無責任賛歌
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2005年10月08日(土) |
あれもこれも/『ウルトラマンマックス』第15話「第三番惑星の奇跡」/『BLOOD+』第一話「ファーストキス」 |
ブログ日記を書くようになって、こちらの日記とあちらの日記と、ネタが被ることもよくある。別々のことを書けばいいじゃないか、と言われそうだが、基本的にあっちとこっちとでは書いてる人格が違うので、同じ題材を扱っていても感想は微妙に違うのだ。 そのへん、両方を読んでくださっている方は、見比べて楽しんで頂ければよいと思うのだが、しげはブログ日記のほうには「オタクネタは書くな」と言う。 もちろんそれでも全然構わないのであるが、そうなるとあちらの日記には「今日も寝ているしげの鼻の穴にティッシュを詰めて遊んだ。寝ながらしげは『フン!』と力んで、途端にティッシュの栓はポーンと飛んでった」とか、そんなことばかり書くことになる。 どんどんしげのアホ晒し日記になっていくのだけれど、それでいいのだろうか。
『ウルトラマンマックス』第15話「第三番惑星の奇跡」(完全生命体イフ登場)。 サブタイトルを聞くと、どうしても『ウルトラセブン』の「第四惑星の悪夢」を想起してしまう。あれは存在しない第四惑星(火星ではない)における機械化都市を描いた「寓話」であったが、今回はちゃんと地球を舞台にした、しかしやはり一つの「譬え」を描いた「寓話」として、旧作にも劣らぬ傑作として屹立することになった。 脚本は『たどんとちくわ』『大怪獣東京に現る』『ドラゴンヘッド』のNAKA雅MURA(中村雅)、特技監督と監督を兼任するのは、『漂流街』『ゼブラーマン』『妖怪大戦争』ほかもうなんでも撮るぞの三池崇史。二人はこれまでにも『中国の鳥人』『アンドロメディア』『DEAD OR ALIVE 2 逃亡者』などでコンビを組んでいる。
絵を描くことが大好きな少女アッコ(佐々木麻緒)。 彼女は視力を失っていたが、その逆境にもめげずに音楽家になろうとフルートを吹き鳴らしている。そんな彼女をミズキ(長谷部瞳)は暖かく見守っていた。 そんな時、宇宙から未知の物体「イフ」が飛来する。イフは、攻撃を加えるとその攻撃力を吸収、し、そのままの力を敵に反撃するという究極の生命体だった(寺沢武一の『コブラ』にそんなの出てきてたね)。「最強」の敵に対し、ダッシュは何の手も打ちようがない。 ミズキはアッコが出演するフルートの発表会場だけは守ろうと、自ら囮となって、イフを公会堂から遠ざけようとする。イフの攻撃に絶体絶命に陥ったミズキの前に、ウルトラマンマックスが現れ、窮地を救う。しかしマックスのマクシウムカノンもまた、いったんはイフを破壊したものの、復活し完全体となったイフに取り込まれた。マックスに向かって放たれるマクシウムカノン。 やむなく撤退するマックスにダッシュ。公会堂は破壊された。あれだけ健気だったアッコは、ミズキの呼び声にも反応できないくらいに心を失っていた。「ウルトラマンマックスにも何もできなかったのに、ダッシュに何ができるの?」。 イフの無差別攻撃に街は焦土と化し、その炎の中にアッコは泣きながらふらふらとさまよい出ていた……。
「イフ」は言うまでもなく「戦争」のメタファーである。『ウルトラ』シリーズにはこれまでにも戦争を題材にしたエピソードは散見していたが、それは物語上の設定であるとは言え、「軍隊の放棄」を憲法に明記している日本に常に「防衛軍」が存在している矛盾について、過去のスタッフたちが忸怩たるものを感じていたことの現れでもあったろう。ただ、子供番組という制約もあってか、直接的な形でウルトラシリーズが戦争を描いたことはまだない。過去の戦争が語られるか、背景として提示されるか、隠喩として使われるか。今回はその最後のパターンであるが、ものが「武器」であるだけに、描写としては最もリアルに戦争のイメージを喚起することに成功している。 特技監督も兼ねた三池監督は、イフに蹂躙された東京の街をまさに東京大空襲の再現として描いた。ご丁寧にも、その街をさまようアッコは防空頭巾を被っている。言葉で「兵器の過当競争は人類を滅亡に導く」と強く主張しても、それはあまりにも繰り返し語られすぎてきたために、人の心に届かせるだけの波及力を失ってしまっている。しかし、映像にはまだその力が残っているのではないか。