無責任賛歌
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| 2005年05月31日(火) |
出た出た糖が♪/映画『コーラス』 |
先月の健康診断の結果が届く。 通院もここんとこずっとサボってるし、薬も飲むのやめちゃってるから、あまりよくはなかろうなと思ってはいたが、やっぱり尿糖が+1。肝脂肪も相変わらずたっぷりこんと付いている。 普通なら再度の精密検査が促されるところで、実際診断書には病院への紹介状も付いてはいたのだ。けれども、病気がひどい時には尿糖が+3、血糖値も主治医から「いつ死んだっておかしくないですよ」とまで脅されていた時期に比べれば、遥かに病状は“安定”しているように思えるのである。「なんだあ、プラス1じゃん」ってなもんで。ホントはそう言って放っといとくのがよくないってこと、分かっちゃいるのだが。 それより気になるのは、もう四年連続で身長が縮み始めていることで、一年に1ミリから2ミリ、確実に縮んでいっているのだ。このままのペースで行くならば、850年もすれば私の身長はなくなってしまう計算になるが大丈夫だろうか。
二子山親方(元大関貴ノ花)が、昨30日、口腔底がんのため死去。享年55。 早過ぎる死、とは誰もが口にするだろうが、それを一番痛感しているのは兄の花田勝治氏(先代二子山親方・元横綱初代若乃花)だろう。 私はこの十年ほどの花田家のゴタゴタについては全く興味がない。ワカノハナ・タカノハナと言われて連想するのは平成のボケ兄弟の方ではなく、親子ほども歳の離れた勝治・満兄弟の愛憎渦巻く相撲人生の方である。兄の鬼のようなシゴキに耐え、大関昇進を果たすまでの経緯は、小学館の学習雑誌に絵物語で紹介されるほど、我々の世代にはポピュラーな「偉人伝」の一つであった。 しかし、貴ノ花が結局は横綱にはなれなかったことが、この兄弟の「物語」を、「未消化」のままで残すことになった。相撲ファンの中には、その物語の結末を「息子たち」に託したがっていた人も多かったようであるが、私に言わせるなら、貴ノ花と貴乃花は全くの「ベツモノ」である。親子の世代の違いとか、時代の違いとか、その程度の言葉では言い表せないくらいに「相撲」の概念自体が変わってしまった、そんな印象なのだ。陳腐な表現で申し訳がないが、「相撲からロマンが消えてしまった」のである。 たとえ前時代的で封建的であろうとも、先代二子山親方の「シゴキ」と、それに耐えた貴ノ花の「我慢」や「辛抱」が、そのロマンを支えていた重要な要素であったことは否めない。別にシゴキが正しいとか言いたいわけではないが、「心・技・体」の一致が伝統として関取に求められる角界において、「辛抱」の精神は、実に保守的で、伝統に相応しいものであったのだ。先代の花田兄弟の「人間、辛抱だ」のCMは流行語にまでなったが、この台詞を堂々と言える相撲取りが、今、角界にいると言えるだろうか。相撲は死んだ、と感じているのはそのせいなのである。
ダイヤモンドシティで、映画『コーラス』。 不良、落ちこぼれだらけの学校を、一人の教師が音楽を通して更正させていく――という、どこかで聞いたことがあるようなオハナシであるが、これが日本映画なら主役の先生は若い熱血先生、なるところだろうが、そこは何と言ってもフランス映画である。主役の教師にハゲデブの冴えない中年を持ってくるという意外性。これがリアルかつユーモラスで実にいいセンスである。 子供たちに音楽を教え始めるのも、自分が作曲家崩れの落ちこぼれなもんだから、「こいつらを利用して、俺の作った曲を歌わせてやろう!」という自分の欲望に忠実なだけで、教育の理念がどうのとか、そんなことはこれっぽっちも考えていない俗物なのである。意外や意外、この「音楽教育」が功を奏して、生徒を更正させることができるのだが、その手柄をやはり俗物な校長に奪われて、この先生、おおいにムカつくのである。どっちもどっちだわな(笑)。 生徒たちも、一応、コーラス自体が楽しくなって先生の言うこと聞くようになるのだが、決して先生をソンケイするようにならないのがよい。こういう映画を見ると、スーパーマンモドキのキャラしか出て来ないハリウッド映画よりも、フランス映画の方がよっぽど日本人の感性にしっくり来ると思うんだけど、どうしてみんなアメリカ〜ンなウス味にばかり群れ集うかね。
