無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年09月22日(木) 何かを得た後で/『怪盗紳士ルパン』(モーリス・ルブラン)

 『イッセー尾形とフツーの人々』出演の興奮、未だ覚めやらぬ毎日を過ごしているところに、ワークショップ参加者の方から「今度『打ち上げ』をやりますので参加しませんか?」のお誘いメールがある。
 みなさん、あれだけ森田さん、イッセーさんにダメ出しされていたというのに、懲りてないんだなあと、もちろんこれは嬉しく感じている。
 「ともかく舞台に立ちなさい。それを経験することが大事なんだよ」と森田さんは繰り返し仰っていた。もちろん、出演者のそれぞれの演技には上手下手はあるし、見栄えのする人、見栄えのしない人、様々である。けれどもそんな違いを一切モノともせず、これまで演技経験など殆どない人々が果敢に舞台に挑戦していた。シロウトの怖いもの知らずと言われればそれまでだが、森田さんたちと一緒に付いて来たこのワークショップの企画者の方が、二日目の反省会の席で「みなさんが舞台に立っているということ自体がものすごいことです」と仰っていたことが、今も耳に残っている。ともかく他の会場と違って、今回ほど舞台が「形にならず」、森田さんが悪戦苦闘した舞台もなかったということである。「キャストのナマ声による効果音」のアイデアも、森田監督の苦肉の策だった。
 私なんぞは容姿には全く自信がないし、キャラクターとしての華もないと思っているので、公演が終わったあとでも、皆さんの足を引っ張っちゃってたろうなあと忸怩たる思いを感じている。けれどもそれは一緒に出演したフツーの人々みなさんが抱いていることだろう。前のスケッチの出演者が素晴らしい演技を見せる。その後では誰もが臆するのが当然だろう。いや、あのイッセーさんと同じ舞台に立って、そのイッセーさんに平然とツッコミを入れる我々というのはいったいナニモノなのだろうか。シロウトという立場を越えた「何か」がそこにあったとしか私には思えない。
 森田さんは「一人一人が責任を引き受けて舞台に立ったことが素晴らしいことだったんだよ」と仰っていたが、多分、出演者はそんな「責任重大」というプレッシャーすら考えずに(というよりは忘れて)、あの舞台に立ったのだ。だって立たなきゃなんないんだもん、仕方がないだろう(笑)。
 恐らく、この「北九州編」の人たちは、同じ舞台を共有した仲間というよりは、森田さんたちと、そしてお客さんを相手に戦った「戦友」のような感覚を持ったのではなかろうか。

 そういう次第だから、お誘いにはぜひとも乗りたかったのだが、当日は既に仕事関係の出張の予定が入ってしまっていた。集まりは夜ということだったから、当日のスケジュール次第では参加できる可能性もないわけではなかったのだが、何しろ北九州まで出張って行かねばならないのである。確約はとてもできないので、涙を飲んでお断りのメールを送った。残念無念である。