親が子にこのエピソードについて語るとき、「昔、これと同じことがあったんだよ」と語れるだけのビジュアルが、そこには展開されていた。そのリアリティが、このドラマを基礎からしっかりと支えている。 アッコは、小休止しているイフの前で、「怪獣さんも音楽は好き?」と言ってフルートを吹き鳴らす。奏でられるのはショパンの「別れの曲」だ。アッコは別に怪獣に対して何かをなし得ると考えて笛を吹いたわけではない。それはどちらかというと自暴自棄というよりは狂気にかられての行動と言った方が妥当だ(このときのアッコ役の佐々木真緒ちゃんの演技、これがまさに何かが憑依したような名演)。しかしそれが奇跡を生む。 イフはその体内に「音楽」を取り込んだ。そして、アッコとともに「別れの曲」を合奏する。焦土に鳴り響く交響曲。全身、巨大な楽器となったイフは、ウルトラマンマックスにいざなわれて、宇宙に帰るのだ。 いくつか、今回のエピソードについての感想をネットから拾ってみたが、中には「きれいごとだ」とか「偽善的だ」と非難していた意見が見受けられた。しかし、地球がイフから守られたのは、全くの偶然からである。誰かの尽力が実ったわけでもなんでもない。「一人の少女が地球を救った」と言っても、アッコはナウシカのように信念も思想も持っていたわけではない。危難に際しては誰かが立ち上がるだろうという希望すらもこの物語にはないのだ。 だからこの結末は「夢」でしかない。戦争という現実の前では、我々は「夢」を見ることしかできないという、極めて冷徹な現実認識を前提として、この物語は成立しているのだ。そこんとこを見抜けないと、この話の結末がどこか「ヌルく」感じられてしまうだろう。 あるいは絶対平和主義的サヨク思想に基づいて描かれていると勘違いして見えてしまうようである。でもそれって、脊髄反射でありきたりかつシニカルっぽい言質を弄してるだけじゃないかって思うんだけどね。通ぶってるだけのキモオタの意見によくあるタイプよ。 子供向け番組だからということで三池監督は決して手を抜いちゃいないのだよ。 これは一つの寓話であり、「理想」を描いた物語ではあるが、決してキレイゴトでもなければ絵空事でもない。戦争という現実が回避されるとしたら、それは「奇跡」でしかないのではないか、という悲しい問い掛けなのである。 事前に情報チェックはしてなかったので、「素」で見て(オープニングのクレジットを見損なっていた)「何だ、この出来の良さは!」と驚いて慌てて公式サイトを見てみたら三池監督の作品だったと知った次第。だから「名前や経歴」の先入観で誉めているわけではない。来週の『わたしはだあれ?』でも三池監督は続投するらしいが、次はナンセンス・ギャグ編になりそうである。今週の感動編を期待して見ると当てが外れるだろうから、気持ちを切り替えて「これもウルトラ」という気分で見ることにしましょうかね。
アニメの新番、福岡には殆ど来ないので(『アカギ』も『蟲師』もやらねえぞ。くそ)、多分にふてくされているのであるが、もうケーブルで再放送を見るか、自分でDVDを買うかしかないのである。 そんな悲惨な状況の中で、『BLOOD+』だけは夕方六時台をゲットできたのは、まあ次の『ガンダム』までの場つなぎだとしても(苦笑)、ありがたいことである。 映画版『BLOOD THE LAST VAMPIRE』は、押井塾の企画作品として、劇場公開されているが、そんなにヒットしたようにも思えなかったので、こうしてテレビシリーズが作られることになったのは正直驚きである。 『イノセンス』のProductionI.G制作ということで、つい過剰に期待してしまいたくなるが、映画版がそもそも「日本刀を振り回すセーラー服美少女」というビジュアルがウリになっているくらいで、あとの設定やストーリーは従来のアニメをそんなに一歩も二歩も出たものではない。寺田克也のキャラクターデザインがどれほどアニメに寄与していたかは疑問があるし(頑張ってはいたけど、結局は作画監督のクセがデザインを凌駕している)、横田の米軍基地を舞台にしている設定は目新しいけれども、短い上映時間の中では、その設定を充分に生かして物語が展開したとは言いがたい。 テレビシリーズになっても、キャラクターデザインの一新、舞台も沖縄に移す、などの変更点はあるが、物語のコンセプト自体は映画版とさほど違いはなさそうである。