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エンピツ作家さんの日記を拾い読みしたら、ってひとつだけなんですけど、同じようなシチュエーションで「宗教の勧誘」に遭っていたと書いてあったので私も。
母が長期にわたって入院生活をしていたので、どこから匂いをかぎつけるのか宗教関係の方と、胡散臭い健康食品押し売りの方がよく訪ねてきました。 結局、いつも決まって私の怒声を浴びて退散するだけなんですけど。 私は、宗教を否定はしません。というか、新興宗教でも、訪ねてきてくれたからには聞く耳は持っていました。 しかし!どの訪問者もいい加減にしろよこの野郎と思うくらいにしつこい。そして、必ずいくら(金)出してくれの話になる。 世の中金です。奇麗事ではなく、先立つものが必要なのは確かです。 でも、その拠出した金額によって病気が治ったり、幸せが手に入ったりはしない。 また、その金と宗教を抱き合わせのセットで語るのは私の思考回路では理解できない。 だから怒鳴り散らしてお帰り頂くのが常でした。
病人は手垢の付いた表現ですが本当に藁にもすがる思いで闘病生活を強いられている方が多いです。 だから、新手の宗教に入信している方も周りにいました。 これを否定する気は毛頭ありません。 その信じることが生きる希望となり、実際に病気が好転した方もいました。
でも、私も母もそれとは距離を置いた宗教観を持っていました。 何か自分が矢面に立って闘わなければならない場面では、自分の外に頼るのではなく、自分の内なるものと協調し反発し合いながら前に進むしかないわけです。たとえ入信していても、最後には。 つまり、自分が教祖で自分が宗教。その自分教を揺るぎないものに育てるために、これまで誕生した宗教の教えを参考にしたり、自分流にアレンジしたりするだけで充分。 どんな優れた宗教でも、そこに無心で存在できない限り本当の信者にはなれません。つまり自分の中に宗教をすっぽり取り込めない限り、自分の答えは出せないわけです。自分と宗教が同化し一体化しないと。 だから、自分を捨てきれない私や母にはある特定の宗教を信仰するなんてことは出来ませんでした。
私の宗教は「なんちゃって宗教」で充分なのです。笑
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