無責任賛歌
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2005年09月23日(金) |
次回公演、始動・・・かな?/DVD『トニー滝谷』 |
三連休の第一日。 まとまって台本を書けるのが今日明日くらいしかないので、ひたすらパソコンに向かう。いつもなら、現実に芝居を打てるまではタイトルも中身も伏せておくのだが、今回はいささか勝手が違う。何たってp.p.p.劇団メンバーが殆ど出演しないという、前代未聞な事態に陥っているのだ。 全くみんながみんな「裏方しかしたくない」なんて劇団があるものか、というよりはよくここまでこんな劇団が持ってたもんだと思うのだが、やる気のなさをいちいちあげつらったって仕方がないのである。「ショー・マスト・ゴー・オン」であって、一度立てた企画をそんなに簡単に流すわけにはいかない。だいたい製作のしげ自体、やる気があるのかないのか分からず、いつものごとく頼りない限りであるのは、キャスト募集を本気でやってる気配がないからだ。知り合いに声かける程度で人がそんなに集まってたまるか。 しようがないので、執筆中の脚本の一端はここでご紹介することにしたい。ご興味のある方は男女を問わず、私なり、劇団ホームページなりにご連絡を入れていただけると嬉しいのである。
タイトルは『デモクラシーの拾弐人』(仮題)。 レジナルド・ローズの戯曲『十二人の怒れる男』はご存知の方も多いだろうが、日本では馴染みのない「陪審員劇」の傑作である。これを日本に持ってきたのが筒井康隆の『十二人の浮かれる男』や三谷幸喜の『十二人の優しい日本人』であり、つまり和風「陪審員もの」は一つのジャンルとして成り立っていると言っていい。 これを大正デモクラシーの時代を舞台として、博多・中洲にある明治時代の建造物を残した「赤煉瓦文学館」をそのまま劇場として利用して芝居を打とう、という発想をしげが思いついたのが企画の始まりなのである。 舞台美術に関しては何しろ「本物」である。これくらい臨場感のある舞台はない。あとは台本の出来とキャスト次第、ということなのだが、いかんせん、p.p.p.の連中が殆どびびっちゃったおかげで、未だにキャストが全員決まらない。このままでは私まで出演しなければならない事態に陥りそうな気配なのだ。 もちろん台本ではこの基本設定以外にも様々な「仕掛け」を施している。現段階ではさすがにそこまで公開するわけにはいかないのだが、上手く仕上がればこれはもう間違いなく面白くなると断言できる。しかし、役者が集まらなければ全ては机上の空論に過ぎなくなるのだ。 福岡近辺にお住まいの方で、芝居に興味があって、土・日に比較的自由に動けて、来年三月ごろに暇を持て余している方なら、男女・年齢・経験を問わず誰でも結構です。一緒に舞台を作りましょう。 脚本は鋭意執筆中です(笑)。
台本ばかり根を詰めて書いていると、やはり息切れがしてくるので、時々ネットで先日の舞台、『イッセー尾形とフツーの人々』の感想を探してみる。 新宮版は評判が悪いものが多い。「所詮はシロウトの演技」との感想が目に付く。 それに反して、小倉版は意外なくらいに評判がよい。「シロウトとは思えない」なんて望外な好評すらあるほどである。 同じようにシロウト参加のワークショップであるのに、この差はいったい何なのだろうか? 一つヒントになるのは、小倉ワークショップに、新宮の人たちが参加して、ちょっとしたスケッチを演じて見せた時のことが参考になると思う。四日目、公演直前のことであるが、既に舞台装置が設置されて、最後のツメの演技が披露されていたときのことである。新宮での経験がきっかけになってお芝居に「目覚めた」のだろう、中年のお二人が小倉でも、と舞台に上がって「会話」を始めたのだが、これが全然面白くなかったのである。 それまで、私たちは森田さんから「会話をするな」と厳命されていた。「会話をすれば途端に芝居が安っぽくなる」と。「日常、親子が、夫婦が相手の言葉をちゃんと聞いてるかい?」そう仰って、「受け答えをするな、関係ないことを喋れ」と言われ続けていたのである。おかげで、「問題のあるカップル」は、女が「お金返して」と言い続けるのに対して、男の方は「今日さ、婆ちゃんちに行ったんだけどさ」と無関係な話を延々とし続けることになっていたのである。ここで「火曜日には返すから」なんて言っちゃ、そこには「何もなくなる」と森田さんは仰るのだ。