Yahooの掲示板で、『Zガンダム』の感想など見る。 案の定、賛否両論で、賛の方はともかく、否の方はかなりヒステリックである。たいていは「なんだあのダイジェスト版は」というものだが、初見の感想でも書いた通り、あれは通常言われるダイジェスト版とはまるで違うのだ。と言うより、「ダイジェスト版だ」と思ってしまった瞬間に、あの映画の本質も面白さも見失う仕掛けになっている。 例えば殆どの批判者は、「あれでは世界設定も人間関係も分からないではないか」という、ムカシのファースト三部作の時にも散々口汚く言われていたことを書きなぐっている。しかし、私が不思議でならないのは、『Z』を見たことがない客に対してもあれだけ「分かりやすい」構成と演出がなされているというのに、どうして「テレビシリーズを見ていないと分からない」と断言する連中がやたらいるのかなあ、ということなのである(実際、初見でも面白かったという意見も多いというのに)。テレビシリーズを見ているファンは、どうしてもカットされている部分を知っているものだから、脳内でその部分を補って、「この描写がないと意味が繋がらないではないか」と考えてしまうのだろうが、逆にカットされた部分を思い出してしまうと、新作部分との整合性が崩れてしまうことになる。だからあれは「ディレクターズカット版」であって、あれ以外の描写は存在してないの。 例えばレコア・ロンドとカイ・シデンの出会いだってカットされているのだけれども、それがテレビシリーズの通りであったとは限らない。というか、あの描写なら、「レコアが捕らえられた牢獄にカイもいた」と解釈して何の問題も生じない(カイが誰だか分からない、という人には唐突に見えるだろうが、だから「ファースト」のストーリーだけは知っておく必要があるのだ。「続編」なのだから、『Z』から見ようってのはさすがに無理である)。また、幽閉されて再び戦うことを逡巡していたアムロが、次のシーンではもうカツと行動を共にしているのは、小気味よくすらある。あの展開の早さゆえに、「アムロの迷いや愚痴はただのポーズで、実はティターンズに反旗を翻す機会を狙っていた」という解釈が成り立つ。あれならアムロはヒネた中年にならずにすむわ(笑)。「新訳」とはそういうことなので、同じ絵とセリフを使いながら、テレビシリーズとはキャラクターの設定も意味も全く別物になっているのである。だからテレビのことは忘れなさいって。 そもそも、そのように怒る人たちは、何をどこまで理解できれば気がすむのであろうか。もともとの『ガンダム』シリーズを全て理解しており、その上で『Z』は説明不足だ、とでも言いたいのであろうか。だとしたらその人はかなり傲慢な人間である。これも有名な話であるが、テレビシリーズでは、「ミノフスキー粒子」の説明すらなされたことはないのである。オタクはすぐにガイドに頼るから、「ミノフスキー粒子が分からない」とヒトコトでも言えば、鼻息吹かしてウンチクを垂れまくるが、そもそも『ガンダム』シリーズの「物語」を楽しむのに、ミノフスキー粒子を理解していることが絶対必要条件であると言えるだろうかね? 『Z』に関して言えば、冒頭のナレーションで示されている「ティターンズとエゥーゴの対立」が理解できていればそれで充分で、キャラクターは全てそのどちらかの陣営に所属するように「分かりやすく」配置されている。シロッコの登場シーンを見て、こいつが「ティターンズ側だ」と気づかない者がいるだろうか? いたらそいつは小学校低学年以下の理解力しか持っていないと判断されても仕方あるまい。 笑っちゃうことに、「映画になってない」という批判をしている人もいたが、これくらい「映画を知らない」発言もない。「映画」の概念なんてそんなに簡単に規定できるわけもないし、富野監督は富野監督自身の映画理論に則ってあの「映画」を作っている.それが自分の映画観と反しているからといって、「映画になってない」と断言することがいかに傲慢な行為か。「映画じゃない」というセリフは、口にした途端に映画ファンの仲間うちから「馬鹿」と断定されてツマハジキにあう運命にあうことを、ちょっとでも映画関係の本を読んだことがあれば感得できることなのであるが、何百本と映画を見続けていてもそのことに気づかない半可通も巷には結構いるのである。こういうやつは決まって自前の「映画論」とやらを得々と語り始めると止まらないので、鬱陶しくて仕方がない。こういうのの意見は一切無視してよいのだ。 「全編新作画でなぜ作らなかったか」という批判については、気持ちは分かるが、そもそも「旧作の作画を使って、新しい物語・映画が作れるか」というのがあの映画のコンセプトなのだから、お門違いの批判だとしか言いようがない。だからあれは「新訳」であって「新作」じゃないんだってば。「あこぎな商売しやがって」という類の批判にもならない下らない批判についてはもう、何をか言わんやである。なんかもう、常識的なことを言わなきゃならないのは気が引けるんだけどさ、あの映画に対する「批判」をしたいのなら、まさにその「新訳」された箇所について、「こういう編集の仕方をした方が面白いぞ」という具体例を出せなきゃ話にならないのよ。それができてる批評がただのひとつもないというのはどういうわけなんだろうかねえ。
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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