 仕事帰り、夕食は「パピヨンプラザ」の「ロイヤルホスト」で。
ロイヤルの会員になっている関係で、ちょうどしげの誕生祝いの20%割引ハガキが届いていたので、ちょっと遅れはしたが、バースデイ・パーティーである。こういうとき、「海の見えるレストラン」とか「ホテルのラウンジ」とかを予約できずにファミレスで誤魔化しちゃうところが庶民である。
 でもファミレスファミレスって言うけどさ、昭和30年代はデパートのレストランだって大衆にとっては「月に一度の大贅沢」だったんだからね。あの当時にロイヤルホストが存在していたら、間違いなく「高級レストラン」だと認識されてたに違いないんである。いや、今だって、「ロイヤルで食事するのは月に一度程度」って家庭は結構あると思うんだが。
 なんでこんなこと言ってるかっていうとさ、私がしげに「ちょうどバースデイ・パーティーになってよかったね」って言ったら、「これが?」って不満そうな顔をしたからなのだ。だからこいつは貧乏な生活が長かったくせに、なんで「足るを知る」ってことが感得できないかね。しげの一番イヤなところは、我慢することを「苦痛」としか捉えられないところである。カウンセラーの先生が「いいところは誉めてあげてください」と仰ることが理解できないわけではないのだが、メシ奢ってもらって「ありがとう」の一言も言えないやつのどこをどう誉めりゃいいのか。
「家事するから仕事辞めてもいい?」と、これまで何度騙されたか分からんセリフをまた信じてやって、それでまた家事しなくなったから仕方なく外食の日々を送っているのである。しかもその食事を作っていた時期だって、自分は自分の作ったオカズを食わずに、コンビニ弁当ばかり食っていた。そのせいでしげはこの数ヶ月で激太りしてしまっている。運動したって追っつきゃしないのだ。
 こうなるとまた給料を渡すのを止めなきゃならなくなるが、そこまで追いつめないと仕事も家事もしないと言うのもこれまでの繰り返しである。せっかくの誕生祝いの席で、しげの「未成長」をまた確認しなきゃ何ないというのは、何とも寂しいことである。

 「ヤマダ電器」でナマDVDをまとめ買い。
もう一つ、映画館で見損なっていたDVD『トニー滝谷』も出たばかりだったので購入。特別版で、メイキングと感得、キャストのインタビュー付きの二枚組。
 原作者の村上春樹はこの奇妙な主人公の名前をまず間違いなく「トニー谷」から取ったと思しいが、そのあたりについてきちんと論考した(あるいは村上春樹にインタビューした)文章って、あるんだろうか。文芸批評が死んじゃってるのも、“庶民なら誰でも気付く”そういう着目点をあえて無視するスノビズムにあったと思うんだけどね。


 帰宅して『電車男』の最終回を見る。
 今にして思えば、映画版や舞台版が「電車男」役にイケメン俳優を配役したのは正解だったかな、と思う。別にいちいち「元ネタ」とやらを詮索しないまでも、これは「美女と野獣」バターンのドラマの現代化なのであり、だから「君はあの美女に比べると醜いけれども本当はいいヤツなんだよ」と言ってあげられる要素が「野獣」側にないと、そもそも成立しない物語なのである。で、主役がイケメンであれば、たとえアキバ系のファッションに身を包んでいようが、女の子たちは「素材はいいんだから、勇気とファッションだけ何とかすりゃいいじゃん」と感情移入しやすいというわけなのだね。
 だから、テレビ版が伊藤淳史を主役に持ってきたというのは、これは女の子ファンよりも男の子ファンの方をターゲットにすることの方を選んだんだろうなと思っていたのだが(伊東美咲をエルメスにってのも、今なら中谷美紀よりもオタクな男どもには「萌え度」が高いだろうという製作の判断があったからじゃないかな)、まあまあ女の子ファンも付いてはいたようである。でもそうなると「伊藤淳史でもいいのなら」と勘違いするキモオタ男が増えそうで、幻想に惑わされた鬱陶しい連中がまたまた蔓延しそうな気もして何かいやだ。
 主人公が主人公らしくなくて、ネットの住人たちの方が実は物語を牽引・誘導していく主役である、という構図は面白くはあったが、つまりはそういう「手助け」がなければ主人公が一人では行動できないおよそドラマの主人公としては不向きなタイプであったことは事実なのである。だから通常の「感動のシステム」を考えた場合、たいした努力もしていない、やたらウジウジする腑抜けたやつを中心に据えたドラマに感動できるってのは通常ならありえないわけで、この程度の「努力のハードルの低い物語」に涙できる連中がいるってことは、それだけみんなが「楽に生きて、でも優しくはしてほしい」なんて甘え腐った考え方を基本に置いてるからじゅないかという気がしてならないのである。
 つか、私の身の回りでは感動してるやつについぞお目にかかってはいないのだが、どこかにいるのか? 『電車男』に涙したなん情けないやつ。
 まあこの「電車男」が実在するのかしないのかという「真贋論争」には興味がないが、この物語の流れが「作りものっぽい」のは事実で、それを言えば『セカチュー』も『イマアイ』も、「こんな安っぽいドラマで涙できるなんて、今の若手連中は何てオキラクになってしまったんだ」って点では『電車男』と話は共通している。せめてさあ、「オタクがなぜ気持ち悪いのか、けれどそのことを自覚しつつもなぜこのオタクに惹かれてしまうのか」という視点がなきゃ、ドラマとしては成立しないんじゃないかと思うが、結局映画版もテレビ版も、そこんとこには突っ込まなかったからね。しずかちゃんがのび太のことをなぜ好きになるのか分からないように(笑)、「エルメスは天然だからオタクでも平気」とでも考えない限り納得ができないのである。
 だからそのへんのキモオタ諸君、「自分にもいつかはエルメスみたいな人が」なんて幻想は絶対に抱かないようにね。君は一生、女性と縁はありません。そう覚悟しなさいよ。そこからしか実は道は開けてはいかないんだから。


