たりたの日記
DiaryINDEX|past|will
今日は可愛いお客様があった。 1歳2ヶ月の女の子! その子のママは幼稚園の頃から知っている、Mちゃん。 ずいぶんと久しぶりの再会だった。すっかりお母さんの顔になっていて、びっくりする。 そのママのママに 「Mちゃんはあなたより、お母さんらしい顔になってるよね」なんて言ったが、よくよく見れば、彼女は確かにお祖母ちゃんの顔になっているなぁ。 まあ、わたしもそうなのだけど。
元気に歩き回る好奇心旺盛の1歳児のお尻を追いかける母親と祖母を見ながら、何とも微笑ましい気持ちになる。 アメリカ滞在中に知り会ってから、いろんな波乱万丈をお互いにシェアしてきた事を思えば。
お祖母ちゃんになった友人が作ってくれた野菜のポタージュスープは何とも優しく滋養に満ちた味だった。 彼女はそのポタージュスープのような愛情でもって母親に成り立ての娘と、この世の生を始めたばかりの孫娘を支えていくのだろう。 この三世代の母達、娘達に祝福がありますよう。
ところで、この日は、FEBCネットラジオで英神父の「イエスの生涯を黙想する」という番組から 「主の晩餐ー四つの動詞からの黙想 ルカ22:14〜23」を聴き、それを元に黙想した。 四つの動詞というのは、最後の晩餐の時、イエスが弟子達の前で パンを「取り」、それを「祝福し」、それを「裂き」、それを弟子達に「与えて」言われた、、、 という4つの動詞。 その存在を手にとられた自分 その存在を祝福された自分 その存在を裂かれた自分 その存在を与えられた自分 について黙想する。 料理は美しく並べられそこに飾られただけではやがって腐ってしまう。 人々に分け与えられ、裂かれ、細かくされることで消化され人々の滋養になり、料理の目的を果たすということ。
深い黙想を体験した。祝福も恵も多かったが、裂かれた事柄もまた多くあった。ある意味、まだ、今も裂かれつづけている。 裂かれた自分をどう与えてきたのか、今与えているのか、これからはどうなのか、そんなことも。
若い母親は子育ての中で裂かれていく。 たくさん裂かれて砕かれた祖母たちは、子どもや孫になにかしらのものを与えることができるのかも知れない。けれどもそれで終わりという事はない。すっかり与えられるようになるためにはきっともっともっと裂かれ、砕かれていくよう人生は終わりの時まで進んでいくのだろう。
FEBCネットラジオ の番組はこちらから↓ 英神父の「イエスの生涯を黙想する」
|