林桂樹、寺田農、大谷直子、本田博太郎、真田広之のインタビュー記事がそれぞれ見開き2ページ、森卓也×石上三登志の対談が6ページという超ボリュームである。岡本喜八が“どういう人であったのか”ということを映画ファンを自称する人も、ちょっとくらいは感じてもらいたいものだが、本当に面白いものを探すアンテナがイカレてる若い人が増えてる現状ではそれも望み薄である。 いや、黒澤明にも言えることだが、岡本喜八がその全盛期からいかに「理解されてこなかったか」、ということも、森×石上対談は明かしている。『独立愚連隊』が「好戦的過ぎる」という批判や、『江分利満氏の優雅な生活』『ああ爆弾』『殺人狂時代』の記録的な不入りなどについても触れる。現代では傑作と評されるこれらの作品がなぜそこまでヒットしなかったか、今では東宝の宣伝の仕方、公開の仕方に問題があったことが指摘されているが、責任は全て岡本監督に帰せられた。岡本監督が酒びたりになるのもこのころからで、これがなければ後年脳梗塞を起こすこともなく、39本と言わず40数本は傑作を世に出してくれたのではないかと思うだに、「バカ東宝が」と愚痴の一つも言いたくなる。 森×石上対談が「勉強になる」のは、例えば日米合作映画である『EAST MEETS WEST』で、岡本監督が、カットごとに独立して撮影する自分のスタイルを捨てさせられ、アメリカ式のマスターショット(登場人物の配置・アクションを把握するためのショット。アメリカでは最終編集権がプロデューサーにあるため、監督が、画面上必要がないと判断しても無理やりこれを撮らされる)を使用させられたことなど、「なぜあの映画が失敗に終わったか」を、感想文的な印象批評ではなくて、技術的な問題として客観的に説明している点である。批評というのは「こうでなくてはならない」。 なぜ、岡本喜八映画を「映画館の大画面で見るべきか」についても、『暗黒街の弾痕』を例に森氏は説明する。三橋達也の「早撃ち」を演出するために、岡本監督は銃を構える動作と、銃を持つ動作とをカット割りして繋いでいるのだが、これが映画館で見れば人間の目は画面上の「動体」しか見ていないから、繋がって見える。しかしテレビのブラウン管の画面ではただのつなぎにしか見えないというのである。監督が観客の動体認識を利用するつもりで演出しているものを、テレビは少しも考慮しない、ということだ。映画はレンタルビデオやDVDで見るのが主流という方は、よく「映画を見に行くのには金がかかるんだから仕方がないじゃないか」と言い訳をされるが、せめてそれが「本来の映画の鑑賞の仕方ではない」ことくらいは自覚していただきたいものである。昔からの「映画館派」の人たちは、劇場に無意味なステイタスを感じて「映画グルメ」を気取っているわけではないのである(という「常識」も最近の自称「映画ファン」は知らないのだから困る)。 あまり岡本監督を誉めすぎると、かえって「そんなに傑作ばかり撮れるものなの?」などと逆に疑問を抱かれてしまうかもしれない。石上氏は、岡本作品は決して映画史に残る名作、といった括りで見るのでなく、あくまで日本映画がプログラム・ピクチャーとして量産されていたころの、「ものすごく面白い、上質なエンターテインメント郡」としてみるべきだと主張する。それはその通りだろうが、我々が本当に自分たちの根本的な感性や思想を無意識のうちに培っていくのは、構えて見る「名作」ではなく、そういった、「上質のエンターテインメント」からであることのほうが多いのだ。黒澤明も、岡本喜八も、決してお高く止まったゲージツ家ではなく、「面白いもの」を作りたいと思っていたのだ、ということを「映画ファン」を名乗るのなら知るべきであろうと思う。 岡本喜八映画は、「レンタル」でも置いてあるところは少ない。というよりビデオソフト化されている作品のほうが少ない。日本映画専門チャンネルでの岡本喜八特集はぜひご覧になっていただきたいものである。 最後に、インタビューされた方々が「一番印象的」「好きだ」と言及している岡本作品を、ご紹介しておこうと思う。もちろんご自身が出演している作品が圧倒的に多いのだが。 仲代達矢→『殺人狂時代』(1967) 佐藤 允→『独立愚連隊』(1959) 小林桂樹→『江分利満氏の優雅な生活』(1963) 寺田 農→『赤毛』(1969) 大谷直子→『肉弾』(1968) 本田博太郎→『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』(1979) 真田広之→『EAST MEATS WEST』(1995)
マンガ、G=ヒコロウ『不死身探偵オルロック 完全版』(エンターブレイン)。 以前、ブロスコミックスとして刊行されたものの完全版。てゆーか、2巻が出るほど連載が続かなかったので、もう一回まとめて出しなおしました、という事情なので、何かのトラブルで全編収録できなかったのを完全版として出したということではない。たまにこういうことあるよね。前の単行本買ってる人間にとっては二度買いしなきゃならないから困るけど。 だからまあ、マイナーな作家さんだというか、売れてないといえば売れてない人なのだが、単行本を出してもらえたという点ではカルトな人気を誇っているのである。しかしカルトであるということはカルトになるだけの理由もあるので、まず驚くのはその個性的な“濃い”絵柄だろう。 マンガ家としての画力はすごくある。基本的にアニメチックで売れセンの絵柄も描ける人なのに、どうやらそれでは飽き足らないようで、やたらそれを“崩し”まくる。ブラックなギャグを矢継ぎ早に繰り出すとき、キャラクターの目は血走り口は裂け牙は生える。