 読んだ本、モーリス・ルブラン『怪盗紳士ルパン』(ハヤカワ文庫)。
 映画『ルパン』の公開に合わせた新訳である。しかもハヤカワミステリ文庫初収録。30代、40代のルパンファンの多くは、ポプラ社版の南洋一郎訳『怪盗ルパン全集』でこのシリーズに親しんでいたと思うが、正直な話、あのシリーズはモーリス・ルブランの原作に依拠した「翻案」と言った方がよくて、のちに偕成社から出された完訳シリーズと比べると、まるで別物というしかないものだった。
 ポプラ社版の中には、ボアロー&ナルスジャックによる続編シリーズや、南洋一郎が勝手に書いた『ピラミッドの秘密』なんてのまであって、そのくせ、ルブラン最後の長編『ルパン最後の事件(アルセーヌ・ルパンの数十億)』は収録されていないという、ルパンを知らない若いファンにその世界を味わってもらうには甚だ不出来な代物であった。じゃあ偕成社版の方がいいかと言うと、へんに装丁に凝ったものだから、いささか「かさばる」印象があるのである。新潮文庫は既に訳が古臭くなってしまっているし、やはり全シリーズを収録してはいない。文庫で入手しやすいシリーズが出ないものかなと思い続けていたのだが、ようやくハヤカワが重い腰を上げてくれたというわけだ。
 『ルパン』シリーズの真髄を味わうには、同時発売の『カリオストロ伯爵夫人』よりも、こちらの最初期の短編週の方が初心者には適当だと思う。今回読み直してみて、そのトリックが後の他作家によってパクリにパクられているにもかかわらず、叙述の妙によって、いささかも古びていないことに驚いたのである。
 ああ、トリックバラすことになるので書けないんだけれども、この「ルパン」シリーズも、トリックとして優れているのは、作品中のルパンが仕掛けるトリックの方じゃなくて、モーリス・ルブランの「筆」なんだよなあ。それを忘れて中身だけパクっても、「ルパン」シリーズの真髄は決して味わえないんである。