「関係ない話をし続けるから、お客さんは二人の間に『何か』を感じるんだよ、想像するんだよ」と仰っていたのである。 新宮の二人の会話は、まさに「何にもない」会話だった。小倉で指示していたのとは違って、新宮では「会話」を許可していたのだろうか? 森田さんは、恐らくはワークショップを開いた街ごとに演出を変えている。新宮では「会話を行っても演劇が成り立つ」と判断したのかもしれない。となれば、小倉では「会話を成立させられない」と考えたということなのだろうか。小倉近辺の人間は常に心に隠し事やわだかまりを持ち、他人の言葉を聞かず、自己主張ばかりをし、その癖自分の気持ちを察してほしいと甘えているヤツラばかりだと考えたということなのだろうか。 仮にそうだとしても、出来上がった芝居は、小倉の方が断然面白かったと私は思う。飛び入りの新宮のお二人さんは、「小倉の芝居には合わないから」ということで、結局出演はできなかった。やり取りの間はよかったけれども、会話がどう発展して行くのか、「その先を見たい」という気にはさせられなかった。小倉では、芝居の上手な人であっても会話は禁止されていた。許されていたのは「相手に切り込む」ことだけである。シロウトの芝居が少しでも見るに耐えるものになっていたとすれば、森田さんが新宮と小倉とでは演出を変えたことに理由があるように思う。
そんなことを考えていたら、過去のワークショップ関係の日記も説明不足で言葉足らずな部分が多いように感じられて、いろいろ付け足すことになった。 アップした直後に読まれた方は、何行かずつではあるけれども、加筆した部分がありますのでオヒマがあればご参照ください
しげがマトモな食事を作らないので、だんだん気分が落ち込んでくる。スーパーで「エビマヨネーズの素」があったので、「これを買おうか?」と聞いたら、しげは「作ってくれると?」と目をきらきら輝かせて即答した。 私は別段、「家事は女がするもの」なんて考えちゃいないが、何か美味しい料理を食べようかと考えた時に、「私に作ってもらえるもの」と思い込むしげのその根性が嫌いだ。こいつには相手に「美味しいものを食べさせてあげたい」という心遣いが根っから欠けているのである。 私もせっかくの食材をインリン・オブ・ジョイトイのように無駄にしてほしくはないから、結局は「ああいいよ」とこたえることになるのだが、こういうことを引き受けていくと、うちの家事は全て私がしなければならなくなるのである。冗談じゃなくて、体調崩して仕事休むこともあるんだから、料理と洗濯と食事は必ず毎日してくれ。もう何十回その約束をしたか分からないが、約束した直後から、その約束は反古にされ続けているのである。 だから、身が持たないんだってば。
一日ゆっくり過ごして、映画を見たり本を読んだり。と言っても外出する余裕はないので映画はもっぱらケーブルテレビ。感想は全部書いてる余裕がないので簡単に。 CS日本映画専門チャンネルで映画『帝銀事件 死刑囚』。 平沢貞通役の信欣三は好きな役者さんで、どの映画でもあまりに自然な演技をされるものだから『砂の器』で言語学者を演じていた時には本職の人を連れてきたんじゃないかと思ったくらいである。この映画でも、裁判で「警察に自白を強要された」と証言するあたりが、淡々と悲壮感が感じられない喋り方をするものだから、かえって「裁判的」でリアルなんである。 続けて『社長道中記』『続社長道中記』。社長シリーズでも、こんな風に正続編になっているものは多いが、でもやっぱり筋立ての区別は付かないのである(笑)。これも見たことがあるのかないのか分からない。数年後にはやっぱり見たことがあるのかないのか分からなくなっているだろう。 『ドラえもん』、主題歌が変わるとか言ってたけど、まだ女子十二楽坊のままだった。 続けて『クレヨンしんちゃん』を流し見。もう感想書く余裕がない(笑)。
DVD『トニー滝谷』。 見に行きたくて行き損ねた映画は多いが、これはもう本当に劇場に見に行きたかった。昨日の日記では「トニー滝谷って名前はトニー谷から取ったんだろう」なんて書いたが、パンフレットによれば、原作者の村上春樹がハワイで見たTシャツに本当に「TONY TAKITANI」というロゴが書いてあったそうである。
