2001年03月12日(月) |
なぜこんなに長くなる??? |
まぁ人並みには考えた時期って言うのはあるつもりです。 大体中2くらいのときかな。 死とか自分とか人間についてとか。 だいたい朝の登校中に考えてたなぁ。 んで、あるとき気づいたのが 「俺なんかが考えて答えが出るなら とっくに他の人が答えを出している」 これのせいかどうかは分からないけど、 この答えに辿りついてから内面的というか そういった考えをする時間が減った気がする。 これも一つの事実だとは思ってます、今でも。 ただ同時に今は別の考えもあったりするんですよね。 これも事実ではあるけど、じゃあ他の人は誰か?って。 その誰かはこういう考えを重ねていった人かなっと。 当然ひとりで完結しないで他の人との議論もしたりして。 …正直なところ、悩みはしても(絶対的な)答えは出ないだろうと。 PCみたいに1か0じゃないし。 最近のDNA・PC(だっけ?)はともかく(笑)。 出ない答えを出そうとする努力は無駄か。 例えば報われない努力は無駄になるかな。 いやいや、過程が大事。…「が」じゃなくて「も」かな? ああ、更に。 仮に絶対的な答えが存在したとして、そのとき人はどうするかな。 すべてを悟った人がいて、その人はどうするだろう。 何を得る?何も変わらないと思う。 結局、目の前にあるものがすべてかなって。 …正面は見えてるけど後ろは見えない。 後ろには存在がある。それは知ってる。 正面は目で世界があることを確認できるけど 後ろにも常に世界があるってどうして分かる? もしかしたら自分の見ているもの以外はないかもしれない。 自分の目をむけたところがそのときに作られているだけで 見えないところは何もないかも。見えないんだから。 こんな言葉―「コギト・エルゴ・スーム」(スペルは知らない) 「我、思う故に我あり」(和訳) 例えこの世界のすべてが幻でもそう考える自分は確かに存在する… とかそんな感じの意味だったかな? でね、思うんだよ。 仮に世界のすべてが幻でも、それがどうしたって。 そんななかで生きているならそれはそれでいいんじゃないかって。 幻と分かっても何変わるわけじゃないかなっと。 知っても意味ないこと。知る必要のないもの。 知った上で割り切って存在を続けること。 存在自体はあやふやでも、いるんだからいいじゃないか。
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