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( ありがとうの日(さんきゅー!) )
2003年03月09日(日)


39、サンキュー!
英語なのに日本語、妙な気がするのは私だけかしらん。

最近めっきり主婦になってる私です、こんにちわ。
天気がいいと洗濯物がたくさん干せるから嬉しいったら。
掃除機をかける手も弾むったら。

それにしても、昨日は今年度最大に疲れた一日だったよ。
体力がなくなってるなあ、と少し悲しくなったりして。うぉーんうぉーん(…遠吠え?)それはともかく昨日は銀座に行ったのです。映画見に。あ、そういえば今思い出したけどHPの「MOVIE」のコンテンツ内に“裸足の1300マイル"ってあるけど、あれ、1500マイルの間違いだから(勝手に短くしてしまったよ)直すのめんどくさいから一応ここで訂正しておくとして(笑)そう、で、映画観に行ったんですけどね、「あそこの映画館でしょ」と友達が自信満々だったので、私は「まーいーかー」とへらへらしながら友達にまかせておいて、開演ぎりぎりに行ったんですよ。ところがどっこい。オーノー!ないよ、ないよ、全然ないよ。観にきた映画がやってないよ、……ここじゃないじゃん!「なにぃ!」と二人で叫んで、しばし呆然。この計画は1ヶ月前くらいから立ててたというのに、中身の計画が全然なってねえ、よ、っていうかいっつもそうで、そういうのを少し楽しんでたりするのだけれど今回は何故だか無償に焦りまくって、「多分こっちだよ!」と、目的の映画館の名前もわからないくせに土曜日の銀座を爆走。ひたすら走り続けてそろそろ走るのに飽きてきた(…てゆうか走る意味はあるの、と今さらながらつっこみたい)頃、不意に角を曲がって少ししたところで立ち止まったら、

「あ、あった」

やけに冷静にそう言って、何事もなかったかのように映画館に入っていきました……。あ、あほだ……しかも途方もなく疲れたんだよ…。映画はもちろんのごとく始まってて、暗い中をいらいらしながら歩き回って席を探してました。果てしなく迷惑な客だ…(笑)
映画が終わった後は、ご飯食べてうろうろ。猿が芸してたから遠巻きに眺めたりして、入学式に着てくスーツを探しまくって、「やっぱいいのは高いねえ」と、当たり前の結果を出してから銀座を出てきたわけです。
で、その後私は他に人と会う約束があったからそこに直行して、でも昼間の出来事で果てしなく疲れてたから、おい、お前は何様だ!ていうくらい機嫌が悪かったのですぐに家に帰ってきました。どんだけ機嫌が悪かったかって、喋った言葉は「うん」「あはは(もろ棒読)」だけだったという話。疲れたよー!でも日課のストレッチはちゃんとやりました。えっ、らあ!(自画自賛で終わっておこう)





ところで、暇なのでたくさん書きますが(笑)
以下、戯言。最近読んだ本の話です。

今、司馬遼太郎の「花神」という本を読んでいるのです。この話の主人公が村田蔵六(大村益次郎)という元来が村医者の出身である彼が、幕末の騒乱期に討幕軍を率いるまでになるという話なのだけれど、この大村益次郎が幕府側ではなく長州についた理由というのが面白いな、と思ったので書いておこうと思う。その理由、というのが最近流行りの「ナショナリズム」であるという。大村は江戸時代の封建制という社会において、彼の技術力によって百姓から士分へという立身出世を果たしたわけなのだけれど、彼のその能力を買ってひきたてたのは彼の故郷である長州藩ではなく、宇和島藩という他藩だったのです。そして後に幕府も彼の能力の必要性をかんじて直参(幕臣)にならないかという誘いをかけます。けれど彼は、自分の出身である長州藩に仕えたいという強い思いのために、それを躊躇するのです。幕臣になる、というのはこの頃想像も得がたい様な快挙であり、逆に長州藩に仕える、というのはそれに比べて小さな事、というか、どういったらいいのかな、上手く言えないけど。幕府>長州と考えればいいかな。けれどそこで大村益次郎が敢えて長州を望んだ理由というのが他でもない「ナショナリズム」で、彼の情熱的な程のその気持ちの一原因というのが、
「とくに年少のころから彼は他国を転々とした。…………他国人とまじわるうち、いやがおうでも自分の国という意識が濃くならざるをえない。…………蔵六(大村益次郎)は他国を転々としたために長州人としての意識を、その藩国に住むひとびと以上につよく持った。この徳川の世というのは、三百ちかい藩国があつまって「天下」を形成している一種の国際社会である。他国へ出れば自国への思いがつよくなるのが自然であるように、蔵六は長州への思いが深くなった」(「花神(上)」司馬遼太郎)
ということであるという。私はこれを読んでなるほど、と自分の経験に重ねて大いに納得したのだけれど、つまりそれというのは「ナショナリズム」という感情は本来平穏とした日常には無関係なもので、社会の安定が崩れたり自分自身がその平穏とした日常から抜け出した時に芽生える感情なのじゃあないだろうか。少し前に、教育法改正の中間案に「国を愛する心(広義のナショナリズム)を育てる」という項目があって問題になったけれど、こういう側面から見てみると、ナショナリズムという感情が人々の心の中に根付いていないのはある種いいことなんじゃないかな、と、まあ、悪く言えば平和ぼけなんだけど、そんな事を思うわけです。最後に、この本の中の司馬さんのナショナリズムについての言及を引用しておきます。
「……本来ナショナリズムというのはごく心情的なもので、どういう人間の感情にも濃淡の差こそあれ、それはある」(同書)


と、まあ、そんな事を思いつつゴロゴロとするそんな一日。
それにしたって書きすぎだなあ(笑)







書き人→葉月
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