日々日記
いちらん…ふるい…あたらしい
2008年08月13日(水) |
私たちは何ものなのか |
最近、
私たちは自分たちを「人間」であるということにしている。
それは私たちがあえてそう名付け、 そう呼んでいるだけであって、実際のところ私たちが何なのかってことは、 まだわかってないよね!?
と、急に思ったりする。
我々の存在がいつからなのか、たまに見つかる情報をもとに想像してみることはできても、 それが本当なのかは永遠にわからない謎のままだ。だって、原初の現場を見ることは、 誰にもできないのだし。
今の我々が存在する様子を、調べて並べることはできる。 寿命の限界なんかも、遺伝子を調べることでわかってきているし。
しかし、じゃぁ我々の存在って、どのくらいの広がりと深さの営みの中の一部なのかな、 って思った時、そーれーがー、そんな営みがあんのか、ないのか、それすら 全っ然わかんないんだよねー。
星新一の世界だわ。
地球と同じような条件を備えて生命が発生している星が、宇宙空間に存在しないとは言えない、 ってことは、 あるって言えないってことと同じことであって、ようするにわかんない、ってことかなと。
でも、わかんない!って言うよりは、あるかもしんない。ないとは言えない。って言う方が ロマンがあるわなぁ…。
ん?それってロマンの問題か…?
ああー。命ってなんでしょう。 生命体って、なぁに?
わたしたち、どっから来て、そしてどこへ向かうのかすらわからずに、 生まれてきたこの星で、ごくごく当たり前のように社会生活を営むという、このフシギ。
いろんなことをシステム化して、人間は生きて来てんだなぁって、 社会学を学ぶようになってより一層考えるようになった。
最近もうひとつ、不思議だなぁと思うことがある。
街に出て、往来を行き交う全ての人びとを見ていて思うのだけど、 この人たちのうちのたった1人だって、生まれた後、誰かに面倒をみてもらわなかったという人は いないのだという事実。
生後すぐの人間は、一人立ちできるまで面倒を見てもらわなきゃ、生きていけないもんね。
親じゃなくとも、親戚や近所の人や、社会福祉が育てたケースもあるだろう。
「我々はどこからきたか」などということなんかまぁとりあえず考えずに、ただ、とにかく 子供の面倒をみた数多の人びとがいて、今のこの雑踏が存在するんだなーと思うと 胸がきゅー、となる。
いろんなことを考えることができるようになって、楽しい。 そのことだけでも、大学に来たかいが大いにあったと思うんだよねー。
inu-chan
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