 
 マンガ、とり・みき『クルクルくりん』1巻(ハヤカワ文庫)。
 ハヤカワ文庫のSFマンガ復刊シリーズ、『るんるんカンパニー』より先にこっちが出た。まあ、売れ線考えたら当然そうなるのかもしれないけれど、そのワリには表紙の描き下ろしくりんが全然可愛くないのはどうしたものかね。
 まあ、私が『くりん』を買うのもこれで三度目なわけで、その三種類を全部比較できることにもなるのだが、基本的に原稿自体は2度目の刊行のときに「あまりにも下手な絵を描き直した」ものを踏襲している。どうやら「3度目の描き直し」はやらなかったようだ。これ、やりだすと際限がなくなっちゃうからね。同時に2度目のときにやった「現代だと分からなくなっているギャグ解説」はすべて削除して新作イラストに変更。これも解説したこと自体がもう次の世代には分からなくなるという悪循環に陥るので止めたんだろう。若い人にはもう分かんないところは勝手に想像しちゃってください、ということである。これもキリがないしね。
 だいたい、最初のコミックス化のときに、とりさんは「ある大学で学生たちに話を聞いたら、ネタが分からないものがあると言われた」と書いているのである。ちなみに、その大学というのは私が在学していた大学のことで、その「学生たち」の中には私もいた(笑)。
 実はそのとき、この『クルクルくりん』についても私はとりさんに質問をしていて、「どうして『くりん』のドラマは岩井小百合を主演にしたのか」、その理由についても聞きだしているのであるが、もう今更そんなドラマがあったことも覚えている人は少なかろうから、詳述はしない。つか、ビデオテープも残ってないんじゃないのかな。「ポッピン・ショッキン・ドッキン、クルクルマジカルレイディー、私はー、ウワサのー、パラレルガールー♪」って主題歌と高田純次のジェームス吉田だけは好きだったんだが(この番組あたりから高田純次は売り出していったのだよ)。
 まあ、今の若い人によく分からないネタはあろうが、SFコメディマンガとしてこれだけ面白いマンガもそうはない。理想の女性型アンドロイドを作るために、あらゆる女性の性格パターンをインプットされたコンピュータが、爆発事故で破壊されそうになった自らのデータを「転送」する先として選んだのが、生身の人間だった「くりん」の脳だった、というのは、とりさんが卑下するほどハードSFファンに嫌われるような設定ではなかったと思うぞ。


 赤塚不二夫『おそ松くん』22巻(完結/竹書房文庫)。
 「完全版シリーズ」と謳っていながら、少年キング版『おそ松くん』90話のうち、わずか14話しか収録していない。何か理由があるのかな。もう1巻余計に出しても売れないだろうと判断されたとか。一応、この最終巻にあの名作『チビ太の金庫破り』が収録されているおかげでいかにも最終巻って雰囲気というか味わいはあるのだが。
 いやね、赤塚さん、『おそ松くん』の最後あたりはかなり「投げて」描いてるので、これが入っていると入っていないとでは、印象としてはかなり落差が生まれてしまうのだ。だって、最終回なんて、イヤミが赤塚不二夫のケツに踏まれて、「もうマンガには出てやらないざんす!」と怒っちゃったんで連載も終わり、なんていい加減なラストなんである。
 もっとも、赤塚不二夫のギャグマンガの最終回はほとんど全て尻切れトンボなんだけどね。『天才バカボン』なんて、最後に水戸黄門が出てきて「コウモンが出てきたらこのマンガもオシマイなのだ」というつまんないシャレで終わりなのである。
 巻末収録のオマケマンガ、『オハゲのKK太郎』は藤子不二雄との合作(Qちゃんしか出てこないから、作画には藤本さんしか携わっていないだろう)。Qちゃんとチビ太が「どっちが偉いか」を競うだけの他愛ない話で、特に取り立てて面白いマンガでもない。珍しさだけのものだけど、ファンには「へええ」ってことになるんだろう。セリフと絵がうまく合ってないコマがあるのは合作のための不手際なのか、編集が後でセリフを改定でもしたのか。今となっては誰に確かめようもないことである。

2004年09月22日(水) イノセンスな情景/『のだめカンタービレ』10巻
2003年09月22日(月) 記録の魅力/『ロケットマン』6巻(加藤元浩)
2002年09月22日(日) 変なビデオは買いません/映画『仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL』ほか
2001年09月22日(土) 気がついたら食ってばかり/映画『カウボーイビバップ 天国の扉』
2000年09月22日(金) 徳間ラッパ逝く……/ドラマ『ケイゾクFANTOM 特別編』ほか



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