無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年10月07日(金) だから女にモテねえんだ/ドラマ『慶次郎縁側日記2』第1回「雪の夜のあと」

 正直、触れるのも面倒くさいことだが、まあ、こないだから引き続いている件なので、「結末」は書かないわけにはいくまい。
 劇団メンバーのカトウ君が、ブログ日記を削除したようである。
 それはもちろん当人の自由なのだが、リンクを貼っていた私や劇団ホームページに対しては「日記辞めます」など一切の連絡がない。口も利きたくないということなのかもしれないが、日ごろ偉そうに人の道を説くような発言を繰り返しておきながら、ケジメの付け方も知らないというのは平仄が合わない話である。
 他人の粗探しはしても、自分は傲慢な態度を取っていいって言うの? それとも単にヘタレだから何も言わずにこっそり逃げることしかできないってわけ? 他人には厳しいのに自分のこととなるとこういう根性なしと言うか、ヘタレな態度しか取れないというのは、言行不一致とというか、卑怯者の烙印を押されたって仕方がなかろうと思うがね。
 フタコト目には「自分の気持ちを分かってもらえない」なんて泣き言を連ねるのだが、他人に甘えたりすがったりするくせに虚勢だけは張るような態度を取っていれば、誰もその気持ちを忖度してやろうなんて気にはならなくなるものである。まず自分が他人の気持ちを思いやれたことがあったのかどうか、少しは考えてみたらいいと思うのに、自分の中の規律が常に一番だから、自分では「思いやれてる気になっている」だけなのである。相手にしてみればただの「余計な御世話」でしかない。
 ズレた発言を繰り返してみんなを当惑させていながら自分だけがその現実に気付いていないということもどれだけあったか。こちらからの問い掛けにはマトモに返事を返さないくせに、自分が相手にされないと拗ねるという自己矛盾をやらかしていながらそれに気が付かないと言うのは、根が「駄々っ子」だからである。
 何が情けないって、終わってしまったことをいつまでもウジウジと根に持ち続けるあのネクラぶりなんだよね。以前、カトウ君の具合が悪かった時に、しげや下村嬢がカラオケに誘ったことを未だに「自分の気持ちを分かってくれなかった」と恨みに思っているらしい。しげたちだって、来れると思っちゃいないが、寂しそうな返事をカトウ君が返してくるからあえて誘いのメールを送っていたのだ。そんな人の心の機微も分からんやつが逆恨みするとは、人間の器が小さいと言うか、幼稚と言うか、結局はただの馬鹿である。
 自分の馬鹿っぷりににいい加減で気が付けよと指摘もしてきたのだが、最後まで何も理解できないままにケツを割ってしまったようだ。仲間だと思えばこそキツイことも言ってきたのだが、これはもう処置なしだと判断するしかあるまい。
 なあおい、カトウ君よ、もう読んでないかもしれないが、メール送ってもマトモな返事が返らないからここで言っとく。そんな負け犬根性しか持てねえから、ろくでもない女に振り回されてばかりいるんだよ。女見る目もねえやつが人を語ってんじゃねえや、おこがましい。でもどうせ馬鹿晒すことしかできないんだろうから、勝手にやってなさい、わしゃもう知らん。


 劇団「改・FREE’ズ+」の冨田さんがお引越し。
 テレビがまだないと言うので、うちの使わなくなったテレビをご進呈することにしたのだが、それを仕事帰りに冨田さんのアパートまで運び込むことになった。何しろかなりデカくて重いので、さすがにしげと冨田さんの二人では運びきれないという話だったのである。
 「エレベーターがないんだって、引っ越し先のマンション」
 「今どき? バリアフリーはどうなってんだよ」
 「知らないの? 三階建て以下ならエレベーター付ける義務ないんだよ」
 「そこ、三階建てなのかよ」
 「さあ、知らん。五階だったら死ぬね」
 実際に行ってみたら、六階建てで、冨田さんの部屋は五階だった。言っちゃなんだが、築二十年を越していて、耐震建築も怪しい感じなので、バリアフリーも糞もないのである。
 腰がちょっと死んだが、とりあえずテレビは点くようだった。しげが車に運ぶ時、一度落としたとかで、壊れていないかどうかちょっと心配だったのである。

 そのあと、階下のカレー屋で食事。
 富田さんが客演する劇団ぎゃ。の公演『裏庭』の話などを伺う。
 前回の公演を見た時に、「不具者、奇形、片輪者ばかりの娼館」という、度胸のある舞台設定が面白かったので、どこから発想したのか聞いてみると、やはりトッド・ブラウニングの映画『フリークス(怪物団)』を原作者の野田和佳菜さんがごらんになっていたということである。映画やテレビではとてもできない題材なので、うまく仕上がればこれはなかなか面白い舞台になるだろう。しげの分と二枚チケットを購入する。
 11月13日(日)、若松市民会館で、北九州演劇祭に関連しての公演である。ご興味のある方はぜひどうぞ。