ひとコマにぶちこまれた情報は、濃過ぎてしばしば話の流れを停滞させるが、そんなことは気にもしていない。ともかく「描きたいことを描く!」というエネルギーに満ち満ちている。 例えば13話でリカがオルロックをぶち殺す(ゾンビだから死なないが)カットでは、撃った瞬間の「ズガゥーン!」という擬音、そして「ポピーン」と飛び出す薬莢、弾は正確にオルロックの心臓を貫いて、その弾の刺さった心臓が飛び出す様子までを全て描き(よく見るとリカは銃声が聞こえないように左耳に指を突っ込んでいる)、更に背景にはアシスタントのアンデッタと人斬り108号が驚いている遠景まで描きこんでおり、そこにリカの「ハートブレイクショット!!!」という絶叫とオルロックの「オモイデポロポロ!!?」という悲鳴がかぶるのである。立ったひとコマにこれだけ時間と空間を圧縮しているのは半端ではない。もちろん全てのコマがここまで濃いわけではなくて、ところどころに気の抜けたようなコマも点在しているのだが、これがギャグに緩急を作り出している。多少読みにくさはあってもギャグが滑っていないのは、この緩急の間のおかげだ。 この詰め込みギャグやコマの構成の仕方は誰かに似ているなあと思っていたが、鴨川つばめの『マカロニほうれん荘』そっくりなのだということにようやく気がついた(前読んだときには気がつかなかったような気がする)。ひとコマの中にギャグのボケとツッコミを同時にぶち込み、そのギャグを更にエスカレートさせて状況を破壊しまくり、怒涛のようなテンポアップを図っていくが、それが突然風船の中の空気が抜けたようにしぼんでいき収束する「間」の取り方、これが「マカロニ」絶頂時にそっくりなのである。作品を見る限り、作者は相当なマンガ好きだろうが、鴨川つばめがそのベースの一つになっているだろうことはまず間違いないと思う。 連載当初はあった「探偵」の設定も、話数を重ねるうちになし崩しにどうでもよくなっていくのもギャグマンガの宿命のようにもので、主人公のオルロックはどんどん影が薄くなり、中華探偵姉弟、ギャルキング、野沢ウォーケン(このネーミングには笑った、確かに野沢那智、しょっちゅうクリストファー・ウォーケンに声当ててるわ)、思い出刑事といったゲストキャラに存在感を奪われていく。それが少しもマンガの質を落とすことになっていないのが素晴らしいのだが、反面、今時の“薄い読者”に、このマンガの面白さがどれだけ伝わるのだろうか、と不安になってしまうのも事実だ。マニアックだから伝わらないのである。ギャグセンスというものは「シュールorナンセンス=わけが分からない=既成の概念が破壊される=面白い」という図式が予め素養として脳内にインプットされていなければ育たないものだが、今時の若い人にはこのセンスに欠けている人が多い。「わけが分からない=つまらない」と単純に判断されてしまうのである。だから、彼らが笑うギャグはたいてい「分けの分かった」オヤジギャグに限定されてしまうことになる。 なんですかねー、皆さんの身の回りに一人や二人はいると思うけれどもねー、オヤジギャグをかましまくって自分はギャグの天才だなどと嘯いて悦に入っているやつって、最近多くないスかあ? あいつらが鬱陶しいのはねー、ギャグのレベルが低いというよりか、「わけが分かっている」ギャグを平然と口に出来る厚顔無恥のせいなんだよねー。 それはさておき、『オルロック』のわけの分からなさというのはどんなものか。例えば19話では、いきなり意味もなく「伊東四朗の顔」がはめ込まれたマクラが現れ、「伊藤ピローです。ニン!」と歯をむいて消える。「伊東四朗」と「伊藤ピロー」だけならただの駄洒落だが、こいつがなぜ何のために出てきたのかが分からない。更に“グルメな枕”「山岡ピロー」が現れ、目が寿司になる。何がどうして寿司。もう全然わけが分からないが、とどめに「岸部ピロー」が現れて「かなんなー」とか言いながらフーリガンにぶっ殺されるのだ。文章で説明してもわけが分からないだろうが、マンガで見てもやっぱりわけが分からないのである。もはやこのマンガがどこに行こうとしているのか、予測のしようがない。つか連載終わっちゃってるけど、終わるよなあ(笑)。 もともとお気に入りに入れてる日記さんの紹介で知ったマンガなんだけれど、こんなマイナーなマンガを楽しんでる人間なんて、探さなきゃ見つかるものでもないだろうと思っていたが、しげも結構気に入ってるらしくて、なんかやたら読み返しているのである。更には鴉丸嬢も大好きで、しげと「いいよねー」とか言い合ってるらしい。マンガファンが百人いたら、G−ヒコロウを読んでる人って、中に一人二人いればいいほうだと思うが、何ですぐ身近にいたりするかなー。 あと、併録の『プロフェッサー・シャーボ』と『オダキュー』も楽しいが、一番ウケたのは、カバー裏表紙の横山光輝『マーズ』ポーズで立つオルロック。なぜかワキから「イデ」が発動しているのが笑えるのである。まあどこからでも発動しそうだけどな、イデ。
2004年05月02日(日) 東京の夜は更けて(3)/『スター・ウォーズ』展とシティボーイズ 2003年05月02日(金) 東京の空の下�� 2002年05月02日(木) 私は病院に行くかしら/『COMAGOMA コマゴマ』2巻(森下裕美)ほか 2001年05月02日(水) 行って来ます。/『20世紀少年』5巻(浦沢直樹)ほか
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記
☆劇団メンバー日記リンク☆
藤原敬之(ふじわら・けいし)
|