あまり面白みのない無機質的なイラストを描く中年男のトニー滝谷が、若い女性に恋をして結婚する。ところが彼女はいい奥さんではあったが、買い物依存症で、連日のようにブランド物の衣服を買わなければ気がすまない性格だった。「少し買い物を控えないか」とトニーに言われた翌日、彼女は交通事故で死ぬ。 寂しさを紛らわそうと、トニーは一人の女性を秘書に雇い、彼女に「制服として妻の服を着てくれないか」と頼む。しかし彼女は、妻の遺した膨大な服を前に泣き崩れてしまう。 その後、トニーは父を失い、そして再び孤独になった。 これは、それだけの物語である。
この映画の魅力は、特典ディスクの方で市川準監督やトニー役のイッセー尾形さんが詳らかに語っているので、何かを付け加えるのは蛇足でしかないのだが、原作の現実の中に潜む歪んだ人間の心理が、市川監督の静謐な語りで、リアルとも非リアルとも断定しがたい奇妙な味を醸し出し、一種心理ホラーのような様相すら生み出していると思う。 「トニー滝谷の本名は、本当にトニー滝谷と言った」。 ナレーションがナレーションとしてのみ語られるのであれば、それはただ映像に付けられた「解説」でしかない。ところがそのナレーションはしばしば唐突に、登場人物たちの口を借りて語られる。演劇ではよく行われる手法であるが、映画でこれを行うと、それまでリアルであった映像が途端に一つの「象徴画」と化すのだ。 「象徴」とは即ち、映画の中だけだった物語が、我々観客の心の中に投げ出される瞬間である。我々はそれが「セリフ」ではないことを知っている。本当に人間は、脈絡もなく「ナレーションを語る」ことなどはないからだ。だからそのとき、その「セリフならざるセリフ」の意味が何なのかを考えざるをえない。そして、全ての言葉の陰に、人間が宿命的に持っている「孤独」があることに気づくのである。 人はみな、孤独から孤独に帰るだけだ。映画の中のイッセーさんは、本当に爽やかで幸せな表情と、暗く沈鬱な表情との間を揺らめき続けるが、その表情すらも一つの「象徴」として、我々の心に問い掛けを続けている。あなたは本当の孤独に耐えることができるのですか? と。 文学と映画の、一つの美しい結合がここにはある。
読んだ本、夏目房之介『おじさん入門』(イースト・プレス)。 このエッセイ集を読むまで全然知らなかったのだが、夏目房之介さんは昨年、離婚されていたのだった。三十年連れ添った相方との「熟年離婚」というやつだが、どんなに平穏に見える家庭であっても、そこには当人たちにとっては他人には計り知れない悩みや苦労があるわけで、それをそんな決まりきった陳腐な惹句で括られてしまうことを思うと、何とも悲しくて仕方がない。 離婚の理由についてはあまり詳しくは書かれていないのだが、それこそ詮索したところで仕方のないことだろう。そういうことは後世の「夏目房之介研究家」がやってくれることで、フツーの読者をそれを待つか、あるいは待たなくったっていいのである。。夏目さんは短く「僕の不実や互いのあつれき」と書くだけであるが、それで充分だろう。 タイトルの『おじさん入門』というのは、そんな出来事も含めて、「人生を知ろうよ」ってことなんだと思う。そのためには自分がどれだけものを知らなかったのかを知ろうとしなきゃならない。つか、自分に「分かってること」なんて殆どないってことに気が付かなきゃならないのだ。 夏目さんは、長年、奥さんが「料理が好き」なんだと思い込んでいた。それが、別れる少し前に、奥さんから「義務感だけで作っていた」と告白されることになる。けれど、奥さんはそのことに気付いても、ずっと料理を作り続けたのである。それがなぜかは奥さんにも夏目さんにも言葉では説明できない。それが「人生の機微」というやつだと夏目さんは言う。 人は確かに、人生(自分のも他人のも)に対して釈然としないものを感じることは多いし、納得できる理由を求めようとはする。けれど答えなんて得られるわけではないのだ。得られたと思えたとしても、客観的にはただの錯覚であることも多い。人と人とが、親子が、恋人同士が、友達同士が、仲間が、なぜお互いに付きあっていられるかは、常に「理屈を越えたところ」にその理由があるのである。逆にそこに理由を求めようとすれば、かえって間柄が崩壊してしまうこともある。「こいつのことなら俺が一番よく分かっている」、そんな風に「理解」してしまった時から、崩壊は始まると言っていいだろう。
