無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年09月07日(水) 無責任賛歌事始/『エマ』6巻(森薫)

 台風、午前二時ごろまで吹き荒れる。
 これだけ長い間九州に居座ったってのも、生まれてこの方、経験したことがないが、なんでもいつもは台風を東へ押し流す上空の偏西風が、今回はピタッと止んでいて、それでゆったりゆったりと進んでたってことのようだ。
おかげで、ずっとマンションの部屋に閉じ込められた格好になってしまったが、こうなると落ちつかないのがしげである。そもそも食料の買い置きをしていなかったので(しとけよと言ったのにまたしげがサボったのである)、食うものがない。それで、夜中にいきなり「買い物に行く」と言い出すのだ。外はもう、ビュンビュン風が吹いているし、看板の一つや二つは飛んでそうな気配である。とても外に出せる状況ではないのだが、放っとくとしげは嵐の中に喜んで飛び出していきかねないのである。なんでそんなことをしたがるのか理解の範疇外なのだが、『八月の狂詩曲』の婆ちゃんのように何か止むに止まれぬものに駆り立てられてしまうのだろう。要するにやっぱりイカレているのである。
 だもんで、しげが起きている間中、こっちもずっとしげを見張っているしかなかった。午前三時を過ぎてようやく寝てくれたが、外を覗くと、さっきまでの雨風がウソのようにピタッと止んでいる。これなら仮にしげが置きだして買い物に出かけても大丈夫かと、ようやく寝た。でも結局、今朝は二時間しか寝ていないのである。こんなことがしょっちゅうあったら、体力持たんぞ。もう今年は台風来んでくれ。


 またもやマンガの実写映画化であるが、今度は一色まことの『花田少年史』だって。
 うーん、あまり意外性がないと言うか、ごく普通に実写になりそうと言うか、ということは原作って、絵柄の面白さはあるけれど、アイデアやストーリーは漫画特有のものじゃなかったってことだな。人気のあったマンガだとは思うけれど、何かキャッチーなものに欠ける気がする。もっともそれは「オタク的には」ということで、世間一般へのアピール度は高いのかもしれない。
 主人公の花田一路は当然子役で、須賀健太君と言うそうだ。何か聞いたことある名前だなあと思ったら、『ゴジラ FINAL WARS』で泉谷しげるの孫を演じてたあの子だわ。一路にしてはちょっと線が弱くないかなあ……って、子役の品定めまでしなくてもいい気はするが。
 でも、母ちゃんが篠原涼子で、父ちゃんが西村雅彦って聞くと、どうにもマンガのイメージと違いすぎていて、ああ、やっぱりスタッフは「原作がマンガだ」ということを気にせず映画化するんだなあと思って、ちょっと寂しくなった。一昔前だったらああいうバイタリティー溢れる日本のお母ちゃんは、藤田弓子とか京塚昌子とか市原悦子とか清川虹子とか丹下キヨ子が演じてたようなキャラである。それを篠原涼子とはねえ。それともデ・ニーロばりに太らすのか。西村雅彦も全然キャラが弱すぎるけれども、スタッフは本気でこの映画をヒットさせようって考えてるのかどうか、よく分からないキャスティングである。
 ストーリーは、「オバケの見える能力を持ってしまった一路の前に、おまえの父ちゃんは人殺しで、自分が実の父だと言うオバケの沢井(北村一輝)が現れ、真実を求めて一路は冒険に出る」というものになるらしい。そんなエピソード、原作にあったっけ? とどうにも思い出せないのだが、これがオリジナル・ストーリーだとしたら、本当に原作の設定だけを借りた、「別物」として、割り切って見るしかない、と覚悟するしかなさそうである。
 製作サイドは「和製ハリー・ポッターを目指す」と息巻いてるみたいだけど、それ、作品が全然違うでしょ(苦笑)。


