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Over the rainbow - 2001年07月16日(月) 虹が出ていた。 柔らかいパステルを力まかせに引いたような発色、短いけれど強い弧を描いていた。 しかし、空は暗い鉛色だ。 幾層にも重なって、密度の濃い雲がたれこめている。 たくさんの人がいる。 秋葉原の総武線のプラットホームみたいだ。 ある程度の秩序を保って列をつくり、入ってくる電車を待っているように見えるが、人々も一様に鉛色で、影法師のようだ。 でも、なぜか向かい側にホームはなく、暗い空が広がり、そこに鮮やかな七色の帯が浮かんでいる。 写真撮らなくちゃ。 ああ、でも、すぐ後ろの部屋に、デジカメを置いてきちゃったんだっけ・・・。 慌てて影法師の間を抜けて、カメラを取りに戻る。 電池をチェックして、ホームに戻り、空を見上げると、虹が消えて行くところだった。 不透明度100%の鉛色の雲が、あっという間に虹を呑み込んでいく。 レリーズボタンを押すのと、虹の最後のひとかけらが消えるのが、殆ど同時だった。 ・・・・・・・ というのが、今朝の夢だった。 ふむ、ホームの裏手に自分の部屋があるってことは、オレは駅長か? などと、自分の見た夢にツッコミを入れ、強烈な虹のイメージから逃れようとしてみたが、無駄だった。 結局、午後も遅くなっても、虹は相変わらず居座っている。 目蓋を閉じればくっきりと、目を見開いていても残像のように。 ・・・・・・・ 『梯の立つ都市 永遠と冥府の花』 2001年(集英社) 『光』 1995年(文芸春秋) 『天池』 1999年(講談社) ここ一週間で単行本3冊を読んだ。 作者は日野啓三という人だ。 昔は当たり前のようにやっていたことだが、ここしばらくそんな読み方はしていなかった。 こんな夢を見たのも、日野啓三の文章の影響かもしれない。 特派員として、長くベトナムの戦地で取材した経歴を持ち、近年はガンを病み、再三にわたる手術・療養の中で執筆を続ける作者の文章は、硬質で透明で、描写はべらぼうに解像度の高い画像を見るように、しつこいほど繊細で、かつ、目がくらむほど鮮明だ。 これだけ精緻な小説をひとことで括ってしまうのは乱暴な話だが、生きること、いのちの抱えている「荒涼」と、あらゆる種類の「闇」、そして、無であり全てでもある「光」を描いている作品群だと思う。 特に、長編である『光』と『天池』には、「再生」というテーマが、声高でなく、あざとくもなく、低く静かに語られていく。 ・・・・・・・ 本というのは不思議なものだ。 まるで、本自体に意志があるように、読まれる時を選んでいるように思える。 日野啓三の本は、3年ほど前、何気なく書店で手に取った上下2冊の短編集を買ったのが最初だったが、すぐに読むことはなく、カラーボックスの片隅に長らく並んでいたのだった。 去年の夏、心身ともに解体寸前の状態で、新幹線の中で上巻を読み始め、シェルターのように保護してくれた友人宅のベッドの上で読み終えた。 そのときはただ 「荒涼」のイメージだけが身に染みた。 その後は、文字も読めない日々が続き、最近になってやっと下巻を読み終えたのだった。 それから、少しずつ、他の作品も読んでみたいと思うようになり、昨夜遅く、『天池』の最後のページを閉じたとき、こんな声が聞こえたような気がした。 「今、だったんだね」 ・・・・・・・ たしかに虹は出ていた。 空は暗く、私にはまだ捉えられなかったけれど。 ...
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