本の感想からちょっと離れて。 私としげはよく離婚話をする。離婚を言い出すのはいつもしげだ。 「離婚しようか」 「いいよ、離婚届持っておいで」 「で、次の日結婚しよう」 「だったら書類のムダじゃんか」 多分、私もしげも、この時「離婚しよう」と言いあっている時は本気でそう思って口にしているのだ。別れたあと、二人がどんな気持ちになるか、それもリアルに想像して、それでも「別れた方がいいかもしれない」と考えてそう言う。 一緒にいても辛いばかりで、けれども別れたらどんなに寂しいか分からない。理屈の天秤でどちらがいいのか測れることではない。だからとりあえず私としげは一緒にいるのだろう。 先は見えないけれど、お楽しみである。 QUE SERA SERA。
マンガ、森永あい『僕と彼女の×××(ペケ3つ)』3巻(MagGARDEN)。 連続ムービードラマが10月から劇場公開だそうな。 『転校生(オレがあいつであいつがオレで)』ほか、数多く作られてきた、「男女入れ替わりもの」の中ではこのマンガが一番カゲキなギャグを展開してるんじゃないかと思うが(いや、直接的にやらしー描写はないけどね、なんか登場人物たちの心の揺れ具合が何ともね)、実写化しちゃうとギャグがギャグとして機能するかどうか、ちょっと心配。桃井さんの役は『妖怪大戦争』の川姫の高橋真唯。女っぽい男と男っぽい女の入れ替わり劇だから、大半は「女らしく」演じてりゃいいんだけど、キモは本当は乱暴者な地の性格を演じきれるかどうかにかかってるんで、果たしてフトモモ見せる程度の演技力で演じきれるものかどうか。 っつっても、福岡まで映画が来てくれないことには、見ることだってできないんだけれどもね。 マンガの方は今巻でついに入れ替わりの事実が千本木にバレて、菜々子(中身はあきら)の貞操が危機に合うというヤバイ展開。まあ、身体がオンナなら、心はオトコでも平気なのかという、なかなか難しい問題がここには提示されているわけであるが、心が女でも身体はオトコなやつを相手にしたくはないのがノーマルなオトコだとするなら、これはまあギリギリセーフなのかとも思えるのである。でも、仮に私の女房の身体の中に親友の男の心が入ったら、やっぱりナニはできないがなあ。どうしたってナカミがよがる様子を想像しちゃうし。 この手の入れ替わりモノは最後には元に戻るのがセオリーなんだけれども、このマンガばかりはそうならないような雰囲気もあるので、ハラハラして目が離せない。原作が完結しなけりゃ、映画の方だって元には戻らない理屈なんで、さあ果たしてどんなラストを迎えるのか、興味津々である。
二ノ宮知子『のだめカンターピレ』13巻(講談社)。 よしひとさんちで見せてもらってたのをようやく購入。パリ編は番外編みたいな扱いかと思っていたのだけれども、千秋ものだめもちゃんとパリに馴染んできていて、二人の仲もどうやら進展しそうな気配である。ラブコメだったのかこのマンガ(笑)。 二ノ宮さんが折り返しのソデ書きに「今回とっても好きなキャラがいます」と書いているが、さて誰だろうか。素直に考えると千秋が常任指揮者になることになったルー・マルレ・オケのコンサートマスターで、横暴・傲慢を絵に描いたようなトマ・シモン氏じゃないかと思えるのだが、多分、そんな素直なキャラじゃないんだろうな。 となると、千秋をワナにはめたとも言えるデプリースト音楽監督か、「会員なんか辞めてやる!」のロランのおばあちゃんか、「チェレスタは千秋が弾くってどう?」のテオあたりが候補かなとも思うが、私は十中八九、「留学生のニッサン・トヨタ(仮名)」くんだと思う(笑)。あ、これ、分かんない人のために一応書いとけば、マルレ・オケがどんなところか偵察するために千秋やった変装だからね。 ともかく、連続するトラブルのおかげで、逆に千秋とのだめの初共演が見られそうな気配である。次巻に期待。
2004年09月23日(木) クレーマーになんかなりたかないが。/『暗号名はBF』3巻 2003年09月23日(火) お盛んな大阪/映画『總篇 佐々木小次郎』/『Q.E.D. 証明終了』16巻(加藤元浩)/『魁!! クロマティ高校』7巻(野中英次)ほか 2002年09月23日(月) なんだかいろいろ/『一番湯のカナタ』1巻(椎名高志)/DVD『ハレのちグゥ デラックス』第2巻/舞台『天神薪能』ほか 2001年09月23日(日) 行間を読んでね/映画『ラッシュアワー2』&『ファイナルファンタジー』 2000年09月23日(土) 昼寝とDVD三昧の一日/映画『スリーピー・ホロウ』ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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