 何だか最近、映画の興行収入を気にすることが多くなっているけれども、これってやっぱり昨年あたりから「オタク仕様」な映画が増えてきたせいかな。それが必ずしもムーブメントとして定着している印象がないのは、残念なんだけれども。
 先週の一位はこれはもう、予想通りの『NANA』の快進撃なのだけれども、初日・2日目の成績だけで動員約39万6000人、興収5億3600万円と、『世界の中心で、愛をさけぶ』並の好スタートだそうな。『セカチュー』がカップル中心に幅広い層に受けていたのに比べて、『NANA』は殆どの客が女子中高生だから、狭いターゲットをよくぞ動員したものだと感心する。しかも彼女たちの殆どがオタクじゃないのだ! 私のような中年男は、子供映画を見に行くよりも足を運びにくい。劇場に一歩足を踏み入れた途端に女子中高生の冷たい視線に晒されるかと思うと……。私がM男くんだったらそれもまた甘美な味わいなのかもしれないが、やっぱそっちの特性は私にはないようだ(笑)。これなら三ヶ月から半年くらいは上映しそうだから、人けのないレイトショーで見に行くことにしよう。
さて、不安と期待の『仮面ライダーヒビキと7人の戦鬼』であるが、『室井慎次』に継いで3位の登場は素晴らしすぎる成績である。動員が23万8000人、興収2億7700万円で、昨年の『剣(ブレイド)』よりも二割増しの好スタート。これで二週目以降も客足が落ちなければ、最終的に12億円くらいのヒットにはなりそうだ。『ハガレン』と違って、オタクや腐女子以外にも親子連れの客を見込めるから、達成不可能な数字ではないと思う。それにそういうフツーの家族は、ネットで『響鬼』が叩かれてる状況なんか知らないだろうしな(笑)。
 それにしても『響鬼劇場版』公式サイトのコメント欄はまた大変なことになっている。「30話の乱」と言ってもいいんじゃないかってくらいに荒れまくってるが、「30話にあまりに腹が立ったから、映画は見ません」とか「もう子供に『響鬼』は見せません」とか「DVDは29話までしか買いません」とか、そんなことを表明してどうするの?という常軌を逸したコメントが続出している。こんな連中の肩を持とうってんだから(持つつもりはないんだろうが、結果的に賛同を示しているのと同じことになっちゃってるよう)、グータロウ君もカトウ君も全くわからんちんなことだが、まあ、「惚れたが因果」だから仕方ない。でも、オタクにはあまり熱くなったりムキになったりしないで、一歩引いてモノを見る視点も必要だよ、ホント。


