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2004年01月21日(水) 映画 半落ち

 映画の半落ちを観てきました。
 原作を随分前に読んでから観たので、ものすごく物足りなさを感じましたが、2時間にあの原作を凝縮したのだから仕方ないですね。
 それに骨髄バンクも随分露出していたのでヨシとしましょう。

 原作を読みながらも思いました。映画を観ながらも思いました。
 俺が提供することができた27歳(当時)の患者さんは、今も元気で活躍しているかなぁ…と。
 提供当時は、そんな患者さんに会いたいなぁという思いが強かった。
 でも今は、別に会わなくてもいいかぁと思っています。
 いや、正直に言えば会いたいけれど、強く絶対に会いたいとは思わなくなりました。

 現在もドナーとレシピエントは会うことも、お互いの情報を開示することも許されていません。骨髄バンクでは。
 それは厚労省のバカバカしい理由からなんだけれども、それについては半落ちの作者の横山さんも、「反対を唱えているそんな人間の心こそが一番貧しい」と言っています。
 俺もそう思う。
 でも、ドナーとなった人間はレシピエント(患者さん)に会いたいと思う気持ちが強いけれど、レシピエントは「会いたくない」と思っている方が意外と多いのです。
 ま、それは意外とであって「会いたい!!」と願う方が多いのですが、俺はそんな会いたくないと思ってしまうレシピエントの気持ちが分かる気がするのです。
 それはレシピエントのわがままでも、自分本位の自己中でもない、もっと根幹からの叫びではないかと思うのです。
 だって、たしかに生死を彷徨って、ドナーがいたから明日を夢見ることができるようになったのは事実だけれど、それをいつまでも引きずっていたら「純粋な自分」を生きられないだろうし。どうしても「ドナーがいたからの自分」と思ってしまう部分が出てくるだろうし。
 まして、実際に会ったりしたらその思いはますます強くなるような気がします。
 どこの誰とも知らない人、であり続けることがいいのかなぁと思うのです。 
 その方が夢もあるし。
 例えば電車内で隣になった人。例えば信号待ちで前にいる人。例えば旅行先でカメラのシャッターを押してくれとお願いした人。その中に、その中の誰かが自分と同じHLAを持っていると思い、ドナーもレシピエントも感謝をする。そんな場面で、ちょっと困っている人を見かけたら手をそっと差し伸べる。
 そうなったら、俺が骨髄提供したことが何十倍、何百倍と大きくなるわけで、俺は俺でそんなレシピエントに恥じないように頑張ろうと思うわけで、その考えが自己満足だとしてもそれは悪いことではないと思うのです。

 生かされている自分。
 これは「オギャー」と生まれ出てから没するまで、変わることのない真実だと思います。
 たまたま、骨髄提供という形でちょっと変わった、他人への恩返しができた俺は幸運です。





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