主人公の音無小夜(おとなし・さや/声・喜多村英梨)が記憶喪失で自分の宿命を知らないとか、「翼手」に襲われ、謎の男・ハジ(声・小西克幸)の導きで「覚醒」する(キスで目覚めるって、イマドキ『白雪姫』の王子様かよ)ってのも、なんだか既視感を覚えてしまう。つか、これってまんま『サルでも書けるマンガ教室』の「イヤッ・ボーンの法則」なんだけど。 セリフも声優の演技もアニメアニメしてい大仰で、ちょっと辛いものがある。若手はもう人材不足だから仕方がないとしても、小夜を娘として育てている宮城ジョージの声優が大塚芳忠ってのはミスキャストじゃないのか。これなんか、もっと重厚でリアルな雰囲気を出せる声質の人で、津嘉山正種とか屋良勇作とかの役どころじゃないかって思うけれど。 そんな風にありきたりというか古くさくはあっても、つまんないというほどではなく、結構、「見られてしまう」のは、やはりI.Gならではの作画の美しさに寄与している面が大きいと思う(中身はないけど、「絵」でってアニメは最近多い。『エウレカセブン』とかもね)。しかし絵の面で言っても、オープニングの戦闘シーンこそ、ざらついた画面のデジタル処理と短いカット割りが効果的で、血まみれな小夜の冷ややかな立ち姿が彼女の暗い運命を象徴しているようでゾクゾクするような魅力に溢れていたのだが、本編に入った途端に、目立つほどの絵もなくなって、話がただ流れているだけの印象になってしまう。もっと構図に凝ってみればいいのに、どうしてそれをしないのかなあ。 それでも背景組織との関連を掘り下げて描いて行くとか、面白くできる要素もないわけではないので、これから先の展開に期待したい。本当に面白くなるかどうかは、まだまだ未知数だろう。
相変わらずアテにならないオタク分析をやらかしている野村総合研究所(NRI)であるが、以前の分析が一面的に過ぎると思い直したのだろう、再び同オタク市場予測チームが、オタクの特性を分析して再定義して、10月6日に発表した。 けれどこれがまた細かくなったわりにはやはりピンと来ないのである。 「オタクはいわゆる「アキバ系」だけではないとし、行動や消費の特性を抽出。アニメやコミックに加えて旅行、自動車マニアなどもオタクに含め、主要12分野のオタク人口を172万人、市場規模を4110億円と推計した」と言うのだが、分野を増やしていけば、規模だって拡大するのは当たり前である。 昨年の「アニメ」「アイドル」「コミック」「ゲーム」「自作PC」オタクのほかに、新たに「AV機器」「携帯型IT機器」「クルマ」「旅行」「ファッション」「カメラ」「鉄道」(「アイドル」は「芸能人」に変更)を加えた12分野というのだが、ここまで来ると、日本人でオタクでないやつはいないってことになりゃしないか。 つか、「オタク」って概念はもう一般化しちゃってるので、市場調査のためのキーワードとしては機能してないと判断した方がいいように思うけどね。 「オタクの定義は時代とともに変化してきた」という同社の指摘は、一応、納得できはするのである。しかしそこで「オタクはすべての趣味分野に存在する」と言ったんじゃあ、まさしくこの分析が無意味だということを自分たちで肯定しているようなものだ。結局、「何が当たるか分からない」不安定な市場である点ではどの分野も変わりはしない。 更に、同社の解説する「オタクの再定義」も、当たっているようで微妙にズレがあるように思えてならない。 (1)こだわりの対象に対して、所得や余暇時間のほとんどを費やす「消費性オタク」 (2)「自分の趣味を周りに広めたい」「創造活動をしたい」と考える「心理性オタク」 この2種類の特性を兼ね持つ人をオタクと定義する、というのだが、ガンダムが好きだと言ってるくせに、ファーストシリーズは見たことなくて、レンタルして見るのも面倒くさいなんて言ってたやつを私は何人も知っている。いや、総体的に、好きなものに対してすら金を出し渋るオタクは腐るほどいるのだ。同人活動やってるくせに、「自分の趣味を人に知られたくない」「オリジナルは描けない、パロだけ」なんてオタクはオタクの一典型だと思うが、これも野村総研の定義からは外れてしまう。 アンケート調査の結果を分析して得られたオタク層に共通する行動特性というのも部分的な指摘でしかないと思う。 (1)他人に良さを理解してほしいと思う「共感欲求」 (2)何でもそろえたいと感じる「収集欲求」 (3)自分の意見を広めたいという「顕示欲求」 (4)自分なりの考えを持ちたいという「自律欲求」 (5)オリジナル作品を作ったり、改造したりする「創作欲求」 (6)気の合った仲間にだけ分かってもらえばいいと考える「帰属欲求」 孤独なヒキコモリオタクはこのどれにも当てはまらなかったりするな(笑)。 ちなみに、私の場合も(1)〜(6)のいずれも希薄だ。こんな日記を書いているから、よく誤解されるのだが、私は自分の意見を他人に強制したいがために日記を書いているわけではない。私は自分の「仮説」を元に、内的シミュレーションを試みているに過ぎないのである。 (1)については論外である。視点を変えれば作品のよさなんてものはどうにでも変わる。世評に対して異議を唱えることを私はよくやるが、理解してほしいと思ってやってるのではない。 (2)はほとんど「作品」のみに限られ。グッズ類は殆ど買わない。マグカップやTシャツを買うのは、それが「使える」からである。 (3)なんて面倒くさくてやりたくない。それをやりたいなら、私はもっとあっちこっちのサイトや掲示板に顔を出して益体もないことを喋っていたろう。 (4)は人なら誰でも持ってる程度のものである。それに、闇雲に他人と差別化を図ろうと思っているわけではない。「常識」はこういうもんだろう、と私としてはフツーの意見をいってるつもりなのである。 (5)は戯曲や小説を書いたり、たまにマンガも描いたりするので確かにあるのだが、さてこれは「欲求」なのかどうか。想像力と創造力は生きる力に等しい。これがない人間はそもそも人間として生きていくこと自体が苦しいと思うが。これをオタクの定義とするなら、私は幼稚園児のころからオタクだったことになる。 (6)も何だか寂しい定義である。誰かに分かってもらいたいと思った時点で、自分の意見は価値がなくなると思っているので、これも私には当てはまらない。 ここまで来ると、これはオタク分析というよりはあてずっぽうの占いみたいなもんだと言うしかなくなる。欲求の度合いによって、結果的にオタクは次の5パターンに分類できると言うのだが、さてそこの自分が「オタク」だと思っているみなさん、あなたはどのタイプだと思いますかね。私はどれにも当てはまりませんから、オタクではないのでしょう(笑)。まあ、人からどう見られてるかは分からないけどね。
(1)「家庭持ち仮面オタク」 組立PCやAV機器などを中心に幅広く分布し、小遣いをやりくりしながら家庭内でこっそりと趣味に没頭。オタク趣味をカミングアウトしない傾向にある。旅行分野にも多く、趣味を兼ねて子どもをあちことに連れ回すお父さんが典型例。 (2)「我が道を行くレガシーオタク」 独自の価値観を持ち、情報収集と批評を展開。20〜30代の男性に多く、PCやAV機器、ITガジェット、クルマ、カメラなどメカ系と、芸能人分野を中心に分布している。 (3)「情報高感度マルチオタク」 自分のこだわりに対して屈託がなく、カミングアウト率も高い。流行に流されやすく、他人を気にする傾向にある。女性が多く、複数の分野にまたがっているのが特徴。コミュニティーサイトやネットオークションが大好きで、2ちゃんねるのライトユーザーという人物像があてはまる。 (4)「社交派強がりオタク」 独自の価値観を強く持ち、それをみんなに知ってもらいたいと考えて他人を巻き込もうとするタイプ。ガンダムやドラクエの世界観を引きずり、それに気づかずに30代になってしまった大人が典型例。 (5)「同人女子系オタク」 コミックやアニメに登場するキャラクターへの愛着が強く、同人誌など創作活動への参加率が高い層。友達に隠れてひそかに持っていた趣味を大人になっても続けている同人誌フリークの女性が典型例。男性でも「アキバ系」「萌え系」がこの層に含まれる。
しかし、どれにも当てはまらないとなると、私ってただの「研究者」なんだろうか。
2002年10月08日(火) 妬み絡みがせからしか/『キャラ者2』(江口寿史)ほか 2001年10月08日(月) これは戦争ではない。……まだ。/映画『クイーンコング』/『カムナガラ』3巻(やまむらはじめ)ほか 2000年10月08日(日) V2余燼/映画『X‐MEN』ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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