 ここんところ、また少しずつ「エンピツ」のアクセスランキングが上がってきていて、50位前後に位置している。毎日、300人近くの人が覗きにいらっしゃっている勘定だ。もっとも、最近は「積木くずし」関連の検索で来られる人が何十人もいらっしゃるから、実質しょっちゅう来られている方は、100人くらいのものであろう。「友達100人できちゃった」ってとこだろうか(笑)。でもそろそろパソコンの向こうのお客さんの顔が「見えなく」なってきてはいるのだ。
 五年前の日記を読み返したりしていると、「今日は20人もお客さんがいらっしゃった」とか書いている。私にイメージできるのはこの程度の人数で、まあそれくらいなら、こんなシロウトが好き勝手書いてるだけのサイトを覗いてやろうなんて奇特な人もあろうなと納得できなくもないのである。
 時々、更新が遅れたときに、見知らぬ方から激励のメールが届いたりして、勇気付けられたりすることがある。私自身は書いてる内容に対してどんな批判や反論をされても構わないと思っているのだが、思いもよらず、賛同を示されるとかえって恐縮してしまう。
 いったい私の書く文章の内容にどれだけ説得力があるのだろうか? 自分ではできるだけ客観的かつ冷静に努めているつもりではあるのだが、世間サマを見渡してみれば、「私は冷静です」と言ってる人間が本当に冷静だったタメシがない。鏡に映さない限り、自分自身の姿が一番見えない、というのはどんな知恵者と言われる人であってもその通りである。いや、「知恵者」なんてものは存在しない。当たり前の話であるが、人間はラプラスの悪魔にはなれないのだ。全ての人間は等しく愚か者である。この事実を認識できずに「全てを見通し真実を語れる」などと公言すれば、それはただの傲慢でしかない。
 しかし、たとえいかに自分の知識が浅薄で、判断力も洞察力もなかろうと、ない知恵を絞り、その時々でモノを考え行動していくのも自分しかありえない。人は「愚かでしかありえないから」、自分が言ったこと、行ったことで誰かを傷つけ、怒らせ、泣かせてしまうことから逃げられはしないのだ。だからまあ、「無責任賛歌」という日記タイトルの由来ということになるのであるが、これは「責任放棄して好き勝手やる」という意味ではなく、人間が等しく愚かであるならば、そもそも「責任を取る」なんてことはできない、という現実を冷徹に見つめよう、ということである。
 ほんの些細な言葉が、人を傷つけ、死に至らしめることすら世の中にはある。しかし、その責任を誰に帰属させられるだろうか。ある総理の「黙殺する」の一言が何十万の人間を殺すきっかけになったことがあった。しかし、それを「総理の責任」と追及することができるか。そのときの総理が誰であっても、その時点ではそう言わざるを得なかったのではないか。責任の取れない一言である。しかしもしその総理が「責任」を感じていたとしたら、世間の轟々たる非難をただ一身に受け止めひたすら耐えるしかなかったであろう。
 人間は等しく、自らの言動については「無責任」を「覚悟」するしかないのである。しかし世間は、責任の所在を「自分以外の誰かかどこか」に求めることに汲々としている。自分には責任感があると堂々と標榜している。そのほうが楽だからだ。自らの愚かさに目をつぶっていられるからだ。他人を見下して悦に入っていられるからだ。そんなウソツキの卑劣漢は、そこにも、あそこにもいる。
 だから、私の「自らの愚かさを自覚し、無責任を覚悟する」などという意見は少数意見でしかないと思う。だから、この日記の賛同者が百人も二百人もいる、ということがどうにも実感できない。自分をもっと見つめたい、なんて考えている人間に出会うことなど、現実には極めて稀だからだ。ネットの向こうにはそれだけの覚悟をしている人たちがそんなにたくさんいるということなのだろうか? 
 もちろん常連の方がみな「覚悟している人たち」であると断定することはできない。私は日ごろから日記の中で、「覚悟のないやつ」は徹底的に揶揄し罵倒しこき下ろしている。生半可な気持ちで読んでいたら、そいつらは、「これはオレのことを馬鹿にしているのか」と確実に不快になることだろう。私はそんなやつらを燻し出すためにあえてフレーミングを行っている。だからいったんは「楽しく読ませていただいています」というメールをくれた人でも、次第にキツい口調のメールをくれるようになり、疎遠になってしまうことはよくある。
 だからまあ、お客さんはどんどん減って行って仕方がないと、そのことも「覚悟」しているのに、現実にはこの五年間で、少しずつ、少しずつ、増えて行っている。いったいどういう気持ちで私の文章を読んでいるのだろう? 
 私は特にオタクや腐女子を罵倒している。もちろん、彼ら彼女らが「自分を見ようとしない」人種の最たるものだからだ。そして私が彼らを非難できるのも、紛れもなく私自身の中に、私が非難する「オタクのダークサイド」が確実に存在しているからである。
 「批判」が単純に「他人を馬鹿にし、見下す」行為だと勘違いしている人間は多い。しかし、ある言動が「愚か」であるかどうかを判断するためには、「そういう愚かさ」が自分の中にも存在していないとできることではないのだ。人が誰かを非難するのは、すべからくそこに「自分自身」を見ているのである。まあ、親が子の失敗を叱る時に、「同じ失敗を自分も過去にやらかしている」のと同じ理屈だ。
 ハッキリ言っちゃえば、私は自分自身も含めて、全人類が大馬鹿野郎のコンコンチキであると「平等かつ公平に」決め付けているので、私の罵倒から逃れられる人間はいないのである。だからまあ、私の文章を読んで、少しも不快にもならず怒りもせず、という人が常連さんの中にいらっしゃるとすれば、それはもう天使のような心の広いお方か、超鈍感か、はたまた罵倒されて喜ぶMさんのいずれかではないかとしか私には思えないのだが、あなたは、どのタイプでいらっしゃいますか?


