たりたの日記
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2018年02月25日(日) |
メディテーションは自主トレで |
8日間のキリスト教的ヴィパサーナ瞑想をキャンセルした事は残念だったが、この時ではなかったのだろうと思った。同時に、もうこのチャンスはないかも…という動機で申し込んだ事に疑問も湧いてきた。 この後に及んで、私はまだ何かに誰かに頼って、その指示の通りにトレーニングを受けたいと思っていた事に気づく。 もう散々、そういう事はやってきたでしょうと自分にツッコミ。 振り返ってみれば、 40代の頃のメディテーションやヒーリングのワークショップ。 カトリックの神父によるサダナの黙想会。 韓国人シスターによる10日間の黙想会。 キリスト教的ヴィパサーナ瞑想の、日帰り、1泊2日、3泊4日それぞれ。 教会での1日及び泊まりがけ黙想会を数知れず。
それでもなお、黙想のトレーニングのために出かけなければと思っていたが、もう何かに頼ろうとするのではなく、自分自身で見出しなさいというメッセージを今いただいているのだろう。
昨日から「Mindfulness and Christian Spirituality---Making space for God」という本を読み始めた。 この本は、予定していたヴィパサーナ瞑想を担当されるイエス会の柳田神父が今翻訳準備中の本で、月一度のキリスト教的ヴィパッサナー瞑想の勉強会のテキストに用いられるということだった。この勉強会には参加できないので、原書だけ以前に取り寄せていた。
マインドフルネスのメディテーションは仏教のヴィパサーナ瞑想から宗教的なものを排除したもので、今は企業や学校と様々なところで取り入れられているが、そのマインドフルネスを通じて、キリスト者の霊性を深めることができること、またマインドフルネスの中に見出すことができる 福音書の言葉や、様々なキリスト教的アプローチが紹介されている。たどたどしい読みでなかなか進まないが、じっくり学ぶにはタイムリーなテキストに違いない。こちらも自主トレ。
今日は日曜日。昨日は玄米スープを作って持って来てくれた夫が今日はわたしのリクエストで野菜たっぷりの焼きそばを作って持ってきてくれた。家族談話室を借り、家庭礼拝をしようと夫。彼によれば、前日わたしの持ってきてリクエストが多くてキレたことへのお詫びという気持ちからだって。ともあれ、今日の聖書の箇所を夫の朗読で聴き、2人でささやかな日曜日の礼拝を守る。なんと幸いなこと。
夕食後をメディテーション実習、黙想の時間に当てている。 昨日はマインドフルネス瞑想を1時間、クレンジングと祝福を祈る黙想を1時間行った。 マインドフルネスは音声ガイドに従いながら自分の呼吸に集中する瞑想や聴こえて来る音に集中するといった方法で。クレンジングは、自分の身体の細部を観察し、そこを光で洗っていくという瞑想。祝福を祈る黙想は、思いつくまま、家族や友人、生徒、これまでかかわってきたあらゆる方々の顔をひとりひとり思い浮かべながらその方々の祝福を祈る。何とたくさんの人との出会いに恵まれてきたことだろう。
日曜日の夜は3時間の黙想。 マインドフルネス瞑想をし、英神父のこの日の説教をネットで聴く。その説教を友人にシェアしたところ、友人が愛猫の看病をしている事を知ったので、その苦しんでるいる猫ちゃんと、猫ちゃんを見守る家族のみなさんに癒しのエネルギーを送る。これは以前に教えていただいたスピリチュアルヒーリングの方法で。イエスがその腕の中に、病んだ猫を見守る家族をそのまま抱き抱えているイメージが浮かぶ。癒すことはまた癒されること。
その後、夜の病室を音を立てないように一歩一歩ゆっくりと歩きながら、歩くヴィパサーナ瞑想。 もっと歩いていたかったが、不審な患者と疑われそうなので早めに切り上げる。
長時間座っていると、腹水の為に胃が圧迫されて痛いので、その後はベッドに横たわったままの黙想。身体に起こる痛みに巻き込まれてることなく、それを観察するという瞑想。さらにそこに光を送る。不思議と痛みがふっと緩む。 「主よ、我らを哀れみたまえ」 自分や友人も含め、すべての創られた者への哀れみと癒しを唱える黙想を最後に、この日の自主トレ終了。
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