 楽しい会話のあとは、「カトウ君は何やってんだろうねえ」という暗い会話(笑)。「芝居やりたい気持ちはあるみたいなんだけどねえ、『自分には芝居をやる資格はない』とか言い出すし」「芝居って資格でやるもんかね」「そういうことを言い出すやつは芝居に向いてないよ」とか散々である。
 結局、カトウ君は「自分で自分の首を締めているだけ」という寂しい結論を出して冨田さんとお別れ。


 NHK金曜時代劇『慶次郎縁側日記2』第1回「雪の夜のあと」。
 北原亞以子原作の時代小説シリーズのドラマ化第2弾。
 前シリーズはチェックし損なってたんだけれど、この第2シリーズ第1話を見てみると、なかなか骨太で見応えのある佳作だったので、見損なってたのは残念だった。高橋英樹は、時代劇役者としては、私の中では『桃太郎侍』よりも『ぶらり新兵衛道場破り』や『おらんだ左近事件帳』の人だったんだけれども、森口慶次郎のような、これだけ深みのあるキャラクターを演じきれる人だとは思っていなかった。文句なしに高橋英樹の代表作と言っていいと思う。
 前シリーズで、登場人物たちの背景は既に描かれているわけだけれども、「おさらい」的な語りや回想シーンが挿入されているので、この第2シリーズから見始めてもさほど支障はない作りになっている。おかげで多少説明的になっている欠点はあるのだけれど、今回初めて見た私のような視聴者にはありがたい心配りである。

 元南町奉行所同心の森口慶次郎(高橋英樹)は、家督を養子の晃之助(比留間由哲)に譲って、江戸・根岸の里で商家の寮番(別荘の管理人)を務める隠居暮らし。晃之助の妻の皐月(安達祐実)は出産を間近に控えて、森口家は至極平穏無事に見えていた。
 ところがそんな慶次郎の前に、かつて彼の娘・八千代(岡本綾)を乱暴し、自害に追いやった男・常蔵(若松武史)が現れる。彼と娘のおぶん(邑野みあ)は、手先の辰吉(遠藤賢一)の手によって、慶次郎から身を匿われていたのだ。しかし、常蔵の女出入りは変わらず、大工見習いの母親(工藤時子)と大店の娘(稲田みづ紀)が常蔵を奪い合っていた。慶次郎の心の中に、常蔵への憎しみが再び沸々と湧きあがってくる……。 

 「仏の慶次郎」も、相手が自分の娘を死に追いやった張本人ともなれば、自らの心をどうにも律しきれない。そんな慶次郎の心を弄ぶように、常蔵は何一つ反省の色を見せずに女を犠牲にして行く。しかしそんな常蔵を「悪党」として断罪するのならこれまでの「勧善懲悪」ものと何の変わりもない。
 常蔵は自らの過去に縛られたまま、そこから抜け切れない業を背負った存在として描かれる。常蔵は慶次郎から憎まれることでしか自分の罪を責められなくなってしまっている。だから慶次郎に向かってせせら笑い、「殺してやると言ってみろ」と挑発する。そして慶次郎が「殺してやる」と言えば「生きてやる」と言い返すのだ。常蔵はだらしない男だ。人の情けを食いものにするダメな男だ。人間のクズだと言ってもいい。けれど、そのようにしか生きられない不器用な男でもある。そしてそんな彼にもまた、人間としての矜持がある。だからこそ、慶次郎に憎まれようとするのである。
 慶次郎もまた、そんな常蔵を憎もうとして憎みきれない。そして自分もまた「仏の慶次郎」などと呼ばれるほどの人間ではないことを自覚し、当惑する。常蔵と慶次郎との間に、人間的な差異などない事実を認識してしまうがゆえに、困惑するのだ。
 若松武史と高橋英樹。この二人の役者が、その複雑カツ深い心理の応酬を見事な演技で魅せる。いやホント、前シリーズから見ていなかったのがつくづく惜しまれる。スタッフは時代劇であることよりも現代劇を意識してこのドラマを作ったということであるが、これ即ち普遍的な人間ドラマを作ろうとしたということでもある。
 慶次郎の傷つき憎しみに苛まれた心を慰めようと、皐月が生まれた子に「八千代」と名づけるラストシーンも清々しい。あの年も、この年も、雪が降っていた。しかしその雪は、陽射しとともに溶ける雪なのである。

2004年10月07日(木) がんばったけどこの程度しか書けなかった日記
2002年10月07日(月) ○まみれ観音様(^_^;)/『ヒカルの碁』19巻(ほったゆみ・小畑健)
2001年10月07日(日) 新番紹介お休み・有朋自遠方来/映画『陰陽師』ほか
2000年10月07日(土) V2/ムック『本多猪四郎全仕事』ほか



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