 マンガ、森薫『エマ』6巻(エンターブレイン)。
 第一巻のころは、ほのぼのメイドさんものかと思っていたのが、何かもうものすごい大河恋愛大ロマンになりそうな気配の第六巻だけれども、アニメはたった12話ではとてもそこまでは行かなかったようだ(DVDで買ってるから、まだ最終回までは見てないのである)。しかし、原作がまたある程度進んだら、再アニメ化してほしいね。もう話はどんどん凄いことになってるから。
 エレノアとの婚約を解消し、エマとの結婚を決意するウィリアム。しかし、エレノアの父・キャンベル子爵は、ウィリアムの父・リチャードからの手紙を読んで、「陰謀」を巡らし始める。エマは、ウィリアムの名前を騙った手紙におびき寄せられ、拉致されてアメリカ行きの船に乗せられようとする……。
 何かもうここまで来ると、少女マンガの三大ロマンは『ベルサイユのバラ』『キャンディ・キャンディ』、そして『エマ』だと言いたくなるくらいの怒涛の展開。
 前巻から登場のキャンベル子爵、貴族主義の塊のような人物で、本当はウイリアムのジョーンズ家のことも「成り上がり者」と嫌悪しているくせに、なぜか娘との結婚話は強硬に実現させようとしている。そのハラがまだいっこうに見えないので、いささか不気味である。こういう紳士然とした悪役、『三銃士』のリシュリュー卿かドラキュラ伯爵かってもので、私の好みにドンピシャなのだ。もう、『エマ』が実写化されるんだったら、ぜひクリストファー・リーに演じてもらいたいってくらいなもので(キャンベル子爵はそこまでトシヨリじゃないけど)。こいつは自分が貴族だから、何をやっても許されると思っている。裏でエマを誘拐させといて、サロンで「近頃何か変わったことでも?」と問われて、「ないですね。退屈なものです」と無表情で言い切るこの冷たさ! こいつ、本当に「退屈」してるんだよ! エマのことなんて、歯牙にもかけてやしないのだ。ああ、やなやつやなやつやなやつ。
 権謀術数はお手のモノってな子爵にかかっては、ウィリアム坊ちゃんなどはとても立ち打ちできそうにないのだが、ラストのリチャード父ちゃんとの怒涛のような(この形容詞がどうしても多くなっちゃうな)応酬に、ちょっと「イケるかな?」と思い直した。
 ヒーローは常に逆境に立ち向かう。そして、その逆境に打ち勝つことができるのなら、ウィリアムとエマは絶対に幸せにならなければならない。ヒーローとヒロインもそうなろうとしているし、読者もそれを望んでいるし、当然作者もハッピーエンドを目指して、そこに至るまではこれでもかこれでもかという困苦と愛憎の物語を展開させてくれることだろう。
 その三者がみな幸せになるのが「ロマン」というものの正体なのだ。二人は決してロミオとジュリエットにはならないのである。

2004年09月07日(火) 入院顛末3・徒労
2003年09月07日(日) 「時代劇の復興」というのはこういうのを指すのだ/映画『座頭市』ほか
2001年09月07日(金) 夢の終わり/映画『王は踊る』ほか
2000年09月07日(木) 涙のリクエスト/『冷たい密室と博士たち』(森博嗣)ほか



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